著書公開『中世の国土高権と天皇・武家』第七章。「土地範疇と地頭領主権」

土地範疇と地頭領主権                
問題の所在
 かつて大山喬平はその論文「国衙領における領主制の形成」において、太良庄の史料を取り上げ「勧農権とは下地進止権の根源形態にほかならない」という著名な命題を提出した*1。その根拠は太良庄に関する一二四七年(宝治一)の関東裁許状案(『若狭国太良庄史料集成』①三七号文書、「東寺百合文書」エ函二)に、「一、勧農事」とあった部分が、一三二二年(元亨二)頃に作成された東寺供僧目安太良庄所務条々(同史料集成②三三七号文書、「東寺百合文書」ヒ函二七六)では、「一、下地事」となっていることにあった。これについて大山は「宝治元年に太良庄の勧農権の帰属を規定した下知状の条項が、ずっと時代がさがって正中年間((マゝ))には、下地進止権の帰属を表示するものとして新しく解釈しなおされているのである」とのべている。大山は、鎌倉中期頃までの領主権は「勧農権という、より農業経営に密接した概念」、根源的な形態で表現され、発展した領主権=「下地進止権」はその後にくるというのである。
 歴史分析において史料の具体的な表現の相違に着目することとは魅力的な方法であるが、しかし、この二つの史料の対比から、このような結論を導くのは早計ではないだろうか。そもそもこの二つの史料の示す相論では共通して「満作せしめんがため、預所、農料を下し斗代を減じ」という勧農行為を預所側が行ったか、地頭代の側が行ったかが問題となっており、相論の論点は、その限りでは変わっていない。後者の史料によって、「勧農」が「下地進止」の前提となっていることは明瞭であるとしても、前者の史料の段階では「下地進止」の概念が存在していなかったといえるかどうかは史料から確定できることではないだろう。現代の法廷ならば別として、一定の時を離れた幕府法廷の訴訟文書の比較によって、「勧農権」が「下地進止権」に法原理的に再措定されているとまで主張するのは、無理が多いのではないだろうか。後にふれるように下地という用語は鎌倉幕府の一種の法廷用語ともなって使用頻度を増していったから、大山のいうような「解釈のしなおし」というものがあった可能性は否定できないが、それは用語の問題にとどまるとみておくことも可能ではないだろうか。
 もちろん、「勧農権とは下地進止権の根源形態」であるという大山の命題自体は、「勧農権」とか「下地進止権」という用語が適当かどうかは別として、基本的に正しいものである。研究史上、この大山の問題提起は勧農の問題をとらえていく上で、重要な位置をもった。しかし、そうであるだけに、この勧農なるものをどのような意味で歴史的に位置づけるかは領主制論にとって重大な問題であったこともよく知られていよう*2。大山見解においてまず問題となるのは大山が右に引用した文章に続けて「下地進止権というのは封建的土地所有関係の最も完成された形態に近い概念を有するものであるが、平安末期から鎌倉時代初期にかけての時代においては、かかる土地所有の形態はまだ形成途上にあったと考えられるのであって、その具体的な形態は勧農権というより農業経営に密着した概念で表現されていた」としていることで、つまり、大山は、ここに領主的土地所有の未成から成立という段階的相違をみているのである。その過程を大山は「かかる勧農権=領内沙汰権の具体的な遂行とつみかさねのうちにこそ、在地領主の領内農民に対する統制力の強化と下地進止権を具体的に把握する過程が進行していくのである」と説明している。このような段階規定を一般化すれば、太良保のような別名の形成期においては、耕地の満作強制、種子農料の下行・貸付けなどを実態とする勧農なる行為は領主的な所有の一環としては確定していないという結論がみちびかれることになるのではないだろうか。
 もちろん、大山の見解は平安期の領主制をめぐる論争の初期段階に属するものであり、このような点はことあらためて指摘すべきことではないのかもしれない。むしろ大山が、この論文において「一時期のごとく、国衙をたんに封建制成立の障害とし、これをあくまで古代的とのみ画一的に把握しつつ、そこに内在する諸矛盾の結果としてひきおこされる国衙自体の一定度の偏執にめるむけないというう分析方法はもはや許されないであろう。以前の分析の仕方は封建制形成過程にみられる王権の歴史的役割を正当に評価する道をとざしてしまう危険をはらんでいる」と述べ、領主制と国衙の関係、領主的土地所有の公的な性格を実態としてとらえていく議論を提出したことこそを読みとらねばならないというべきであろう。この大山の論文が、公権と領主制との関係を追究するなかで、大田文論のなかで勧農と別名を位置づけることに挑んでいることもあわせて、これらは本稿の検討のもっとも大きな前提をなしている。
 しかし、その上で、大山の主張について、現在、整理しておくべきなのは、そこでは領主的な土地所有が「下地進止権」という形で、やや理念的にとらえられすぎていることである。そしてここで前提とされている「下地」という土地範疇の理解は、結局、中田薫に依拠しているのではないか、またその領主制形成過程における公権の位置という議論も、無意識に中田の影響をうけているのではないかというのが私の疑問である。後にふれるように、このような土地範疇の理解をめぐる問題は王権・国土高権と領主権、大田文と土地行政などの全体にかかわってくると考えている。
 本稿は、以上のような立場から、この時期における土地範疇論の構築を目ざし、「地本」*3という言葉と「下地」という言葉を対比することを切り口として,まず第一節で平安時代における土地範疇の語義構造(オントロジー)について「地本」「下地」「地頭」などにふれて論じ、第二節において、鎌倉初期国家と土地範疇の関係について論究を進める。
Ⅰ国衙荘園体制と「地頭・地本・下地」
 土地範疇論が大塚久雄『共同体の基礎理論』にさかのぼる古典的な理論問題であることはいうまでもないが*4、本稿では、網野善彦が王権の統治根拠としての無主の大地の領有という図式にもとづき、そのような無主の大地を表現する言葉として「地」という用語を摘出したことを最大の前提として議論を進めたいと思う*5。
 ただし、網野は、これを具体的に論じた訳ではない。網野は、「田地・畠地」などと表現される「地」の中にも「本来、大地とでもいうべき一般的な用語」の側面、「無主地」の「地」という側面が潜在しており、このような「地」の分化は平安時代に始まったと一般的な想定をするにとどまっている。網野の注意したのは、この時代、「屋地、田地、畠地、山地、野地、林地等々、『地』の性格を示す語が付されるようになるとともに、(他方で、筆者注)『地』は明瞭に都市的な場の地種を表しはじめる」とあるように、むしろ都市の土地制度としての「地」の問題であった。しかし、重要なのは、平安国家の統治権と王土思想を表現する章句に、「王者の地限り有り」(『平』三七五)、「九州の地は一人の有なり」(『中世法制史料集』巻六第一条保元元年閏九月一八日宣旨)などと、「地」という言葉が使用されていることであって、このことの意味は、網野の想定を前提としてはじめて理解できるのである。
 とはいっても、網野の指摘が見通しにとどまっていることはいうまでもなく、この問題をさらに具体的に取り上げるためには、やはり、いわゆる負名体制論を前提として前期平安国家、王朝国家の土地所有の国家的性格を論じた戸田芳実の国衙荘園体制を出発点とせざるをえない*6。戸田は網野と共通する視角から、「国家の『領土高権』」「公田における国家の土地所有」*7を論じたように思う。そこで、本稿では、戸田のいう国衙荘園体制を、斉藤利男のいう国衙支配の基礎としての郡司刀禰組織を中軸とするものと捉え直し*8、その中で都市貴族ー地方貴族ー地域村落社会を結ぶ公田と荘園の支配関係が形成されていた体制として再規定する。本稿は、それを前提として、戸田がおもに論じた王朝国家期をこえて、院政期国家から鎌倉武臣国家にまで論及を拡大したい。
 もとより、これを厳密な意味での土地範疇論に踏み込んで追跡するための史料は絶対的に不足している。それゆえに、本稿も、かつて中田が「王朝時代の法制を継続し発達せしめたるに過ぎざる鎌倉以降の法律史料に顕れたる事実より、逆推し推論しうるのみ」*9と述べたように、鎌倉時代の史料から「逆推・推論」して議論を構築することになる。私は中田の議論はきわめて問題が多く、それを根底から乗り越えていくことがきわめて重要だと考えているが、本稿で提出しうるのは、上記のような限られた視角からの問題提起にすぎない。ともあれ、議論すべき問題はきわめて多く、可能ならば御批判をうけ、それをふまえて必要な検討をつけ加えていきたいと思う。
①地本・畦本・縄本と勧農。
地本と畦本・縄本・注連本など
 「地本」の語の読みが「ぢもと」であることは、「ちうち((住持))のもとにちもとをつけらるべし」(『鎌』一七〇八六)、「かのたやしき((田屋敷))は、ちもとにおきては、けさくま((袈裟熊))かてより、うけとるへし」(『鎌』一七一〇三)という鎌倉時代の二通の仮名文書によって知ることができる。右の文書で、「地本」といわずに「地」とのみいえば、「住持の許に地を付けらるべし」「田屋敷は、地におきては、袈裟熊が手より請け取るべし」となるが、これでも発音と意味はほとんど変わらない。また後にふれる永仁年間の日前宮の土地帳簿類のうちの秋月郷検田取帳*10には、他の検注帳において「無地本」とあるところが「地無云々」と言い換えられている。この限りでは「地本」という語は「地」と同じ意味であるといえよう。「本」という語尾は*11、「地=ち」一語のみでは発音上も仮名表記上も明瞭性を欠くために加えられたといえるのかもしれない。
 しかし、この「もと」という接尾語素は「縄本・畦本」という語との関係で理解すべきであろう。竹内理三によれば、「縄本・畦本」とは畦畔の直下=「本」に存在する長地形耕地、つまり畦畔の直下に、その射影としてのびる細長いゾーンを意味した*12。つまり、縄による空間分割の直線性に意味があったことは、ある荘園の堤面に開発された新開田が、地点によって作柄が不定であったために「毎年、作不は増減あるの間、惣別ともに寄り合い、下地に縄を立て、孔子をもって計らい中分すべきなり」(『鎌』二二一三四)と約束されたことよく示されている。ここで「下地に縄を立て」といわれていることは、縄などによって作られた畦畔の人為的な直線がそれ自身で”目「立」つもの”であったことを示している。古島敏雄は「土地に刻まれた歴史」といったが、条里地割の単位をなす坪並のメッシュがむしろ縄のマークによって作られている点にこそ注目せねばならない。
 このような縄本の意味を示すのは、ある荘園で発生した「堂家領之坪ゝニ悉被立注連、号注連之本ト、被取数多候畢」という事件であろう(『鎌』七六一九)。この「坪々」に「注連を立て」という場合に、注連は畦畔に張られたものと考えられ、その下の田地を「注連の本と号して」占取するという土地領有の作法は、「縄本」という用語の基礎にあったものをよく示している。畦畔の直線を注連によって押さえることができれば、その射影=「注連の本」=「地本」を押さえ直すことが可能になるのである*13。また、現在のところ一例のみではあるが、土地売買にさいして、「但本券者、付畦本畢」(『鎌』八〇一五)という形で、本券が「畦本」に留保されたという事例が確認できる。しばしば「本券は類地あるにより副渡さず」として本券が本名の側に留保されたことはよく知られているが、本券留保の主体としての「本名」「名本」が「畦本」といわれているのである。ここで詳論する用意はないが、「本券=名」への田地の包摂は、史料的に「類地」の中に探ることが可能であり、「名本」が「畦本」に置換可能であるとすれば、名の「類地」編成において畦畔システム=畦本が具体的な意味をもっていたことが推測されよう。
 これらの「縄本」「注連の本」「畦本」をより一般化した言葉が「地本」であった。そもそも『日本国語大辞典』(小学館)は「もと」を「立っているものの下部。根のまわり、物の近く、根拠地などを示す。『国もと、そこもと、足もと、手もと、ねもと、ひざもと、枕もと』など」と説明している。「地」が立っており、かつ下部があるというのはおかしいようにも思えるが、しかし、昔の庶民は微地形の高低に敏感であり、「地」をフラットなものとは考えていなかった。そして「縄本・畦本」は「地べた」にいたりつく。こうしてたどりつく分割された「地」が「地本」であったのではないだろうか。もちろん、「地」の本という場合に、語義的にはそのすべてを「縄本・畔本」、つまり田畠と等置することはできないが、しかし、実際には、「地本」は、一町四方の畦畔の坪並のメッシュの下に占取されている田畠を呼称する用語なのである。より一般的な言い方をすれば、「地本」とは自然としての大地―「地」―を空間的に占取・管理する際にしばしば使用される言葉であったといってよいだろう(なお、畠・畑については独自の問題があるが、本稿ではふれない)。
 「縄本」=地本の支配と管理は、平安時代の国衙の公田支配と土地行政の基本であった。一一四四年(天養一)の鳥羽院庁下文は、国司の「毎任」に「郡司刀禰等は国衙の進止として、検田・検畠の時、彼等をもって図師として沙汰をいたす」(『平』二五四一)としている。そして図師の職掌とは同下文が「條里坪並、図師をもって明鏡となす、彼等を相具せざれば、誰人をもって阡陌を分別すべきや」と述べているように、まさに阡陌=畦畔の管理にあった。ふるく清水三男が述べているように、刀禰=図師は本質的には、方位決定・測地などをささえる職能性、「測量製図の技術者」としての性格を帯びていた*14。別稿で述べたように、彼らは堺の検証や土地売買などに際して、しばしば「破定」と呼ばれる縄を使用した地割確認を行ったのである*15。このことは彼らがまさに條里の管理者あるいは敷設者であったことを示している。
 さらに注意しておきたいのは、そのような「破定」(地割)の権限が坪の内部にまで及んだことであって、それは「半折」「ハヲリ」の田地(長地形耕地ではない矩形田地)が、平安鎌倉時代には「半破」と表記されていた*16ことに示されている。そして、「山かつのそとものを田のかたあらし こぞのつくりはしめもおろさず」(「夫木和歌抄」雑部一二、田家)という和歌に着目して戸田が論じたように*17、平安時代の耕地は開放耕地制の下にあり、冬季は休閑地として牛馬に開放されたが、春には「四目」をおろして耕作を表示した。残念ながら、そのような春の縄の様子を具体的に示す文献史料はないが、畦畔の縄システムは、この耕作権を表示する春の注連縄を毛細管として具備しており、それによって地本をおおっていたはずなのである。
地本と位置指定・面積
 地本が畦畔メッシュによる空間分割システムと密着した用語であるということから、地本の語のニュアンスが明らかになる。つまり、まず「地本」は「在所」と同じように地名を含意し、位置指定の意味をもった。普通、売券などの土地表示においては「在」という言葉が使われるが、この「在」は「ありどころ」と訓読される場合があり、実質上は「在所」と同じことであるらしい*18。在所は、『名語記』(四)に「田畠の在所をよくしれる人也」とあるように位置を示す用語であり、より具体的にいえば「荒野在所者、熊谷池之尻也」(『鎌』三九七三)、「在所ハエリカクチ」(『鎌』五〇四三)などとあるように地名を指称する。そして「合壱段餘者<地本者八条大宮、自大宮東、/自八条南、大宮巷所懸>」(『鎌』一〇二五二)、「地本者 名手庄江川村」(『鎌』三一四九一)などの史料は「地本」がこの「在」(ありどころ)「在所」とほぼ同義で地名を指称する用語であったことを示している。後にふれる日前宮の永仁検注帳で「地本なし」が、「在所無しと申す」*19「無在所」「無在所云々」*20などと言い換えられている例も注目すべきであろう。もちろん、他面、豊後国大田文に「所の名ありといえども、地本を知らざるの由、風聞」とあるように(『鎌』一五七〇〇)、位置指示を包含するとはいっても、地本は「所の名」=「在所」とは異なったニュアンスをもっている。「合壱町一反小者、ありところ・つほつけハ、くハしくほんけんにみゑたり」(『鎌』六〇二四)、「云田畠里坪、云在所名字・員数」(『鎌』二四六二五)などという文節において「在所」と「里坪」「坪付」とが区別されていることからすると、「地本」は、在所の意味と近接するものの、狭義にはもっと厳密な位置指定、「里坪」「坪付」、すなわち畦畔メッシュによる位置指定と空間分割を本質としているのである。
 また条里制=畦畔メッシュの可算性との関係から、地本の語が面積表示に使用されることも注目しておきたい。鎌倉期の文書には地本の用例が全体で五一件あるが*21、このうち、土地の位置・面積の記録、つまり土地帳簿類に登場する用例数が一〇件、全体の五分の一を越える*22。そして、地本が直接に土地の総面積・総田数の積算結果について使われている場合が、そのうちの三件に上る。第一は、越後国奥山庄の例であって、その田地注文は、冒頭に「合 ちもと十一万三千二百八十刈」とした後に、各耕地ブロックとその「刈」数を列挙している(『鎌』九八四〇)。「刈」という面積単位は粗放な耕地システムを表現しているが、総面積が「地本」といわれているのは、後述する隣接の小泉庄のような道路と畦畔の形成が進行中であったことを反映していると考えたい。第二は、高野山灯油畠下地四至并負所注進状であって(『鎌』一〇五八四)、この注進状は負所(この場合は灯油を負担)とそれが含まれている「下地」を書き上げている。そして、そのおのおのの総計が、負所については「已上負所」として、「下地」については最後に「地本都合」として記されている。これを「下地都合」としなかったのは、面積に注目する場合には、「地本」という用語がふさわしかったために違いない。第三は、弘安十年九月十九日の東大寺領某庄の分米注進状であり、坪内の田地の反歩数と得米を書き上げた最後に、「已上地本六町貳段六十歩」と総計している(『鎌』一六三四五)。残念ながら、第二の例も第三の例も、前欠で詳細は明らかではないが、このような例は多かったであろう。
「地本無し」と「荒」
 地本のもう一つのニュアンスとしては、「地本」がしばしば「荒」との関係で登場することがある。たとえば、伊勢大国荘済物注文に、桑代の糸の貢進に関係して「近年、地本の荒により減ぜられ了」「近年、名ゝの地本荒」などとみえるのは、「流失」「中溝埋」「洪水」「大水埋」などの「荒廃」を示したものである(『鎌』二二九六六)。武蔵国称名寺領上総国請地等注文に「埴生郡永吉郷一町一反<但し地本無により九反大に定む>」(『鎌』二九〇二二)*23、下総国香取社領の葛原牧小野織幡地帳にも「十二ゝ(坪)金丸三反<此内一反、地本無と申し候、> <ヨシハラ>権次郎」(『鎌』八七三七)などと、「地本なし」という表現がしばしば登場することもおそらく「荒」を意味するのであろう。
 とくに最近、新史料が紹介された紀伊国日前宮文書には「地本なし」という記載が集中している。これは右の伊勢や東国での諸例とあわせると、この表現が鎌倉時代以降、各地の史料に現れることを示す。たとえば、日前宮領太田郷検田取帳によれば、同郷は惣田数七四町余、その内、「川成・不作、四町一段百十歩」「(他郷からの)出作三町一段小十歩」で、それらを差し引くと「本田」六十七町余となるが、この取帳には七筆の「無地本」の土地が記録されている(総面積二反一六〇歩)。詳細に計算すると、これは「川成・不作」の項目に繰り入れられている*24。検注帳の田地記載順序は、どの田圃からはじめてどこに行くかという検注の順序、検注使の歩く順序を反映している*25。それ故に、この「地本なし」とは、坪並に沿って歩いていく中で、該当の土地を確認できなかったことを意味するのであろう。そしてそれが「川成・不作」の項目に集計されているということは、かつて登録されていた土地が「川成・不作」と同じような確認不能の状態になってしまったことを示す。
 大田郷には満町坪が三三町あり、それに準ずる九反坪が三所、八反坪が二所あり、それらのみで本田数の五割を越えるが、その中に「地本なし」という記載はなく、「地本なし」と記載された田地は、ほとんど坪並の中の単筆の田地にバラバラに散在していることも特徴的である。「地本なし」が荘郷四至内の周縁部を蚕食するように広がっていることになろう。「地本なし」と「荒・年荒・不作」などの関係はさらにつめるべき点が多いが、一般にはそれは、田地の畦畔構造に問題が発生し、畦本・縄本という表現ができない状態に陥った土地を意味するといえよう。加賀国得橋郷の内検田数目録には除田として「川成、不作、畠成」などと並んで、「失坪(うせつぼ)」という言葉がみえるが、これがまさに「地本なし」の別の表現であるのではないだろうか(『鎌』二三七一二)。
 やや時代が下るが、一三七五年(永和元)の日前宮所領の段別結解状写に*26、「四反内二反<讃岐守給/一反屋敷分給、一反無地本>、畠三反<無地本>、乙鶴丸給」などとみえる「地本なし」も同じことである。つまり、この結解状写の本文には田畠あわせて総計一四筆の「無地本」の耕地が書き上げられている。これらの「無地本」がおのおのどのような具体的事情にあったかは不明であるが、しかし、この帳簿の後半に「無地本分」として集計されている耕地は、田の無地本分が一四筆、畠の無地本分が一〇筆で、総計二四筆となっている*27。つまり、本文と集計の間には田畠一〇筆の差があることになり、これは不審であるが、詳しく見ると、そのうち五筆は本文に「川成堀代」「川成」とあるものが「無地本」の集計に入れられていることがわかる。つまりここでも、「川成」が「無地本」の一種類と分類されているのである。そこからするとおそらく本文の一四筆の田畠「無地本」は「不作・荒」を意味するのであろう。ただ注意を引くのは、差額一〇筆の残りの五筆のうち、二筆は「屋敷代給」「屋敷分御申候」とあって、田畠から屋敷への地目変更であるから、屋敷となって畦畔の縄張りからはずれることも「無地本」と呼ばれたようである*28。
「本券なし」と勧農
 「地本」とは人間が自然を占取する境界において畔や縄などにそくして意識される言葉であったことは、以上によってほぼ明らかになったであろう。しかし、荘郷における「地本ー地本なし」の対照は、畦畔という物的施設のみでなく、法的・社会的にも明瞭になっていた。つまり、一〇世紀以降の経過の中で、地本の田地について相当の量の公験が蓄積される結果となっていたと考えられる。公験とは国衙の土地行政を担った郡司刀禰が土地売買などにさいして証判したものであるが(「国郡の立券」)、平安時代末期になれば、荘園内部には公験のある土地とない土地が入り交じる状態となっていたはずである。その様子を地本との関係で示す史料として、かつて永原慶二が取り上げた一一九七年(建久八)二月の石山寺領名寄帳の記載が注目される(『鎌』九〇三)*29。
<『給免二丁四反大』>
 真住四町二段<川成二反>     三丁五反大有券契、残一反小無券相伝、
                  下人国方之子息四郎丸領也、仍逃亡之跡也、
                  残新開発、
<『已給免』> 
 清沢一町七段二百十六歩      一丁六反二百十六歩有券契、残一反無契、
                  地本給了、
<『給免一丁八反』>
 安延二町玖段百六十歩<常荒二反小/水損小>一丁大有券契、自余地本給了、又
                  新開□也、
 上記は永原が引用した二町から三町という大規模名の記載部分であるが、ここで注目されるのは、永原が「名内には券契をもつ基本耕地のほか券契のない、新開墾地が少なからずふくまれていた」としたように、無券の開墾地が記録されていることことである。つまり真住名四丁二反のうち、三丁五反二四〇歩には券契があり、残り一反一二〇歩は無券で「下人国方の子息」「逃亡之跡」であり、さらにその残余(五反)は新開発のために無券。清沢名一丁七段余のうち、一丁六段余は券契があるが、残り一反は無券で地本を給付した。安延名二丁九反一六〇歩のうち、一丁二四〇歩は券契があり、残り八反二八〇歩はやはり新開発で地本を給付したという。文脈上、「無契=新開=地本給」といえよう。
 さらに興味深いのは、この名寄帳にはより小規模な名についても「<『已給免』>千金三段、地本給了」などの記載があることである。武沢、花道、菊成、暹秀、林実、菊定などにも同じような記載があり、それらもやはり三段前後(暹秀のみが五反とやや大きい)の小規模名であり、しかも「已(すべて)」もしくは一部が給免分となっている*30。これらの小規模な「地本給」も小規模な開墾や不耕地の耕起によるもので「無契」のものが多いであろうことは容易に推測される。
 逆にいうと、この帳面において「無契」「地本給」などの注記のない耕地の相当部分は「公験」をもっていたということになる。このような「券契」と「無券」の対比を農民的土地所有の内部にふみいって問題とすることに成功したのが、笠松宏至の著名な論文「本券なし」*31であった。それによれば、土地売券などにおける「本券なし」という記載は、小規模な開墾・屋敷地・下人追却跡(の挙地(あげち))、山などに特徴的で、本来、「無主地」、つまり自然に近接した土地が契約と文書の世界に組み込まれる時に発生したという。興味深いことは、この石山寺名寄帳においても開墾や下人逃亡跡が同じように「無券」とされていることであり、笠松が挙例した売券ではなく、より俯瞰的な史料である土地台帳によって同じ結論が導かれることである*32。
 問題は「地本給了」ということの意味であるが、これは単に土地を給付したということでなく、新たに開発=田起こしされた「本券なし=無地本」の土地を「縄本」=地本に区分・編成の上、給付したということであろう。そして、「勧農帳=名寄帳」であることからしても*33、また二月の勧農の季節に作成されたことからしても、この石山寺領名寄帳が春の勧農にともなうものであったことは明らかである。勧農行為と地本への編成は深く関係しており、勧農帳とは「無地本」の地を「地本」に組み込む過程を表現する台帳であったともいえよう。「地本」の用例それ自身が少なく、厳密な論証は難しいが、しかし、たとえば、一二三八年(嘉禎四)二月下旬、松尾社領丹波国雀部庄の地頭飯田光信が現地に下向し、「在京の資縁のため、前々に増して」「一・二町を作り立てんがため、種子・農料を下行」した際、「今年はじめて地本を百姓に分け下し」たという(『鎌』五三一五)。この場合は、下司名田であって、しかも百姓から「種子ばかりを下行し、食料を下行せず、村別に二段押し懸ける」という抗議を受けるという実態であったが、時期は、二月、すなわち勧農=散田の季節であり、この史料も勧農の下での「地本」の充行と理解できるだろう。
 また、時代を大きくさかのぼって、一〇世紀半ば、丹波多紀郡衙が有していた「播本帳」の「平秀・勢豊等名」に調絹を付けられたという、研究史上、著名な事例も想起される(『平』二四〇)。従来「本帳を繙くに」と読まれていたこの一節を、稲垣泰彦が史料の記載通りに「播本帳(まきほんちょう)」とよみ、青苗簿類似の本帳としたことはよく知られているが*34、さらにいえば、これは「播本(まきもと)の帳」と読み、おそらくは畔から直蒔きした「本」、つまり「口分」=公田班給にあたって「畦本」を書き上げた勧農帳(=散田帳)類似の帳面なのではないだろうか。このような名称は、新たに墾(は)られ、「耕種」した小規模田地=「散田」として掌握する帳面の名にふさわしい。少なくともそれが勧農帳がつねにそうであるように名寄の形式をもっていたと考えられることに注目しなければならない。
 山本隆志によれば鎌倉期における勧農は、種子農料の下行、百姓逃死亡跡の再開発、名・一色田の編成、灌漑労働などの百姓賦役の編成をその内容とし、その対象は「荒廃田・年荒・常荒・百姓逃死亡跡」「田代」にあったという*35。これは笠松のいう「本券なし=無主地」、つまり「無地本」の地種と見事に照応する。そもそも勧農とは、毎年春、公田耕作を督励して分散的に存在する「年荒・田代」=「散田」を登録することを本務としており、これによって収納対象となる耕地面積ー「地本」が確定され、それが検注・収納と続く公田・荘園の「所当」収取システムの前提=結果となる。それは大山のいうように「農業経営に密接した概念」ではあるが、その特徴は戸田のいうように「かたあらし農法=開放耕地制」*36に対応する支配過程であり、耕作強制なのである。冒頭に述べたように、大山は勧農を基礎として「下地」という範疇があるとしたのであるが、勧農はそれ自体に対応する土地範疇として「地本」をもっていたといわねばならない。勧農と下地進止という問題は土地範疇のレヴェルにおいては地本と下地という形で置き直して問題とする必要があるのである。
 以上をまとめると、「地本」とは、畦畔システムの下に領有された大地の位置と面積を表示する、「縄本・畔本」などと表現される行為としての土地占取の形態を抽象化した用語であり、本来は、国衙荘園体制における郡司刀禰などによる公田支配の中で形成された土地範疇として公的な性格をつよくもつと同時に、年貢所当額に連動する制度的な数値である。そして、それはそのような抽象性において、平安期国家の「勧農」に対応し、さらに無主・無用な「荒廃」をふくむ自然一般に対する「領土高権」を表現する「地」に隣接する範疇であったということになる。
②「下地」の語義と不動産
「下地」の語義 
 中田薫は下地の語義を「真の土地」あるいは「下地(地盤)」とする*37。下地は”下にある土地”、”物質としての土地”という超歴史的な自然を表現する言葉だというのである。これが通説であって、最初にふれた大山の見解における「下地進止権」という用語もこれによっていた訳である。
 しかし、下地の語義は単純ではない。まず『日本国語大辞典』(小学館)は下地の語義を「①物事をなす基礎となるもの。下ごしらえの準備。土台。素地。②(助枝とも書く)壁土を塗るための基礎。木や竹の細い材を縦横に組んだ壁の骨組。壁下地。③生まれつきの性質。素質。天性。生まれつき。④中世、年貢、雑税など、領主の収益の対象となる荘園、所領をいう。⑤心の奥。本心。心底。⑥(味付けのもととなるものの意から)しょうゆ。また、天ぷらやそばなどのつけ汁をもいう。⑦芸妓・娼妓などになるための見習い期間中の者。またその期間。⑧元来。もともと。もとより。副詞的にも用いる」などとする。
 検討の出発点は、安田次郎が室町・戦国時代になると、「下地被官」が「本来の、元々の被官」「譜代被官」という意味で使用されると論じたことである*38。これは右の辞書でも③の用例として『沙石集』の「賢きしたぢ無くして俄に菩薩になり難かるべし」という例がとられている。次に注意すべきは、平安時代の『和名抄』の「助枝」、鎌倉時代の『名語記』の「染めぬる下地」があがっていることである。『平安遺文』『鎌倉遺文』の検索によれば「壁下地料榑」「土壁、下地を構ふといえども、未だ塗らず」などの例を追加することができる(『平』三八七九、『鎌』九七三七)。つまり下地という言葉は漆や壁塗などの手工業分野で早くから「土台・素地・下ごしらえ」などの意味で使用されていたのである。「下地」を「土立チノ堂」の「板敷」の下の「土(つち)」という意味で使用している珍しい例も、この用法と連接していると考えてよい(『鎌』二三八〇六)。以前、これまでもっぱら農村的な用語と理解されてきた「作手」も、手工業分野での用語が転用されたものであることを論じたことがあるが*39、これも新しい語彙がしばしば都市や手工業の部面から発生し、分業分野を超越して流通していくことを示している。
 下地は右の辞典のいう②の手工業的な素地・下ごしらえなどの意味から始まり、①・③の「基礎・下ごしらえ・土台・素地、生まれつき・天性・素質」などの一般的意味に拡大したのである。これに対して下地=土地という用例は辞書でも四番目の位置にあり、下地の語史の全体の中では、むしろ特殊的・派生的に、耕作その他の特定の具体的な有用性のために占取され、下ごしらえされた土地という語義をもつようになったのであろう。地本が無主の自然を支配する行為そのものにそくして土地を表現するカテゴリーであるのに対して、下地とはそれを前提として、すでに有用的に占有された土地に対応するカテゴリーであると考えたい。土壌は、団粒構造、植物根・小動物の運動、そして水脈の透過にいたるような生態学的構造をもっており、それは前近代においても認識されていたはずである。人々は、壁の内層に「助枝=下地」を透視し、漆塗の下に木地を透視するように、具体的な労働の中で、土地の内面に、”素地”、有用な構造、経済学的な用語でいえば効用(使用)価値を透視していたのである。それは大地(「地」)それ自体がもつ無用性・無縁性の対極にあるものといってよい。なお、時代は降るが、大和国の土器座・火鉢作座・法楽衆などは田の底の重粘土を掘り取る特権を有していたが、その土層が「下地」と呼ばれていることも参照しておきたい*40。
下地の初見用例と敷地
 これまで中田の見解は疑問の余地のないこととされており、そのため、下地という用語は超歴史的なもので、きわめて早くから使用されているものと考えられてきた。たとえば、島田次郎は九二九年(延長七)一一月二七日の豊受大神宮司解(『平』二三六、吉田文書(一)史料編纂所架蔵影写本3071.64/22)に「於久見郷百万之一、雖有課役之子細、此下地者課役之事不有、可令承知此状、以解」という例を下地の初見史料としている*41。しかし、この史料は「夫用途弐佰弐拾伍文」「一円知行」など鎌倉期に入らないと使用されない用語を含み、形式上も疑点が多い。
 さらに必要な史料批判を行うと*42、平安時代における土地としての「下地」の用例は二つのみになる。第一の用例は、一〇七〇年(延久二)の興福寺大和国雑役免坪付帳の橘本庄の項目に加えられた「このほか、山坊の下地に進官、相懸かるものなり」(『平』四六三九)という追記であるが、この帳面への追記は仁平三年(一一五三年)、保元二年(一一五七年)、保元四年(一一五九年)などに降る。その意味は橘本庄の付属地であると考えられる「山房(やまのぼう)」村の土地にも「進官」役が懸かるということであろう。後にふれるように下地という言葉は「所当」と対比して使われる場合が多いが、これもそのような用語法である。
 第二も、ほぼ同時期、一一六一年(応保一)の土佐国幡多郡収納使西禪充行状案に「彼下地非本利田内、不及地主之訥惜進」(『平』三一八四)とあるものである。この土佐国佐多御崎金剛福寺あての田地充行状は収納使・書生・郡司が(二度にわたって)連署起請したもので、所載の「土佐国蠧簡集」(内閣文庫写本)が良質の写本でないこともあって、解釈を確定することはできないが、おそらく収納使入部のさいの利田起請と同時に作成されたものと思われる*43。この三丁の田地が「本利田」のうちではない、つまりこの時行われた利田起請の対象となった田地のうちではないから、地主の「惜」にはおよばないというのであろう。この田地が「下地」と呼ばれているのは、それが「千手観音経供田」として読経料を負担するということに対応した、第一の用例と同じような用語法である。
 こうして、「下地」の史料的な初見はだいたい一一五〇年代ということになる。そして右の二つの用例のどちらも国衙との関係であらわれること、とくに後者の史料で下地が利田との関係であらわれることは重要であって、利田が院政期の国衙土地制度の変化の最大のものであった以上、下地も院政期における土地制度との関係で発生した用語法ではないかということになる。西禪なる人物は、「主君藤原朝臣」とあり(摂関家の家礼か)、「若冠の当初」にも国吏に随従して同じ佐多郡に入部したとあるから、練達の諸国遍歴の”受領の供”であったと考えられるが、そのような立場の人間が「下地」という用語を使っていることは、この頃、この言葉が広く流通していたことを示すといってよい。
 このような「下地」の時代性を前提とすると、注目されるのは、敷地という言葉が下地に先行する類語として使用されていたことである。その用例としてもっとも明瞭なのは、摂津国長洲についての東大寺と鴨御祖社の相論において、「件の御厨の敷地、東大寺の領たるにより」(『平』一六六〇)といわれていることであろう。この史料の成立に相論を裁定する明法博士が深くかかわり、後々まで「敷地」という用語が使われている以上、この用例は偶然的なものとすべきではない。これは後になれば「御厨下地」といわれるのが自然であるから(『鎌』九六〇二)、一二世紀初頭には「下地」の位置を「敷地」が占めていたことになる。
 このような「敷地=下地」という用法は、両者の語義の共通性によるものである。つまり、辞書には「『敷く』とは草や布などを下に敷きつらねることをいい、そのように敷き広めて広い地域を治め『領(し)く』ことをいう。『占む』『領る』も同源の語である」とあるが(『字訓』平凡社)、「草や布などを下に敷きつらねる」というのは「下地」の「基礎・土台」という意味と類似する。さきに「下地」を「土立チノ堂」の「板敷」の下の「土(つち)」という意味で使用している珍しいを紹介したが、敷地と下地の違いは、この「櫪シキイタ」(『和名抄』)と「下地」の相違ともいうべく、ほとんど両者は同じものである。
 もちろん、たとえば敷栲(しきたえ)という枕詞が「家」に懸かるように、「敷地」は、家による占有、家産制的な土地占取として存在した。戸田がこの敷地という語に注目して領主的土地所有の本宅ー敷地的形態論を展開したことはよく知られている。とくに晩年の戸田が、それを在地社会のみでなく、都市貴族的荘園制の脈絡においても論定しようとしたことは注目される*44。これを受け、私は、たとえば頼朝が馬宮庄を伊豆権現に寄進した下文で「御祈祷の敷地として奉免」と述べているように(『平』五〇六七・五〇六五)、権門貴族が荘園それ自体を敷地としていることを指摘したい。さらに決定的なのは、十六ヶ所の興善院への寄進所領を「件庄郷村敷地」と述べた八条院庁下文である(『平』三六三四)。この下文は八条院領に民部卿((葉室顕頼))三位局と惟方卿弁局等の「相伝之地」を加えて十六ヶ所として興善院に寄進するとともに、「弁局」とその後胤に庄務執行を命じたものであるが、後に普通になる言い方では、この「敷地」が「下地」とされたことはいうまでもない。しかし、一二世紀半ば以降、下地が一般的に使用されるようになった背景に「敷地」という言葉が広汎に流通している現実があったとして間違いないであろう。逆にいうと領主的土地所有における「下地」支配の実質は「敷地」支配という形で早くから成立していたのである。
 そして、ここでとくに強調しておきたいのは、現在の語感からいうと理解しづらい点もあるが「敷地」と「下地」が示唆する土地の面積の広さがほぼ変わらないことである。つまり長洲御厨に関する鴨社と東大寺の相論において広い四至内を「敷地」と呼んでいる事例が確認できる。よく知られているように、長洲の漁民在家が冷泉王統から藤原教通にいたる流れによって支配されている段階では、東大寺の敷地領有に支障がなかったが、鴨社が長洲を入手した段階で、従来の敷地と在家に対する二元的な支配が衝突し、相論が発生した。重要なのは、その直接の事情が、一一世紀末頃、鴨社の側が「四至傍示を打ち、一偏の神領となす」という行動に出たことだったことで(『平』一六六〇)、ここには広い四至のなかが「敷地」とされていることがわかる。そのような例は、ほかにも「寺敷地、山内三佰町、在河内国石川東條、公験面に坪々谷々を載す、四至<東限檜嶺、南限手懸太輪、/西限黒田嶺、北限坂折小野田>」(『平』八五五)、また墾田一三町七段余、荒野一二〇町、杣山五〇〇町をふくむ広大な山野が四至を限って「敷地一処」と表現された事例などにも明らかである(『平』一九九八)。
 この点は、敷地の語を引き継いだ下地についても当然に同様で、「屋敷・名田畠・在家下地」(『鎌』二一一一四)、「当嶋田畠・山林・塩浜等下地」(『鎌』二一三三八)、「当郷の下地ならびに塩浜」(『鎌』二〇三四九)、「当村の田畠の下地」(『鎌』一二八五四)など、「下地」は、山野河海を含んで地目をこえて使用され、四至領域内に開発された土地の全体を表示する。「下地中分」という用語法がここから展開することもいうまでもない。もちろん、「地本を中分せしめ、堺を立つところなり」(『鎌』一四五五八)という表現もあるが、この場合は畦畔線を意識した用法であると考えられよう。一般には「田畠・山川以下の下地、中分せしめ」(『鎌』二六八四〇)などといわれるように、下地中分が普通であろう。
「下地」「所当」の対比
 この「敷地=下地」という等式はきわめて重要であるが、もちろん、下地という語は、敷地よりも一般的な文脈をもっている。それは有用的占有一般をあらわす。下地という語が広く流通するにいたった理由として「下」という語のニュアンスがあったことは疑いない。つまり最近、高橋一樹は「鎌倉後期以降の史料をみると、相続や寄進を通じて職務や得分を分割する場合に、『上』『下』という表現方法をとる事例も散見される」ことを指摘した*45。高橋が注目した「上は御相伝に任され、下地は家門を離るべからざるの由」(広義門院譲状、『大日本史料』六編二〇)という史料は、「上ー下」の対語的利用の中で、「下地」という用語が位置づけられていたことを明瞭に示している。ようするに、「上」というのは上級の領主権を意味し、「下」という言葉は、それを下から支える土地であるということになる。
 この「上」という言葉が、実態的には京都に上納される荘園所当を意味したことはいうまでもないが、「上ー下」という対語はより価値的なニュアンスをもっていた。九条兼実が「上下の沙汰においてはすでに家の瑕瑾」(『九条兼実日記』文治元年九月二五日条)と述べたというのは著名な話であろう。都市貴族にとっては荘園から到来する「所当」・年貢公事の確保が第一なのであって、彼らにとって「下地」に関わるべき地位にあるのは「地下」の人々だったのである。これについては、すでに中田が「鎌倉以後の史料には年貢(所当)と下地を相対的に記載せる事例多し」と述べている。実は、中田は「王朝時代の庄園に関する研究」を発表した段階では、下地の史料をまったく挙証せずに問題を論じたが、それを『法制史論集』に収録するにあたって、追補の注(イ)を付加し(八五頁)、弘安から応仁に至る七例の史料を挙げて、「下地ー所当」という対比を示した。前述の通り、院政期の国衙土地制度の下で下地という用語が使われだしたのもそこに理由があったろう。下地がそのような意味で使われたことこそが、下地という言葉の一般性と使用頻度を高めることになった。『鎌倉遺文』のフルテキストデータベースを検索すみると、地本の用例五一件に対して、下地の用例が四八一件と、ほぼ一〇倍に上っているのはそのためである。
 つまり、下地は有用性・無用性の両者をはらむ自然としての土地であるのではなく、もっぱら有用性の側面に力点をおく用語であるから、それに対応する収益(「所当」「得分」「上分」「年貢」)を前提として使用される。しかも、下地は収益との関係では、いわば有用性一般を示すのであって、それ故に下地という語はしばしば具体的な有用性を示す形容詞付きで使用される。たとえば「件の田の下地」(『鎌』五一二一一)、「作畠の下地」(『鎌』六三六八)、「薪林以下当山の下地」(『鎌』二一六六九)、「皆、野にて三百五十町の下地にて候」(『鎌』二六六八八)など「田・田畠・林・野」など形容詞がついて有用性の具体的形態を示すのである。「田の下地」という言葉には「(1)田という形態の、(2)生産的な素地をもって」(占取された土地)という二重の形容詞がついているのであって、(1)(2)があわさって有用性の具体的形態が表現されているのである。このように下地という言葉が、田・畠・薪林・野その他、さらには屋敷・在家・塩浜・桑畠から市庭などにいたるまで、様々な地種に関して使用されることはきわめて注目すべきことである。これはそれに「所当」する年貢が同じように絹・米・材木・油などの様々な物品を意味することに対応している。年貢という用語が調や官物・臨時雑役などの律令制以来の負担名称から荘園制的なそれに転換したのは、網野善彦によれば、だいたい一二世紀のことであるというが*46、この時期が下地という用語の成立時期とほぼ重なることも重要であろう。それは、年貢の色代納や済例に表現される上納品の交換比率の平準化も背景にもつような収取システムの全体的な計数化の進展*47を背景としていた可能性も高いと思う。今後の検討がさらに必要であるが、年貢と下地という用語は、このような大きな動きのなかで関係しながら使われるようになったと考えるべきであろう。
 なお、敷地という語は、このような生産的な素地一般というニュアンスをもっていないから、”田の敷地””畠の敷地””林野の敷地”などという語法はなりたたない。これが院政期に”敷地”に代わって”下地”という用語が広く使われるにいたった理由であろう。荘園制支配の確立や複雑な伝領関係の中で、家産関係を直接に表示する敷地から、収入源一般を示す、より法的な下地という用語への移行が行なわれたのである*48。こうして「下地」という用語は端的にいえば不動産としての土地という意味で使用されるようになった。さらに『沙汰未練書』に「所務沙汰トハ、所領之田畠下地相論事也」とあるが、所務とは収納のことであり、所務沙汰とは不動産訴訟のことであるから、こうして、「下地」という言葉は裁判上の用語としても一般化し、その使用頻度はさらに高まったのである。
③地頭と地本・下地ー領域と開発
地頭の語義と地本
 下地と地本の関係を軸として平安時代の土地範疇を構造的に捉え直すためには、さらに地頭の語義を確認しておく必要がある。一言でいって、地頭とは、国土高権が顕わな形で現象する境界の場を表現する。これについては、現代中国語の地頭の第一の語義が「田と田の境、あぜ」であるのと同様、平安時代の日本においても本来の語義が「土地の『頭=辺(ほとり)』、土地の堺・四至」であることにもふれて、以前、詳しく述べたところである*49。
 地頭の初見史料である八九六年(寛平八)の某郷長解(『平』一八二)の「地頭に水湿あるにより、家地となすあたはず」とある部分も、そう解釈すべきであって、四至記載によると、この土地の東側は別人の宅地で、南・北・西側が「公田」「畔」であった。それ故に「水湿」があったのは、南・北・西のどこかの「地の頭(ほとり)」のみであったはずである。この史料は、上横手雅敬によって「家地にするはずの土地が、湿気が多く、家地に不適当である」(ために田地として売る)と解釈され*50、「地頭」とは「現地」「在地」という意味であるという通説の根拠となっているが、そもそも立地全体が湿地であったとすると、家地に利用しようという発想自体が生まれなかったはずである。
 もとより上横手説のメリットは、この通説をうけた語彙論ではなく、「地頭」が「地頭に臨み」という連語として使用される場合が多く、そこには国衙による行政行為が反映していたと指摘した点にあった。ただ、上横手はもっぱら官使・国使などを問題にするのであるが、むしろ、伊勢神宮近傍の宇治郷の相論地の「当時四至并見作田畠」について「在地刀禰玉串大内人重主の証により、地頭に臨み、実検を加ふ」(『平』二三七六)とあるように、地頭実検の「証」が在地郡司刀禰らによって行われていることが重要である。地頭の管理は前述の「地本」の管理と同様に、郡司刀禰集団によって行われていたのである。両者はともに王朝国家の国衙荘園体制の下での、郡司刀禰集団による公的な土地行政の表現であったといえよう。
 重要なのは、荘園の「地頭」=四至堺にしばしば「子午の縄」(『平』二五七五)などといわれる条里基準線として大縄=縄手が登場することである。美濃国厚見郡茜部荘の西境の「平田大路」は「土民、これを呼びて云うに平田大縄と云々」といわれているが(『平』二四六九)、この大路は、「顕路の大路をもってその堺となす」ともいわれているように、まさに境界のランドマークであった。こうして、四至堺=地頭も「子午縄・大縄」によって表現される場合は、地頭から始まる縄が地本の全体を被ったことになる。つまり、前には「畔・縄」の射影が地本であると説明したが、その前提には荘郷の土地の外部との境界があり、それが「頭」と表現される。この境界を前提として、土地は、そこから「畔・縄」、さらに「地本」へと連なっていた。田圃の大区画の境界を「田頭」ともいったことも示唆的であろう。こうして、四至の大縄と縄本の縄が網の目のように連接しあう空間が作り出されるのである。
 実は、平安時代の史料には「地本」という言葉は一つもみえないのであるが、しかし、この時期の国衙土地制度史料の残りはたいへんに悪く、郡司刀禰が荘郷堺ー「地頭」ー畦畔の全体を管理していた以上、実際には、地本という言葉は地頭と深い関係をもって早くから使用されていたとしていい*51。ここに「地頭ー地本」という土地範疇の系列関係が存在していることは、それが「頭ー本」という形で意味論的にも対応することから明かであろう。私は、山本・山口・谷頭・山腰・山尾などという言葉は、大地=山の擬人化の観念をふくんでいると考えているが、ここにはその一端が現れているのかもしれない。
 ようするに、「地頭」という語は、本来的に自然としての大地の境界なのであって、荘園・公郷の間、あるいは村落間・共同体間など、境界ゾーンを意味する。そしてそのような言葉として、何らかの意味でそれと関係して設定される「大縄ー縄本」という地本の系列につらなる用語であったということができるだろう。
人としての地頭と地頭領主制
 こういう郡司刀禰によって周回されるべき四至境界ゾーンを示す「地頭」から、院政期に人としての地頭が登場する。もちろん、その場合も特定個人としての地頭領主を示すというよりも、「人としての地頭」には、院使・官使・国使などとともに「地頭」に臨場した複数の人々をさす用例が根強く残っている。たとえば、人としての「地頭」の初見史料として知られる、一一四四年(康治三)、美福門院領筑後国薦野庄の立券関係文書に、「皇后宮御庄立□(〔券?〕)』□□(〔之刻〕)、号薦野郷四至内、院使・地頭人等、引率五』□(〔百〕)余人軍兵、乱入往古寺領四至内大野、擬狩猟」たと現れる「地頭人」も特定の個人ではなく院使の指揮の下で「地頭に臨」み、実検に参加した人々、その意味での「地頭人」を意味すると考えた方が自然であろう(『平』二五二三)*52。また一一七五年(安元一)、伊賀国司庁宣は「国使并地頭等」が「興福寺悪僧等を相語」って黒田庄内に乱入したことをとがめ、その停止を命令している(『平』三七一六)。この乱入行為には黒田庄梁瀬村の刀禰から出身した「新荘下司郡司」源俊方が参加しており、彼をふくめた郡司刀禰集団が「地頭等」と呼ばれていたのである(「東大寺三綱等解土代」、『東大寺文書之十一』大日本古文書、一五六)。そして大隅国祢寝院南俣においても、一一七三年(承安三)頃、大府宣と府国施行にもとづいて「地頭等解状」が出されているが、これも複数であって特定の人物をさすとは考えられない(『鎌』二八六)。
 これらの史料は内乱期直前まで、国衙荘園体制本来の地頭の語義が生きていたことを示す点で貴重なものである。しかし、これらの史料は、同時に新しいスタイルの領主、地頭領主の姿を示している。私は領主としての地頭は「本所・領家のみでなく、国土高権を代表する太政官や院・王家と関係を結び、国土高権の働く場としての地頭=堺を沙汰した」と論じたことがある*53。彼らは従来の「地頭」周回者=郡司刀禰の権限を吸収し、そのような地域的な公権を代表する「地頭」領主となったのである。戸田芳実はかって、「封建領主制としての荘園制のもっとも典型的なものは何か」といえば「田畑・山野・民烟一円に支配するような型の荘園が、十二世紀から成立してくる、これしかない」「そうすれば在地領主制と統一的にとらえることができる」「結局は荘園体制の中で地頭職として位置づけられる」と述べたことがあるが(『シンポジウム日本歴史 中世社会の形成』一九七二年。四〇~四一頁、一二五~一二六頁)、それは「封建領主制」というよりも、このような地域公権を代表する領主制の確立というべきものであると考える。つまり平安時代の前半期を特徴づける留住領主制にかわる地頭領主制の成立である。
 このような高権的な地域領有がしばしば「惣領」という用語で表現されたことはいうまでもない。この言葉は、鎌倉期以降、しばしば地頭領主の族長的な位置を意味するものとして頻用されるようになるが、院政期の用語法では、それは「件の田畠を惣領するところなり」「彼村を惣領せしめ」「件の山を惣領し」など土地の総体的・領域的な支配を意味としている。それは本来は特定の領域的な権限を表現したものというべきであろう。もちろん、総体的支配とはいっても、その強度や内容は多様であろうが、興味深いのは一一六二年(応保二)、薬師寺が東大寺領清澄庄のうちの「薬園村を虜領し」、さらに「残るところの本庄并寺領郡山等、みなもって押領」したことに対して、東大寺が「何をもって百餘町を惣領すべきや」と非難している例であろう(『平』三二一二)。これは、特定の庄園の一括的な支配を「惣領」と称したことを明瞭に示している。こういう惣領という用語が一般的に使用されるなかで、その主体としての人間が惣領と呼ばれるようになるのは、大地の境界ゾーンを意味した地頭が、それを管掌する人々の名称となるのと同じことである。
 この領主制の性格は下にむけては郡司刀禰の権限の吸収にあるが、重大なのは、上でみたような院政期の地頭周回の史料が、「地頭等」として地頭を巡検する複数の領主のネットワーク、領主連合の様相を明瞭に提示していることである。階級構成の側面からいえば、そのような領主連合によって一国の諸地域が連携し、境界を承認しあう関係こそが地頭システムの本質であったということもできるだろう*54。地頭領主制にとってはそれが領主連合として地頭=大地の境界の高権的な統治を吸収し、包含して公的な性格を獲得したことが決定的な問題である。
 また、この地頭領主の性格の重大な特徴としては、やはり義江彰夫が、院政・平氏政権期に「地頭」が実力的な紛議にかかわって登場したと述べていることがある*55。実際、一一八五年(元暦二)の後白河院庁下文は「近年以来、鎮西有勢の土民など、或いは権勢の武家の郎従となり、或いは得替の別当の充文と称し、地頭と号する有り、下司と称するの族有り」(『平』四二四一)と述べている。私は、この文脈からいって、地頭と下司の相違は「権勢の武家の郎従」=「地頭」、「得替の別当の充文」=「下司」にあったと考える(なお「得替の別当」とは院の別当であろう)。一一八四年(寿永三)の頼朝下文案が「武勇之輩、或は面々に荘務を張行し、或は私に地頭に任ずると称し、自由の威を施す」(『平』四一五六)としていることも同様の理解が可能であり、地頭は実力紛議ということを本質とし、さらに「武家郎従」、端的にいえば御家人が補任される職なのである。「地頭と下司の相違」という問題は安田元久がまとめて提起して以来の問題として残っているが*56、「地頭=御家人システム」と理解すれば、簡明な問題であったということになる。地頭が郡司刀禰と異なる点は、このような荘園の四至周回を「武家郎従・家人」として武威をもって実現した点にあった。そのような存在として都=中央に直結したのである。これは留住領主が相対的に緩やかな関係をもって都と関係したのと大きな相違である。
 地頭領主と地頭システムについては、後に頼朝の日本国惣地頭という地位との関係で、再度論ずることとなるが、念のために、ここでは上にふれた戸田の見解の続きを引用しておくにとどめたい。「荘園研究で鎌倉時代をやるためには、荘園体制に地頭が加わることによって、人民の政治的条件がどう変わるかということが案外やられなかった。(中略)ただそれは領家からの一元的な体制ではなくて、地頭は軍事権門が補任できるので、領家・本所は直接補任できないという体制になってでてくる。しかもそれは軍事警察組織としてあらわれてきた。それは百姓以下の農民の政治的運動なり解放の条件や課題にとって何をもたらしたか。それが治承寿永の内乱のもたらしたものですね。人民が前進したというだけでなくて、むしろより困難な課題をかかえたという面もあると思う。権力全体が軍事化したということは形式的にいえるし、謀反人の追捕の目的で設置されたことは、だれでも認めることですが、この問題を集中的にやってみたい」((『シンポジウム日本歴史 荘園制』一九七三年、四〇~四一頁、二一九頁)。
地頭領主制と開発委託、下地
 「御家人とは往昔以来開発領主として武家の御下文を賜わる人のことなり」とは『沙汰未練書』の有名な一節である。最近の武士論で強調されるように「開発領主」が武士と等置できないというのは、一応は正しいが、だからといってこの「開発領主」という範疇を直接に経済的な範疇であるとしてはならない。この一節は、鎌倉時代の侍・御家人身分が、本来は国家的勧農の法と理念に連なり、国衙法の下で鎌倉佐保のいう開発委託をうける存在の系譜をひいていたことも示している*57。
 このような開発委託を可能にする権限こそが王権の国土高権であった。網野・笠松が論じた山野河海の世界、無所有の世界、そしてそれと連接する「地本無し・本券なし」「田代・荒」の世界は、この国土高権の下に存在した。有名な「西国堺の事は聖断たるべし」として知られる国土領有原則*58こそが、このような国土高権の表現であった。荘園の四至内領有とそれに関わる相論裁決は「聖断」によって支えられるという原則が、院政期、王の国土高権の下で「地頭」立券が遂行される過程で喧伝されたに違いない。ここに「西国」という限定がついた理由は後にふれることになるが、それは本来、「西国」には限られないものであったろう。「国域の堺、荘園の限りは、各の本図帳、上に在り、彼を指南とすべきなり」(『鎌』一〇七四)ともいわれるように、立券状をふくむ荘園の四至・境界の文書管理が太政官の重要な機能であったことは、それに対応している。それは無所有の世界に隣接する境界に対する生産の営為、大地の下地化の営為を法的に承認する権限を意味する。このような国土高権に直結して国衙の「地」支配システムを包摂することによって、「地」を「敷地=下地」として開発する権限こそが地頭領主権であるといってよい。そこでは「地」と「下地=敷地」の領有が統一した姿をあらわす。
 このような開発委託は院政期の立庄においてももっとも重要な要素であった。「地頭」立券は、その四至内に対する大規模な領主制的開発の委託を含んでいたのである。そもそも、四至内には地本の地のみでなく、無地本の土地が存在したことは前述した通りである。たとえば右の宇治郷の土地四至内に土用のために立入り測量を果たせなかった「残荒野岡林等」が存在したように、「地頭」という言葉は、四至内の下地全体を含む側面をもっている。荘園立券や堺相論に目立つ「臨地頭、堺四至、打傍示」などの用例では、地頭=四至の内側の領有が問題となるのであって、地頭は、単に境界のみでなく、四至内の平面的な広がりの開発=「下地化」それ自身をも含意している。そして、それは「下地進止のごとく四至堺を定め」(『鎌』三一九一二)という「下地(=敷地)進止=四至堺」の等式として、あるいは永原が重視した「開発の新田は実検を遂げざる以前は地頭の進退なり」などといわれる形においても鎌倉期の地頭領主制の内部に実存していた*59。決定的なのは、地頭が院政期の荘園立券にともなう公的な開発権委託を引き継いでいることであるろう。挙例は省略するが、院政期の荘園立券文には一般に見作田地のほかに大量の田代・年荒・荒野などが含まれる。公田数の設置という形をとった四至内の下地の領有権限が開発の前提であったことはいうまでもない。それを文章で明記しているのは、一一七一年(嘉応三)年に立券された二品法親王=守覚法親王家領の越前国河北郷の例であって、その見作田六十町は「民部省坪付」に記載されていたが、「(四至内に)その外残るところの田代は、畠代荒野山沢など、坪付に載せざるといえども、当郷内一所を漏らさず、嘉応三年の立券状にまかせ、永く当家領たるべし」という(『鎌』補一〇〇)。また備後国大田庄の一一六六年(永万二)の立券文には見作田三十町余のほか、大田方一〇〇町、桑原方一二五町の計二二五町の田代が記載されているが(『平』補一〇六)、それらが開発されていったことは一一九八年(建久九)の桑原方下司得分注進状に「荒野拾町下文賜<但未開>」とあることに明らかである(『鎌』一〇〇一)。
 そもそも平安時代、荘郷の四至内に広がる田代は活発に開発された。吉田晶によれば、田代とは、常荒などをふくみ耕地不利用の開発予定地(A型)、荒野や原などとは異なる条里地割内の水田予定地(B型)、見作をも含む水田耕地の総称(C型)などの意味をもつが、平安時代から鎌倉時代にかけての開発の進展の中で、B型からC型への変化が想定できるという*60。田代とはいわゆる平安条里制=畦畔メッシュの生成の中で生みだされた地目であったのである。文献史料でも、たとえば近江国葛川において、「御前尾滝山」の「麓」が開発され「田代と成す事」が知られる(『鎌』一〇五一九)。これは丘陵の裾を水田用地として平坦化し、大畦畔が確保された状態を示すのであろう。そして、これに対応するようにして、金田章裕が歴史地理学の立場から、また山川均が考古学の立場から、院政期に広く平坦な耕地面を造成する土木工事が行なわれたことを明らかにしている*61。その工事内容は、畠地の点在するような起伏する地形を削平し、平坦面を作り出して畦畔を付け替えることであったという。
 このように、上からの地域的領有を前提として、その内部の平面的開発が進展したのであるが、その動態をイメージする上では、越後国小泉庄有明条についての最近の高橋一樹の現地復元が重要な意味をもつ*62。高橋によれば、この有明条は越後特有の湿地帯に広がっているが、「作道」「薬師堂前路」などの五本の直線道路が九ヶ所ほどの耕地の大区画の間をつないでおり、同時にその道が耕地群の大畦畔をなし、その内部がさらに縄手などによって細分されていたという(『鎌』一九〇四二)。このようにしばしば桂馬状に連なっていくような直交道路にそって分散する耕地システムこそ、田代=「条里地割内の水田予定地」を形成する過程であったのではないだろうか。もちろん、道路の開発と畦畔の設置が、山野河海の世界からの水の道、潅漑水路の開発をともなっていたことはいうまでもない。
 この高橋の分析は、かつて永原慶二が指摘した領主的開発過程の実態に迫ったものといってよい。つまり永原は、平安末期の遠江国池田庄や尾張国安食庄の在家が一坪一宇の分布形態をとっていることに注目し、「それが全く自然発生的な集落形態であることを疑わせ、むしろ人為的・政治的な集落形成過程を推測させる」とした*63。そして、戸田は、この上からの政治的領有の先行を想定する指摘を拡大して「領主の指揮下に従属農民が計画的に定住・植民させられ、領主の支配と保護のもとに開発を行った」過程を想定し、安芸国高田郡の史料に「当郷、先祖よりの敷地の上は、かつがつ譲与するところなり」(『平』一八〇三)とあることなどをふまえて、特定の領域が領主「本宅」に対する「敷地」として占取されたという領主的土地所有の本宅敷地的形態の論定を行なったのである*64。
 「地本―下地―地頭」という土地範疇に一応の視野をもってみると、この領主的土地所有の本宅敷地的形態という議論は、その前提に地頭―地本の系列における大地の空間的管理・占取を措定しなければならないことは明らかであろう。もとより、戸田も永原も開発のための自然の政治的領有の先行を指摘するなど、基本部分の理解は誤っていないのであるが、しかし、これによって「本宅・敷地=下地」の家産的支配の形態をとる領主的土地所有の理解はきわめて明瞭になる。地頭―地本の掌握と下地=有用的自然の占取は相互規定的なものととらえられねばならない。
 これによって領主制論の論点整理が深いレヴェルで可能となるように思う。たとえば研究史上、冒頭にふれた大山の理解は、きわめて重大な位置をもっているが、大山が平安院政期における「下地進止権」の未成立を主張する。ことについては、前述の敷地と下地の語義的な近似性からもいって問題があることを史料に内在する立場から示すことができたと思う。私は、大山が、後年、地頭領主制範疇から院政期地頭を排除し、もっぱら「鎌倉幕府地頭制度の中で地頭であったものの領主制」に局限したのは、その論理が残ったためであると思う*65。地頭領主制範疇は院政期から採用されねばならないのである。
中田薫の下地論の誤り
 研究段階からしてやむをえないことであるが、中田は「下地」と「地本」の語の差異に着目することはなかった。もちろん、「地本」と「下地」のおもな内容が「地」である以上、両者はほぼ同様の意味と統辞法(シンタクス)の下で使用されうる。つまり、『鎌倉遺文』の検索結果にもとづいて比較してみると、両者は、共通して「進退」「相綺」「押領」「中分」「実検」「召上」「打渡」などの動詞の目的語として登場する*66。また「地本沙汰」(『鎌』一七一四五)、「下地沙汰」(『鎌』一五二八八、一八二六九)、「地本においては一向地頭進退」(『鎌』六二三九)、「下地においては、地頭進止たるべき」(『鎌』三〇七五二)など共通した連語や統辞法をもっている。興味深いのは、ある所務沙汰裁許の関東下知状に「所当をもって神役を勤むといえども、地本は一向に地頭進退たるなり」(『鎌』六二三九)とあることで、これは「所当ー下地」という対語の代わりに「所当ー地本」という対語がありえたことさえも示している。
 しかし、この二つの言葉の意味は異なっていたのである。またたしかに地本という言葉の用例は少ないとはいえ、たとえば頼経上洛の一二三八年(嘉禎四)以前をとってみると、地本六件、下地八件であるから、平安時代から鎌倉前期までは大きくかわらない。それ故に、この点を顧慮しない中田の「下地=真の土地=地盤」、”物質としての土地”論には根本的な問題がある。そもそも中田は、下地知行を物権の私的行使ととらえるが、それを「土地を絶対的に支配するの権利」「他を排して己れ独り任意に支配しうる土地」(七五ー七六頁)と説明する。中田は、「物権の効力は直接にものを支配することに存し、人の義務を通じて間接にものを支配するものにあらず」と言い、物権の効力をもっぱら「直接にものを支配する」ことに限定してしまう。そこで前提となっているのは「物権の効力」が、その物自体の中に自足してしまうような個々に分離した非有機的で均質な土地である。中田は、私的所有の対象としての「真の土地」=機械的に均質な土地=「下地」なるものを、法概念的に想定し仮想してしまうことからすべてを出発させてしまう。そこでは多様で複合的な構造をもつ「物」を通じた「物権」の間接的な効力、すなわちいわゆる自然規定性に関わる諸問題、とくに土地を通じた人の支配は無視されてしまう。たとえば山野の下地領有が山野を利用する農民の耕地に対して間接的に及ぼす効力などは検討の外におかれるのである。そこで問題になっているのは、あくまでも「私有」であるから、領主的所有と共同体的所有あるいは「無所有」(境界的所有)の関係など、異なる所有形態の間で働く「効力」も無視されることになる。
 さらに若干の説明を追加すると、中田の「下地=真の土地論」は、「下地」を「真の土地」あるいは「土地の有体部分」と称し、「所当納付義務」=「私権化したる徴税権」を「土地の無体部分」と称し、両者を対象とする「職」を不動産物権とする、「二種の土地」論、職=不動産物権論の一部として提出されたものである。中田は、それ自身不動産物権を示す「下地」を「真の土地=地盤」という狭い語義に押し込め、それと徴税権を外在的に接合させるために「職」を不動産物権として構成する。これについては、「所当」の量はむしろ「地本」=「公田数」によって規定されることを含め、さらに検討が必要であるが、ともかく中田がこの融通無碍の理屈を利用して展開した荘園寄進論、つまり寄進者が実際上は「排他的な私有」を留保し、受寄者が徴税権=所当所有権を基本とする公権を掌握したという議論は、永原慶二・石井進*67の批判以降、その錯誤が明らかになっており、その要点は寄進地が中田のいう「排他的な私有」の枠を越える土地をふくんでいたことにあった。この永原・石井の中田批判は、さらに基礎的な論理レヴェルから、つまり中田の土地所有論、土地範疇の理解そのものから確証されるべきものである事情を示せたとすれば幸甚である。
Ⅱ荘園公田制と国地頭・地頭
中田薫と石母田の地頭論
 さて、中田薫の土地法と職をめぐる議論の背景には、石井紫郎がその法教義学的性格を鋭く批判したような*68、奇妙に自己流で折衷的な形式論理がある。そして、そもそも形式論理というものは具体的な歴史像を無視する本質をもっているだけに批判しにくいもので、しかも中田の議論は、その形式論理の論理材料がドイツ法制史にあった関係もあって批判しにくく、それをただすことは現在でも研究史に残された問題である。
 おそらくその筆頭は「鎌倉時代の地頭職は官職に非ず」*69という論文であろう。この論文は、平安時代の地頭は職務の内容は不明だが、荘官であり、その荘官の有する職務的用益権、負担付きの職務的不動産物権であるとし、それに対して鎌倉時代の「文治勅許」地頭は職務の意味はない不動産物権であり、その内容は少なくとも当初は反別五升の兵糧米の得分権にすぎないとする。その法源は朝廷が頼朝に日本国の守護権を「委任」し、同時に全国庄公の土地に対して反別五升の兵糧米徴収権を設定し、その権限、つまり日本国惣地頭職を頼朝に給与したものであるというのである。重要なのは、中田が、こういう立場から『吾妻鏡』文治一年十二月二一日条に引用された院宣の「諸国の荘園の下地においては、関東一向に領掌せしめ給うべしと云々」という一節を解釈したことであって、その第一は、この「下地」という語を前述のように「土地の有体部分」=「真の土地、地盤」と解釈し、しかもそれを「土地の無体部分」=「所当納付義務」=「私権化したる徴税権」と実質上は等置したことである。そして第二に、「関東一向に領掌せしめ給うべしと云々」の「領掌」とは「知行」と同じことで「占有」という意味であるとしたことである。これは「下地領掌」とは兵糧米徴収をべつの形で表現したに過ぎないという解釈となる。中田は「地頭職の客体たる所領は下地そのものに非ずして、不動産視されたる所当に外ならざるなり」という論理で、問題を軽微なものに押し込んだのである。
 ここには、中田が、「知行・領掌」を一九世紀ドイツ法制史学のいうGewere(占有)概念で理解し、Gewereは物の所有関係において偏在するという理解をとったことの影響があるのであるが、すでに法制史研究においては、こういうGewereの理解自体が一九世紀ドイツ法制史学のゲルマン主義的な偏向にかかわるものであることが確証されているようであるから*70、遅かれ早かれ、このような解釈は徹底的な点検をうけざるをえないであろう。
 それによってこの時期の法史論の枠組が刷新されることが期待されるが、ここではまず、先の検討によって、問題の院宣の「諸国の荘園の下地においては、関東一向に領掌せしめ給うべしと云々」という一節にふくまれる「下地」という語は中田のように「真の土地、地盤」などと解釈することができないことを指摘しておきたい。この一節の解釈がいわゆる文治地頭論争の中心論点であったのであるが、そもそも日本国惣地頭という地位は実質上は、大地としての「地」=「地本」に対する国土高権の分有を意味するはずである。しかし、この院宣の執筆者はその国土高権の分有問題自体については論ぜず、単にその結果としての効用(使用)価値としての土地、法的には「所当」を負担する限りの土地を一向領掌するという限定された部分において応答している。この院宣の文言は語の正確な意味においては国土高権レヴェルの問題、「地=地本」の問題を論じていないのであって、逆にいえば、この院宣の文言のみによっては頼朝の日本国惣地頭の地位を理解することはできないのである。
 そもそも『吾妻鏡』がこの文言に続けて引用した「前々地頭と称するは、多分、平家家人なり、これ朝恩にあらず、或は平家、領内にその号を授けて補し置き、或は国司領家、私の芳志としてその荘園に定め補す、また本主の命に違背せしむるの時は改替す、しかるに平家零落の刻、彼の家人知行の跡たるにより、没官に入れられ畢、よって芳恩を施すの本領主は手を空しくして後悔するの処、今度は諸国平均の間、還ってその思いを断つ云々」という有名な一節も院宣の一部であると考えられる*71。そうだとすれば、「今度」の措置が「平家零落時」の没官と相似したものであるという認識が奉者の院司の側に存在していたことは明瞭となる。ようするに没官はその主体を変更したにすぎず、その意味では、「庄園下地一向領掌」はすでに実態としては平家の荘園支配の中で実現していたと認識されていた可能性が生まれる。少なくとも京都朝廷の理解という意味では、平家政権下において地頭が設置された諸国の荘園の「下地=敷地」は、実質上は平家権力によって握られていたと考えられていたはずである。つまり院宣自体が、平家政権段階の認識で事態をとらえ、すべてを「下地」の問題として記述しているのであって、より本質をなす国土高権=地の掌握からは目をそらしている可能性があるのである。有名な広元献策にいう「諸国に沙汰を交え」という部分は平家惣官職段階よりも強力な国衙統括を含んでおり(本書■■■頁)、それは、実際上、鎌倉権力が東国で行っていた国衙掌握を全国的に実現しようというものであったはずであるが、それは、この院宣では正面からふれていないのである。
 さて、問題は、石母田の仕事が、この中田の議論の枠組に大きく制約されていた事実である。つまり、中田の図式は、「朝廷は頼朝に対して六十六ヶ国の守護権を委任したるなり」「頼朝の地頭補任も亦此の如し」というものであって、これは石母田が批判してやまない「委任封建制論」そのものである。中田は後白河朝廷と頼朝の関係を「日本帝国が伊藤侯爵を統監に任命したること」のアナロジーで説明しており、その論理は牧健二の議論に異ならない。石母田が、これに対して言及をさけたのは、結局、当時の石母田が中田批判に踏み込むことができなかったためである。そもそも、石母田は頼朝の日本国惣守護・惣地頭の地位を論ずるにあたって中田の議論を直接の前提にしている。そして、「文治地頭職」の本質を兵糧米徴収権におきつづけている。これは当時の研究史の段階では中田の図式以外にはとっかかりがなかったためであるとはいえ、石母田の大きな限界であったといわざるをえないだろう。
 しかし、それにもかかわらず、石母田は、頼朝の武臣権力が「簒奪者」の独立権力として、没官領に対する地頭補任権および地頭一般に対する成敗権を獲得し、日本国惣地頭ー国地頭ー荘郷地頭の体系からなる土地領有体系を発展させたという理解と歴史像を打ちだし、政治史的・国家論的な地頭問題の理解に成功した*72。もとより、頼朝権力、正確にいえば義朝流源氏権力の出発点は佐藤進一がいうように、東国の実力支配にあり、それは院政期に展開した領主連合の軍事化を基礎とする広域地域権力=東国惣官職を内実としていた。そして、この広域的権力が内乱を契機とする東国武士の「西遷=占領」行動によって実質上、全国的な軍事的高権を確実なものとしたことが決定的であったことはいうまでもない。現在でも、通俗的には鎌倉期の武士を「土臭い」存在などというが、彼らはむしろ広域的移動の力をもって飛躍していった暴力的あるいはヤクザ的な集団であったことはすでに確認されていよう。
 私は、この意味では、石母田―佐藤の枠組はいまだに依拠するに足りるものであると考える。本書第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」は、そのような立場にたって、さらに頼朝が一一八五年(文治一)年末に日本国惣官というべき地位につき、翌年六月には一度畿内・西国から公法的に撤退する姿勢を見せながら(「守護地頭の停止」)、実際にはそれと同時に王家の内部的諸問題に口入する地位を獲得し、天皇の「後見」王、そして「覇王=武王」ともいうべき立場をなかば確保したと論じたものである。もちろん、武王の登場は鎌倉の武王宮廷内部に惨酷な内紛をもたらし、「武王」身分は血統や宮廷の安定性を確保することができなかった。その経過の中で天皇=旧王の地位は強固なものとして残り、本書序論で述べたように、国家は武臣国家というのがふさわしいものとなった。しかし、その過程でも基本問題はあり、その軍事権力は東国の内部に重大な矛盾をかかえながらも、領主制に基礎をおいて圧倒的な地位を確保し、統治権力として成長していったのである。こうして、序論で述べたように、鎌倉時代の国家は平安期王朝国家から武臣国家あるいは「旧王―覇王」体制に転換し、そのなかで頼朝の地位は「覇王=武王」の原型イメージを提供するものとなったのである。
 このような観点から、以下、頼朝権力=義朝流源氏権力が、どのように国土高権に連なる地頭システムを構築し、国家権力の全体を吸収し、再編成していったかについて、おおざっぱに見通しを述べておきたい。
①「文治勅許」と惣守護・惣地頭
日本国惣守護
 それは義経を追って上洛した頼朝の外舅・北条時政が獲得したいわゆる「文治勅許」の理解に直結する問題である。この「文治勅許」は守護の勅許と地頭の勅許の二つの内容があったことはいうまでもない。第一の頼朝の「日本国惣守護・惣追捕使」としての地位の承認は文治元年(一一八五)一一月二五日宣旨(『吾妻鏡』同日条)と同二八日院宣(『百錬抄』同日条)によって行われた。前者の鎌倉軍入洛の日に発給された宣旨は、頼朝に義経・行家の追討使としての地位をあたえたものであって、その形式は平重盛を追討使に補任した宣旨(『平信範日記』仁安二年五月十日条)と同じである。五味文彦は重盛のえた宣旨について、平安時代に一般的な海賊追討などを規定した新制法の治安条項と同様の性格をもつが、重盛が公卿であった以上、これは武家平氏の長に諸国の軍事警察権を付与したものであるとした*73。ようするに、この宣旨には先例があったということであり、これはそのまま、頼朝の場合にも適用できるだろう。もちろん、これは軍事的占領という事態の中での緊急措置であったが、しかし、これは直接には時政などの鎌倉軍幹部の中央における軍事指揮の地位を認めたという点で大きな意味を有している。
 問題は、時政がこの宣旨の上に、さらに三日後に獲得した院宣、つまり『百錬抄』に「源二位依申請、諸国の守護を補さしむべきの由、院宣を下さる」と記録される院宣の意味である。院宣の全文は伝わらないが、おそらく頼家が代替りにあたってあたえられた宣旨に「宜しく彼の家人郎従などをして、旧の如く諸国の守護を奉行せしむべし」(『吾妻鏡』正治一年三月六日条)とあるような文言を含むもので、頼朝の家人組織に公的に諸国の守護を認めたものではないだろうか。この点で平家段階との相違は認めるべきであって、頼朝が「日本国惣守護」に補任されたという了解も、三日前の宣旨ではなく、この院宣にもとづくものであったはずである*74。
 黒田俊雄もいうように、こうして頼朝の下に組織された御家人制度は「主従関係の枠内でのみ成立」したものではなく、その「国家的性格」は明瞭である*75。そして、この宣旨・院宣は黒田俊雄がいうように、頼朝を「王朝の侍大将」「軍事担当権門」として位置づけるものであって*76、その限りでは黒田の権門体制論によって十分に理解できるものであるといってもよい。 
日本国惣地頭と地頭代官制
 しかし、主従制の公的承認が「文治勅許」の第二の内容、つまり頼朝の「日本国惣地頭」の地位とそれにともなう地頭支配という形でも存在したことが重要である。その内容を示すのが、前述の「諸国の荘園の下地においては、関東一向に領掌せしめ給うべしと云々」という院宣の一節であるが、前述のように、これのみによって頼朝の日本国惣地頭の地位を理解することはできない。国土高権はむしろその前提として日本国惣地頭頼朝、そしてその下で地域的高権を握る御家人地頭との間の実態的な関係をもっていたのである。それが国衙を占拠し、そこにおける郡司刀禰を基礎におく土地支配体制、地頭ー地本系列における土地範疇を掌握するという問題であったことはいうまでもない。これは頼朝の国土高権分有に関わっており、権門体制論では処理することができないと考える。
 もちろん、地頭組織が拡大していく直接の起点は蜂起した頼朝による東国武士の本領安堵、そして鎌倉殿・御家人間の人的な関係ー家人関係にあった。有名な大江広元の守護地頭設置の献策に「東海道の内においては、御居所たるにより静謐せしむ」とあるように(『吾妻鏡』文治一年一一月一二日条)、本領安堵においては、主人の家産領有が家人郎従の家敷地・下地まで拡大する土地所有関係が存在するといってよい。東国は広い意味では頼朝の「居所=宅」と考えられていたのである。これ自体が家産的な関係であることは事実であり、家産的関係それ自体については権門体制論的な論理で処理が可能であることはいうまでもない。
 しかし、そもそも笠松宏至がいうように、御家人制が鎌倉殿御家人の主従上下一対一の人間関係を起点として成り立っているとしても、御家人制はこの上下の糸だけで成り立っているのではなく、むしろ御家人の傍輩関係によって支えられて存在しているとみなければならない*77。そして「本宅」安堵の関係もそれ自体としては、「人をもとの宅に安堵する」関係であって、人間関係を安堵し安定させることを表現しているという*78。「東海道=御居所」という論理をとれば、それは家産的な主従制を中軸としながらも東国における御家人の傍輩集団のネットワークの上に立った広域権力、地域的な統治権の論理であるということになる。
 そして、この組織は、主従関係そのものではなく、佐藤進一がいうように日本国惣地頭頼朝が国郡荘郷の地頭を代官とし、地頭はさらにその下に地頭代、又代をおくという一つの職務統階制をもった機構的なシステムである。佐藤は「正員によって選任されて恒常的に正員の職務を代行する新しい形の代官は、平安後期の荘園制発展の過程において現れた」「武家社会にとくに著しい主従制の投影ともいうべき正員=代官制の上に形成された」「代官による本所の年貢抑留の科が例外なく正員に及ぶと定めて、正員・代官の関係が職務に限定された代理関係であって、全人格の支配従属関係の上に築かれた全人格の代理(身代り、分身)を理念とする主従関係そのままの反映ではない」*79という述べている。佐藤が「投影」とするのは重要で、代官制によって主従制が公的な性格のものに再組織されたことの意味は大きい。このような職務職階制は機構的な支配と統治権の論理に発展する。
 私は、このような代官制は、平安末期の沙汰人が平家段階で武家の家人従者組織と結合する中から生まれたものと推定している*80。もとより、黒田も、この地頭代官制の国家的性格は認めるであろうが、権門体制論には、国土高権が院と頼朝、旧王と覇王=武王との間で分裂しているという理解がを取る余地はない。国家権力、広域権力を地域社会が構築し、吸収し、包含するということを明瞭に承認することは領主制論的な立場から問題を立てざるをえないのであって、その立場をとらない黒田の議論では、地頭代官制の本質を理解することはできないのである。
西国堺聖断法と山野惣領
 このような頼朝の惣守護の地位に対応する軍事的支配権と惣地頭の地位に対応する統治権的支配は、事実上融合して一体となっていたといってよいが、それにもとづいて頼朝が確保した国土高権は、東国などに対する広域的な高権をもっとも重要な地盤としつつ、全国レヴェルで法的な認証が存在したはずである。もとよりそれは頼朝の日本国惣守護・惣地頭の国制身分において認識されていたのであるが、もう一つの法的認証として注目しておきたいのは、先にふれた王権の堺聖断法に「西国堺の事は聖断たるべし」として「西国」という限定が付けられたことである。これは逆に言えば西国以外は日本国惣官の地位にいたことのある覇王=武王頼朝にその権限が属しているということを意味する。頼朝の高権は、こういう形でも鎌倉武臣国家のなかで確認されたのである。
 これがいつ、どのような形で確認されたかの正確な事情は不明であるが、史料の上で、「西国堺聖断」法が確認できるのは一二三二年(貞永一)のことであるから(『吾妻鏡』貞永元年九月一日条)、それまでの間に、西国堺以外は頼朝=日本国惣地頭の特殊権限の下にあるという修正が行われたはずである。推測すればそれが法的に安定したのは、おそらく一一八六年(文治二)年六月の頼朝奏状によって関西三七ヶ国の院宣による統括が決められた時期前後であろう。いずれにせよ、頼朝の日本国国土に対する高権は院政期王権のそれをうけ、それを部分的に継受するものとして成立したはずである。いずれにせよ、この西国堺聖断法は頼朝の日本国惣地頭の地位が国制上において確実な位置をもち、それ故に開発委託の権限をもっていることを逆証明するものと位置づけることができる。またもう一つ重要なのは、鎌倉権力が堺の警固や検断を理由として境界領域に対する支配を強め、さらに「山川半分の率法」をも主張することによって、「西国堺は聖断」の原則を浸食していったことであろう*81。
 先にふれた御家人とは武家下文によって開発領主として認められた国家的身分をいうというという『沙汰未練書』の規定は、こうして、御家人制が主従関係のみでなく頼朝の日本国惣地頭の高権によって媒介されたものであることを示すものであったということになる。内乱期に活動した武士たちにとっては、こういう高権の存在は現実に目に見えて存在していたはずである。つまり一二世紀半ば以降、薩摩の阿多忠景は「権守」と称し「一国惣領」といわれる権威をふるったこが(『鎌』二三三三)*82、工藤敬一は、このような「権守」呼称は一国惣領=一国棟梁的存在を表現するものであるとし、それが内乱期の九州地方に一般的であったことに注目した*83。そして、峰岸純夫が論じたように、このような内乱期の「介」「権守」の動向は、東国でも同様であったとしてよい*84。
 やや時代はくだるが、このような惣領をめぐる問題が地頭領主制にとって緊要な問題であったことは、一二五三年(建長五)の関東御教書(『鎌』七六二二)にみてとることができる。地頭領主の態様は、平安時代からの諸経過により、またいわゆる新補地頭との関係できわめて多様であったが、この関東御教書によれば、それは「(イ)或依為開発領掌之地、令備進本年貢之外、於惣領之下地者、一向本司進退、(ロ)或自名知行之外者、不相綺惣領地本所多之云々」、そして(ハ)新補地頭については「有限給分加徴之外、不可及地本管領者也」とされている。おそらく(イ)はいわゆる本地頭=本司に由来する地頭であって、正統な開発領主として、四至内を惣領し、四至内下地の開発権を一向進退するような存在であり、(ロ)は自名のみを知行し、四至の設定や地頭―地本の編成に本司としての権限をもたないような存在であり、(ハ)新補地頭においては給分と加徴米のほかはまったく地頭―地本には関われないような存在であるということであろう。
 なお、この関東御教書が、新旧の地頭とその所務のあり方にについての内乱以来の経過を総括するなかで、地頭法の法源として二箇所に「式目」が登場させていることも注目される。この「式目」は「単に規定とか道理とかいった軽い意味」、あるいは武家新制などの法令一般の意味で使用される場合の用法ではなく、いわゆる「式目」(御成敗式目)を意味するものであって*85、この関東御教書は地頭法の法源を全体としては貞永式目に求めていることがわかる。そして、この式目とは、おそらく式目三八条「惣地頭押妨所領内名主職事」のことであろう。つまり同条は「惣領を給はるの人」=「惣地頭」が、「各別の村」を「所領内と称し」て「掠領」することを禁止し、「惣地頭」から名主級の地頭を保護する姿勢を示している。これを九州の惣地頭ー小地頭の関係に限定して解釈する立場もあるが*86、「惣地頭」という言葉は九州の惣地頭ー小地頭の関係以外にも使用されており*87、九州に局限する理由はない。そして、ここで前提となっているのは、「惣領」は(「各別の村」でなければ)所領内の村々を惣領するのが当然であるという地頭惣領権についての理解である。それはポジティヴな形で規定されている訳ではないが、逆に、地頭領主権の性格が惣領という点にあったことは当然のこととされていたに相違ない。その意味で、式目という場合にこの三八条が意識されていた可能性は高いと思う*88。
 このような地頭惣領の法の逐条的な理解は、全体としてまだ難しいところがあるが、しかし、それが鎌倉武臣国家にとって緊要な問題であったことは、以上から明瞭であろう。そして以上のような観点からすると、かつて石井良助が、色部文書の一通の譲状に「山野河海にいたっては入会うべし」とあることに注目して(『鎌』二五八一九)、山野河海は惣領権の下に置かれ、庶子入会=共同用益の形で利用された点で、田畠在家が庶子に分割相続されるのとは異なっていたと論じたことがきわめて重要な意味をもってくる*89。『塵芥集』(九二条)に「山川惣領職のよしその例多し、しかるに庶子方もちきたる地あり、先規にまかせ是を改むべからざるなり」とあることは、この惣領法が深く根をはっていたことを示している。右に引用した式目三八条の背後にあった法理がこれであることも明らかであろう。
 私は、この地頭領主制における惣領の山野河海支配権は幕府のシステムと法によって深く規定されたものであり、より根本的にいえば、日本国惣地頭の境界支配、山野河海支配の高権に照応し、それと支え合うものであったと考える。それは、前述の一つの身分関係としての御家人=開発領主システムの重要な内容なのである*90。
②国衙と大田文
 さて、頼朝は一一八六年(文治二)六月に一度畿内・西国から公法的に撤退する姿勢を見せ(「守護地頭の停止」)、そのなかで戦後処理のイニシアティヴをとった。たとえば右にみた「西国」以外については国土高権を法的に確保するなどの動きはその一つであるが、中心は頼朝の「惣守護・惣地頭」の地位に対応する地域支配の体制の形成にあった。その中心が国衙の奪権にあったことはいうまでもない。
 だいたい「文治勅許」の院宣は「諸国の荘園の下地」として荘園について述べるだけで、公領についてはふれていない。院宣の添状かと思われる文章が「前々地頭と称するは、多分、平家家人なり、これ朝恩にあらず、或は平家、領内にその号を授けて補し置き、或は国司領家、私の芳志としてその荘園に定め補す、また本主の命に違背せしむるの時は改替す、しかるに平家零落の刻、彼の家人知行の跡たるにより、没官に入れられ畢、よって芳恩を施すの本領主は手を空しくして後悔するの処、今度は諸国平均の間、還ってその思いを断つ云々」も国衙領のことにふれていないのはそれに対応する*91。もとより、内乱は戦争状態のなかで国衙の奪権をともなったが、それは事実として進んだことで、それに対する法的位置づけは、武臣権力が、実際に国衙行政を推進する状況のなかでしか生まれようがないのである。
諸国惣領の地本の奪取
 その起点は、戦後復興と勧農の問題としてあらわれた。それはすでに内乱の渦中から問題とされたが、一一八六年(文治二)三月、関東への帰還を前にして、時政は「おのおの、勧農を遂げしめ候はんがために」と称して「七ヶ国地頭」を辞止し、またほぼ同時期に内乱期の年貢未済を免除する措置*92がとられた。頼朝は「徳政」を称して中央政治に本格的に介入し、時政奏状に答えた院宣が「今春、勧農せざれば諸事有若亡か」と述べているように、収奪基盤の喪失におびえていた京都王権の側は、それに喜んで屈服したのである。この過程は、年貢京上の途絶の中で動揺した王権と公家宮廷の奢侈と収奪の欲望の意地汚さをよく示している。
 この中で六月のいわゆる「守護地頭停止」から、大江広元の上洛、そして八月の「職事目録」をめぐる折衝など、鎌倉権力が朝廷と他の権門との関係で引き受けねばならない渉外機能についての折衝が進展した。そして、九月、秋の収納を前にして、「諸国庄公の地頭等、領家所務を忽緒にするの由、その聞えあるにより」として、頼朝は「限りある地頭地利の外は所務に相交わるべからず。乃貢以下、懈緩を存ずべからず」という「定」を行った(『吾妻鏡』文治二年九月五日条)。そして、この鎌倉の態度をうけて、京都からは「院宮貴所以下権門領の事、地頭の新儀を停止せられんがため」の「目録」が下され、頼朝はそれに対応して、地頭の新儀をとがめる「二百五十枚」の「下文」を京都に送ったのである(『吾妻鏡』文治二年十月一日条)。
 これをうけて朝廷は十月官符*93を発し、各地において「権勢の武家の郎従」が実力をもって号した「地頭」、つまり荘園さらに国衙領における地頭についても(『平』四二四一)、「現在(紛れない)の謀反人跡の外は地頭の綺を停止せしむべし」と命じたのは、このような頼朝の態度を確認し、それを前提としたものであった*94。この「地頭の綺を停止」なる文言は、ようするに「綺」のみを停止しているのであるから、「地頭」の存在自体は当然のこととしている。その意味では荘郷地頭の存在が承認されている状態が示されているというのが諸氏の見解である*95。これはその通りであるが、私は、この官符については「依令平氏を追伐せしむるにより、其跡に補せらるるの地頭」が「惣領の地本を妨げ、在庁官人・郡司・公文以下の公官等を責め煩わす」という状態が具体的に問題とされていることに何よりも注目しなければならないと考える。これは「国衙が惣領する地頭―地本の管理を妨げ、その統治行政に関わっている在庁官人・郡司・公文などの公官を責め煩わす」ということであろう。この「在庁官人郡司公文以下の公官」は、本書で何度か述べてきたように、郡司刀禰を中核とし、地本を統括し、王朝国家の国衙荘園体制の中軸を表現する存在である。ここでは地頭の存在が平安時代の国衙支配体制、その基礎としての郡司刀禰システムを突き崩しているということが正確に認識されている。
 そして文言からいって、そこには国衙領地頭がふくまれていることはいうまでもない。頼朝の蜂起の基本戦略が国衙の包囲と奪権にあったことはいうまでもなく、早く石母田が特筆したように、治承寿永内乱における国衙襲撃の中で、国衙に蓄積された惣図田帳が紛失したことが建久八・九年に作成された日向・薩摩の大田文に記録されている*96。これはまさに「惣領の地本を妨げ」る最悪の行為であったろうが、朝廷は、そのような内乱における地方社会の諸事態をともかくも正確に認識せざるをえなかったのである。それは一〇月に入って、当年の年貢収納の確保、さらには翌年の勧農という収奪の現実的必要にかられ、朝廷は武臣権力との調整に進まざるをえなかったのである。
 さて、斉藤利男は鎌倉期の国家体制は「(郡司刀禰を基盤とするー筆者注)人民支配体制の破綻と崩壊のなかから成立した」*97と述べている。この官符は、まさにその意味での平安時代の国衙荘園体制の終焉を象徴するものであると思う。そして実は、この史料こそが「地本」という用語の史料上の初見なのであるが、それは体制的な危機の時期になってはじめて太政官符のような法史料の中で確認可能となったといえるのではないだろうか。国土高権の宣言と地盤喪失という相反するものであるとはいえ、私は、この「惣領の地本を妨ぐ」という文言と保元新制の「九州の地は一人の有なり」という一節に共通する「地」の語に、類似したニュアンスを感じる。
在庁指揮権と大田文
 この十月官符をうけて、おそらく翌年一一八七年(文治三)の春頃に頼朝に「諸国在庁進退権」を承認した宣旨が発布された。それは同年九月一三日の摂津国守護三条有範あての関東御教書に(『吾妻鏡』)、「惣じて諸国在庁・荘園下司・惣押領使御進退たるべきの由宣旨を下され了、てへれば、縦へ領主権門たりといえども、庄公下職等国在庁においては、一向御進退たるべく候、速やかに在庁官人に就き、国中の庄公下司・押領使の注文を召され、内裏守護以下の関東御役を充て催さるべく候、但し、在庁は公家奉公隙なしと云々、文書調進の外の役を止むべく候」とあらわれるものである。この「諸国在庁・荘園下司・惣押領使」「庄公下職等国在庁」が一〇月官符の「在庁官人郡司公文以下の公官」と同じ実態であることは明らかである。
 なお、詳しくは本書第三章で述べたことだが、石井進は、この「宣旨」は「文治勅許」と同時に発布されたものとするが、「文治勅許」は院宣によっており、「了、ーー速やかに」という文脈からしても、この関東御教書発布のしばらく前に発布されたものとすべきである*98。むしろ、石井の分析で重要なのは、第一にこの命令権なるものの具体的形式が在庁への下文発給権であると示唆したことである。このような諸国への命令権は平安時代から最上級公卿固有の権限であって、この時期、上級公卿・武家権門としての地位を確立した頼朝もそのような伝統的権限として下文発給権を確認されたのである。そして石井の指摘で第二に重要なのは、「文書調進の外の役を止むべく候」という一節の反対解釈から、関東が在庁に対する「文書調進命令権」を有しているとし、その文書=「国中の庄公下司・押領使の注文」が「内裏守護以下の関東御役を充て催」すためのものであった以上、大田文的なものを意味するとしたことである。
 こうして勧農問題に始まった武臣権門の王朝権力への食い込みと分掌は、鎌倉初期国家の中に「公官」を再度位置づけるとともに、守護権限の下での国衙在庁による大田文調進の制度化にまで浸透した。独占的な位置を確保した武臣権力は、国家の上部から末端にまで吸着し、再編成する方向に進んだのである。
 大田文が鎌倉・室町期の土地制度の根幹をなしたことはいうまでもない。石井の所説を受け継いで、入間田宣夫が述べたように、大田文記載田数は「個々の庄園領主または在地領主による田数掌握とは次元の異なる公的・政治的そして抽象的な数値」として「国家機構をささえる物質的基礎」として機能し、「公田はかれら(領主)すべてのものであり、特定の領主のものではない」というように位置づけられた*99。公田はたとえば一国平均役・段銭のみでなく、年貢公事収取における諸権門共同の地盤として、その数値は権門寺社への年貢公事の相折=分配基準となったのである。それは権門寺社の相互関係、外部関係の数値化を表現するものであり、いわば国家的な予算枠あるいは国家機構を媒介とする交換価値の世界に反映していた。
 また、それが御家人役の賦課基準となったこともいうまでもない。そこでは古く水上一久の論文「本名体制と惣領制」*100が論じたように荘園制的な本名秩序が新たな形で復活し、覆いかぶさってくる。すでに水上は「幕府成立以後、幕府課役が御家人を荘園的に把握するさいに、かかる本名的秩序が収納秩序として根底に作用する」と述べている。実際、たとえば、一二六三年(弘長三)の豊後国大野荘志賀村近地名地頭職譲状には「関東御公事并大番役等においては、名本の公田員数に任せ、惣領の配分を守り、其の沙汰を致すべし」とある。近地村地頭の名本田数は豊後国大田文にのった近地名の公田田数、三町三反大を意味することが明らかにされており*101、ここでいう近地名の名本とは大野荘全体の地本のうちの近地名の地本という意味である(『鎌』八九六九)。ようするに、「関東御公事并大番役等」の勤仕は大田文の地本公田田数によると同時に、大野荘の惣領地頭の大友親秀の配分を守って勤めよというのである。ここでは国家的・「外部的な」軍事奉仕が、公田田数=「本名体制」を基準としつつ、「惣領の地本」ー「名本」という地頭同族の内部的な家系列に食い込み、それと一体化していた様子を確認することができるであろう。地頭領主レヴェルにおいても、大田文田数と下地田数は量的な相違の問題ではなく、質的な相違であり、公田が公事負担など在地領主の公的な渉外関係を表現するとすれば、下地は家産関係を表現するのである*102。この関係については、最近、菱沼一憲が示唆的な議論を展開しているところであり、武士身分における「大名」の規定性に関わって今後さらに検討が必要である。
 さて、実は、本稿の「地本」論は、入間田が公田田数は「政治的に決定された数値」であるとしたことを最大の前提としている。しかし、入間田がそれを強調するあまり、「(公田の)田数を定める作業は国衙機構によって一国惣検などの手続きを経て行われ」、「領主が年貢徴収のために掌握していた田数からもかけ離れた数値」となったとまでいうことには問題が残る。たしかに入間田が強調するように貞応年間(一二二二~四)の大田文の位置は大きく、網野善彦がそれを引き継いで行われたと示唆した嘉禎年間(一二三五~八)の諸国惣検注をあわせれば、それが、実質上、以降の公田制を決定する意味をもったことは否定できない*103。しかし、大田文に記された庄園田数=「公田」田数には、鎌倉期の国衙レヴェルにおける政治的数値というのみでなく、原則としては、その荘園の立券時の登録田数という側面があったことを忘れてはならない。大田文は院政期の王権の国土領有権の系譜をひくものであり、そこに土地制度上の連続性が存在したのである。
 院政期の庄園立券田数と大田文田数の対応という比較的単純な問題が入間田の議論の中に位置づけられておらず、その結果、現在までも明示的な論及がないのは、院政国家と鎌倉期国家をむしろ峻別する入間田の方法的立場によるが、それを個別に示す史料が少ないという史料の残存状況にもよるものである。しかし、蓮華王院領若狭国名田庄が大田文では「五十七丁六反二百歩」とあり、院政期の立券状でもほぼ同じ面積となっているのは*104、その珍しい一例とすることができる。また一覧的な史料としては、石井進の分析した能登国田数注文(『鎌』二八二八)が重要であろう。ここには一九箇所の庄園が現れるが、その内、一四庄に「某年立券状」と注記があり、一庄に「往古庄也、不知年記」、一庄に「同(承久)元年検注田定」、何らの注記もないのが三庄となっている。そして、面積でいうと、庄園総面積約一四八九町の約八二㌫が立券状記載の面積を踏襲している。この内、珠珠郡の若山庄は藤原忠通の建立した皇嘉門院領の五〇〇町という巨大庄園であるが、ほかにも皇嘉門院領庄園の大田文登録田数には、常陸国小鶴庄四百町(『鎌』一三八二四)、豊後国臼杵庄二百町(『鎌』一五七〇〇)、肥前国与賀庄百二十町、同新庄六百町(『鎌』一七九八四)などの巨大な整数が多く、これらも立庄時の登録田数であることは明らかである。このような大開発プランこそが、荘郷の境界掌握を地頭制という形で実体化したものであったということができるだろう。そこでは地頭が四至内の下地を「一向領掌」するということが存在していたはずである。
 なお、これらは土地制度としては、これは荘園の立券状が太政官の官庫に保存されるべきものであったことに対応しているといってよい*105。ようするに、大田文の基本は、院政期の荘園立券状を国ごとに集計したものなのであって国家的な土地制度枠組としては両者はほぼ等置できるのである*106。そして、これらの大田文田数が前節でふれた土地範疇、「地本」・「下地」のうちでいえば地本にあたるものであることは明らかであろう。大田文関係史料で、それを示唆するのは、前にふれた豊後国大田文に「所の名ありといへども、地本を知らず」とある一例に過ぎないが(『鎌』一五七〇〇)、これは間違いなかろう。これは大田文調進制度化の前提となった十月官符が「惣領の地本を妨げ」と、勧農に深く関係する「地本」という用語を使ったことに照応している。ようするに、ここに鎌倉は地本の管掌を公法的に展開するようになっているのである。
 ここに形成された土地制度は、すでに国衙の郡司刀禰の組織の地盤が失われている以上、国衙荘園体制と呼ぶべきものではない。そこで、ここでは土地制度における大田文の基幹的位置を明瞭に示すために、単に国衙と庄園の位置を変更しただけの「荘園公領制」という用語にかえて、「荘園公田制」という呼称を提案しておきたい。この用語によって、鎌倉期以降の土地制度としてはあくまでも荘園が中軸となっていること、しかし公田が、いわばエーテルのようにして荘園・国衙領を通じて年貢公事の収取・分配・交換の基礎となり、土地制度の組織性・国家性を担保していることを表現したいと思う。
おわりに
 地頭―地本の系列の土地範疇は自然としての大地の境界の確定と占取にかかわり、とくに後者の条里制的な大地のメッシュ区分、位置指定、面積などに関わる範疇として平安時代の国衙荘園体制における在庁・郡司刀禰組織の下でに独自な発展をとげたものと考えられる。勧農とはその意味での灌漑や条里制耕地の管理や農料貸与による耕作強制によって「地本」を確定する過程を意味した。これに対して、下地はそのようにして占取された大地の有用な素地、有用的に占取された土地、不動産という意味の範疇として「敷地」の範疇にかわって一二世紀頃に成立した。前者を基礎として大田文的な文書支配と行財政が展開し、荘園年貢収取システムを媒介とした法的・国家的な交換価値の世界の基礎をなすことになり、後者は、そのような体制の下での領主的な生産諸力を構成する土地の有用的な価値を表現する。前者を土地行政権力とすれば、後者は生産諸力の開発と社会的分業の世界、領主家産制の富の世界ととらえることができるだろう。
 以上が本稿においてのべた土地範疇論の概略であるが、第二節を中心にして、一二世紀における敷地範疇からの下地範疇の成立が国衙荘園体制の土地支配組織から人としての地頭領主の形成に対応していることを論じてみた。鎌倉初期国家の形成、あるいは国衙荘園体制から荘園公田体制への移行にまで議論は及んでいるが、非常に駆け足でおおざっぱなものであるので、今後とも検討を続けたい。
 さて、以上の分析によっても、冒頭でふれた太良庄の二つの史料についての大山の解釈自体は揺らいでいる訳ではない。そもそも太良庄には、建長八年(一二五六)二月の勧農帳には、「此内小卅歩、依無下地、免之」という表現がある(『若狭国太良庄史料集成』①四八号文書)。これは本稿の観点からいえば、むしろ「無地本」とあるのが自然であるようにも思われる。また逆に「地本」という言葉は、鎌倉後期、太良庄相論に関係して作成された太良庄公文職に関する書継証文案の端裏書に「地本領家方可進止証拠可備哉否<古証文案、交正了>」という形で登場する(「太良庄公文職文書案」『若狭国太良庄史料集成』①八号)。ここで「下地」ではなく、「地本」という用語によって領家の所有権原が表現された理由は領家権限の法的性格にあるのであろうか。ここで正確なところを推定することもできない。今後、南北朝期までをふくめて、地・地本・無地などの用語の蒐集の上にたった、本稿では具体的に論ずることのできなかった地主的な階層や村落共同体との関係をふくめたより系統的な検討が必要であることを述べるにとどめたい。
 ただ、太良庄史料を素材とした勧農と下地進止の関係について、前者が後者に同時的に併存している根源形態であるという点をこえて、それを大山が段階論的に理解した難点については、地本・下地の二つの土地範疇を区別することによって突破できたと考えたい。これによって土地行政権力と領主権力の区別と関連をさらに明瞭に論ずることができれば、中田―大山を通じて大きな問題であった公権分掌による領主権力の形成という問題をより合理的に理解することが可能になるように感じている。これによって戸田芳実の批判をうけたような、耕地の満作強制、種子農料の下行・貸付けなどを実態とし、支配とイデオロギー的性格を主要な側面とする勧農なるものへの大山のやや甘い評価を大山の側から払拭できるのではないだろうか。
 太良庄史料がきわめて貴重なものであることはいうまでもない。しかし、それだけに、その言語表現をもふくめて、すべてを一般化しがちなことには若干の疑問をもつ。荘園制研究の正統が、黒田俊雄・大山喬平・網野善彦による太良庄分析に発していることは周知の通りであるが、別の視野、つまり本来の領主制論からの相対化も必要ではないかと考えるのである。
*1「国衙領における領主制の形成」(初出一九六〇年、同『日本中世農村史の研究』岩波書店)。
*2大山論文をめぐる領主制論者内部の論議については、まず戸田芳実「中世成立期の所有と経営について」(同『日本領主制成立史の研究』、一九六七年、四八・六六頁)を参照。戸田は大山論文の「在地領主制における国衙公権の所領化重視の観点」に対して、「私はむしろ公権を『職』として在地領主に『下降分有』せしめた領主制の内部構造の特徴を明らかにする必要があると考えた」と述べている。戸田はさらに「国家公権の一部である所職の所領化によって、勧農は国家権力に由来する勧農権として公法化され、また徴税権・検田権・検断権などの公権が領主権の構成要素に転化されるのであるが、しかしそれらは、領主経営を前提とし基礎として分割所有され、領主権として機能をもつことができたのである」と論じており、問題が大山のいうように「勧農」の理解にあることが論じられている。
*3私見とは結論を異にするが、地本については鈴木哲雄「土田と作毛」(初出二〇〇一年、同『中世日本の開発と百姓』岩田書院)、「地本と下地について」(『鎌倉期社会と史料論』東京堂出版、二〇〇二年)、「香取社領における地本と下地について」(『千葉県史研究』一一号、二〇〇三年)がある。
*4前近代の土地範疇の理論的理解については保立「歴史経済学の方法と自然」(『経済』二〇〇三年三月号、四月号)を参照。
*5網野善彦「中世都市論」(初出一九七六年、『網野善彦著作集』岩波書店、⑬巻)。
*6「国衙荘園体制」の規定については『シンポジウム 中世社会の形成』『シンポジウム 荘園制』(学生社)での戸田芳実の発言によっている。
*7戸田「平民百姓の地位について」(初出一九六七年、同『初期中世社会史の研究』東京大学出版会)
*8斉藤利男「十一~十二世紀の郡司・刀禰と国衙支配」(『日本史研究』二〇五号、一九七九年)。
*9「王朝時代の庄園に関する研究」(初出一九〇六年、『法制史論集二』岩波書店、八〇頁)
*10「日前宮文書」一一号。「日前宮文書」については『中世日前社の研究』(科研研究成果報告書、代表海津一朗、二〇〇六年三月)によった。
*11なお「もと」の漢字表記として「下」もあり、たとえば「縄下」という表現がある(『鎌』二七七七五、三一四三七)。
*12竹内前掲「中世荘園における古代的遺制」(初出一九四九年、『竹内理三著作集⑥』)。
*13藤井昭「『とうのもと』の慣行と文書史料」(『中世をひろげる』吉川弘文館、一九九一年)
*14清水三男『日本中世の村落』(『清水三男著作集』二巻、校倉書房)第三章。図師については、その技術者的性格をふくめ田中寿朗「平安・鎌倉時代の図師」(『荘園絵図研究』東京堂出版、一九八二年)を参照。
*15保立「中世初期の国家と荘園制」(本書第一章)。
*16『平』一九七〇、三六六五、四〇五八。『鎌』三二六〇、一九八九三。なお、ここから「半折」の本来の読みは「はわり」であったことがわかる。
*17戸田芳実「中世初期農業の一特質」(同『日本領主制成立史の研究』岩波書店)初出一九五九年
*18『温故知新書』『字鏡集』に「ありどころ」という訓読みがのっている(杉山巌氏の教示による)。また竹内理三は永正五年十二月十七日の「はやみのにし女田地売券」を引用している(「ありところ、かうしうあさひのこうりたかわのしゃうかわけのかうのうち、いたへやまのしたまへ、にしのなはもとはほり一反おひてつき一反目はほりなり」『大徳寺黄梅院文書』史料編纂所架蔵影写本(3071.62/69/1)、注10竹内前掲論文)。ただし、『鎌倉遺文』で確認できるのは「在」を単に「あり」と読んだ例のみであり(佐藤雄基氏の教示による)、この時代「ありどころ」という読みがどこまで一般的であったかは不明である。
*19「日前宮文書」一三号、有家郷検畠取帳。
*20「日前宮文書」一七号、諸郷奉分田所当注文。
*21『鎌倉遺文』所収文書分四八件の外、不所収のものとして、はじめにでふれた「太良庄公文職文書案」の端裏書一件、また紀伊国日前宮文書二件。なお日前宮文書で『鎌倉遺文』不所収のものは、秋月郷(一一号)、津秦郷(一四号)の二件である(大田郷の検田検畠取帳には地本が登場するが、『鎌倉遺文』既掲載である)。なお、『鎌倉遺文』の地本の例のうち、本稿で引用しなかったものは、『鎌』五二四三、六八九〇、六八九八、八二八二、一三〇二一、一三六二〇、一三八二二、一三九三二、一四三二一、一六八〇六、二〇三六一、二二八三〇、二四五五五、二四六二五、二八九三三、二九〇四九、二八九一七、二九一四七、三一五〇〇の一九件である。
*22『鎌』九〇三、八七三七、九八四〇、一〇五八四、一五七〇〇、一六三四五、一八七八四、二二九六六、二九〇二二、二九九三一。
*23なお、日前宮の永仁検注帳の中で、吉田郷検田取帳には「無地本」という用語がない代わりに「常荒」があることは示唆的であると思う。
*24「日前宮文書」一〇号。「川成不作」の田数は「四町一段百十歩」で、本帳中の「川成」「不作」「無地本」の総計四町二段百歩とほぼ一致する。ただし、「無地本」七筆には、単なる「無地本」五筆(総計二八〇歩)と「不作、無地本」(二四〇歩)、「無地本、溝成」(一反)の各一筆があり、単なる「無地本」は「川成不作」の中に繰り入れられなかった可能性もある(五筆の無地本を右の総計四町二段百歩から引くと四町一反一八〇歩となり、この方が帳簿記載の田数に近似する)。しかし、「無地本」の中に「不作」「溝成」が含まれていたことは確実である。
*25富沢清人「中世検注の特質」(初出一九八二、『中世荘園と検注』吉川弘文館)。
*26「日前宮文書」二三号(前掲注8『中世日前社の研究』所収)。
*27ただし、この内の一筆については「彦四郎案主子給/目景吉御方被売召、無地本」とあり、単純な無地本ではなく、上位者による「売召」によって「無地本」と認定されたもので、挙地に近く、若干性格が異なっている。
*28さらに残る三筆の性格についての説明は、当面、留保するが、うち一筆は「一反<貞基給/新殿被召之>」とあることから、「召」による「無地本」であったと思われる。なお、この「召」は、後掲(注28)の笠松論文のいう「挙地」と実質上おなじことである。
*29永原慶二『日本の中世社会』(初出一九六八年、『永原慶二著作選集』第一巻、四二一頁、吉川弘文館)。
*30もちろん、「地本給了」と記された名は、上記以外にも良全、毘沙丸、聖珍、千義の四名があり、これらは一町から一町五反ほどの田数を確保している。良全は「一丁一段小(一二〇歩)」の田数であるが、「此内二反地本給了」とあって、給免二反を付与され、さらに例免が八反ある。つまり、約一町ほどの給免・例免によってこれだけの面積を確保していることになる。また毘沙丸は「一丁四段六十歩」の面積であるが、これもそのすべてを「地本給了」によって確保されている面積である。聖珍は「九反大十歩(二五〇歩)」の面積があるが、これは「五反小十二歩、地本給了」によって確保された面積である。千義丸も「一丁五反半」の地積があるが、これもそのすべてを「地本給了」によって確保されている面積である。つまり、これらは検注以前はほとんど小規模名であったが、充行によって地積を増大させたものであることになる。これが「地本給」を大規模名と小規模名の対比の中で指摘した理由である。
*31笠松宏至「本券なし」(初出一九七五年、同『日本中世法史論』東京大学出版会)
*32日前宮文書の一三七五年(永和元)の日前宮所領の段別結解状写にも、「地本なし」に「屋敷代給」「屋敷分御申候」とある。屋敷となって畦畔の縄張りからはずれることも「無地本」と呼ばれたようである。なお、これらには「充文=勧農状」が給付される場合があったはずであるが、石山寺名寄帳でも、快珍名(田積五反二二〇歩)には「二反充文給了」という注記がある。
*33富沢清人「中世の名寄帳について」(同『中世荘園への道』富沢清人遺稿集刊行委員会編、一九九七年)。
*34稲垣泰彦「初期名田の構造」(初出一九六二年、同『日本中世社会史論』東京大学出版会)。
*35山本隆志『荘園制の展開と地域社会』第一章(刀水書房、一九九四年)
*36参照、戸田前掲注15「中世初期農業の一特質」。
*37前者は中田薫「王朝時代の庄園に関する研究」(初出一九〇六年、同『法制史論集二』岩波書店)八〇頁)、後者は「徳川時代の物権法雑考」(初出一九二九年。同『法制史論集』二)。重要なのは後者による再定義であって、この論文において中田は、江戸時代の永小作の土地所持権を「上地持」、地主の土地所持権を「底地持」といったこととパラレルに「下地」=「底地」と理解する。しかし、「上地」「底地」は、下地と連続して理解すべきではなくむしろ中国明代以降に一般化する「田面ー田底」という永小作類似といわれる佃戸土地所有関係の二重化に共通するものとより歴史的に理解すべきではないだろうか(参照、寺田浩明「中国近世における自然の領有」『世界史への問い1』岩波書店一九八九年)。これについては現在論ずる力がないが、たとえば「底を売る」(『大日本古文書 大徳寺文書』二三九〇)という表現などは、それに関わる可能性がある。
*38安田次郎「下地」(『ことばの文化史 〔中世4〕』、一九八九年、平凡社)。なお『若狭国太良庄史料集成』(2)(一五三号文書、し函二五四)は鎌倉時代における心の奥底、素性という意味での「したち」の用法を伝える文書である。
*39保立「やれ打つな蝿が手をする」(保立『中世の愛と従属』平凡社、一九八六年)
*40(『大乗院寺社雑事記』文明七年三月十七日条、(三浦圭一「一四・五世紀における二毛作発展の問題点」、初出一九七二年、『中世民衆生活史の研究』思文閣、参照)。
*41島田次郎「下地」(『国史大辞典』)
*42「簗下地伍町」という用例(『平』一三八二。一〇九七年=永長二年)は、記載された四至からして山と川の間で東西に田が開けた土地で、簗の管理に関わる小屋などのある空間と理解できるから、「簗下(やなもと・やなしも)の地」と読む可能性もあって明示的な用例としなかった。また、「字下地畠」という用例(『平』三二二三。一一六二年=応保二年)も単に「下の地の畠」(下の方にある土地の畠)という意味で、「下地」の用例ではない。またこれまでは、勝尾寺文書の「ただに下地を押すのみにあらず、あまつさえ所当を備えるなし」という一節を含む年欠の文書が一二世紀の用例とされてきた(『平』六三七四。前掲島田・大石直正「下地」『講座日本荘園史』1、吉川弘文館、一九八九など)。しかし、この文書は関連文書の関係で『平安遺文』におさめられているものの、平安時代の文書である明証はない。
*43利田についての私見は本書第一章「平安時代の国家と荘園制」を参照。なお、この充行状で観音経が「当郡人民郡司百姓等所従眷属安穏五穀成就」のために捧げられているのは、起請の実質を示す。
*44戸田芳実「平民百姓の地位について」「王朝都市論の問題点」(前掲『初期中世社会史の研究』五七頁および一七九頁)
*45高橋一樹「鎌倉後期~南北朝期における本家職の成立」(『国立歴史民俗博物館研究報告』一〇四集、二〇〇三年)
*46網野善彦『日本中世の百姓と職能民』(同著作集第八巻、岩波書店)。
*47これについては保立「中世前期の新制と沽価法―都市王権の法、市庭・貨幣・財政」(『歴史学研究』六八七号、一九九六年)を参照されたい。
*48また、院政期の荘園制支配において、庄園の所当・年貢が家産制的な組織における支出用途(「相折」)を細かく指定されるに至ったことはよく知られている。支出の多様性を前提として、その多様な収入源を「田の下地」「林の下地」などと表現するために、有用的に占取された土地一般を表現する言葉が必要になったのではないだろうか。
*49保立前掲「中世初期の国家と荘園制」。
*50上横手雅敬「地頭概念の変遷」(『日本中世政治史研究』塙書房、一九七〇年)など。
*51なお梅村喬は平安時代における公証制度という観点から公証の当該地を指示する用語として「在地」という用語を位置づけた(「『在地』の歴史的語義について」など、同『日本古代社会経済史論考』塙書房、初出一九九九年)。この言葉については早く木村茂光に「地域的な政治組織」とする理解があり(「荘園領主制の成立と住人集団」『日本古代・中世畠作史の研究』校倉書房、初出一九七二年)、また田村憲美はそのような近隣集団としての「在地」を詳論すると同時に、「地が在る」「現地」という語義についても論じていた(「一〇世紀郡支配体制とその解体」「郡支配体制の再編と興福寺」、同『日本中世村落形成史の研究』校倉書房、初出一九八〇年、一九八三年、『在地論の射程』校倉書房、二〇〇一年)。これに対して、土地公証制のみに引きつけて「在地」という用語を論ずる梅村の主張は趣旨が十分に理解できない部分があり、田村のいうように史料解釈に難点もある。またここは多岐にわたる論点にふれる場でもないが、しかし、梅村が「在地」の語を土地制度のなかに位置づけようとすること自体は参考になりる。私は、この言葉の中には、平安時代の国衙において「地―地本」の用語が使用されていたことの証明となると思う。
*52この文書の引用部分、原本調査により、『平安遺文』の翻刻を若干訂正してある。』は改行符号である。
*53保立「中世における山野河海の領有と支配」(『日本の社会史 境界領域と交通』岩波書店、一九八七年)
*54地頭制の背後に、このような領主連合を想定すべきことについては本書第一章「平安時代の国家と庄園制」ⅢBを参照。
*55義江彰夫『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』東京大学出版会、一九七八年。なお、義江明子の理解は、伊賀国黒田庄の一史料(『平』三七一六)についての解釈を一つの理由としているが、本稿一(3)②の項でみたように、私は別の解釈をしている。
*56安田元久『地頭および地頭領主制の研究』山川出版社、一九六一年。島田次郎「下司と地頭」(初出一九九一年、同『荘園制と中世村落』吉川弘文館)も参照。両論文提示の下司の事例は非御家人(またはその建前で)の補任された職と考えて矛盾はない。なお鎌倉幕府御家人制が平家のそれを引き継いでいることは野口実「平氏政権下における諸国守護人」(初出一九七九年、同『中世東国武士団の研究』高科書店)はより積極的に平氏「御家人制」を論じている。
*57鎌倉佐保「荘園制の成立と武門支配の統合」(『歴史学研究』八四六、二〇〇八年)。なお鎌倉の「開発委託」論の前提には「開発請負」についての独自な研究がある(鎌倉『日本中世荘園制成立史論』塙書房、二〇〇九年)
*58佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』(初出一九四三年、岩波書店)
*59参照、「中世東国の新田と検注」(初出一九六四年、『永原慶二著作選集』巻三、吉川弘文館)、『日本の中世社会』第三章四(1)(初出一九六八年、『永原慶二著作選集』巻一)。ただし、永原は、この権限を「地頭制成立以前からの開発領主」の中に原型を求める一方で、鎌倉期以降の幕府の政策に帰しており、これが「地頭制度の発足」と直結する問題であるととらえない。
*60吉田晶「平安期の開発に関する二三の問題」(『史林』四八巻六号、一九六五年)。
*61金田章裕『微地形と中世村落』(吉川弘文館、一九九三年)。山川均「中世集落と耕地開発」(『中世集落と灌漑』(シンポジウム「中世村落と灌漑」実行委員会編、一九九九年)、「大和郡山市中付田遺跡の発掘調査」(『条里制・古代都市研究』一六号、二〇〇〇年)。
*62高橋一樹「小泉荘加納と下地中分について」(『新潟史学』三三号、一九九四年)。
*63永原慶二「荘園制の歴史的位置」(『永原慶二著作選集』第二巻)初出一九六〇年
*64戸田芳実「在地領主制の形成過程」(前掲『日本領主制成立史の研究』)初出一九六七年
*65大山「没官領・謀反人所帯跡地頭の成立」(『史林』五八巻六号、一九七五年)。
*66地本についてのみ事例を掲げる。「進退」は『鎌』六二三九、七〇九七、一一五〇二、一七四〇〇、「相綺」は『鎌』七六二二、「押領」は『鎌』六八九〇、「中分」は『鎌』一四五五八、「実検」は『鎌』一九一一四、二七八一八、「召上」は『鎌』補二一三三、「打渡」は『鎌』二二九八一。
*67永原前注六二論文。石井「荘園の領有体系」(『講座日本荘園史2』吉川弘文館、一九九一年)。
*68石井紫郎「中田薫」(『日本の歴史家』日本評論社、一九七六年)
*69「鎌倉時代の地頭職は官職に非ず」(『法制史論集』一、岩波書店)。
*70石井紫郎「財産と法」(『日本人の法生活』東京大学出版会、二〇一二年)。この石井論文とそれの前提になっている石川武の仕事を理解し、それにそって中田薫を読み直す作業はまだ途中になっており、現在の段階では「のようであるから」としかいえない。中田の「鎌倉時代の地頭職は官職に非ず」は「王朝時代の庄園に関する研究」の付論であるだけに全体の検討には相当の労力を要する。
*71保立本書第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」
*72『石母田正著作集』第九巻。
*73五味「平氏軍制の諸段階」(『史学雑誌』八八編八号、一九七九年)
*74なお、院宣を重視しているなどの細部において若干の相違があるが、「守護勅許」過程についての私見は、義江彰夫『鎌倉幕府守護職成立史の研究』第三編の理解に依拠している。徹底的に第一次史料を重視した義江の議論によって、守護成立史について、客観的な理解の基礎がすえられたことは特記しておきたい。
*75黒田「鎌倉幕府論覚書」(『黒田俊雄著作集1』法藏館)初出一九六四年
*76黒田「中世の国家と天皇」(『黒田俊雄著作集』一巻、法蔵館)初出一九六三年
*77笠松宏至「中世の『傍輩』」(『法と言葉の中世史』平凡社、一九八四年)。
*78笠松「安堵の機能」(『中世人との対話』東京大学出版会)初出一九八六年。なお笠松の議論を前提とすると戸田が「本宅」を「支宅・別宅」「敷地」との関係で使用することには問題があるが、便宜、使用を続けている。
*79佐藤進一『日本の中世国家』(岩波書店、一九八三年)および辞典項目「代官」(平凡社『日本史辞典』)を参照。
*80高橋一樹「中世荘園の荘務請負と在京沙汰人」(同『中世荘園制と鎌倉幕府』、原論文は二〇〇三年発表)は院政期の在京沙汰人の姿を明らかにした上で、それに対応する「地下沙汰人」の究明の必要を強調している。平氏権力段階の沙汰人をその観点で考えることができればよいと思う。
*81藤木久志「境界の裁定者」(『日本の社会史』2、岩波書店、一九八七年)
*82阿多忠景については五味克夫「平安末・鎌倉初期の南薩平氏覚書」(『鹿児島大学法文学部紀要』文学科論集第九号、一九七三)参照。
*83工藤敬一「九州における荘園公領制の成立と内乱」(初出一九七七年、同『荘園公領制の成立と内乱』思文閣収録)
*84峰岸純夫「治承寿永内乱期の東国における在庁官人の『介』」(『中世東国史の研究』東京大学出版会、一九八八年)。ただし、権守称号は買官によるものと考えられ、それ自身で「一国惣領」的な地位を表現するものではない(野口実註(68)論文参照。
*85「式目」の軽い意味については参照、笠松宏至『中世政治社会思想』御成敗式目三条頭注。なお「式目」という言葉が追加法にみえる場合、ほとんどが御成敗式目をさす。『中世法制史料集Ⅰ』(鎌倉幕府法)が収録する追加法においてその意味での「式目」は、次の条文番号である。四七、六二、六四、六八、九二、九五、二五〇、二五二、二八三、二八九、二九一、二九二、三一七、四三五、六八六、七〇四、七二〇、七三八、七四四、七四五、九〇六。しかも、建長の追加法の「式目に載せられ了」と同じ表現は追加法の二五二、二九一、二九二、四三五、六一七、七〇四、七四五などにもあるが、それらはすべて御成敗式目を意味している。この「式目に載せられ了」というフレーズに現れる限定語なしの「式目」は固有名詞としての「式目」なのである。もちろん、追加法には、その他、「此式目に就き」(九四)として発布法令自身をさす場合、「召人の軽重に随い、罪科に行うべきの由の式目、先日定置かれ了」(七二三)、「去五月十四日に重ねて定め置かるる御式目状に云く」(一五九)などと具体的な法を指示している場合、また弘長新制(三四九)、文永四年式目(四四三)、弘安新式目(四九一、五四八)など自身を「式目」と指称している場合などもある。しかし、それらはすべて文脈上の限定つきである。とくに注意すべきなのは、問題の建長追加法の場合、同じ一二五三年(建長五)の同じ月、十月一日の一三条からなる追加法(追加法二八二~二九四)が存在し、そこでも「式目」という用語が五回現れるが(「式目に載せらる」・「式目に任せ」など)、例外的な一例をのぞいて、それらも御成敗式目を意味している。それ故に、この建長五年十月に発布された二つの法において、「式目」という場合に御成敗式目を意味していたことは確実である。問題は、「例外的な一例」ではあるが、これについても説明がつかない訳ではない。つまり、この例外的な「式目」とは二八四条の「竊盗事」に「式目に任せ」とある「式目」であるが、これは内容的には追加法二一条の「盗賊臓物事」にあたる。そして、笠松宏至が仁治の大友新御成敗状に引証された六箇所の「御式目」という用語の中のうち、同じく式目に対応条文をもたない一箇所とした大友一八八条があげる「式目」も内容的には追加法二一条なのである。これは偶然の一致とは思えない。笠松は、豊後守護大友氏の手許に存在した「式目」は「御成敗式目とこれに物理的に”追加”されていた若干の追加法群(=「原初的追加集」)」の双方を含み、この追加法二一条は、そこに含まれていたという(笠松宏至「幕府の法・守護の法」(初出一九九四年、同『中世人との対話』東京大学出版会)。この笠松の指摘によって、建長追加法に登場する「式目」が御成敗式目を意識していたのは確定できる(もちろん原式目論をとれば話しは異なってくる)。
*86瀬野精一朗「鎌倉幕府による鎮西特殊立法について」(『御家人制の研究』吉川弘文館、一九八一年)。清水亮「鎌倉期・中期の惣地頭・小地頭間相論と西国御家人制」(『鎌倉期社会と史料論』東京堂出版、二〇〇二年)。
*87田中稔「鎌倉幕府御家人制度の一考察」(初出一九六〇年、同『鎌倉幕府御家人制度の研究』吉川弘文館)。網野善彦「常陸国南郡惣地頭職の成立と展開」(初出一九六八年、『網野善彦著作集』四巻、岩波書店)。なお、瀬野は前注論文において、田中・網野の見解を批判し、九州以外で惣地頭が確認されているのは常陸国南郡地頭職、若狭国遠敷・三方二郡惣地頭職、安芸国沼田庄惣地頭職のみで特例であるとする。しかし、『鎌倉遺文』の検索によれば、それ以外にも紀伊国阿弖川庄(『鎌』一〇六八)、遠江国笠原庄(『鎌』補三六四)、信濃国中野・志久見郷(『鎌』七一四九)、安芸国内部庄(『鎌』九七一二)、近江国益田郷(『鎌』二四七四九)、奥州会津(『鎌』二九二九〇)、安芸国三田郷(『鎌』二九九八九)などがあり、一般的なものと認めることができる。
*88なお、もう一つの可能性があることも指摘しておきたい。この「式目」が狭義の式目のみでなく、笠松がいう「(それに)物理的に”追加”されていた若干の追加法群(=「原初的追加集」)」をも含むものであった可能性、つまり追加法の冒頭の貞応一年・二年の宣旨およびその施行を含む地頭関係規定をもって「式目」と称していた可能性である(笠松宏至前掲「幕府の法・守護の法」)。この場合は、地頭法という幕府の根本法に公家法が入り込んでいる事実を示すことになる。それらの公家法が「惣領の地本」という用語を含む文治二年の太政官符を明らかにうけているのは注目されるところである。詳細は決めがたいが、この二つの可能性のどちらも地頭領主権の本来的な性格を惣領という点に求めている点は確認しておきたい。
*89石井良助「中世における入会の形態」(『法学協会五十周年記念論文集第一部』有斐閣、一九三三年)。豊田武は、この論点を「惣領制覚書」(初出一九五七年)以降、一連の論文・著書において惣領=本名論として発展させている(右「惣領制覚書」をふくめ、『豊田武著作集』六巻、吉川弘文館を参照)。また島田次郎「私領の形成と鎌倉幕府法」(初出一九五八年、『日本中世の領主制と村落』上、吉川弘文館)も参照。
*90やや時代は降るが、一三一二(正和一)年の一通の関東下知状において、地頭側は「於下地者地頭一円知行之間、預所無進止之地本」と主張し、預所側も「文治之比、於当庄下地者、預所善清依任其意、以名主給三町・鹿島神田五段・定田四町七段小地本、付地頭了」(『鎌』二四六二五、鹿島大禰宜家文書)と主張している。ここでは、どちらの側にとっても下地は「一円知行・当庄下地」という領域開発の文脈で使用され、地本は地割された個々の田地という空間分割の意味で使用されている。また、「自往古限四至堺、代々所開発知行也」「其残者、為得永名差四至堺、所号大和田村也、自爾以来開発之間、田数令増」などとあって、大和田村は四至堺されたものであって、そのために、徐々に田数が増大してきたというのはきわめて重要であろう。一三三二(正慶一)年の鎮西下知状は「惣地頭の詞を載せず、下地進止のごとく、四至堺を定め譲状を書きあたう」という非難に対して、「所領を子孫に分譲するの時、分限の多少につき四至堺を書分くの条は通例」という判断をしているが(『鎌』三一九一二)、しかし、「下地進止=四至堺」という等式は前述のような「敷地=四至堺」という平安時代以来の用語法に適合的なものであると思う。
*91保立「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」(『国立歴史民俗博物館研究報告』三九集、一九九二年)
*90大山「文治国地頭の三つの権限について」(『日本史研究』一五八号、一九七五年)。
*91一一八六年(文治二)十月八日太政官符。関係部分を引用しておく。(事書)「応早令停止国衙庄園地頭非法濫妨事」、(本文の関係部分)「依令追伐平氏、被補其跡之地頭、称勲功之賞、非指謀反跡之処、宛行加徴課役、張行検断、妨惣領之地本、責煩在庁官人郡司公文以下公官等之間、国司領家所訴申也」(『鎌』一八三)。
*92なお、官符の「現在の」とは「現に存在すること、紛れもない」などの意味である『日本国語大辞典』(小学館)
*93武末泰雄「鎌倉幕府庄郷地頭職補任権の成立」(『荘園制社会と身分構造』校倉書房、一九八〇年)三四九頁。義江前掲『鎌倉地頭職成立史の研究』七一四頁。川合前掲『鎌倉幕府成立史の研究』九七頁
*94石母田正「古代国家の没落過程」(初出一九五〇年、後に『石母田正著作集』六巻収録)
*95斉藤利男前掲注7「十一~十二世紀の郡司・刀禰と国衙支配」。
*96石井進『日本中世国家史の研究』。以下のパラグラフにおける石井の見解も、同じ。保立前掲「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」。
*97入間田「鎌倉時代の国家権力」(『体系 日本国家史』中世、一九七五年)。
*98初出一九五八年、水上『中世の荘園と社会』(吉川弘文館)所収。さらに豊田の前掲諸論文を参照。また「名本」と「地本」の関係については(『鎌』一七一四五)を参照。
*99吉良国光「豊後国大野荘における荘園制的所領編成」(『日本歴史』五八七号、一九九七年)。
*100網野は「在地領主の支配の論理ー戸田芳実が「宅の論理」として定式化した論理が、ついに公田には貫きえなかった点に、日本の中世社会の運動法則を考えていく場合の一つの手がかりがある」と述べたが(注八〇論文)、ここには大山と同じ種類の錯誤がある。公田=地本と「宅の論理」の働く敷地=下地が別次元の問題であることの確認こそが重大である。
*101網野善彦「若狭国における荘園制の形成」(初出一九六九年、後に『日本中世土地制度史の研究』塙書房収録)。
*102若狭名田郷内御領立券注進状(『大日本古文書 真珠庵文書之六』八一六号文書)には「須恵野十五町許・伊加野十町許、不可宇野十町許、息原野十町許、三重十二町之内<野五丁、田代七町>、弘瀬野三町許」とある。三重を除くと総計四八町となるが、各々に「許」とあるのを勘定すれば五〇丁にはなり、大田文の「五十七丁」余と近似する数値となる。ここで「許」という曖昧な数値が登場するのは、この文書が名田郷を「御領」にする時の国司への立券注進状であって、名田庄の立券状そのものではないためであろう。正式の立券においては、三重の「野五丁、田代五丁」の扱いをふくめて田数の操作が行われたに相違ない。
*103高橋一樹「十二世紀における摂関家領荘園の立荘と存在形態」(『中世荘園制と鎌倉幕府』塙書房、二〇〇四年。飯倉晴武「壬生家文書の特異な一面」(『鎌倉遺文月報』二七)を参照。
*104【追記】石井進は大田文の作成が院政期にさかのぼるはずであるという見通しをもって関係史料の点検を続け、論文「院政時代の伊賀国大田文断簡」によってその一端を明らかにした(『石井進著作集』③、原論文一九七九年発表)。後に紹介された『医心方』の裏文書の一通、加賀国国務雑事注文(『加能史料研究』四号、一九八九年)によると、国衙の引き継ぐべき事項として「国内田代所事」「庄薗等事<領主并官省符>」「諸郡勧農事<種子下行同国事』田数可取名注文>」「郷・保等領主事<自中古以降>」などがある。これらは大田文に載るべき情報をふくんでおり、大田文を支える文書行政が院政期国衙にあったことを明瞭に示している。


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