光として示現する神――三宅和朗の問題提起


 さて三宅和朗によればヒの光は太陽の発する光だけではなかった。三宅は広く神話史料を点検して、神々が様々に神秘的な光の姿をとって示現していることを論じた。
 それらは実に多様なものであるが、三宅の提示した大量の史料を私なりに整理すれば、①虹・蜃気楼・雷電その他の様々な大気光学現象、②火山噴火や地質現象に根を置く発光、③蛍火その他の生物発光、そして④星・月などの発光、さらには⑤鏡・剣・勾玉・真珠・水銀などの金属・宝石類の光などに区分することができる。④までの大部分は自然現象であり、これは光を媒介とした自然と人間の関係の神秘である40。
 いくつか説明してみると、八五六年に常陸の大洗海岸で夜半に海の上に「光耀(こうよう)」が広がって天にまで届いたが、これは国作りを終えて一度日本を去った大奈母知(オオナモチ)・少比古奈(スクナヒコナ)命が民を救うためにもう一度戻ってきたのだという託宣があったという。この「光耀(こうよう)」は磁気嵐が強まったときには日本でもみられるオーロラであろう。「伊勢国風土記逸文」によれば、イワレヒコの命令をうけた天日別(アメノヒワケ)命が伊勢の大神、伊勢津彦を攻撃した時、伊勢津彦は「今夜を以て八風を起こして海水を吹き、波浪に乗りて東に入らむ」と降伏の意思を告げ、実際に夜になると「大風を四(よ)もに起こし、波瀾を扇挙げ、光曜は日の如くして、陸も海も共に朗かにし、遂に波に乗りて東に行きき」という。筑紫申真や伊藤聡によれば伊勢大神には雷神の性格があったというから、ここに雷神のイメージが入っていた可能性もある(筑紫、伊藤聡『神道とは何か』41頁)。
 このような大気光学現象では現在も八代湾で発生する蜃気楼、不知火が有名で、夜に海上で火光がみえることはすでに『日本書紀』『肥前国風土記』『肥後国風土記』逸文にみえる。私見では不知火は「白日(しらひ)」とも書いて筑紫の国魂神であり、筑紫の枕詞ともなっている。さらに、山幸彦(彦火火出見命、イワレヒコの祖父)のところへ出産のためにやってきた豊玉姫が「海を光らせ来たり到る」(『書紀』第十段異書三)とあり、海の光が特別な注目をあびていたことを示している。豊玉姫は実は大鰐であったというが、海棲の異獣が海を光らせるという記事はほかにもある。その観念が二〇一一年の東日本太平洋岸地震・津波の原型とされる八六九年の陸奥沖地震津波に関係して「地震発光」が起きたという伝承にも影響していたのであろう。この実態が何かはわからないが、地震・津波は龍が起こすとされていたから、海の神はギリシャ神話の海神ポセイドンと同様に地震を起こす力をもっていたのである(参照保立二〇一五)。
 以上は海の世界の光りであるが、山では火山の光が大きな神秘であった。たとえば八六七年には肥後阿蘇山上で「奇光が照り耀(かか)やく」といい(『三代実録』貞観九年八月条)、八七一年には出羽鳥海山の山上に光があって、土石が焼けたという(『三代実録』貞観一三年五月条)。さらに比叡山の宗叡が越前国白山に行った時、「夜中に火あり、自然に路を照らす」というのも白山の噴火に関係している可能性があるだろう(『三代実録』元慶八年三月条)。これは噴火のみでなく、火口内の火映をふくんでいるが、そう考えると天孫降臨神話の「彼の地に多(さわ)に蛍火なす光る神と蠅声なす邪神とあり」(『書紀』九段本文)、あるいは出雲国造神寿詞の「豊葦原の水穂国は昼は五月蠅の如き水沸き41、夜は火瓫(ほべ)の如く光る神あり」のいう記事は上空からの倭国の俯瞰であるから、火山の風景である可能性が高いだろう。注目すべきなのは、それらが「光る神」といわれていることである。
 生物発光との代表は「蛍火」であるが、夜の光にはその他にも様々なものがあったに違いない。たとえば益田勝実によれば、『竹取物語』で竹取翁「本光る竹」を発見したという物語の背景には、スズメタケという小さなキノコが竹に寄生して発光する事実があるという。益田は、根本の部分だけが光っているというのは夕方以降のことであるとし、これは吉野の林業地では今でも良材をとるためには「新月の闇切り」といって月も暗い夜に樹を切るのと同じことだとした(益田一九九三)。また怪奇現象とされる人魂(球電)あるいは鬼火などにも、単なる大気光学現象ではなく、森林や川辺のより生態的な諸条件がある可能性もある。これら全体を広く生物発光と捉えれば、その範囲は非常に広いものとなる。

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