『ゲド戦記』の翻訳(2)

       清水さんの翻訳、ここはどうか

2011年3月 3日 (木)

 アーシュラ・K・ル・グィンの”Earthsea”シリーズ、『ゲド戦記』全5巻の最終巻「The Other Wind」を、このごろベッドでよく読む。
 『ゲド戦記』は子供たちが好きであったので、私も読んだ。もう15年ほど前になるのだろうか、『ゲド戦記・最後の書』とされた『テハヌー』がでて、それで終わりと、私も思っていた。
 ところが、その後、7・8年で、『Dragonfly』という新しい中編がでて、11年目に『The Other Wind』(日本語訳『アースシーの風』)という本当の結論編がでて、この”Earthsea”の世界のすべてが安着したという感じになった。たしかに、これで”Earthsea”の世界は、その全体の構造と歴史が明らかになったのである。こうして、話は、さらに読みやすくなったので、私のように繰り返して読むということになった人も多いに違いない。
 しばらく前も翻訳の間違いに気づいて、このブログに書いたが、以下も、同じ。翻訳の間違いをいうのは、(私の指摘が正しいかどうかの問題がまずあるし)、勝手に読んでいればいいということでもあるので、あまり感じのよいことではないと思うが、このシリーズは読んでいる人も多く、一種の共有財産でもあるので、趣味として指摘することはかまわないのではないかと思う。御許しいただきたい。

 さて、この物語は、龍と人間はもと同一の存在であって、龍は自由と空、人間は世俗と地上を選んだというファンタジーにもとづいている。この分離にともなって、世界は龍の領分と、人間の領分に分けられたが、よこしまに永生を望んだ魔法使いが、龍の領土をかすめ取り、そこを魔法の石壁で囲い込んだという。そこで永遠に人間は生きることができるはずであったが、その壁の中は光もささず、物が動くことはない、影の世界にしかすぎないことがわかった。そして、この詐取以降、死んだ人間は大気と大地の中に解放されるのではなく、ただの幽霊、スピリットとして固定されて、そこに居続けるということになっているというのが、物語の設定である。
 そのうち、必然的に死者たちが生者たちに呼びかける時がきて、この石壁を壊して欲しいという。最愛の妻を産褥でうしなったアルダーという男が、妻に呼びかけられ、石壁を越えて妻を抱擁し、やけどをおい、心身の危機をかかえる。
 他方、龍と人間の二重性をもった存在として、この世で生きたまま焼かれた経験をもつ少女、龍に転生した女性が登場し、彼女らが、分断された世界を修復する上で大きな役割をになうという物語のもう一つの動きが展開する。

 以上、こうまとめてみると、まったくの作り物語りのようで、荒唐無稽の感もあるが、こういう「世界分割」の謎という設定は、実は、この第五巻で明らかにされたものである。その前の四巻の物語は物語としての説得性があり、その上での五巻なので、物語を読んでいる中では荒唐無稽という感じはしない。しかも、上記の設定は、第五巻で、その背景としてはじめて説明されるものなので、一種の謎解きでもあり、フィクションとしての完成度はきわめて高いということができる。
 「焼かれた少女」の名前はテハヌーというが、私は、ベトナム戦争の時、背中に炎をしょって、アメリカ軍の爆撃から走って逃げてくる少女(当時はよく知られた写真であった)のことを思い出す。ル・グィンも彼女のイメージが焼き付いているのではないかと思うのが、同世代の感じ方。なお、この『ゲド戦記』の最終巻は、ル・グィンの近年の作品、『ギフト』などで完成されるフェミニズム・ファンタジーへの傾斜がきわめて高いもので、その点でも成功している。

 さて、翻訳の問題だが、この最終巻は清水真砂子氏の翻訳で岩波書店から『アースシーの風』という題で発行されている。これ以前の巻については、とくに変だなと感じることはなかったのだが、この巻の翻訳は、英語の方を先に読んでいたこともあってか、気になることが多い。

 下記に掲げたのは、物語の大団円に近いところ。世界を分割する石壁を越えた死者の声が人々に聞こえるようになった状況。そういう状況の中で、アルダー(ハンノキ殿)アルダーを囲んで魔法使いたちがいるという場面である。
 まず娘に入力してもらった英語の原文、ついで、娘の翻訳に私も手を加えさせてもらったもの、最後に清水さんの翻訳。

"I could reach my hand out to the wall," Gamble said in a very low voice, and Seppel said, "They are near, they are very near."
"How are we to know what we should do?" Onyx said.
Azver spoke into the silence that followed the question. "Once when my lord the Archmage was here with me in the Grove, he said to me he had spent his life learning how to choose to do what he had no choice but to do."
“I wish he were here now,” said Onyx.
“He’s done with doing,” the Doorkeeper murmured, smiling.
“But we’re not. We sit here talking on the edge of the precipice――we all know it.” Onyx looked round at their starlit faces. “What do the dead want of us?”
“What do the dragons want of us?” said Gamble. “These women who are dragons, dragons who are women――why are they here? Can we trust them?”
“Have we a choice?” said the Doorkeeper.
“I think not,” said the Patterner. A edge of hardness, a sword’s edge, had come into his voice. “We can only follow”
“Follow the dragons?” Gamble asked.
Azver shook his head. “Adler”
“But he’s no guide, Patterner!” said Gamble. “A village mender?”
Onyx said, “Adler has wisdom, but in his hands, not in his head. He follows his heart. Certainly he doesn’t seek to lead us.”
“Yet he was chosen from among us all.”「
“Who chose him?” Seppel asked softly.
The Patterner answered him: “The dead.”
They sat silent. The crickets’ trill had ceased. Two tall figures came towards them though the grass lit grey by starlight. “May Brand and I sit with you a while?” Lebannen said. “There is no sleep tonight.”

私たちの試訳
 「手を伸ばせば、石垣に触れるくらいでしたよ」。ガンブルが、ぐっと低い声でそういった。「近づいてきている。とても近くに」とセペルが応えた。
 「どうしたらよいでしょう」。オニキスが言った。
 押しだまった魔法使たちにむかって、アズバーは「大賢人(ゲド)がこの森にいらした時に、おっしゃったのは、なすべきことをどう選ぶか、それを学ぶ事に生涯をついやしてきた、と」
 「あの方が今ここにいたらどんなに良いか」。そうオニキスが言った。
 「あの方はもう、なずべき事を成就されましたから」。守りの長が、微笑みながら、そう呟いた。
 「私たちは、いま行動すべきなのにーー。ただ話している。危機はわかっているのに」オニキスはぐるりと周りを見渡し、星明かりに照らされた彼らの顔を見やった。「死者たちは、我々に何を望んでいるのでしょう?」
 「竜たちは、我々に何を望んでいるのでしょう?」。ガンブルがいった。「彼女たちは竜で、竜が女に姿を変えて――なぜ、ここにいるのです? 信用しても良いのでしょうか」
 「我々に選択の余地があるとでも?」守りの長が言った。
 「ない」と、様式の長が言う。その声には、硬い刃の切っ先のような鋭さがあった。「私たちにできるのは、ただついて行くだけだ」
 「竜に?」ガンブルが聞いた。
 アズバーが首を振った「ハンノキ殿に」
 「しかし、様式の長殿、村のまじない師に案内は無理です」とガンブルはいった。
 それに対してオニックスは「ハンノキ殿はかしこい方です。たんに知識のことではなく、手の知恵をお持ちです。とはいっても、彼は彼の心にしたがっているので、私たちをリードしようとはしないでしょうが」といった。
 「しかし、彼こそが選ばれた」
 「誰によってとおおしゃるのですか」とセペルがそっとたずねた。
 様式の長が、それに答えた。「死者たちに」。
 そのまま彼らは黙って座り込み、いつしかコオロギの声も途絶えていた。二つの大きな人影が、月明かりに銀鼠に輝く草をかき分け、こちらへと近づいてきた。「ブランドと私も、しばらくご一緒してよろしいでしょうか」。レバンネンが言った。「どうも今夜は、眠れそうにないようです」

清水真砂子氏の翻訳
 「手をのばしたら、石垣にさわりましたよ。」ガンブルがごくごく低い声で言った。
 「そうです、すぐそばまで来ているのです。」セペルが答えた。
 「どうすればいいのでしょう?」オニキスが言った。
 誰も答えなかった。と、アズバーが口を開いた。「昔、大賢人がこの森に来られたとき、大賢人はわたしにおっしゃいました。どうしてもしなければならないことをどうやって見分けるか、それを学ぶのに全生涯をかけてきた、と。」
 「あの方がここにいてくださったら。」オニキスが言った。
 「あの方はなすべきことをすでになしおえられました。」守りの長がつぶやいた。その顔には笑みが浮かんでいた。
 「それなのに、わたしたちはとりかかってもいない。危機に瀕しているというのに、こんなところにすわってしゃべっている。……そのことにはみんな気づいているはずなのに。」オニキスは星あかりに浮かぶ魔法使いたちの顔を見まわした。「死者たちはいったいわたしたちに何を求めているのです?」
 「竜たちは何を?」ガンブルが言った。「あの女たちは竜なんでしょう? 竜が女に姿を変えているんでしょう? なぜ、あの者たちはここにいるのです? だいたいあの者たちを信用していいんですか?」
 「この期におよんで、信用するかしないかが選べますかな?」守りの長がきいた。
 「それはできますまい。」様式の長が答えた。その言い方には固い剣の刃を思わせる鋭さがあった。「できるのはついていくことだけです。」
 「ついていくって、竜にですか?」ガンブルが聞いた。
 アズバーが首を横に振って、言った。「ハンノキ殿に。」
 「まさか、様式の長殿、ハンノキ殿に道案内は無理です。」ガンブルは言った。「あの人は田舎の修繕屋にすぎないじゃありませんか?」
 するとオニキスが言った。「ハンノキ殿には智恵があります。頭ではなく、その手に。ただ、ハンノキ殿はその心のおもむくところにしたがっておられる方だ。わたしたちの先に立つことは嫌なのでは?」
 「でも、みんなから選ばれたとおっしゃるんですね。」
 「誰が選んだのです?」セペルがそっときいた。
 「死者たちです。」様式の長が彼に答えて言った。
 一同は三たび沈黙した。コオロギの鳴き声もいつか聞こえなくなっていた。背の高いふたつの人影が星あかりに銀白色に輝く草をかきわけて、魔法使いたちのほうに近づいてきた。「しばらく同席させていただいてもよろしいですか、ブランドとわたしと。」レバンネンが言った。「今夜は眠れそうにないもので。」

 問題は、上記の清水真砂子氏の翻訳の後ろから9行目ほどのところ。清水訳では「でも、みんなから選ばれたとおっしゃるのですね」となっている部分。この部分がおかしいように思う。清水訳は、この発語者をガンブルという若い魔法使いの発言と理解しているようである。「選ばれたとおっしゃるのですね」とある以上、直前の発語者のオニクスへの質問であることになる。そして、ここで「おっしゃる」という敬語を使うのは、若いガンブルであるとしか考えられない。
 しかし、この発語者は「様式の長アズハー」(パターナー)である。そして、「しかし、彼こそが選ばれた」と訳すべきであろう。この断言に対して、「誰にですか」とセペルがたずね、それに答えたのがパターナーである以上、このの発語者がパターナーであることは明かである。
 これらは、オニクス、様式の長アズハー(パターナー)、ガンブル、セペルという主要な登場人物の発語の書き分けに関わるもので、清水訳は、その書き分けが曖昧で、意見が違う。英文と対象していただければと思う。

 翻訳というものは、私の仕事の編纂と似ているという感じ。異言語と歴史史料の違いはあれ、対象の中に感覚的に没入していくという過程が先行する。それはとくに古文書などの編纂などの場合に強く感じられるのかもしれないが、知性の仕事であるとともに、感性の仕事であると感じる。いわば自分を無にすることだが、逆に自分をその古文書の筆者と同一化する努力の中で、それをするということである。いままでこんな風に考えたことはなかったが、そう文章にしてみると、たしかに似ていると思う。
 さて、昼休み終わり。仕事、仕事。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?