地震学の用語法。地震と地震動、予知、正断層など
地震学の用語法・ターミノロジー――(1)「地震と地震動」,(2)正断層と逆断層
以下は、二〇一三年三月、退職直前に電車の中で書いてブログにのせた文章です。ごたごたしてますが、そのうち整理して書きたいものです。
地震学の用語法について、いつかブログで少し書いた記憶があるが、いま電車の中なので、さがしたが、そのテキストでてこない。今日は最後の京都出張で、前日から向かっている。宿についたら自分のブログにサーチをかけてみようと思うが、書いた記憶があるのは、地震動と地震を区別する地震学の用語法についてである。
地震学の人が、地震について説明するときに、誰でもがいうのが、地震というのは岩盤の弱面に断層が走ることであるという「地震=断層説」である。この学説もプレートテクトニクスの登場とほぼ同時、60年代末に確認されたということなのであるが、その意味がきわめて大きいことはいうまでもない。現在では、いわゆる活断層地震といわれるものも、プレート間巨大地震の影響が大きいという議論になっていて、「地震=断層説」とプレートテクトニクスを統合して、内陸地震の発生の機制を解明するということが地震学の最大の課題になっているらしい。
問題は、「地震=断層説」の説明ののちに、地震学者が、ほとんど必ずといってよいほど、こういう意味での「地震」と地面が揺れることそれ自身は違うことですとおっしゃる。そして「地面が揺れることは地震動といいます」といわれることである。つまり、「地震動」は「地震=断層運動」の現象なのであって、地震の本質は断層が動くことににあるという訳である。
ここには一種の啓蒙的な姿勢がある。私が地震学者の講演を聴いたのは、三,一一の後であったから、もう二年になるが、その時は、そういう説明の仕方を感心して聞いた記憶がある。なにしろ、その前は何も知らなかった。それより前、必要があって、震度とマグニチュードというものについて、ある先輩と話したときに、私が正確に区別できないのをみて呆れられたほどである。
自分の無教養は例にはならないとしても、こういう経験からすると、地震学者は、現在でも、基礎的な啓蒙が必要であることをく知っているのだと思う。地震学者が講演をするとき、こういう話しをしても何をあたりまえのことをいっているのだという反応ではなく、それなりの手応えをいつも感じていたのに違いない。それは歴史学者が歴史学は「小説」ではありません。歴史学は何らかの意味で史料にもとづいて研究し、叙述されなければなりませんということをいうのと同じ感じなのかもしれない。
しかし、今後、地震が岩盤の断層破壊を本質としていることは、小学生にとっても1+1=2と同じような常識になるはずだし、ならねばならないと思う。たとえば少々計算が早いとか、漢字のいくつかを知っているというよりも、地震=断層破壊という等式は自然科学的な知識として価値が高いことは明らかである。さいわいプレートテクトニクスと地震学、地球科学の発展は目を見張るものがあり、基本的な説明ならば、小学生でも具体的なイメージにそってわかるレヴェルに達しているから、これはとくにこの列島に棲むものの基礎教養として徹底的に教授されなければならないはずである。
しかし、逆に、そうだとすると、今後、地震学の用語法はいろいろな側面から点検してみた方がよいのではないだろうか。つまり、小学生・中学生(あるいは高校生にも)に「地震」と「地震動」を区別せよという教育をするのは無理であり。無駄であると思う。歴史学の教育はおうおうにしてどうでもよい「言葉覚え」に帰着しがちであるが、地震学も同じような罠にはまってはならない。
私は、「地震」という言葉で、「地震動」をふくむ「地震」のすべてを表現してしまってよいのではないかと思う。つまり「地震」とは「地」が震えるいうことである。earthqwakeと同じ言葉である。earthに「土」という意味と「地球」という意味があるのと同じことである。「地震」の「地」は、地面から、地盤からその下の岩盤から、地球そのものを意味するものと考えておくのが、日本語の表記や解釈として適当であると思う。
普通の人は、「地震」という言葉を我々が立っている地盤が震えるという意味で使っている。その使い方は日常的・常識的な用語法として認めて、わざわざ「地面が揺れることは地震動といいます」という説明をする必要はないのではないかということである。我々、現象世界に棲んでいるものにとっては、まずは現象が問題であって、現象を中心に事態を総称する用語法を使うことには問題はないと思う。もちろん、とくに必要な場合に、地震と総称されるいう事態のうちの「地面の揺れ」について「地震動」という言葉を使用する場合があるというのは、学界内部の事情であって、学界のターミノロジーをどうするかということは、その学界が、その専門性において議論し決めればよいことである。しかし、そういう学界の用語法をそのままパブリックな世界にだす必要はないのではないかということである。
これは、地震学の他の用語についてもいろいろ感じることなので、素人の談義として許していただいて、何回か、このブログで書いてみたいことである。
いま新幹線は小田原。他の仕事もあるので、ここでは、事例として、二つのことだけを書いておきたい。
一つは、「震度」と「マグニチュード」という用語である。学術用語を漢字と英語にするというのはアカデミーにとっては厳密性の確保のために必要な技法であるというのは、そう思う。しかし、それをそのまま社会に流通させるのは悪い癖だと思う。まず震度は、ただ「揺れ」あるいは平仮名の「ゆれ」でよいのではないだろうか。「震度3」というのを「ゆれ3」で何が悪いのであろうか。小学生に「震度」という言葉を覚えろということ、それはかならず書けということになるが、それは無理な話である。しかし、小学生にとっても「震度」なるものが何であるかを理解していることはどうしても必要であることはいうまでもない。だから、「ゆれ」でいいではないか。テレビでもジャーナリズムでも小学生にわかりやすい言葉を使うというのは基本的な姿勢として必要であると思う。
同じように「マグニチュード」については、「強さ」でよいではないか。地震について話しているという文脈が明瞭なとき以外にマグニチュードという言葉が使われるとも思えないから、「強さ」でよいではないかということである。英語の「マグニチュード」は強さという一般的な意味であって、英米では、それで報道したり議論をしていて何の問題もない。それと同じようにすればよいのだと思う。もちろん、たとえば平田直氏の三,11を分析した朝倉書店の本では、マグニチュードを「地震規模」といってもよいとされているように、学術用語としての厳密さを示す場合には、いろいろな言葉がありうるだろう。マグニチュードという用語を地震学者が使い続けるのも当然のことである。しかし、小学生にマグニチュードという言葉を教える訳にはいかない。「ゆれ」と「強さ」でいいではないか。
もう一点は、現在の地震速報についての考え方である。ご存じのように、地震による岩盤の波のような揺れは、P波とS波という二つの種類の波で観測される。このP波は岩盤を早く伝わるが、S波の速度は遅い。そして地盤を揺らすのはS波である。そこで「地震予知」体制を構築したことによって、瞬時に震源を感知し、それによってP波を観測したとたんに警報を出すことが可能になった。
もちろん、S波とP波の差は、十秒レヴェルものだから、地震学の人は、これを「予知」とはいわない。「予知」は「予(あらかじめ)知る」ということだから、十秒単位のものを「予知」とは言いにくいということなのであろう。しかし、私などは、「地震予知」体制が目ざすのは(学術分析ではなく)社会的警告ということである。つまり、この体制において「予知」といわれているのは、いつ、どこで、どの程度の規模の地震が発生するかを察知し、「警告」することである。それだから、これはたとえ十秒前の警告ではあっても、立派な警告なのだから、堂々と「予知」といえばよいと思う。
少なくとも、このようなことが可能になっているのは「地震予知」のための体制と予算を組んだことによるものである。「予知研究」の結果であることは明らかなのである。もちろん、地震学の方々にとってはそれは初歩的な成果にしかすぎないということであろうが、しかし、それによって実際に命を救われた方がすでにいること(明示的に何人ということはいいがたいとしても)は重く考えて表現してよいことだと思う。
「予知」ということも「地震」と同じように総称であって、その一部に、初歩的なものとして、現在の地震速報を数え上げることには何の問題もないのではないか。それはここ30年以上の努力を正確に社会に伝えるためにも必要なことだと思う。
実は、なぜ、地震学界がこういうように考えないかというと、その理由は、おそらく、右にふれた「地震」と「地震動」という用語法に関わっている。地震速報は「地震」が起きた後の速報であって、「地震動」の警告にすぎないという訳である。「地震速報」は地震が発生したのちの警告であるから、どういう意味でも「地震予知」とはいえないということでもあるのだろう。しかし、これはあまりに「真面目」すぎる学者的な発想である。そして、その基礎に「地震」という言葉を「断層破壊=震源断層の最初の滑り点」に限定しているという感じ方があるのではないだろうか。「地震」を断層の裂走のみでなく、地盤の動揺(「地震動」)、その伝播のすべてを含む総称として考えておけば、「地震予知」といって何の問題もないと思う。
津波警報も同じであるが、生活者としては、ともかく十秒前でも、地震の直前警告がでることは、「予知」の最初の成果として受けとめることには何の問題もないと思う。
以上、私見に過ぎませんが、この種の議論は必要なことだと思います。これは学術的な用語法と、その教育と、警告・コミュニケーションのあり方ということに関わって以外と重要な問題ではないかと感じています。
地震学の用語法(2)「正断層と逆断層」
地震学の勉強をしていて、正断層と逆断層という言葉が、よく分からなかった。あれっと思ったのは、新聞で「福島の浜通で、東日本太平洋岸地震ののち、日本にはあまり多くない正断層が頻発している」という記事を読んだ時であった。そうか、日本では正断層は少ないのか、と思ったことを覚えている。
正断層というのは、岩盤が引っ張られるようにして、断裂する形式の断層で、逆断層というのは、押し合って、岩盤の片方が片方に乗り上げるような断層であるというのは、一応、おぼえた。正断層が発生しているという福島の浜通りは、福島原発があるところで、正断層が多発しているのはそのすぐ南であり、Hi-NETなどをみると、そこは、浅部の地震を示すまっ赤なドットが集中している。
そののち、正断層、逆断層という言葉を聞いたり、読んだりするたびに、それを思い出すのであるが、しかし、どうもよくわからない。なぜ、正断層・逆断層というように呼ぶのだろうかと考えるようになった。
よく分からないというのは「正・逆」という一種の価値評価をふくんだ言葉がなぜ使われるのかということであった。正断層というのは、英語ではnormal faultといい、逆断層はreverse faultという。断層をfaultという言葉はテニスのフォルトと同じで、responsible for mistakeという意味で機械などについてもいわれるということだが、断層がなぜフォルトと呼ばれたのかは知らない。ともあれ、この正断層・逆断層という用語は、自然科学の学術用語の常として、欧米由来なのである。
そして、ああそういうことかと思ったのは中村一明『火山の話』(岩波新書)を読んでいて、アイスランドのギャオ(地溝)についての説明にぶつかった時である。そこには次のようにあった。
アイスランドの活断層は、ギャオのような正断層のほかには数本の、それも疑わしい横ずれ断層があるだけで、表面積の縮小を示す逆断層は一つもない。これに対して日本の活断層は、逆断層と横ずれ断層が主で、正断層は火山地域をのぞけばほとんどない(一六六頁)。
これは地震学の人ならば常識的なことなのであろうが、ようするに、正断層というのはヨーロッパで多い、あるいはヨーロッパ地質学の目にふれやすかったということなのだと思う。それがどの程度のことなのかは私にはわからない。また世界の各地域で、正断層と逆断層の比率がどうなっているかは、いよいよ、私にはわからない。しかし、地震学というよりも、地質学は、まずはヨーロッパで成長した学問であるから、ヨーロッパ的な基準によって学術用語ができあがったということは、確実であろう。いわゆるヨーロッパ中心主義である。こういう用語を点検して、より普遍的な用語、実態的な用語に置き換えていくということは、世界の他の地域にとって、日本にとって、どの学術分野でも必要なことであると思う。
ここまでが勉強したこと。それではどういう用語に変えていったらよいのかということは、もちろんのことながら、私にはわからない。ただ、実際には、現在では、正断層・逆断層に「(右・左)横ずれ断層」という分類が加わり、四種類の分類がされることが一般のようである。「衝上げ断層」という言葉を聞くこともある。「横ずれ断層」という言葉に対応するものとしては、「縦ずれ断層」ということになるだろうか。
こういう様子をみていると、遅かれ早かれ、実態的に断層の形態を説明する用語が一般化することになるに違いない。たとえば、正断層を「引張り断層」、逆断層を「押合い断層」というのはどうだろうか。私が考えるような問題ではないが、しかし、「横ずれ断層」にくわえて、この種の言葉が一般化すれば、ターミノロジーの風通しはよくなる。これに前回のエントリーで述べたように「震度」がただの「ゆれ」、マグニチュードが「強さ」ということになれば、ニュースや解説に引っかかることはなくなるに違いない。ともかく、できるかぎり簡単で、子どもでも理解できるような実態を反映した単純な用語を作り出すことが必要なような気がする。
なお、この問題は、根本的には、地質学の用語をどうしていくかという問題にも関わるのだろう。たとえば、洪積世Diluviumというのは地質学がノアの洪水により形成された地層と考えたためであるというのは有名な話である。DiluviumはDeluge(洪水)と同語源。これは今では更新世というが、私などは洪積世という言葉をおぼえた世代なのでごちゃごちゃになってしまう。今回の学習指導要領の改正で地質学、「地学」の学習量が増える可能性があると聞く。教育内容・用語法などをふくめて地質学の側でさまざまな議論があるに違いない。詳細を知りたいものである。
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