騎馬民族国家説ではなくて、海民移住「クニ」説。(続く)

20110824、旧ブログ(ココログ)電車の中で書いていたものです。こういうことを考えていたのだという記録に。もう一〇年。

 よる9時30分の総武線の電車。撮影の下準備で思い違いがあり、修正のため、急遽残業。夕食は大学と連絡。新刊の都出さんの岩波新書を生協で買って、それを読みながら、生協で食事。
 あとがきに、黒田俊雄氏が大阪大学に都出さんを招いた経過が書いてある。黒田さんが、歴史学はビッグサイエンスにならなければならないという持論をお持ちであったことは知っていたが、その理由は伺ったことがなかった。文献史学と考古学の学際的な関係ということを目的として、大阪大学の文学部に考古講座をつくる、その意味でもビッグサイエンス化が必要ということであったらしい。なつかしい。
 都出さんの本には騎馬民族国家説が「征服説」の代表として書いてある。「征服説」は一般的な歴史理論の問題として重要であるが、騎馬民族国家説は「征服」ということを具体的に論ずることには成功していない。騎馬民族国家説は、そういう国家論レヴェルの問題ではなく、より、歴史像や方法論に関わる部分で重要。その中心は「天皇族」の朝鮮由来という点であるが、私には、同時に、「学史」の問題として興味深いのである。
 そもそも、騎馬民族国家説に興味があるなどというと、歴史の学会では「莫迦な」という反応があるに違いない。残念ながら、私も、江上波夫氏の図式を中心にする、いわゆる「騎馬民族国家説」それ自体について賛成しようというのではない。その意味では、当時、日本史の側がほとんど拒否反応を示したのは無理のないことだと思う。東洋史からの反応としては三上次男氏の「日本国家=文化の起源に関する二つの立場」という『歴史評論』四巻六号(1950年6月)での批判があるが、これも穏当な批判であると思う。
 問題が「天皇族」の朝鮮渡来ということであっただけに、マスコミでやや興味本位に取り上げられ、学界がそれを嫌った雰囲気も顕わである。しかし、これは提起者に責任がある訳ではない。
 私が感じるのは、もう少し学際的な議論を続けることはできなかったのだろうかということである。もちろん、それは当時の歴史学をめぐる状況の中ではきわめてむずかしいことだったことはわかっているが、ここで戦後歴史学が学際的な議論の重要な糸口を失ったことは事実ではないだろうか。私は、とくに人類学の岡正雄の見解については興味深く思うし、その神話学への影響をふくめて考え直すべきことは多いのではないかと思う。石母田さんと柳田国男氏の対談というのがあって、印象深いものであるが、石母田さんと岡さんの間でなら、もう少し持続的な討議が可能ではなかったのかと考えるのは自然なことである。なにしろ石母田さんの晩年の仕事は岡の議論のフィールドであった南島に関わっているし、石母田が60年代に留学したのは同じウィーンで、Dr.スラヴィクとの関係まで共通するのだから。
 「戦後歴史学」は、学会の中枢を占めていただけに、しばしばアカデミックな雰囲気に流される場合もあった。アカデミズムが決して悪いわけではないが、悪い意味での保守と曖昧主義に流れやすいのはどの業界でも同じ病理である。学際的な議論となると、通常のアカデミズムの領域を半ばこえた最大限の柔軟性やいわゆる「蛮勇」が必要になるし、岡氏の「単系発展段階説」では困るという意見は、論争を必要とする問題提起であったことは正面から認めるべきであったと思うのである。
 さて、私は、「騎馬民族国家説」というよりも「火山国家説」をとったらどうかということを『かぐや姫と王権神話』で書いたのだが、もう一つ、朝鮮半島からやってきた人々の相当部分は、「騎馬民族」ではなくて、「海民」であったのではないかと考えている(これは『東北学』27号に少し書いた)。この面では、騎馬民族国家説ではなくて、「海民移住国家(?)説」ということになる。
 簡単に説明してみると、これは弥生時代の始まりが約五〇〇年さかのぼってBC10世紀から8世紀頃と考えられるようになったことに関わっている。私は、この問題は、学術的な論争のようにみえるが、実は、日本列島の文化の根本的な再考に関わってくる可能性がある問題であると考えている。ここでは、とくにそれが「海」の問題にかかわってくることが重要である。
 つまり、弥生時代が500年さかのぼるということになると、まずは、これによって、縄文文化と弥生文化が接触し関係しあう時期、その「移行」の時期がきわめて長くなり、両文化の連続性の側面がきわめて大きいことが明瞭になる。それは、日本文化の中での縄文文化のもつ非農業的な側面、とくに弥生文化との関係では、海川の漁撈・採集の側面を重視することに結びつく。
 もう一つは、東北アジアとの関係の見直しである。つまり、BC1500年頃、朝鮮半島における灌漑農耕の開始とともに、それまで続いていた朝鮮南部と北九州の間での交流が中断した(『農業の起源を探る』宮本一夫、吉川弘文館)。これは東北アジアの農耕文明の拡大の中に一足早く参加した朝鮮の人々にとって、日本列島との交流が魅力のないものになったためであるといわれている。たとえば、朝鮮半島では、それまで北九州の伊万里から黒曜石を仕入れていたが、その必要が無くなったというのである。
 そして、BC1000~800頃というのは、東北アジアをおおった気候の冷涼化とともに、そういう進んだ農耕文明に達した朝鮮の人々が、ちょうど東南の列島に移住を開始した時期なのである。弥生文明が朝鮮の人々の移住によってもたらされたものであることはよく知られていたが、しかし、それが東北アジアの気候変動と農業文明の動きの中に正確に位置づけられるようになったことの意味は大きい。
 対馬海峡を渡った人々は男が多かったといわれるが、彼らが北九州沿岸につくった村々は、ギリシャが地中海周辺に作ったコロニーに対比されている。そして、ここでも大きく問題になるのは、「海」である。こうして、ここにも、有名な騎馬民族国家説ではなく、海民移住国家説とでもいうべき問題群を発見できるのではないかと思うのである。
 遠賀川式土器の東への普及からみて、彼らの影響は、弥生前期には早くも伊勢にまで及んだという。彼らにとって瀬戸内海から伊勢湾にいたる内海の世界は胸躍るほど豊かなものにみえたに相違ない。そして、このような動きの起点となった北九州には弥生時代の後期にいたるまで何度も何度も朝鮮から人々が移住してきた。土井が浜貝塚の人骨の分析によれば、人類学的形質は、移住の初期から基本的に変わっておらず、それは、朝鮮の故地から世代を越えて同じ場所にやってきた人々の行動形態を示唆しているという。まさに朝鮮南部・加羅のコロニーである。
 さて、こういう風に議論してくれば、話の落ち着き先はいうまでもなく網野善彦説ということになる。つまり、網野さんは、岸俊男氏にさそわれて中央公論のシリーズ『日本の古代』に海村についての論文を出しているが、そこで、宮本常一氏の仕事に依拠して西国から東国への海民の移動を論じている。きっかけは岸さんの武内宿弥論、「紀氏論」にあるのであるが、これは平安時代以降の歴史学の立場からの海民論として重大な問題提起であると思う。驚いたのは、網野さんの紹介した、朝鮮済州島の海女たちが、戦前には定期的に房総の海にやってきたという話である。これを現代のこととのみ考えてはまずいと思う。
 朝、総武線の中。

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