著書公開『中世の国土高権と天皇・武家』第六章 鎌倉前期国家における国土分割

鎌倉前期国家における国土分割
          保立道久 
         はじめに
 中田薫「鎌倉時代の地頭職は官職に非ず」*1以降の鎌倉幕府の守護地頭制に関する研究の多くは、源頼朝が一一八五年(文治一)一一月に「日本国総地頭・総追捕使職」の権限を獲得したとする。石母田正もそれを承認するところから守護地頭制の検討を始めたことはよく知られている。これはこの時期の国土高権論を展開する上で最大の前提である。本書第三章の「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」*2は、基本的にそれを受け継ぐ立場から、いわゆる国地頭論争の全体を鳥瞰しようとした。しかし、そこでは、この頼朝の職位が、内乱を経過した後、鎌倉初期国家の中にどのように定置されたかを論定することはできなかった。
 本章は、それに関わって、まず第一に文治二年六月のいわゆる「守護・地頭の停止」といわれる事態の中で、頼朝の国制的地位がどのように位置づけられたか、第二に、頼朝の地位が、長男の頼家の段階にはどのように引き継がれたかについて論ずる。検討の中心は、佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』*3以来の古典的問題、日本の国土の広域分割の制度という問題である。
Ⅰ文治二年六月「守護地頭停止」の理解
①六月二一日「頼朝状」の構成と内容
 一一八五年(文治元)年末の地頭勅許の翌年(文治二)六月に行われた頼朝の後白河院への新制は『吾妻鏡』の地の文に「諸国守護・地頭の停止」とあることによって、牧健二・龍粛などの見解では、幕府の「公武融和」「互譲の精神」の表明であると理解されていた。石母田は、このような見方が、いわゆる「委任封建制度」思想や「明治維新の国家主義的な把握」ともつながるものであって、なによりも『吾妻鏡』の読みが無原則であるとして批判を試みた。第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」でも述べたように、石母田は、牧や龍の見解においては「譲歩・後退の性質と内容およびその限界が、この時期の政治情勢の中で正しく分析されていない」としたのは圧倒的な説得力をもっている。
 石母田はそういう立場から、論文「文治二年の守護地頭停止について」*4において、はじめてこの「諸国守護・地頭の停止」を伝える史料を始めて詳細に論じたのである。しかし、最初に結論からいえば、この石母田の着眼点は正しかったものの、石母田正の史料分析は結局成功しなかったように思う。石母田は、この文治二年六月段階においては、実は、守護の停止も、地頭の停止もまったく問題になっていなかったと結論したのであるが、これは「譲歩の性質と内容」を政治史のなかで位置づけるという当初の目的から離れて、結局のところは譲歩それ自体を否定するという傾向におちいったのである。この石母田の見解をは乗り越えられるべきものであると考える。
 問題の『吾妻鏡』の史料は次のようなものである。
A為捜尋求行家義経隠居所々、於畿内近国、被補守護地頭之処、其輩寄事於兵糧、譴責累日。万民為之含愁訴、諸国依此事令凋弊云々。仍雖可被待義経左右、有人愁歟。諸国守護武士并地頭等早可停止。但於近国没官跡者、不可然之由、二品被申京都。以帥中納言、可奏聞之旨、被付御書於廷尉公朝帰洛便宜。又因幡前司広元為使節所上洛也。
B(イ)為天下澄清、被下 院宣、糺断非道、又停止武士濫行国々事
山城国 大和国 和泉国 河内国 摂津国 伊賀国 伊勢国 尾張国 近江国 美濃国 飛騨国 丹波国 丹後国 但馬国 因幡国 伯耆国 出雲国 石見国 播磨国 美作国 備前国 備後国 備中国 安芸国 周防国 長門国 紀伊国 若狭国 越前国 加賀国 能登国 越中国 淡路国 伊予国 讃岐国 阿波国 土佐国
(ロ)右件卅七ヶ国被下 院宣、糺定武士濫行方々之僻事、可被直非道於正理也。(ハ)但鎮西九ヶ国者、帥中納言殿御沙汰也。然者為件御進止被鎮濫行、可被直僻事也。(ニ)又於伊勢国者、住人挟梟悪之心、已発謀反了。而件余党、尚以逆心不直候也。仍為警衛其輩、令補其替之地頭候也。
(ホ)抑又国々守護武士、神社仏寺以下諸人領、不帯頼朝下文、無由緒任自由押領之由、尤所驚思給候也。於今者被下 院宣於彼国々。被停止武士濫行方々僻事、可被澄清天下候也。(へ)凡不限伊勢国、謀叛人居住国々、凶徒之所帯跡ニハ、所令補地頭候也。然者庄園者本家領家所役、国衙者国役雑事、任先例可令勤仕之由、令下知候也。各悉此状、公事為先、令執行其職候ハンハ、何事如之候乎。若其中ニ、不用本家之事、不勤国衙役、偏以令致不当候ハン輩ヲハ、随被仰下候。可令加其誡候也。(ト)就中武士等之中ニハ、頼朝モ不給候ヘハ、不知及候之所ヲ、或号人之寄附、或以無由緒之事、令押領所々、其数多候之由承候。尤被下 院宣、先可被直如此之僻事候也。(チ)又縦為謀反人之所帯、令補地頭之条、雖有由緒、可停止之由、於被仰下候所々者、随仰可令停止候也。 院宣争違背候哉。以此趣。可令奏達給之由。可令申帥中納言殿也。
 文治二年六月廿一日御判
 右に『吾妻鏡』(文治二年六月廿一日丁卯条)を石母田による区分記号を付して引用したが、Aは『吾妻鏡』の地の文、Bは引用された文書である。石母田は、AはBの拙劣で歪曲の多い要約にすぎず、「独立した史料価値はまったくみとめられない」(二五八頁)とし、史料A部分に記された「守護・地頭の停止」なるものはほとんどB史料の誤解にもとづく編纂者の「創作」であるとしたのである。
 しかし、これについてはABの史料的性格にふれながら、後に検討することとして、まずB文書の本文の構成を確認すると、それは(ロ)(ハ)(ニ)の前半部分と(ホ)(へ)(ト)(チ)の後半部分にわけることができる。そして、前半部分は、リストに記載された三七ヶ国の説明であって、「右、卅七ヶ国」と始まる(ロ)では、これらの諸国においては原則として「院宣」によって「武士濫行・方々の僻事」を停止することが示され、(ハ)で九州諸国は、「帥中納言殿(吉田経房)御沙汰」に属することが示され、(ニ)では三七ヶ国のうちの伊勢国については、謀叛の状況を勘案して、その「余党」=「其輩」を「警衛せんがため、其の替の地頭を補さしめ候」(つまり、彼等を警戒して、その地頭職を奪って、代わりの地頭を補任した)という特別な事情を説明している。石母田は、この文書の「根本思想」は「三七箇国と鎮西において、院と帥中納言と頼朝の三人が果たすべき役割または法的機能を明確にしようとした点にある」(二六四頁)としている。たしかに、この前半部分は、この三七ヶ国、そして九州諸国、(さらに直接には現れないが)頼朝管下の諸国という国土分割の仕方とその際の「武士濫行停止」あるいは「警衛」の指示者について述べたものであり、石母田の要約はさすがに正鵠を射たものであると思う。
 これに対して、後半部分は(ホ)は「国々守護武士」、(へ)(ト)(チ)は「地頭」についての政策論議である。(ホ)の守護の問題は一体の文章であるが、地頭については論述の順序を区分することが可能で、(へ)は「謀反人居住国々、凶徒所帯跡ニハ、地頭を補さしめ候所なり」とした上で、同時に頼朝の「下知」によって地頭の所役勤仕を命じていることを総論的に述べ、(ト)は頼朝の関知しないところで(地頭を称して)「押領」行為にでる武士たちについては院宣をもって僻事を糺すという副次的原則を述べ、(チ)では、正当な由緒のある謀反人所帯跡地頭であっても、院宣による仰せがあれば停止するという特別規定を述べている。
 以上、「右・但・又・凡・就中・又」などと区切りながら、B文書は必要な論点を明瞭に提示している。これについて、石母田は「書状という形式のためもあって」(傍点筆者)「論理と叙述に中断があり、重複があって、けっして明晰とはいえない」(二六四頁)とし、(ロ)(ハ)(ホ)(ト)という文章の系列と、(ニ)(へ)(チ)と続く文章の系列に論述が複線化しているとした。大山*5・義江*6・武末*7・川合*8などもそれに賛成し、若干の相違はあるものの、石母田に従って文章を組み直してBを解釈している。しかし、私は、右に述べたように、その構成はむしろ明晰であると考える。おそらく、これは大江広元の執筆にかかるのではないだろうか。
 B文書の内容の解析にうつると、その中心論点は事書にあるように、「(「院宣」によって)非道を糺断し、また武士濫行を停止すべき国々」の決定にある。それは前半部分の(ロ)の冒頭また後半部分の冒頭で、「武士濫行、方々僻事を糺定」「武士の濫行、方々の僻事を停止せられ」と繰り返されている。この三箇所に「武士濫行」「武士濫行・方々僻事」という言葉が共通しているのが重要である。つまり、提案の中心は、「国々守護の武士・守護・警衛」の指揮系統を院宣の下におくというものであったと考えるほかないと思う。
 まず問題となるのは、ここで「国々守護の武士」と表現された武士とは何かということであるが、石母田は、これについて「いわゆる守護・地頭と連称される『守護』と意味内容が異なる」(二五五頁)、「平家追討以下謀反人追捕等に当たった諸国の武士というように一般的に解釈すべきであろう」(二八九頁)とした。つまり、「守護の武士」とは武士一般を意味するというのである。しかし、これは大山が「これは文字通り『国々を守護する武士』の意であって、それ以外に解釈の仕様がない」としたのが正しい。「国々守護の武士」という場合に、守護の目的語が「国」であることは無視できないだろう。それ故に、少なくとも、これは頼朝の下で国を守護してきた武士が院宣によっても統御され、その意味で「国」の指揮系統が二重化することを意味するはずである。武士一般ではなく、実質上は「国」の守護責任を有する武士、「守護」「惣追捕使」クラスの武士に対して院が指示の権限を握ったのである。
 問題は、大山が、その点で正当な理解をしながら、この「国々守護の武士」をもっぱら国地頭を意味するとし、この史料Bに示された政策を「畿内近国三七ヶ国における文治国地頭停廃」決定であるとしてしまったことである。大山は、ここに「国地頭制から惣追捕使(守護)制への転換」の開始をみたのである。しかし、すでに川合の批判があるように*9、この想定は成り立たない。つまり、大山は『吾妻鏡』六月九日同日条に所載の「職事目録」の「播磨国武士押領所々事」の部分に、梶原景時の「寄付の所あり、或いは自由に押領の地あり」という行動が非難されていることに注目し、これがBの(ト)の文章の前提になったと想定した。大山はこれによって梶原景時の地位=国地頭の職位の停廃というシェーマをみちびいたのである。しかし、この「職事目録」は実際には、同じ年の八月段階のもので、六月九日に鎌倉に到着したと考えることができないことが山本博也によって示された*10。もちろん、そうではあっても、六月段階で国地頭の廃絶をみることは抽象的には可能であるが、しかし、右の「職事目録」が八月段階のものであるということになると、むしろそこに「彼男((梶原景時))一類、国務を蔑如すというべし、早く誡め仰せらるべきなり。此国一国においては、然るべくんば去進べき由、今仰せらるるなり」とあることが重大な意味をもってくる。つまり、このことは、後白河院が、八月段階で、「国」の「去進」を頼朝に申し入れたことを意味する。逆にいえば、その段階においても頼朝が播磨一国に対する何らかの権限を有していたことになるのである。私は、これは梶原景時が頼朝代官として行使していた播磨国の国地頭職であった(またそれと院宣の下で頼朝が潜在的に維持していた「守護」指揮権が複合したもの)とするほかないと考える。こうして、大山説に反して、播磨国の事例からはむしろ頼朝による国地頭の掌握の持続こそが導かれるのである。これは有名な時政による「七ヶ国地頭職」の「辞止」なるものが、時政の意思表示のみに終わり、最終的な結論には到達しないままペンディングとなっていた可能性を示唆するように思う。
 ところが、研究史というのは奇妙なもので、こうして大山説が成り立ちがたいことになったために、以降の研究史においては、B史料の中心問題であるはずの「武士濫行」「武士濫行・方々僻事」の「院宣」による処断という側面(そして石母田のいう「根本思想」の側面)を論ずるのではなく、むしろB文書の後半部の(へ)(ト)(チ)の地頭についての記述を中心に問題が理解される傾向となった。その典型は、義江が「武士濫行」の院宣による停止は荘郷地頭職成敗権の行使が幕府固有の権限であることをみちびくためのレトリックに過ぎないとしたことであろう。また、武末は「武士濫行停止の責任が院に属することを明確にすることによって、一方の(謀反人跡)地頭職補任権が幕府に属する正当な権限であることを主張せんとしたもの」とし、川合も「押領問題を中心とする武士濫行停止のために院宣の発給を申請することは、公家政権・荘園領主勢力に対する幕府の最もわかりやすい形での意思表示だった」のであって、「それは逆にいえば謀反人跡地頭職の設置を今後も押し進める意思表示にほかならない」としたのである*11。もちろん、実際上、地頭が強力に維持されたというのはBの(へ)(ト)(チ)に明瞭なことであって、その意味では、これらの見解には意味はあるが、むしろここから全体として論定すべきであったのは、頼朝が、時政による「七ヶ国地頭職」の「辞止」なるものをペンディングにしたまま、結局、「近国」の地頭指揮権、「国地頭」の地位を維持したことなのではないだろうか。
 しかし、研究史はその方向には進まず、むしろ文治二年六月段階においては、守護の停止というような問題は議論されていないという石母田説の承認が大勢となった。そこにあったのは、濫行停止の一般的な規定と、荘郷地頭の部分的・個別的な停止が問題となっただけであったということになったのである。鎌倉の側は「譲歩・後退」ではなく、むしろ、一路、方針を貫徹したという訳である。しかもこれが「文治設置の荘郷地頭職は法的にいえば平氏没官領をふくむところの謀反人跡に設置されるのが原則である」(二九四頁)という石母田の指摘を再確認する過程でもあったことが重要であろう。こうして、石母田説がいまだに生きているということになったのである。
②「頼朝状」の史料的性格と「守護地頭停止」
 しかし、Aの『吾妻鏡』の「地の文」がBの拙劣な要約にすぎず、独立した史料価値はないという前提は本当に正しいのであろうか。「地の文」ではあっても、これだけ明瞭に記されている史料を採用しないという決断は、全ての可能性を検討した上で行うべきものではないだろうか。『吾妻鏡』の編者が幕府成立史を守護地頭制度の到達点からふりかえりがちであることは石母田のいう通りであって、それにそのまま依拠することはできない。しかしそもそも、Aでいわれているのは、むしろ守護地頭制度の発展の曲折に関わることであって、『吾妻鏡』の編者が、BからAを導き出す必要と想像力をもっていたと断定することは冒険であろう。そもそも石母田の史料批判の方法は、もっぱら「地の文」の史料価値をうたがうという点に収斂しているが、幕府役所・吏僚の日記をはじめとして、地の文にも独自の典拠史料があったように思う。『吾妻鏡』批判の方法はより多様であってもよいのではないだろうか。
 その観点から何よりも問題なのは、これまでB文書が吉田経房あての頼朝書状とされるのみで、その古文書学的性格が検討されなかったことである。そして、実は、前稿で述べたように、B文書は、頼朝の書状ではなく、頼朝事書状とも呼ぶべき文書である。つまり、この時期の経房充の頼朝の書状はすべて「裏御判」の形式をとっている。それに対して、この日下に署名がなく、花押(「御判」)をすえるという尊大な形式の文書は、その末尾が「此趣きをもって、奏達せしめ給うべきの由、師中納言に申さしむべきなり」と命令形で終わっていることからわかるように、その受取者に経房への上申を命じたものであり、受取者はむしろ頼朝の下にいる存在であった筈である。この点で、この文書が、Aの地の文の末尾に「又、因幡前司広元、使節として上洛するところなり」と記して全文掲載されていることが重要なのであって、つまり、この文書は「地の文」のいう「廷尉公朝」に与えられた経房宛の正式の文書ではなく、同時に派遣された大江広元にあたえられた文書、形式の点からいえば頼朝の事書注文、つまり意思関係の形態からいえば一種の書下状なのである。『吾妻鏡』の原史料として広元の手許の文書が利用された可能性があることが改めて注目されているが、これもその好例であることになろう*12。前述のように、B文書について石母田後のすべての論者が、石母田の解説を繰り返したのは、実際上は石母田の権威に流されということであろうが、同時にそれが書状であるという前提をそのまま引き継いだためである。それが事書状=事書注文の形式をとった政策メモである以上、論理的に整理されたものであることこそ当然なのである。
 とくに留意すべきは、引用の仕方からみて、『吾妻鏡』編者がB事書状が広元に手交されたことを承知していたと思われることである。そうとすれば、「守護地頭停止」という「奏聞」の「御書」が「廷尉公朝帰洛の便宜に付けらる」と記されていることについても、『吾妻鏡』編者が別の史料を参看した可能性も高くなる。
 もちろんその史料を「諸国守護武士ならびに地頭、早く停止すべし」と要約したことがどこまで正確であったかは別問題である。しかし、「守護地頭の停止」のうち、地頭については「近国没官跡」を除外例とした上での記述であるから、Bの内容と大きく齟齬するものではない。そして、その際、石母田が「頼朝の正式の補任によらない地頭」「頼朝の成敗権の下におかれながら御家人とは区別される地頭」「(謀反人跡以外にも)彼の成敗権に属する地頭はひろく存在した」のであって、この「地頭停止」において、「それらの濫妨の停止が問題となったとしても不思議でない」と述べているのも注意すべきであろう。つまり、石母田説としてはもっぱら、前述の「文治設置の荘郷地頭職=平氏没官領・謀反人跡設置説」が注目されてしまうが、しかし石母田は、同時に、「文治元年に頼朝が獲得したのは単なる(謀反人等跡への新たな地頭のーー筆者注)『補任権』ではなく、これらの旧来の地頭をふくむ地頭一般に対する支配権=成敗権であった」とも述べているのである。これまでもっぱら石母田の理解を批判する形で議論を進めてきたが、実は、石母田の議論は(実際は試行錯誤を交えた試論としての性格をもっており)この段階での地頭の二つの側面を認めるなどの柔軟な把握を含んでいるのである。この点は、別個の検討を必要としているが、ともかくそれをふまえて考えれば、「地頭停止」の問題については、AとBの間に大きな懸隔がないということはいえるであろう。
 それ故に「守護地頭の停止」という場合、問題は「守護」の評価である。私見は、前述のように、この時の鎌倉側の提案の中心が、「国々守護の武士」「守護・警衛」の指揮系統を院宣の下におくことにあったと考える。そうだとすれば、公朝に渡された正式の「御書」においては、それが「(頼朝の下での)守護の停止」と要約できるような形で表現されたのではないだろうか。「守護」という名称は、その萌芽的な制度とともに、内乱期の相当早い時期から存在していたが、制度としての安定はこの時期以降となることはよく知られている。しかし、そうであるだけに、『吾妻鏡』(またはその原拠史料)が事態を三七ヶ国の「守護」の停止と表現したことは事実を反映していたのではないだろうか。
 この「守護」の問題について石母田は最初の論文では、B文書においては「守護・地頭と連称される意味での『守護』の停止のことは問題にさえなっていない」(二六一頁) 、それ故にAのいう守護停止は問題にならないと一蹴している。しかし、しばらく後の羽下徳彦との応接においては「私には、幕府にとっては地頭停止よりも致命的な意味をもつ『守護』制度の停止が、この時期に幕府から奏請されたとすること自体が、前後の事情からみて理解できない。もしそれが事実であるとすれば、そのことをこの時期の政治史のなかで正しく説明することが必要であるが、それが私にはできないので、『吾妻鏡』の記事を再検討せざるを得なかったのである。かりにAがB以外の原史料によったと仮定しても、A自身の前記の内容からみて、そこから守護停止という重要な奏請があったという事実を引き出すことは不可能である」という思考経過を率直に述べている(二九〇頁)。ここには石母田の周辺で史料読みの方法が錬磨されていく様子がみえるようである。
 さて、私は、三七ヶ国における守護の指揮権・指揮系統が「院宣」を基本とし、その下で頼朝に属する建前となったということは政治史的にみても十分に理解可能であろうと考える。頼朝は実態的には自己の指揮下に守護を置きながらも、建前としては三七ヶ国の守護を「院宣」の下に置き、逆にいえば、それによってこの諸国以外の守護に対する自己の権限を制度的に確認したのである。A・B史料によって表現されているのは、その意味での「守護」の指揮系統の二重化・複線化という政策であり、さらに副次的に地頭についての諸原則を確認するというものであったのではないだろうか。前稿において「それはむしろ、守護・地頭の存在とそれに対して頼朝が指揮権を握ることは前提としつつ、その西国における指揮権の一方を院に対して譲ったものなのであり、それはいわば関東と院に両属・二重帰属する武士を大量に生み出すことによって、内乱の成果を体制化したのである」と述べた点を、あらためて私見として提示したいと思う。
Ⅱ頼家譲状における「関西三十八ケ国」「関東二十八ケ国」
 以上のように、文治二年六月の「守護地頭の停止」をへて、頼朝の「惣追捕使職」(=「守護職」)は三七ヶ国について存在しなくなったという仮定が導かれる。第三章でも論じたように、三月の時政の七ヶ国地頭辞止から始まった京・鎌倉の譲歩と調整の過程は、こういう形で決着したのである。次に、これを頼朝の総追捕使・国地頭にかかわる職位を、頼家がどのように継受したかという側面から検討したい。
①頼家譲状の形式と内容
 中心史料となる源頼家の「譲補沙汰」に関する史料は次の通りである。
  将軍(頼家)家御不例、縡危急之間、有御譲補沙汰、以関西三十八ケ国地頭職、被奉  譲与舎弟千幡君(十歳)、以関東二十八ケ国地頭並惣守護職、被御長子一幡君(六歳  )(『吾妻鏡』建仁三年八月廿七日条)
 つまり、頼家の「譲補」の構想は「関西三十八ケ国地頭職」を弟の千幡(実朝)に、「関東二十八ケ国地頭並惣守護職」を長子一幡に譲与するというものである。周知のように、中田は,この史料を「頼家にして自ら六十六国の惣守護たり惣地頭たることなくんば、豈よくこれを両分して其子弟に譲与することを得んや」と解釈し、頼朝の日本国惣守護・惣地頭の地位を論定した。冒頭に述べたように、その全体的な趣旨は正しいと思う。
 ここで問題としたいのは、もう少し細かな問題、つまり頼朝の問題ではなく、頼家が日本国の「惣守護たり惣地頭たる」というのは厳密にいった場合に正確な解釈かどうかということである。
 まず譲状作成の状況を確認すると、『吾妻鏡』によれば頼家は一二〇三年(建仁三)三月一〇日に発病し、それはすぐに平癒したものの、七月二〇日に再発し、翌八月七日には「はなはだ辛苦」という状態におちいり、八月二七日に「御譲補の沙汰」に進んだ。『愚管抄』に「頼家ガヤミフシタルヲバ、自元広元ガモトニテ病セテ、ソレニスエテケリ」とあることは頼家が大江広元の邸宅において病を再発したことを示している*13。この運びからいって譲状の起草その他の「譲補の沙汰」の実務は広元が担ったと考えてよく、また『吾妻鏡』の原史料に広元の記録が利用されている可能性も高いとすれば、『吾妻鏡』の記述は譲状の文言と形式を反映していたであろう。私は、譲状は一幡・千幡のおのおのに対して作成され、その形式は次のようなものであったと考える。
 (一)一幡への譲状
 譲渡関東廿八ヶ国地頭并惣守護職之事
 一幡所
 合
  (国名リスト)
右、云々(下略)
 (二)千幡への譲状
 譲渡関西三十八ケ国地頭職之事
 千幡所
 合
 (国名リスト)
 右、云々(下略)
 もちろん、別の形式を考えることはできようが、少なくとも、この譲状は「関西三十八ケ国」「関東二十八ケ国」の国のリストを含んでいたであろう。「関東」「関西」にどの国とどの国が属するかは、幕府の中枢メンバーにとっては自明のことであったろうが、法的な意味をもった譲状には具体的な国名が書き上げられられたはずである。そして、上記のように譲状が二通作成されるのではなく、万が一、いわゆる惣処分状の形式をとったとしても、(一)の一幡への譲状にみえる「関東廿八ヶ国地頭并惣守護職」の「廿八」の国名リストは、「地頭并惣守護職」のリストとして一度だけ掲げられたに相違ない。「一、関東二十八ケ国惣地頭職<一幡知行>、(国名リスト)、一、惣守護職<一幡知行>、(国名リスト)、一、関西三十八ヶ国<千幡知行>、(国名リスト)」などという形で、国名リストが三回繰り返され、ただでさえ長大な譲状がさらに長くなったとは考えられない。つまり、結局のところ、『吾妻鏡』の記事は、この譲状の事書の内の傍点部分をそのまま転写したものと考えるのである。
 そうだとすると、一幡の「惣守護職」は「関東廿八ヶ国」という限定の修飾語を受けたもので、さらにそれに続く国名リストによって国の範囲を明示されたものである可能性が高い。一幡の所職は「関東廿八ヶ国地頭職并(日本国)惣守護職」ではなく、「地頭并惣守護職」なのであって、これらの国々の地頭であって同時に惣守護であるということになる。それならば「関東廿八ヶ国地頭并守護職」であってもよいではないかという意見がありうるかもしれないが、しかし、「関東廿八ヶ国地頭職」は「国地頭職」であり、関東の地頭の補任・成敗権を実態とする広域的な行政権力を表示するものであって、各国に国地頭に補任された武家がいる訳ではない。それに対して、守護の場合は国単位で補任された武家がいる以上、ここで「守護職」ではなく、「惣守護職」としたのも自然なことである。そもそももし通説のいうように「日本国惣守護職」を意味するものだとすると、「日本国惣守護職」と別記されていたはずであろう。
 以上、少なくとも通説は論証ずみのものとして扱うことはできず、むしろ頼家が有していた国制的地位は日本の六十六ヶ国の国地頭職と上述の意味での「関東二十八カ国惣守護職」であったと解釈するべきであるというのが、私見である。
②頼家譲状における国土分割
 しかし、以上を確定するためには、頼家譲状の「関西三十八ケ国」「関東二十八ケ国」という国土分割あるいは領土高権分割のプランを具体的に示すことが必要である。しかし、意外なことに、これまで、これについての議論は、河内祥輔の若干の言及のみといってよい*14。しかも、河内は全国をほぼ逢坂関を基準にして分割したと想定するのみで、結局、「関西三十八ケ国」「関東二十八ケ国」とは、「関西方面の三十八箇国」「関東方面の二十八箇国」という意味に過ぎないという。つまり、逢坂関より東の諸国は、東海道一五国、東山道八国、北陸七国の総計三〇国となるが、それでは「関東二十八ケ国」よりも二国多くなるから、若狭国・近江・伊賀から二カ国を関西分に、一カ国を関東分に入れればよいという推測が結論なのである。しかし、そのような東西区分が鎌倉期国家において国制的な意味をもって登場することはない。将軍職の譲与という決定的な場面において、このような曖昧な区分が登場したと考えることはできない。
 それに対して、私見は、「関西三十八ケ国」という数と、前述の文治二年頼朝書下状にみえる関西方面の三十七ヶ国との数値的な近似を重視する。もちろん、三七ヶ国と三八ヶ国の一国の差異が障壁となる。頼朝とくらべて頼家の段階においては、関西分が一国多く,逆にいえば関東分が一国少なかったという論証が必要となるのである。しかし、これは三河国の所属に関わる問題として処置可能である。
 つまり、鎌倉時代において参河国が東西の狭間に位置する国としてその帰属が揺れ動いたことはよくしられている*15。参河国は一一八四年(元暦一)六月に頼朝が推挙した弟範頼が国司に任命されており、関東分となったと考えられるが、その後、一一八五年(文治元)四月二六日に範頼がその地位を辞すことを申請し、院奏に及び(『吾妻鏡』同日条)、一一八六年(文治二)三月一三日の頼朝書状には「頼朝知行の国々、相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後等なり」とあって、頼朝の知行国からははずれている*16。しかし、現実には範頼は、これ以降も参河守の任にあり続けており、そのため、前述の文治二年六月二一日付けの頼朝事書状においても参河国は「三七ヶ国」の内にふくまれておらず、関東分として扱われていたということになる。ただし、参河国は、おそくも一一九三年(建久四)八月、吉田経房の孫、資経が国司に任命されるとともに(『公卿補任』貞応元年)、関東分をはなれたと考えられる。そして一二〇〇年(正治二)には参河国は七条院分としてみえている(『明月記』同年三月七日条)。こうして、一二〇三年(建仁三)の頼家の譲補の段階では、参河国が関東分から関西分となり、関西分が一国増え、関東分が一国減少したのであって、頼家譲状における「関東二十八ケ国」「関西三十八ケ国地頭職」というのはまさに適当ということになるのである。
 なお、ここでさらに問題となるのは、そもそも「関東二十八ケ国」とは何を意味するかということにある。この「二十八ケ国」という国数は日本全国六十六国から「関西三十八ケ国」を引いた数値であって、いうまでもなく、参河国をのぞく本来の「関東」の諸国、つまり遠江国、信濃国、越後国以東の諸国の国数「十九ヶ国」とは合致しない。しかし、廿八ヶ国と本来の東国,十九ヶ国の国数の差が九ヶ国であることに注目すれば、その理由は明瞭である。つまり、この九ヶ国は西海道の九国を意味するのであって、頼家の譲状における「関東二十八ケ国」とは遠江以東の一九国と九州諸国の双方をあわせたものであり、譲状の文言は正確にいえば「関東分二十八ヶ国地頭并惣守護職(九州を含む)」ということであったのである。いうまでもなく、これは,石井進が指摘した、「東国」と「九州」の国制上の共通性の問題に直結している*17。石井は、九州においては、幕府による社寺造営、国衙の国雑色指揮などの点で、東国と同様の権限が早くから幕府に認められていたことを指摘し、その由来を検討しているが、上記の結論が認められるならば、より端的な法制史料によって「関東分」の中に九州が含まれることが確定されたことになる。
 以上、頼朝の後を継いだ頼家は、「日本国惣地頭」ではあっても「日本国惣守護」ではなく、その地位は「日本国惣地頭」と「東国守護」を合わせたもの、関東を中心にいえば、「関東分」の「惣守護・惣地頭」=「東国惣官職」(付随的に西海道惣地頭・総守護をふくむ)に関西分の惣地頭をあわせたものであったということになる。
 おわりに
 これまで頼家が「日本国惣地頭・惣守護(惣追捕使)」=「日本国惣官」の地位にあると理解されてきた理由の一つは、頼朝からの代替りにあたって発せられた宣旨、「前征夷大将軍源朝臣遺跡を続ぎ、宜しく彼の家人郎従などをして、旧の如く諸国の守護を奉行せしむべし」(『吾妻鏡』正治一年三月六日条)にあった。それは頼朝の直接の関与の下に発布された一一九一年(建久二)の新制における(全国の海陸の盗賊・放火について)「前右近衛大将源朝臣ならびに京畿諸国所部官司等に仰せて、件の輩を搦め進める」という条文を受け継ぐものと考えられ、これらが「日本国惣地頭・惣守護」への補任と解釈されてきたのである*18。しかし、前述のような「関西三十七ヶ国」に関する鎌倉殿の軍事権限=守護権が恢復されたという徴証がない以上、その「日本国惣官」への復帰は論証できないというほかない。
 右の宣旨などは、黒田俊雄がいうように、頼朝・頼家を「王朝の侍大将」「軍事担当権門」として位置づけるものであって*19、国制権限の中枢における「武王」の地位を全面的に認めるものではありえなかった。もちろん、頼朝が一度は「日本国惣官」というべき職位についたことは中田等が強調する通りであり、それが「副王」「後見王」ともいうべき内実を有していたという私見も変更の必要はない。ここにともかくも鎌倉期以降の武臣国家の体制(「旧王ー覇王(武王)」体制)の形式が生まれたのである*20。しかし、頼朝が「日本国惣官」であった期間はあまりに短く、その地位はやはり国制的に不安定なものであった。そして、「比企能員の乱」「承久の乱」などが、その中で勃発した。早く上横手は承久の乱以前における関東御家人の「二重の隷属関係」「二重の存在形態」に注目したが*21、この過程で中心的な問題となったことこそ、文治二年の「守護地頭の停止」の過程で確定された畿内権力の軍事的二重性であったのである。これを解消することによって武臣国家の体制は確立したのであるが、それが同時に「北条徳政」が「北条=得宗専制」への展開を結果したことについては、別の検討が必要となる。
 一一八〇年代内乱は、院政期に成立した複数の国を含む広域的権力、そしてその基礎に存在した領主連合と都鄙・地域間ネットワークが相互にひしぎあうなかで展開したものである。院政期における国土高権の強力化は、他方で地方社会における広域権力を生みだしたのであって、荘園制と土地領有体系は、単なる上からの集中でも下からの村落的運動でもなく、それらを媒介する広域権力と都鄙ネットワークに支えられて組みあがっていった*22。中田や永原慶二*23のいう荘園制の前提となった「公権」の実態は、そのような広域権力の中での領主連合の軍事化にあったのである。その意味では、本稿で論じた問題は、この時期の国家と荘園制の歴史的展開の中で、国土の領有構造の集中と広域的地域権力の形成という二側面をどのように統一的に把握するかという問題としてあらためて論じられなければならない。
*1中田『法制史論集』第二巻、岩波書店一九三八。
*2「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」本書第三論文、初出一九九二年。以下では前稿と称する。
*3初版一九四二年、再刊岩波書店、一九九三。その後の仕事のおもなものとしては石井良助「東国と西国ー鎌倉時代における」(石井『大化改新と鎌倉幕府の成立』創文社、一九七二)、網野善彦『東と西の語る日本の歴史』(そしえて、一九八二)がある。この網野の著書はきわめて興味深いものであるが、ただ網野の論理はどうしても「東と西の相違」という論理になりがちで、その融合、あるいは「南と北」という軸が弱いのではないだろうか。網野の強調する「海」と列島の関係は、南北交通が海路にそって行われるという意味では南北軸の問題であると考えている。本章で強調した東国と九州の近さという問題は、そこに原因があるというのが私見である。ただ、この網野の著書は『網野善彦著作集』一五巻に収められ、そこには関係する他の示唆深い論文も含まれており、その全体をふまえてさらに議論をしたいと考えている。
*4『石母田正著作集』巻九(岩波書店一九八九)所収。石母田の引用はすべて本書による。
*5大山喬平「文治国地頭制の停廃をめぐって」(横田健一先生還暦記念会編『日本史論集』一九七六
*6義江彰夫『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』(六九六頁)東京大学出版会、一九七八。
*7武末泰雄「鎌倉幕府庄郷地頭職補任権の成立」(『荘園制社会と身分構造』校倉書房、一九八〇)
*8川合康『鎌倉幕府成立史の研究』(八五頁)校倉書房、二〇〇四年
*9川合前掲書八二頁。
*10山本博也「文治二年五月の兼実宛頼朝折紙について」(『史学雑誌』八八編二号)
*11おのおの義江前掲書六九八頁。武末前掲論文。川合前掲書九六頁
*12高橋秀樹「吾妻鏡原史料論序説」(佐藤和彦編『中世の内乱と社会』、東京堂出版、二〇〇七)。
*13広元の邸宅は横大路をこえて幕府の対面にあった。上杉和彦『大江広元』(吉川弘文館、二〇〇五年)は『吾妻鏡』は頼家が広元亭にいたことを記さないとするが、同九月一日条には、病床の頼家が比企能員を招き、談合して時政の追討を了解する場を政子が立ち聞き、名越への「帰」路にあった時政に使者をもって告げたところ、時政は「轡を廻らして、大膳太夫広元朝臣亭に渡御」とある。これは頼家が広元亭にいたことを示す記事である。
*14『頼朝の時代』(二三八頁)、平凡社選書、一九九〇。
*15佐藤進一前掲書一四九頁。
*16石井進『日本中世国家史の研究』(『石井進著作集』一巻、二七二頁、岩波書店、二〇〇四)
*17石井進前掲著書二四七頁
*18中田薫前掲書九〇五頁など。
*19黒田「中世の国家と天皇」(『黒田俊雄著作集』一巻、法蔵館、一九九四)。なお、逆に黒田説の妥当性は、この法的形式の限りでしか成立しない。黒田説には領主連合論がなく、それ故に権力の実態論としての広域権力論がないのが決定的である。
*20参照、保立「都市王権と貴族範疇」本書序論。なおこの定式化は、河内祥輔のいう「朝廷・幕府体制」と類似しているが、河内の見解との異同を論じることは別の機会とすることを許されたい(河内『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、二〇〇七)
*21上横手『鎌倉時代政治史研究』(一九四頁)吉川弘文館、一九九一。
*22保立本書第三章論文および「荘園制支配と都市・農村関係」(『歴史学研究』一九七八年大会特集号)
*23永原「荘園制の歴史的位置」(『永原慶二著作集』二巻、吉川弘文館、二〇〇七)。
 

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