月の神話ー水・植物・動物の純粋経験

 昨年書いた草稿です。


 新嘗祭の神話が「男神ツクヨミによる女神ウケモチの殺害」であるということをあまりにおどろおどろしく見ることはできない。歴史神話学は、このような神話が祭儀神話として受容される構造をできる限り合理的に理解しようとするのであるが、そのためには、若干の理論的な前提が必要になる。
 まず明らかなことは、この神話は地母神の神話でもある。つまり、女神の死=遺骸の中から大地の富の「種」が形成されたというのは女神の肉体が大地と印象されていることである。その基礎には人間と大地は融合しており、人間の生と死は大地の生と死と同じことだという自然=社会意識がある。エリアーデは「彼等と周囲の自然的環境との結びつきは、現代の俗的な精神によって理解しうるよりもはるかに密接であった。彼らは語の比喩的な意味においてではなく、具体的な意味において『土地の人』であった。彼等は水生動物によって運ばれて、母の胎内に呪的接触によって入れられる前には岩、深淵、洞穴の中で成長したのである」というが(エリアーデ2、一四一頁)、これは多かれ少なかれあたっている。それはジェンダーに関わらない一般的な意識であって、男と女は相互に外部の自然と自己の肉体的自然との間を根底においてつないでくれる肉体として自己を感受する。人間はたしかに「直立」することによって猿から人間への進化を開始するのであるが、モルガン、そしてそれをうけてエンゲルスが「群婚」という用語でのべた個体の性的自由、集団内部での性的自由によって、人間は他者との関係的な存在として自己を意識していった。ボスザルの下での排除された性ではない集団的な<性の自由>である。長い野性(Wilderness)の時代、人間というもっとも集団的なサル類の中に発生した個体の性的自由とそれにもとづく、相互の<性>の認識こそが人間を精神においても肉体においても人間にする上で決定的な位置をもったのである。
 しかし、ボーボワールがいうように、そこには男の側にも女の側にも自己疎外が孕まれている。そしてそれは性的分業の進展とともにジグザグに、しかし確実に深化し組織化されていった。それは男が性を女に見ることによって自己を頭脳とするという錯覚、逆にいえば「(男にとって)女は<他者>にみえると同時に、自己のうちに虚無をかかえる男の実存とは対象的な充足した存在に見える」という日常的錯覚から始まる。そしてそれは「(男にとって)女は半透明な意識に高められた自然であり、生まれつき従順な意識である。これこそは、男が女に対してしばしばしばしば抱いてきた驚くべき期待なのだ。一つの存在を肉体的に所有して、その従順な自由によって自分の自由を確かなものにしてもらえば、自分を存在として完成できると男は思いたがる」という自己欺瞞に進み、ここで「男にとっての神秘である女が、神秘そのものであると見なされる」という倒錯が生まれ、野性の時代からの神話の発生の原基がすえられることになる(『第二の性』)。その中軸をなすのは「女の生殖力は受動的な力としてしか見なされない。女は大地で男は種子、女は<水>で男は<火>なのだ」という幻想である。そこで男は女を殺して、「種子」を作ることを英雄的行為であるとして、それを「男の世界史的勝利」として記憶するのである。女神の殺害とは、男女の性的な関係が抑圧と侵犯を含むという、現在も続いているジェンダー、社会的な性の抑圧的な関係が神話的に表現されたものである。そこでは「殺す神」が支配者であるようにみえるが、神話観念の発生はつねに女神と地母神が先行する。
 こうして、人間の性愛(エロス)と死(タナトス)、生殖と人間自身の再生産が、地母神の神話、大地の生産諸力の死と再生の神話と重ね合わされる時代、つまり神話時代がやってきたのであろう。ただ、この過程をさらに論理的に考えることはここでの課題ではない*7。ここで論ずるのは、こういう人間の肉体的自然と外部の環境的自然の重ね合わせにおいては「月の神話」が決定的な意味をもったのではないかということである。エリアーデを援用すれば、神話意識の基礎には月の直感があり、人々は早くから月を天体の周期的な変化の代表とし、それを時間と生成、豊饒の規範としていた。人々は「月のリズムを実感することによって心的総合が可能となり、それによって不均質な現象は相互に対応づけられ、また統一される」のだという。
 エリアーデは、その月に関わる諸現象を①水、②植物、③動物、④女性の月経などについて世界中の神話を素材として総合的に論述している。もちろん、これらの諸現象は益田勝実の言い方を借りれば、褻の日の日中の現象として一つ一つでは、なんの神秘もない日常の存在である。しかし、そのように日常的な現象がある瞬間に崇高なものへとトランスして日常の中に超越した姿をみせるという認識と直感の全体性においてこそ人間は世界と純粋に関わったという感知をえて前に進むことができるというのは、人間が神話時代に獲得した世界観的な能力である。それゆえに、エリアーデもいうように、その直感はこのように分類して分析することによっては明らかにしえないものである。しかし、逆におのおのの聖なる物語、ヒエロ・ファニーの中に全体が籠められているということもできる。
 以下、そのような方法意識にそって倭国神話の史料を順次に見ていくと、①水については、ツクヨミは「滄海原(あおうなばら)の潮の八百重を治らすべし」(『書紀』五段異書六)とあることは月の満ち欠けと海の干満の関係の知識に基づいている。世界各地で月はあらゆる水と湿気の源泉であると考えられていたが、そこにはとくに夜空に月があるときに露が降りてくるという直接の観察の位置が大きかったという(松前健「死の由来話と月の信仰」)。水は月光の中で神秘をおびた。『万葉集』の和歌に「天橋も長くもがも 高山も高くもがも 月読の持てるをち水 い取りきて 君に奉りて をち得てしかも」(『万葉集』三二四五)とあるように、ツクヨミは「変若水」といわれる若返りの命の水の持ち主であった。「をち水」の「をち」は「我が宿に咲けるなでしこ賂(まひ)はせむ ゆめ花散るな いやをちに咲け」(『万葉集』二〇巻四四四六)の「をち」で若返るという意味である。前述の『万葉集』(巻六―九八五)の和歌、「天に坐す 月読壮子 幣はせむ 今夜の長さ 五百夜継ぎこそ」はという意味であって、月読壮子は夜の長さを五百倍して時間を操作できるという観念を表している。彼らは生命を延ばす力をもつ存在であり、それが「水」に表されているということであろう。現在では直感しがたいかもしれないが、水が月に由来するというのは神話時代の日常的な感情であったのである。
 次に②植物については、

以下略。ここまでは研究史ですので、SNSに載せてもいいと思います。オリジナルなことを勝手にのせると、「早いものがち」競争になってしまうので、歴史学の現状ではまずいのです。

 エンゲルスに対してはドイツのマリア・ミースなどのラディカルな批判がありますが、そこは検討中です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?