『火山列島の神話』序論


「だってあなたはこれまでずっと古い夢を読んできたけれど、どれが私の夢か言いあてることはできないでしょ? 古い夢とはそういうものなの。誰にもそれをときほぐすことはできないの。混沌は混沌のままで消えていくのよ」(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹)。

世界の火山神話とジャパネシア――神話学との対話

 神話学の研究はかならず世界の神話の比較研究から出発する。神話学が神話時代の人類史の復元を最終的な目標にする以上、それは当然のことであろう。しかし、私のように歴史学の側から神話を研究しようという場合、特定の風土と民族を前提とした時系列的な研究の重要性がまず意識にのぼるのはやむをえないことである。
 とはいえ、人類史における神話と神話時代の意味ということを考えてみた場合、歴史学にとって神話学との対話は絶対的な必要である。少なくとも、日本の神話を考える場合、日本=ジャパネシアの列島社会のみを見ていてはならないことは明らかであって、その意味でも神話学との対話は欠かせないところである。
 特に本書ではジャパネシアの神話は火山神話であり、地震神話であることを強調するので、世界の火山神話や地震神話について、一応の知識をえることがどうしても必要であった。つまり、ポリネシア・メラネシアからインドネシア、フィリピンを通じて台湾にいたり、ジャパネシア=日本列島を超えてさらに樺太や千島列島に延びていく環太平洋の島嶼世界は、世界的にも火山噴火と地震が集中する地域である。しかも、シベリア南部のバイカル湖からスタノヴォイ山脈にかけて走る地溝地帯、そして大興安嶺・小興安嶺から白頭山の聳える長白山脈、さらに済州島火山島へと連なる火山帯は、火山地震列島としてのジャパネシアに連なってくる。
 日本という国号は七世紀にできたものなので、本書では日本列島を表記するのにネシアという諸島・列島をさす接尾語をつかってジャパネシアという用語を使い、また必要な場合は当時の呼び名である「倭国」を使うことにするが、この列島は環太平洋火山・地震帯と、ユーラシア東部の火山・地震帯が重なり合う複合的な火山・地震地帯なのである。それ故に、長い人類史の中で、ジャパネシアの火山・地震神話を取りあげるためには、歴史学にとっても、神話学の業績を重視し、そこから学ぶことがどうしても必要なのである。
 そういう意味で、この序章では神話学の仕事に学びながら、できるかぎり「倭国」の範囲にとらわれない議論をこころみてみた。従来、ほとんど継続的な相互討論を行ってこなかった歴史学と神話学の間での議論に、「とっかかり」を作れれば幸いである。

イサナミの凄まじい「国生・神生」は火山神話

 さて、倭国神話には、この列島の国土とその上で活動する神々を、巨大な女神が出産したという物語がある。いわゆる「国生」「神生」の神話である。私は、これ自体が火山神話であると考えている。
 よく知られているように、この神話は伊邪那岐(イサナキ)・伊邪那美(イサナミ)という男女の神が、天空にかかった「天の浮き橋」から下界を見下ろしたところ、そこは泥と洪水の世界であったという場面から始まる。日本神話学の最初の大成者であった松村武雄(■■■)によれば、そもそもこの「天の浮き橋」は「聳え立って空裡にかかる岩石」「天界と地界をつなぐと観ぜられた一種の梯子」を表現したものであろうという。そうだとするとこれは火山の噴煙ではないか。松村はそこまではいわないが、イサナキ・イサナミは海の上にかかった火山の噴煙の上に立って下界を見下ろした。そういう神話的想像力を神話時代の人々がもっていたと考えてもよいのではないか。
 実際にこの男女の神には火山神の色彩が濃いのである。つまり、彼らは地上に降りて「まぐはい」をしたのち、「国生」「神生」にかかる。『日本書紀』『古事記』の諸本によって若干の違いはあるが、イサナミは最初に淡路島を産み、すぐそばの四国を押し出し、さらに北に離れた隠岐嶋、そして九州と壱岐・対馬を産んだのちに、日本海を北上して、佐渡島を産みつけ、最後に本州(秋津島)を産んでいった。そして、それが終わると、人間の生活環境にかかわる住居や水戸の神、水の神や風の神、山の神などなどを生み、最後に火神・火産霊(ホムスヒ)神(迦具土(カグツチ))*1を生んだというのである。
 これは火山活動による大地の誕生のイメージではないだろうか。それを明瞭に示すのが、女神イサナミが、火神によって、その「美蕃登(みほと)」を焼き爛らせて死去したという物語である。次にそれを示す『古事記』の一節を引用する。
(イサナミは)この子((カグツチ))を生みまししに因りて、美蕃登(みほと)灸((焼))かえ((れ))て、病み臥してあり。多具理(たぐり)に成りませる神の名は金山毗古神(カナヤマヒコノカミ)、次ぎに金山毗売神(カナヤマヒメノカミ)。次に屎(くそ)に成りませる神の名は波迩夜須毗古神(ハニヤスヒコノカミ)、次に波迩夜須毗売神(ハニヤスヒメノカミ)。次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売神(ミツハノメノカミ)。次に和久産巣日神(ワクムスビノカミ)。この神の子は豊宇気毗売(トヨウケビメノカミ)神と謂う。伊邪那美神は火の神を生みまししに因りて、遂に神避り坐しき。
 つまりイサナミは火の神ホムスヒを産んだことによって「美蕃登(みほと)」が焼き爛れるという重傷を負った。この「美蕃登」とは女性の陰門をいうが、そのため女神が負った傷は致命的なもので、イサナミはのたうち回って、「多具理(たぐり)(=反吐)」を吐き、そして脱糞し、尿を垂れ流したという。しかし、この「多具理(たぐり)」には「金山毗古神・金山毗売神」という金属の神が生じ、「屎(くそ)」には「波迩夜須毗古神・波迩夜須毗売神」という粘土・陶土の神が生じ、「尿(しと)」には「弥都波能売神」という水の神が生じ、さらに「和久産巣日神」と、その子の「豊宇気毗売神」という農業の神が生じたというのである。凄まじい描写であるが、この神話は女神から金属と陶土と水、そして農業の富が産み出されたということを語っているといってよい。ここにはイサナミがいわゆる地母神であることが語られている。彼女は大地の肥沃、豊穣をもたらす母なる女神なのである。
 この出産神話を広く環太平洋地域の中で捉えようとした最初の試みは、柳田国男の弟、松岡静雄によって行われた。松岡は、一九二五年、その著書『太平洋民族誌』において「島生」の神話がポリネシアのソサイェティ諸島、マルケサス諸島などに分布していることを紹介したのである(岡書院、一九二五)。ただ、これは事実の指摘に終わっており、十分な神話学的な方法に立ったものでもなかった。本格的な神話学者による反応は、フランスに留学して、マルセル・グラネ(及びマルセル・モース)の指導を受けて帰国した松本信広によってあたえられた。松本はこの「国生み」「神生み」の物語は、火山噴火により国土が産み出されたという火山神話であると断定したのである。
 松本は、噴火口を「ほど」といい、また鍛工が火床(ほど)という語を用いることから、カグツチが飛び出した「美蕃登(みほと)」=ミホトとは、「火処(ほと)」(熱いところ、女性性器)であると論じ、神話学のフレーザーのいう、女の身体、その性器より火が発出するという神話観念と同じことだとしている(『火の起源の神話』Myth of the Origin of Fire(青江舜二郎訳、二〇〇九、ちくま学芸文庫)。また松本は日本とポリネシアの神話の類似についてはマルセル・モースの示唆をうけたとして、エルストン・ベストの報告によって(Elsdon Best, Maori Religion and Mythology)、ポリネシアの神話の天空の男神ランギが大地の女神パパと結婚して島々を産んだという神話を示している(松本『日本神話の研究』一九三一年)。さらに松本はニューギニアの南岸に住むマリンダニム族の火の起源を説明する神話に、ある一対の男女が固く抱擁して離れなくなり、それをある神が揺さぶり離したが、その際、男女の摩擦から初めて火が出現したという神話を紹介している。また、平田篤胤がイサナキが海中をかき回した矛を男の陽根(ファルス)であるといっていることにも注目して、それは海洋の底から島をつり上げたマルケサス諸島のチキという神がファルスの表象であるのと同じことだともしている。なお、これらの神話が、有名なギリシャのウラノスとガイアの神話と同じものであることはいうまでもない。この神話は、天空ウラノスと大地ガイアがつねに相抱擁しているので、二人の間に生まれた子どもたちがその鬱陶しさに耐えられず、両親を引き離そうとしたという物語である。結局、男子クロノスが大鎌をふるってウラノスの陽根を切り取ったので、ウラノスは苦しみ、驚いて高く遁れ退いたという凄まじい話である。
 松本は「二神が島々を生むという日本の神話は、かならずしも政治的な特殊な物語と見る必要はなく、やはり民間に発達した物語が土台になって成長したものと解せられよう」「この国土を生むという型は、ある人のいうように、日本独特の他に類例のないものであるわけではない」として、いかにも神話学者らしい広い視野で問題を論じている。

津田左右吉の「机上神話論」と神話的想像力への無理解

 しかし、松本の議論は日本の学界では長く受け入れられなかった。問題は、右に引用した文章の傍点部にいう「ある人」とは誰かであるが、松本は名前を挙げていないものの、この「ある人」とは明らかに津田左右吉のことである。
 津田はよく知られているように、歴史文献学的な神話研究の開拓者であるが、一九二四年に発表した著書『神代史の研究』において、「(土地の起源が)人の生殖として語られたことは(世界で)他に類例がない」「異様な構想」であると述べた。そして、それは「一般的な土地(天に対する土地)を生んだというのではない。(中略)政治的意義においての日本の国土の由来を語るものであって」それは日本という国家が領土を占拠していった過程を寓意的に描いた政治神話であるとした(『日本古典の研究』上、三四二~三四四頁)。神話が政治性をもつことは当然だが、そもそもこういう読み方では神話的な想像力というものは理解できないだろう。これに松本が反対したのは、自然なことであった。
 一般に歴史学者という人々、とくにその中でも歴史文献学者は真面目過ぎるほど真面目な人々であり、こういう神話を理解することが不得手である。しかし津田のいうのは、そもそも「国生神話」は「宇宙生成説話の類として解すべきものではない」、端的にいえば、日本神話は基本的には中国の古典を摸倣し、いじくって「机上」で作り上げた創作であって、そこには本来的な神話の本質ともいうべき「宇宙生成説話」=宇宙創造神話が含まれていないというのである。もちろん、『日本書紀』『古事記』に描かれた神話が中国の道教や神仙思想から大きな影響をうけたものであることは津田のいう通りであるが、しかし、そこに宇宙創造神話が含まれていないという断定は何の根拠もない行き過ぎである。実は津田は、中国嫌いのあまりに倭国神話のなかの中国古典の臭いがするものを全部切り捨てていったのである。
 松本が不運であったのは、その新しい神話学的な発想が神話学の側からも無視されたことである。つまり、日本神話学の大成者であった松村武雄は、一九三四年に発行した著書『民族性と神話』のなかで、イサナキ・イサナミの国生の物語においては「治めらるべき国土と治むべき者(天皇のこと――筆者注)とが、父母を同じうし血を分け合っていると信ぜられている。この一事は、他の民族の神話に殆ど見出し難い特殊の考え方で、皇室と国家との関係の緊密さを心からの誇りとし喜びとした日本民族が熱意をこめて強調し高唱しないでいられなかった大切な点である」と述べた。そして「或る学徒」として松本の説を取りあげ、「或る学徒は他の民族の間にも、祖先神がその民族の住土を産んだという伝承の存していることを挙げて、日本におけるそうした観想の特殊性を否定しようとしている」と非難したのである(松村一九三四)。
 こうして、松本の火山神話説が神話学の共通認識となる機会は失われた。一方、津田の『日本書紀』『古事記』の神話の文献学的な研究が、戦争体制の中で抑圧されたこともよく知られている。ここでは話が錯綜するので、神話論の研究史についての私見は「あとがき」に回すことにするが、こういう中での神話論をめぐる傷や行き違いは、戦争の終了後も回復されることはなく、第二次大戦後の神話研究は困難を抱えることになった。
 もちろん、松村は戦後に著した大著『日本神話の研究』においては「国生」「神生」の神話を明瞭に世界あるいは国土創造神話の一環として位置づけて、体系的に論じている。松本と同じ立場から津田の宇宙創成神話不在論を批判し、イサナミのカグツチ出産を火山の噴火を描いた神話とした*2。とくに女性性器としての「ホト」は最も一般的には「爐」「竈」の火の燃える中心部に通ずると述べて、女神の性器が「爐」「竈」と等置された事情をのべているのは大事な指摘であろう。そしてマルケサス諸島の国生神話についても、イサナミの国生神話と「その趣を同じうしている」と紹介している。しかし、そこにはすでに同じことをより具体的に松本が述べていたことへの言及はない。さらに奇妙なのは、松村が一九四七年に発表した『日本神話の実相』では「他の民族も、神が国若しくは島を産んだことを説く伝承を有している。多くの学者が主張するように日本特有のものでは決してない」とまで断言していることであろう。ここで松村は自己が戦争中に行った松本への批判に口を拭っているのである。
 もとより、松村に反省がなかった訳ではない。松村は、右の自著『日本神話の実相』のまえがきにおいて、ともかくも「『爾らのうち罪なき者、まず石を擲て』の言葉を想起して自ら恥じざる者が、我が国に幾人あるであろうか。吾人のごときも、自ら深く顧みる時、これまで日本神話を不当に評価した咎を冒した覚えがないとは断言しえない。(中略)。それを知って敢えてこの企てをなすのは、衷心から自己革命をなさんとするがためである」と述べていたのである。しかし、こういうことでは、松本と松村という戦前の神話学を代表する二人の学者の間の交流は不可能であったろう。

松前健・益田勝実による火山神話論の出発――自然神話論の問題

 こういう状況のなかで、神話学の立場から新たな火山神話論を展開し、研究の段階を画したのは、松前健の論文「火神誕生譚と鑽火儀礼」(『日本神話の新研究』一九六〇)であった。一九六〇年に発表されたこの論文は、松本の研究をうけて「国生み」神話を火山噴火の側面から理解する神話学の立場を集大成し、当時は相当の話題となったものである。
 知る限りでは、この論文は火山神話の全体像を論じた現在でも唯一の日本語論文であり、ギリシャ・ローマ・北欧・南米などの世界中の火山神話に目を配りながら、とくにフレーザーの『火の起源の神話』(青江舜二郎訳、二〇〇九、ちくま学芸文庫)やロバート・W・ウィリアムソンの『中央ポリネシアの宗教的および宇宙的諸信仰』(Religious and cosmic beliefs of central Polynesia、1933)を全面的に利用して、ポリネシア・メラネシア・インドネシアの火山神話を紹介している。松前は、そこでは山や大地の下には死者の住む不断の火焔の世界があるという神話が一般的であり、また、地震・火山の両方を神話的に説明している神話として、地震の神が地下を燃やし続け、「カマド」を吹き飛ばし、火山の爆発を起こし、それが火の起源であるというポリネシアのサモア諸島の神話を紹介している。そして興味深いのは、女性の体内から火がもたらされたという神話の紹介であって、女たちは調理した後には、男にみられないように、その火を自分の指、身体、臍、さらに足の股の間に隠したという。これらの神話は、この地域に火山帯が通っていることの反映であるというのである。メラネシアからポリネシアにかけて、古噴火の歴史は別としても、バヌアツ・トンガ・タヒチなどで火山活動が認められていることもいうまでもない。
 これは無文字社会の自然神話において自然の構造、富と火の起源、男と女の対立などに関わる創成神話が語られていたことを明瞭に示している。その中軸に地震火山神話があったというのが重要である。松前はこれをイサナミの国生神話と対比可能なものとして示したのである。その上で、この論文は日本の歴史史料・民俗資料に踏み込んで火山神が雷や龍の神と結びついていることなど、火山神話についてはじめて体系的に論じたのである。
 この松前論文の五年後、日本文学の益田勝実が論文「火山列島の思想」を発表したことも大きな話題となった。益田は七六四年(天平宝字八)、大隅の海中で噴火が起き「神造」の島が出現し、それが大穴牟遅尊の所為であることを論じた(『続日本紀』天平宝字八年十二月、天平神護二年六月五日)。これが火山神としての大穴牟遅神(大国主)を論じた最初の決定的な仕事となった。益田は「神火の憤怒は繰り返され、火山灰地は人間の幸・不幸を生誕に先立って規定しつづけてきた」「(人々は)そこから、活動力、生命の源泉、といったものを感じとったかもしれない」とし、神話研究においては「この火山列島の生活そのものがもたざるをえなかった風土性」に沈潜し「マグマの教えた思想」を受けとめることが必要であると論じた。益田が「日本の神道は恐れと慎みの宗教であり、客体として対象化されるべき神の面よりも、禊ぎ、祓い、物忌みして齋く人の側に重心がかけらてている、いわば主体性の宗教である」のは、その基礎をなした山岳信仰のさらに基底に火山への畏怖が存在したことによるのだと論じたことも重大であった。
 しかし、残念なことにこの松前と益田の火山神話論が神話研究に共通する問題意識となることはなかった。それは神話研究の中に自然神話を研究するという立場がきわめて希薄だったためではないだろうか。私は、端的に言ってこれは無文字社会における自然神話に含まれる人間的な文化を、実際上、神話研究が無視していたためではないかと考える。そもそも神話とは人間に対して無主・無縁で外的で不可解なものとして現れる自然と、それに圧倒される人間との狭隘な関係を基礎にして発生する自然宗教である。そこでは人間の肉体、つまり内的な自然をもふくめた野性の自然への畏怖や賛嘆がもっとも大きな役割をもっている。しかし、神話時代の人間は、それ以前の野性の時代に人間が獲得した意識と思考のスタイル、レヴィ・ストロースのいう「野性の思考」を基礎とした神話意識、神秘幻想を獲得していたはずである。
 自然神話を強調することは、決して一九世紀のいわゆる「自然神話学派」へ戻れということではない。レヴィ・ストロースがいうように神話は言語活動の最上層を支配する思考のスタイルである以上(「神話の構造」『構造人類学』)、神話を自然現象の単純な反映としてしまうようなことはできない。しかし、神話がふかく自然と関係していることを十分に考えることなしには人類史における神話と神話時代の意味をとらえることはできないのは当然のことではないのだろうか。日本の神話研究の中で自然神話を強調する構想を述べているのは、古くは高木敏雄がスサノヲを暴風雨神と論じた仕事があるが、松前・益田の仕事に続いたのは、溝口睦子がすぐにふれる大林太良の自然神話不在論を批判して自己の構想を述べたのが目立つ程度であろう。溝口は倭国神話の「天つ神・国つ神」は擬人化されているが自然そのものであり、「荒ぶる神」も畏怖すべき自然の神とする。その基礎には自然と人間を連続的にとらえる不定形の原始的思惟があるとしたのである。「たとえばシナツヒコ(シナ=風、ツ=助詞「の」)、大ケツヒメ(ケ=食物)という神名は、風や食物の擬人化であって、「ヒコ・ヒメ」といった神名はかならずしも人格神を現すというよりも、いわば「風さん」とか「ご飯さん」といった、現代では童話の世界にしか生きていない感覚を表現している」という。これが溝口が一貫して追及している「神」観念の捉え直しの基礎にあった問題であることはいうまでもない(溝口睦子一九七四、五〇一頁、一九七三、一三五一頁)。
 現在は三宅和朗が『古代の王権祭祀と自然』『古代の人々の心性と環境』の二冊の著書において自然神話論を展開し、大きな成果をおさめているので、状況は違ってきているが、二〇世紀の間は、この神話時代における自然神話をどう考えるかという理論的問題はたいへんに曖昧であったことは否定できない。その根元にあったのは津田左右吉の誤りであろう。右の著書のあとがきで三宅が、最近の神話研究が「自然神」の存在を軽視する傾向は津田左右吉の議論に発しているとするが、まさにその通りである*3。
 津田はスサノオが「哭き泣ちり」、アマテラスに会いに高天原へ上る時、「山川悉く動(とよ)み、国土みな震ふ」(『古事記』)、「溟渤(海)みはもて鼓き盪い、山岳はために鳴り呴えき」(『日本書紀』)というが、「この命(みこと)を暴風雨の神とし、この話を自然神話として見ようという説がある。しかし我が国の上代人は、天界の観察をしなかったと同じく、空界についてもさして興味をひかなかったらしく、神代史においても、晴雨の変化や雲の徂徠などの天候に関する自然現象に関係のありげな説話は少しもなく、また神代史のみならず、祝詞などにも雨の神や雲の神などが見えていない」(津田四二九頁)、スサノオの物語は、「皇祖神に対して反抗的態度をとったものとして説かれている」にすぎないという訳である(四四六頁)。スサノヲを暴風雨の自然神とするのは高木敏雄の学説であるが、津田は見当外れな理由でそれを排除するのみであって、ここには方法的考察というものが欠如している。そして、津田は「民間説話の本質を有する宇宙生成物語が、少なくとも神代史の上に現れていない」と結論した。「宇宙生成物語(神話)」がないというのは自然に対する神話的思考がないというに等しい。これが倭国神話を机上で作られた政治神話にすぎないという津田説の裏側である。歴史学が、これを精算できなかった事情については「おわりに」で神話の研究史についてふれる際にさらに述べる。
 自然神話論が低調であったもう一つの理由は何といっても、戦後の神話学の主流が神話の比較・類型化を中心とする人類学的・民族学的な神話学研究にあったことであろう。研究者の名前を挙げれば、岡正雄から大林太良と吉田敦彦につながる人々である。岡はウィーン学派の指導者、神話文化圏の体系的考察を試みたウィルヘルム・シュミット、大林はドイツ・オーストリアの歴史民族学的な神話研究の指導者であったアードルフ・イェンゼン、そして吉田はフランス神話学の中心人物、ジョルジュ・デュメジルの学統に属するという、ヨーロッパの本格的なアカデミズム神話学直系の人々である。
 神話学の研究が世界の神話の比較研究から出発することは冒頭に述べたように当然のことであるが、しかし日本の神話学はその先に行くことがなかった。松前は岡・大林の仕事の欠陥について、日本文化の人類学的な起源や民族文化の系統づけが問題の中心となり、神話自体の歴史的・内在的な研究が不足し、実際はやや粗雑な図式に流れていると述べている。しかし、自然神話論という観点からいくと、結局、民族学あるいは人類学的な神話学の興味は、人間の文化、あるいはその限りでの有用的な環境的自然と人間との関係に視野を限りがちで、網野善彦のいうような人間と無主・無縁の自然への視線がよわいということなのかもしれない。暴風雨・落雷・地震・噴火などの脅威として現れる無主・無縁の自然というものは、特定の風土や民族の歴史の中に入っていかないと実感しにくいものである。益田勝実の言い方では、「この火山列島の生活そのものがもたざるをえなかった風土性」「火山列島日本の心情史」「不断の民族的経験」への内在の不足である。益田のいう「マグマの教えた思想」を受けとめるためには、どうしてもヨーロッパ神話学との関係を、一度、相対化することが必要であったはずである。

環太平洋のハイヌヴェレ神話と火山――イェンゼンの許されない誤り

 大林の師であったドイツの神話学者、イェンゼンの学説も、そういう意味で、民族学的な文化分析の枠組みを優先し、神話論のために必要な風土と自然への沈潜を欠いていた。イェンゼンは、インドネシア、モルッカ諸島のセラム島のヴェマレ族から聞き取った神話からハイヌヴェレ神話仮説というものを組み立てた。
 このハイヌヴェレとは「ココ椰子の枝」を意味するが、ある男が猪の牙についていたココヤシの実を発見して、それを植えたところ素晴らしい勢いで成長し、男はそれを登っていった。ところがのぼる途中で手を怪我して、その血がヤシの花についた場所から少女が生まれた。この少女は急速に成長し、三日で結婚可能な女となり、その大便は銅鑼のような貴重品に変化し、さらには日本でいえばカガイのような野外舞踏の中心に立って、驚くべき宝物を湧き出させた。しかし、それが毎夜繰り返されるなかで、彼女は気味悪がられて穴に押し込まれて殺された。そしてその穴の中で、彼女の肺はウビイモ(紫色の特種なイモ)になり、乳房は女の乳房の形をしたイモになり、目は目の形をしたイモの芽になり、恥部は紫色をしてよく匂うイモになり、尻は外皮のよく乾燥したイモになったというのである(イェンゼン『殺された女神』翻訳大林太良ほか、弘文堂、一九七五)。
 これは一般的にいえば「地母神」の神話である。ここでは地母神は少女として登場しているが、これは倭国神話でいえば火と血の神、カグツチが土神、埴山姫を犯して生まれたという「稚産霊(わくむすひ)」にあたる。この少女神の頭に蚕と桑ができ、臍に五穀の種が生じたという。これに対してハイヌヴェレがその枝に生まれたココヤシはココナツミルクの原料として熱帯では大事な有用植物であるが、その枝に生まれた少女が同じく欠くことのできない食料であるイモとなったという訳である。この神話が世界に普遍的な地母神の神話の熱帯的変奏であることは明らかである。そのかぎりでは、イェンゼンが、これと類似した神話がインドネシアからフィリピン、さらに南米にまで、環太平洋の全域に分布していることを発見し、このハイヌヴェレ神話類型は「初期栽培文化」、焼畑農耕の神話であるとしたことはあたっているところがある。
 問題は、イェンゼンがこれを人間は植物であり、人間は人間を食べるという人間の植物視という文化の共通性にもとづく神話と解釈し、この文化意識が人間による人間の殺害の自然化、首狩りと人身供犠の心意の基礎となったと論じたことである*4。しかし、人間の殺害がそのように文化的なものとして現れるのは、近代における大量虐殺、戦争と同じように一つの社会的過程なのであって、それをふくめて自然の神秘化は一見したところではもっぱら奇異なものとしかみえないような雑多な形態をとることに惑わされてはならない。しかもイェンゼンは、それと対比して、<我々の考え方にはるかに接近している>作物起源神話としてプロメテウス型神話を位置づける。プロメテウスが神の意志にさからって人間のために作物(その種)を盗んできたという神話であるが、イェンゼンは、これを国家段階の高文化に対応する神話とし、プロメテウス神話の中に人間の意思の勝利をみる。ハイヌヴェレ神話はそれと対比されて、「初期栽培文化」に対応する人間の植物状態を示す神話であるということになるのである。こういうことは神話学者としては決してやってはならないことである。この図式は、現在でも世界の神話学・人類学における通説となっているが、しかし、こういう対比には強いヨーッパ中心主義があるといわざるをえないだろう。
 そもそも、このハイヌヴェレ神話の環太平洋地帯への分布を、すべて「初期栽培民文化」における人間の植物視という文化の共通性に帰してしまうこと自体に疑問が多い。前記のように女性の体内から火がもたらされたという神話は、南太平洋に広く分布している。イェンゼンも「ニューギニア諸部族においては最初の火は原女に由来し、彼女の膣から現われ出た」(『殺される女神』九七頁)とし、女性の身体の中から有用な芋類が発生することと「火」のような有用物が発生することは同一の神話的表象世界に属すると述べている。大林も、この「火は元来は女神の陰部にあったという神話」の分布範囲はハイヌヴェレ神話の環太平洋への分布範囲と重なっているとしている(大林『稲作の神話』弘文堂、一九七三、八頁)。彼らにおいても「有用植物の起源」と「火の起源」(火の利用による有用植物の拡大)とが同じ神話的思考の中でとらえられているのである(大林『神話の系譜』二二二頁)。
 そして、すでにみたように、この女性の身体の中の「火」の神話の根源は火山の「火」、身体のうちに火をもつ女神、火山の地母神にあった。たとえば、マルケサス諸島の神話によると、有名なポリネシアの神マウイは、地下にすむ地震・火山の女神マフィケの爪先、膝、背中、さらに臍からの火をくすねたが、最後にはマフィケの頭を切って殺し、もっとも神聖な火を奪い、その火の性質を調べ、さまざまな植物を利用する発火法を発明したという。これはマルケサス諸島に「島生」の火山神話があったことと照応するものであるといってよい。つまり「原初の火をもつ火山の女神」、「女神の陰部にひそむ火」、そして「ハイヌヴェレ神話」は同じ神話の文脈で語られるのである。地母神の身体は「火」の産まれる場所であり、それは国土を生み出すとともに、その上に茂るさまざまな有用植物の富をも生み出すという訳である。
 以上のように、有用植物の起源を説く様々なスタイルのハイヌヴェレ神話の奥底には、人間に対して豊かさをあたえるとともに、圧倒的な力を発揮する火山があたえる宇宙論的な幻想、「マグマの教えた思想」が存在したことは明らかであると思う。死体化成型の植物起源神話=ハイヌヴェレ神話を人間の植物視という文化神話に還元するのではなく、南太平洋からジャパネシア、日本列島にまでいたる環太平洋火山帯という風土性の文脈のなかにおいてみていくこと、それこそが必要であるといわなければならない。

大林太良のオオゲツ姫の読み解きに欠けていたもの

 このようにイェンゼンの図式的理解にはきわめて問題が多いが、彼が一九三七年にセラム島を調査したさいに集めた、約四〇〇種の神話の記録自体は貴重なものである。大林はそこに次のような神話が含まれていることを報告している(大林太良『神話の系譜』講談社学術文庫一九九一、二〇六頁)。
 むかし、父なる天は母なる大地の上に横になり、性交していた。天と地は、当時はまだ今日よりも小さかった。この天地の結婚から、子どもとしてウプラハタラが生まれ、ついで弟のラリヴァと妹のシミリネが生まれた。彼らは両親の天と地との間に住む場所がなく、ついにウプラハタラが天を上に押し上げた。すると大地震が起こり天と地は拡大して今日のように大きくなった。天と地の分離の際には、地上にはまだ暗黒が支配していた。ところが、大地震のとき、火が地中から生まれ出し、地上には木や植物が萌え出で、山々がそびえ立った。ウプラハタラは、ダンマルの樹脂で大きな球をつくって火をつけ、天にほうり上げて、日と月を作った。
 そもそもセラム島はボルネオ島、セレベス島とニューギニアの間にある島である。フィリピンの南、ダバオから南下していって、セレベスとニューギニアを結ぶ線に到達したところにあるといえばいいだろうか。火山島ではないが、西南で接するアンボン島は火山島である。アンボン島は、フィリピン諸島を南下する火山帯と、インドネシアを東西につらぬく火山島のちょうど交点に位置する。これらの重畳する火山帯は、インドネシアにおいて、オーストリアプレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレートがぶつかり合っていることの結果であるという。
 このような島に伝えられた大地震にともなって、地中から噴き出した「火」を樹脂の塊に移して天にほうり上げて、日と月を作ったという神話。大地震と火山噴火による世界創造神話は、現在、インドネシアから台湾にいたる諸地域にしか残されていないが、この神話は松本が紹介したニュージーランドのマオリ族の天父ランギと地母パパの神話とほぼ同じものであるから、おそらく本来は同じような神話が環太平洋の各所に分布していたのであろう。
 管見の限りでは、大林が火山についてふれたのはこの神話についての短い解説のみである。大林のような学者が、ここから広い視野をもって火山神論を展開しなかったのは不思議なことのようにも思えるが、大林はイェンゼンの視野をそのまま受け入れて研究を進めたのである。つまり、大林は「初期農耕文化」の神話的標識としてのハイヌヴェレ神話図式に依拠して、倭国神話に登場する作物の女神、オオゲツ姫を解釈したのである。『日本書紀』『古事記』は八世紀の史料だが、素性のいい神話史料としては極めて早い時期のものなので、これは世界の神話学におけるハイヌヴェレ神話仮説を広める上で決定的な貢献であった。
 しかし、このオオゲツ姫神話にも火山神話の側面があるのである。以下、一応の説明をしておくと、よく知られているように、スサノヲは父イサナキに嫌われて姉のアマテラスを頼って天に駆け上ったが大喧嘩になり、結局、神々に罪を負わせられて天界を追われる。傷心のスサノヲが、その途次でもう一人の姉のオオゲツ姫のところに立ち寄ったところ、同情したオオゲツ姫はスサノヲを歓待する。しかし、食事の用意のために、オオゲツ姫が「鼻口また尻より種種の味物を取り出でて種種作り具へて進る」様子をのぞき見したスサノヲは、激怒して彼女を殺害してしまう。それを憐れんだ祖母神の「神皇産霊(カミムスヒ)」がオオゲツ姫の遺体をみたところ、その頭から蚕が、目からは稲種が、耳からは粟が、鼻からは小豆が、性器からは麦が、尻からは大豆の種が生えていた。カミムスヒは、それらを集めて「種」として世の中に広めたというのである。
 大林は、この物語を国生神話でイサナミの生んだ「粟の国」(四国の阿波国)もオオゲツ姫と呼ばれていたことに結びつけ、オオゲツ姫は粟の栽培に関わる女神であり、それ故に焼畑耕作に関わる神であるとした。こうして倭国神話において、神話テキストからハイヌヴェレ神話の実在が主張されたのである。ハイヌヴェレは倭国神話のオオゲツ姫にあたるという訳である。
 しかし問題は、大林がイサナミが火山の女神であるという松本・松村・松前の見解を一顧だにしなかったことである。すでに拙著『歴史のなかの大地動乱』で述べたように、『常陸国風土記』には、「御祖(みおや)の尊(祖母神)」の訪問をうけた富士の女神が「今日は『新粟』の新嘗(にいなめ)の収穫祭の夜で物忌の最中なので、申し訳ないが駄目です」といったという記事がある。この「粟」の新嘗という場合の「粟」は注解によっては穀物一般の意味であるという見解もあるが、そこには無理があり、粟の焼畑の収穫と考えるほかない。これは富士の女神が「粟の神、オオゲツ姫」と相似する神格をもっていたことは意味するが、富士は火山である。富士の女神を問題とする場合は火山の女神ということを無視できない。
 そして右の拙著でも論じたように、九世紀、伊豆神津島の海底噴火をもたらした女神を「阿波神」といった。この伊豆神津島の女神は、伊豆半島南部の下田にあった「三嶋大社の本后」であって、五つの島を産んだ火山神であるとされているが(『続日本後紀』承和五年七月)、この八三八年の神津島噴火につづいて、八六四年に青木原樹海を作り出した富士の大噴火ののち、三島社は伊豆国府の地、現在の三島の地に移動した。三島社は富士溶岩流の先端という立地を選んで移動したのである。つまり、この神はただ神津島の女神であるのみでなく、三島の神の后として富士・伊豆火山帯の女神でもあったのである。こうして神津島の「阿波神」は「新粟の新嘗(にいなめ)」を行う富士の女神と同一の神であった可能性は高く、「富士の女神=阿波神=粟の神=オオゲツ姫」であったということになる。
 この「阿波神」の「阿波」は地名としては四国の阿波国であることは右にもふれた通りだが、この地名の阿波国には国生の女神イサナミ自身のイメージも重なっていた。つまり阿波国の伊佐奈美(いさなみ)神社は、夫の淡路国のイサナキ神が、八五九年に一品の神位をあたえられたのに一〇年ほど遅れて、從五位下に昇叙されている。女神イサナミは阿波国の神であったのである(『三代実録』)。イサナキ・イサナミの二神の故郷は淡路島周辺の海人集団のなかにあったことは岡田精司が論文「国生神話について」(岡田第一論集)で論じたところであり、彼らにとって対岸の阿波が大きな位置をもっていたことは明らかである。こうして大林が論じた「ハイヌヴェレ=オオゲツ姫」という図式は「ハイヌヴェレ=オオゲツ姫=阿波神=富士の女神=イサナミ」という図式に展開できるということになる。
 大林のオオゲツ姫論は、よく整理された有用な研究であったことはいうまでもない。しかし、それだけに神話学においては、松前健の火山神話論は非主流の位置にありつづけることとなった。こうして神話学研究の主流は暴風雨・落雷・地震・噴火などの災害をもたらす無主・無縁の自然、特定の風土への沈潜、そしてそれに関わる歴史や民俗との関係などがどうしても等閑に付されることになったのである。それは大林が主催した五巻からなるシンポジウム『日本の神話』(学生社)における神話学者と歴史・文学の関係者との間で繰り返された行き違いによく現れている。もちろん、大林の豊かな発想は参考になることは多く、このシンポジウムは神話研究の課題を探る上で現在でも大きな意味をもつものであるが、そのような状況そのものはまったく解決されていない。

韓国の白頭山と火山王の神話

 さて、これまで火山神話論は、松前健の仕事においても、もっぱらギリシャ・ローマとオセアニア、そして日本の火山についてのみ議論されてきた。しかし、以上のように日本をふくむ環太平洋地帯には火山神話が分布しているということを確認すると、日本列島=ジャパネシアは大陸からつづく火山地帯にも属していることに目が行く。つまり、図■に示したように、ジャパネシアは、インドネシアからフィリピン・台湾・ジャパネシア四島、千島列島と続く環太平洋火山帯に属するとともに、白頭山が聳える長白山脈、さらに内モンゴル自治区に聳える大興安嶺山脈などのユーラシア東端の火山帯にも属している。九州の霧島火山帯から阿蘇火山群、そして出雲の火山帯は、済州島を間におくと、このユーラシア大陸東端の火山帯ときわめて近い位置をもっているのである。
 まずもっとも近い韓国から問題とするが、最初に強調しておきたいのは、日本における神話史料の良好な残存は東アジアでは例外的なものであることである。それは逆に、東アジア神話論においては史料の不在から特定の形の神話がなかったと考えてはならないことを意味する。たとえば、韓国にはソルムンデハルマンという口頭伝承にしか残らない地母神がいる。この神は済州島南部の加波島と島北部の日出峰に足をかけて海で洗濯をしたという巨大な女神であって、袴(チマ)あるいは箕で土を運んで済州島とその山々を作ったといい、また、女神の排泄物は固まって南部の山々になったという。半島の西南部にも同じ女神の説話があり、また巨神の排泄物が積もって白頭山および韓国の山々となり、小便は流れて鴨緑江や豆満江となったという巨人伝承もあるという(依田千百子『朝鮮民俗文化の研究』瑠璃書房、一九八五)。これが文献に記録されていれば、それがイサナミの国生神話と本質的に同じ物語であったことは明瞭であったろう。
 しかし、限られた史料の中からも韓国における火山神話を復元することは可能である。とくに興味深いのは右の伝承に火山・白頭山が登場することで、これについて、私は「白頭山の噴火と広開土王碑文」という小文を書き、倭国神話における地震火山神話の在り方は、とくに済州島や白頭山などの韓国の火山帯にともなう文化と関係が深いのではないかと論じたことがある(『メトロポリタン史学』七号、二〇一一年)。そこで論じたのは、白頭山のそびえる長白山脈に関わって残された高句麗の始祖、朱蒙(鄒牟王)の建国神話であった。朱蒙は『三国史記』では紀元前一世紀後半、高句麗の始祖とされる神話的人物であるが、有名な広開土王碑文(四一四年建立)によると、天帝を父とし、水神の娘を母として、北夫餘(プヨ)に卵の姿で降ってきたが、亀を呼び出して大河を渡り、南下して韓国半島を攻略したと伝えられている。問題は建国の事業がなった後に、「沸流谷の忽本(チヨルボン)の西で、山上に城を作って都としたが、長く在位することなく、天が黄龍を遣わし王を迎えたので、王は忽本の東岡において龍首にのって天に昇った」という神話が伝えられていることである。この帰天の様子は、『旧三国史 東明王本紀』(『李奎報文集巻三』)の方が詳細で、それによれば朱蒙の死去のしばらく前、鶻嶺に山の様子が見えなくなるほどの玄雲(黒雲)が湧き起こり、数千人の人々の上げる声のような巨大な音が聞こえた。朱蒙は、これは天が自分のために作った城であると予言し、実際に七日後、雲霧が晴れるとそこには城郭と宮台ができあがっていた。朱蒙はそこに居を移し、しばらくして天に昇ったというのである。『旧三国史』は九一八年から一〇一〇年頃に成立した書であるが、広開土王碑文の昇天の伝説と相似しており、十分に利用できるものであるという。
 この玄雲は噴火にともなう噴煙であり、大音はその噴煙に宿った火山雷と噴火の爆裂音であろう。黒雲が涌き上がった後、山上に雲霧が立ちこめて七日後に晴れるなどというのも火山噴火の情景と考えてよい。とくに注目しておきたいのは、山上に「城郭」と「宮台」ができあがっていたということである。これは拙著『歴史のなかの大地動乱』で論じたように、火山山頂に磐でできた「宮」や「神宮」が出現するという倭国神話の観念と対応する(本書■■■も参照)。また朱蒙が黄龍に乗って天に昇ったというのも、噴火はしばしば龍の為業とされたことに照応する。「鶻嶺」という山は比定できないが、「沸流谷」は、現在の中国遼寧省の桓仁、つまり問題の長白山脈の南端の西にあたる。長白山脈の北部には大火山・白頭山がそびえるが、その南部に火山神話が存在することは自然である。
 現在のところ、私見のほかにはこの『旧三国史』の記事を火山噴火に結びつけて理解した学説は存在しない。それは朱蒙その他、高句麗・新羅などの韓半島の諸国の神話的な王たちは、日本の神話学の通説では太陽神とされることが多いためである。たとえば日本の戦後派の歴史神話学を代表する位置にある溝口睦子は、一九七四年の論文において、韓半島諸国、つまり高句麗・新羅・加羅の王家の祖の名、高句麗の始祖王、朱蒙の父の「解慕漱」、新羅の始祖王の「昔脱解」の「解」、加羅の始祖王「悩窒朱日」の「日」はすべて太陽の意味であるとした(溝口睦子一九七三~七四。さらに『古代氏族の系譜』)。しかし、溝口が参照した韓国史の末松保和の仕事を読みなおすと(末松「朝鮮古代諸国の開国伝説と国姓」『青丘史草』第一、一九六五年)、この「解」の韓国漢字音(xai、ハイ)は「日」の韓国訓に対応し、「解」の韓国訓(p'ur、プル)は「火」の韓国訓に対応するという。そして王号のなかにある「解」の語義は高句麗の場合には、「日」の意味で、新羅の場合には逆に訓によって「火・火光」の意味ではないかというのが末松の想定である。また「悩窒朱日」の「朱日」は「赤い日」という意味である。「解」「日」が光の意味であることは事実だが、そうだとすれば、その意味を必ずしも「日光」にのみ限ることは適当ではないのである。
 これを問題の朱蒙の物語にそくして点検してみると、朱蒙の父の解慕漱は天帝の子であったという。彼は五竜車に乗り、従者を従えて「白鵲」に騎してまず「熊心山」に降り、腰に「竜光の剣」を帯び、天地を往来していた。そして川神の娘が「熊心淵」のほとりで遊んでいるのに目をつけ、馬鞭で地面に線を引いただけで「銅室」を湧出させ、そこに娘を誘拐して妻としたという。解慕漱は父の川神と喧嘩して天に帰ってしまったため、残された娘は海に棄てられたが、漁師に助けられる。そして彼女は、結局、夫余王の妃となり、窓から入ってきた太陽の光で懐妊して朱蒙を生んだという物語である(『旧三国史』)。この神話を分析した三品は、後半の太陽の光による妊娠説話は「太陽崇拝あるいは光の信仰にもとづく比較的原初的な」「類例の多い」神話であり「日光の降臨」を表現するが、前半部は解慕漱を明瞭に雷神として描き出しており、その「天帝の子としての本質」は雷神のもつ「竜光の剣」によって示されているとしている。三品の判断は、天神の光とは雷光でもあり、日光でもあるが、「神話的に人態化されて語られるときは」雷神となるというものである。
 ようするに、韓国の諸王国の始祖王の神話的性格をもっぱら太陽神とするのは、倭国神話の至上神をアマテラスとすることに対応した一種の思い込みにすぎないのである。実際、早い時期に先のような韓国諸王国の王名に対する分析を行った溝口も、近年ではむしろ彼らに「鍛冶王」の性格があったことを強調している。つまり、朱蒙の父の解慕漱が鞭で大地を画するとたちまち「銅室」が出現したとあるのは、朱蒙が鍛冶に関係していたことを示すとし、新羅王家の一つ昔氏の始祖である昔脱解の神話に「私は鍛冶であった」とあるのも、韓国において鍛冶王神話が確実に存在したことを示すとしている(溝口『王権神話の二重構造』吉川弘文館、二〇〇〇)。この鍛冶王伝説は、三品彰英が朱蒙のレガリヤとしとての「夫婁の宝剣」にふれて鍛冶伝説との関係を重視しているように(「フツノミタマ考」)、太陽信仰ではなく、むしろ雷神の神格として理解できるものであることは明らかである。雷神は剣であり、剣は鍛冶につらなるのである。そして、火山噴火には火山雷がともなうのであって、雷神が同時に火山神であることもきわめて一般的であることに留意されたい。韓国神話の具体的な研究が、雷神の位置を評価し、それを火山神論にまで広げていく可能性は十分にあるだろう。
 なお、溝口が鍛冶王に注目したのは、有名な騎馬民族国家説が韓国の建国神話を鍛冶王神話として扱ったことの影響を受けたものである。溝口はこの立場から、倭国神話の至高神、高皇産霊(タカミムスヒ)が「天地を鎔造した功」をもっていて、日と月から「我が祖(おや)」と呼ばれたという『日本書紀』(顕宗紀)の一節を取りあげた。これは早くから平田篤胤が注目し、本論でもキーとなる史料であるが、溝口はタカミムスヒが「天地を鎔造した」というのは、騎馬民族国家説のいう騎馬民族侵入の時期、五世紀半ば以降、倭国にも「鍛冶師型創造神話」というべきタカミムスヒ中心の世界創成神話が入ってきたと論じたのである。
 私も、大王の歴代でいえばだいたい幼武王(雄略)・白髪武王(清寧)の父子の頃から、その後の内紛期――つまり飯豊(イイトヨ)王、弘計(ヲケ)王(顕宗)、億計(おけ)王(仁賢)、稚鷦鷯(ワカサザキ)王(武烈)にかけて、タカミムスヒの神話が入ってきたことは確実であろうと考える。溝口は、それがより古い紀元前後以来の時代から存在したイサナキ・イサナミ系神話の上に乗っかっていくことによって、倭国神話は「二元構造」を持ち始めたというのであるが、私はこれにも賛同したいと思う。そして、この見通しと整合的な議論をするためにも、韓国諸王朝の始祖王の神話的性格を太陽神に局限してしまう初期の溝口の議論は、そろそろ見なおされなければならないと思うのである。

モンゴルの始祖神話とシャーマン

 さて鍛冶王(Schmiedkonig)(oはウムラート)とは、岡正雄や江上波夫が主張した騎馬民族国家説の重要な一部をなした学説で、ユーラシアの草原地帯にひろがる遊牧狩猟民族の王がしばしば鉱山と鍛冶の技術をもった魔術師、シャーマンであったという学説である。いうまでもなく、騎馬民族国家説それ自体が誤りであったことはすでに明らかになっているが、私はそれに対応して、この鍛冶王神話論も火山神話として読みこむ方向で、若干の修正が必要になっていると考える。
 そもそも神話の舞台となるユーラシア中東部の火山帯は、中央アジアの天山山脈から、アルタイ山脈→ハンガイ山脈→バイカル湖→スタノボイ断層→オホーツク海とぬけていく地溝帯(リフト)にそって広がっている。この地溝帯はインドプレート・アムールプレートとユーラシアプレート本体との衝突によって生み出されたものであるが、この地溝帯の南に広がる雄大なモンゴル高原の東に位置するのが大興安嶺山脈であり、さらに吉林省・遼寧省の大平野をへだてて白頭山をふくむ長白山脈が位置する。アルタイ山脈、天山山脈からアナトリア半島の周辺が人類史上もっとも早く鉱業と金属業が発達した地域であったのは、この火山地溝帯の豊富な鉱物と関係しているのである。
 モンゴル史の村上正二は、イルカン国の歴史家ラシード=ウッディンの『集史』にもとづいて、モンゴルの族祖が出身したエルグネ・クンという伝承地について紹介している(「モンゴル部族の族祖伝承」『史学雑誌』七三編七・八号)。それによれば、モンゴルの先祖がほかの民族のために滅ぼされたとき、生き残った少数の子どもが周囲から孤立した「断崖渓谷(エルグネ・クン)」に逃げ込んだ。子孫が増え力を取り戻した彼らはそこを脱出しようとしたが、適当な出口がなかったために、むかし鉄山の鉱坑であったところに大量の薪を積み、それを七十個の鞴(ふいご)であおり立て、そこを溶解させて、新天地の河畔に飛び出したというのである。村上はこの鉄山鎔解という物語を騎馬民族国家説のいう鍛冶神話によって説明したが、これは溶岩流の噴出の神話化ではないだろうか。右に掲げたラシードゥッディンの『集史』の図は、それを彷彿させるように思う。
 村上は、この地名を架空のものとする白鳥庫吉・内藤湖南などの見解に反対して、『旧唐書』北狄伝の室韋(モンゴル)条に、モンゴルの族祖が「大山」の北の「室建河」の傍らにいたとある史料を解釈して、彼らが七・八世紀には「大山=大興安嶺」の北を流れる「室建河=シルカ河」(現在のネルチンスクから東に流れる河)近辺の「断崖渓谷(エルグネ・クン)」にいたことは事実としてよいとし、この地がモンゴルの故地であったと考えれば、モンゴルはそこから西南にうごき現在のウランバートルの東のブルハン山麓を本拠としたという由来もはっきりするとしている。そうだとすれば、大興安嶺山脈のどの火山を神話の対象にしたかは別として、これが火山神話であること自体はありうるのである。
図5 ラシードゥッディンの『集史』の図(杉山正明2005の247頁を参照というキャプションを入れる。パリ・フランス国立博物館の所蔵)
 大興安嶺山脈北部には、やはり相似した建国伝承地であったとされる北魏拓跋族(四世紀末建国)の嘎仙洞(かつせんどう)も存在し、また南部には契丹(一〇世紀建国)を建国した耶律阿保機の祖陵があるが、現地を調査した杉山正明の報告によれば、それは、「断崖渓谷」の伝説が実在するというべき、環状をなす絶壁にかこまれた窪地の様相を示すという(杉山二〇〇五)。これは相当に根深い神話であったことは明らかである。
 これがユーラシア北方に普遍的な文化であったことを示すのは、トルコ民族が作った最初の遊牧帝国として知られる突厥もほぼ同じような「鍛冶師神話」をもっていたことである。突厥はアルタイ山脈の出身だが、一族を皆殺しにされた男子が雌狼に助けられてその狼と交わり、山中の広大な洞穴で子孫をふやし、やがて洞窟の外に出て鉱業・金属業を営んだという伝承をもっている。彼らが力をたくわえて東北へ移動し、現在のモンゴルの西北のハンガイ山脈のウチュケン山を本拠として建国したのが突厥であるという訳である。
 これがモンゴルの始祖伝承と同じものであることは明らかであるが、突厥の場合、この雌狼はシャーマンの信仰のいうイェキュア(yekyua)、つまり母なる獣(Mother Animal)にあたるもので、これが精霊として成長すると大地母神エデュガンとして大巌山にひそむのだという。突厥の本拠に聳えるウチュケン山は、この大地母神エデュガンと同じものである。ハンガイ山脈における火山活動とウチュケン山の具体的な関係はもとより不明であるが、「鍛冶師神話」を火山神話と読み替えてよければ、大地母神エデュガンは、いわばイサナミと同じ火山の女神ということになる。
 もちろん、「鍛冶師神話=火山神話」説は、現在のところあくまでも仮説であり、たとえばウノ・ハルヴァの『シャマニズム―アルタイ系諸民族の世界像』のような広汎な書物のなかでも、ユーラシアの放牧狩猟民族が火山神話をもっていたという記述はない。しかし、突厥の神話において重要なのは、シャーマン→鍛冶師→火山神話という関係をやや具体的にイメージできることである。村上はシャーマン鍛冶師はカァダイ・マクシンという地獄の閻魔から、その技能を獲得するが、この閻魔は火焔の破片に包まれながら、鉄製の家に棲むものであるというヤクート族の神話をエリアーデの著作から引用している(『エリアーデ著作集』第5巻 鍛冶師と錬金術師)。ここにはポリネシアの地下にすむ地震神や、倭国神話の「根の鍛すの国」にすむ素戔嗚尊と同じような神話の神がいるのである。

中国の雷神と地震神話

 さて、現在の歴史学は、以上のような環太平洋世界、ポリネシアからインドネシア、さらにユーラシア北方から韓半島という壮大な視野で展開される神話学研究に対応して、大きく議論を組み立てていく実力をもっていない。冒頭に述べたように、まずは、各国家・民族の神話の詳細な研究と見直しがどうしても必要な段階である。
 しかし、それは倭国神話の史料の分析に閉じこもっていればよいということではない。むしろ日本の歴史神話学にとって重要なのは、中国の神話史料に慣れ、韓国・日本の神話理解と結びつけて中国神話の理解を刷新していくことである。ともかくも倭国神話の文献史料の理解のために、それは必須の仕事である。そこでここでは、前述のタカミムスヒが「天地を鎔造した功」という史料を切り口として、中国神話を火山神話論との関係でどう理解していくかについて論じてみたい。
 日本の神話研究者のなかで、この史料を重視した議論を展開しているのは、前述のように溝口である。この史料によって溝口はタカミムスヒの神話を「鍛冶師型創造神話」と呼んだことも紹介した通りである。しかし、厳密にいえば、「天地鎔造」の「鎔」とは、鍛冶ではない。「鎔造(ようぞう)」の「鎔」は『和名抄』によれば「鎔<いがた>、鋳鉄の形なり」ということである。つまり「鎔造」とは金属の器を鋳型によって鋳造することであり、「天地を鎔造する」は「天地を鋳造する」という意味なのである*5。それは「鍛冶師型創造神話」ではなく、青銅器鋳造が早くから発達した中国で生まれた「鋳造型創造神話」というべきものなのである。
 拙著『現代語訳 老子』(ちくま新書、二〇一八)で明らかにしたように、この「天地鎔造」とは、梁の武帝の側近、任昉(じんぼう)(四六〇 -五〇八年)の書、「上蕭太伝固謝奪礼啓」にみえる言葉である。この書は『文選』(三九巻)にあって、任昉が父の喪に服するために官職を辞す事情を述べたものであるが、そこに「(自分は)品庶において鎔造を均しきことを示す」とある。つまり自分は多くの人々と同様に天が鋳型に入れてつくった存在にすぎず、特別な待遇を求めないと述べたものである。そして、この書の注にも「鎔造、造化の鎔鋳する所のものなり」とある。
 これまで。この任昉の書に注目してタカミムスヒの「鎔造」神としての性格を論じたのは管見の限りでは幕末の国学者、平田篤胤のみであった。第一章で詳しくふれるように、平田はこの「鎔造」を火山の火と理解する直前までいっていたように思う。もちろん平田の理解は富士・霧島などの日本の火山を念頭においたことで、中国の「鎔造」観念の背後に「火山」の観念が存在したといっている訳ではない。しかし、それが「巨大な火」によって天地が作り出された世界創造神話、いわば「鋳造型創造神話」というべきものであった以上、そこには何らかの形で火山が意識されていた可能性は否定できないのではないか。
 青銅器鋳造の技術が発達した中国では、古くから、天地創成の様子を鑪や橐籥(たくやく)などを用いて金属器を鋳造する作業にたとえることがあった。たとえば『荘子』(大宗師)には「天地をもって大鑪となし」という一節がある。天地とは「大鑪=鋳物の溶鉱鑪」のようなものだというのである。また『老子』には橐籥(たくやく)、つまりフイゴ(鞴)が登場する。それは「天と地との間は、其れ猶お橐籥(たくやく)のごときか。虚にして屈(つ)きず、動きて愈々(いよいよ)出ず」(五章)というもので、現代語訳すれば、「天と地との間はフイゴのようになっていて、天地が上下に運動することによって風が吹き出し、人間などは簡単に吹き飛ばしてしまう」というのである。熔鉱炉(大鑪)に送風するためのフイゴである。さらに『荘子』(庚桑楚篇)は「天の鈞(轆轤)」というものがあったというが、これは、普通の注釈では「天の平均化作用」などと抽象的に説明されるが、実は鉱石を粉砕する強力な「鈞=轆轤(ろくろ)」轆轤のイメージであろう。「天均」で粉砕した鉱石を巨大な「大鑪」に入れ、「橐籥(たくやく)」で送風し鎔解するという訳である。
 重要なのは、鉱石を溶解する熱が雷電の熱と考えられていたことである。唐の天宝年間(七四二—七五六年)の頃の人、張仲甫の『雷賦』という詩には「粤若(エツジヤク)(ここに)古えを稽えるに、太始の初め、陰陽は和して炭となり、天地は張りて爐となり、品類を鎔鑄し、清虚を陶汰す。これを四海と名づけ、これを八區と謂う。陰陽は相い盪(うご)き、感じて雷となる乎。號して天地の鼓と曰う」とある。現代語訳すると「太初の始めに、万物の「陰陽」が合一して燃える炭となり、天地が張り切って丸くなって「爐」のようになって、その内部で様々な類のもの、万物(品類)を金属のようにどろどろに溶かして、そこから清く虚なものを淘汰した。こうして四海や、天下の八區の名ができたのである。そして陰陽が一緒に動いて感じて雷となるが、これはまさに天の鼓である」ということになる。ここでは雷電の熱は、初発に天地を張り切らせて「爐」を作り出した陰陽の熱を引き継いだものとされている。
 ここには雷電と世界の成り立ちについての宇宙論的イメージがある。この天地を造り出す巨大な「爐」にはやはり「火山」のイメージがあったことになるのではないだろうか。朱蒙が火山神話の神であると同時に雷神であったという先述の高句麗神話についての指摘は、中国にも適用可能なのではないだろうか。もちろん、中国大陸には火山帯は走っていない。それ故に火山神話を明示する史料は管見にふれないが、しかし、たとえば『淮南子』(覧冥訓)にある天が傾き火焔が登って、大地が割れて傾き、洪水がやまなかったため、巨大な地母神の女媧が五色の石を錬って世界を補修したという話には、火山噴火の幻想が入っているように思う。また、「火」ということでは、中国神話は雷神のイメージに満ちている。
 中国の雷神神話については松前健が倭国神話の関係で全体を総覧しているのが示唆深く(松前■■■)、中国神話に即しては李均洋『雷神・龍神思想と信仰』が詳細である。ここで述べるのは、それらを参考にした初歩的なものにすぎないが、もっとも有名なのは中国王朝の神話的な先祖とされる「夔(キ)」という一本足で無角の巨牛の姿をした雷獣であろう。その雷光は日月のようで、水に出入するときは風雨をもたらし、雷声を轟かせるという(『山海経』大荒東経)。白川静『中国の神話』によれば、この「夔(キ)」は「帝嚳(こく)」と同体であって、「嚳(こく)」は舜にあたるという。そして、この舜(俊)も同じように雷電神であって、『山海経』(海内経)によれば、弓の達人の勇神、「羿」に「彤弓・素矰」をあたえて下界を治めさせたという。この「彤弓・素矰((白矢))」が倭国神話でも雷電の象徴であることは後にタカミムスヒに即して詳しくみることになる。そもそも李均洋がいうように、「王」という文字は「雷斧」の象形なのである。
「雷斧」の図(『字統』)
 さて、ここでさらに注意しておきたいのは、『説文解字』に「震は霹靂の物なり」とされるように、雷電は地震の原因とされていたことである。たとえば、『山海経』(海内経)の右にみた項目には、俊(舜)は「彤弓・素矰」のみでなく、「息壌」という動く呪能をもつ「土」をもっており、堯舜に続いて王位について夏王朝を開いた「禹」の親であった「鯀」は、この「息壌」を盗んで大洪水を防いだという。注目すべきは、この「息壌」について、『山海経』の郭璞(かくはく)注に「漢の元帝のとき、徐県で地踊ること長さ五・六里、高さ二丈(=一〇尺)。これが息壌の類であろうか」とあることで、この長さ約二・五キロ、高さ六メートルの「地踊」とは地震断層の露頭であろう。漢の元帝の在位はBC四八年から三二年であり、徐県は現在の江蘇省西部、当時は楚国にあたるから、これはBC三七年(建昭二)十一月に斉・楚で実際におきた「山崩・泉湧」という地震のことであろう(『前漢書』本紀。慶松光雄『支那地震史料の研究』二〇五頁参照)。これは、中国神話が地震神話であったことをもっとも明瞭に示す事例であるといってよい。
 さて、中国神話の原型をもっともよく語るといわれる『楚辞』天問編では、「鯀」と「禹」は天地開闢の大洪水を治めた神話的英雄として登場するが、その物語をもっともよく示す『山海経』では、帝王俊は祝融(火の神)に命じて「息壌」を盗んだ罪によって「鯀」を「羽山」という山の下で殺させたが、「鯀」は死して後も三歳腐らず、化して黄竜となり、「禹」を産んだとある。これは素直に考えれば、「鯀」は女媧と同様の地母神であったということを意味する。この物語は、地母神から生まれた「禹」が不眠不休の活動によって母親の「鯀」の事業を引き継いで治水を成功させたという物語なのである。
 つまり、普通、堯舜の名をもって語られる儒教的な聖王の物語は、このようにみてくると、神話論的にはまったく無意味なものであったことが分かる。その実態は実は天の雷帝から地震の呪能をもった土、「息壌」を盗んだ女神が、それによって洪水を治めたという神話的な建国の物語であったのである。しかも興味深いのは、「鯀」は「大魚」の意味があり(『玉篇』)、三品彰英も「鯀」は「鯨」とも解しうるとしていることである(クマナリ考、五一五頁)。本論で述べるように、鯨をイサナというように、倭国神話の地母神イサナミの神名は「鯨女」の意味であった可能性が高く、イサナミが火神ホムスヒを産んで死去し、その遺体から多くの神が生じたという物語が火山神話であるとすると、「鯀」が山の下に閉じ込められて火神祝融に殺され、その遺体から「禹」が生まれたという物語の類似に驚かされるのである。
 こうして中国神話の中心となっていた雷神神話の重要な内容として地震神話があり、しかもそれが火山神話の側面をもっていることは明らかである。そしてこのような神話の組み立てが東アジアの自然神話に大きな影響を及ぼしたことは疑いない。その経過のすべてを追跡することは、この序論の範囲を超えるが、三品はこの地母神、「鯀」と「禹」が「黄熊」の姿をもっていたことが、韓半島からジャパネシア倭国神話、さらに北太平洋沿岸地帯の神話の共通の基盤であり、相互に影響し合ったとしている。
 つまり、「鯀」と「禹」の問題に戻ると、『山海経』では「鯀」は黄竜に化したとあるが、『左伝』や『史記正義』などには「黄熊」に化したとあり、他の史料からいっても、この「黄熊」こそが原型であり、禹自身もしばしば「熊」の姿をとったという。また夏王朝以来、天下に君臨しようとする者、たとえば晋の平公が、疾病中に黄熊の夢をみて夏の祭式に従って「鯀」を祭ったという(『国語』「晋語」)。ここには王権にとって熊祭式がもった意味が示されている。三品が言うように、この「熊」の姿が有名な韓国の壇君神話に影響をあたえたことは確実である。壇君神話とは帝釈天の子、桓雄が太白山の檀木の下に降り立ったが、それを見た雌熊が桓雄と結ばれることを願って祈り、神にあたえられたヨモギとニンニクを食って穴に籠もって人間の女に変身し、桓雄と結ばれて壇君を産んだというものであるが、雌熊が「鯀」、壇君が「禹」にあたるといってよい。そして今西龍によれば、韓国神話の論理のなかでは桓雄が解慕漱、壇君が朱蒙にあたるというのである。ここには「鯀=(雌熊+桓雄)=解慕漱」、「禹=(母熊+壇君)=朱蒙」という等式が成り立つことになる。そして三品は、『旧三国史』に描かれた解慕漱と朱蒙の物語には壇君神話のように直接に雌熊はでてこないが、解慕漱が「熊心山」の上に降ってきて、「熊心淵」で川神の娘を誘拐するというのは、この物語が本来的には「熊」の物語であった証拠であると論じている。これは正しいだろう。
 三品は「熊神話」の広がりをギリシャ神話のアルテミスが水の神であり、月の神であり、狩猟の神であると同時に雌熊の姿をもっていたことから語り出している。そして、熊神話とそれに関わる熊の祭式がシベリアからギリヤーク・アイヌからネーティヴ・アメリカンにまで広がっていることをアーヴィング・ハロウェル「北半球における熊祭式」を縮訳して紹介している。これらの熊の神話と祭式は、中国神話における「黄熊」の存在と深く関係したものなのである。私たちは、それをまったく忘れてしまった。私の場合もそうであったように、そのなかで「日本人」は壇君神話において「雌熊」が登場することについて、しばしば違和感をもつことがあると思う。また「日本人」はアイヌ民族の「熊祭式(イオマンテ)」に対しても奇妙な風習であるという感じ方をもつことが多い。
 しかし、熊神話は倭国神話においても隠れたモチーフとなっているというのが、三品の述べるところである。つまりまず、『古事記』序文に「化熊、川を出でて、天剱を高倉に獲」とあるのは、神イワレヒコ(神武)が「東征」の途次、紀伊国熊野で「大熊」の気にあてられて昏倒したが、「高倉下」が天から下された神剣フツミタマをえて覚醒したという神話をさすものである。これは右にみた晋の平公の逸話のように、天下の掌握を目指すものが「熊」の夢をみるという中国的な物語の文脈をうけたものであるというのである。
 そしてここで何よりも注意すべきなのは、高天原に昇ってアマテラスと争ったスサノヲが直接に出雲に降りたのではなく、新羅のソシモリ(首都)に降りた(『書紀』異書四)、あるいは「熊成峯」に降りたという『書紀』(異書五)の伝承である。三品はこの「熊成(くまなり)峯」は百済王都であった「久麻那利(くまなり)」のことであるとし(『書紀』雄略紀二一年)、この「熊成」は朱蒙の血統をひく百済王家が「熊心山」「熊心淵」の伝承にのっとって朱蒙を祭る場であったとした。三品は、このエピソードは、朱蒙とスサノヲが相似した神として観念されていたことを示すとしたのである。こうして我々が覚える「熊」への違和感は、知らなかっただけという問題であったことになる。
 さて、この仮説を展開した三品の論文「クマナリ考」は一九三五年に刊行されたものであるが、学界ではいわば敬して遠ざけられ、通説化しないままとなっている。しかし、以上のように整理してくると、これに反対することはむずかしいのではあるまいか。そして、すでに別稿で論じ、本書でも再説するように、スサノヲは明らかに雷神・地震神・火山神の三位一体の神であることが文献から論証可能である。三品の学説に、この火山神話、地震神話論を付加するならば、スサノヲの神格が中国の「鯀」と「禹」や韓国の「壇君」「朱蒙」に想定される神格と正確に重なりあってくる。これは倭国神話に豊富な文献史料があることのメリットであるが、今後はむしろそれを生かして、中国・韓国の神の神話的性格を推論していくことも十分に許される方法であると考える。
 そして、そうだとすればもう一つのスサノヲに関する重大な仮説の扱いも変えざるをえないのではないだろうか。それは一九七〇年に刊行された松前健の大著『日本神話の形成』で展開された、スサノヲは本来は「朝鮮系の帰化族の奉ずる蕃神」であったという仮説である。私は、二〇〇四年に刊行した『黄金国家』以来、古墳時代から大和時代の国家は民族複合国家であるという仮説をもとに研究を続けてきたが、その立場からすると、このようなスサノヲ論は十分に説得的なものとなる。また、松前が同書で述べたスサノヲの神名論、つまり、スサノヲの神名は韓国の歌舞降神の巫覡をいうsu-sungから来たという見解は冒険であるようであるが、スサノヲに関する「荒ぶ男」「須佐の神」などの神名論が、いま一つ説得性を欠く中では仮説として成立するのではないかと考える*6。いずれにせよ、スサノヲが渡来系氏族の神であるのではないかという松前の想定自体は、三品の見解とあわせると、その蓋然性を否定できないように思う。

本書のめざすもの

 以上、倭国神話を火山神話として読み解いていくために参考になる神話学の仕事を駆け足で紹介し、火山神話という神話類型の必要性を論じてみた。この仮説によって、倭国神話を一方ではポリネシアからインドネシア、フィリピン、台湾という黒潮の流れの中に位置づけ、他方ではユーラシアの中央北辺から韓国・日本へのベクトルの中に位置づけることが可能になるのではないだろうか。
 岡正雄の仕事を読めば、南西からの神話と北西からの神話がからまりあって日本神話の形成を条件づけたことは明らかであるが、そのさい、その両方に火山神話の要素があることによって、倭国神話は世界でもきわめて独自で興味深いものに組み上がったのであろうと思う。倭国神話の形成に決定的な影響をあたえた中国と韓国の神話と文化を視野に入れつつ、倭国神話における火山の問題を精細に追求することは、ウラルアルタイ系の神話と環太平洋の神話の分布と相互作用、同一性と相違を明らかにする上で決定的な意味をもつに違いない。それは神話時代、そして神話時代から「文明」への移行の時代におけるジャパネシアの自然と人間の社会を考える上での重要な参照枠となるに違いない。

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