「天孫降臨」神話と大嘗祭の真床覆衾

 三・一一の後、私はもっぱら倭国神話における地震・火山神話の研究をしてきた。これは民族の歴史意識の中心に地震・火山を据える一つの道である。また、現在の政治・文化状況を考えても、これは日本の思想・文化のなかに神道・神社を大事なものとして正確に位置づけるという課題につらなる。私たちには日本文化の全体に目を配る責任がある。
 その場合、神話についての誤った理解を払拭することが必須である。よく知られているように、第二次大戦前の神話・神道の政治利用の中で、アマテラスが天孫降臨に際して発した「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(なんじ)、皇孫、就(い)でまして治せ。行矣(さきくませ)。宝祚の隆(さか)えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」という命令、いわゆる「天壌無窮の神勅」がその中心に位置づけられていた。しかし、この神勅は『日本書紀』(九段)の異伝の一つに過ぎず、『書紀』本文では天孫降臨の司令神はアマテラスではなく、高皇産霊(タカミムスヒ)という神である。このタカミムスヒが根本的には神話の至上神であることは、本居宣長以来、明らかになっていたのであるが、国家にとっては抽象的・中性的なアマテラスのイメージの方が国民動員には利用しやすかったのである。これは神話学者には常識であるが、社会ではほとんど知られていない。日本民族は神話の最高神の名前さえしらない民族なのである。
 このタカミムスヒという神は『日本書紀』(顕宗紀三年二月朔日条)に「天地を鎔造(ようぞう)する功」をもち、日月の祖であったとある。この「鎔造」とは鋳物のように作ることであって、私は『現代語訳 老子』(ちくま新書)を書く中で、その不明であった原典が『文選』(三九巻)にのる任昉(じんぼう)(四六〇 -五〇八年、梁の武帝の側近)の書にあることを発見した。『老子』五章に「天と地の間は溶鉱炉の鞴(ふいご)のようなものである」とあり、『荘子』(大宗師篇)に「天地をもって大鑪となす」とあるのも、同じ文脈で理解できることで、青銅文化の発達した中国では、世界は「鎔造」されたものだという神話的観念が早くからあったのである。右の『日本書紀』(顕宗紀)は、この神話が日本にも伝わっていたことの証拠である。ただ、日本では、これが直接に火山噴火の神話を表現するものになった。
 さて、「天孫降臨」神話を伝える『書紀』本文は次のようなものである。
時に、高皇産霊尊、(イ)真床追衾(まどこおふすま)を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵(ニニギ)尊を覆ひて、降りまさしむ。皇孫、(ロ)乃ち天磐座<天磐座、此云阿麻能以簸矩羅(あまのいわくら)>を離(おしはな)ち、(ハ)また天八重雲を排(お)し分けて、(ニ)稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別(ちわ)きて、日向の襲の高千穗峯に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、(ホ)則ち槵日(くしひ)の二上の天の浮橋より、(へ)浮渚在平処に立たして<立於浮渚在平処、此を羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志(うきじまりたひらにたたし)と云ふ>、(下略)(『日本書紀』九段本文)。
 (イ)は降臨するニニギを「真床追衾」に包んでということであるが、これについては最後にまわして、まず(ロ)から説明すると、「天磐座を押し離す」というのは、天に存在した巨大な磐座が天から切り離され墜落していくというイメージである。山中の巨大な磐座はしばしば磐船とも呼ばれるが、このような巨大な岩盤が天から降下してくるという幻想である。倭国神話の天界イメージを詳細に検討した勝俣隆は、天の岩屋戸をはじめとして天には岩石・岩盤と鉱山があり、ドーム状になった天蓋には天に入るための「石門」があったという(『星座で読み解く日本神話』大修館書店、二〇〇〇年)。こういう岩石の幻想こそ、この天地は「大鑪」=巨大な溶鉱炉であって、火山の爆発によって天地が「鎔造」されるという観念であろう。
 次ぎに(ハ)「天の八重雲を押し分け」というのは、巨大な噴煙それ自体のイメージである。『古事記』にはこの箇所に「棚雲(たなぐも)」とあり、棚雲とは一面に広がっていく雲のことをいうが、『日向国風土記』の天孫降臨神話の異文に「時に、天暗冥く、夜昼別かず」とあるように、火山灰をふくんだ黒雲によって地上は一面に暗くなるのである。実際、三・一一の原型とされる九世紀陸奥沖海溝地震の前触れとなった八六四年の富士の大噴火のときには、「地は大震動し、雷電は暴雨のごとく、雲霧は晦冥にして、山野も弁じがたし」といわれている(『三代実録』貞観六年七月十七日条)。
 重要なのは、右の富士噴火の史料にも明らかなように、この黒雲が雷電、火山雷を発することである。(ニ)の「いつのちわきちわきて」(「稜威之道別道別而」)は、古来から難解をもって知られ、「威風堂々と道を分けて進む」などと読解されているが、これは火山雷のイナズマを描写したものである。つまり、「いつ」は「厳」の「いつ」であることは異論がなく、また「ち」は漢字の表記通り「道」である。そして「の」は助詞、「わき」は「分き」であるから、この「稜威の道分き道分きて」という文言は、「厳しい威力をもった道が分岐し、さらに分岐して」ということになり、稲妻が枝分かれしながら大音を発して大地を直撃する様子と考えてよい。人々にとって火山噴火のときに雷電が走るというのはきわめて神秘的な現象であったことは間違いない。噴火は天からの火山雷によって惹起されるという観念があったというのが拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で述べたことであるが、天孫降臨神話をみていても、その可能性は高いと思う。なお、『日本書紀』の天孫降臨条、第四の一書には、タカミムスヒがニニギにそえて下した副官は大伴連などの祖神、天忍日(アマノオシヒ)命であったという異伝がある。そしてオシヒは手に「天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢(あまのははや)を促り、八目鳴鏑を副持へ」とある。この天羽羽矢とは蛇・龍を意味する(ハハはハブと同じ語)。雷電が龍の形をとっているというのはよく知られることである。
 (ホ)の「天の浮橋」については松村武雄の古典的な学説が「大きな岩石を天への梯(橋)とする観想」「岩石から思いついた(中略)天界と地界をつなぐ一種の梯」「聳え立って空裡にかかる岩石などからの示唆であるとすべき」と論じている(『日本神話の研究』②一九三頁)。天の浮橋とは火山弾を含む噴煙が、火砕流、溶岩流となって急降下する様子を「橋=梯子」のようだといったのだろう。日本の各地にはジオ・パークとなりうるような岩盤・岩崖の景観があり、それらはしばしば「天浮橋」「石橋」「椅立」などと呼ばれている。その中心に火山噴火における火砕流・溶岩流の強い印象があったのだろう。
 そうだとすると(へ)の「うきじまりたひらにたたし」(『古事記』では「うきじまりそりたたして」)は「浮いたり縮んだり、平らになったり立ったり、反り返ったり」という意味だろう。文脈のつながりもいい。この部分も難解をもって知られたところで、たとえば西郷信綱『古事記注釈』などは「新生の王が身をかがめて下界を見下ろし、すっくと立ち上がる」などと解釈しているが、これは解釈のための解釈にすぎない。
 さて、天孫降臨神話の異文として重要なものに(ト)『日向国風土記』(『釈日本紀』巻八所引)がある。そこには天孫降臨に際して天がまっくら(「暗冥」)となったが、「皇孫」が「稲の千穂を抜き、籾となして四方に投げ散ら」したところ暗黒が晴れたとある。『日本書紀』(第九段異伝二)にも「吾が高天原に所御す齋庭(ゆにわ)の穂をもってまた吾が児に御(まか)せまつるべし」とあるのは、この稲穂が天の田圃で栽培されたものだという訳であるが、この稲穂の神話が天孫降臨神話の一部であったことは明らかである。
 この天地が暗黒となったなかで稲の籾のようなものが四方に飛ぶというイメージのもとは火山灰にある。つまり九世紀の伊豆神津島噴火で、火山灰が河内・播磨・紀伊などにまで飛び、各国から「物ありて灰のごとし。天より雨ふり。日をかさねて止まず」と報告があったという事件があった。このとき噴火した天上山の名前をとって天上山テフラと呼ばれる神津島の火山灰は、白色ガラス質のものであるから、白いふわふわしたものであったのであろう。そのため、それは各地で「米花」と呼ばれて縁起のよいものと喜ばれたという(『続日本後紀』承和五年九月廿九日条)。伊豆半島では、この白色ガラス質の火山灰を「ツキ粉」と呼んで米にまぜてついたというのも興味深い(杉原重夫ほか「伊豆諸島、神津島天上山と新島向山の噴火活動」『地学雑誌』110(1)、二〇〇一年)。そして、この「米花」については大林太良の古典的仕事を参照することができる(大林『稲作の神話』弘文堂、一九七三年)。大林は、この神津島噴火の史料は知らなかったようであるが、列島の各地に残っている「天から降る米」という伝承を蒐集している。たとえば駿河国富士郡の米宮清源寺と米の宮浅間神社、天白天王神に「乾し米についての古伝があり、それによれば、昔、天から米粒三つづつ降り来たり、その大きさは一粒一寸であった」という。大林は、その他、羽前・伊豆・飛騨・福井・丹波・播磨・出雲・石見・伊予・日向などの事例をあげているが、このような共通した表象は、その起源が火山灰にあったということになると理解しやすい。
 以上のように天孫降臨神話に火山灰などの火山噴出物のイメージが含まれているとすると、冒頭の(イ)の「真床覆衾」も、「衾」とある以上、繊維状の火山噴出物のイメージなのではないかという想定がつく。『日本書紀』には六七八年(天武七)一〇月に、難波に降って、松林や葦原に垂れ下がった「綿のごとき」物がみえる。『大日本地震史料』は、これを火山噴出物として採録している。この「綿のごとき」物は「長さ五・六尺(一・六㍍)、広さ七・八寸(幅二二㌢)」という相当の大きさをもつというが、もしそうだとすると、これはハワイ火山でみられるペレーの毛といわれる繊維状の火山噴出物、あるいはそれにスポンジ状のレテイキュライトのようなものが絡まったようなものではないだろうか(ペレーはハワイの火山の女神)。『日本書紀』がこれを「甘露」として縁起のよいものとするのも、前にみた火山灰を「米花」と称する意識に似ている。ほかにも「佐米」「龍毛」「馬毛」などという天から振ったものも火山噴出物であろう。たとえば一六〇八年に豊前で記録された「馬毛」は「長サ三尺程アリ」とされている(藤木久志編『日本中世気象災害史年表稿』四一一頁、その他四〇二頁、四〇三頁を参照)。火山学の谷口宏充の教示よれば、一三七三年の朝鮮の白頭山噴火では「白毛長二寸、或三四寸、細きこと馬の鬣のごときもの」が降ったという(『高麗史』巻五四志第八、恭愍王二二年)。今後、東アジア史料の全体の中で火山噴出物がどのように表現されているかを点検しようと考えている。
 なお、折口信夫はこの真床覆衾は大嘗祭で使用される衾の原型であるとし、王はそれに包(くる)まることによって聖性をえるなどとして、大嘗祭を神秘化するイデオロギーの基礎を作った。しかし、すでに「天孫降臨」神話は大嘗祭の祭儀神話ではないことが明らかになっている(岡田精司『古代祭祀の史的研究』一九九二)。私見でも、大嘗祭の祭儀はまったく火山神話の色彩がないから、そこで使用される衾が火山噴出物のイメージをもつ真床覆衾ではありようがない。それは岡田のいうように聖婚・共寝のための寝具と考えるほかないだろう。同じような祭儀を「神今食(かみいまけ)」というが、私見ではこれは「神の威力をもって婚(ま)く」(神として性交する)という意味であって、これも聖婚の証である(なお、王と女の同床が平安期まで何らかの形で残っていたことについては参照、西本昌弘「九条家本『神今食次第』所引の『内裏式』逸文について」『日本古代の年中行事書と新史料』一〇一二)。
 いうまでもなく大嘗祭は宗教行事であり、その宗教的本質は一八七一年の明治天皇の大嘗祭に際して発せられた太政官告諭に「大嘗祭の儀は、天孫瓊々杵尊降臨の時、天祖天照大神詔して、豊葦原瑞穂国は吾御子の所知国と封し玉ひ、乃齋庭の穂を授け玉ひしより天孫日向高千穂宮に天降マシマシ、始て其稲種を播きて聞食す、是れ大嘗新嘗の起源也」とあることで明瞭であろう。また、『国体の本義』には「天皇は恒例及び臨時の祭祀を最も厳粛に執り行はせられる。この祭祀は天皇が御親ら皇祖皇宗の神霊をまつり、弥々皇祖皇宗と御一体とならせ給ふためであつて、これによつて民人の慶福、国家の繁栄を祈らせ給ふのである。又古来農事に関する祭を重んじ、特に御一代一度の大嘗祭並びに年毎の新嘗祭には、夜を徹して御親祭遊ばされる。これは皇孫降臨の際、天照大神が天壊無窮の神勅と神器とを下し給ふと同時に、斎庭の稲穂を授けさせられたことに基づくのである」とある。
 右の引用の両方に「稲種を播きて聞食す」「斎庭の稲穂を授けさせられた」などと王権の農本主義的な支配イデオロギーがみえるが、「稲穂」は火山灰であるということになると、火山噴火が起きれば耕地の荒廃は必須である。この神話は火山噴火のような自然の猛威を経験する中で生まれたものなのである。私のような歴史学徒からすると、神話が荒々しい自然を語っているということも知らないまま、折口のふりまいたイメージそのままに、今年行われる大嘗祭を曖昧に見過ごすことは、日本のような火山地震国ではあってはならないことだと思う。現在の状況では、大嘗祭には多額の税金が支出されるだろう。それが違憲であることは明らかであるが、大嘗祭が神話への学術的に正確な理解もなく、ただ実施されるというのは、民族の文化にとっても決してよいことではないと思う。

 岡山の『人権21』260号に書いたものです(2019,6月)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?