石母田正の神話論

今書いている本の一節です。


 石母田は哲学科出身で三木清の影響が強かったが、反戦的な非合法組合活動の中で活動した後に歴史学の道に進んだという経歴をもつ学者である(磯前順一『石母田正』二〇二三)。その神話研究はオホアナムチ神話の本格的研究から始めて津田の日本神話「机上製作」説を批判して大きな影響をあたえた。しかし、戦後の慌ただしい状況は石母田に神話研究を深める時間をあたえず、学界との関係での責任上も、鎌倉幕府成立についての国家史・法制史の基本問題である「国地頭論」の研究、そして「古代史」の総論である『日本の古代国家』の執筆を優先せねばならなかった。そういう中で石母田は『日本の古代国家』執筆と同時期に岩波書店の『日本思想大系』の『古事記』の出版企画を立ち上げたが、『日本の古代国家』の続編である『日本古代国家論』刊行直後に倒れ、神話学からの校訂・解説は岡田精司によって引き継がれた。

 このため石母田の倭国神話論の全体像はまったく不明になっているのであるが、複雑なのは、石母田が戦後のアメリカ占領に対する全面講和と民族独立の要求という学界、歴史学界の中心にいたことで、石母田はその立場から津田の天皇に親和感をもつ穏健な国家主義(ナシヨナリズム)からの神話理解でなく、行動的な民族主義の立場から民族神話の原型を論じようとした。もちろん、歴史学が民族主義(エスニズム)の思想を重視するのは自然なことであるが、問題は石母田がスターリンに学んで「神話や民話や民謡を学ぼう」(「歴史学における民族の問題」■)という実際には政治的な立場を「国民的歴史学」と呼ばれた当時の歴史学の動きに持ち込んでしまったことである。スターリンのような世界的犯罪者・殺人者が石母田のような学者の行動に影響をあたえたということは現在からみれば信じがたいことであるが、第二次大戦の終了後、スターリンは東ヨーロッパを勢力圏として確保するために中国・インド・韓国・日本などにアメリカに対する戦争を扇動し、石母田の属していた日本共産党の当時の指導部はそれに乗って、現在からみれば馬鹿な悲喜劇としかいいようのない「武闘路線」をとり、それを察知したマッカーサーが同党を非合法化するという事件が発生した。石母田はそのような「武闘」自体に責任がある訳ではないが、いかにも学者らしく政治的な誤りの中で挫折したのである。このようなスターリンの第二次大戦直後の戦争計画が明らかになっったのは最近のことであるから(不破哲三『スターリン』)、石母田は何も知らずにスターリンに学ぶなどといっていたことになる。

 もちろん、石母田は一九五七年から五九年に発表した、いわゆる出雲神話についての三本の論文は、すでにその内容の一部を紹介したように(■■■頁など)スサノウやオホアナムチについての始めての本格的な分析であって、それらの錯誤にもとづく政治主義とは関係の無い内容をもっており、現在でも日本神話研究の最大の基礎となっている。しかし、厳しくいうと、少なくとも石母田の神話論の最初の論文「古代貴族の英雄時代」はヘーゲルやエンゲルスの英雄時代論をそのまま前提にしたもので、そこには後に述べるようなフレーザーの人間神man-god、あるいは松村武雄のギリシャ神話におけるヘロスhērōsの概念についての理解はない。後に説明するようにヘロスの概念は英雄heroに先行する以上、それを踏まえていないこの論文は哲学科出身者の歴史学者の雑ぱくな若書き以上の価値はないものである。また他方で石母田の神話論は倭国は八世紀まで「精霊崇拝」の段階にあるという津田の理解によっているが、これも後に説明するように津田の神話論はフレーザー神話論によっていることに気づかないまま展開したものであった。しかもこれも後に述べるように津田のフレーザー理解は誤解にもとづいたものである。前記のように石母田の歴史学は三木清から出発していたから、もし三木が殺されることがなく、戦後まで生き延びて活動していれば、石母田は三木からの学問的影響をうけることができ、このような没理論は修復できた可能性があったであろう。しかし、そのようなことはなく、石母田の神話論は根本のところで未整理で図式的なものとして終わったのである。

 何よりも石母田の仕事で問題であったのは、日本の歴史学者でありながら、井上光貞と同様に前項でみたタカミムスヒについての言及がまったくないことである。石母田神話論も井上の『神話から歴史へ』と同様に、日本神話における主要な神はアマテラスであるという図式に流されていたた(「日本神話」二五八頁)。ただ、石母田は右の『日本思想大系』の『古事記』の関係で高木神(タカミムスヒの異名)とは何かを大きな問題としていたというから(内藤佼子「時無重至、華不再陽」、石母田著作集月報一四、一九九〇)、石母田が『古事記』の企画に最後まで関わっていれば別だったであろうが、石母田は本居・平田の神話の神学的研究を受けとめる学問的な力量をもっていなかったのである。

 いうまでもなく、これは民族宗教としての神道の無視に結びついていた。残念だったのは柳田が石母田との交流を期待し、実際に二人が対談をしていることである(「鼎談 柳田先生を囲んで」『法政』二ー八。一九五三年)。そこで神道の民族的な意味を強調する柳田に対して、石母田は「先生はどういうわけで神道を問題にされるんですか。壊すから保存されるんじゃないですか」と問うている。それに対して柳田は「壊すのは研究する必要はないですよ。なくした後の代わりはなんですか。理性ですか」と問い返して、それを「えゝ」と肯定した石母田を「あなたの方がユートピアン」とたしなめている。ここで石母田が柳田に学ぶ力をもっていれば事態は異なっていたであろうが、この対談を読んでいると、後に網野善彦が石母田と津田の関係にふれていったように(網野善彦「津田左右吉と石母田正」一九八三)、当時歴史学界の中心にいた石母田には、いちじるしい「思い上がり」があったといわざるをえない。前述のように石母田は「神話や民話や民謡を学ぼう」とはいうが、神道に学ぼうとはいわなかった。いわば誠実に歴史の翻弄に身を任せていた石母田にはその政治主義やその理解する「マルクス主義」なるもののについて反省する条件はなかった。ようするに、これは政治主義であると同時に石母田に染み通っていた近代のアカデミズムの神道無視の伝統の深さによるのである。私は石母田の初心を大事にして、ここをどうにか突破しなければならないと思う。

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