岡田精司の神話論の意義と限界

 神話論の方法的な検討のために著書に入れようとして書いたものです。

研究史の基礎論なのでつまらないです。

 昨年ある研究会で報告しましたが、量的・時間的にとても著書には入れられないことがわかりました。研究史についての文章ですので、ネットワークで公開してもいいと考えました。ただし「岡田の限界」とした章は未完ですので、だしてません。

 オープンしておかないと書いたことを忘れてしまう。

岡田精司の神話論の意義と限界
 この章ではタカミムスヒの神格についての神学的な検討と、天孫降臨神話の物語内容をなす自然神話=高千穂噴火神話の分析をふまえて、天孫降臨神話と王権儀礼との関係を論ずる。そして、ここで天孫降臨神話という場合、高千穂火山神話のみでなく、そのほかの神の垂直降臨を語る多様な神話群についても視野に入れておく必要がある。天から神が降臨するという神話には郷村レヴェルから始まって「天高市神話」にいたる様々な神話と神格の類型と伝統があったことは、すでに述べた通りである。
 こうしてこれまでの即物的な話題と違って問題が広がり、やや複雑となって、扱う史料の上でも歴史学固有の議論に近づいてくることになる。そこで、ここで歴史神話学の方法という根本問題にさかのぼって論述の対象や方法を整理して説明しておきたい。その中心は、これまでの分析でもっとも大きな前提としてきた岡田精司の学説について、その内容と特徴を確認し、さらにその問題点と限界を論ずることである。

(イ)岡田精司の祭儀神話論と「記紀以前」への問い
岡田の論文「記紀神話の成立」の画期的意義
 すべての前提となるのは、岡田の論文「記紀神話の成立」である(『岩波講座日本歴史2』、一九七五)。この論文は歴史学の神話研究の研究史で、はじめて倭国神話の全体系を国家のイデオロギーの中において、その成立と変容を論理的に追求した論文である。第一章第一節で述べたように、岡田は三品彰英の後をうけて、倭国神話の至上神はタカミムスヒであったという事実をほぼ始めて具体的に示した学者である。すぐに述べるように、岡田精司はタカミムスヒをアマテラスに先行する男性太陽神とする立場をとっており、その点で本書とは大きく異なっている。それ故に、この点を批判することが、以下の文章の主題となるが、しかし、この論文は、タカミムスヒを至上神とする立場から、はじめて倭国神話の全体系の見取り図を描いたきわめて重要なもので、本書の全体に関わるので、以下、その内容を簡単に紹介しておきたい。
 その章別構成は「一、記紀神話の構成 二、地方豪族と皇別氏族系譜 三、出雲神話の背景 四、宮廷神話の伝承形態 五、宮廷神話の体系化 六、記紀神話体系の成立――むすび」となっている。順次、各章の内容を紹介すると、「一記紀神話の構成」は神祇令に定められた宮廷の四時祭・臨時祭の祭儀神話が何か、それらが王家と王家直属の伴造の祖神の神話という強い政治性をもっていることが端的に指摘されている。「二地方豪族と皇別氏族系譜」は中央の臣姓氏族と地方豪族の神話がイワレヒコ(神武)以下の「欠史八代」系譜の皇子や后妃の記載に反映されていること、その意味で欠史八代系譜は神代の物語と表裏をなすことの説明であり、これが同時に神話時代の社会をどう見通すかの試論となっていることが見逃せない。「三、出雲神話の背景」は紀記神話の原型には出雲神話はふくまれておらず、天岩戸神話から天孫降臨神話に直接に連続していたと見通した上で、すでにふれた「天高市神話」型の邪神追討説話の位置の高さという卓抜な提言が行われている。「四、宮廷神話の伝承形態」では紀記以前に神代の物語が定形化し筆録されていたこと、それを朗唱する場としての新嘗・大嘗祭と語り手の「諸国語部」、また即位式・殯宮などについての見通しが示されている。「五、宮廷神話の体系化」は紀記神話の成立過程を扱い、第一段階がオシハラキ大王(欽明)、第二段階が炊屋姫大王(推古)、第三段階が広額大王(舒明)から天智とし、第三段階に出雲神話の組み込みを挙げている。「六、記紀神話体系の成立――むすび」では天武朝における主神のタカミムスヒからアマテラスへの逆転、それに対する宮廷の違和感や、神話の形骸化などを明確にしていく。
 岡田はどちらかといえば理論の体系的な構築を目指して研究するタイプではなく、実証的なイメージの具体性にもとづいて全体を描きだすことを重視していたが、この論文は講座論文であったこともあって、当時の実証レベルの許すかぎりの体系的考察に挑んでいる。そのため、この論文は長くいわば戦後派の歴史神話学における神話研究の方針書というべき役割を果たしてきた。そして現在にいたっても、もっとも包括的な倭国神話論の体系として屹立しているということができる*204。
祭儀神話論の視点
 ここでは、その基本となる「記紀神話は祭儀神話である」という方法論について検討するが、岡田はその方法的立場を「宮廷祭祀と記紀神話の有機的関係については、本居宣長・伴信友以来の多くの業績があり、戦前の諸研究は松村武雄の『日本神話の研究』に紹介・集大成されている。戦後も松前健の『古代伝承と宮廷祭祀』などをはじめ多くの研究がある」と本居以来の伝統のなかに位置づけている。その上で、岡田は「古代社会では神話は読み物ではなく、祭儀の実修と結びついて神聖視されたものであり、信仰の中に生きていたはずであるが、従来の成立論の多くは作為性が強調される一方で、その問題が視角の外にあった」「神代の物語が当時の社会でもっていた役割――呪術的な機能のことを絶えず念頭におかなければならない」「<神話>というものは、もともと語られるもので、文字を媒介として<読む>文芸となったものは機能を喪失した形骸にすぎない。たとえば宮廷神話が<書かれた>ものとなっていようとも、神聖な<語り>の時と場をえて、はじめて呪術的効果を発揮しえたものである」などと説明している。たしかに神話は特定の祭祀と儀礼の場における信仰と「語り」の呪術的な役割に現れるのであって、特に歴史神話学の研究は、神話の現れる場と時にそくして神話の実際を考証することが基礎となることは明らかである。そのような細かな作業なしには歴史神話学はなりたたない。
 なお、ここで岡田が、従来の研究は神話の作為性を強調するのに急で、それが「信仰の中に生きていた」ことを視角の外においていると批判しているのは、具体的には津田左右吉のことである。早い時期にまとめた「記紀神話研究の現状と課題」にも同じ言い回しが「津田の方法は厳しい文献批判によって政治的作為性を発見する一方、多くの民俗・信仰に根ざす伝承までも作為として否定し、湯とともに赤子までも流し去る危険をもっている」とあって、岡田はそういう立場から、石母田正の英雄時代論の提起が「津田史学の克服」を目指していたことを引き継ぐと述べている(岡田①一九六八)。岡田の方法意識の相当部分は津田左右吉の広汎な研究を読み込み、それを批判するために深められていったのである。現在でも「戦後派歴史学」の神話研究の方法を津田の立場と同一視する意見をみることが多いが、このような経過の中で、石母田正ー岡田精司によって津田批判の基準が立てられたことを無視するような言論は、いわば一知半解の非学術的な評論にすぎず、無用な誤解のもとである。神話を祭儀や呪術・信仰意識のあり方から離れて、ただの政治的な構築物と考えてはならないというのが、「戦後派」の歴史神話学の中心にいた岡田の立場であったことは明らかである。
紀記以前を探るという課題設定の重要性――折口信夫・松村武雄・溝口睦子との共通性
 岡田の津田批判がさらに独自なのは、岡田が紀記神話の成立についての津田の見解の批判に踏み込んでいることである。もちろん、津田が、それまで「神典」として別格扱いされてきた『書紀』『古事記』の原型の成立が、六世紀、ヲホド大王(継体)の時期以降のことだとした意味が大きいことはいうまでもないが、それを認めた上で、岡田は「(津田の場合は)記紀以前の”宮廷神話”の体系や伝承形態が解明されていない」ことを問題視し、それは「(津田において)神話伝来の信仰的条件はあまり考慮されていない」ことに対応しているのだと論じた。こういう考え方のもとに、岡田は「記紀以前の宮廷神話体系のもつ具体的な機能、伝承の形態を中心に<記紀神話>への展開をたどってみたい」と、この論文の課題を設定したのである。
 「記紀以前の宮廷神話体系」を明らかにするというのは五世紀以前の古墳時代に存在した神話の実態を探ることである。岡田は祭儀神話論の立場からの分析を記紀神話のみでなく、紀記以前、少なくとも五世紀以前の政治的諸儀礼、王権的諸儀礼とその祭儀神話の分析にまで拡大する見通しを示したのである。注目したいのは、この<記紀以前>の原神話ということは、第一章でふれた折口信夫の「既存者=神以前=天変地妖の神」、松村武雄の「カミ(神)以前の存在態」という問題提起に重なってくることである。これは溝口がその出世作「記紀神話解釈の一つのこころみ」から最近の論文「記紀神話から縄文・弥生を探る」にいたるまで追跡してきた問題でもあるが、岡田が津田のみでなく、折口を乗り越えることを根本的な研究課題としていただけに、この折口との発想の一致は重い意味をもっていた。岡田の折口批判には、以下、順次にふれていくことになる。

(ロ)天孫降臨神話は即位式の神話――岡田による画期的説明
 さて、岡田は、この論文「記紀神話の成立」を発表して以降、天孫降臨神話と宮廷祭儀・儀礼との関係についての研究を中心課題とした。すでにこの論文においても岡田は「天孫降臨は収穫祭の形式の即位礼=大嘗祭に結びつける説が有力である。しかし、筆者は大嘗祭以前に想定される年頭予祝型の即位礼または祈年祭の反映とみるべきだと考えている」と述べていたが、大王の儀礼・祭儀の中心は大王の資格を付与する儀礼であり、それに対応する神話の中心に天孫降臨神話があるという判断にもとづいて研究を本格化したのである。
岡田の論文「大王就任儀礼の原型とその展開」の意義
 その結果、一九九二年のに刊行された著書『古代祭祀の史的研究』に収められた論文「大王就任儀礼の原型とその展開」においては、天孫降臨神話は大嘗祭の祭儀神話ではないことを確定したのみでなく、右の傍点部の「収穫祭の形式の即位礼=大嘗祭」という等式自体を否定して、そもそも即位礼の範疇に大嘗祭は入れるべきでないという結論となった。この論文は実は一九八三年に学会誌『日本史研究』発表されたもので、そこでは大嘗祭が即位礼の一つであることは承認されていたのであるが、それを著書に収める段階で、それ自体を否定するもの修正したのである。
 つまり、七世紀以前は大嘗祭は毎年行われる冬至祭=収穫祭である新嘗祭が即位後のものについては規模が拡大したにすぎず、研究史にそくして次ぎに詳しく説明するように、王位就任後の大嘗祭もとくに王位就任義礼の性格を付与されていなかったというのである。岡田は、それについて右の著書のあとがきで、研究の経過を回顧して「大嘗祭の基本的性格についても、それが就任儀礼の一種であるという誤った通念からの脱皮が、私自身なかなかできなかった。『日本史研究』誌に載せた初稿ではまだ即位と大嘗祭の関係を就任儀礼の重複としてとらえていた。その誤りに気づき本書のように修正できたのは、ようやく八九年十月の歴史学研究会・日本史研究会等四学会共催のシンポジウム(その記録は四学会編『即位と大嘗祭――歴史家はこう考える――』)の機会であった。このようなことはほかにもあったが、学問においても先入観からの脱却がいかに困難かを、改めて感じたことだった」としている。
 この天孫降臨を大嘗祭の起源神話であるという説は、本居宣長に始まって折口信夫・三品彰英にいたって完成され完全な通説として扱われていた。とくに折口信夫の「真床覆衾」なるものへの特殊な意義づけを中心とした大嘗祭論の影響は一種の社会的常識でさえあったのである。岡田は、この通説から脱皮するために相当の時間をかけたのであるが、それはこの問題を処理することを自己の祭儀神話論の体系化のための最初の試金石と考えていたためであるように思われる。
 しかも大事なのは、この論文「大王就任儀礼の原型とその展開」はその前提として「記紀以前」の時代において王位継承にあたって群臣が次の王を選出し推挙するというシステムがあったことを明らかにした。つまり、だいたい炊屋姫大王(推古)の時代以前について、岡田は「大王位の継承にあたっては、まず『群臣』が王位継承候補に王位の象徴である宝器を渡して大王に推戴する儀礼があり、宝器をうけた王族が改めて聖なる壇に昇る式を行う。二度目の式ではじめて天津日嗣の資格を獲得するが、その壇の上に立つ新しい大王が就任宣言(即位の宣命)を発し、臣下の服従の誓約の象徴的行為(寿詞・拝賀)を受ける」ということを明らかにした。この結論は学界に受け入れられ、今日ではこれが大王の権力の連合的あるいは共立的性格を議論する際の基礎にすわっている(参照、吉村武彦「古代王権と政事」『日本古代の社会と国家』)。これは岡田の祭儀神話論の方法が神話論にとどまらず、「記紀以前」の国家・社会そのものの議論においても大きな意義をもつことを示したといってよい。
 この論文は、溝口睦子の論文「古代王権と大嘗祭」及び「神祇令と即位義礼」によって重要な補説が加えられ、岡田が論文「記紀神話の成立」で予考したように、天孫降臨神話は、大嘗祭の起源神話ではなく即位式の祭儀神話であることが確定したのである。その具体的な内容は本章第二節で述べるが、岡田論文によって天孫降臨神話ははじめて王権儀礼という具体的な場との関係で議論することが可能になり、はじめて本格的な歴史学の対象となったのである。これは神話研究にとって画期的なことであった。

即位式・大嘗祭と「皇室典範」――神話研究の現代的役割
 これは現在の問題に直結してくる問題であった。つまり現代日本では現身の王身分が憲法に規定されており、王家はさまざまな儀礼と祭祀を行っている。それらをどう理解しておくべきかは国民の憲法理解の良識の重要な一部でなければならないのであって、その良識の形成を事実に即して担保することは歴史学の社会的責務の一つである。歴史学は、その本質にふさわしく、万が一にもタブーに囚われることなく、また有職故実的な考証に自己限定してしまうことなく、それらの祭儀の神話的文脈を的確に説明する役割をおっている。
 岡田の歴史学が歴史学徒にとって範たるべき位置をもったのは、岡田がこの点においてもゆらぐことなく研究者としての職責をつらぬいたことにある。つまり、王位継承儀礼について研究する中で、岡田は一九八九年の天皇代替りにむけて一九八九年設置の「即位の礼準備委員会」において意見を求められた。これは岡田自身にとっても意外なことであったらしいが、岡田のものと思われる発言が内閣総理大臣官房『即位の礼記録集』(一九八九)に掲載されている。「即位礼は、旧登極令などに準拠して行われるべきではなく、高御座の使用、剣璽の奉安、大饗は、憲法の主権在民原則・政教分離原則から避けるべきである」「毎年行われている新嘗祭は皇室の私的行事とされており、天皇の即位後初めて行われる新嘗祭が大嘗祭であるのだから、これも皇室の私的行事として行われるべきであり、そうでないと、宮中祭祀はすべて公的行事ということになり、不当である」などの発言は歴史学が国家儀式についても必要な学術的寄与をすべきことを示している。
 後者の大嘗祭は私的行事とすべきであるという点には大嘗祭は即位義礼ではないという岡田の研究結果が表現されているのはいうまでもないが、これは現憲法の下での皇室典範と大日本帝国憲法における旧皇室典範の関係に関わってくる。つまり現行の皇室典範においては王位就任儀礼は第四章第二四条において「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」と規定されており、大嘗祭の規定はない。現憲法の下においては、大嘗祭は法的に定められた即位儀礼ではないのである。これに対して、一八八九年制定の旧皇室典範の第二章「踐祚卽位」においては、「第十條、天皇崩スルトキハ皇嗣卽チ踐祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク。第十一條、即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ 」などとなっている。これは「即位礼」と「大嘗祭」は京都で一体のものとして行われるという規定である。そして、この即位礼と「即位礼」と「大嘗祭」の関係については、天皇が聖的な資格を帯びるのは、深夜に行われる神秘的な儀式、「大嘗祭」においてであるという社会通念が存在した。それは『国体の本義』などで宣伝された国家思想によって強力に支えられていたのである。
 しかし、そのような大嘗祭の位置は、岡田がいうように、一七世紀末の霊元上皇の主導による貞享の大嘗祭復活が大きな契機となり、国学者の中で即位義礼の中の中国的色彩に対する嫌悪が増進し、逆に大嘗祭の位置が上昇したためである(岡田「大王就任儀礼の原型とその展開」七七頁)。それはいわゆる「近代に創られた伝統」に過ぎなかった。それにも関わらず、これがどれだけ学者をしばっていたかは、岡田の論文が発表された後に発表された著書『日本古代の王権と祭祀』において井上が、八世紀の即位式は「世俗的・中国的な即位儀・即位礼」であって、それが「宗教的・固有法的な踐祚大嘗祭」と並んで「二種類の即位義礼が行われていた」と述べていることに明らかである。井上は八世紀の即位規定が「神璽の授与を主内容とする(中国の)柩前の儀に類似し、それほど宗教的な性格をもたない」(二四七頁)、「そしてこれらは明治天皇の即位におよび『皇室典範』に継承された」(三一一頁)という把握を前提としている。
 これは旧皇室典範における「即位礼」と「大嘗祭」の関係を「世俗的←→宗教的」と捉えて、それを八世紀まで遡及させる思考法である。この結果、井上は、八世紀頃の即位式をすべて世俗的、中国的なものと捉えてしまうことになり、また逆に同時期の大嘗祭こそが日本固有の王位就任儀礼と信じて疑わないことになった。井上が「即位義礼や古代王権の呪術的・宗教的性格」とか、「即位義礼中、大嘗祭は王権の基礎づけである」などとするのはそのためである。しかし、このように即位式をアプリオリに世俗的なものとみてしまっては、その背後に強力な国家神話が存在したことが視野の外におかれることになる。そもそも井上の著書がイデオロギー内容としての神話を解かずに祭祀を論じようというのは大きな無理があったのである。
 もちろん、井上の仕事は即位と即位儀式についての基礎的な制度研究として重要な意味をもっており、しかも井上の意図としては折口などの研究があまりに大嘗祭のみを強調することへの違和感を表明して、即位式の威儀を強調することにあった。しかし溝口睦子が批判したように、井上の見解においても「大嘗祭は、王権の基礎づけ」という旧皇室典範が無意識の前提となっていたことは否定しがたい*205。岡田が述べるように、「従来の古代王位就任儀礼の研究には、大きな障害があった。それは近代天皇制の就任儀礼の形態に大きく制約されているおと、しかも未だにそこから脱却していない」と言わざるをえず、井上の仕事もその制約の中にあったことは否定しがたい。
 これは、一九四六年に第日本国憲法が廃止され、日本国憲法が成立した翌年に制定された現行の皇室典範において、旧皇室典範の「神器」の継承による「踐祚」の規定、および「大嘗祭」の規定がその宗教的性格によって削除されるという形で、旧皇室典範が歴史の批判を受けたことの意味を実際上無視するものである。
 
即位礼の二つの行事――基本史料(神祇令と持統即位紀)の提示
 大嘗祭を本来の意味の大王就任儀礼から外すとすると、岡田がいうように「王位就任にとってもっとも重要な儀礼は宝器の継受と高御座昇壇である」「宝器献上と即位は二つの行事であった」ということになる。そして、この二つの行事は明瞭に区別すべきものであった。前者の「宝器の献上・継受」は本来は「群臣」が大王を推挙し推戴する行為の儀礼的な表現であり、それと後者の「高御座昇壇」、すなわち厳密な意味での「即位」そのものは王位就任の儀礼の中でも異なる性格のものなのである。
 なお、井上のように、王位継承年の王権儀式を「即位式(世俗)と大嘗祭(呪術)」という形で単純に区分してしまうと、必然的に即位式を構成するそれなりに複雑な諸儀式をすべて世俗的なものとして一元化してしまうことになる。井上は「神祇令の定める即位義礼は、神璽の授与される即位儀と、践祚大嘗祭である。このうち即位儀は(中略)それほど宗教的な性格をもたない。そしてもう一方の践祚大嘗祭は、秋の収穫祭そのものにほかならない(それ故に強い宗教的性格をもつー筆者注)。私はここに、令の制定者が、即位義礼を一括して神祇令の中に規定してあやしまなかった理由があると思うのである」と論じている。傍点の「神璽の授与される即位儀」という言い方に、井上が「神璽の授与」式と「即位儀」を区別していないことが明瞭に表れている。
 なお、ここで井上は即位義礼の中心は大嘗祭であり、それが収穫祭の側面をもつような強い宗教性がある以上、日本令が即位義礼を神祇令で規定したことは当然だと述べている。このような井上の議論は矢野健一(一九八六)、溝口睦子(一九九〇)などによって完全に否定されている。それは講座論文などによっても確認されているので(参照、鈴木『岩波講座日本歴史第3巻、古代3)、詳細をここで述べることはしないが、律令には天皇に関する規定は載せないという原則は即位義礼についても貫かれており、神祇令の中にあるのは即位に関係した特定の神事についての雑多なメモにすぎず、そこに唐令との相違などを確認するのは必要な基礎作業であるにしても、そこに過剰に意味を読み込むのは見当違いだというのである。
 このように即位関係儀式の法源を神祇令に求めることはできないことを確認の上で、以下の全体の記述の便宜もあって、①大嘗祭は本来の即位礼の中には入っていないこと、②即位礼の中でも神璽授与の儀式と即位式そのものは区別すべきものであることを、神祇令の即位関係の条文を引用して、説明しておきたい。
①(一〇条)凡そ、天皇即位、天神地祇を惣祭せよ。散斎一月、致斎三日。其れ大幣は、三月の内に修理お訖えしめよ。
②(一三条)凡そ、踐祚の日、中臣、天神の寿詞奏せよ。忌部、神璽の鏡・剣上れ。
③(一四条)凡そ大嘗は、世毎に一年は、国司、事を行へ。以外は年毎に所司、事を行へ。
 最初の①一〇条は矢野によれば、天皇即位の時に「天神地祇を惣祭する」という規定は、亜鉛国から国造・神主らを招集し、諸国の天神地祇に大幣を班幣して天皇の即位を地域のすみずみまで告知する大規模な神事であって、たとえば文武天皇の即位のときの例については具体的に知ることができるという。井上は、この「天神地祇惣祭」を後の『令義解』によって大嘗祭のことだとしたが、それは史料批判の不足であったということになる。
 次の②一三条は溝口によれば「踐祚の日」における中臣氏と忌部氏という神祇官に属する祭祀氏族の役割を規定したものであって、「踐祚=即位」の儀それ自体を規定したものではない。井上がこれを「神璽の授与される即位儀」と一括して説明してしまって、即位式の本体としての「即位=高御座着御」儀式と、「賀詞」の儀、「神璽」の儀を区別しないのが誤りであることはすでに述べた通りである。なお、これについて溝口は持統天皇の即位礼についての史料も引いて説明しているので、史料に残る限りでは即位礼のイメージをもっともよく示すものとして、読者の便宜のために、ここで史料を引用して紹介しておく。
物部麻呂朝臣、大盾を樹つ。神祇伯中臣大嶋朝臣、天神寿詞を読む。畢りて忌部宿祢色夫知、神璽の剣・鏡を皇后に奉上る。皇后、天皇位に即く。公卿百寮、羅(つらな)り列(かさな)りて匝(めぐ)り拝みて手を拍つ。
(『日本書紀』持統四年春正月一日条)
 即位式の当日、物部麻呂朝臣が大盾を内裏に立て、神祇伯の中臣大嶋が天神寿詞を読み、その後に忌部色夫知が神璽の剣・鏡を持統に奉献した。そして天皇が即位し、公卿百寮がならんで列をなして「位」(高御座)の周囲を廻って拝礼したということになる。神璽や高御座については後に説明するが、この持統即位の記事は即位式が正月一日であることもふくめて典型的な即位記事であるといってよい。溝口は、これを一儀式として処理した井上を批判して、「賀詞・神璽」の儀は「狭義の即位式以前に行われる、即位式とは別個の儀式とみる余地」があるとした。溝口はとくに神璽奉献が別の儀式であることについて二つの根拠をあげている。第一には持統以前の多くの『書紀』の記事では献上者が「群臣」であること、またそれらの記事によると少なくとも建前上は群臣の推戴によってはじめて天皇は位についた。たとえば、ハツセベ大王(崇峻)の場合には「炊屋姫尊と群臣と、天皇を勧め進りて天皇の位に即かしむ」(『書紀』崇峻即位前紀)とあることはその事情をよく示している。また第二にはオシタテ大王(宣化)の場合のように神璽献上と即位がはっきりと日を異にして分かれている場合があること、そうでない場合も「この日に即位」などと同日に即位式が行われたことがわざわざ断ってあることも(継体・欽明)、この二つの儀式が別個の儀式であることを示しているという。
 次の③一四条は毎年と即位後の冬至祭の両方を「大嘗」としているのが注意される点で、これが大嘗は即位後の冬至祭、新嘗は毎年の冬至祭と区別されるようになったのは、八世紀半ば以降のことであった(神祇令と即位義礼二八五頁)。本条はそれ以前は世毎に一回(いわゆる大嘗祭)は国司が担当するが、毎年の大嘗(いわゆる新嘗祭)は所司(神祇官)が行うのだという神祇官の職務規程である。井上がこの条をもって王位就任儀礼としての大嘗祭を法的に規定したものとするのは考えすぎであったことはいうまでもない。矢野が、②の一三条で即位についての規定は終わっており、大嘗祭は即位した天皇がおこないうる祭祀という位置づけであったとするのも妥当な判断である。
 なお、この一三条の規定は、天武・持統の段階では、史料によって、毎年、悠紀・主基の国を設定して大規模な新嘗祭=大嘗祭を行っていたことが分かるが、神祇令の制定に至るまでの間に即位後の新嘗祭のみに悠紀・主基を設定するという形で祭儀が簡素化されたことを示している。こうして大嘗祭が成立したのであるが、逆にそれにともなって「世毎に一年」の大嘗祭が新嘗祭と区別されていやが上にも大がかりに華やかになり、あたかもこれが代替りの儀式の中心の意味をもつかのようになっていったというのが溝口の分析である(溝口一九八九)。そして八世紀後半には寿詞の儀や神璽奉献の儀が即位式ではなく、大嘗祭で行われるようになり(明証があるのは光仁天皇)、大嘗祭も付随的に王位就任儀礼の性格をもつようになったということになる。
 以上、おもに岡田・溝口・矢野などの仕事によって、神祇令を中心に大王就任儀礼の法的な枠組みを確認した。これが明瞭になったことによって、即位式についての八世紀までの史料がきわめて少なく、しかも八世紀から九世紀にかけて即位前後の王権儀式が大嘗祭をふくめて大きく変化したために、それらの史料の分析に筋が通しにくいなどの困難を処理できるようになったのである。

岡田学説が未完に終わった理由
 以上、「寿詞・神璽奉献」の儀と即位式そのものからなる大王就任儀礼、それと大嘗祭の区別などの問題についての研究史を紹介してきたが、これによってこのような研究の転回点が岡田の「記紀神話の成立」と「大王就任儀礼の原型とその展開」の二論文にあったことが明らかになったであろう。
 さて、岡田が前者の論文「記紀神話の成立」において提起した問題は大王就任儀礼に対応する祭儀神話の問題のみではなく、倭国神話論全体にわたるものであった。しかし、残念なことに、岡田は、これを補充して一冊の著書とすることも、また自己の神話論体系を概論的に述べることもなく、二〇一九年に死去してしまった。岡田は、この論文を一九七五年に刊行した後、第二論文集『古代祭祀の史的研究』のほか、神話論や神道史に関わるさまざまな分野にわたる個別研究論文を多数発表した。しかし、実証的なイメージの具体性を重視する岡田は、そのような体系化にきわめて禁欲的であり、それによって岡田の神話論の体系は、その全貌を現すことないままに終わったのである。
 私は、これは第一に岡田が大林太良などの人類学的な神話研究の抽象性に対する非常に強い批判をもっていたためであると考える。岡田は世界の神話を諸要素に解体して巨視的に比較することを主要な方法とする人類学的な神話研究の方法に強い違和感をもっていた。それは岡田の研究史論文「記紀神話研究の現状と課題」(一九六八)や、大林が企画・司会をつとめた『シンポジウム 日向神話』での、岡田の発言に明瞭に現れている。それへの反発もあって、岡田は日本史上の事実を考証し、それにもとづく具体的なイメージを提出することを何よりも重視したのである。また、神話研究が現実との関係において、どういう役割をもっているか強く意識する岡田にとっては、人類学的神話研究がそこから超越したかのような姿勢をとるようにみえたことも、そのような人類学的神話学に対する批判の大きな理由でもあったろう。
 さらに、この研究史論文で岡田が「神話の発展は文化系統論の伝播主義だけで解決できるであろうかという問題、すなわち文化人類学・比較神話学では神話現象を平面的な並列関係でとらえて、発展的段階の縦の関係としてみていない。民族の内部における社会構成の発展に伴う神話・信仰の進化・発展ははたして考えられぬものであろうか」と述べた岡田の方法的立場によっても倍加されていた。しかし、特定の民族社会において神話の歴史的形成と変化を「縦」の関係でとらえることは、、現在にいたるも極めて困難な作業であって、そうであるだけに、岡田は神話学の体系を論理化することにはきわめて慎重にならざるをえなかったのであろう。
 しかし、岡田がその体系の全貌を明らかにしえなかった、もっとも大きな理由は、率直にいって、岡田が歴史学の「古代史学界」からなかば孤立して独力で進まなければならない局面が多すぎたためである。そもそも岡田は石母田正の神話研究の跡を継ぐ形で、自己の研究を始めた。岡田の神話研究はあくまでも日本史学の一環として行われたものであった。それは岡田が直木孝次郎と並んで、有名な「河内王朝論」の主唱者であったことにも明らかである。
そういう中で、日本史の神話時代史、大和時代史の研究者のほとんどが神話研究に無関心であったことは、岡田が研究を進める上での大きな障害であったことは想像にかたくない。岡田が、一九六八年に発表した前記の研究史論文において「多くの歴史家は”神話は歴史ではない”として、進歩的な人々も対決をさけてきた」と述べているのは、岡田が率直に失望を表現したものである。しかも、その状況は、論文「記紀神話の成立」の発表後、現在まで四〇年の時日が経っても基本的に変化しておらず、神話学研究に従事する研究者の数はほとんど増えなかったといってよい。こうして論文「記紀神話の成立」で展開された論点をさらに追究し、岡田の議論を基礎として神話論の全体を再構築していく仕事の多くは、今後に残されているのである。

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