『曾我物語』と虎の実像

2月12日午後二時開演(湘南平塚能狂言)平塚文化芸術ホールでの復曲能「大磯」のパンフレット解説です。(後援平塚市教委。券はインターネット販売)

『曾我物語』と虎の実像
 虎は一七歳の時に曽我十郎と契りを結んだといいますから一一七五年生れです。父はその頃、奥州平泉の実力者であった藤原基成の乳兄弟の宮内判官家長(宮内省の三等官)だという『曾我物語』の真名本の伝えをとります。平泉の主は奥州藤原氏三代の二代目、藤原秀衡ですが、藤原基成は元陸奥守で秀衡の岳父にあたります。しかも基成は平治の乱(一一五九年)で源義朝と組んで平清盛と対立して死んだ藤原信頼の兄弟です。
 虎の父、家長は意外な大物でいわば関東地方における平泉の窓口の役割を果たしていたのでしょう。彼は最初にまだ京都にいたころ、海老名季貞という相模国の武士と知り合って、いろいろ便宜を図り、東国に来た時に、この海老名季貞の館を活動の拠点としました。これは『曾我物語』のいうことを信じると保元の乱(一一五六年)の前、あるいはその直後くらいのことでしょうか。
 海老名季貞という武士は、平塚の少し北の海老名を本拠とする有力な武士領主です。保元の乱での活躍が『保元物語』で知られていますし、また『曾我物語』に伝えられた伊豆奥野の巻狩りにも相模の武士として参加しています。この伊豆奥野の巻狩りは一一七六年のことですが、そこで工藤祐経が曽我十郎・五郎の兄弟の父の伊藤祐通を襲わせて殺したことが、『曾我物語』の発端です。私は工藤祐経の裏に源頼朝がいたのは確実だと考えています。だから、曾我兄弟は一一九三年に頼朝が催した富士の巻狩りで、工藤祐経を殺した後に、さらに頼朝を親の仇として狙ったわけです。
 さて、話を虎に戻しますと、父、家長は、海老名の南の平塚の宿の遊女、夜叉王と縁ができて間に虎をもうけました。家長は虎が五歳のとき、一一七九年に死去したといいますが、それでも虎は普通ならば海老名季貞の保護をうけて武士の娘としての生涯を送ったことでしょう。当時は母を遊女とする武士は珍しくありません。
 とくに注意しておきたいのが、海老名季貞が伊豆奥野の巻狩りに参加していたことです。この伊豆奥野の巻狩りは一一七六年のことですが、父の家長はまだ生きていましたから、家長もこの巻狩りに平泉との関係で参加していた可能性があります。そうでないとしても虎の父の家長は伊藤氏の間でも知られていた人物であったはずです。ようするに、虎と曽我兄弟との縁は虎が遊女になるより以前にさかのぼるということです。彼らは、本来、同じ武士階級の家に属する男女としてお似合いのものであった訳です。
 これを壊したのが源平合戦でした。つまり、一一八〇年、海老名季貞は蜂起した頼朝を石橋山に襲います。このときに頼朝を追いかけてきた武士の中心が子どもの祐通(曽我兄弟の父)を殺された伊藤祐親でした。海老名季貞は伊藤祐親とは知り合いだったに相違ありません。祐親は政子の母方の祖父にあたりますが、結局自死に追い込まれます。海老名季貞が処刑されたかどうかは分かりませんが没落したのでしょう。
 虎は父の家長が死去した後は母の夜叉王の許で平塚宿で生活をしていたが、大磯宿の長者がもらい受けて遊女としての生活に入ったといいます。父が死んだのは一一七九年、つまり石橋山合戦の前年です。石橋山合戦での窮地を逃れた頼朝は、同じ年に鎌倉に入り、平氏を富士川で破って勝利者として立ち現れますが、逆に父と保護者を相次いで失った虎は一挙に厳しい境遇におちいったのです。
 しかし、『曾我物語』によると虎は強い女性でした。その支えは聖徳太子信仰でした。東海道の宿の遊女たちの間には聖徳太子への強烈な信仰があったことが分かっているのですが、私はそれが虎を象徴として大きく進んだ可能性があると考えています。つまり十郎を失った虎は西国巡礼にでますが、その目的地は聖徳太子の聖地、河内の叡福寺と四天王寺でした。これは「望恨歌」(多田富雄作)という新作能を考えるために『能楽の源流を東アジアに問う』(風響社)という本を協同執筆する中で考えたことですが、能という芸能の成立の宗教的な背景は従来いわれていたような時宗や禅宗ではなく、むしろ聖徳太子信仰にありました。聖徳太子信仰は法隆寺や律宗の西大寺によって復興されるのですが、世阿弥の父の観阿弥がその中にいたことは確実です。
 詳しくは右の本に書きましたが、日本の芸能は中国・韓国を移入する中で始まりますが、そのさいに聖徳太子が秦氏などの渡来系の芸能者を保護し、その中で聖徳太子は日本の芸能の神になります。そもそも世阿弥は「秦元清」を名乗っていることを忘れてはなりません。『曾我物語』は平塚の高麗寺の修験比丘尼などによって語られたとされますが、高麗寺の一二八八年の鐘には「大旦那」として「秦有信」という名が刻まれています。平塚は国府があった相模国の中心地ですが、九世紀から渡来系の人々が連続して国司になるなど文化的にも開かれた町で、渡来系の人々をふくむ東海道の芸能においても大事な場でした。虎の信仰にも、それが反映しているのでしょう。
 平安時代の末に聖徳太子信仰は都と西国で復興しますが、それが東海道に広がり、新たな力をえて足利時代に京都へ戻っていきます。足利尊氏や直義、さらに若い時期の義満が聖徳太子信仰をもっていたことが、能と聖徳太子信仰との関係では大きかったのですが、その背後には東国全体、とくに東海道の宿や湊の民衆レベルでの聖徳太子信仰の力がありました。その中で京都で各地の遊女をふくむ様々な芸能が統合され、時代が変わる中で能が生まれていったのです。
 さて、復曲された「大磯」は昨年の「和田酒盛」とともに平塚にとって大事な財産でしょう。さらに以上述べたように能自体に興味をもつ方々にとって大事なものだと思います。最後にもう一点いいますと、能の基本をなす夢幻能は多く源平合戦とその前後の悲劇を題材にしています。能の大成した足利時代は、全国的にいえばのべつ幕なしの内戦の時代でした。能は、それに直面していた人々が、そのすべての始まりである源平合戦を題材にして創作し鑑賞した鎮魂と悲憤の芸能です。「大磯」は徳川時代に書かれたものではありますが、整った夢幻能の形をとっており、実際には源平合戦の一部であった『曾我物語』を描いた能として価値の高いものだと思います。

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