社会史研究から歴史知識学へ

社会史研究から歴史知識学へ  保立道久
都立大での話し。『メトロポリタン史学』より。


はじめに
 社会史研究といっても、ここではだいたい日本の平安時代から室町時代を対象として展開したそれに話題を限りますが、そういう限定をつけた上でも、社会史研究というのはきわめて多義的な言葉でした。その共通性は、政治や経済ではなく、それらの諸関係の具体的な総合として目の前に存在する「社会」、そしてそこに取り込まれている人間の具体相を描き出すことに集中しようとする傾向とでもいえるでしょうか。しかし、それは、ごく曖昧なものにとどまります。
 社会史研究は、その対象についてすら十分な一致はなく、研究方法となればそれこそ多種多様でした。私は、以前、社会史というのは、歴史史料に表現された人々の意識や観念それ自身に注目することによって、それにそくして歴史事象を横断的に取り扱う総合的な歴史現象学の方法を意味すると論じたことがあります(「日本中世社会史研究の方法と課題」『歴史評論』500号、1991年)。社会史の道を通じて全体史へという主張も行われました(二宮宏之『全体をみる眼と歴史家』)。しかし、結局、その実践は不十分で方法論議も低調なままに終わりました。それ故に、現在からみれば、多くの研究者にとって社会史とは何であったかはわかりにくくなっていると思います。それは無理もないのかもしれません。
 ただ、その動向に関わったものとして、私の感じ方をいわせていただければ、そこには社会の日常性を批判する、社会的な自然にまとわりつくフェティシズムを批判するという意図がありました。そして、社会生活・民衆生活の実際に踏み込んで問題を立てていこう、それこそが最終的に解明すべき、しかももっとも困難な仕事だという共通する意思・意欲も歴史家の間に生まれていたと思います。その説得力は相当なものでした。もちろん、それはおまえの主観的な希望であり、少なくとも、その意図が実現したとは思えないといわれればそれまでのことです。私も「社会史というのは、いわゆる社会構成史的な方法に対する否定という曖昧なムードを越えるものではなかった」「その流行の中で、専攻の時代や分野を越える方法的な議論それ自身が消失してしまった」といわざるをえないと考えています。しかし、それはそれとしても、社会史は、そのままで終わらせるにはあまりに貴重な経験であったのではないでしょうか。
Ⅰ社会史と戦後歴史学ーー天皇制論と「社会主義論」
 こういう文脈の中で、最近考えるようになったのは、社会史研究の背景に現代の日本王権あるいは天皇制の問題があったことの意味です。私自身の研究のルートの一つが、社会史の研究から平安時代政治史の研究に進むということだったのですが、考えてみれば、それも社会史の趨勢の中にあったのかもしれないと思います。そして、実は、この点は網野善彦さんがもっとも強調された点でしたので、そういう意味で今日の話しは網野さんの諸見解にふれる部分が多くなります。
 さて、社会構成論と天皇制論ということになれば、初心に立ち戻って、戦後歴史学論にもふれざるをえないのですが、いわゆる戦後歴史学において、現代とはロシア革命から開始する時代であると考えられていました。それ故に、戦後歴史学を考え直すためには(それは「戦後思想」全体を考え直すことと同じことですが)、結局、社会主義・社会主義論なるものをどう考えるかという立言がどうしても必要です。私は、それなしに何らかの意味のある議論が可能であるとは考えません。戦後歴史学は石母田正氏の「国家史のための前提について」という有名な講演以降、社会主義の問題、あるいはそういって悪ければ未来社会に関わる問題にふれるのを回避してきました。未来を口にし、文章にして語るのは網野さんだけといって過言でありませんでした。
 私も網野さんの意見にすべて賛成という訳ではありません。しかし、歴史学者が未来論に関わらず、明瞭な現代規定ももたないというのは常識的な職業観念からしても大きな問題があります。私は、しばらく前からのことですが、これについて、人類史における現代とはフランス革命における王権の暴力的な転倒によって政治的に宣言されたものであると考えるようになりました。遅塚忠躬さんが論じたように、フランス革命は、人類史上はじめて遂行された王権の根本的な顛倒でした(「フランス革命における国王処刑の意味」『フランス革命とヨーロッパ近代』同文館、一九九六年)。遅塚さんは、この王権の顛倒を「呪術からの解放」とするのですが、私はその淵源は自然科学によって支えられた近代合理論の登場、デカルトとフランス唯物論にあったと考えます。その意味では現代はやはり神なき時代、あるいはより正確にいえば呪物に対する拒否の時代である訳です。もちろん、それは呪物の凝縮ともいうべき貨幣と資本を生みだしたという矛盾を同時に抱え込んでいます。それらを含めて、私たちは依然としてフランス革命によって宣言された時代、現代の中にいる訳です。まさに遅塚さんがいわれた通りということになります(『フランス革命』岩波ジュニア新書)。
 この確認は20世紀を論ずる上で、きわめて重要な位置をもっています。つまり、そもそも、ロシア革命は「社会主義革命」である前に、フランス革命に続く、現代二度目の王権の暴力的転覆という側面をもっています。ロシア革命は、いわゆる「二段階革命」である前に、そのジャコバニズムにおいて、一九世紀ヨーロッパ史の全体的結果であり、フランス革命のヨーロッパ辺境への波及でした。社会主義の必然性云々よりも前に、その意味でこそロシア革命はひとつの必然であったのではないでしょうか。
 このような私見は、「社会主義」なるものを歴史主義的に了解・合理化するためのものではありません。そうではなく、王権と貴族社会、そしてそれと実質上結びついていた資産階級に対する暴力の合理化が、ここで繰り返されたことが二〇世紀の世界史にもった決定的な意味を重視したいということです。結局、この暴力が、ロシアを社会主義とは似て非なる社会構成、集団支配に根拠をおく全体主義的な社会構成に変質させ、その「社会主義」は、自己のテリトリーを排外主義的にもつ社会帝国主義となるとともに自己破産していった訳です。スターリンの犯罪性は明かとしても、それは、いわばフランス革命の呪い、王権の呪いといえるようなことであったと思います。また、こういう観点からみると、中国革命は、王政をなかば非暴力的に、合法的に廃止することに成功したという点では相対的にうまくいった革命であるというべきなのではないでしょうか。中国革命は、列強と日本の侵略を阻止し、広大な中国大陸の領土的統一性を維持したままで、ともかくも現在まで続いている訳です。たとえば文化大革命の問題性、そしてその「社会主義」の実態をどう考えるかは別として、ロシア革命と比較すれば、それはともかくも一つの成功した社会革命であったのではないか、それは歴史的には、清朝の王権としての性格に遠因しているのではないかなどとも考えるのです。
 要するに、ロシアと中国の「社会主義革命」の問題を考える場合、日本の歴史学者としては、それが現代における王権の運命を原点としていた点を確認するべきだと思うのです。その意味で、ロシアと中国の「社会主義革命」はけっして人ごとではないのです。私たちは、いわゆる戦後歴史学が「20世紀社会主義」に対する幻想をふっきれないままに過ぎたことを批判します。しかし、近代天皇制に対するラディカルな批判はロシア社会主義と中国革命を範型として遂行されたという経過は、なかばはやむをえないものであったと考えています。
 日本天皇制が、一九・二〇世紀において東アジアにおける戦争の拡大の中心となったことは厳粛な歴史的事実です。そして、日本天皇制は現代世界史の中で、そのような巨大な役割を果たした王権でありながら生き残った唯一の王権です。しかもこの天皇制絶対主義は敗戦によって、国際的にだけでなく、国内的にも自己破産しながら、それにもかわらず、戦後のアメリカ帝国主義を中心とする国際秩序の下で微妙なバランスの下に生き残り、きわめて珍しい王権、現代に生き残った最後の王権になったのです。このことを日本の歴史学はつねに正面に意識して進まなければなりません。日本の歴史学はこの希有な歴史的条件の中で生き残っている王権を研究するという独特な課題をおわされています。
 以上のような意味で、歴史学が日本の人文社会科学の中で、天皇制に対して、中江兆民以来の啓蒙史観を維持せざるをえなかったのは当然のことだったと思います。しかし、その上で、歴史学者は、そろそろ王権に対する単純なレパブリカン、ジャコバン主義から自由になるべきではないでしょうか。フランス革命以来の歴史的経験は、王権が歴史的な文化の中核あるいは看板として社会意識・社会心理の体系にふかく根付いていること、それ故に、それを解きほぐす過程なしに、王権の転覆を試みることは、しばしば余分なイデオロギー的な矛盾、そしてそれが社会的な利害と結びついた場合には過剰な憎悪の集中をもたらすことを示しています。王権は、それが強靱である場合も逆にもろい場合も、本質的に慎重な取り扱いを必要とするものです。現実の問題としても、すでに日本の現代天皇制は国家の主権的な中枢に位置する訳ではなく、それを君主制と規定することもできません。そういう中で、天皇制に対する諸見解の相違を強調するのではなく、それに対して穏当な歴史的常識を対置することを覚えていかねばならないのではないでしょうか。
 私が、こう考えたのにはいろいろな理由がありますが、近代の天皇制王権は、その社会基盤に前近代的で強力な抑圧性をもっていた反面で、一種の啓蒙的絶対主義として社会の近代化を推し進めたことも事実であったと思います。たしかに、それは非西欧社会において前近代的な統合の側面と資本制的近代化を結合することに成功したまれな事例でした。もちろん、誰も歴史家ならば、明治国家のとった脱亜論と帝国主義・植民地主義を無視しません。しかし、それが第二次世界大戦における破局的な惨禍をもたらす以前、国内的には成功した王権として一定の説得性をもっていたことを過小評価できないと思います。それを認めた上での批判が必要なのではないでしょうか。遅塚さんの『フランス革命』や和田春樹さんの『テロルと改革』(山川出版社、二〇〇五年)は、そういう論調を含んでいます。私は、この二冊を読んで震撼されました。
 以上、戦後歴史学論が長くなりましたが、その上で確認したいのは、冒頭に述べましたように、歴史学者の重要な仕事の一つとして、「社会」の日常性批判、社会的な自然にまとわりつくフェティシズム、呪物性の歴史的な批判があることです。そしてその社会の日常性、フェティシズムの中枢には、そこに内在化した歴史と文化がある訳ですから、根本にまで遡れば、我々は歴史社会批判を展開し、王権とそれを支える歴史文化を相対化し、歴史と文化をその正真正銘の疎外されていない全体像において取り戻す仕掛けをつくらねばなりません。そこで歴史学がどれだけ冷静な説得力をもてるかが勝負であろうと思います。私は、社会史の課題と王権論は、その意味でも深く関係する問題であったと考えるのです。
Ⅱ社会史の諸源泉と網野「無縁」論の位置
 私は、先述の「日本中世社会史研究の方法と展望」という文章を書いたのは、もう一五年ほど前になりますが、簡単にそこで述べたことを紹介しますと、まず、日本のいわゆる「中世史」の立場からすると、社会史研究には三つの源泉がありました。その第一は、70年代に人民闘争史研究といわれたもので、私などはまずその全面的な影響の下で歴史学の研究を開始しました。それは、身分論、民衆運動論、そして民衆意識研究などを内容としたもので、当時の歴史学研究会大会の報告、そして『日本民衆の歴史』(三省堂)、講座『一揆』(東大出版会)などの叢書に成果を残しています。それを社会史という研究動向の中で代表したのは、戸田芳実さんでしたが、戸田さんは自分では社会史とはいわず、むしろ民衆生活史、民衆の社会生活の研究といわれていました。戸田さんは、自分は後の整理はやったけれども、人民闘争史研究というのは本来は歴科協が言い出したことだけど責任をとらされたといっていたように記憶します。今から考えると、「戦後歴史学」の中での十分な一致がなかったように思いますし、この研究動向の最大の問題点は、人民闘争史といいながら、政治史、政治過程全体への研究を組織することができなかった点にあると思います。研究史の段階からいってやむをえなかったのですが、一種の早産でした。
 第二は、佐藤進一さんの学統に属する笠松宏至・勝俣鎮夫・石井進などの人々がになった歴史法学あるいは法民俗学的な視野をもった研究です。これは法意識論をふまえた歴史的な法分析で、そのだいたいの相貌は『中世の罪と罰』(東京大学出版会、一九八三)でしることができます。石母田さんと佐藤さんが中心になって編集した『中世政治社会思想』という本があるのですが、この本の中ではじめて中世法の本格的なコンメンタールが作られました。このグループはその共同研究から出発しましたから、研究状況をそばでみたものでないとわからないかもしれませんが、その説得力たるやものすごいものでした。これは戦後の学問史でいえば、歴史学が法社会学にはじめて本格的に対応したということだというのが私の意見です。ただ、彼らは法学者ではなく、あくまでも歴史学者ですから、概念史などの方法展開を意図しませんでした。そしてそもそも自分たちのことを社会史と自称しませんでした。
 第三が網野善彦さんの仕事です。網野さんの仕事のベースは、非農業的な社会的分業論と境界領域論にあります。くわしくは昨年の秋に名古屋で行われた追悼講演会で「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」(『中世史研究』三二号、二〇〇七年)と題してはなしましたので、それを参照していただくほかないのですが、その議論の基本は、日本社会の基底に「原始・無縁」を発見し、王権が境界領域に対する公共的領有を擬似的に代表するという把握です。報告で述べましたように、これは実質上、石母田さんの議論と切り合ったところで発想されています。所有論的には下記の図式です。

│  │従属的(階級的) │  │自立的(勤労│
│ │ │ │的) │
│集団所有 │①集団支配 │  │②共同性 │
│ │ │ │ │
│  │境界的所有 │(「庭」的所有、「無所有」)│
│  │(1)自然的テリトリー所有(山野河海)│  │
│  │(2)社会的テリトリー所有(市庭・縄張り) │
│私的所有 │③私的支配 │  │④自由な個性│
│ │ │ │ │


 この図式のうち、外枠部分は戸田さんによったものですが、構造的所有となずけました。ふつうは、私的所有というと私的な階級的所有、集団所有というと勤労的な共同所有のみが注目されます。つまり③と②のみが注目されますが、①の階級的集団支配、④の小経営的な自立的所有に注目しなければならないというのが戸田さんの議論です。こういうように所有形態をおもいきってとらえ直すことで、たとえば20世紀の自称社会主義は階級的・敵対的な集団的な社会構成であったという把握が可能になりますし、社会構成体の中軸をなす所有のとらえ方を柔軟化することができると思います。その上で、網野さんの議論は、構造的な所有のみでなく、この図でいうと内側になりますが、境界領域に対する所有・領有に注目することによって、さらに具体的な社会構成体のとらえ方を可能にしたと考えています。
 共同体と共同体の間の世界、集団所有と私的所有の境界、階級的所有と勤労的所有の境界、自然と人間の境界、その他さまざまな境界領域のあり方を具体的に描き出していく切り口が網野さんによって大規模に提供された訳で、これは社会史研究の中でももっとも体系的な議論であったと考えます。いうまでもなく、このような方向に網野さんの研究が進んだのは、最初は庄園研究に手をつけながら、しかし、実際上の研究を漁業史研究からやり直したという研究経歴によるものです。その延長線上でいわゆる社会的分業の問題が本質的な研究対象となった訳です。ふつう、庄園史研究の専門家は、しばしば庄民の立場から、つまりは下側から構造化された所有をみていく立場を確保しようとします。どのような歴史段階でも庶民の方が多数者であるにも関わらず、直接の史料はそれを語らない訳ですから、庶民の立場から歴史をみようというのは、少なくとも最終的な結論としては、プロの研究者としては当然の挑戦です。網野さんの場合は、そのような意志も人一倍強いと思いますが、それのみでなく、社会的分業の場、境界領域に注目することによって、いわば構造的所有を横からみる、横から見てそれを相対化してしまうという視座を確保した訳です。これによって社会関係を立体的・具体的にとらえていくやり方のようなものを確保したことが網野さんにとってはたいへんに大きかった訳です。実は、網野さんも自分のやっていることを社会史であるとはいわれなかったのですが、この点では、網野さんの仕事は、たしかにいわゆる社会史であったといえると思います。
 社会史研究というのは、新しい歴史学などといわれますが、以上から、そういう言い方はきわめて傍観者的な言い方であることがわかると思います。それは実際には、石母田さんの後を受けた何人かの研究者たち、戦後歴史学の第二世代、その実質的な開拓者たちが作り出したものでした。実際、社会史研究の中心的な推進者たちは誰も、自分の研究を社会史とはいわなかった訳です。社会史研究というのは長い研究経歴の中で、圧倒的な知識と経験を蓄積したプロの作り出したもので、私などはそのレヴェルを追っかけるだけで時間を過ごしてしまいました。しかし、いわせていただければ、これ自身が社会史の限界であった訳で、熟達したプロたちの作業というお手本にそって、そういうやり方が不手際ながらも一般化するとともに、独自な方法的な新鮮さは消失していくことになりました。
 そもそも、社会史研究は歴史現象学的な総合であるということは、要するに、無限にテーマがある訳で、やってもやってもきりがない。しかも、実際上は、おのおのの研究者の「頭のよさ」「手際のよさ」あるいは「感性」に依拠するところがあるということになると、いよいよ、なかなか共同研究を組織しにくい。しかも論文にしてしまえば当然のことにみえ、逆に論証の精度への不満のみ残るということでした。私などにとっては、なかなかつらい作業であったというのが正直なところです。
Ⅲ社会史的総合をどう引き継ぐかーー歴史知識学の提案
A現象学的方法の厳密化と歴史知識学
 以上の三つの源泉から生まれた社会史研究の成果はきわめて大きなものです。その実証的な成果は、少なくとも日本「中世史」研究にとっては、今後の基礎としてゆるがせにできないものです。「合い言葉」「パラダイム」が、これだけの影響をもったということはやはり刮目すべきことでした。この成果をどう引き継ぐべきかというのが次の問題です。
 さきほど申しましたように、社会史研究は、史料から個別に現象的な諸局面を抽出し、それを総合することによって史料の向こう側に存在する社会関係を復元しようとする訳ですが、しかし社会関係は無限に多様なものですから、どこまでも拡散してしまって、なかなか特定の歴史的イメージを結ばない、いわゆる全体史はかけ声だけで終わるという訳です。社会史研究はきわめて多様なものでしたから、それを引き継ぐという場合も多様な意見が可能であるということです。これは一筋縄ではいきません。
 そこで発想を逆転しようというのが、以下に述べる歴史知識学の構想です。つまり、逆に考えてみると、史料に表現される言語・意識は、特定のイデオロギー・知識体系を媒介として現象するものです。ですから、このイデオロギー・知識体系自身について検討することによって、いわば上から、その知識生産の中枢部から順序に知識体系を復元することに集中してみようという訳です。直接に史料の向こう側に存在する客体世界をとらえるというのではなくて、史料のこちら側、いわばその裏側にひっつくようにして影のように存在している主観的世界、知識の生産と記憶に関わる世界を系統的に復元する。史料の裏側にある世界はたしかに主観的なものではあるけれども、そこにもそれなりの秩序がある訳ですから、その秩序をとらえることによって、いわば自分自身が歴史的世界の内部にいるような「眼」を獲得することができないか。そして、そこで獲得された眼によって史料の向こう側に存在する客観的な歴史世界をのぞき込んでみようという訳です。
 こういう形で社会史の現象学的方法を精密化していくことが可能ではないかと思います。そして、実は、社会史の中にも、すでにこういう志向の原型となるものがありました。先ほどいいましたように、社会史研究の中には固有の方法は存在しなかったといわざるをえないのですが、しかし、ある種の共通点はありました。つまり、社会史研究は、戦後の歴史学が営々と積み重ねてきた史料の蒐集・翻刻・公開、そしてそれにもとづく新しいレヴェルの史料論的蓄積にささえられていました。それは(1)文献資料の網羅的分析、(2)史料範囲の拡大(絵画・考古史料など)、(3)語義論研究などによって代表されますが、社会史研究は、広い意味での史料論的な研究に依拠していたのです。史料の裏側にある知識体系を復元するということは、社会史研究において展開した史料論的研究を意識的に知識学の方向に発展させることによって可能となるのです。逆にいえば、史料の徹底的な分析、徹底的な史料批判によって、史料が不可避的にもっているバイアス、知識のあり方によって規制されるゆがみを析出してしまおう。歴史的な特徴をもった知識体系の全体の中にその史料自身を位置づけ、相対化することが可能となるような研究技術を意識的に鍛え上げよう。それに成功するならば、歴史知識学という研究分野を構想することができるのではないかというのが、私の意見です。
 もちろん、社会史研究を歴史知識学に発展させようという場合、史料論にのみ依拠しようというのではありません。知識学には知識学固有のディシプリンがありますので、次ぎに、これまでの研究史の中ですでに行われている提言について紹介したいと思います。
 最初のまとまった問題提起は、黒田俊雄「中世的知識体系の形成」(『黒田俊雄著作集』(第三巻)所収、原論文一九八三年発表)でした。この論文で、黒田さんは平安時代に形成された日本貴族社会における世俗的な知識体系の枠組みを「公事の知識体系」として描き出し、さらにそれが宗教的な知識体系(「顕密主義の知識体系」)によって補完されている様子を示しました。黒田さんは、具体的な分析を示す余裕がないままになくなりましたが、これは全知識体系を包括的にとらえようという提言として大事な意味をもっています。
 そして、この黒田さんの提言も意識しながら、具体的な議論の枠組みを作ったのは大隅和雄『事典の語る日本の歴史』(そしえて文庫、1988年)でした*1。大隅さんは、この本の「はしがき」で「思想史・文化史」の仕事について「一人一人の思想家や芸術家、一つ一つの古典や造形物などの研究がさまざまな様々な視点から行われる結果、数え切れないほどの研究成果がありながら、それらの相互の関係はなかなか明らかにならない」とのべ、そのような問題を解決するためにとして、次のように述べています。
「そのためには、一つの社会に存在する思想や文化を構造的にとらえることが必要であろう(中略)。ここで取り上げた問題は、思想や文化の中で、知識の集成と伝達ということに関するものといえよう。一つの社会を成り立たせ、それを維持してゆくには、さまざまな知識・情報とその伝達が必要である。知識・情報の伝え方には種々の方法があったから、ここで取り上げたのはその中で文字に関わりがあり、書物の形で広まっていった部分に関する問題でしかない。私はとくに類書、百科事典的なもので考えてみようとした」
 大隅さんの立脚点は、思想史・文化史にありますので、「知識の集成と伝達」の問題を「社会に存在する思想や文化を構造的にとらえる」という必要から論じていますが、この本で述べられていることは思想史・文化史のレヴェルにとどまることではありません。むしろ九世紀の菅原道真の編集した『類聚国史』からはじまって、明治時代の西村茂樹の発起にかかる『古事類苑』にいたるまでの「類書・百科事典」を題材として、日本における知的生産・知的活動の通史をあとづけるという性格のものとなっています。大隅さんの仕事は概説的な形をとっていますが、しかし、それは「百科事典的な書物を見ていくと、一つ一つの時代の人々の知識の範囲やものの考え方がわかることが多い」(五頁)という明瞭な方法意識を背景としています。よく知られているように、東アジアには中国で早くから作成されてきた「類書」の伝統があります。大隅さんの提言は、これを分析の切り口にした具体的な仕事を日本史の側からはじめて示したものということができます。
 さらにもう一つつけくわえておきたいのは最近の五味文彦さんや田島公さんの仕事です。五味さんの『書物の中世史』は多数の書物の作成年代、作成者を探り、その中から知識の生産と伝承、そしてそのネットワークを復元する手法を示すことに成功していますし、田島さんの「典籍の伝来と文庫」(『日本の時代史30』吉川弘文館所収)、「天皇家ゆかりの文庫・宝蔵の『目録学的研究』の成果と課題」(『説話文学研究』四一号、二〇〇六年)などの仕事は、王家や公家の文庫の変遷の全体を明らかにしつつあります。これは田島さんの用語ですと「目録学」ということになりますが、それによって明らかにされるのは、田島さんの表現によると、文庫が「古代や中世の知識体系の有機的なデータベース」として機能する様子です。「単なる情報でなく、世代を越えて受け継がれる『知識体系』の継承が、天皇家や公家の文庫に収蔵された蔵書群を媒介にして行われ、失われた『知識体系』や社会における『知のネットワーク』を復元する糸口が、それら文庫の蔵書目録、収蔵典籍の書写奥書(識語)、古典籍の貸与・書写・譲渡に関わる日記などに見える」という訳です。田島さんの仕事は「史料論から歴史知識学へ」という筋道の基礎作業に何が必要かを明瞭に描きだしているものであるといえます。そして、歴史家にとってとくに重要なのは、六国史・律令格式・儀式書などの「古典」が変形しながらも知識体系の中軸として維持された様子の解明に焦点を当たっていることです。これはいわば研究史上はじめての、あるいは大げさにいえば、本居宣長・上田秋成以来の本格的な「日本古典学」「日本学芸史」というべきものの構築の提案なのです。私は、そういう形で、以前の社会構成史論争とは異なった形で、各時代の歴史家が共通の議論をせざるをえないような舞台が用意されるのかもしれないと考えています。
B歴史知識学の方法と情報学。
 もっと多様な問題について議論をすることは、当面、手にあまりますので、ここで歴史知識学(Historical Epistemology)という用語をいちおう定義しておけば、それは体系的な史料論的研究に支えられて、知識体系を、知識の生産のあり方、記憶とその記録化、「類書」や文庫などの記憶装置の創出、さらにはその制度化の様相を法制や儀礼の中に探っていき、また「知識層」の再生産の構造をも明らかにしていくことなどによって、知識体系を構造的にとらえる一つの歴史学の分野であるということになるでしょうか。もちろん、ここには人文諸学のすべてが関わってきますので、実際にはきわめて学際的な分野として組織されるはずですが、歴史学はその中心的な組織者の役割をはたさなければなりませんから、少なくとも当面は、一つの歴史学の分野であるといっても問題はないと考えます。
 さて、史料に表現された言説は、知識体系をくぐっているはずですから、こういう視点によって史料の読みが深くなっていくことは、歴史家ならば誰でも知っていることです。それをことあたらしく歴史知識学などということに躊躇するところはありますが、しかし、歴史知識学という視点をすえて、より広い視野からとらえ直していくことが有用であることは否定できないと思います。たとえば、ヨーロッパ史におけるいわゆる概念史の方法との関係は、これによって確実に具体化できるでしょう。最近、ヨーロッパのテキスト科学の中で、プロソポグラフィといわれる精密な個人史的手法が一つの焦点となっていることも紹介されています(佐藤彰一『歴史書を読むーー歴史十書のテクスト科学』)。これは後にふれる歴史知識学の創成における個人史データのオントロギー的充実の課題に直結します。また、歴史知識学の本格的な構築のためには、これまでの歴史学にとって苦手な史料、たとえば宗教史料・典籍史料の分析をふかめなければなならないことはいうまでもありません。さらに知的生産の現実の舞台となるような広い世界、つまり東アジアの内部における「中国」「韓国」「日本」の相互交流を明らかにしなければならないでしょうし、それはいわば比較知識学というべき分野の開発に結びついていくはずです。
 しかし、ここで論じておきたいのは、より基礎的な問題、つまり歴史史料に使用される言語そのものの分析に情報学的な手法を利用することです。これは大学・研究機関などで共通する動向で、それを推進した直接の動機はさまざまでしたが、そろそろその方向が見え始めてきました。私も史料編纂所における情報学研究の組織化の中にまきこまれて、これまで活字本史料集の編纂のみでなく、フルテキストデータベースの構築の仕事に携わってきました。御承知のように、歴史学における情報学的手段の利用の先頭をきったのはベルギーのレオポール・ジェニコであったといってよいと思いますが、最初に『平安遺文』のフルテキストデータベースを構築した時の御手本は、彼の『歴史学の伝統と革新』(九州大学出版会、森本芳樹翻訳)でした。そこでジェニコが述べていたのは、要するに史料に登場する用語の徹底的な語義分析のためにはフルテクストデータベースとそれを利用したコンコーダンスの表示が必要であるということでした。語義はたしかに史料のコンテンツを単独で分析していても了解はできない訳で、むしろ史料のコンテキストの中で語義を分析するツールが必要であるという訳です。フルテキストデータベースによって、分析レヴェルをContentsからContextベースにまで拡大するということが直接の目標であった訳です。
 こうして、竹内理三先生などの著作権者の御協力もえて、史料編纂所のデータベースは、たとえば奈良時代・平安時代・鎌倉時代の活字化された古文書史料の基本部分を包摂するところにまで進みました。最近、刊行された『「鎌倉遺文」にみる中世のことば辞典』(東京堂出版、二〇〇七年)は、その目立った成果であるといってよいと思います。さきほど社会史研究というのは経験豊かなプロの仕事であったといいましたが、そのような経験のない研究者にも、フルテキストデータベースは、少なくとも研究の入り口をあたえることができるのです。
 そして、私たちが期待するのは、何よりもこれによって新しい研究の共同の方向が切り開かれることです。そのような共同研究を生みだすことなしに、フルテキストデータベースが、ただ断片的な知見をかき集めて手早く論文を作る手段になるというようなことがあってはなりません。いうまでもなく、それは学問方法論そのものの発展に関わってくる問題ですが、それに対応して情報学的な手段そのものも、単なるデータベースではなく、いわゆる歴史知識ベース(Knowledge-Base of History)というべきものに発展しなければならないというのが私たちの考え方です。
 この歴史知識ベースをささえる位置にあるのが、情報学の用語でいうオントロジーということになります。オントロジーというのは、いうまでもなく哲学的には、存在論ということで、認識論、知識学(エピステモロジー)に対応する位置にあります。しかし、情報学用語としてのOntologyとは、語彙の構造的な分類集成を意味するとでもいえばよいでしょうか。そのような語義構造論は、史料Contentsを個別史料のContextの中でとらえるのみでなく、Context相互の関連を(客体世界の存在論的な構造をふまえて)「知識」として情報化する中で形成されます。このようなOntologyは、人文系のコンピュータシステムにおいてまだ実装されたことはないので、具体的なイメージを作ることはむずかしい点がありますが、まずは地名・人名・官職名・「物」名などの基礎情報から組み上げていくことになるでしょう。たとえば人名データについては、系図、生存年、官職経歴、花押、筆跡(画像データ)など、地名データについて国名・群名・郷名・小字名・荘園名・産物・交通などを体系的に蓄積するシステムをコンピュータの中に作り出すことが最初の課題となります。史料編纂所では二〇〇六年から前近代日本史情報国際センターというセンターを開設しましたが、その第一の課題は、このような歴史情報の「知識」としての扱いを実現することに定められています。
 もちろん、Contents→Context→Ontologyという発展の最終的な目標が一般動詞、一般名詞、そして概念そのもののオントロギーにあることはいうまでもありません。そして、このようなフルテキストデータベースの利用者、オントロギーの利用者は、史料の保存や共有化、そしてデータベース化に自身の時間を使って貢献することが倫理的な義務となるはずですし、さらにそれらを利用して論文を執筆した場合は、その論文が明らかにした諸事実をデータベースとオントロジーに返戻していくことになるはずです。現状の学界にはデータベースというものを論理的・長期的に位置づける良識的な合意はなく、あたかもそれは社会的自然の一部のように提供されるものであるかのような感覚が存在している。それは学問の社会的責務を実際上は軽視する風潮と連動している。これはどうにかしなければならない。その意味で、すべてを情報学的な諸手段に期待しようということではないのですが、ともかくも、新しい共同のスタイルを作り出すことなしに専門化・細分化の道を歩んでいるようでは、歴史学はその力を取り戻すことはできないように思います。
C歴史情報論とコミュニケーション
 私は、歴史知識学は、このような情報学的手段なしに構想することはできないと考えるのですが、しかし、情報学は単に歴史学にとってのツールであるということではありません。歴史知識学は、情報学を手段として利用するのみでなく、歴史情報学によって支えられなければなりません。そして歴史知識学は、逆に、情報学に対して歴史的なコミュニケーション論を発展させるという形で貢献できるはずです。
 これについては西岡芳文「日本中世の情報と知識」(『歴史学研究』716号)や、保立「情報と記憶」(『アーカイヴズの科学』(上)、柏書房、二〇〇三年)を参照いただきたいと思いますが、簡単に私見を紹介しておきますと、まず情報は生活情報と社会的情報に区別することができます。そして、社会的情報の第一の形態は経済的情報ですが、それは「物」情報―技術情報―効用情報―価値情報(商品情報)という序列をもっているということができます。この序列が無文字情報から文字情報への展開に照応するものであることも注意すべき点です。マルクスによれば「貨幣」は「社会的象形文字」であるということですが、それはつねに文字情報を媒体としているはずです。そしてその上に社会的情報の第二の形態、つまりイデオロギー的情報が流通することになります。これをイデオロギー情報というのは、それがイデオロギーと知識体系を媒介として形成されるからであることはいうまでもありません。それは内容的には政治・法・文化などのすべてにわたる訳ですが、このイデオロギー情報が社会的実態に浸透して実体化・客体化したものがいわゆる上部構造ということになります。そして、このイデオロギー情報の領域こそが歴史知識学が役割をはたすべき固有の領域になるのですが、もちろん、それはあくまでも歴史知識学の分析の出発点であって、それはイデオロギー情報が経済的情報から生活情報にまで反作用していく言語的様相のすべてを総括するものでなければなりません。もちろん、歴史知識学はあくまでも歴史学の一分野であって、そのすべてを代位しようというものではありませんが、しかし、そういう視野をもたなければ歴史知識学は全体性をもちえないはずです。
 この問題の詳細は、右の拙稿を参照いただきたいと思いますが、前資本制社会の分析を担当する歴史学にとって何よりも重要なのは、この分析によってはじめて、当該社会における社会的分業の階級的中核をなす精神労働と肉体労働の分裂を復元的に分析することが最終的な課題としてみえてくることす。しかも、イデオロギー情報の分析を媒介として、歴史知識学は歴史経済学その他の研究領域と関わり、歴史社会の総体を解明する全体的な筋道をつけることができるはずです。
 もとより、以上は一つの試論にすぎません。しかし、歴史学の全体の中で歴史知識学はどういう役割を果たすのかという問いにこたえ、それを方法的な立場の相違をこえて共有することなしには、歴史学における情報学的な諸手段の利用や、歴史情報学の発展は、共同的な仕事として担保されることは不可能だろうと思います。
さいごにーー日常性批判
 こうして歴史知識学は、社会史が課題としたテーマごとにオントロジーを形成し、上部構造とイデオロギーの中枢部から社会の基層におりていき、精神労働と肉体労働の対立、それ故に、歴史社会の階級対立の構造、所有構造の全体を問い直す仕事に参加することになるはずです。それは情報学的にいえば、Epistemology→Ontology→Context→Contentsという下向分析の道になります。これによって、社会史が目ざした日常性批判のレヴェルを確保し、日常性を無意識に支えてしまうステロ化した歴史常識を破壊する役割をはたすことができるはずです。現代社会の中で、歴史学が、このような日常性批判の役割を求められていることは明かです。
 なお、最後になりますが、これは網野さんの王権ーー境界領域という問題提起にも応えるものになるはずです。つまり前掲の「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」でも述べましたように、境界領域は本質的に生産諸力の運動の場所であり、それ故に社会的分業の場です。ということは境界領域は社会的分業の中軸をなす精神労働と肉体労働の対立によって規定される場なのですが、その支配は、自然に対する社会的な開発行為という側面に加えて、全知識体系とイデオロギーの権威にもとづくという意味で、かならず強い公共性をもっています。もちろん、社会的な支配は前掲の図表でいえば、外枠をなす構造的な所有によって固定化されてヒエラルヒーとして聳立するのですが、しかし、境界領域を通ずるイデオロギー的な権力の作用は実質上はきわめて大きなもので、構造的所有にはらまれる強制とは異なる独自な仕方で全社会構造を規定することになります。「二〇世紀社会主義」なるものが集団的所有を基礎とした敵対性をもった社会であったと述べましたが、その場合に、このイデオロギー権力あるいは精神労働と肉体労働の対立の対立の問題が大きな位置をもったことはいうまでもありません。その意味で歴史知識学のはらむ問題はきわめて重大でもあるのです。
 戦後歴史学論に戻れば、それはたしかに精神の問題、より正確にいえば社会的分業論の基本をなす精神労働と肉体労働の対立の問題をとく方法を提示できていませんでした。私は、その意味では、それが機械論的な唯物論であるという批判も、いちがいに否定できないと考えています。そして、こういう状況の中で、社会史ー歴史知識学という迂回路はどうしても必要なものでした。そして、この歴史知識学にとっての試金石も、社会史と同様、境界領域と境界的所有という王権の固有の基盤を相対化し、それによって歴史的な日常生活批判を柔軟に、かつ説得力をもって展開していくことにあります。そこで社会史のリターンマッチがくめるかどうかは、まだまったく不明ですが、ともかくそれは歴史学の有効性を取り戻す一つのルートであると思うのです。

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