戦後歴史学と騎馬民族国家論

戦後歴史学と騎馬民族国家論
 8月8日。帰りの総武線。
 私は、都立大学の大学院を修了して、現在の職場に入ったので、都立大学では村上正二先生の話を何度かきいたことがある。残念だったのは授業をとっていなかったことである。大学院ではもっぱら戸田先生の授業とゼミだけで、別に日本史以外の授業をとる必要がなかったので、自然なことではあるのだが、今から考えると、いろいろな「課外」のことをやっていたのであるから、せめてもう少し御話しをうかがっておくのであったと思う。生活と話題は学問だけ、物静かという、我々より二・三世代前の学者らしい方であったが、その世代らしい学者の自信を感じさせる方であった。モンゴル史の中での村上先生の位置を考えれば、それは当然のことというのはしばらく前、『黄金国家』を書くときに気がついたことである。
 さて、そういうことで、突厥からモンゴルにいたる騎馬民族がもっていた「鍛冶の力による天地開闢」は彼らの鍛冶技術と独特な神話に由来するという村上先生の論文、『史学雑誌』の論文を昨年読んでみて、先生に質問ができたら本当によいのにと思ったことがわすれられない。もちろんもう亡くなっている。ともかく先生というものは、何かをいってくれるので、私のような(研究過程に入ると)「藁をもつかむ」というタイプの研究者には、これほどありがたいものはないのである。
 どうも、騎馬民族国家説、とくに江上波夫氏の『騎馬民族国家』(中公新書)では、直接に「天」との垂直関係が強調され、東北アジアの大地のイメージがもっぱら疾駆する騎馬民族の下に広がる単一のイメージで作られているという感をまぬがれない。江上氏は騎馬民族以前に「遊牧民族」を措定するのであるが、遊牧民族になると、いよいよ大地は単調なものとしてとらえられ、遊牧民は「単調で空漠な環境のなかに」、「孤独で無為な生活をしいられた」というとらえ方である(15頁)。それに対応して騎馬民族は「都市文明から物欲を教えられ、侵攻作戦に身命を賭する」という基本的な視座がすえられている。こういう考え方が、江上氏の騎馬民族国家説には、陰に陽に影響をあたえているように思うのである。


 ともかく、この本を読んでいると、江上氏はあまり「遊牧民族」というものが好きではないのではないかという感じがする。村上先生はそうではなかった。


 広いということはそんなに単調なものなのだろうか。広さを生活の中に入れている生活は、大地の多様性のとらえ方が違うだけではないかと思う。一般に大地は位置と豊度によって規定される。そして、我々は、とかく位置を固定して考えがちであるが、位置移動が基本の社会の大地というものはまったく別の様相をあらわすのではないかと思う。
 「地」はそんなに単調なものではなく、もっと具体的なものではなかったか。つまり火山のような「地」の具体性を前提にして、「天地」を考えないとならないのではないか、そしてとくに中央アジアであるから、鉱山の位置はきわめて高いのではないか、それを具体的に論ずる方法はどこにあるのであろうかというのが大きな疑問である。
 10年ほど前にモスクワ大学で講義をした時に、ロシアの東洋学研究所の先生に中央アジアの金鉱山の遺跡調査の話しをきいたが(これも十分なメモが残っていないが)、それは相当の規模のものである。もちろん、これは松田寿男氏の『アジアの歴史』などにも書いてあることで、有名なことではあるのだが、どうしても山というものが具体的に見えてこないのである。


 これは結局、中央アジアにおける火山、とくにアムールプレート北辺の火山帯のことがよくわからないからではないか。これは火山学の小山真人氏の
論文「歴史記録からみたアムールプレート周縁変動帯における地殻活動の時間変化」(日本地震学会1995年ポスターセッション発表内容)で片鱗にふれただけ。


 日本列島の火山神話は、たしかにこういう遊牧騎馬民族の火山信仰に由来するのだと思う。「中国」の周縁部をまわって日本まで来るルートがあるのは確実である。文明の周縁部では、大きな建物の周りのように風圧が強くなり、人々の動きは周縁地帯をまわるようにして活発になる。その中で、中国周縁の北から南の火山地帯の文化と諸技術が組み合わされる。その組み合わせが、北と南の組み合わせが、朝鮮半島の南部と日本列島を場として展開したのであろうと、思う。
 そして、その場合、北と南の両方に火山があったことが重要である。そして、その中でも日本列島の火山も地震はきわめて活発だから、ユーラシアの南北の火山神話は、日本列島で肥大化したのではないか、それが火山神話(地震神話)が日本の神話の中で特殊に中心的な意味をしめるようになった原因なのではないか。だから、騎馬民族の神話の直接持ち込みのみで日本の神話を考えることはまずいのではないかという疑義である。


 さて、以上、東京駅から書きだして、いま、津田沼なので、もう少し書ける。朝、前のエントリーを書き終わった時に、帰りに書こうと思っていたのは、「戦後歴史学」と騎馬民族国家説という問題である。
 これは、岡正雄氏の、騎馬民族論のシンポジウムの冒頭近くでの下記の発言のことを書こうということであった。
 「今までの研究は、階級とか、発展段階とかいうようなことに興味の中心があって、歴史的過程に於ける種属的、民族的な要素ないし条件についてはいちじるしく閑却されていたと思うのです」「「いわゆる日本民族は異質的な諸民族=種族によって混成されたものであることも考えておかねばならない」「また一般に史的発展においては内的な発展の原則とともに、伝播・混合・中絶などなどによる発展ないしは史的過程が大きな役割を演じている。このことはすなわち、一系的直線的な発展を公式的に考えることは無理であるということである」。
 こういう「戦後歴史学」に対する批判は明らかに正しい部分がある。これは、戦後歴史学に対する「一系的・直線的な発展を公式的に考える」という趣旨の批判としてははじめてのものではないかと思う。梅棹忠夫氏の戦後歴史学批判は、あきらかにこれを受けたものであったということになる。そういう意味では、「戦後歴史学」論は、このシンポジウムをどうとらえるかを一つの原点にしなければならない。「そうであったか」という感じである。歴史学の方法論の再検討の視野を広げることが、どうしても必要な時代。歴史学内部の議論ではなく、とくに人類学・神話学などの他分野全体との関係の中で、徹底的に考えていくことが必要だと考える。
 ともかく、ここにいわれていること自身に限れば、歴史学者は誰も反対しない正論である。(1)一系的・直線的な発展段階論は問題が多い、(2)種族的・民族的な要素は歴史の現実の中ではきわめて大きい役割をもつ、(3)日本民族は異質的な構成、民族多元性をもつ、(4)歴史の過程では「伝播・混合・中絶」の意味が大きい、(5)その上で「内的な発展の原則」は揺るがせないという形でいえば、これに反対する歴史家はいない。
 しかし、『歴史学をみつめなおす』でも、WEBPAGEに上げてある河音能平氏の著作集の解題でも述べたように、「戦後歴史学」はそれだけのものではない。人類学・民族学的な視野から「一系的・直線的ではない」イメージを議論することはたしかに可能であり、そこには重大な意味がある。「戦後歴史学」の弱点はたしかにあるし、そして人類学的な視野と方法の有効性を否定するわけではない。
 しかし、歴史学のように史料にそって時間の筋を通していくという立場から「一系的でない」全体像を描くというのは、人類学とは異なる困難がある。それをすべて、「戦後歴史学」は「公式的」だからだ、戦後歴史学は公式的だからだ、「マルクス主義」の図式性だ批判するのだとしたら、フェアではないと思う。なによりも、「一系的・直線的ではない」歴史像を筋道を通して描くというのは、結局、「実際にやってみたら」という話になる。「戦後歴史学」をになった人々、たとえばすぐに梅棹忠夫氏と論争をすることになる太田秀通氏などは、そう思っていたことは『歴史学をみつめなおす』でも書いたことである。そして、逆に、歴史家江上波夫氏の『騎馬民族国家』を読んでいると、歴史家としての江上氏の歴史の見方も図式的であることをまぬがれていないと感じるのである。
 このシンポジウムは1948年5月。私が生まれた年。数ヶ月前のことである。そのころから、「民族をどうとらえる」「一系的でない歴史像とは何か」と、同じじ問題を繰り返し繰り返し議論してきたのが「戦後歴史学」の歴史であるということになると思う。
 こういう形で、自分の研究自身に関わる問題となってきたので、そのうち、正確に点検してみたいものだと思う。これは新しいことをやりたいということではなく、歴史学の過去を取り戻したい。歴史学の過去の中から現在に通ずるものの中にいたいということなのだと思う。若い歴史家はすでにそういう感覚をもたない。若い歴史家は、歴史学の過去には興味はない。しかし、それは必要なことではないかと思う。
 そうはいっても、私も前の世代からみれば、そういう「若い歴史家」であったのかもしれない。直接に知っていた「戦後歴史学」の歴史家に対する共感が強い反面、過去の歴史学の中に存在した多様な立場、あるいは過去の歴史学と他分野との関係には強い興味を維持していなかったと思う。
 石井進さんに岡正雄氏の『異人その他』は読んだことはあるかと聞かれたことがある。網野さんには遺跡保存運動との関係で、八幡一郎氏は端倪すべからざる人ということをきいたことがあった。結局、それは宿題のままで過ぎ、そして村上先生にもいろいろな話を伺わないままに過ぎたのである。
 以上、結局、9日の朝。

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