文明化の時代と炊屋姫女帝(推古)――日本における神話時代からの移行

 「日本前近代の国家と天皇」で述べた日本史の時代区分についての私見では、古墳時代は神話時代であり、それは六世紀前半には終わって、文明化の時代、ヤマト時代が始まった(保立二〇一七)。ただ、太玉敷大王(敏達)は最後の前方後円墳を作っているから、まだ文明化への過渡期にあり、本格的な文明時代は皇后の炊屋姫女帝(推古)の時代に始まったというべきであろう。
 倭国にとって大きなショックとなったのは炊屋姫女帝の九年、西暦六〇〇年に派遣された遣隋使の報告であった。『隋書』によれば、遣隋使は隋皇帝に対して「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天が明けない時に正殿に姿を現してあぐらをかいて座り、太陽が昇ってくると、政治をやめて、あとは弟の日に仕事をまかせる」と述べたという。この頃、一日の始めは午前三時だったから(斉藤国治一九八二)、王は後宮から出て政治をとるのは午前三時頃からになる。そして夜明けには自分は後宮に戻って弟の「日」に仕事を委ねたという。『隋書』にあるように、隋の文帝は、これに対して「此、大いに義理なし」と述べたのである。
 隋の皇帝の反応は、ただ王がその政務を夜明け前に行うのは正しくないということではない。隋の皇帝は、ここにヤマト王権の未開性をみたのである。ここには、未開の「夜の神話」がある。つまり益田勝実はレヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』を参考にして、未開社会における夜の意味について次のように述べている。長くなるが以下に抄出しておく。
「夜は宗教生活に充てられていて、原住民は日の出から昼過ぎまで眠る」「夜行性動物のような未開生活者の生態が昼行性動物と同じような文明生活者を悩ませるのだが、大切なことは(部族の)広場の夜の行事が、次の日中の実務の手配から始まることではなかろうか。生活のための労働に対する計画と手配のような準備と、歌と踊りが結びついて、(部族の)夜の行事の階梯を構成している」「夜は実は、企画・差配→舞踏→仮眠→狩猟・採集労働というリズムを持つ原始・未開生活の一日の最初の段階」にあたるというのである(益田「黎明」一九六八)。
 神話時代においては夜こそは労働の準備と社交の行われる一日の始まりの時間であるというのである。これに加えて益田は柳田の「年籠りの話」(一九五六)を援用しながら、「わが国の原始の一日は、夜の闇のとばりが地上を覆うときから始まったらしい。日の出に始まる一日の朝から夜へという時の流れ方は、むしろ後の時代のもので、夜から朝へ時が流れていくのがより古い一日のあり方であった」と述べている。未開社会では一日は夜から始まり、夜における共同飲食と性の饗宴がすべての中心であった。彼らが夜行性の神話的感情の中で生きていたといってよい(参照、三宅和朗『時間の古代史』二〇一〇)。
 「倭王は天を兄とし、日を弟としている」という倭王の政務のあり方には、これと同じものが貫かれているというのが隋の皇帝の判断なのである。
 なお、「倭王の兄は天、弟は日」というのは、具体的には倭王が「月」の王として存在しているということであろう。つまり、倭王は星が満面に散りばめられた「天」の舞台の中に「月」として登場し、「日=太陽」が昇る前まで「夜」を支配するということであろう。倭王は「天」と「日」に対等な存在としての「月」であるというのである。これは、『隋書』が伝える倭王の称号が「阿毎(あま)多利思比孤(たりしひこ)」であったことからも傍証できる。つまり、このアマタリシヒコの「タリ」は現在でも「天から降った」とされることがあるが(義江明子二〇一一、一一六頁)、すでに『古事記伝』(二一巻二四丁)が『万葉集』の「天の原振りさけみれば大王の御命は長く天足らしたり」(巻二―一四七)を引いて「足の意なり」としているのが正しく、「天足彦=天にいる満ち足りた男」という意味である(参照、吉田金彦一九七九)。柿本人麻呂の歌に「天地 日月と共に 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来たる 中の湊ゆ 船浮けて」(『万葉集』巻二―二二〇)とあるのも参考になるだろう。これは真間手児奈の顔容について「望月之満有((足れる))面(おもわ)」とあるのと同じ言葉使いである(『万葉集』八〇七)。つまり本居の意見につけ加えるとしれば、「アマタラシヒコ=天足彦」は「天にいる満月のように満ち足りた男」という意味なのである。
 拙著『現代語訳 老子』(ちくま新書)で論じたように、この「足る」は倭国神話に影響した『老子』の四四章の「知足」をふまえたものであり、それに続く四五章に「大盈(たいえい)も冲しきが若くして、その用は窮まらず」(満月も空しいところがあるからこそ、その働きは窮まることはない)とあることに直結している(保立二〇一八)。「知足」と「大盈(みつる)」(満月)は関係しているのであって、タラシヒコは単に人格的自足・円満という称号ではなく、この文脈の下で倭王の「満月」という自己意識を物語っているのである。
 この月の神話については『かぐや姫と王権神話』や論文「宝姫女帝(皇極=斉明)の母子王朝――天智と天武の母の実像」(二〇二〇)でも述べたが、詳しくは別の機会に論ずることとしたいが、炊屋姫女帝は、このような隋帝国との関係と圧力の下で、東アジアにおける文明化の道を本格的に歩み始めたのである。

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