公開著書『中世の国土高権と天皇・武家』第一章補論二「石母田法史論と戸田・河音領主制論を維持する――水野章二氏の批判にこたえて」

第一章補論2
 「石母田法史論と戸田・河音領主制論を維持する――水野章二氏の批判にこたえて」
 第一章「平安時代の国家と荘園制」は一九九二年度の日本史研究会の大会報告であり、大会後に、水野章二氏から批判をうけた(『日本史研究』三六九号)。御批判は報告の趣旨をよく読み解いていただいたものだが、すでに二〇年も前のものである。それにいまになって反批判のようなことを行うのは忸怩たるものがあるが、しかし、批判の論点はどれも重大なものであるので、この機会に批判に応答したいと思う。本論を繰り返さず、自身の見解の発展部分を中心に論ずるようにつとめた。遅延については、学問における相互批判とは一生ものであるという事情を勘案して、どうぞお許し願いたい。
起請――合議と専制
 まず問題となるのは、おもに第一章で論じた「起請」をめぐる早川庄八の問題提起についての評価の相違である。報告は起請論を軸として石母田法史論の先を考えようとしたものなので、これは報告の構成にとっては最大の論点である。水野がいうように、早川論文「起請管見」は起請の語義の「変化」を追い、それは①八・九世紀においては上申・上奏の意で用いられた。ついで②一〇・一一世紀には下級者に対し遵守を要求する制規・制誡・禁制の意味に転じ、そして③ほぼ院政期以降、起請文に典型的にあらわれる自他に対し遵守を訳する誓約の意へと変化したという。水野はこの図式を説得的であるとする。これに対して、私は、本論注記でこのような語義変化の理解は形式論理に過ぎるとした。起請には上位者の下における集団的な誓約、「盟」の意味が一貫して伏在しており、この語に注目することによって、九世紀から一二世紀にかけての格式法から式目への統治法の展開の筋道を一貫したものとして追跡することができると、依然として考えている。
 もちろん、報告では具体的な検討は省略したので、水野が拙論について語彙論として明瞭でないとすることは当然であった。そして、もし、早川説が正しいとすると本論の論理展開そのものが成り立たなくなるのは水野のいう通りである。そこでこれについては、後に「内裏清涼殿と宮廷説話」*1という小論で論じ、早川のいう三段階のうち第二段階、つまり一〇・一一世紀の起請がもっぱら制規の意味であるということをくつがえす作業を行った。早川は「殿上の起請」を素材としているので、その実態を問題とした。この殿上起請とは、たとえば殿上人は毎月の内の五日は夜勤しなければならないとか、陪膳の者は宿泊せよなどというような殿上人の勤務規律を定めたものである。小事にはみえるが、これは天皇と廷臣との間の集団結合の確認ともいうべきことである。それ故に、これを結ぶことは天皇がその主君としての地位を公示することであり、通常であれば、即位後しばらくして、あるいは幼帝の場合は元服などの後に起請=新制することは必須のことであった。その意味では多数の条文をもったり、荘園整理や沽価法などの重要な内容をもった新制も、これを原形としていたということができる。
 それ故に、これは廷臣=殿上人の集団としての誓約行為をともなうはずである。実際に『今昔物語集』(巻二八ー二〇)には村上天皇の殿上人が天皇の仰せをうけ「皆舌なきをして、これより後は笑ふまじき由を云ひ契り」という様子が確認できる。早川は殿上起請の実態論に踏み込まなかったために、「起請」という言葉を単に規則と同じ意味であると処理したのであるが、殿上起請の史料は、このような実態を前提として読むべきものであると思う。石母田は格式法=公家法の基礎となるのは「各種慣習法」であると述べているが(前掲「古代法」)、このような実態をみていると、起請法はたしかに慣習法の形式(「例」の形式)であり、新制はたしかにこの慣習法によって機能していることが確認できる。
 もとより、殿上起請はしかるべく記録されたと考えられるが、それに関わってもう一点「絵巻に描かれた文書」(『絵巻の方法』、吉川弘文館、一九九五年)を執筆した。つまり山岸常人は蔵人所の「角柱」への押紙、寺院の起請法の壁書としての公示などの事例を例示しているが*2、それを参考に鎌倉期の起請文が侍所に張り出されるという『古今著聞集』(博奕、六)の説話を論じたのである。それによれば、花山院右大臣藤原忠経の侍たちの間で、「七半」という博打が流行ったとき、偶然に大勝ちした侍が、翌朝、今後一切博打を打つをやめるという起請文を書いて「侍の柱にをしてけり」という。侍集団内部における誓約が侍所の「柱」への起請文の掲示、「捺す(おす)」という形で行われていたのである。これは法としての起請と起請文には後になっても共通する側面があったことを示している。
 もとより以上は早川が取り上げた史料に即した反論ではなく、その意味で「史料に裏付けられた確かさ」はないという批判は甘んじて受けるが、しかし、「起請」という同じ用語が「上申→制規→誓約」という形でまったく意味を転換するという早川の主張が成立するとは、私には考えられない。報告段階では明示しなかったが、私は佐藤進一のいう「合議と専制」*3という図式でこの問題を考えていた。つまり、佐藤シェーマにしたがえば、制規として表現される「専制」が集団的な誓約の「合議」によって支えられているという構造である。これは法史論でいえば十分に成り立つ議論であると考える。
 水野は、起請の展開によって国家意思の形態転換を想定する私説について、「全体に特定のイデオロギーを歴史的事実・歴史的展開過程と同一視している」と批判する。そして、保立の議論を「王権の起請を起点とした起請関係が在地に貫徹する」「起請をすべて王権の自己運動で論理化する」というものであるとし、「王権の起請の在地下降で起請文の世界が解けるのであろうか」と疑問を提起する。「起請という語は、中世社会の形成にむかう諸階層の動向の中で、自他に対する誓約の意に次第にその意味内容を変化させるとともに社会の仏教化という現象が重なり、起請文を成立させた」というのが、その結論である。水野は早川説を承認するとともに、起請を「神仏を媒介とした合意の体系」としてほぼ宗教意識の側面から理解するという従来の考え方を前提としている。
 報告者の立場が従来のような起請文の宗教史的理解とは異なっていることを具体的に明示するべきであったかもしれない。また熊野牛王の一般化は、平安時代末期における院周辺の熊野信仰や手印・宝珠・宝印の朱という形式が起点となっているという想定は見通しにとどまり、具体的な叙述はできていないことは認めざるをえない。しかし、水野の批判は、報告がとった法史的な方法についての検討には踏み込んでいない。たしかに、報告には起請がもっぱら上から下に貫徹していったというように理解できるニュアンスがあったので、誤解はやむをえなかったかもしれない。しかし、報告で主張したかったことは、法的関係はもっぱら上から下に運動するのではなく相互的な意思関係の中にあるが、基本的には支配的思想はつねに支配階級の思想なのであって、法の形式を最初に動かすのは国家中枢であり、支配階級であることは疑いないということである。法はイデオロギー的な関係であり*4、それが歴史過程に働きかけるというのは当然のことであるように思う。これは最終的には社会・経済がすべてを決めていくという事実とは別のレヴェルのことである。
 報告では、石母田法史学では、(一)公家法、(二)国衙法、(三)家産法(内部に権門勢家の法、寺院法、幕府法の三者をふくむ)と形式的に類別されている諸法圏*5を起請という語をキーとして相互に浸透し、影響しあうなかで変容していくものととらえようとした。水野は「様々なレベルの起請の存在が証明されただけである」とするが、ともかく国家法(新制など)においても、国衙法においても、荘園法においても、起請という形式が取られていることは、一応、明示できたと考えている。もとより、この指摘にまだ十分な網羅性と説得性がないことも事実であり、これについては今後、さらに努力をすることで責めをおいたいと考えている。
「負名」と「班田=散田」
 次は、第二章・第三章であるが、水野は郡司刀禰集団からの国内名士の析出、そして地頭領主制の形成へという拙論の見通しについて「事実関係を明確にすることよりも、論点相互の関連づけに力点が置かれているため、事実認定に必ずしも説得力がともなわない」として、「官物率法・負名体制・利田・地頭の位置づけなど、研究史上の明確な対立点が存在している場合でも、保立氏の論と適合する限りで組み込まれ、論証を通じて見解の対立を解消しようとする努力はみられない」という。収納に関係する「官物率法」については別として、あとの「負名体制・利田・地頭」は、平安時代の社会経済史研究において明確な対立点が存在する問題である。それにも関わらず、報告ではたしかに論点相互の関連づけに力点を置いたために、学説対立と史料解釈の内部に入りこんで議論を立てる余裕はなかった。そこで、この「負名」・「利田」・「地頭」の三つの論点のうち、今回、論文を著書に収めるにあたって、まず「利田」については必要な追補を行った。基本部分が変わった訳ではないが、現在の私見は、これによって批判をいただければ幸いである。そして、最後の「地頭」については報告後ずっと考え続けてきた問題であり、本書全体で改めて論じることになった。この二つについては以上をもって弁疏に代えたいと思う。
 問題は、戸田芳実の提唱した「負名体制」論をどう考えるかである。これについては、本論で述べたように、戸田の見解に対して、村井康彦が班田収授制が崩壊した段階で、耕作関係を年毎に確認する煩瑣な事務手続きがとれる筈はないという批判を展開し、また永原慶二は戸田の相対的に自由な契約という理解を批判し、公田請作は土地占有関係が国家的土地所有制によって強く規制されていたことを示すとしたことは本論で述べた通りである。そもそも、これは、本来は七~九世紀における「班田収受制」なるものが、どのように「負名体制」になっていったということから考えるべき問題であって、私の力量では現在のところ、水野の要求するレヴェルの議論を展開するのは不可能である。
 ただ、報告以降、私は、第一に、戸田が負名体制論と表裏の関係をもって展開した「かたあらし農法」論について、その趣旨の基本的な正しさを確認しつつも、戸田の立論には大山喬平とくらべて水田農法の農法的特徴としての灌漑管理とそれに関わって現れる水田労働の特質への顧慮が十分でないという見解をもつにいたった*6。また八・九・一〇世紀の激しい温暖化と干魃・飢饉・疫病の問題のなかでは、それを乗り越えるための灌漑水路付設その他のための共同労働や村落的な抵抗運動の位置がきわめて大きいことを痛感した*7。戸田の負名体制論が、やや個別経営の諸側面を重視する議論となっていたことはいなめないであろう。戸田はそれを自覚しており、それを突破するために「10~13世紀の農業労働と村落」を執筆したのであるが、この論文にも、その問題点は明瞭に残っている。
 第二は、負名体制論にとってもう一つの前提であった戸田の散田論についてである。戸田はこれを基本的には個別経営の成長にもとづく新しい土地制度の形成という文脈でみていたように思う。その全体を否定するわけではないが、しかし、注意すべきことは、戸田自身が八五二年(仁寿二)の太政官符などを引用して論じているように、国家的な勧農のシステム自体は基本的に同一の論理で展開していることである*8。過渡期の制度分析がきわめて困難であることもあって、これまで「班田」と「散田」はまったく異なるものと考えられがちであったが、ここから考えるとむしろもっと連続性を考えてよいのではないだろうか。とくに『類聚名義抄』に「折・班・散・頒、アカツ」とあって、「班」も「散」も「あがつ」と読んだことが重要であろう(『日本国語大辞典』(小学館)、『字訓』(平凡社)、『古語大鑑』(東京大学出版会)の「あかつ」の項を参照)。「令散田於諸田堵亦了」などという一節は「田を田堵に散(あが)たしめまた了」と読んだのである(承平二年八月五日大嘗官符案、『平』四五六〇)。
 なお、散田には、この「あがつ」の意味とともに、荒れた田地あるいは分散した田地という意味も一貫して存在した。たとえば一一一二年(天永三)の大和国広瀬荘使解は「散田・町田」として分散した田地と「町田」(満町坪のこと)を対比している(『平』一七七九)。そして、八四二年(承和九)の因幡国高庭荘預解にみえる「散田」という言葉は「散田」という用語の初見であるが、これは「得田」との対比において損田という意味であらわれている(『平』七三)。「班田」ではなく、「散田」という用語が使われるようになる上で、「散」には「あかつ」と「散らばった」という二重の意味があったことが大きかったのではないだろうか。つまりすでに散田という用語の登場の時から、「散」の「分散した、重要でない」というような状態をあらわす語義と、「配る、頒つ」という個々に処理するという営為をあらわす語義が融合・二重化して使用されているのである。後に「能悪を相交へ散田」(『平』一七四九)、「暗(そら)に膄迫の地を度り」(『新猿楽記』)などといわれる田地の豊度の判断もふくめ、この作業の手間や散文性を、この「散田」という言葉で一挙に表現したものであろうか。手間の中心が「満作」をめざして行われる耕作強制であったために、状態としての「散田」が強く意識されたと考えておきたい。
 もちろん、班田収受においては、その六年一班制はその前年の十一月から翌年五月までのうちに造籍することと結びついており(六年一造)、この点で大きく違っているが、班田の季節は収穫後の十月から田文の授造を開始し、翌年二月に終えることとなっており、散田の季節と大きく異なる訳ではない。造籍の問題を別とすれば、負名の散田請作は毎春のこととなっており、村井の言に反して、これは田地の収授=散田と請作がより日常的でシステム化された管理をうけるようになっていたことを表現するといってよい。戸田は東大寺領阿波国新島・勝浦・枚方などの荘園の九八七年(寛和三)の「当年散田之務」を行う使者が、その「春時各進請文」の処置を二月に行った様子を復元し(『平』三二五号)、「当年散田の実質的作業は、現地の荘官・刀禰らによって行われていたはずである。寺家符を帯びて巡回する寺家使は、その確認と公的際かが主たる任務であり、その上に(中略)高次の決済の職務があったのではないかと私は考えている」と論じている*9。ようするに寺家使がまわってくる前に実質的な作業を現地で遂行するシステムがあったのである。ともあれ私は戸田と村井のあいだの論争については依然として戸田の側に賛同したいと考えている*10。
起請と神社
 水野の批判はさらに続く。それは起請の地域社会における位置づけに関わっている。まず応答しなければならないのは、右にふれた散田論に直接に関係することであるが、「春時起請の実態はほとんど不明といってよい。保立氏は春時起請から春時祭田を導き、そこから氏神祭、郡郷司刀禰の氏族的行事へと論を展開するが、それは言葉のイメージによる結びつけにすぎない」という厳しい指摘である。
 そもそも史料が少ないのだが、「春時起請」の実態が不明であるという指摘は認めざるをえない。しかも春時起請の史料は一〇六〇年のものであるが、これを一〇一二年の寛弘和泉国符案段階にさかのぼらせ、それによって一〇世紀の負名体制を理解しよう、そしてそれを「春時祭田」に結びつけようという推論に確証はない。しかし、一〇六〇年の近江愛智荘司解の「春時起請」についての入間田宣夫の解釈が正しいとすれば、それが九世紀段階までは実態として存在したことは認めてよいであろう。はやく荒木敏夫は八・九世紀の農法分析のなかで「営田貴賎、元春三箇月之間、苗子下共競作為常」という史料に着目し、「春の祭礼への古代農民の参加は必然的であったとみなければならない」と結論しており*11、「春時祭田」に結びつけるのが「言葉のイメージによる結びつけ」に過ぎないとは、私は考えない。もちろん、それを「氏族的関係」とするのは私見であることは認めざるをえないが、これについても、「負名」という用語は本来は氏族の職掌身分が土地化したものであるという戸田の指摘、さらにこの推論の根拠論文としてあげた「巨柱神話と天道花」(『物語の中世』)をひきついで考えを詰めていきたい。
 ただ、ここで念のために追加しておきたいのは、この「春時起請」段階に請作する側の申請文書・起請文書が確認できないからといって、平安時代前期の地域社会において起請という行為自体がなかったとは考えられないことである。入間田が明らかにした「春時起請」は特定の集会・儀式への身体的・音声的参加を表現するものと考える。先にふれた村上宮廷における殿上起請は「舌なき」という音がによって行われた。『今昔物語集』(世俗)にはほかに誓言の用例が四箇所ほどみえ、平安時代の前期から起請行為が誓言によってなされたことは明らかである。なお、検注における「川成」の申請において「誓言」が証拠として採用される場合があったことについては久安四年四月二八日美濃国茜部荘の公文宗時が「称川成及誓言」という事例によって確認できる。もちろん、公文宗時は俗人でありながら僧名をもって署名し、「御地子祭文、凡不可信受」という一筋縄ではいかない人物ではあるが、そういう人物でも祭文を書き、誓言をしたということは、逆に土地支配において誓言・祭文が頻用されたことを示すだろう(『平』二六四五)。さらに誓言が証言としての意味をもった例としては『平』(二九一九、三一九九、三二〇二)などを参照されたい。
 これらは入間田もかかげている史料なので報告では提示しなかったが、千々和到がいうように起請文の段階においても、その背景には誓言の「音声の世界」が確実に存在したことは明らかである(千々和「中世民衆の意識と思想」(『一揆』4、東京大学出版会、一九八一年)。佐藤進一『古文書学入門』(法政大学出版会)がいうように、起請文は文書様式としては、制規としての起請と自己呪詛文言をふくむ祭文があわさって平安時代後期に成立したものであるが、しかし、その前提には平安時代前期における広汎な誓言の風習の成立があったものと考えたい。
これを考えるためには、入間田がかって行った起請文の形式をとらず、相対的に早い時期に属する在地的な起請文言を検討する作業をもう一度行う必要があるが、さらに最近、近江国塩津遺跡から出土した総計五五点の起請札木簡の精細な点検も必要となっている。つまり濱修によれば*12、これらの起請木札は最大のもので二・二メートルもあり、そのうち年記のあるものは「保延三年(一一三七年)」「保元二年(一一五七年、二点)」「平治元年(一一五九年、三点)」「永暦元年(一一六〇年、四点)」の八点にのぼる。保延三年のそれは従来、起請文の初見とされていた久安四年(一一四八年)の三春是行起請文(『平』二六四四)を一一年さかのぼるものである。そして、この木簡は墨痕の状況からして「数年間は日が当たり、そしてあまり雨の当たらないところにおかれていた」「神社での祭事後、社殿や門、塀などの建物の周りに立てかけられ」「祈祷が満了した後、神社の周囲の堀へ廃棄した」ものと考えられるという。また「堀の埋土からは土師器皿や塗椀・箸などの食膳具が多く出土し」ていることから「起請札木簡は祭壇の前で起請者が読み上げ、饗宴を行い」という手続きがあったことが想定されている。これはまさに、『平時範記』に描かれた一宮での利田起請の場を彷彿とさせる事実であろう。
 そして、報告で参照したように、笠松が鎌倉幕府法二九四条(『中世法制史料集』巻一)と弘長三年四月三〇日の神祇官下文(『中世政治社会思想』(下))をつき合わせることによって明らかにした問題、つまり起請文を書くにあたって、領主が「祭物料」「打敷用途」(さらに公人の間食)などを取ったという問題に直結している。笠松は、このような風習の原型を佐藤進一『古文書学入門』のいう祭壇をもうけて供物を捧げる祭文の風習に求めたのであるが、これが現物によって確証されたということになる。
 なお、これらの起請文木札の内容として「米・負荷の魚」などに関わる「盗み」に関わる誓言がある。盗犯に関する誓言が民間法の基本をなすのは、たとえばレークス・サリカなどでも同様であって、これが神社において行われたというのは本論の趣旨からいってきわめて重大である。つまり、生土の氏神神社が、平安期における誓言・起請の場として一貫して存在したのではないかという想定を、これは間接的にではあれ示す事実ではないだろうか。もとより、この問題は平安期の地域神社をどう評価するかという問題に関わっており、容易に結論をうることができることではないが、そこに公田請作における「春時起請」の場を求めることもあながちに無理ではないと考えるものである。
 なお、ここでその関係で付け加えておきたいのは、一一九二年(建久三)の伊勢神宮神領注文(『鎌倉遺文』六一四)に各地の荘園・御厨の関係で大量に登場する「起請雑用」なるものの評価である。平安時代には伊勢神宮に寄進された荘園・御厨の史料は多いが、たとえば一一二一年(保安二)に大江仲子(仮名山口得丸)が遠江国小高御厨の上分米を寄進した貢進文が「起請文」といわれているように、寄進に際しては起請行為が行われるのが一般であった(『平』二二一一)。この上分米はその後に沙汰がなかったが、新たに新少納言某が上分米を寄進し、その際には仲子の寄進状=起請文が改められるとともに新たな起請が寄進者の新少納言某の使者を迎えて行われている。この手続きでは、起請文は一般に二通納められ、一通は神宮に納められ(おそらく神宮「宝前」にであろう)、一通は寄進者に返進されたというが、受付の文言が記されていたであろう。他の例によると寄進の起請状には「(神宮)庁判」が捺されて返却されており(『平』三一四八)、またその寄進状に「国司免判を請調える」こともあったようである(『平』三三九五)。
 この小高御厨の場合は実際に使者が来ている訳であるが、そのような機会に「起請雑用」、つまり笠松が明らかにした「祭物料」「打敷用途」が神宮に対して収められ、かつは饗宴なども行われたに相違ない。問題は、右の伊勢神宮神領注文に記された起請雑用がしばしば「三百文別進起請米」「別進起請雑用米八斗」などとあって毎年進納されていることである。これは、毎年、寄進=起請関係を確認する儀礼を行い神祭を行うという名目の許に上進されているものではないだろうか。小高御厨の場合、伊勢神宮神領注文には内宮・外宮におのおの御贄米六石、「雑用」三十石が記載されているが、この「雑用」(あるいはその一部が)が起請雑用にあたるものであろう。
 このような起請雑用が毎年納められた理由は、もとより毎年、神祭を行うことにあったとはいえ、たとえば下総国相馬御厨が千葉経繁によって寄進された後、何度も領有関係をめぐる相論があったことでわかるように(『平』三三九五など)、毎年起請関係を確認することは、いわゆる「永起請」として起請者の地位を確保するためには必須であったに違いない。「永起請」とはいわば「永作手」と同じような言葉であると思う。熊野の神人が熊野神物の出挙によって神社経済を活性化させたことはよく知られているが、それと同時に、御師や(後には)おそらく熊野比丘尼などの手で熊野牛王が護符として列島に広く流通したのであろう。それに対して、伊勢の起請のネットワークは、一種の宗教的な土地の領有保証の機能をもって広く列島に張り巡らせられたものと考えたい。このような大神社の起請のネットワークが一宮を中心とした各国の起請のネットワークに接続していたのではないだろうか。武士は検断得分という形で身分収入をもっていたが、それを検断経済というとすると、こういう神社経済のあり方は起請経済とでもいうべきものであるように思う。
おわりに――富豪相論と領主制論について
 さて、水野の批判のうちで、私にとってもっともきびしかったのは、「国衙は平安期の荘園制を考える場合の重要なポイントである。郡郷司刀禰・国内名士・古老・地頭の相互の関係などは、報告の中でもっとも私の理解しにくい部分の一つであったが、それも九世紀以来の自己運動の中で説明し、国衙および百姓以下との関係が掴みにくいからではないかと思われた。保立報告のいう在地とは在地領主制の展開する場としての在地としか聞こえず、百姓以下の存在はすべて郡司らの背後に埋没している」在地にへばりついて村落や荘園を考えてきた私にとって、保立報告は共感できる点が少なかった」という部分であった。
 石母田――戸田・河音の領主制論の見通しにそって研究を続け、いまでも、その基本部分は正当であると考えている私にとっては、これに答えるのは容易なことではない。それはこの問題が、本質的には富豪層から「私営田領主」(戸田の問題提起をうけた私の用語では留住領主)への変化を跡づけることによってしか解明できない問題であり、その意味では八世紀史からの見通しを前提に石母田・戸田・河音による領主制成立史論を再検討するという問題だからである。
 その意味で、以下はあくまでも中間的な報告に過ぎず、しかもふたたび戸田のシェーマに依存することにはなるが、刀禰的階層をとらえ返すことによって若干なりとも研究の方向が明らかになるのではないかと考えている。つまり、先に散田の実質的作業は、現地の荘官・刀禰らによって行われていたという戸田の見解を引用したが、戸田は散田を考える上での基礎となる「田刀=田堵」の性格についても、本論でふれたように、それを「田刀禰」の略称と考えていた。これについては、はやく原秀三郎「田使と田堵と農民」(『日本史研究』八〇号、一九六五年)が林屋辰三郎の一九五五年度京都大学講義の趣旨として紹介しているが、戸田は論文「律令制からの解放」でその趣旨をくわしく述べたのである*13。この関係では、田中禎昭が、出土木簡史料によって、戸田の田刀・刀禰・刀自や「佃人」についての議論を確証したことが特筆される*14。私も、それにかかわって、「田刀」から「田堵」への変化が「庄長――庄子」が「庄司――住人」と変化する過程と同時的なものであることを示した*15。さらに重要なのは、西山良平がこの「刀禰=散位」的な存在、つまり「有官・無職」について論じ、この階層こそが九世紀における社会構成の変化において決定的な位置をもっていると論じたことである*16。尾野善裕の陶器生産についての分析では、ほぼ同じような階層が手工業生産においても活動していたことが明瞭になっている*17。
 「富豪層」という用語を使い続けるかどうかは別として、これらの仕事によって律令国家からの在地秩序の移行のイメージが明瞭になってきたことは明らかであろう。そして、そのイメージは、全体として戸田の予測にそって適合的なものであると思う。ともかく問題はすべて移行論にかかってくるのである。私としては、その上で、さらに今後詰めて考えてみたいのは、『かぐや姫と王権神話』で論じた「富豪」という用語の語義論である。つまり、『竹取物語』において、豊かになった翁は「勢猛の者になりにけり」とされるが、これは文脈上、「富」の上にさらに「勢」をもったという意味である。そもそも、「富豪」という言葉は経済的な富の側面からのみ解釈されることが多いが、「富豪」とは「豊か」であると同時に「豪」(つよい)、つまり勢いがあるということを含むのである。そしてこの富豪が「勢家」としてもつ社会的勢力を具体的に検討するそのためには、結局、本論で述べたように、「散位(とね)」「文武散位」の国例による「公役」への動員を検討し、富豪が地域社会の実力を握っていく過程を追究することが必要であろう。国例・国衙法は富豪の社会的勢力を吸収する機能をもっていたのであり、こうして問題は、法史論に戻っていくのである。なお、この問題は黒田俊雄のいう「権門勢家」の語の理解の再検討と関わっており、平安時代史の全体に関わってくることは、上記小著で詳しく述べたので御参照いただければ幸いである*18。
 もとより、こういう研究方向では、百姓以下の存在はやはり富豪と領主のかげに隠れてしまって、その実態に光りをあてることはできないというのが水野の批判ではあろう。そもそも、領主制論は、結局のところ支配層の観察であるから民衆の歴史的実態を明らかにすることはできないのは明らかである。しかし、問題が八世紀段階から連続している以上、これらの手続きをふむことなしには実在した歴史社会の中での民衆の姿とその変容を明らかにすることはできないのではないかと思う。平安時代史研究において領主制論的な方法論の影響が消えてからすでに長い時間が経ったが、それが実際上は、平安時代史研究から民衆への視座が消えていくのと同じ過程であったのではないかというのが私などの実感である。
*1「内裏清涼殿と宮廷説話」(『物語の中世』講談社学術文庫、初出一九九六年
*2山岸常人「紙を押すことーー中世寺院生活の一側面」(『日本建築学会大会学術講演梗概集』(関東)一九九三年九月)
*3佐藤進一「合議と専制」(『日本中世史論集』岩波書店、初出一九八八年
*4藤田勇『法と経済の一般理論』日本評論社、一九七四年
*5石母田正「古代法」『石母田正著作集』第八巻、初出一九六二年
*6保立「和歌史料と水田稲作社会」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年)
*7保立『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書、二〇〇二年)
*8戸田「中世成立期の所有と経営について」「中世文化形成の前提」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店、一九七六年)
*9【追記】戸田「一〇~一三世紀の農業労働と村落」(『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、一九九一年)。
*10村井見解については戸田「書評、泉谷康夫著『律令制度崩壊過程の研究』」(『史林』五八―五、一九七五年)が、ほぼ同一の見解に立つ泉谷の見解とあわせて反批判している。戸田はそこで「当時の国衙(在庁・郡司の機構)はその必要とする特定の行政的実務能力と諸手段を備えていた(必要ならば煩瑣な事務手続きもとることができた)のであって、春時の利田請文を提出させる”勧農”は、検田・収納とならんで主要な国衙行政の一つであった。だから事務能力低下論による否定は論外である」としている。この事務能力否定論に対する批判は佐藤泰弘「国の検田」(同『日本中世の黎明』京都大学学術出版会、二〇〇一年)によって継承され、佐藤は検田論を素材として一〇世紀以降の国衙が「きわめて現実的な収取制度を構築した」ことが明らかにした。ただ、佐藤は、村井・泉谷による戸田の「公田請作」論批判について、戸田の「利田請文」論や伊賀国黒田庄の国衙関係史料の理解に関わって、それを承認している。本論で述べたようにたしかに戸田の「利田請文」論には問題があるが、「春時起請」の理解そのものについては、つまり論の大枠については、戸田の見解はいまだに有効であると考えている。
*11荒木敏夫「8・9世紀の在地社会の構造と人民」(『歴史学研究』一九七四年度大会別冊)
*12濱修「塩津港遺跡出土の起請文木札について」(『古代地方木簡の世紀』財団法人滋賀県文化財保護協会、二〇〇八年)、同「史料紹介 滋賀県塩津港遺跡出土の起請文札」(『古代文化』五七三号、二〇〇八年)
*13戸田芳実「律令制からの解放」(『日本中世の民衆と領主』、原論文は『土一揆と内乱』三省堂、一九七五年)。
*14田中禎昭「日本古代の在地社会と王権」(『歴史学研究』六七七号、一九九五年度大会報告特集)。なお田中の議論が戸田の仮説を確証したというのは私見である。
*15保立「和歌史料と水田稲作社会」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、二〇〇四年)
*16西山「平安京と周辺農村」(『新版古代の日本』⑥近畿Ⅱ、角川書店、一九九一年)。なおこの西山論文は報告時にすでに活字になっていたものであったが、言及することができなかったことは重大なミスであった。
*17尾野善裕「古代尾張における施釉陶器生産と歴史的背景」(『新修名古屋市史 資料編 考古2』二〇一三年)。
*18黒田俊雄は、権門を「特権的・非制度的な方法で、国政上に権勢をふるう私的な門閥」という意味でとらえて、「権門・勢家」を区別せずに、平安時代以降の国家の体制を「権門体制」と呼ぶことを提案している(黒田「中世の国家と天皇」『黒田俊雄著作集』第一巻、初出一九六三年)。しかし、「権門」は国家の「権=ハカリゴト」を握り、国家意思の中枢を指揮する貴族であってただの「勢家」とは異なっている。黒田が「権」の「ハカリ・ハカリゴト」の側面、「権門」の「公的・制度的」語義を見逃し、それを「勢家」と等置して、私的あるいは封建的な性格をもつものとしたのは正しくない。

 

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