「ヨブ記的神義論に相当するような物語は、日本神話や日本文学、また仏教のなかにあるか、

 二〇一八年に書いたもの。

ある人から、「ヨブ記的神義論に相当するような物語は、日本神話や日本文学、また仏教のなかにあるか、という質問です。

ご存知のようにこの物語は、義人ヨブは理不尽な神の仕業を通じて神の善性を擁護するという構造になっているわけですが、このような人間と神の関係をめぐる物語が日本文化のなかにあるかどうか」という質問をもらった。

 以下、御返事のメール

私は大塚久雄先生に習いながらウェーバーの宗教論はよくわからないままになっておりますので、どうも御答えする資格はないように思います。

ただ、最近、『老子』のことを勉強する中で、ざっとみたアンリ・マスペロが黄巾の乱を起こした道教を基督教と同様の救済の宗教とみるという観点を知りました。

もし、この考え方が成立するとすると、絶対的な救済という神義論は東アジアでも当然に存在したということになります。

もちろん、ヨブ記のような文字表現にそれがなりうるかどうかは、その段階での知識体系の実際に関係しますが、基礎経験としてはあってよいということになると思います。

知識体系や経典としての文章化の問題は、民族的な共同経験・記憶に関わり、ヨブ記のようなものが成立しうるのは、「出エジプト」を含む中東における「ユダヤ民族」の独自な民族的な経験が背景にあるということであると思います。

ユダヤのような厳しい経験は、現在の中東をみても明らかなように文明の交差路における独自なものであると思います。そういう物は文明のどん詰まりにおける熟成(煮詰まり)というべき東アジア文明には存在しえなかったものです。

ただ、マスペロのいうことが成り立つとすれば、基礎経験としては同一であり、そう考えた方が人類史的視野として正しいと思います(ヨーロッパ中心主義の相対化)。

さて、具体的な比較可能性としては、『論語』や『墨子』『老子』で考えることができる「鬼」ということになると思います。

「鬼」は『現代語訳 老子』(ちくま新書)でも書いたのですが、ようするに祟り神です。ヨブ記のいうサタンにあたるといってよいと思います。

日本の祟り神は道教の影響をうけて発生したものですが、祟り神が災害・疫病のもととなる自己の神性を嫌悪し、仏教の神となって本来の祟り神の神身から離脱するということになります。

祟り神の信仰者は、これにより一方では普遍的な神によって救済され、他方では絶対的な神によって強く拘束される(絶対的な神は災厄を下す力は依然として保持している)ということになります。

この意味では「鬼」(祟り神)からの解放という問題は道教において言及されることになると思います。『老子』には「道」をもってあたれば「鬼」は鬼神性は失わないが、人間を傷つけないという論理があります。

(中国ではこの『老子』の思想をうけた道教が救済の宗教として展開し、その超越的性格がにおいて仏教に引き継がれます)。

この過程を一人の信仰者が、自己の経験として記述した物語がヨブ記であるといえるとすれば、ユダヤの神も天使とサタンの両方を駆使しうる存在ですので、対応する要素があるということになると思います。

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