『中世の国土高権と天皇・武家』第五章 「義経・頼朝問題と国土高権」

義経・頼朝問題と国土高権
 はじめにーー義経の位置と後鳥羽 
 いわゆる鎌倉幕府体制の形成期をとらえるためには、頼朝と義経の関係を根本から考え直す必要がある。そして、それは頼朝と義経の関係が相対的に良好であったと考えられる時期、つまり義経が義仲を討つ軍勢において鎌倉殿頼朝の代官「九郎御曹司」として東海道進軍を開始した、一一八三年から一一八四年(寿永三=元暦一)の段階における頼朝の国家構想と義経の位置を考えることであろう。一一八四年段階というのは、正月に京都に侵入した範頼・義経などの軍勢に追われて義仲が敗死し、二月に同じく範頼・義経が福原合戦で平氏を敗り、その後、屋島に逃げて再起をねらう平氏に対する戦闘が準備される年である。九月には範頼が西国へ向かうが、戦線は全体としては膠着の状態を続ける。しかし、翌一一八五年(文治元)年正月に義経が四国へわたり、屋島の平氏を急襲して平氏はさらに壇ノ浦まで西走し、戦況は一挙に決着へとむかうのである。
 鎌倉幕府体制の基本、より具体的にいえば頼朝が義朝流源氏を代表して、惣守護・惣地頭を掌握するシステムの基本的な組み立ては、この一年前後の激しい戦闘のなかで、その原型が形成されたはずである。ここで問題とするのは、その中で頼朝が、どのような国制構想をもっていたか、そしてそれが義経とどう関わり、そしてその構想がどう破綻したかという問題である。頼朝は、結局、その家産的権力を不安定なまま次代に残し、鎌倉幕府は周知のような内部争いを続けることになったのであるが、この時期における頼朝―義経関係は、そのような結果をもたらす重要な伏線であったことは明らかであろう。
 なお、さらにその前の伏線として確認しておきたいことは、このころ義経の身分的な地位に相当の変化が起きたことである。つまり、一九八三年七月、平氏の都落ち、安徳の西走にともなって、八月に後鳥羽天皇が即位したが、問題はこの後鳥羽と義経の系図上の関係である。右にかかげた系図にみるように、後鳥羽の父は高倉院であるが、高倉の妻すなわち後鳥羽の母は、坊門信隆という貴族の娘、殖子(後の七条院)であった。そして、この坊門信隆は、義経の義父、一条長成の従兄弟にあたる。これは義父を通じてのものであったとはいっても、天皇の外戚家との縁続きという重大な関係である。これまで、このような義経の身分的位置についてはまったく注目されていないが、すでに論じたように*1、これは義朝流源氏全体にとって本質的な問題であった。実際、系図をみれば明らかなように、坊門信隆の息子の信清は後鳥羽の外戚の家として立身し、その娘が、後に実朝の室として鎌倉に迎えられているのである。
 一般には、義経の身分的地位については、普通、母の常葉は身分の低い「雑仕」に過ぎず、義経自身の身分もそれに准じて考えられている。源氏嫡流としての頼朝とは母の血筋からいっても比べものにならないという訳である。しかし、むしろ鎌倉殿権力の内部には王権との血統の連なりにおいて「義経から実朝へ」という赤い筋が通っていたといっても過言ではない。頼朝と義経の身分関係は決して固定されたものではなく、むしろ微妙な問題をふくんでいたとしなければならないのである。
Ⅰ御曹司義経の位置
頼朝―源雅頼―九条兼実ルート
 後鳥羽の踐祚の方向は平家西走の直後から予測されていたことであろう。周知のように義仲は以仁王の息子の北陸宮を担いで蜂起しており、当然にその即位を期待したが、後白河の側は義仲の言質とった上で、後鳥羽の踐祚に成功した。それは八月二〇日のことであったが、その情報は相当に早く、鎌倉に伝わっていたはずである。京都と鎌倉の間の通信は、幕府駅制が整備された後は、最短三・四日、夜中も疾走して到着したが*2、この時期でも後鳥羽踐祚に関わる情報のようなものは特別な体制をもって急報されたと考えられる。それ故に、後鳥羽の踐祚が確定的であることは、八月二〇日の踐祚のしばらく後には鎌倉でも承知されていたであろう。
 このころ京都と鎌倉の折衝の中心にいた斎院次官中原親能(大江広元の兄)が出した手紙が、九月二日に京都の旧主・前中納言源雅頼の許に届いたのは(親能は雅頼の息子の兼忠の「乳母夫」)、それに対する反応であったと考えることができる。この前中納言源雅頼という人物は、後白河の院司別当の一人であるとともに、右大臣藤原兼実の許をしばしば訪れて院内の様子を始めとする情報を伝えている人物である。
 九月二日に京都についた手紙が鎌倉で書かれたのはおそらく八月二五日前後であったろうか。この親能の手紙の趣旨は、頼朝の使者として「院に申す事あり」、九月一〇日頃に京都に到着の予定で出発するということであった。詳しいことは面談して御話しするとあって、詳細は不明であるが、手紙を受け取った雅頼は兼実のところに参上して、親能を「頼朝と甚深の知音」として紹介するとともに、「頼朝、必定、上洛すべし」という観測を述べている。(『兼実日記』九月三日条)。
 もちろん、この親能ー雅頼ルートは非公式なものであった。実は、鎌倉には義仲・行家の入京と同時に発遣された院側の使者、院庁官・康貞が、おそらく八月一〇日前には着いていたが、彼はいまだに滞在していたはずである。京都側に対する正式の応答は、この使者を通じてするべきものであったという意味でも親能が執筆した手紙は非公式のものであったろう。しかし、この親能ー雅頼―兼実のルートが、鎌倉と京都の政治接触において重要なルートとなったことは事実である。
以仁王令旨の放棄と「徳政」の喧伝
 このなかで、鎌倉側は後鳥羽の踐祚が必然であるという状況、あるいは後鳥羽の踐祚の事実を確認し、それに受け入れる方針を決定したといってよいであろう。蜂起以来、鎌倉殿頼朝は、高倉ー安徳の平氏王朝に対する叛逆の立場にあって、以仁王令旨に自己の正統性を求めていた。もちろん、以仁王の敗死が否定しがたい事実となる中で、鎌倉殿頼朝は後白河に接近し、一旦は以仁王令旨を放棄する姿勢に傾いたが、「北陸宮」を擁立した義仲との連合によって、以仁王令旨の路線にふれ戻った。
 しかし、後鳥羽踐祚と同時に、最終的に以仁王路線は清算されるに至った。その証拠は、ちょうどこの時以降、頼朝がそれまで使用していた治承年号、つまり以仁王がその令旨において使用した治承年号をはじめて放棄し、安徳の下で制定され京都朝廷が使用中の寿永年号を使用するようになったことにある*3。問題は、これによって義仲と頼朝の連携の基本が崩れたことである。ここではこの問題にふれることはしないが、すでに右の中原親能の手紙の内容が九月始めに京都に伝わったのと同時に、鎌倉軍がすでに鎌倉をでて京都に向かっており、それに対して義仲が「立ち合うべき支度」をしているという風評が広まっている。そして、後白河の側が義仲の意向を越えて、北陸宮を京都に呼び寄せ院御所にむかえて、その取り込みをはかったことがもとになって、義仲と後白河が衝突し、義仲が平氏追討にでかけて京都に不在になった、九月二七・八日の頃、鎌倉から頼朝の申状をもった院使・康貞が帰着した。この日程でいうと、院使が鎌倉を出たのは、義仲が平氏追討にでかける少し前であったことになる。意図したものではないとしても、頼朝の申状が義仲不在の京都に届いたというのは絶好のタイミングであったといえようか。
 この院使・康貞は、右にふれたように、平氏西走の直後、つまり七月二八日に、鎌倉に向かったのであるから、彼は、この間、ほぼ一月半の長きにわたって鎌倉に滞在していたことになる。逆にいえば、鎌倉は、この時まで院使を引き留めたまま、正式の回答を留保していたということもできる。これだけ正式の回答が留保されていたのは、おそらく義仲との連携の今後をめぐる議論などが鎌倉の内部でもあったのではないか。その議論の中心は、おそらく以仁王路線、それ故に義仲との連携路線を上総広常が主張しつづけたことにあった*4。義仲と頼朝の連携は、義仲の息子の義高が鎌倉に送られ、頼朝の娘の大姫の聟となったことによって支えられていたが、しばらく前に新造なった「小御所」(大姫の居所)への「移徒」で、広常の親族の千葉常胤が椀飯沙汰人を勤めることからすると(『吾妻鏡』養和一年六月十三日)、広常・常胤は、この婿取りにも関わっていた可能性が高いと思う。別稿で述べたように、彼らはそのようなことをふくめて頼朝の家族内部の関係にまで立ち入る関係にあったと考えている。
 院使・康貞が持ち帰った頼朝の折紙の申状は、このような路線転換の後であっただけに、その内容はきわめて公式のものであった(『兼実日記』寿永二年十月四日条)。その三ヶ条の全文は『兼実日記』に転記されているが、それについて兼実が「一々の申状、義仲に斉しからざるか」と述べているように、少なくとも文言と形式の上では京都の公家貴族の趣向にあったようである。その第一条は「勧賞を神社仏寺に行わるべき事」と題し、「右、日本国は神国なり」と始まって神社・仏寺の所領の復興に関わり、第二条は「諸院宮博陸以下の領もとの如く本所に返付せらるべき事」と題し、平家一門に押領された王侯・卿相など権門領の庄園の回復の必要をいい、第三条は「姦謀の者といえども斬罪を寛宥せらるべき事」と題し、平家側の降伏者に対して死罪を適用しないように要請したものである。どれも朝廷の法からみて穏当なものであったということができる。
 そうはいっても、第一と第二は、朝廷の宣旨の発給を要求し、第三は朝廷の謀反人懲罰権に対する提言であるから、この折紙の申状だけでも、国家公権に対する正面からの主張であり、介入であったことは否定できない。そもそも「勧賞を神社仏寺に行え」などというのは、国家の宗教祭祀権に対する干渉である。後の御成敗式目が第一条・第二条に神社・仏寺の維持・修造命令をかかげ、それによって一つの国家法の体裁をとったことの原型がすでにここにあらわれている。鎌倉権力が、このような主張を行うということは、翻っていえば、これまで述べてきたように、鎌倉権力が自分自身を東国に拠点をもつ一つの公権として位置づけていることの反映である。この折紙申状は、その限りにおいて、畿内に拠点をもつ王朝権力に対する対等の権力として鎌倉権力を位置づけたといってよい。もとより、全国的にみれば、この段階では朝廷権力の法的・社会的な強さはおおいがたいとはいえ、鎌倉権力は東国の代表、東国の地域公権力としての資格において、何が正義であるかについて自己の判断を主張し、王朝権力の固有の権限に介入し、提言しているのである。
 佐藤進一がこの折紙三ヶ条は「一つの徳政立法を構成する」ものであったと指摘しているのはまさに正鵠を射ていた*5。ここには以降、頼朝が執拗に主張する神国思想をベースとする徳政・新制の思想が明示されているといってよい。こうして鎌倉殿頼朝は、以仁王令旨に正統性を求めることを放棄し、後白河ー後鳥羽の王統を承認するのみでなく、自己の地域権力を朝廷の畿内権力となかば対等なものとしつつも、王朝国家の国家思想としての徳政思想を自己のものとして表明することによって朝廷の正統性を承認するに至ったのである。
 なお、この折紙の執筆者は大江広元であった可能性がきわめて高い*6。広元は前にもふれたように問題の中原親能の弟である。広元は明経得業生から順調に立身して、一一七二年(承安二)には「一臈の外記」(六位の外記の中でもっとも職歴のながいもの)となり、さらに五位の外記に立身している優秀な官僚であった。「徳政」を呼号する頼朝の姿勢は、このような王朝国家中枢の現役の官人によって支えられていたということになる。おそらく親能・広元は、この頃から一致して鎌倉殿頼朝のブレーンとして行動したということになろう。
十月宣旨と義仲との齟齬
 ところで右に述べた折紙三箇条はあくまでも表側の公式書状であって、史料としては残っていないものの、頼朝側は実際には強硬な要求を行った。この頼朝の要求は、約一月半後、閏十月一三日の『兼実日記』に「東海・東山・北陸の三道の庄園・国領、本の如く領知すべきの由、宣下せらるべきの旨、頼朝申請」と史料に登場するものである。そして、朝廷は、この「頼朝申請」、つまり頼朝の要求に屈服して、実際に、十月一四日付けで宣旨を発給した。
 この「頼朝申請」についてもおそらく別の折紙によって行われたものに違いないが、それは後白河(+近臣)の間のみに明かされ、兼実のような公卿にもすぐには伝えられなかったようである。またこの「十月宣旨」といわれる宣旨の原文も残念ながら残っていないが、『百錬抄』に「東海・東山諸国の年貢、神社仏寺并王臣家領庄園、元の如く、領家に随うべきの由、宣旨を下さる。頼朝申し行うによるなり」という要約があり、それを右の『兼実日記』などと総合すると、かって佐藤進一が述べたように*7、「十月宣旨」の趣旨は、頼朝に東国諸国の庄園・国領の治安警察上の沙汰権を認めたもので、ひいては頼朝に庄園・国領の領有秩序の保証者としての地位を期待し、頼朝の東国地域における公権力の地位を追認したものであるといってよい。ようするに、頼朝は徳政を表側に立てたものの、東国の領有と支配を要求し、それが十月宣旨として実現したのである。
 頼朝の要求が院に届いたのはだいたい九月二七日前後であったが、しばらく後、一〇月六日に京都に着いた頼朝の使者は、正面から厳しい調子で朝廷を責め立てた。頼朝側は、朝廷が頼朝を無視して、義仲などに勧賞をあたえたと抗議し、さらに「義仲など、頼朝を伐るべきの由を結構」している状況を述べ立てて「鬱し申した」という。注目されるのは、この抗議の宛先が高階泰経であったことである。泰経は、このころ、院近臣として院庁の実務のほとんどを切り回していた人物である。頼朝が泰経を特定して申し入れを行っていることは、そのような院庁内部の実態の情報が頼朝の側に入っていたことを示している。泰経は、できれば頼朝の要求を握りつぶそうとしたか、様子見を決め込んだのであろう。頼朝は、そのような泰経の判断を予測していたのかもしれない。泰経は義仲からも「意趣」を含まれており、もし都を去ることになったら「怨みを報ず」と脅かされていたようである(『兼実日記』閏十月二三日)。
 これに続いて、頼朝が朝廷側に対して「美濃以東を虜掠せんと欲す」と通告したという噂が京都に広まった。これも頼朝の側が使者を派遣して意識的にルーマー(噂)を流したものと考えられている*8。この噂を記録した『兼実日記』の一〇月二四日条には、頼朝が「先日、院使<泰貞なり>につけて、申さしむることなど、おのおの許容なくんば天下は君の乱さしめ給ふにてこそとて攀縁(はんえん)し、すなわちその道を塞ぎ、美乃以東を虜掠せんと欲す」とある。つまり「先日、院使<泰貞>の帰京につけて申し上げたことに許容をいただけないのならば、天下は君(後白河)が乱しているということであるから、美濃以東を実力で奪取する」というのである。ここで「院使<泰貞なり>につけて、申さしむること」が「十月宣旨」で実現した頼朝の東国管領の要求であったことは明かであろう。義仲の実例があったために効果が大きかったともいえようが、後白河に対する頼朝の恫喝も堂に入ったものである。
 ただ、この美濃以東虜掠という脅しが鎌倉から発せられたのは、時間的な関係からして一〇月一五日頃までであろうから、右の十月宣旨はまだ鎌倉に届いていない時期である。九月二〇日前後に自己の東国支配を認めよという要求を行ったのに対して、一月近く経っても後白河(+近臣)の反応がないことをみた鎌倉殿頼朝が、この脅迫を行ったということになる。もちろん、一〇月九日には頼朝を本位に復する、つまり平治の乱の後に頼朝を流罪に処したことを取り消して、「従五位下、右兵衛佐」の官位に戻す措置は決定している。それは、あるいはすでに鎌倉に届いていたかもしれないが、鎌倉側はそういう形式措置では満足せず、かさにかかって最後通牒を発したのである。
 佐藤もいうように、頼朝の要求は「美濃以東における王朝の統治権の否定、すなわち王朝への叛逆を意味した」ものであった。この「反逆者たることを辞せずとする頼朝の恫喝」によって獲得された「十月宣旨」は、王朝国家の法の問題としてみれば、東国に対する王朝の統治権の「委譲」であることは明かである。しかし、佐藤がいうように鎌倉殿頼朝の東国支配は、単なる軍事団体ではなく、その本質を維持しつつ政治権力としての性格をもっていた*9。つまり鎌倉殿権力は、畿内の王朝権力との関係の如何を問わず、この段階以前にすでに一つの公権力として成立していたことは明かである。それ故に、この宣旨は、王朝の統治権の「委譲」という王朝権力側の法的行為であると同時に、むしろ本質的には、畿内王朝権力と鎌倉殿東国権力という地域権力間の外交協定というべき側面をもっていたといわなければならない。そういう意味で、しかも軍事的恫喝を背景にした外交協定、権力間協定として、鎌倉側は十月宣旨をもぎ取ったのである。
 これは当然のことながら、義仲との大きな矛盾をもたらすことになる。前述のように十月宣旨発布の頃、義仲は山陽道を転戦中である。しかし、朝廷と頼朝の間の接近の情報が義仲の許に届いていたのは明かで、たとえばすでに十月初めから、義仲の側が「もし頼朝上洛せば、北陸方に逃げ超えるべし。もし頼朝忽ちに上洛せずんば、平氏を伐るべきの支度」をしているという噂が京都に届いている(『兼実日記』十月九日条)。こういう中で、後白河(+近臣)の側は義仲の怒りを恐れた。そこで彼らが考えたのは小細工であった。つまり本来、頼朝は「東海・東山・北陸」の全体に対して頼朝の関与をみとめる宣旨を要求したのに対し、北陸道だけは「その宣旨を成されず」という策を弄したのである(『兼実日記』閏十月一三日条)。この宣旨は定長の伝宣によって日野兼光が宣下したものであるが、兼光の言によると最初の宣旨には北陸道が含まれていたが、それを「改め直し」、北陸道を除いたという(『同』閏十月二三日条)。
 この指示は、院庁の実務指揮の中心にいた高階泰経が行ったようで、これが頼朝に伝わったらどうする積もりかと聞かれた彼は次ぎのように言っている。つまり「頼朝は恐るべしといえども遠境にあり。義仲は、当時(現在)、在京、当罰恐れあり。よって不当といえども、北陸を除かれ了の由を答えさしむ」という訳である(頼朝も怖いが遠くにいる。義仲は、いま京都を拠点としており、暴力が目前である。だから頼朝には不当な話しではあるが、北陸を除かざるをえなかったと弁解するほかない)。笑い話のようであって、これを聞いた兼実が「天子の政、あにもって此くの如くならんや。少人の近臣たる、天下の乱、止むべきの期なきか」と慨嘆したのも自然であろうが、しかし、実際には、兼実の正論も滑稽以外のなにものでもない(『兼実日記』閏十月一三日条)。 
平頼盛の東国下向と頼朝の遠江国出張
 ここでふれるべきことは、この十月宣旨発布の直後、一〇月一八日に、清盛の異母弟で、平治の二条天皇重婚事件にともなう合戦の事後処理で、頼朝の助命を訴えた池禅尼の息子、池頼盛が京都から逐電したことである(『兼実日記』十月二〇日条)。『愚管抄』によれば、それは義仲ににらまれたためであるというが、頼盛は頼盛は、平家都落ちに同行せず、京都に残留していたが、十月宣旨の発布の状況の下で、頼朝との関係を疑われ、身の危険を感じたのであろう。こうして頼盛は逃げ出したのであるが、その様子を『愚管抄』(巻五)は、「頼盛大納言は頼朝がりくだりにけり、二日の道こなたへ頼朝はむかいて、如父もてなしける」と描き出している(=頼盛は頼朝の方へ下った。頼朝は鎌倉から二日間の旅程のところまで出迎え、父に対するように歓待した)。
 重要なのは、『愚管抄』が続けて、「又、頼朝がいもうとゝ云女房一人ありけるを、大宮権亮能康(能保)と云ふ人の妻にして年来ありけり。このゆへによしやす又妻ぐして鎌倉へくだりにき」(頼朝には妹が一人いたが、彼女を大宮権亮能保が妻にしていた。この故に、能保も妻と一緒に鎌倉へ下った)と述べていることである。この能保は頼盛の婿、持明院基家の甥にあたる人物である。義仲が頼盛のみでなく、能保をも敵視したことは確実である。それは、『兼実日記』によれば、この二人をつなぐ位置にある持明院基家が前参議三位という高官の身でありながら、翌月の閏十月二一日に義仲の意向をおそれて逐電したということ、また基家逐電の翌々日の閏十月二三日の『兼実日記』には「少将公衡」(徳大寺公衡)が能保の妹の夫にあたるために、恐怖にふるえていると記載されていることでも明かであろう。
 持明院基家や徳大寺公衡が、これ以降、どのように行動したかはよく分からないが、頼盛と能保は二人一緒に鎌倉に下ったようである。『兼実日記』には、十月一八日に京都を出た頼盛が、相模国府の側に屋敷をあたえられ、能保は頼朝邸から一町ほと離れたところにある悪禅師全成(義経同母の兄)の家に同宿したとしている。この情報は源雅頼からの文書報告によったというから、相当確実なものであったろう(『兼実日記』十一月二日・六日条)。この頼盛と能保の鎌倉下向にふれて、『愚管抄』は、「かやうにしかるべき者どもくだりあつまりて、京中の人の程ども何もよくゝゝ頼朝しりにけり」(このように然るべき人々が鎌倉に下向し、集まったので、京都の人々の事情も、頼朝によくわかるようになった)としている。たしかに、こうして鎌倉に京都の貴族がやってきて直接の情報を伝えたということは大きな意味をもったに違いない。この意味でも、十月宣旨の獲得は義朝流源氏にとって大きな画期となったということができる。
 頼朝は頼盛を出迎えるために鎌倉を出発したのは閏十月五日であった。『愚管抄』は、頼朝が鎌倉から二日の旅程をかけて、頼盛を迎えに出たとするが、『兼実日記』も、頼朝は頼盛を迎えるために、閏十月五日に鎌倉を出て、三晩の日程をかけて頼朝と頼盛は面会したという。二日と三日の違いは無視できるから、同じ情報が『愚管抄』と『兼実日記』にのっていることは、この出迎えが大きな話題となったことを示しているといってよい。
 そして、二人があった場所は遠江国であったと伝えられる。しかも、この時、頼朝は大軍を率いて京上を試みたともいわれている(『同』閏十月二五日条)。念のため、これらに関係する『兼実日記』の記事二つを引用しておく。
伝え聞く。頼朝、相模鎌倉の城を起ち、しばらく遠江国に住すべし。これ精兵五万騎をもって<北陸一万、東山一万、東海二万、南海一万>義仲などを討つべし。その事を沙汰せしめんがためと云々。すべからくその身、参洛すべきところ、奥州の秀平また数万騎の勢を率い、すでに白河関を出ずと云々。よって、かの襲来を疑い、中途に逗留し、形勢を伺ふべしと云々。去る五日((閏十月))に城を起つと云々(寿永二年閏一〇月二五日条)。

伝え聞く。頼朝、去月((閏十月))五日、鎌倉城を出でて、すでに京上、旅館に宿すること三ヶ夜に及ぶ。しかして頼盛卿に行き向かいて議定す。粮料・芻など叶わざるにより、たちまち入洛を停止し、本城に帰り入り了。その替わり、九郎御曹司<誰人哉、尋聞くべし>すでに上洛せしむと云々(寿永二年十一月二日条)。

 ようするに頼朝が軍勢を率いて京上の途についたが、途中で頼盛とあって議定して鎌倉に戻ったというのである。「五万騎」の軍勢というのは誇大であるとしても、「議定」という言葉は注目される。これは「京上」の政治的・軍事的な方針の議定という意味ではないだろうか。
「御曹司」義経の初陣
 もちろん、義仲追討軍の入洛はまだ三ヶ月後のことであるから、それを構成する全メンバーが、すでにこの時に遠江国まで進軍していたとは思えない。この議定に参加したのは、頼朝側近と戦術会議に必須のメンバーということであろう。しかし、頼朝自身が遠江国まで出張した以上、また後の義仲追討軍の構成からして、中原親能・土肥実平・梶原景時などは参加していたであろう。また会談の場所からして、遠江国守護安田義定もいた可能性が高い。さらに駿河国守護、武田信義の子供の一条忠頼・板垣兼信・武田有義も義仲追討軍に参加しているから、彼らもいたに相違ない。上総広常は以前に頼朝が途中まで上洛した時と同様に、留守居という位置づけで鎌倉に残っていたであろうが、すぐ後の義仲追討軍に参加している千葉常胤は、長老として議定の場にいた可能性があろう。
 これまで十分に注目されていないが、この軍議は、戦術的な意義からしても、構成メンバーからしてもほとんど富士川合戦の際の軍議に匹敵するような規模をもっていたといわねばならない。もちろん、富士川合戦においては実際には甲斐源氏の位置がきわめて高かった。それと比べて、今回の軍議では、源氏同盟という性格は弱まり、中原親能・土肥実平・梶原景時などの頼朝側近の位置が高かったろう。そこには中原広元も参加していたはずである。彼がすでに鎌倉に下向していることは前述したが、京都の状況の分析と政治戦術については、すでに中枢の役割を演じていたのではないだろうか。
 そして、何よりも重要なのは、史料(二)傍点部にあるように、この議定の場所に義経がいたことである。そして、義経は、ここで頼朝の「替わり」に、つまり頼朝の代官として京上する軍勢の大将軍に任命されたのである。『吉田経房記』には義経が「代官として上道、今明、入京すべし。院別進を相具す」とあって、義経が院への進物をもった頼朝代官であることが明記されている(寿永二年十一月四日条)。これは実に久しぶりの義経の史料である。義経に関する史料は、一一八一年(養和元)一一月に足利義兼、土屋宗遠、和田義盛などとともに東国下向の勢いを見せていた平維盛の軍勢を迎撃しようとしたという『吾妻鏡』の記事以来、ほぼ二年間、まったく欠如していた。拙著『義経の登場』は、富士川合戦までの義経の行動と生活を追跡してきたものであるが、それ以降の義経の鎌倉での生活の実態を伝える史料はきわめて少なく、ほとんど伝説と薄闇の中に包まれている。それに対して、これ以降、軍事舞台の中心に躍り出た義経に関する史料は、この時代の人物としては異例なほど多くなる。史料のあり方からすると、義経は、ここで初めて白日の下に登場したといってよいのである。
 この久しぶりの史料は、きわめて示唆的であって、まず、これによって義経が鎌倉から出陣したのは、おそくとも閏十月五日前後であったことが推定できる。そうだとすると、義経出陣の準備は、頼朝が「美濃以東虜掠」というルーマーを鎌倉から発した一〇月一五日の頃より前には済んでいたといってよいのではないか。あるいは、この脅しは実際に義経が出陣準備をし、出動したという事実を背後にもっていたのかもしれない。この辺りのタイムテーブルはいろいろな可能性があろうが、一〇月一四日に発給された十月宣旨が鎌倉に到着したのは、一〇月二五日頃であったろう。義経は、遅くとも十月宣旨の到着後しばらくの間には出陣したに違いない。
 つまり義経は頼朝が閏一〇月五日に鎌倉を出るより前、その先陣のようにして東海道を進軍してきた可能性もあるように思う。そうだとすれば、義経の東海道進軍は、十月宣旨を各国に施行するという政治的な意味を含んでいたのかもしれない。可能性としては義経は遠江国での頼朝・頼盛会談の前に、伊勢に近いところまで先行しており、遠江国における軍議(「議定」)のためにもどってきたということさえも考えられると思う。
 何よりも重大なのは、この史料において義経が「九郎御曹司」という称号で登場していることである。室町時代の『御伽草子』の「御曹司島渡り」を始め、江戸時代にいたるまで義経はしばしば「御曹司」という称号で語られるが、これがその初見史料であって、以降、鎌倉側では、これが義経の正式の称号となった。後にみるように、翌年、義仲滅亡後に義経は京都と近畿地方を支配する地位にいたが、それに関係する古文書でも義経は御曹司と呼ばれている。それは義経出陣の時からの称号であったのである。
 普通、義経のように元服はしたものの、無位・無官の武者は「冠者」と呼ばれる。「木曾冠者義仲」「蒲冠者範頼」などといわれる通りである。彼らを「御曹司」と称した例は存在しない。これは義経を別格扱いする独特な称号なのである。だからこそ兼実は、「九郎御曹司<誰人哉、尋聞くべし>」と書いたのではないだろうか。普通、この史料は義経が京都側に実名さえ知られていない存在であったという形でみられがちであるが、しかし、ぎゃくに兼実は「御曹司」という称号に注目したからこそ、「誰人哉、尋聞くべし」と注記したと考えなければならないだろう。
 この称号の理由について、上横手雅敬は、この義経の称号を頼朝と義経の間に義理の親子関係があったためであると示唆している*10。上横手は、この義経を御曹司とした初見史料を取り上げている訳ではないが、たしかに、しばらく後、『兼実日記』の一一八五年(文治一)十月十七日条は義経と頼朝は「父子の義」にあるとしている。これは頼朝と対立して都を離れ九州に向かおうとした義経が、朝廷に対して頼朝追討の宣旨を獲得しようとしたことを兼実が論難した際の言である。兼実が「父子の義」にある以上、義経の行動は「大逆罪」であると論難している点からみると、これはたんなる比喩ではなく猶子契約があったと考えられていたのであろう。このような猶子契約が「九郎御曹司」という称号を結果したというのは、ありうる想定であると思う。
 上横手の指摘で重要なのは、上横手が頼朝がこの御曹司という呼称によって義経を「一般御家人から隔たった存在」として遇したとしていることである。これは、二年前、鶴岡八幡宮の若宮の宝殿の上棟式の事件の頃とくらべると大きな変化であるということができよう。よく知られているように、この事件は、義経が大工への褒美物の馬を引くことを渋った時に、頼朝が「所役卑下」と拒否するのかと怒ったというもので、『吾妻鏡』は源氏であっても、同じ義朝の血筋につながる兄弟であっても家人の一人に過ぎないという頼朝の姿勢を示したものだとしている。ここには文飾もあろうが、しかし、頼朝が、弟との関係を考え、遅くとも、この義経の出陣までの間には、義経を「九郎御曹司」として特別の重要メンバーとして遇するという態度をとるようになったことは認めてもよいのではないだろうか。
義経と河越重頼娘の「婚約」
 問題は、これが義経の婚約に関係していることである。つまり、後にもふれるように、義経は、翌年、一一八四年(元暦一)九月に河越重頼の娘*11を嫁として迎えるのであるが、それは「武衛の仰せ」により、「兼日に約諾」(以前からの約束)となっていたことであるという(『吾妻鏡』元暦元年九月一四日)。よく知られているように、後にこの女性は義経とともに平泉に下り、自死した。「兼日」がいつ頃のことかはわからないが、この年、彼女は一六歳、義経は二五歳であるから、この縁組み自体はもっと早くささやかれていたであろう*12。
 問題は、彼女の母、つまり重頼の妻は、頼朝の乳母、比企尼の二女にあたることである。比企尼に対する頼朝のマザコンはよく知られていよう。そして、比企尼の娘たちも、頼朝が鎌倉殿権力の中に、自身の家族関係を作り出していく上で大きな役割を担った。この重頼の妻は、頼朝の息子・頼家の誕生の儀礼に際して「乳付(乳母)」として奉仕していることが特筆されよう。彼女の娘、つまり、義経の妻となった女性は比企尼の孫にあたり、しかも彼女の年齢はちょうど義経の年齢にふさわしかったのであろう。
 もちろん、肝心の重頼は、頼朝の挙兵の当初には頼朝に敵対したが、頼朝が安房から江戸湾岸ルートを廻って鎌倉を目指した時には、その軍勢に合流しており、比企尼の関係で重要な位置にいたことは確実である。そして河越氏は、それだけに逆に聟として迎える義経に対しては忠誠を尽くしたに違いない。実際に、『吾妻鏡』は義仲攻撃の入洛の時、義経に率いられて後白河の院御所に殺到した六名の武将を列挙しているが、その先頭に河越重頼・重房父子が掲げられているのである(『吾妻鏡』元暦元年正月二〇日条)。重頼は義経の蜂起の直後に頼朝に殺されてしまったが、義経の郎等として名前をしられる師岡重保も、本来の名を重経といって、重頼の弟であろうといわれている*13。この重経は重頼妻が乳付の役割をおった頼家の誕生儀礼において「鳴弦役」、つまり弓の弦をならして産所を結界し、産婦の御産を守る魔よけの役目を果たしている*14。なお、頼朝は挙兵後の早い時期に鶴岡八幡宮に橘樹郡の師岡の田地を寄進しており(『平』四〇七三)、これは早くから頼朝の許に師岡保からの年貢がきていたことを意味するのであろう。それは重経の奉仕であったに違いない。なお峰岸純夫は平安鎌倉期の東国交通を広く見渡すなかで、師岡保が、鶴見河河口地帯の神奈川湊をふくむ国衙領の保で、多摩川の北の品川とならんで重要な交通点であったこと、また秩父氏が、師岡の南の榛谷御厨も支配しており、広域的な交通路掌握を展開していたことを早くから指摘している*15。
 少なくとも頼朝の蜂起の成功後には、河越氏は比企尼の下で一族の全力をあげてもっぱら頼朝に忠節を励んだのである。そう考えると、右の頼盛を囲んでの遠江国での軍議に河越氏が参加していたことは確実であろう。とくに注目すべきことは、河越氏が多くの所領を伊勢にもっていたことである。つまり、後に、重頼は義経に味方したとして頼朝によってその所領を没収され、死罪となっているが、彼の大規模な所領として「伊勢国香取五ケ郷」が存在した(『吾妻鏡』文治一年一一月一二日)。有力な東国武士はしばしば美濃・尾張から伊勢にかけての所領を有しており、彼らは東海道全域にわたる活動を展開していたから、武蔵国の高家とされる河越氏にとっても、これは当然のことであったろう。とくに師岡重経の領有する師岡保は相模湊を、その領域内に含んでいたから、このルートを伊豆配流中の頼朝への連絡ルートでとしてつかんでいたのみでなく、河越氏の伊勢にいたる交通ルートに連接していたはずである。義経の東海道進軍において、このルートがその兵站ルートとなり、また河越氏が伊勢との間で養っていた人脈が動員された可能性は高いと思う。
義経の身分転換と後鳥羽即位
 つまり、頼朝と義経の「父子の義」というのは、擬制的な父子関係というのみでなく、「比企尼ー河越重頼妻ー娘」という母系的な女縁を通じて、頼朝の係累のなかに義経を含み込むものでもあったというのが妥当な想定である。頼朝は、この時、乳母の比企尼の孫娘を義経の妻とし、義経を自己の義理の息子として扱うことを決めたのである。また「御曹司」という称号は、猶子契約というのみでなく、「聟」という資格において邸宅の内部に「曹司」をあたえられたという意味を含んでいたのかもしれない。この称号は、義経・頼朝らの父の義朝がかつて上総氏に養われ、「上総御曹司」と呼ばれたということを思い出させるのである。あるいは東国の武士の中では、この称号には特別な意味があったのであろうか。
 問題は、どのような経過で、いつ頃、義経がこのような地位につくことが確定したかということである。この場合、兄弟の情愛だとか、義経の軍事能力など、その他の個別的条件を上げることもできるが、もちろん、そのような理由によって支配階級内部の人間関係を説明することは歴史学には許されない俗論であり、「御曹司」義経の登場は、より政治的な文脈の中で考えなければならないい。そして、義経に政治的な脚光があたったもっとも大きな条件は、冒頭に述べた後鳥羽天皇の踐祚であったと考えるのである。つまり先に説明したように、後鳥羽の踐祚によって、義経の義父の従兄弟の家、坊門家が急に王家の外戚家として脚光を浴び、それは義経の宮廷的・身分的位置の変化をもたらした。それ故に、義経が「御曹司」となったのは、後鳥羽の踐祚以後、つまりこの年の八月二〇日以後であったろう。その中で、頼朝・義仲同盟が崩壊することが予測され、義仲にとってかわって軍勢を上洛させる計画が動きだし、「御曹司」義経が舞台の中央に登場するにいたったのであろう。
 なお、この経過について、若干の推測を述べれば、拙著『義経の登場』で強調したように、義経は縁戚や人脈の上で以仁王ー頼政に近い立場にいた。それ故に義経は東国武士の中でももっとも以仁王に近い立場を標榜していた上総広常との縁が深かった可能性もある。義経と行動を共にした武士の中には、東国武士はそう多くはないが、広常の縁戚と考えられる片岡氏が参加しており、これが義経と広常の関係を示唆すると考えることも可能かもしれない。もし、そうであるとすれば、義経は頼朝の指示の下に広常から河越氏に乗り換えたということになり、義経の婚約は、この年における広常問題と関わってくることになる。
 これは推測にとどまるが、ただ、私は、義経を御曹司として義仲討伐軍の主将とするという人選において、中原広元が大きな役割を果たした可能性が高いと考えている。というのは、有名な腰越状の宛先が中原広元となっているからである。つまり壇ノ浦合戦で勝利しながら頼朝に冷遇された義経が頼朝との融和を求めて鎌倉のすぐ手前の腰越まで下って差し出した弁明の書状の宛先は広元であった。もちろん、これは腰越状の史料的性格の理解にも関わってくる問題ではあるが、義経が広元あてに弁明の書状を出したということまでを疑うことはできない。そして、義経が広元に頼朝との関係の斡旋を依頼したことは、義経と広元との間に相当の直接の接触がなければ理解できないことである。先に広元が、遅くも、この年の九月までには鎌倉に下っているであろうと推定した、もう一つの理由がここにある。義経はおそくも閏一〇月の始めには鎌倉を出ているのであるから、広元との関係はその前にあったはずであり、逆にいうと、それ以前には広元は鎌倉に下っているはずであるということになるのである。これまでの通説のように、広元が鎌倉に下ったのがこの年の一二月以降ということになると、義経は広元と一度もあったことがないにもかかわらず、腰越状を広元に委ねたということになってしまう。この時代の情誼的な人間関係のあり方からして、これは考えられない。そして、この時期の義経と広元が濃厚な関係をもったとすれば、義経が「御曹司=頼朝の替=鎌倉殿頼朝の代官=上洛軍の主将」という位置につく上で、広元が相当の役割を果たしたというのは妥当な推定となると思う*16。
 現在に残された限りの史料では、これ以上の具体的な議論は不可能であるが、ともかくも義経が「御曹司」の地位についたことが、義朝流源氏の権力中枢の構成にとってきわめて大きな意味をもっていた。駿河国で行われた「議定」の時では、それが確認されたに相違ない。これらすべての意味で、この議定への参加は、義経にとっては、きわめて晴れがましい場であったに違いない。
 そして京都の貴族の中でも消息通の人々は、すでに義経の存在を知っていた。とくに、十月宣旨前後に木曾義仲との関係で、逃亡したり、恐怖におちいった人々、頼盛・能保・基家・公衡などは、系図にみるように、義経の義父・一条長成との関係が近い。その意味では、後に能保が鎌倉であたえられた宿所が、義経の兄、悪禪師全成の邸宅であったというのは、きわめて興味深い情報である。平泉に下った義経と違って、全成は醍醐寺で出家して京都付近にいたから、能保は、その前から全成と面識があったのではないだろうか。少なくとも、義経・全成と出会った頼盛・能保は、自分に近い義経らの出自を再認識したであろう。
Ⅱ寿永三年二月、頼朝の上洛問題
義経・平信兼と義仲敗死
 義経の東海道進軍は順調な経過をたどったようで、閏十月二二日には「頼朝の使」が伊勢国に到着し、十月宣旨にもとづいて伊勢国を管領すると宣言したことが京都まで伝わっている。彼らは、十月宣旨を「国中に仰せ知らせしめんがため」の使者であると自称し、宣旨に「東海・東山道などの庄公、不服の輩あらば、頼朝にふれて沙汰いたすべし」とある通りに執行すると宣言したという(『九条兼実日記』閏十月二二日)。この「使」が義経の軍勢に属していたことは明かである。
 この中で「伊勢の国民」らの多くは義仲に反旗をひるがえし、義経軍と共同する態度をとった。彼らは鈴鹿山の関道を封鎖して、義仲・行家の郎従と戦闘を開始したという。一月ほど後の史料に「当時九郎の勢、僅かに五百騎、そのほか伊勢国人など多く相したがう云々、又、和泉守信兼同じくもって合力」(『兼実日記』十二月一日条)とあるように、義経は伊勢の武士たちと連合することによって京都に攻め上る足場を固めたのである。いうまでもなく、伊勢は伊勢平氏といわれた平氏の本拠地である。そしてこれらの武士も実は系譜をたどれば正盛ー忠盛ー清盛の一流とは、正盛の父の時代に分かれた伊勢平氏の一流に属していたことが明らかにされている*17。彼らの多くはかって平氏の嫡流としての地位にいた小松殿重盛の家人の地位にあったが、しかし、重盛の死去後、重盛の弟の宗盛を中心とする平家主流からはやや疎外される位置にあった。
 また右の史料に名前がでる和泉守平信兼は、本来、平家家人というよりも、古く保元の乱において清盛と並んで活動するような独立した武将であって、伊勢国中部の近衛家領須可庄、醍醐寺領曽祢庄、伊勢神宮領波出(はぜ)御厨などを本拠としていた。須可庄が近衛家領であることがきわめて重要なのであるが、それは後に述べるとして、ようするに、平家累代の郎等たちや伊勢平氏の別流という、本来、平家武士団の伝統的な中核を構成する人々が、平家の分裂という条件の中で、義仲に反旗をひるがえし、義経軍に参加してきたのである。義経の入京と勝利の条件は、ここで義経が伊勢国人と連合することに成功したことにあったのは川合康が指摘したところである*18。
 こういう経過があった上で、一一八四年(寿永三)一月の義仲の戦死、そして二月の摂津福原京における合戦における平家の敗北という形で軍事情勢は大きく展開したのである。
後白河による頼朝上洛催促と近衛基通
 義仲敗死から一の谷合戦における鎌倉軍の勝利の後、政治史の中心は頼朝の上洛問題となる。頼朝が早くから上洛を呼号していたことはいうまでもないが、それが王権中枢における本格的な政治問題となったことを示す史料は『兼実日記』一一八四年(寿永三)二月一六日条であろう。それによれば、兼実のところにやってきた源雅頼は、その家人の中原親能が「院御使」として頼朝の上洛を促すために東国に下向したと語り、さらに「頼朝四月に上洛すべし」という観測をも伝えている。そこには親能に対して後白河院の「頼朝もし上洛せざれば、東国に臨幸あるべきの由」という意向が伝えられたとも記されている。
 とくに注目されるのは、同じ日記の二月二八日条に近衛基通が「外記大夫信成を使として頼朝の許に通はさる云々、人、何事なるかを知らず、今旦首途了云々」という記事がみえることである。この意味ありげな記事は、後白河による頼朝上洛の催促が最初から摂政基通と気脈を通じて企てられたものであることを示している。
 これらは今回の頼朝上洛という動きが京都側、後白河院の側からの働きかけを中心として現実的な問題に展開している様相をよく示している。この段階では頼朝がすぐにも上洛することは、一つの既定事実となっていたのである。これがこれ以降の政治史の基調低音となったことは確実であって、前者の情報を兼実に語った源雅頼は、同じ二月二七日にも「頼朝、四月下旬に上洛すべし云々、又、折紙をもって、朝務を計申す云々」という伝聞を伝えている。これは東国に下った親能から後白河院の意向をきいた頼朝が、実際に「四月上洛」の意向を後白河院に対して回答し、それと一連のものとして「朝務」に関わる折紙奏状を提出したことを示している(以上、『兼実日記』寿永三年正月廿八日、二月二日、二月一六日、二月二七日条。なおこの奏状は『吾妻鏡』元暦一年二月二五日条に引用されているが、その実際の作成日時は二月一八日前後であって、二月二五日はこの奏状が京都に届き、高階泰経を通じて院に奏上された日時であろう)。
頼朝と九条兼実のルート―源雅頼
 もちろん、頼朝とのルートは後白河ー基通のみでなく、九条兼実の側ももっていた。明瞭なのは、右の情報を兼実に伝えた源雅頼の周辺の人的な関係である。この時期の『兼実日記』を見ると、雅頼の周辺が頼朝と兼実を結ぶ最大のルートとなっていたことがわかる。雅頼は村上源氏の一流に属し、以仁王、そして義経・頼朝の挙兵において重要な位置をもっていたとされる八条院に近い存在であった。雅頼の子供兼忠は八条院よりの御給をうけた人物であることも注意される。この関係で雅頼は八条院領相模国前取社を支配していたと思われるが(参照、石井進「源平争乱期の八条院周辺」『石井進著作集』七巻)、中原親能が雅頼の家人となっているのは、親能が相模国で生育したという経歴をもっていることとも関係している。親能は雅頼の息子の兼忠の乳母夫でもあり、雅頼ときわめて深い関係を結んでいた。いうまでもなく、中原親能は土肥実平とともに義経の義仲追討軍について上洛し、「頼朝代官として九郎につき上洛せしむるところなり、よって万事奉行をなす」といわれた人物であるが、土肥実平には、親能のような京都の貴族社会との密接な関係は知られていないから、少なくとも、この段階での雅頼ー親能の関係は頼朝にとってきわめて重要なものであったことは疑いない。
 雅頼と兼実の関係がどのようなものであったかは別個の検討課題であるが、ともかくもこの年、一一八四年(寿永三)二月一日、雅頼は、兼実のところにやってきて、「若し天下を直さるべくんば、右大臣殿、世を知らしめすべきなり」という頼朝の希望を親能からの確言として兼実に伝えている。この日記の一節で兼実が「齋院次官親能」に「前明法博士広季の子」という細注を付け加えているように、兼実は親能の父親の広季のことも兼実はよく知っていた。そして、兼実は広季の子供、親能の弟にあたる中原広元(大江広元)が、当時鎌倉にいたことも知っていた。頼朝はすぐに実際に兼実を摂政として推挙することになるが、その奏状が三月一九日に京都に到着した後、この奏状を執筆したのが広元であるという事実は広季のところから兼実の許に入っているのである(『兼実日記』三月二三日条、四月七日)。
兼実ルートと中原氏・武士たち――『湖山集』所収の書状(1)
 残念ながら、頼朝の上洛を督促した後白河ー基通の側の史料は存在せず、その詳細は不明であるが、しかし、兼実ーー頼朝のルートにおいては、以上のように、雅頼ー親能ー広季ー広元のグループが大きな役割をしていたのは確実である。以下、これに関係して、これまでとくに注目されたことのない史料を紹介し、若干の解説を行うことによって、頼朝上洛問題の状況を固める作業としたいと思う。それは手鑑『湖山集』におさめられた二通の書状である。この二通の書状は、料紙や紙背の聖教(しょうぎょう)の精査の結果によっては、いわゆる八条院庁文書の一部である可能性もあるもので、本来原本調査をへて論ずべきであるが、ここでは簡単な紹介にとどめたい。まず一通目を掲げる。
 来四日御使所司可下遣之由、謹承候了、親光使者、件日可進之由、同成約諾候了、
 土肥下文、今朝申遣候了、宣旨 并武衛奏状九郎下文等案、同可相具候也、恐々謹言
   三月二日   円雅
 この署名者は円雅と読んだが、おそらく前述の源中納言雅頼の兄の雅綱の孫で比叡山の僧侶となっている円雅という人物ではないかと考える(『尊卑分脈』三巻、五三八頁)。円雅という人物は、後に、八条院領の重要な部分をなした安楽寿院領の出雲佐陀庄および大和宇多庄の領主として登場する律師円雅と同一人物であろうか(参照、石井進前掲論文。ただし、石井は後者の円雅を花山院忠雅の子としている)。前述のような京都と頼朝の関係ルートのあり方からしても、すぐに述べるようなこの書状の内容からしても、源雅頼の近親者がこの書状の差出者であるという想定は成立しうると思う。
 手紙の趣旨は「来る四日に御使所司を下したいという手紙をたしかに拝見しました。親光からは使者を同じ日に進めるということについて約束をえてあります。また土肥の下文は今朝取りにやらせました。なお宣旨および武衛の奏状および九郎の下文などの案も、一緒に持っていくことができるように処置する積もりです」ということになる。この書状の話題となっているのは、次に述べる「宣旨 并武衛奏状九郎下文等案」の内容からして、兵糧米の賦課に関係する訴訟であったろうか。円雅は、しばらく前、その庄園の領主(おそらく著名寺院の住持クラスの僧侶)から、鎌倉軍の中枢部、つまり義経等のしかるべき裁許文書を入手してほしいと頼まれたのであろう。そして(この書状を出した当日あるいは一・二日前の頃であろうか)かさねて依頼者の庄園領主から手紙が来て、「来る四日」(つまり、この書状が出された日の翌々日)に、御使所司を庄園に下向させたい、前の依頼はどうなっているかと問い合わせがあったということになる。円雅は、それに対して、まず親光という人物に依頼して、四日に使者を派遣することについて了解をえたということを報告し、さらに今朝ほどには、土肥のところにも下文を取りにやりましたと報告した。
 この「親光」は、大江=中原親光、つまり大江系図(『尊卑分脈』)では、大江維光の子供で大江広元の兄として登場し、中原系図(『続群書類従』)では親能・広元の父の広季の弟、つまり親能・広元の叔父にあたる人物として登場する人物ではないだろうか。この中原氏の一統は村上源氏の雅頼の家系と深い関係をもっていたに相違ない。そして、「土肥」は中原親能とともに義経軍についてきた「頼朝代官」土肥実平であることはいうまでもない。とくにそうなると重要なのは、この手紙は実平が京都近郊にいた頃に出されたものであるということである。そして、土肥が京都の周辺にいた「三月二日」に適合するのは一一八四年(寿永三)のみとなる。
 さらに注目されるのは、傍線をひいた「宣旨 并武衛奏状九郎下文等案、同可相具候也」という部分である。この宣旨は一一八四年(寿永三)二月一九日の武士濫行停止の宣旨、同じく二月二二日の兵糧米停止の宣旨であろう(『兼実日記』二月二三日条)。そして、「武衛奏状」とは、おそらく先にふれた雅頼が二月二七日に兼実に対して、「頼朝、四月下旬に上洛すべし云々、又、折紙をもって、朝務を計申す云々」と伝えたという「折紙」のことであろう。これが四日後には伝わっていることをみると、書状(一)の差出者の円雅は、関東からの情報が伝わってくる中枢部のそばにいた人間であることになる。次ぎの「九郎下文」は二月二二日の兵糧米停止宣旨を同日に施行した下文であろうか。これまでは同じ二月二二日、義経が摂津国垂水牧に賦課された兵糧米を免除した書状が知られているだけであったが(参照菱沼一憲「源義経の政治的再評価」『国史学』一七九号)、義経は自身で「諸国兵糧米停止」を令した「下文」を発していたことになる。これによって垂水牧宛の兵糧米免除書状に「諸国の兵糧米、停止おわんぬ、下知仕り候おわんぬ、御承引あるべからず候か、よって庁御下文二枚、進上候」とある趣旨もよく理解できることになるだろう。義経が後白河院庁の発給した兵糧米免除の下文を不要であるとして返却した理由は、すでに一般的指示としての宣旨が存在し、しかもそれにそって自己の下文が発給されている以上不要であるということだったのである。「九郎下文案」がこのように流通していたということは、義経の軍事的リーダーシップが宮廷社会において承認されていたことの何よりもの証左である。
鎌倉殿代官義経――『湖山集』所収の書状(2)
 『湖山集』にはこれに関係すると思われる史料がもう一点ある。
 仰候し飛騨母家、自院申給天候也、散々成可住様不候、修理如何可仕候哉。
自昨日、如此沙汰、一切被留候也、自鎌蔵殿申させ給事候やらん、脚力上洛已後善悪沙汰せしと候也、於自今已後者、土肥許へ可仰遣候也、土肥にも自此仰遣事をハせしと候也、恐々
           (花押)
 この書状には差し出しの署名も宛先もなく、花押や筆跡から筆者を同定することもできないが、「と候也」などという表現からして奉書であったことは明らかであって、ここでは、この書状を某奉書と呼び、執筆者=奉者の上位にいる人物をXと呼ぶことにする*19。
 この奉書が、(一)の円雅書状の内容と密接にかかわることは一読明らかであろう。その趣旨は、「昨日から、こういう案件は、一切、処理することを留められた。(Xに対して)鎌倉殿よりおっしゃってこられたことがあったようである。(その指示をもってきた)脚力(飛脚)が上洛したのちは、善悪の判断はしないということだ。これからは、(こういうことについては)土肥の方へ仰遣わしてほしい。土肥方に対して、こちらから仰せ遣わすこともしないということだ」というところであろうか。これはようするにXが兵糧米の賦課に関係する訴訟を沙汰する権限を今後は行使しない、もしそういう問題が発生したら土肥実平の方へもっていけと指示したということである。これはこの時期の情勢の本質的な問題にふれた奉書であるということになる。
 読みとりにくいのは尚々書であるが、これは円雅の書状(一)の趣旨にも、この奉書の本文の趣旨にも、そしてXが誰かということとも直接の関係はないようで、むしろ手紙のやりとりの中で、ついでに議論された問題であると解釈するほかないであろう。つまり「様子はどうなっているかと御心配をいただいた『飛騨の母の家』のことですが、これは後白河院庁より措置をしていただきました。散々になっていて住みようもないほどで、修理をどうしようかなどと相談したいところです」ということになろうか。この「飛騨」は飛騨守のことを意味すると考えるほかないが、この頃の飛騨守を求めると、前述の親光か、広季のどちらかとなる(広季は『中原系図』(『続群書類従』)に「飛騨守」、一一八四年(寿永三)七月二日の関東御教書に「六条院年預飛騨前司広季」とみえ(『平』四一五八)、親光は一一八四年(元暦一)八月二二日に飛騨守現任とみえる(『山槐記』同日条))。ここではそのどちらであるかを推測するのは控えておきたいが、この奉書が源雅頼や中原広季の周辺に関わっているものであることの傍証にはなるであろう。
 問題は、この奉書に「土肥許へ可仰遣候也、土肥にも自此仰遣事をハせしと候」とある部分であって、これは(一)の円雅書状に「土肥下文、今朝申遣候了」とあるのと対応している。つまり、(一)は、この某奉書を受けてだされたということになるから、奉書の宛先は円雅であったというのが自然な解釈であろう。
 そうだとすれば、某奉書の日付の推測が可能になる。つまり、この奉書の日付は、(一)の円雅書状の日付、「三月二日」を若干さかのぼった日付であるということができる。円雅が土肥実平のところへ下文の発給を要請したのは、三月二日の朝(「今朝」)であるから、この奉書が円雅のところへとどいたのは、前日の三月一日のことであったろうか。もちろん、円雅は某奉書を受けとってから、「親光使者、件日可進之由、同成約諾候了」という手間をかけているから、某奉書が円雅のところへとどいたのは、さらに前のことなのかもしれない。その日付は二月末というのが妥当なところであろうか。実際、円雅に対してそもそも「沙汰」を依頼してきた荘園領主(さきの想定によれば京都の著名寺院の僧侶)は、おそらく二月二二日前後の兵糧米停止の宣旨の噂をきいて円雅に対して鎌倉軍筋への口入を頼んできたのであろう。たとえばそれが宣旨発給の翌々日、二月二三日であるとし、円雅がそれを伝達したのがたとえば二月二四日、そしてそれに対して、Xの意向をうけて奉書が出されたのが翌日であるとすると、その日付は二月二五日ということになる。
 別の方向からこの某奉書の日付を絞ってみると、「脚力上洛以後は善悪沙汰せしと候也」とあることが注目されよう。つまり、この書状執筆の直前に頼朝の脚力が上洛してきたことになるが、『吾妻鏡』による限り、この脚力は、一ノ谷合戦の勝利(二月七日)を伝える急使が二月一五日に鎌倉に到着した後、それをうけて二月一八日に鎌倉を発して上ってきた脚力である可能性が高い。もちろん、『吾妻鏡』に使者の往来がすべて記録されているということはできないから、あるいは若干早くあるいは何度かにわたって使者が出ている可能性も高いが、しかし、いずれにせよ、この「脚力」が一ノ谷合戦勝利後の情勢に対して「鎌倉殿」=頼朝の意思を伝えたものであるとすれば、(この頃の通例として京都鎌倉間の日程が足かけ七日ほどであったとすると)その京都到着は二月二四日頃(あるいは『吾妻鏡』の記載に何らかの根拠があるとすれば二五日)であるということになろう(先述のように源雅頼は二月二七日に兼実のところへ来て頼朝の「朝務を計申す」「折紙」のことを説明しているのは、この日程計算にだいたい合致する)。そして、この某奉書は「自昨日、如此沙汰、一切被留候也」と述べているから、「二月二四日」=「脚力上洛」の日=「昨日」とすると、この書状の日付はやはり二月二五日前後に絞られることになる。
 このように日程を計算してくると、この重大な時期に、鎌倉殿頼朝の意思を直接に受けた人物、そして、それをうけて「於自今已後者、土肥許へ可仰遣候也、土肥にも自此仰遣事をハせし」と宣言するような人物、つまりこの奉書の実質的な発給者であるXは、義経その人と考えるほかなくなってくる。そして、それが正しいとすると、これまで知ることのできなかった頼朝ー義経関係が明らかになってくる。つまり、頼朝は、一方において、『吾妻鏡』にのせられた頼朝奏状(右の二月二四日もしくは二五日に京都に届いた奏状)では「畿内近国、源氏平氏と号し、弓箭に携わるの輩は、義経の下知に任せ引率すべきの由、仰せくださるべく候」として義経が木曽義仲追討のために派遣した軍勢の指導者であることを認めていた。
 しかし、他面、おそらくこの奏状と同時に京都に到着した義経宛の書状では、義経が「自昨日、如此沙汰、一切被留候也」と反応するようなことをいってきたのである。その趣旨は、この奉書に「於自今已後者、土肥許へ可仰遣候也、土肥にも自此仰遣事をハせしと候也」とあることからすると、この問題についての権限はすべて土肥実平にあるという確認であったといえるであろう。ようするに頼朝は、義経に対して、「善悪の沙汰」はすべて「頼朝代官」である副官土肥実平に委ねよ、実際の訴訟に関わるようなことをするなと命令してきたのであろう。
頼朝上洛日程
 頼朝は、義経に対して、軍事指揮官としての権威を第一とし、この段階で続々と提起される訴訟に関わるような細かなことはするなと教訓してきたのであろう。そして義経に対して、それらの訴訟について鎌倉側としての判断が必要な場合は、自身が上洛の上で処置するべきものだと示唆したのではないだろうか。そして、右の某奉書にあらわれた「脚力上洛以後、善悪沙汰せしと候也」という言明を義経のものであるという前提によれば、義経は頼朝の意向を厳密にうけとめ、それに従うという態度をもっていたように思えるのである。
 しかし、これは他面でいえば、義経の権力が裁判権力として成長していくことを牽制し、義経の権限をきわめて狭い範囲に限定しようとしていたということもできる。この点で考える上で参考になるのが、ちょうどこの時期、進行していた主殿寮年預の職をめぐる伴守方と伴基方の兄弟の間での訴訟の成り行きである(参照、千村佳代・鳥居和之・中洞尚子「主殿寮年預伴氏と小野山供御人」『中世史研究』三号)。この訴訟はおそくもこの年の二月はじめには頭弁ー職事、院庁のルートで開始されていながら、「九郎御曹司において、両方の理非を対決せらるべき」という方向に展開した。それは伴守方の息子の一人の俊重が平家郎従として西走した平家の許におり、守方が俊重に洛中の情報を流していたとされたためであったようであり、そのためもあって、結局、義経の側では問注に入らず、基方の側が「理致顕然」であると「仰せ切られ候」という結果となった。貴族官人社会の中で、義経が「理非」決断の本格的な裁判権力としての役割を期待されたというのは注目すべき事実であるが、少なくとも結果としては、義経の権力は軍事裁判の範囲を越えて、そのような道に入ることはなかったのである。
 そして、それをふまえて(元暦元年)三月十三日、梶原景時は、基方の勝訴を確認する書状を出しているのであるが、注意すべきなのは、そこで守方の処罰については「公人に候の故に、鎌倉殿御上洛を相待つところに候」と述べていることである(『平』四一六五。なお景時はこの書状を出した直後には平重衡を護送して鎌倉にむけて旅立っているはずである)。この背後には、内乱後の情勢後の訴訟について最終的な決着をつけるのは頼朝の上洛であり、それは近く実現するという認識が明瞭に現れているといってよい。それはおそらく、義経をふくめて京都に進軍した鎌倉の武士に急速に一般化していったに違いない。
木曽義高の殺戮―上洛の必要条件
 頼朝の四月上洛の予定は実現せず、実際には、一一八四年(元暦一)三月二七日に頼朝が従四位に任命され、京都の貴族社会に復帰する過程が先行した。これによって王朝国家の中での頼朝の位置をより具体的に構想する過程がはじまったはずである。
 しかし、上洛の延引の裏側にはより直接的な事情があったというべきであろう。つまり、頼朝がまず処理しなければならない問題は、一一八三年(寿永二)の春に大姫の聟として鎌倉に到着した木曽義仲の息子の義高の処遇であった。頼朝にとって、義高を娘の聟としたまま上洛することは選択の外であったことは考えてみれば自然なことである。頼朝は、一月二〇日の木曽義仲の敗死の直後から、娘の嫁をどう処遇するかという問題を抱え込んでいたのである。そして、その結論は、義高を殺害することであった。
 そもそも、。前述のように、頼朝が、義経の畿内における行政的権限、裁判権限を制約した以上、そのことは鎌倉軍の指導者としての地位を確保していた義経をどのように処遇するかに直結する。
 それ故に、「四月上洛」という計画を明らかにした段階では、殺害計画の具体化はまったなしになったはずである。もとより詳細は論証しがたいが、木曽義高が頼朝の殺意を知って鎌倉の屋敷を逃亡したのは四月二一日である。その事情は、『吾妻鏡』によれば、頼朝が「昵近の壮士」に義高誅殺を命令しているのを大姫側近の女房が「伺聞き」、それが大姫を通じて義高に伝えられたためであるという。そういう時間関係からすると、この義高に対する殺害計画が決定し、用意が開始されたのは、以前も述べたように、おそくとも、三月二七日の頼朝の従四位に任命の時には具体化していたであろう(「日本国惣地頭源頼朝と鎌倉初期新制」、『国立歴史民俗学博物館研究報告』第三九集、一九九二)。
 しかし、ともかくも、娘の聟を殺害するというのは相当の計画である。『吾妻鏡』のはは「姫公、周章し、魂を銷さしめ給う」、「愁嘆のあまり、漿水を断たしめ給う。御台所また彼御心中を察するにより、御哀傷殊に太し。しかる間、殿中の男女、多くもって嘆色をふくむ」とある。問題は、この時の大姫の年齢であって、一般には彼女はこの時五・六歳であったとされるが、それは『平家物語』(長門本)に治承四年に「姫君の二つばかりにやましましけん」という記事がみえるのによったものにすぎず、本書第四章で述べたように、大姫の誕生は一一七六年(安元二)であって、よって義高殺害事件の一一八四年(元暦一)には九歳であった。もし五・六歳であれば、『吾妻鏡』のいう「愁嘆のあまり、漿水を断たしめ給ふ」という大姫の惑乱は一種の文飾と解釈することもできようが、九歳であるということになれば、これは事実を反映していたと考えるべきであろう。実際、約二ヶ月後に、暗殺を実行した堀親家の郎従が命令をまもったのが悪いという奇怪な理由で梟首されているが、『吾妻鏡』は、それは日を追って憔悴する大姫をみた政子が「強く憤り申す」ためであると説明している。政子の怒りは事実であろうから、大姫の愁傷も事実であり、この精神的な外傷が大姫の心を不安定なものとしたというのも事実であるに相違ない。
一条忠頼の殺戮
 しかし、頼朝も必死であった。頼朝は事後処理を行なわねばならない立場であって、五月一日には義高の伴類を討つために多数の御家人を信濃国に派遣している。そして五月一五日伊勢国において逃亡していた義仲の最強の同盟者、志太先生義広を打ち取ったという報が入ったことは頼朝にとっては、義仲との因縁のすべてを解消することにみえたに相違ない。
 これに六月一六日に甲斐源氏のトップ、一条忠頼の殺戮が続く。『吾妻鏡』はこの暗殺について「威勢を振るうのあまり、世を濫さんとするの志を挿しはさむの由、その聞こえあり」とするのみで、具体的な理由にふれていない。しかし、それが計画的な騙し討ちであったことは、その実行者がこういう仕事に手練れの天野遠景であったことで明らかである。その計画は、頼朝は自分で侍所に出て、宿老の御家人のならぶ西廂に忠頼を呼び寄せて酒食を供して油断させ、工藤祐経が頼朝に酒をつぎ、それを合図として斬りかかるというものであった。祐経がおびえて顔色を変えたために手配通りにはいかなかったものの、気転をきかせた小山田有重が忠頼の注意をそらし、そこを狙って遠景が手練れの太刀をふるって誅戮は成功したという。頼朝は、それを目視しながら、忠頼の家来たちが侍所に駆け上がってくる寸前に、後ろの障子をあけて修羅場を外すという立ち居振る舞いをみせている。この殺人劇には、翌日、頼朝が、同士討ちの失敗をした鮫島四郎宗家を座前に召し寄せて、右手の指をつめさせるというヤクザさながらの処断をしていることも述べておきたい。鮫島四郎宗家は、頼朝が伊豆で旗揚げした時の四六人の武士の一人である。
 頼朝がここまでの行動をとった理由は、義高の殺戮の流れ以外には考えがたい。つまり、六月一六日実行という日程からすると、この殺人劇は、六月五日の池大納言頼盛の帰京をまって行なわれたものに相違ない。頼朝は五月から殺害計画を立てていたはずなのである。そうだとすると、四月二一日の義高暗殺との連続性を考えるのが自然であろう。とくに注意すべきなのは、五月一日、甲斐・信濃に隠れた義高の家来の誅滅のために、大がかりな軍兵の動員が行われていることである。この中で、甲斐・信濃に関係の深い一條忠頼の知人・傍輩が討伐をうけた可能性は高いと思う。もちろん、忠頼自身、義仲討伐の京都出兵に参加し、義仲の首を獲る上でもっとも大きな働きをした武士である。しかし、頼朝が一条忠頼の父の武田信義を「平家に付き、また木曾に付きて、心不善に使いたりし人にて候」と罵っていることからしても(『吾妻鏡』一一八五年(文治元)正月範頼への手紙)、義仲とさまざまな因縁があったであろう。そういうなかで、義高の暗殺に対して忠頼が不穏な言動をし、それが問題となったことは十分に考えられるのである。
Ⅲ平氏追討戦略と義経・近衛基通
義経の処遇
 以上の経過からすると、このころまで、義経は基本的には頼朝代官としての役目をふまえた慎重な行動をとっており、頼朝―義経関係は相対的に順調であったということができる。先に述べたような、義経が頼朝の猶子であり、比企尼の孫娘との婚姻を予定された御曹司としての頼朝尾家族の一員であるという合意が義朝流源氏の中枢に生きていたといってよいように思う。
 たしかにこの間の義朝流源氏にとっての最大の問題は、むしろ義朝の弟の義賢の子、木曽義仲やその他の源氏門葉との関係にあった。そして、軍事的な幸運もはたらいた結果であったとはいえ、頼朝―義仲の連携によってともかくも平氏を西走させ、その上で義仲を切り捨て、これによって義朝流源氏の地位は圧倒的なものとなった。連携の負の遺産である義高―大姫の婚約関係の解消は頼朝にとっては必然であったということになる。
 しかし、この問題は、頼朝が自己の子供との関係、兄弟関係や親族関係の姻族・親族関係をどのように組織するかという状況全体と関係しており、問題はその全体の中で考察されなければならない。もちろん、頼朝に成人した男子がいれば、その体制は頼朝の男子を中心にまわっていくはずであるが、頼朝と政子の間に頼家が誕生したのは一一八二年(寿永一)八月で、頼家はまだ三歳にすぎなかったのである。
 こういう中で後鳥羽の姻戚につらなるという身分をもち、しかも頼朝の指示にしたがって大きな戦功をあげた義経をどう処遇するかは、義朝流源氏にとって緊要な意味をもっていたことはいうまでもない。そういうなかで、三月二七日には頼朝の従四位任命が確認されており、四月には関東勢に対する勧賞の叙位・叙官が予想されていたのである。このなかで、頼朝は、五月二一日に、頼朝は、高階泰経に書状を発し、範頼・広綱・義信などをおのおの参河・駿河・武蔵の国司に推薦しているが、その中には義経を入れなかった。その承認書は鎌倉に六月二〇日に下ってきている。この時の『吾妻鏡』の記事には、「源九郎主頻りに官途の推挙を望むといえども、武衛あえて許容せられず」とある。頼朝が、義経を国司に推挙しなかった事情は不明であるが、後にもふれるが、『吾妻鏡』によれば、頼朝は「この主のことにおいては内々の儀ありて、左右なく聴されざる」という態度をとっていたという(『同』元暦元年八月一七日条)。
 問題は、この「内々の儀」なるものをどう考えるかということであるが、一般には、これは頼朝が義経を信用していなかった、あるいは軽くみていたことを意味するとされている。しかし、そこに特段の根拠はない。そもそも、最初範頼・広綱・義信の推挙は、あくまでも頼朝が武蔵国・駿河・参河国の知行主となるにともなって、範頼らを三人を受領にするということであったと考えることもできる。つまり義経に独立的な上にみてきたような頼朝―義経関係の実態からいって、頼朝が別の処遇のあり方を「内々の儀」として考えていたという判断も十分に成立するように思う。この官途の推挙の問題は、木曽義高と一条忠頼の殺戮という事態のなかで進行したことである。それは義朝流源氏の家族的諸関係の将来についてのさまざまな考慮を必然としたに相違ない。しかも、繰り返すように義経は比企尼孫娘との婚姻をひかえていた。こういうなかでの「内々の儀」は、それなりの実態をもっていた可能性が高いと思う。
頼朝「今秋入洛」宣言と源氏イデオロギー
 ともかく、六月一六日の一条忠頼の殺戮の事後処理が終わった段階で、頼朝上洛の計画の続行が幕閣において確認された。つまり、一一八四年(元暦一)七月二日の関東御教書(大江広元奉)に「一、滅金事、右、今秋御入洛あるべし、これ、かつがつ大仏修復の御知識のためなり、必ず御入洛の時、相具さしめたまうべきなり」とあるのが決定的である(『平』四一五八)。そして、重要なのは、その翌日、七月三日、頼朝が、義経を平氏追討のために西国に派遣することを申し入れたことであろう(『吾妻鏡』元暦一年七月三日条)。これに対応して、鎌倉でも派遣軍の編成が開始され、その用意は八月六日には完了し、八月八日には源範頼が平家追討使として鎌倉を出発することになる(九月一日に京都到着)。
 この頼朝の上洛の意思決定と鎌倉での出撃準備、義経の追討使任命が同時に行われたのはきわめて重要である。これは頼朝自身がすぐにでも上洛の準備を開始し、それとともに、義経に平氏追討のために西国に出張する準備を命じた(あるいは命じようとした)ことを意味する。そして、「今秋」とは七・八・九月を意味するが、実は、後に述べるように、比企尼孫娘は九月に京都の義経のもとに向かっている。つまり、頼朝上洛、義経平家追討使任命、比企尼孫娘の嫁入りは、一つのセットとなった計画であったに違いない*20。予定通りであれば、河越重頼娘=比企尼孫娘は、婚儀の後に、平氏追討将軍として出で立つ義経を見送ることになったのではないかというのが、私の想像である。これは頼朝が上洛して、頼朝自身が京都から平氏追討を直接に監督し、義経を直接に後ろから督励するということであろう。
 ここでは頼朝―義経の枢軸的な関係は基本的に変化していない。これを前提として、右の「内々の儀」を考えると、これは義経は官職上において空位にあることが望ましいという判断であった可能性が生まれる。つまり、周知のように、頼朝と義経の最初の出会いは富士川合戦の直前、三島宿に義経が登場したときのことであるが、『吾妻鏡』は、その際の頼朝・義経が「互いに往事を談り、懐旧の涙を催す」とし、さらに頼朝が曾祖父義家と、その弟新羅三郎義光の物語にふれて、次のように語ったと伝えている。
就中、白河院の御宇、永保三年九月、曽祖陸奥守源朝臣義家、奥州において将軍三郎武衡・同四郎家衡等と合戦を遂ぐ。時に左兵衛尉義光、京都に候ず。この事を伝へ聞き、朝廷警衛の当官を辞し、弦袋を殿上に解き置き、潛かに奥州に下向す。兄の軍陣に加わるの後、忽ちに敵を亡され訖んぬ。今の来臨尤も彼の佳例に協うの由、感じ仰せらる云々。
 ようするに、頼朝は、いわゆる奥州後三年合戦において、苦戦する義家を弟の義光が「朝廷警衛の当官を辞し」て参軍したという兄弟の義理*21と、義経との関係を同じものであると語ったというのである。もとより、このような談話が実際にあったものかどうかを証することはできないが、しかし、川合康が明らかにしているように*22、義朝流源氏はこのような世俗道義譚を一種の氏族神話であるかのようにあつかい、実際に後の奥州戦争では、平泉館主藤原泰衡の梟首・人殺し儀礼に「頼義故実」なるものを適用している。それは前九年合戦において頼義が貞任を梟首した際と同じ長さの釘(八寸)を用意し、その際の刑吏役の子孫に晒し首の役を割り当てるという偏執的なものである。一一八〇年代内乱においうてこの種の源氏イデオロギーが喧伝されたことはいうまでもなく、頼朝―義経の兄弟関係が、そのような通俗「美談」として語られたことは確実であろう。自身、惨酷の性をもち、それだけに逆に道義譚を好む頼朝の好きそうな話である。「内々の儀」には後にふれるようにさらに別の側面があったであろうが、頼朝の理屈は、官職・地位などを放棄して兄に奉仕せよというものであったのであろう。
平信兼と伊賀・伊勢平氏の反乱
 しかし、現実の政治軍事過程はイデオロギー通りには進まない。つまり、まず軍事情勢についてみると、同じ七月の七日、頼朝の奏状などが京都に届く前に、伊賀・伊勢の平氏を中心とした国人が蜂起し、伊賀国守護の大内惟義を攻撃したのである。彼らの動向については川合康が詳しく論じているが、すでにふれたように、このうち伊賀の平氏は、かって平氏嫡流の地位にいた小松殿重盛の家人の地位にあった。彼らは重盛の死去後、重盛の弟の宗盛を中心とする平家主流からは疎外される位置にあり、平家西走の際に同行せず、義経の義仲攻めに際して、義経の側にたって活動したのである。その彼らが、この時になって蜂起に踏み切ったのは頼朝と連携して地位を確保し、京都へ帰還してきた平頼盛に対する敵対意識にあったという。延慶本『平家物語』に、伊賀の平氏が帰京途上の頼盛を襲撃したとあるのは事実ではないが、頼盛が帰京した六月の翌月に伊賀の平氏が蜂起したのは十分な理由があるという訳である。たしかに、義仲没落後の情勢のなかで鎌倉軍が確実な地歩をしめるなかで、彼らが乾坤一擲の挙にでたというのは了解できる点がある。
 この中で、義経は、義仲打倒において共同した伊賀・伊勢の国人と戦うというむずかしい立場に追い込まれることとなった。とくに、蜂起の中心となった北伊賀の平氏たちのみでなく、鎌倉が南伊勢の平信兼の一統の打倒を命じたことは、義経の判断とは大きく異なっていた。『吾妻鏡』によれば、頼朝は大内惟義の使者の口上をきいて、八月三日に義経に対して信兼の一族を逮捕し殺害せよという命令を下している。その飛脚は京都に八日頃にはついたであろうか。おそらくそれをうけて、結局、義経は八月一〇日に信兼の子息、左衛門尉兼衡・信衡・兼時を自分の私邸に招き、自害させ、あるい斬り殺すという行動にでざるをえないことになった。しかし、平信兼らが北伊賀平氏を中心とした大内惟義攻撃に参加したという証拠はなく、また義経は平信兼とはむしろ親密な関係にあったという。実際、義経が信兼子息に自害を言い含めた(「子細ある事を示す」、『中山忠親日記』元暦一年八月一〇日条)ということからして義経と信兼父子の間には本来は相当の信頼関係があったというのが川合の指摘である。
 また、さらに問題が大きかったのは、こういう事態の展開のなかで、義経が、八月六日に後白河院から検非違使・左衛門少尉に任命され、「使宣旨」をうけたことである。義経からいえば、急に発生した伊賀平氏の反乱を抑圧の渦中に行われた任命を拒否することには躊躇があったということであろうか。川合によれば、実際、京都では伊賀平氏の反乱には平信兼の参与はなかったという見方が一般的であったというが、義経による信兼子息のだまし討ちの直後に信兼に対して解官宣旨がでているというような朝廷側の動きは、義経の任官を一つの条件としていたかもしれない。そして、義経は、信兼子息を殺害した二日後、一二日に、伊勢国に出陣し、伊勢山中の滝野城に籠城する信兼を攻撃して、自殺に追い込んだという。
 ここには、鎌倉と出先の京都のあいだでの軍事的な判断が食い違うという問題が存在した可能性が高い。義経にとっては、義仲討伐の初陣のときに配下に組織した伊勢国人の中心人物を鎌倉の判断にしたがって誅殺したというのは、子飼いの従者組織をもたない義経にとっては残念な経験であったことは明らかであろう。ここに頼朝―義経関係に齟齬が発生し始めたとすれば、おそらく、そのターニングポイントはここにあったのであはないだろうか。
摂政基通との縁組み問題と比企尼・惟宗忠久
 軍事情勢のみでなく、政治情勢の側でも、この時期は頼朝にとってきわめて急な展開があったものと考えられる。それは頼朝上洛の奏状の京都到着のころ、後鳥羽の摂政・基通が頼朝の娘、大姫を嫁とするという計画が動きだしたことである。これは『兼実日記』の八月二三日状に「伝え聞く、摂政(近衛基通)、頼朝の聟たるべしと云々、是法皇の仰せと云々、よって五条亭を修理し移住せらる、頼朝上洛の時、新妻を迎えんがため云々」という噂が記録されていることから知ることができる。
 問題は、この「摂政、頼朝の聟たるべし」という命令が後白河院によるものであったことであって、しかもここに「五条亭を修理し移住せらる」とあるのは、すでに修理の大概が済んで基通が五条亭に移住したことを示していることである。これは修理と移住の時間を考慮すれば、七月中には、後白河院の側でこの嫁取り計画が発起されたということを意味する。つまり、七月二日に発せられた大江広元奉の関東御教書、またはその前後の奏状は七月一〇日前後に京都に届き、頼朝の「今秋上洛」計画が明らかになったであろう。そうだとすれば、この婚姻計画はこれとあわせて明らかにされたものであるということになる。そして、この摂政基通を聟取れという後白河の指示は、八月には鎌倉に届いていたことになるだろう。
 もとより、基通は一一六〇年(永暦1)の生まれであって、この年、一一八四年には二五歳。後鳥羽の摂政という地位にあって、頼朝の聟として身分格式の上では何の問題もない。また頼朝は娘の聟であった木曽義高を殺戮したという乱暴な行動を行っていた。これは全国戦争に勝利したのちには、どのような聟取りであろうと可能であるという、高望みの希望を背景としていたに違いないが娘・大姫を傷つけるものであったことはいうまでもない。そういう点からいえば、これは双方にとって願ってもない話であったということになるだろう。
 しかも、問題は、これが後白河の恣意ではなく、基通と頼朝の乳母比企尼との間での何らかの接触をもとにしていた可能性が高いことである。つまり比企尼の嫡女・丹後内侍の先夫は近衛家に世襲的に仕えた惟宗氏の一族の惟宗忠康という人物であったが、二人の間の子どもの忠久はやはり「忠」を通字として都に上って近衛家に仕えていたという*23。ようするに、比企尼の一族と近衛家の間には密接な連絡があったのである。この惟宗忠久こそが、島津忠久であって、しばらく後に忠久が、伊勢国須可庄・信濃国太田庄・薩摩国島津庄などの近衛家領でを所領としたのは、その関係によるものであった。こう考えると、先にふれたように、この年、一一八四年(元暦一)の二月に近衛基通が使者を頼朝のもとに発遣したというのは、この所縁を前提としていたということになるだろう。木曽義高に対する措置をみた比企尼などの女性たちが、こういう所縁を重視して、摂政基通と大姫の婚姻が大姫にふさわしいものと考えた可能性はきわめて高い。
 忠久が鎌倉に下ったのはいつのことか不明であるが、彼が、最初から近衛家と鎌倉の間をつなぐ位置にいる人物として鎌倉に下ったのであろう。普通、頼朝は最初から九条兼実と関係が深く、近衛基通との関係を好まなかったとされているが、それは問題の単純化であろう。たしかに頼朝は一一八四年(元暦一)の二月に四箇条の徳政の奏状を提出した後に、何回かにわたって、摂政として九条兼実を推薦している。しかし、この年の十一月には「摂政之辺人、余の事を頼朝に讒す」ということがあったために、摂政になることができなかったと慨嘆しているのである(『兼実日記』元暦元年十一月三日条)。これは源雅頼の情報であり、確度の高いものといわなければならないが、兼実は、これについて「国の重事、田夫・野叟の詞に懸かるの条、悲しみて餘あるものか」と述べている。忠久がこの「摂政の辺りの人=田夫・野叟」がであった可能性はきわめて高いだろう。
 もちろん、この比企尼、そしておそらく政子もかんだ縁組み話は頼朝にとっては痛し痒しという側面をもっていたろう。つまり、周知のように、基通は後白河の男色相手として世渡りをし摂政の地位をえた人物であって、それは鎌倉においてもよく知られていたはずである。もとより、院政期において王権中枢部における男色は日常茶飯のことであったから、そこで問題となったのは後白河や基通の性情でも、娘の大姫の感情の問題ではない。頼朝にとっては、京都に上洛した後に、その結果として娘が後白河―基通の直接の身体的な支配の下に入り、それを通じて自己の権力基盤も院側に握られることはかららずしも好むところではなかったに違いない。これが最初から頼朝の選択肢のなかにあったとは思えないのである。それが自己の権力が、清盛の権力よりもさらに格下の権力として位置づけられるということであることは頼朝にも重々わかっていたはずである。しかし、それが正式に提案され、しかも京都において頼朝入洛と大姫婿取りを前提とした基通亭の新築が進んでいることは、頼朝にとって無視できることではなかった。
義経の検非違使任官問題
 しかも、さらに問題なのは、別稿でみたように、遅くともこのころ、この基通婿取り問題の中枢にいた惟宗忠久と義経の間に一定の関係が生まれていた可能性が高いことである。つまり、頼朝の娘の大姫と基通のあいだの縁組みの話が京都で話題になったのは、前述のように、この年の八月二三日であるが、ほぼそれと同時に比企尼の孫娘と義経のあいだの婚姻準備が進んでいたのであるから、基通の従者であり、比企尼の近親である惟宗忠久が、この京都・鎌倉のあいだでの二つの縁組みの機微を知る立場にあったことは疑いない。しかも、しばらく経ってから惟宗忠久は頼朝の下文で伊勢国須可庄と波出御厨の地頭職をあたえられているが、須可庄は近衛家領であって、忠久がその地頭職をあたえられたのは忠久が近衛家の家礼であったためであることは明らかである。問題は、須可庄と波出御厨は平信兼の所領であったことであって、別に詳しく論じたように、彼が義経によって殺された八月一二日以降、忠久は、主人筋の近衛家との関係もあって、これらの荘園の沙汰をっていた義経の沙汰によって、これらの荘園の下司に任命されたことである。
 これは義経と基通のあいだにも相当の関係がめばえていた可能性を示している。そもそも九条兼実の日記をみていると兼実と義経のあいだにはほとんど接触がない。これは兼実の事大主義的な姿勢が頼朝との関係以外には武家との関係をとろうとしなかったことを示しているが、大姫を嫁とするという姿勢からみても、基通の姿勢がそのようなものであったとは考えがたい。むしろ基通が義経との接触を求めた可能性は高いだろう。
 そして、有名な義経の検非違使任官問題が、この基通と大姫の縁組み話とほぼ同時期に問題となっていることは注目されるところである。つまり、基通と大姫の婚姻をみとめという後白河の意向が八月のいつ頃、鎌倉に届いたかは明瞭ではないが、たとえば、八月半ばであるとすると、それは八月一七日に義経の使者が、後白河院の仰せによって、検非違使・左衛門少尉に任命されたことを報告し、頼朝の怒りをかったという有名な事件と時期的にかさなってくるのである。使者は「固辞す能わず」という事情を述べたというが、『吾妻鏡』によれば頼朝の怒りは次のようなものであった。
このこと、頗る武衛の御気色(みけしき)に違(たが)う。範頼・義信などの朝臣(あそん)の受領(ずりょう)の事は御意より起き、挙(こ)し申さるるなり。この主(ぬし)のことにおいては内々の儀ありて、左右(そう)なく聴されざるの処、遮(さえぎ)って所望かの由、御疑いあり。凡そ御意に背かるるのこと、今度に限らざるか。これにより、平家追討使たるべきの事、暫く御猶予あり(『吾妻鏡』元暦元年8月17日条)。
 従来の普通の見方では、この事件が義経と頼朝の間が険悪になった最大の理由であるとされてきた。つまり頼朝は武家政権樹立のために全体的戦略を熟考していたのに対して、義経はよく考えず、軽薄に後白河の策略にのって院の側に取り込まれた、頼朝はそれに対して激怒したという訳である。しかし、これについてはすでに菱沼一憲・近藤好和・元木泰雄*24などによって必要な批判がされており、なかでも近藤の解釈は明解で、頼朝は、検非違使の職は役職上は京都を遠く離れることができず追討使のような仕事とは相容れないと判断したのだという。その可能性は高く、とくに付け加えておきたいのは、先述のように頼朝が新羅義光の事例を頭において、義経にも一定の注意をしてあったということである。頼朝はその期待に反したとしてへそを曲げたのだろう。
 さらに不満だったのは、院側の義経を取り込む動きが、基通と大姫の婚姻という頼朝の家庭問題と重なるようにして、京都から伝わってきたことであろう。すでに義経が院の最大の近臣である基通に接触していたということになれば、これに頼朝が神経をとがらすのも当然であったかもしれない。頼朝は、これを自己の取り扱い自由な手駒である義経に紐が付けられたと感じたのであろう。
 これはようするに、義経・頼朝の二人が直面している政治的・軍事的な状況の違いということである。義経にとっては後白河院や基通との接触は必要なことであり、また軍事情勢を切り抜けるためには検非違使任官もやむをえないものであったろう。こういう齟齬が徐々に当事者の間隙を広げていくのは、この時期の流動的で激変する軍事政治情勢のなかでは必然的なことであったといわねばならない。
 しかし、ともかくも、義経は関西における事実上の最高指揮官である。先にもふれたように、すでに義経に対しては、一一八四年(元暦一)二月一六日に、「洛陽警固以下の事仰せらるる」という頼朝の命令が発せられている(『吾妻鏡』元暦一年二月一六日条)。京都進駐体制のなかで最初から義経は「洛中警固」の責任者として位置づけられているのである。義経がその地位にもとづいて、事実上、徐々に西国への大きな権限を行使し始めていたことは疑いをいれない。もちろん、この「洛中警固」の命令は、土肥実平・梶原景時に近国の「守護」を仰せ付けるのと同時に発せられたもので、義経の権限は原則としては軍事警察権限に限られていた。頼朝が義経に対して、もっぱら軍事指揮者としての位置を守り、瑣事に関わるなという指導を行っていたであろうことは、新資料にもづいて先にも述べた通りである。しかし、そうはいっても、義経が徐々に畿内近国に対して領域的な権限を握り始めたであろうことは疑いない。頼朝は、それに神経をとがらせたであろう。
義経への京都沙汰権付与
 こうして頼朝と義経の間に徐々に齟齬と矛盾が蓄積されてきたのは明らかである。しかし、それは、少なくとも、この段階では頼朝と義経の間の矛盾は顕在化していない。二人の関係には一定の復元力が働いているのである。
 義経が頼朝の指示通りに信兼一統を殺害したことを報告する使者は八月二六日鎌倉に到着し、また八月初旬に鎌倉を発った範頼は、八月二七日に入京する。朝廷が範頼の入京前の八月二六日に義経に平家追討使の官符を下しているのは、朝廷側の造意があった可能性はあるが、これは鎌倉も了解していた、あるいは了解可能なことであったろう。右の八月段階の『吾妻鏡』の記事では義経について「平家追討使たるべきの事、暫く御猶予あり」とあるが、その「御猶予」はいちおうは帳消しになったといってよい。範頼が続いて八月二九日に朝廷から平家追討使の官符をうけ、九月一日に京をでて西国にむかっているのは予定の行動というべきであろう。
 しかも、頼朝は、九月九日に、次のような事書状を京都の義経に送った。
 平家没官領内
  京家地事、
 未致沙汰、仍
 雖一所、不充賜
 人也、武士面々
 致其沙汰事、全
 不下知事也、所詮
 可依 院御定也、
 於信兼領者、義経
 沙汰也、
       御判((頼朝花押))
 いきなり事書からはじまり、日付もなく、頼朝の花押だけで署名もないという略式文書であるが、これについては東島誠が「義経沙汰没官領」が頼朝の下で承認されていたこととにふれて明快な説明を行っている*25。以下、それにそって議論するが、まず右にかかげたものは、東島が注目した前田家本の『吾妻鏡』を行替の様子をふくめてそのまま翻刻したものである(史料編纂所架蔵写真帳『東鑑抄』)。この頼朝状は事書状ともいうべきものであるが、これが折紙に書かれていたことは確実であり、頼朝は、しばしばこういう事書状を発給した。筆記者は折紙に頼朝の確認するまま、頼朝のいうままに書き下ろしたのである。
 この文書はそれ自体としては、没官された平家領の京都の家地について、「武士面々」が沙汰をすることを禁じ、すべては「院の御定め」であるとして、その遵守を義経に命じたものである。しかし、「院の御定」を斟酌し、院の定めを実施する権限、あるいは院の御定めについて鎌倉との間を仲介する権限を義経に認めているように読める。「京家地の事」について、「これまでは沙汰をしておらず、一所たりとも、人に充て賜ふことをしてないが」として、「所詮、すべては院の御定めである」と通知したということは、その中間で何らかの沙汰をすることを容認したように読めるのである。信兼領については義経の軍功に関わるものとして権限を明確に認めているのも、そのような推測に合致すると思う。そして、この文書を説明した『吾妻鏡』の文章は「出羽前司信兼入道已下、平氏家人等京都地、源廷尉の沙汰たるべきの由、武衛御書を遣わさる」(『吾妻鏡』元暦元年九月九日条)と述べている。私は、これが自然な読み方であると思う。
 つまり、これは、頼朝が、義経に対して、平家没官領のうちの京都の家地および信兼の所領について、前者には一定の、後者には基本的な「沙汰」権を認めた文書なのである。これは検非違使に任官した義経に対して、頼朝がそれを支える独自の京都支配権限をあたえたということを意味する。平家没官領のうちの京都の家地の沙汰権を認めたものに過ぎないとはいっても、これは義経が畿内を支配する上での法的な根拠を圧倒的に強化した。
 もとより、義仲を倒滅した義経が、「洛陽警固以下の事」への権限をすでに認められていたことは、すでに述べた通りである(『吾妻鏡』元暦一年二月一六日条)。京都進駐体制のなかで最初から義経は「洛中警固」の責任者として位置づけられているのである。もちろん、この命令は、土肥実平・梶原景時に近国の「守護」を仰せ付けるのと同時に発せられたものであるが、しかし彼らは畿内に常駐した訳ではなく、任国に下ったり、あるいは転戦し、あるいは鎌倉にもどるなどの状態である。そして、何よりも重要なのは、三月、伊賀に大内惟義、伊勢に大井実春、四月、尾張に大屋安資、五月、讃岐に橘公業が守護に任命されることであろう(なおこのほか越前に比企能員が補任されている)*26。つまり、この時期、畿内周辺の各国には別個に守護が補充されていったのであるが、それにも関わらず、山城・大和・河内・和泉・摂津の畿内五国と、近江・丹波の二国、計七ヶ国には守護が補任された様子がみえないのである。これは、実際上は、この七ヶ国については義経の広域的な支配の展開を容認するということである。そして、この七カ国が義経を追って入京した北条時政の「七カ国地頭」についてかって想定したものと一致することが注目されるのである。北条時政の七カ国地頭は直接に義経の畿内近国支配権をうけたものではないだろうか。
 義経が、その軍功を背景にして広域的な権力を展開することは必然であった。こうして、義経は、平家追討に出発する翌年一一八五年(文治一)一月までの間に、少なくとも実態としては、京都と畿内に対して平家と同じような惣官職的支配を展開することになったと考えられる。頼朝は、義経に対して、もっぱら軍事指揮者としての位置を守り、瑣事に関わるなという指導を行っていたが、そのような存在として義経を担ぎ上げるためには、義経の下に頼朝子飼いの吏僚を配置することが必要であったろう。しかし、頼朝はそのような体制を作った訳ではない。義経自身がそのような体制を徐々に作ることは必然であった。しかも、頼朝は、この時期、一貫して上洛することになっていたから、義経が事実上展開していた惣官職的な権力は頼朝がそのまま受けとるということになっていたはずである。その意味でも義経の下で、畿内支配が実現されるとことは、実質上、ある範囲内では容認されていたと考えるべきであろう。
重頼娘の京上と内々の儀
 しかも、九月九日に、この平家没官領の京都の地の沙汰権付与の折紙を発した五日後、九月一四日、義経の許婚と定められていた河越重頼娘が鎌倉を出発して京都に向かっている。この時間関係からいって、おそらく、右の平家家地・信兼領に関する頼朝書下状は、この河越の娘が義経のもとに持っていったの可能性は高い。もちろん先行した使者がもっていったかもしれないが、いずれにせよ、これはいわば重頼娘の嫁入り道具であったということになるだろう。
 この点からいっても、頼朝は義経に対して不満がなかったとはいえないとしても、義経を自己のもとに取り込もうとしていたことは明らかである。『吾妻鏡』は「河越太郎重頼の息女上洛す。源廷尉に相嫁さんがため也。これ、武衛の仰に依る。兼日に約諾せしむと云云。重頼の家子二人、郎従三十余輩、これに従がって、首途すと云々」としている。ここに「これ、武衛の仰に依る。兼日に約諾せしむ」というのは、この婚姻が頼朝の意思に発し、かつ頼朝と義経の間でかねてからの約束であったことを明示している。これは事実を反映しているとすべきであろう。
 問題はこのようにして義経が頼朝の義理の子ども、猶子であるだけでなく、頼朝の乳母の孫の夫となることは、頼朝と義経の政治的関係のあり方に直結していたはずであるということである。しかも、頼朝の上洛は同時に頼朝の家族の上洛であり、大姫と頼家の上洛(それ故に縁組み)をも意味していたであろう。とくに大姫の問題は、木曽義高や近衛基通との経過からしても長く放置できる問題ではなかったろう。ようするに義経の処遇は頼朝がどのような家族的・親族的関係をもって西国の中枢を握る科という問題に直結していたはずである。また、頼朝の上洛が京都の宮廷社会への参加、畿内支配の掌握、そして京・畿内を拠点とする平氏追討の主導と結びついていたこともいうまでもない。
 このなかに、義経をどのように政治的に位置づけるかは義朝流源氏の権力全体にとって重大な問題であったはずである。これこそ、先にふれた頼朝が義経の官途に関係して考えていたという「内々の儀」に関わるのではないだろうか。もちろん、現実の歴史が義経を排除する方向で進んだ以上、これまでこのような問題が立てられたことはない。しかし、政治史において、これは現実に重大な問題として存在した以上、できる限りの推測を行うべきものであることは明らかである。そして、頼朝の上洛が京都の宮廷社会への参加を意味するとすれば、もっともありうべき推測は、まず頼朝が義経の補助をうけつつ、対平氏戦争の前線指揮をとるということであろう。そして、その後、頼朝が京畿内を握るとすれば、義経は関東にもどって関東の主となるという構想ではないだろうか。前述のように「内々の儀」なるものが義経を無官のままに置くことを前提としていたとすれば、義経は京都で出仕することを予定されていなかったことを示すように思う。ここにあるのは、ようするに、西国と東国を兄弟が分掌するという足利尊氏・直義の兄弟が構想し、結局は直義の倒滅によって、尊氏の子どもの兄弟――義詮と基氏が第二代将軍と初代鎌倉公方として全国を兄弟で支配したという兄弟による権力分割のスタイルである。私は、一三三三年(元弘三)に尊氏が直義に成良親王を奉じさせて鎌倉執権として東国に下した時、頼朝・義経の関係が想起されていたのではないかと考える。
 河越重頼の娘は、このようなありうべき可能性を祖母比企尼ー母ー父重頼を通じて、また鎌倉の世評を通じてうかがい知っていたに相違なく、また義経も重頼娘との婚姻という頼朝との「兼約」の実現が意味する、いくつかの可能性について重々考えていたに相違ない。
義経の叙留と広元
 なお、この時期の頼朝と義経の機微を伝えるのは、義経が九月一八日に左衛門少尉を叙留されたという報告が大江広元を通じて頼朝に伝わっていることであろうか(ただし「大夫尉義経畏申記」(『群書類従』巻一〇八)には九月三日叙留とある。あるいはそれは内示を意味するのであろうか)。叙留とは職を留めたまま位のみを昇進させる特例優遇措置をいうが、河越重時娘が京都へ向かっている途中に、院からの指示で、義経は検非違使の職はそのままで優遇をうけたのである。『吾妻鏡』はその様子を「因幡守広元(九月十八日任。)申して云く、去月十八日、源廷尉叙留。今月十五日に院・内の昇殿を聴すと云々。その儀、八葉車に駕し、扈従の衛府三人、共侍廿人、(各騎馬)、庭上において舞踏し、剣笏を撥し、参殿上に参ずと云々」(元暦一年一〇月二四日条)と記されている。『吾妻鏡』は大江広元の許にあった記録を参照していることが多いというが、これも同様であろう。これはおそらく義経が検非違使補任で頼朝の機嫌をそこねたことを知った義経が、五位への叙留について自身で頼朝に報告することを憚り、広元を頼って、それを報告したものであろう。『吾妻鏡』を読むと義経は、この件を頼朝に対してまったく黙って隠しているかのように読めるが、それは『吾妻鏡』が詳細を省略し、頼朝・義経関係の詳細に踏み込むことをしなかったと考えるのが妥当であろう。もちろん、そうではなく、広元が同日に因幡守となっていることを重視して、広元の許に除書が届けられたときに、義経の叙留の情報が届けられたと考えることもできるが、それは広元が義経についていわば「密告」したということになる。しかし、それは広元・義経関係の実際にあわないように考える。
 こうして義経は、無事、十月十一日に拝賀し、勤務履行を誓約しているのである。野口実が分析しているように*27、「大夫尉義経畏申記」によれば、この儀式には義経の郎等の面々が顔をそろえており、これは義経の軍事警察力が京都において正式に披露されたといってもよい儀式である。そして、その実施を知りながら、頼朝は、『吾妻鏡』によれば、一一月一四日になっても、頼朝は御家人にあたえた西国所領の「沙汰付」を義経に命じている。もとより双方の関係を状況証拠から論ずることには一定の制約があるが、しかし、両者の関係は、このころまでは維持されていたと考えるべきであろう。東島は「義経の在京は頼朝の必要性から説明しなければならず、範頼を西海道追討使に、義経は畿内近国で検非違使にというのが当該期の頼朝の構想だった」と述べているが*28、少なくとも頼朝の当面の判断はそういうものであったに違いない。ただ、義経としては頼朝の当面の判断をどこまで信頼したかはわからない。「兼約」の妻をえたとはいっても、次の役割がどうなるのか、問題は微妙だったのであろう。
まとめ――頼朝・義経の矛盾の発動
 以上が、義朝流源氏において、義経が頼朝の御曹司という立場にいて両者の関係が中軸的な意味をもって良好であった時期についての概論である。この後、翌一一八五年(元暦二年)正月一日、右の拝賀をへて、義経は正月の初出仕を行ったが、その七日後、院近臣高階泰経を通じて西国出陣の意思を院に告げた。宮田敬三がいうように*29、これは頼朝の指示によらない義経の独断であったと考えられ、以降、両者の関係は矛盾と激発の道を辿ることになった。
 この背景には西国戦線の膠着状態があったことはいうまでもないが、周知のように義経は二月には讃岐屋島の平氏を追い、さらに三月には壇ノ浦合戦で平氏一門で勝利をおさめた。しかし、その直後から義経との関係は決定的に悪化した。義経は京都を発って鎌倉にむかい、大江広元のもとに有名な腰越状をたくして、頼朝との関係の修復を目指したが、頼朝はそれを拒否したのである。軍事と政治には様々な偶然性がはたらく以上、このような経過のすべてを合理的に説明することは本質的にむずかしい。とくに義経が、何故、頼朝の指示を仰がず、出陣したのかは、それが軍事的決断であるだけに、史料によって論ずることはできないだろう。
 それは、この時点の政治状況、つまり、前年一一八四年に重頼娘が京都にのぼった九月下旬以降の京都――鎌倉政局の理解から出発するほかない。そしてその中心は頼朝上洛という動きが、九月以降まったくみえなくなることであろう。前述のように、大江広元が奉じた七月二日の関東御教書には「今秋御入洛」の予定が述べられ、それは義経平氏追討使任命、比企尼孫娘の嫁入りなどと一連のものであったのであるが、現実には、以降、頼朝は上洛に動くことはなかったのである。これはまず頼朝と鎌倉権力が、平氏に対する軍事的優位は揺るがないと見切ったことを意味している。それは関東から畿内までを掌握しきったという判断にもとづいているだけに現実的な判断であった。また彼らは、宮廷政治において安徳が天皇としてもどり、後鳥羽が廃位されることはありえないと観測していたに相違ない。
 これにもとづいて頼朝はいわば上洛を無期延期したのであって、これ以降、頼朝は、基本的には上洛を中心的政治戦略とすることを放棄したのである。それは当然のことながら、頼朝が大姫と基通の縁組みを明瞭に拒否する姿勢をとったことを意味する。それを比企尼や政子、さらに大姫自身がどのように受け止めたかはわからないが、頼朝にとっては女性たちの意向や娘の意思は二の次、三の次の問題であった。頼朝にとって、この問題は現摂政の近衛基通を選ぶか、あるいは右大臣九条兼実を選ぶかという問題であって、頼朝は中原(大江)広元―中原親能―源雅頼のという従来からの京都政略ルートにそって、明瞭に兼実を後鳥羽の摂政として推挙するという路線を選択したのである。
 それが正確にいつのことであったかは不明であるが、前述のように、十一月、兼実が「摂政の辺りの人、余の事を頼朝に讒す」ということがあったために、「奏聞の大事、黙止し了」という結果になったことを兼実が慨嘆していることが重要であろう(『兼実日記』元暦元年十一月三日条)。ここにはそれ以前に兼実を推挙する動きがあったこと、しかし、一面、鎌倉の内部で兼実を選ぶか、基通を選ぶかについて一定の揺れがあったことを示している。それが比企尼―惟宗忠久の動きであった可能性は高いと重う。しかし、すぐ後に頼朝が兼実について「これ社稷の臣と知る」と述べたという情報が伝わってきているように、頼朝が、最終的に基通から離れたこと、それ故に、基通を聟にするという選択を拒否したことは、後の経過からして明らかなのである。これは頼朝(そして広元)が、頼朝自身が上洛におよぶまでもなく、兼実を傀儡として京都政局を掌握しうると判断したことを意味している。京都政局はむしろ遠隔の鎌倉の地から間接的に統御する方が面倒がないという政治判断が働いたのである。
 これは頼朝がいわゆる「東国国家」を自己の拠点として維持する路線を確定したことを意味する。周知のように頼朝は富士川合戦の直後、そのまま京都に攻め上ることを主張したが、上総広常ほかの東国の豪族武士は東国内部で平家方の武士あるいは向背を決めていない武士を打倒することを優先するという方針を承認した。別に述べたように*30、この時の広常の主張はたしかに関東自立の主張であるが、しかし、それは佐藤進一のいう両主制、つまり地域権力をになう武家権門の上に親王をいただくという構想であって、その下部構造はきわめて伝統的な性格をおびており、広域権力の下の個々の領主制の自律を前提としていたということができる。これに対して、この時期の鎌倉権力を佐藤進一の議論にしたがって東国国家と規定するのは、この地域国家が全国的な国家的権限を確保した上で存在する広域権力であり、それ自身が内部的にのみでなく、外部的にも強い国家性を確保していたためである。
 義経は、いち早く、この頼朝の方針転換を察したに相違ない。史料には現れないものの、この段階における齟齬や食い違いが、頼朝・義経の関係を決めたのである。前述のように、私は、頼朝が上洛して京都の宮廷社会に参加し、義経が畿内で展開した惣官職的な広域支配をうけつぎ、義経は関東にもどって関東の主となるという兄弟による国土分割の構想が存在したのではないかと考えるが、頼朝が東国に居続ける以上、そのような選択はありえないこととなった。こうして、義経が頼朝への継承を前提として構築した畿内に対する惣官職的な支配権の行方をめぐって、一種の腹の探り合いがあり、軍事情勢の膠着を条件として、義経の側が行動に出たというのことなのであろう。それに対して、頼朝は義経の独断をとがめた。そして、勝利の後に席をあたためる間もなく、鎌倉に下って面会をもとめた義経に対して、その軍功を一顧だにせず追い返したのである。
 こうして頼朝・義経の兄弟の間での激烈な闘争の幕が切っておとされ、これが鎌倉権力内部の紛議が、つねに国土高権の分割をめぐって展開する最初の事例となったのである。没落する義経・行家が京都を退去するにあたって、「九国地頭」「四国地頭」の地位に対応する院庁下文を獲得したことは、その証拠である。それは頼朝の長子、頼家の死の前後の紛議が「関東二十八ヶ国地頭ならびに惣守護職」を自分の長子の一幡にゆずり、「関西三十八ヶ国地頭職」を弟の千幡(実朝)にゆずったことに発したことと事情を同じくする。その他、梶原景時が鎮西管領、阿野時元も東国管領の宣旨をもって蜂起したように、国土高権の分割の問題は幕府権力にとってもっとも根本的な問題なのである。頼朝の義経に対する処断は、そこに関わるものであったことは明らかであろう。
 義経は、このような問答無用の対応は考えていなかったのであろうが、私は義経の側の行動でもっとも頼朝を激発させたのが、義経が比企尼孫娘を京に迎えた後、大姫の聟候補である近衛基通とのあいだの関係をふかめたことがあったのではないかと推測している。義経が、比企尼ー惟宗忠久を所縁を媒介として基通と接触をもっていたであろうことはすでに述べた通りであるが、義経の検非違使としての地位が叙留・拝賀・正月出仕と続く宮廷に関わっていくなかで、それを強化することは義経の地位からして必然的なことであったのではないだろうか。頼朝の上洛が無期延期となるという状況のなかでは、畿内権力を担う義経にとってそれは自然なことであったように思える。実際、義経の没落後のことではあるが、一一八六年(文治二)一月二六日、「伊予守義経謀逆の事により雑説あり」という理由で、頼朝は基通の摂政辞任を奏上している(『吾妻鏡』文治二年一月二六日条)。こうして、兼実が基通に代わって待望の摂政・氏長者の地位につくことになったのであるが、そのしばらく後の五月初め、義経と行家が院と基通の家中に潜み兼実を夜討するという噂が飛ぶということになっているのである。『吾妻鏡』のいう「雑説」の中身を詳しく知ることはできないが、しかし、この関係は、相当にさかのぼると考えて問題はない。頼朝は、このような義経の動きを、自己の専権に関わる朝廷への政治路線選択に介入するものと受け止めたに相違ない。そして、それが自分の家中の微妙な問題に関わるように噂されることは確実に神経にさわったのであろう。
 頼朝は、こういう経過の中で大姫を後鳥羽の嫁とするということを考えはじめたに相違ない。摂政は駄目だから、天皇の嫁にするという訳であるが、端的に言えば、それは頼朝が義経を切り捨てることによって義朝流源氏の内部において唯一者の立場につき、列島の全域の支配者として屹立しようという野望にとらわれたというのと同じことであろう。頼朝・義経の対立には、その他、義経が深い縁を結んでいた平泉権力に対する態度の相違があったものと考えられるが、ともかく、結果として、頼朝は、義経の行動を利用するかのようにして、「日本国惣地頭」の地位を獲得し、それにともなって東国国家を確立したのである。
*1「義経・基成と衣川」(入間田宣夫編『平泉・衣川と京・福原』高志書院、二〇〇七、所収)。また義経の身分的地位一般については保立『義経の登場』(NHK出版、二〇〇四)を参照。
*2この鎌倉・京都の間の使者の日程については、新城常三『鎌倉時代の交通』(吉川弘文館、二七六頁)を参照。軍事通信の速度は特別のものがあると考える。なお内乱期における「駅路の法」については保立「中世の遠江国と見付」(『中世都市と一の谷中世墳墓群』名著出版、一九九七年)を参照されたい。
*3河内祥輔『頼朝の時代』(平凡社選書、一九九〇年)注七一参照。
*4本書第二部第一章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」一節(2)
*5佐藤『日本の中世国家』(岩波書店、日本歴史叢書、一九八三年)七四㌻。なお、この要請が折紙でなされたことも、頼朝の京都への介入文書の原型を作ったという意味で重要である。
*6「折紙条々」という形式をとった奏状が、重要な政策メモである場合は、しばしば頼朝の祐筆トップ、大江広元によって執筆されたように思われる。たとえば、翌年、約四ヶ月半後になるが、一一八四年(寿永三)二月日の頼朝奏状は「朝務等事」「平家追討事」「諸社事」「仏事間事」の四ヶ条からなる折紙であって、広元によって執筆されたと考えることができる(『吾妻鏡』寿永三年二月二五日条、『九条兼実日記』三月二三日条。なお、上杉和彦『大江広元』は、『吾妻鏡』の記述と『兼実日記』の記述が全面的に照応しないことによってであろう、この折紙の筆者を広元と断定するのを避けている。しかし、院への奏状にはこの奏状のほかに人事に関わるより機密に属するものがあったと考えれば十分に断定は可能である)。これは第一条の「朝務事」が「右、先規を守り、徳政を施さるべく候」、「諸社事」は「我朝は神国なり」と始まっており、その点で類似したものということができる。後者が広元の執筆であることが明かである以上、前者も広元である可能性が高いだろう。もちろん、問題は、史料による限り、広元がいつ鎌倉に下ってきたのかがわからないことである。しかし、一一八二年(寿永一)までは『吾妻鏡』に広元の名前がみえないこと(寿永二年はいうまでもなく、『吾妻鏡』欠巻)、また広元が一一八三年(寿永二)四月九日に従五位下に叙されていることからして、この年四月頃までは京都にいただろう。他方、右にふれた四ヶ条の頼朝奏状が執筆された一一八四年(寿永三)二月には鎌倉にいたことは確実である。そして、この二月の奏状は、頼朝が鶴岡八幡宮に七日間も籠もって祈祷をした上で、八幡宮の宝前で広元によって執筆されたとおぼしいから、広元がそれだけの信用をえていたこととなり、そこから考えて、広元の鎌倉下向は、その相当前と推定されるのである。目崎徳衛「鎌倉幕府草創期の吏僚について」(『三浦古文化』一五号、一九七四)は広元の下向を一一八三年(寿永二)年末と推定するが、この状況からみて、問題の折紙三ヶ条の書かれた九月二〇日頃に広元が鎌倉にいた可能性は十分にあると考える。目崎地震が強調するように頼朝は本来中原氏との縁が深く、ここからしても、さらに早い時期の下向を想定することに問題はないように思う。なお、広元の役割・性格については林譲「大江広元とその筆跡」(『文化財と古文書学<筆跡論>』勉誠出版、二〇〇九年)によって従来よりも多くの広元筆跡が確認され、大きく研究が進んだ。
*7佐藤進一「寿永二年十月の宣旨について」(『日本中世史論集』岩波書店、初出一九五九年)四三㌻。
*8佐藤前掲『日本の中世国家』七四頁
*9佐藤前掲『日本の中世国家』七〇頁
*10上横手雅敬「源義経の生涯と色々な見方」(『源義経 流浪の勇者』文英堂、二〇〇四年)
*11河越重頼の娘については細川涼一「河越重頼の娘」(『日本中世の社会と寺社』思文閣出版、初出二〇〇八)を参照。
*12高柳光寿『源義経』(文芸春秋、一九六七年)が義経の鎌倉出発以前に、この婚約が調っていたというのに従うことができる。ただその記述は一行だけで背景説明もない感想的なものである。
*13渡辺世祐・八代国治『武蔵武士』。野口実「義経の支援者たち」(同『武門源氏の血脈』中央公論新社、原論文発表二〇〇四)。『佐野本系図』(東京大学史料編纂所架蔵謄写本)に師岡重経が重頼の弟とされている(『坂戸市史』付録)ことを根拠として明示したのは管見の限りでは、菊池紳一「武蔵国留守所惣検校職の再検討」(『鎌倉遺文研究』二五号、二〇一〇年)である。なお、正宗寺本『諸家系図』(東京大学史料編纂所架蔵本)には、重経は重頼の従兄弟となっているが、重経と重頼がごく近い親族であったことは確実であろう。
*14ただし、『吾妻鏡』には師岡兵衛尉重経とみえるが、この段階で重経が兵衛尉に任官しているかどうかについては疑義があり、野口実はこの御産の記事そのものを信用できないとしている(野口「平氏政権下における坂東武士団」『坂東武士団の成立と発展』弘生書林、一九八二年)。しかし、師岡氏が鎌倉幕府のなかで日陰の地位におかれたことからすると、ここに記された重経の役割自体を否定する必要はないと思う。野口自身も「中世成立期における武蔵国の武士について」(『古代文化史論攷』一六号、一九九七年)では、若干、評価をかえている。
*15峰岸純夫インタビュー「中世東国の水運史研究をめぐって」(『歴史評論』五〇七号、一九九二年)。なお菊池前掲「武蔵国留守所惣検校職の再検討」(『鎌倉遺文研究』二五号、二〇一〇年)も参照。
*16なお、広元と義経の関係については、大井実春が間に立っていた可能性がある。大井氏の実際上の始祖である実春の父の実直はある系図で「源仲政の子となる。時に大井兵三次郎。武州に始めて住す」と注記されている(「大井氏系図」、『三重県史』資料編中世2)。仲政は源頼政の父であり、頼政が実直の叔母にあたる女性を妻として嫡子の仲綱をもうけていることからすると(参照『尊卑分脈』紀氏)、頼政が大井氏との連絡を密にとっていた可能性はきわめて高い。頼政と義経の関係は拙著『義経の登場』で強調した点であるが、実春が、義経が京都で検非違使の叙留をうけたときの儀式を示す「大夫尉義経畏申記」に実春が「因幡国目代」として登場するのは、二人の関係が義経の東国下向時からのものであったことを示すのではないか。注目すべきなのは、実春が因幡国目代であったときの国司が大江広元であったことで、ここには広元―義経―実春の関係が想定できることである。
*17川合康「治承・寿永の内乱と伊勢・伊賀平氏」(『鎌倉幕府成立史の研究』二〇〇四年、校倉書房)
*18川合前掲「治承・寿永の内乱と伊勢・伊賀平氏」
*19なお、この書状の指出者が義経の右筆として著名な中原信康(泰)である可能性は高い。その明証はないとはいえ、義経と中原(大江)広元の関係は、この広元と同姓の右筆を通ずるものであったのではないだろうか。本書状がもし信康によるものであるとすると、それは彼が前後関係からして、彼が関東の機微を正確に理解していた理由は、そこに求められるであろう。中原信泰については角田文衛『平家後抄』を参照。
*20このような捉え方については東島■■■を参照。
*21なお、この伝承自体も相当にあやうく、義光が義家に従順であったとは考えられないことについては高橋修「『坂東乱逆』と佐竹氏の成立」(『茨城県史研究』九六号、二〇一二年)を参照。
*22川合康「奥州合戦ノート」(『鎌倉幕府成立史の研究』校倉書房、二〇〇四年)
*22保立「源義経・頼朝と島津忠久」(『黎明館調査研究報告』二〇集、二〇〇七年)において、井原今朝男「鎮西島津荘支配と惣地頭の役割」(『日本中世の国政と家政』、校倉書房所収)、野口実「惟宗忠久をめぐって」(『中世東国武士団の研究』高科書店)の二論文に依拠して本文のように考えた。
*23菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』(角川選書、二〇〇五年)。近藤好一『源義経』(ミネルヴァ書房、二〇〇五年)。元木泰雄『源義経』(吉川弘文館、二〇〇七年)
*24東島誠「『義経沙汰』没官領について」(『遙かなる中世』一一号、一九九一年。さらに東島には「都市王権と中世国家」(『公共圏の歴史的創造』東京大学出版会、二〇〇〇年)がある。
*25佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』(東京大学出版会、一九七一年)。なお、この点をふくめ、義経の畿内支配については菱沼憲前掲『源義経の合戦と戦略』、およびその基礎となった論文「在京頼朝代官源義経」(『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、初出二〇〇三年)を参照。
*26野口実前掲「義経の支援者たち」
*27東島前掲「都市王権と中世国家」
*28宮田敬三「十二世紀末の内乱と軍制」(『日本史研究』五〇一号、二〇〇四年)。
*29本書第二部第一論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」

 

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