タカミムスヒの「ヒ」は雷電――平田の「ヒ」の神学の継受

以下はタカミムスヒは巨大な雷神であるという仮説ですが、この仮説自体は、以前、『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で述べたものであり、内容は研究史ですので、オープンします。(現在執筆中の著書の一部)


タカミムスヒの「ヒ」は雷電――平田の「ヒ」の神学の継受
 以上のようにタカミムスヒを太陽神であるとする学説は十分な成立根拠をもたないのであるが、これまでそれと異なるタカミムスヒの具体的な神格、イメージは筋道を通して体系的に論じられたことはない。
 しかし、アカデミックな歴史神話学と神道史学の正統を離れて、民俗学あるいは民族学的な視野からの研究を追跡していくと、そこにはタカミムスヒに雷神としての神格をみる重要な見解をいくつか発見することができる。神話学にとってこれが重大となるのは、世界の神話においては掛け値なしに雷神の位置が大きいためである。たとえば、エリアーデの『太陽と天空神』によってみておくと、この『太陽と天空神』はその題名が示すように太陽と天空神の関係を中心テーマとしているが、前提となるのは「天空」の概念である。それによれば野性の人間は高く明るく輝き、雷電がとどろき、雨がふり、また日月の運動から星空へと転変する天空の様相の全体を聖なるものと感得するという。これは現代人にも十分にわかる心意であるが、神話時代の人間はそれによってつねに時空を神秘化する心術の中におり、それを共有していた。
 そしてエリアーデは世界各地の神話から豊富な事例をあげて、天空神の最大の標識が雷電・雷雨であることを強調している。そもそも中国の至上神も本来は雷神であった。また雷神ゼウスzeusが稲妻を最大の武器とする雷神であったことはいうまでもないが、そのインド的な語源であるディエーウスDieusも雷神であったという。そもそもzeusやDieusの原義は「耀き・日」という意味であるとするが、これはようするに自ら輝き、発光する力をもつ神ということであり、私見では発光神ということであろう。「天空」はも高く明るいが、暗夜においても輝きわたる雷光は日常的な太陽の光とは異なって、エリアーデのいう神秘現象(ヒエロファニー)として受け取られやすい。エリアーデが天空神の本来の代表を雷神とするのはそのためであろう。
 エリアーデによれば、太陽は天空神の直接的な神秘現象(ヒエロファニー)であるよりも、しばしば王権によって宗教的に概念化されたものである場合が多い*35。天空神の太陽神化は太陽の威光を植物への恵みだとか「知性の光」などと観念化し、宗教的に合理化するなかで発生する後次的なものであるという。先に倭国神話における太陽神アマテラスの位置が高くなってくる原因の一つとして、太陽の威光を観念化して植物への恵みに求め、それを国家統治の力と二重化してしまう見方、つまり農本主義の影響があるというのは前節で述べたところである。
 そうはいっても、これまでタカミムスヒに雷神としての姿を認めるなどという見解は筋道を通して体系的に提出されたことはまったくない。これはアカデミーではしばらくは一種の突飛な思いつき、あるいは異端的な見解ということにならざるをえないだろう。しかし、タカミムスヒに雷神としての神格をみるいくつかの見解とは、柳田国男・折口信夫・筑紫申真・三品彰英による見解である。しかも以下詳しくみるように、この四人の見解は決して思いつきではなく、相互に関係する部分がある以上、、とても無視すべきものとは思えない。以下、彼らの見解を学んだ結果を報告するところから始めることとしたい。

①研究史におけるタカミムスヒ雷神説
(1)紫電金線の光をもって降臨し、龍蛇の形をもつ雷神――柳田国男
 柳田はアジア太平洋戦争後、一九四九年に行った折口との対談で、自分は神話論を神話論として論じてこなかったとして「この間にいろいろ政治的な意図がありましたから、私は避けたのです」と説明している。慎重な柳田は戦前社会の言論の不自由の中で神話論を正面から論ずることを避けたのである。もちろん、柳田がそういう判断をしたのは常民の間で語られた民族の神話の復元をその民俗学の主題としたためでもあろう。柳田はそれが常民の神話のほとんどは『古事記』『書紀』に反映していないと考えていた。同じ対談に「日本が神話をもっているということで、すぐに『古事記』『書紀』を出されることは誇らしいかもしれないが、これを日本民族全体の神話とはみられません」とある通りである。
 しかし、柳田は、その民俗学の立場から、神話時代の神々の中心が実は雷神であると考えていた。これまで指摘されたことはないが、柳田の民俗学において雷神についての論究はきわめて大きな位置をもっていた。つまり柳田の雷神論はすでに一九二五年に発表された「炭焼小五郎が事」に始まっている(『定本柳田国男集』第一巻、筑摩書房、初刊一九二五年)。これは鋳物師・鍛冶集団が「炭焼小五郎」の住む山は黄金が石のようにころがっているという長者伝説を早くから全国に持ち歩いており、その起点が宇佐八幡の「鍛冶翁」神話にあったという論文である。その中で柳田は彼らの崇拝した火神が「天目一箇神」という製鉄の神であり、それは雷神であった。「此国のプロメトイスが霹靂神であった」、つまり倭国神話のプロメテウス(火を人間にあたえた神)は雷神であったとか、屋根を蹴破って天に昇ったという賀茂神社の別雷(ワケイカヅチ)にふれて「天の大神の御子が別雷であって、後に再び空に還りたまふ」と論じている。
 重要なのは柳田が「日を最高の女神とする神代の記録の、これほど大なる統一の力をもってするも、なお覆い尽くすことを得なかった一群の古い伝承が、特に火の精の相続に関して、今なお著しい」として、太陽の女神アマテラスの神話よりも雷神の神話がよりも原初的な火の精の神話であるとしたことである。しかも「火神の本源が太陽であったことは日と火の声の同じい点から推測しうるかと思う」というのは平田の「光と火の二重性」という「ヒの神学」とそっくりである。柳田が続けて「日本には火山は多いが、我が民族の火の始めはこれに発したのではなかったらしい」としたことは平田とは異なっており、これは益田勝実や野本寛一が日本民俗学の弱点と批判するところであるが、しかし柳田の発想の一部が平田と類似したものであることは否定すべきではないだろう。
 この「炭焼小五郎が事」の二年後、一九二七年に発表された論文「雷神信仰の変遷」が柳田の雷神論の出発点となった。そこにはアマテラスに先行する日本の最古の神は雷神であるという明瞭な指がある。次に、その一節を引用する。
かって我々の天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み、龍蛇の形をもって此世に留まりたまふものと考えられていた時代があったのである。それが皇室最古の神聖なる御伝えと合致しなかったことは申すまでもない(傍点筆者、『定本柳田国男集』筑摩書房、九巻)。
 「天つ神は、紫電金線の光をもって降り臨み」という「紫電金線」とは稲妻の輝き(「金線」)とそれによって一瞬青く照り光る天空(「紫電」)を意味する。これは天神の発光神としての姿をもっともよく示している。そしてこれはきわめて重大な発言である。つまり、柳田は「かって我々の天つ神」、ようするに日本の神話時代の天の神は雷神であったという。もちろん柳田は、このアマテラスに先行する天つ神にタカミムスヒという具体的な神名を充てようとはしなかった。そもそも膨大な柳田の著作には著作集索引による限り、タカミムスヒの名は一度も登場しない。しかし、柳田がタカミムスヒのことを知らなかった訳ではない。むしろこの論文と同じ年に執筆した「目一つ五郎考」(一九二七)に「上古の神の名に意外の暗示があるということは、前代多数の国学者によって承認せられている。もしほかには一つも解説の手掛かりがないというような場合には、或いは微々たる語音の分析を試みてまでも」分析が行われているといっていることからは、柳田が本居の「ムスヒ=生成の霊威」説をよく知っており、それ故に本居がタカミムスヒを本来の民族の至上神としていたことも十分に意識していたことを示している。ただ柳田は本居以来のタカミムスヒの神名・神格の問題の解明が困難な課題であることをよく知っており、またそれを解くことを自分の役割とは思っておらず、それ故に、アマテラスに先行する雷神にタカミムスヒを充てようとはしなかったのである。
 しかしすでにみたようにタカミムスヒが雷神である可能性があるとすると、この柳田の発言はタカミムスヒについての研究の出発点となるべきものである。柳田の視点は正確で、それは右の引用部分の前段で「久しい年代にわたって我々の国民に、最も人望の多かった『力を天の神に授かった物語』、および日本の風土が自然に育成したところの、雷を怖れて、これを神の子と仰ぎ崇めた信仰」と述べていることにも明らかである。柳田は雷神信仰を「日本の風土が自然に育成した」神話、つまり日本の民族的な自然風土に根づいた根源的なものと位置づけるのである。
 かって拙稿「腰袋と桃太郎」(保立一九九八)で述べたように、柳田はこの「雷を神の子と仰ぎ崇めた信仰」を桃太郎などの「小さ子」譚の基礎にすえていた。この「小さ子」という言葉は、雷とともに天から「小子(ちいさご)」が落ちてきて女を妊娠させ、頭に蛇をまとった赤ん坊が生まれて、「力人」として生長し、道場法師という元興寺の有名な強力法師となったたという『日本霊異記』(上の三)の一説話にみえるものである。つまり「小さ子」=「雷神小童」ということである。
 この道場法師の話では田圃に水を引いている農夫の前に「小さ子」の姿をした雷神が落ちてきた農夫の妻に受胎させる約束をしたとなっているが、この柳田の論文「雷神信仰の変遷」は雷神は田の稲を結ばせる力をもっていたとも論じている。「雷は稲田に降り来たって大いに崇敬せらるべき理由があった」として、水田の落雷場所を神の降臨地として齋(いわ)い浄める風習があった。これがオカンダチの古い思想である*36」としている。雷神信仰は水田稲作の信仰として発展したという見方である。これが有名な柳田の田の神論の出発点となったのである。その際、柳田は雷電がイナズマと呼ばれて、稲を孕ませる力をもっているとされていたことに関連させた。つまり、一九三二年刊行の著書『桃太郎の誕生』におさめられた「延命小槌」という小論で、柳田は「稲妻という歌言葉も以前は現実の信仰であった。それで青田の雷に見舞われた箇所に、青竹を立てて日水二神の婚姻を記念する風習も起こったらしいのである」と述べた。雷神は性、生殖の力をもっているという観念である。柳田においては「小さ子論」と「田の神論」が雷神の性、生殖の力という立論において深く関係しているのである*37。
 なお、これは「神人通婚」という観念を含んでいる。柳田は、これについて雷神が丹塗矢となって河辺で水を汲んでいた女を妊娠させたという『山城国風土記』(逸文)に残された上賀茂の別雷神の縁起譚などによって論じているが、次は柳田が一九三二年に刊行した著書『桃太郎の誕生』の一節である。
「天から人界に降ってくる火の線は、蛇のようにうねりまた走っていたのである。次にはその光の蛇が妻を覓めんとした(中略)。すなわち人界に一人の優れたる児を儲けんがため、天の大神を父とし、人間の最も清き女性を母とした一個の神子を、この世に留めようがためであったらしい」(『定本柳田国男集』筑摩書房)。
 これは前記の引用とほぼ同じ表現であるが、明示的にはいわれてはいないものの、これは結局、「天皇家」の祖先を「神人通婚」による「天の大神を父とし、清き女性を母とした一個の神子」と考えるという趣旨を含んでいる。ただ柳田は、結局、「天皇家」の祖先神を論ずるような方向にいくことは一九三〇年という時勢もあって自制した。『桃太郎の誕生』において、柳田がこれを神話論として検討するにはまだ準備が足りず時期は熟していないとし、続いて「国の神話を歴史と言ってみたり」する世情への違和感を述べているのは印象的である。
 このように雷神論が柳田民俗学の体系のなかできわめて大きな位置をもっていた。これは意外と強調されないことであるが、管見の限りで、それを明瞭にのべた仕事として、ここでは近藤喜博『日本の鬼』(一九七五)を援用しておきたい。近藤は柳田と同じように雷神を民族的な根源性をもつ神だと述べた。重要なところなので引用しておくと、「その脅威の共通性は、民族の裡に同質的な利害や恐怖や信仰を形成してゆく基盤ともなった。こうした雷電は、単に虚空ばかりでなく、虚空の包む天と地とを通じて噴火・火山・地震・津波などの破壊や恐怖を伴う猛威とも共通する恐怖のデモンと考えて戦慄したけれども、雷公はやはり古往今来を通じて恐怖のチャンピオンであった」と述べている。
 これは次にふれる折口の「天変地妖」の一つとしての「落雷」という言及よりはるかに明瞭なものである。貴重なのは近藤が『延喜式』(神名帳)を見渡しても雷神にかかわる神社が多数登載されているとしたことで、近藤が列挙しているように、社名に「雷」「霹靂」「於賀美」などの語を含む神社はきわめて多い。そして「伊香保嶺に かみな鳴りそね 吾が上には 故はなけども 児らに因りてそ」(『万葉集』巻一四、三四二一)という和歌を示して、こうした雷神を鳴る神といい、端的にカミといったのだと述べた。神名帳では雷神は固有名詞で現れるが、その神のいる現地ではただ普通名詞としてのカミと呼ばれていたことになる。カミの語源が「彼処」(カ)にいる「威力」(ミ)という意味である可能性があるということは、先に平田・溝口の見解にふれて述べたが、こう考えるとカミとはまず「彼方」にいる「ミ」である雷のことだった可能性はいよいよ高まってくる。

(2)天変地妖の「元(はじめ)の神」――折口信夫
 柳田の弟子であり、同伴者であった折口信夫も、柳田と類似した関心をもっていた。率直にいってそれは柳田ほど明瞭でもなく、力強いものではなかったが、晩年になって折口がタカミムスヒが「元の神」として「落雷」などの「天変地妖」の神であるとしたことは見逃せない。次は一九四七年に発表された論文「道徳の発生」の一節である(①②などは筆者の付与したもの)。
①この神(文脈上タカミムスヒのこと―筆者注)には、生産の根本条件たる霊魂付与――むすびと言う古語に相当する――の力を考えているのであるが、果たして初めから、その所謂産霊の神としての意義を考えていたかどうかが問題だと思う。②産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていたばかりであった。それとは別な元(はじめ)の神として、わが国の古代には考えていたのではないか。これが日本を出発点として琉球・台湾・南方諸島の、神観――素朴な――のもっとも近似している点である(中略)。③わが国の神界についての伝承は、其から派生した神、其よりも遅れた神を最初に近い時期に遡上させ、神々の教えを整理したために、この神の性格も単純に断片化したものと思われる。だから、創造神でないまでも、至上神であるところの元の神の性質が、完全に伝わっていないのである。恐らく天上から人間を見瞻り、悪に対して罰を降すこともあったのであろうと思う。ところが、天御中主・高皇産霊・神皇産霊の神々には、そうした伝えが欠けている(中略)。④既存者は部落全体に責任を負わせ、それは天変地妖を降すものと見られた。大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などが部落を襲う。これは神以前の既存者のなすところである(一九四七年「道徳の発生」『折口信夫全集⑮、傍点筆者)
 順に説明すると、①タカミムスヒは、これまで霊魂を付着させる「ムスヒの力」の神と考えられてきたが、それが本来の姿であるとすることには疑問がある。②タカミムスヒは(産霊神でも創造神でもなく)「既存者」「元の神」であり、これは琉球以下の南方諸島と共通している。③記紀の神話伝承が後次的に派生した神、「其よりも遅れた神」(文脈上、アマテラスのこと)を最初に近い時期に遡らせたために、「至上神=元の神」(天御中主・高皇産霊・神皇産霊)の姿が断片化し伝わらなかった。④アマテラスよりも古い「天御中主、高皇産霊、神皇産霊」など、つまり「至上神=既存者=元の神」は大風・豪雨・洪水・落雷・降雹などの天変地妖を降すものと見られた。
 タカミムスヒなどの造化三神が「産霊神でもなく、創造神というより、むしろ、既存者として考えられていた」というのは本居流の「ムスヒ」(折口の言い方では「結び」)の語義論からタカミムスヒを考えることをやめるという宣言であって、折口のような立場の学者がこれをいったことの意味は大きい。
 ただ折口は平田がタカミムスヒを「天地鎔造」神として明瞭に創造神としていることに従わなかった。その代わりに折口はタカミムスヒを「既存者」「神以前の既存者」「元(はじめ)の神」などと定義したのであるが、これは、この論文の別の箇所で「至上神は、比較研究の立場からする時、神のない有様、神以外あるいは神以前の有様とみてもさし支えない」といっているところからみると、神話の「比較研究」からもってきた言葉であって、これは折口と「畏友」の関係にあった神話学の松村武雄の示唆によったものであろう*38。つまり松村は早くから「日月の出没のような天界の現象や、晴雨・雷霆のような空界の現象」などの自然神話の位置を強調している。それは「より早期に属する低級神話」の特徴であるというのであるが(『民族性と神話』培風館)、一九五八年に刊行した『日本神話の研究』(第四巻)において、松村は「カミ(神)以前の存在態」と述べている。念のために引用しておけば「カミ(神)以前の存在態、pre-theos、pre-theia的な存在態とされる霊格の多くが、チを以て呼ばれている」というのである(二四一~二六一頁)。そして、「かずかずの民族において第一次的な観念・信仰としての雷=厳槌を見出す」として、「チ」の霊威を北欧神話のトール、ギリシャ神話のゼウスと雷=厳槌を対照させている。
 なお、それと比べれば、折口が「雷」について述べたのは「天変地妖」の例として「大風・豪雨・洪水・落雷・降雹」を列挙したにとどまるから、折口がタカミムスヒに雷神の性格を発見したとまでいうのは誇張のように聞こえるかもしれない。折口がいったのはタカミムスヒは「天変地妖」の「元(はじめ)の神」であるというにとどまる。しかし右の引用の③で折口が後に派生した神、「遅れた神」であるアマテラスを最初に近い時期に遡らせたために「至上神=元の神」(天御中主・高皇産霊・神皇産霊)の姿が断片化したのだと断言したことの意味は重い。つまり、アジア太平洋戦争の終了以前、折口はむしろアマテラス中心主義をとっていた。たとえば一九二八年に発表された有名な論文「大嘗祭の本義」は大嘗祭の祭祀はアマテラスの遊離魂・外来魂、つまり「天皇霊」を呼び寄せて、新任の天皇に固着させる呪術であるという。そこではムスヒは遊離魂を新天皇に固着させる「結び」の呪術にすぎないというのである。タカミムスヒは皇孫に対してこの産霊の呪術を発揮する神であったからこそ、宮門をでることのない王権の神であったという論理である(⑳30)*39。折口は「産霊は神ではない。神道学者に尋ねても、産霊神と神とを一処にする人はまづあるまい」(③413。一九二九)とも説明している。ようするに折口のいうのは、アマテラスを最高神とし、タカミムスヒをその遊離魂を天皇の身に「結ぶ」呪術神としてしまう論理であって、折口の議論はその枠組みの中でタカミムスヒの役割を巧妙に説明したものとはなっているが、ようするにアマテラス中心主義の一つだったのである。
 ところがアジア太平洋戦争の惨酷な結果を見るなかで、戦後の折口が、これを根本から考え直そうとした。私は、ここで折口はアマテラスではなく、本居・平田以来のタカミムスヒを民族本来の至上神とする観点に立ち返ったように思う。それはある意味で根本的なもので、折口は神道にとって神話とはなにかという問題から議論を組み立てようとした。つまり、「神話は神学の基礎である。雑然と統一のない神の物語が系統づけられて、そこに神話があり、それを基礎として神学ができる。神学の為に神話はあるのである。従って神学のない所に神話はない。(中略)日本には過去の素朴な宗教精神を組織立て系統づけた神学がなく、さらに神学を要求する日本的な宗教もない」(⑳41)という。私見では、現実の神学と神話学の関係は折口のいうのとは逆であって、「雑然と統一のない神の物語」を信仰の信条と知識として系統づけるのが神学であって、そのような神学によって開かれた知識を神話的なコスモロジーと心情の感得によってより客観的に組み直す役割において神話学は形成されるものである。しかし、折口が神学と神話学が活き活きした関係をもたなければならないという本質的洞察をしていたことは、私たちにとっても大事な遺産であろう。
 折口は戦争中にあったのはナチスが振り回したのと同じ「英雄精神に神話の色彩を持たせようとした」ものにすぎなかったとまでいう。折口は一九四六年に関東地区神職講習会講演で「我々のもっていた神道の上の知識には、相当に今日考えると役に立たないと同時に、今日の禍をしているものがないではない。明治以来、神道家の中には、神道を法理論・政治学と合体させようと考えて来た人がある。それを都合よいように利用した人が多い」と国家神道の実情を述べて、国家神道の解体の中で、神道者たちに神道の宗教化の方向を直接に語りかけている(神社新報社刊、一九四七年一〇月)。
 前述のように、折口は死の前年、一九五二年に書いた「天照大神」という小文で、アマテラスの本来の神名である大日孁貴(オホヒルメムチ)の「ヒルメ」は「日の妻」の意味であると論じた。これは伊勢神宮論にも及び、「天照大神の荒魂という荒祭宮は、太陽神としての性格を示すものではないだろうか」ということになって、荒祭宮はタカミムスヒを祭るものであって、アマテラスはそれに仕える姫神であり、実際上は高級巫女の神格化したものであったとした。歴史神話学がこれに従うことはできないことは前章で詳しく述べたが、しかしこれはいわゆる皇国史観や『国体の本義』の主張とはまったく違う。ここに折口が敗戦を契機にアマテラス中心主義から明瞭に離れたことの証拠がある。この折口の指摘が岡田精司によってタカミムスヒ太陽神説に展開され、戦後派の歴史神話学において一つの通説に近いものとなったことも前述した通りである。
 以上、折口の考えたことにできる限り寄り添おうとしたが、折口は「落雷」とタカミムスヒの関係を膨大な著作の一箇所で軽くふれただけで、このような考察は折口の片言隻句を深読みしたものにすぎないという批判はありうるであろう。しかし、私は折口の出世作として有名な論文「髯籠の話」(一九一五年、全集②)が「避雷針のなかった時代には、何時何処に雷神が降るかわからなかったと同じく、いわゆる天降り着く神々に自由自在に土地を占められては、如何に用心に用心を重ねても、いつ神の標めた山を犯して祟りを受けるかもしれない」と始まっていることを重視したい。
 折口は、その標山に「最天に近い高山の喬木」「一本松・一本杉」などに「神々の依りますべき木」が定まっても、「雷避けが雷よびになって、思わぬ辺りに神の降臨をみることになると困る」。そこでそれを丁重にさけるために、しかるべき依り代を、たとえば「其梢にきりかけ(御幣)を垂でて祭る」などとして設置する。こうして人は落雷を避けるために、あたかも「敬虔なる避雷針」を立てるようにして標山の領域を定めたのだという。折口はこれを髯籠のもっとも単純な姿、その原型としている。折口は「髯籠」の前提に、より粗野な神の降臨を高木への落雷とする観点をもっていたのである。これは折口の直感力の鋭さをよく示しているといえるだろう。
 これまで「髯籠の話」が雷神論を含んでいることはまったく注目されたことはなく、折口自身さえそれを忘れているようにみえるのは、折口のこの論文がもっぱら「日神の依り代」としての「髯籠」のことを述べたものとされ、「依代・招代」論の出発点と受けとめられ、自身も無意識にそう考えたためであろう。これが折口の弱さであるが、「髯籠」を直感に従って「雷神の依代」とするのではなく、「日神の依代」としてしまったことは若い頃の折口がアマテラス中心主義という図式にどっぷりとひたっていたことの証拠であることはいうまでもない。
 「依代・招代」とは「虚空を飛翔する神」、空間を浮遊(遊離・漂移)している霊が、「髯籠」や竿柱のほか、木の枝や幣などの任意の物体に憑依するという考え方で、これは土橋寛の見解によってすでに指摘したように新知識好きであった折口が、当時の宗教学の最新知識であったタイラーのアニミズム論を利用して組み立てた議論である。この「依代・招代」という言葉は私自身も使用してきたように、たいへん便利な言葉ではあるが、しかし、これは土橋が厳しく批判したように、遊離魂自体を主体として構成してしまい、話を図式化してしまうという側面があったのは否定できない。そのために折口民俗学は結局、宗教・芸能・儀式などについて発想豊かに自由な議論をするが、どうも地についた議論にはならないということになる。このため、折口は雷神について資料を多く集めて体系的に検討していくなどという仕事はできなかったのである(なお、この折口批判についてはかって保立「巨柱神話と天道花」『物語の中世』(講談社学術文庫)で論じたことがあるので参照されたい)。
(3)神風と雷の伊勢大神――筑紫申真
 国学院で折口の影響をうけた歴史家の中で、岡田精司が折口の「荒祭祭神=タカミムスヒ=男性太陽神」説を支える仕事をしたことは前述の通りであるが、タカミムスヒを「天変地異を降す」自然神とみるもう一つの折口の視点に近い立論をした神話研究者として、もう一人、長く伊勢の高校で教鞭をとって伊勢の民俗宗教史的な分析にしたがった筑紫申真がいる。
 筑紫の著書『アマテラスの誕生』は伊勢神宮を伊勢の現地に視点をおいて考えた仕事として独特の迫力をもっている。筑紫は、伊勢内宮は持統が文武に譲位した翌年、つまり六九八年に宮川上流の滝原宮が現在地に遷座して成立したとする。この内宮成立についての議論の正否については伊勢外宮をどう考えるかをふくめて、伊勢神宮論の問題として別に論ずるべき問題であるが*40、筑紫が、『日本書紀』に登場する「伊勢大神」を滝原宮で元来祭られていた川神、そして「風のカミ、雷のカミ」であるとし、内宮はそれをベースとして成立したとしたことは興味深い。
 ここで問題とするのはこの「伊勢大神=雷神・風神」説であるが、筑紫はその根拠として三点を指摘している。その第一は山岳修行のなかで落雷に会った僧侶が、大般若経の書写を誓って命を助かったために七五八年(天平宝字二)に書写した『大般若経』の一巻の奥書に「奉為 伊勢大神」とあることであった。これについてはこの『大般若経』は和泉国を舞台として勧進が進められたもので、この六〇〇巻に上る大般若は、各地の「諸大神社」にこれらの経巻を捧げたものであるから、ここから「伊勢大神=雷神」という等式を導き出せるとは限らないという批判がある(岡田「古代における伊勢神宮の性格」岡田第二論集)。しかし、この僧侶の写経は「砊磕(雷鳴のこと)激撃して手足の措く所を知る無し」という危機を逃れることができたという強い動機に根ざしていたから、風雷神としての声望のある伊勢大神を選んで献経した可能性を否定することはできないだろう。筑紫が伊勢の枕詞が「神風(かむかぜ)」であり、当然に雷神の性格をもつとしたことは承認すべきである(アマテラスの誕生九一頁)。
 筑紫の伊勢大神論の第二の根拠は伊勢神宮で四月一四日に行われる蓑・笠を大神宮のほかの格式の高い伊勢の神社に献げる年中行事である。この蓑・笠を献げる神事は風雨を防ぐ道具を神に献げてよい天気を祈ったもので、伊勢神宮において、通年、さまざまな形で行われる天気祭り、日祈の神事の一つである。対象となったのは大神宮(蓑笠三具)、荒祭宮(同一具)のほか、境内社としては大奈保見神社(同一具)、伊加津知神社(同一具)、風神社(同一具)、滝祭社(同一具)、そして伊勢・志摩に分布する月読宮・滝原宮ほか八つの別宮や摂社で、このうちまず注目されるのは、境内に存在する神社であって、これらの神は風雨と天気を支配する力を認められていたことになる。大奈保見神社の性格はよくわからないが、伊加津知神社と風神社はまさに雷と風を祭っており、筑紫はおそらくそれは滝祭社のそばに置かれていたであろうとしている。風神社は一二九三年(正応六)に「風日祈宮」となっているから、日祈神事の中心に位置した社であったことがわかる。筑紫は、アマテラスの鎮座以前に、伊勢大神は、伊勢五十鈴川のほとりで、このような天気祭=風雷神祭として祭られていたとしたのである。
 伊勢神宮の「日祈(ひのみ)の神事」は、在地から神宮に貢上された「幣帛絹」を祭祀料として「風雨の災」を鎮める神事である(『皇太神宮儀式帳』八月例など、参照塩川哲朗「古代神宮『日祈』行事の一考察」)。筑紫はこの「日祈」神事の中心は雷神祭祀であったとするのである*41。
 第三の根拠は七世紀近江戦争、つまりいわゆる壬申の乱の戦闘において伊勢大神の神風、風神・雷神の神威が大きな役割を果たしたという分析である。まずは『万葉集』(巻一、一九九)の柿本人麻呂の長歌の一節に「渡会の齋宮ゆ神風にい吹き惑わし、雨雲を日の目も見せず常闇に覆ひたまひて 定めてし瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の」云々、つまり「伊勢神宮から神風が吹いて敵を混乱させ、雨雲によって日を隠して地上を真っ暗に覆って、鎮定された瑞穂国を神ながら、支配された我が大君」と歌っているのは、壬申の乱の戦闘において伊勢の神風が大きな役割を果たしたという意味である。
 よく知られているように、蜂起した天武は六月二四日に吉野を出て伊賀へ向かったが、その翌日二五日、伊勢国川曲郡の坂本(現在の鈴鹿市山辺付近)で日没となった。妻の鸕野皇女(持統)の疲労が甚だしいため休憩をとろうとしたが、雨模様となったために先を急がざるをえず、激しい雷雨のなかを進軍を続け、濡れそぼったという。『日本書紀』によれば、一行はどうにか三重郡衙に到着し家を焼いて薪として暖をとったが、休む間もなく夜明け前に出発し、二六日早朝、「朝明郡の迹太川の辺」に至って太陽が上ったときに天武が「天照大神を望拝み給ふ」という祈祷を行ったという。これについて筑紫は「望拝の動機は、雷雨にうたれてなやんだからで、天空気象の害をまぬがれるために太陽を拝礼して、その霊魂をいのった」ものだと論じた。そもそも筑紫の考え方では、内宮はまだ成立していないのだから、ここで「天照大神を望拝み給ふ」というのは、「天空気象」をあやつる太陽の霊魂に祈祷したということであって、特定の神社を意識したものではないということになる。。
 ここで見のがしてならないのは、天武が吉野を発した二四日にも伊賀名張のあたりで「黒雲あり、広さ十餘丈にして天に経(わた)れり」という気象異変があったということであって、それを見た天武はいぶかしんで「燭を挙げて親から式を秉りて占ひ」をしたとあることである。また、右の朝明郡の迹太川の川辺での「天照大神」の望拝の翌日、二七日夜にも天武は不破関近くの野上というところで激しい雷雨に出会い、「天神地祇、朕を扶けたまはば、雷なり雨ふること息めむ」と祈祷したということである。『日本書紀』によれば、この時は、祈祷の言葉が終わったとたんに雷雨がやんだという奇跡が行ったという。
 ようするに、二四日、二五日、二六日、二七日と、天武の進軍は天候に左右され、天候を祈りながら進軍したというのが『日本書紀』のかたるところなのであって、先に引用した『万葉集』(巻一)の柿本人麻呂の長歌の一節は、まさにこれが「渡会の齋宮」のもたらした軍事的な僥倖と歌い上げたものだったのである。「伊勢大神」の神威に風や雷が意識されていたことは否定できないだろう。筑紫のいうように、天武の祈祷が雷神を祭るものであったことは明らかであろう(『アマテラスの誕生』講談社学術文庫五〇頁)
 筑紫は、この川神・風雷神であった「伊勢大神」は、本来は伊勢内宮の前を流れる五十鈴川の西側一帯にひろがる神路山に降りてくる神であるという。その神路山の中でも中心となるのは、内宮対岸の西側の鼓ヶ岳であって(標高三五五メートル)、カミはこのみごとな円錐形をした山に降りてきて、サカキの大木によりつき、さらに五十鈴川の川辺の樹木ー柱におりてくるという。筑紫は、ここまで降りてきたカミのことを「高木神」と呼び、それが内宮の「心の御柱」そのものであると論じている。筑紫の論述にタカミムスヒの名前は登場しないが、しかし、この高木神がタカミムスヒの別名であることはいうまでもない。
 ここで詳しく紹介する余裕はないが、筑紫の構想は「天ツ神アマテル」という神に注目するという複雑な要素を含んでいた。「天ツ神アマテル」とは「大空の自然現象そのもののたましいでした。大空の自然現象といえば、日・月・風・雷・雲ですから、天つカミはしたがって、日のカミとも、月のカミとも、風のカミとも、雷のカミとも、雲のカミなどとも考えられていた」というのが筑紫の議論であって、雷は「天ツ神アマテル」の神威の一部となっている(30頁、35頁)。それ故に、筑紫説は決して柳田が示唆したように、ストレートにタカミムスヒが雷神であると主張した訳ではないが、しかし、逆にいうと、天空、天空神の全体の中に雷神・雷光を位置づけているという意味では、神話学のエリアーデの『天空と天空神』の視座と共通するところがある。そして筑紫が天空神の中に雷神を大きく位置づけていることは明らかであって、ここには「天空神」の中でも発光神としての雷神を重視する私見ともっとも近似したものを感じる。
 筑紫の見解は未整理な部分があり、アカデミックな研究では無視されることが多いが、このようにみてくると、その伊勢大神のイメージには雷神の色彩が強く、結局、高木神=タカミムスヒが雷神であるという学説としてまとめることができるのであって、きわめて価値高いものと考える。そして、ここにはあるいはタカミムスヒは「大風・豪雨・洪水・落雷」などをもたらす「天変地妖」の神であるという折口の学説が反映しているのではないか。残念ながら、筑紫が、どこまで折口説の継承を意識していたか、折口から何を聞いていたかは、今になっては不明なことではあるが、あるいは授業などでの折口の発言に示唆をうけた部分があったのではないだろうか。

(4)「穀霊小童=雷神小童」説――三品彰英遺稿
 従来の研究においてタカミムスヒに雷神としての側面を認めた研究の最後が三品彰英の遺著となった『古代祭政と穀霊信仰』である。本書は一九七三年、三品の死後に発表され阿ものであるが、三品の神話研究の民族学的な広がりをよく示す書であって、そこで三品は「天孫降臨=穀霊小童降臨」説を新たな視角から再提示した。
 「はじめに」で説明したように、三品は天孫降臨神話におけるニニギの嬰児の姿には天から稻穂の饒々しい生成力が地上にあたえられたことの神話的な表現であるとしたが、最晩年の三品は、この「穀霊小童」が「雷神小童」であること、つまり、穀霊は雷神の姿をもって現れることを示唆したのである。三品は柳田と同じ『日本霊異記』の道場法師の物語などによって「雷神小童」の存在を説明しており、これが柳田の「小さ子=雷神小童」譚を受けたものであることは明らかである。先に紹介したように、柳田も「雷神小童」が田圃に宿る田の神となるとしているが、三品はそれを神話論の側からあとづけたことになる。
 ただ、三品は、それを倭国神話の史料ではなく、韓国神話の史料によって論じた。つまり『三国遺事』(巻一、紀異第一)によれば、新羅の始祖王、赫居世は「異気雷光の如く、地に垂る」中で「紫卵」として出現し、その卵を剖くと「童男」がおり、彼は自ら「閼智居西干」と称した。「異気雷光の如く、地に垂る」という大稲妻の中から「紫卵」が出現したのである。彼が自称した「閼智(アルチ)」とは「郷言に小児の称なり」とあるように童の意味であり、三品は世界を輝かせるという意味の赫居世よりも、この「閼智」という語が降臨した王の本質をよく示しているという。
 「閼」はアルとよみ、その意味は韓語のarをふくむ語を追うと、穀物・種・卵にあり、女真語のala、日本語のアラ(籾・粡)に通じ、「智(チ)」は倭語のイカヅチのチと同系語で本来神霊・霊威を意味しており、後には「叱知」など官位をあらわす語尾としても使用されたという。また「居西干」の「居西」は「在」の古訓kionの借音表記であり、「干」は王・君を意味するウラル・アルタイ語族の共通語であるから、「閼智居西干」とは「穀霊に居ます君」という意味となるという。この語義解釈の当否は言語学の側で最終的な結論が必要であるとしても、さらに三品がアルについては「ひさかたの 天の原より 生(あ)れ来たる神の命」(『万葉集』三巻三七九)などの「アル・アレ(神霊が生ずる)」と関係し、チは神霊をあらわす重要な神名語尾の理解に関係するとすることには相当の説得性がアル。何よりも、三品が「閼智」の観念は中国の穀物神である周の始祖「后稷」、つまり「稷(穀)の君」が雷電によって出誕した神童であったことを受けたものだとしていることだろう。こうして摘出された「后稷」――「閼智」――「穀霊ニニギ」という東アジアにおける穀霊神話の連鎖は十分にありうることであろう。柳田説は東アジア神話論の側から強力な支えを獲得したのである。
 このことは、溝口のタカミムスヒ太陽神説にふれて論じた、諸韓国の始祖の王号、高句麗の「解慕漱」の「解(ハイ=ヒ)」、新羅の「昔脱解」の「解(ハイ=ヒ)」、加羅の始祖王「悩窒朱日」の「日(ヒ)」などをもっぱら「日=太陽」の意味で理解できるかどうかに関わってくる。「解(ハイ=ヒ)」が「日」でもあり、「火」でもある以上。溝口の断定には疑問が残ることはそこで述べた通りであるが、これらの王号にも雷光の「日(ヒ)=光」の意味が孕まれていた可能性は高い。
 ここでは三品の高句麗の朱蒙についての分析を紹介すると、『李奎報文集(巻三)』の東明王篇の長詩の分注に残された『旧三国史』によれば、朱蒙の父の解慕漱は天帝の子であったという。彼は五竜車に乗り、従者を従えて「白鵲」に騎してまず「熊心山」に降り、腰に「竜光の剣」を帯び、天地を往来していた。そのとき川神の娘が「熊心淵」のほとりで遊んでいるのに目をつけ、馬鞭で地面に線を引いただけで「銅室」を湧出させ、そこに娘を誘拐して妻としたという。ところが娘の父の川神が解慕漱を咎め、解慕漱は天に帰ってしまい、残された娘は海に棄てられる。しかし、彼女は漁師に助けられ、結局、夫余王の妃となるのであるが、解慕漱は彼女をあきらめることなく、光に変身して窓から侵入し、彼女を懐胎させ、そこから生まれたのが英雄王、朱蒙であったという物語である。
 これは解慕漱が光となって川神の娘を妊娠させたというところからみると、三品もいうように、「太陽崇拝あるいは光の信仰にもとづく比較的原初的な」「類例の多い」神話であり「日光の降臨」を表現するようにみえる。しかし、前半部に、天帝の子=解慕漱が腰に「竜光の剣」を帯び、五竜車に乗り、従者を従えて、天地を往来していたとある姿は雷神であろう。三品彰英はここに注目して、解慕漱の「天帝の子としての本質」はむしろ雷神のもつ「竜光の剣」によって示されていると結論している。三品の判断は、天神の光とは雷光でもあり、日光でもあるが、「神話的に人態化されて語られるときは」雷神となるというものである(三品「フツノミタマ考」)。
 私は、この三品の見解をうけて、溝口が、自己のタカミムスヒ太陽神論を支えるものとしてもっぱら太陽信仰に一元化して理解した「解(ハイ=ヒ)」については本源的には強く聖なる光、「雷光・火」を発する神を指示する語であった可能性を主張したいと思う。三品の見解について東アジア神話論の問題として議論が進むことを期待したい。なお、その再、大林太良が雷光の意味を強調し(大林『剣の神・剣の英雄』法政大学出版局、一九八一、一〇三頁)、さらにそれをうけて依田千百子が韓国神話における刀剣・鍛冶神・雷神の実際に踏み込んだ議論をしていることも想起したい(依田二〇〇七『朝鮮の王権と神話伝承』一八一頁)。
 以上、柳田・折口・筑紫・三品の見解を紹介し、検討してきたが、ここには平田の見解への言及はまったくなかった。もちろん、平田には管見の限りでは雷神について論じた著作はない。しかし、平田神学には「ヒ」という霊威に「光と火」という二重性をみる議論があったことは何度かふれた通りであり、「光と火」の両方を内に潜むものとしてはまずは雷光・雷火が考えられる。また平田がタカミムスヒと同体であるとした司命が雷神であることも注意しておいた通りである。平田学派が学術的な団体として何らかの形で残り、近代的なアカデミズムの中に引き継がれれば、事態は変わっていた可能性があるが、国家神道と皇国史観の盛行のなかで、そのような道は閉ざされていた。柳田・折口・筑紫・三品のような人々が平田の『日本書紀』『古事記』研究に内在する視角をもたなかったのは、その意味で残念なこであった。

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