大徳寺の創建と建武親政  はじめに

(小島毅編『中世日本の王権と禅・宋学』、汲古書院)

大徳寺開山宗峰妙超は、嘉元三年(一三〇五)に京都韜光庵を住所とした大応国師・南浦紹明に参じたが、後に述べる嘉元寺建立の計画が遅延もしくは放棄されたために、南浦は建長寺住持として鎌倉に下った。妙超も、師に参随して、鎌倉に下ったが、それは徳治二年(一三〇七)のことで、『大応国師語録』によれば紹明の建長寺入院は十二月と伝えられている。その鎌倉到着から十日を経ずして、妙超は大悟して、雲門の「関」の字を打透し、師に投機偈を捧げ、師の印証をえたという(『大燈国師年譜』)。そこに「吾宗、■(人偏に尓)に到り、大いに立ち直らんか。只是二十年長養して、人をして此の証明を知らしめよ」とあるのは有名である(『大日本古文書 大徳寺文書』三二〇六。以下、『大』と記す)。
 玉村竹二はここに「二十年長養」とあるのは、『碧巌録』第三則の頌に「二十年来曾苦辛、為君幾下蒼龍窟」とあるのによるとするが(玉村一九四三)、ちょうどその「二十年長養」を経た嘉暦一年(一三二六)一二月八日、紫野の地に大徳寺が開堂された。この開堂を一二月に行ったのは、妙超が冬一二月を自身が大悟し南浦に認められた月として意識していたからであろう。
 大徳寺の開堂にさいして、妙超は鎌倉で師の大応国師の印可を受けて以来、「嚢蔵」していた香木を用いて五回、焼香した(『大燈国師語録』)。その焼香の相手を確認していくと、まず、第一は「今上天皇」(後醍醐)、第二は「太上天皇」(花園)である。
 妙超はそのおのおのに対して祝詞を述べている。後醍醐に対する祝詞は「龍図永く固く、玉葉弥芳しからんことを」、花園に対する祝詞は「上徳を千載に超え、風声を後毘に樹てたまわんことを」と結ばれている。前者は「龍図」(国家構想)の実現と永続、「玉葉」(子孫)の繁栄の祈願、後者は「上徳」(徳化)の永続と、「風声」(徳望)の後毘(後人)への継承の祈願ということになる。現王に対しては国家政策を問い、前王に対しては徳望をほめあげるという訳である。
 問題は「第三の香」を捧げた人物であるが、第三の焼香にかんする法語の文章は、次の如くである。
又、香を拈じて云く「此の一瓣の香、金紫光禄大夫黄門侍郎、禄算を増崇せんがために奉る、伏して願わくは松栢の寿、甫・申の幹のごとく、国家に柱石となりて、生民を撫育したまはんことを」
 この「金紫光禄大夫」という言葉は中国で「金紫」(金印紫綬)の貴顕身分の宮内職を示す言葉であるが、日本では「正三位」を表現する唐名として使用された。また「黄門侍郎」とは中納言の唐名である。それ故に、「金紫光禄大夫黄門侍郎」というのは、正三位中納言の地位にいる人物を示すことになるが、この時の中納言のうち、これに該当するのは『公卿補任』によれば三条公明(侍従、四六歳)、洞院公泰(中宮権大夫、左衛門督、二二歳)、西園寺公宗(春宮大夫、一七歳)の三名である。
 私は、このうちもっとも適当なのは、西園寺公宗であると考える。公宗はこの年七月二四日の量仁親王(一四歳)の立太子に際して春宮権大夫となり、ついで十一月四日に正三位になるとともに東宮大夫についている。妙超は彼が夭亡することなく、松栢の長寿を保ち、皇太子が天皇として即位した際には国家の柱石となることを祈念したのである。おそらく公宗は大徳寺開堂の場に臨席していたのではないだろうか。妙超が彼を通じて皇太子量仁親王を祝福したことはいうまでもない。
 第四の香は「法莚を光重する諸尊官および満朝の文武百僚」に捧げられている。つまり、「開堂の法莚に光臨した貴族官人とそのほかの諸官」である。西園寺公宗がいたとすれば、他にも相当数の官人が臨席をしていなければ儀式の格が整わない。『大燈国師年譜』にも「諸官臨莚」とある。
 そして最後の第五の焼香は師の南浦紹明に捧げられている。その献詞は「前住建長禅寺、勅諡円通大応国師南浦大和尚に供養して、用て法乳の恩に酬ゆ」というものであった。
 以上を前提とすると、妙超は、大徳寺開堂にあたって、南浦紹明の跡を嗣ぐ立場から王権全体を祝福したということになる。つまり、今上天皇・後醍醐と太上天皇・花園、そして西園寺公宗を通じて皇太子・量仁を祝福したのである。しかし、いうまでもなく花園上皇は持明院統、後醍醐天皇は大覚寺統に属し、皇太子の量仁は後の光厳天皇、花園の兄の後伏見の子にあたり、持明院統に属している。この王権内部における大覚寺統と持明院統の王統分裂から、後醍醐の建武親政と南北朝の内乱が発していたのはいうまでもない。
 こういう構成をもった大徳寺の開堂は、どのようにして行われることになったのか、そして、それを前提として創建期の大徳寺は、後醍醐の親政のなかでどのような位置に置かれることになったのか、本稿は、その様子を追究し、それを通じて足利時代の国家の禅宗国家というべき性格を明らかにする試みである。

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