流人頼朝の野望――頼朝と伊藤祐親

『中世の国土高権と天皇・武家』からの抜粋

 流人頼朝の野望は、この王権に直結して平氏や頼政を媒介として組織された東国の武家領主のネットワークに食い込み、それを換骨奪胎して自己のネットワークに再編成することにあった。そして以下に述べるように、その最大の手段は東国武士の一族関係に介入することであり、その際、そのなかの女縁に媚びを売って入りこんでいくというのが頼朝のやり方の大きな特徴であったといってよい。
 その様子をもっともよく示すのは、右にみた伊豆奥野の巻狩りと頼朝の関わりであった。頼朝は、平安時代の地方下向者がしばしばそうであったように、いわゆる「国内名士」の一人なのであって、しかもそれが成親―盛頼―頼政などの東国国司との人脈によって支えられていたことは先にふれた通りである。『曾我物語』が明示するように、頼朝は、そのような立場においてこの巻狩りに参加していた。後の石橋山合戦の場で数珠を落とした頼朝が「日ごろ持ち給ふの間、狩場の辺において、相模国の輩、多くもって見たてまつるの御念珠」であると慌てたという話は有名であるが(『吾妻鏡』治承四年八月二四日)、頼朝は狩庭の常連であったのである。『曾我物語』によれば、頼朝は、この巻狩りの余興として行われた相撲が、その勝負をめぐってあわや闘乱ということになった場を冷静に観察していたという。そして、祐親の嫡子・祐通への狙撃も、近くから目撃していた。頼朝は東国の武家領主の家内部および相互の矛盾を敏感に察知し、そこにからみついていくような独特な触覚をもっていたのではないだろうか。
 しかも、問題は、このとき、頼朝は伊藤祐親の敵人であったことである。つまり、この巻狩りの約一年前、「安元々年九月の比」(一一七五年)に、頼朝が、伊藤祐親の襲撃をうけ、這々の体で北条時政の屋敷に逃げ込むという事件があった。『曾我物語』の説明では、その襲撃の事情は、頼朝がしばらく前から祐親の三女に近づいて、千鶴御前という息子を産ませており、京都から久しぶりに帰ってきた祐親が、それを知って激怒したことにあったという。この時、頼朝は、伊藤の館の「北の小御所」を住所としていたが、祐親は、いわば「恩義に対して仇をもってむくいる」ものと感じたのであろう。祐親は、「物封」(物部、もののふ、処刑人)に命じて、すでに三歳になっていた千鶴御前に石をつけて奥山の滝壺へ投げ込ませ、頼朝に夜討をしかけた。『曾我物語』によれば、頼朝は、安達盛長・佐々木盛綱の二人の側近の武士、「朝夕御身を離れざる侍」を「小御所」の防備に残し、単騎、かろうじて北条館に逃げこんだという。このように主催者との深刻な悶着の中にありながら、流人の頼朝が、この巻狩りに参加できたということは、この巻狩りが公的なもので、そこで頼朝が国内名士として認められていたことを物語っているといってよい。祐親も重盛・頼政の姿が背後にちらつくような頼朝を、巻狩りという公的な場所で再度襲撃することはできなかったのである。

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