書評、石井進『中世を読み解くーー古文書入門』(一九九一年史学雑誌、号数は後で追加します)

書評、石井進『中世を読み解くーー古文書入門』
        一九九〇年一一月発行、東京大学出版会、二八〇〇円
                       保立道久
 『鎌倉遺文』の完結を目前にした今、私たちは『平安遺文』と併せて中世前期の殆どの古文書を簡単に総攬することができるようになった。『平安遺文』の完結が平安時代史の研究に大きな影響を与えたように、『鎌倉遺文』の完結もおそらく同じような影響を与えるに違いない。私たち、若い世代の研究者は『鎌倉遺文』で文書カードやノートを取っている人が殆どであるように思う。最近の中世史研究が、それこそ無数の研究課題を提示し始めたのは、こういう史料の翻刻の状況に支えられていることは明らかである。
 そういう状況の中で、本書は、新しい形式の古文書学の入門書として大切な意味をもつことになるだろう。第一に、『鎌倉遺文』の殆どがいわゆる雑文書であり、それを実際に研究史料として使用するためには、様式論にせよ、機能論にせよ、従来の古文書学の使用価値はそんなに大きくない。まず必要なのは、実際の解読技術である。その意味で、中世史研究をリードしてきた著者のような研究者の技法の舞台裏が読みやすい形で出版されたことの意味は大きい。著者のいうように、「とにかく努力が大事です」ということではあっても、こういうテキストを道具として最初に持ちうるかどうかは決定的である。
 第二に、特に中世前期の場合、活字翻刻史料だけでも膨大な量に達し、写真や影写本を見ない方が普通になってきているといってよいだろう。それが歴史学を論理を重視する健康な学問にする上で重要な意味をもっていることは明らかである。しかし、『鎌倉遺文』と他の史料集で読みが異なることもしばしばで、全体として史料の精読が必要になっている状況の中で、研究の条件・前提としてのテキスト校正の位置も逆に高くなってきている。本書は鮮明な写真を掲載することによって、そのような課題を改めて確認させる中身を有しているのである。
 さて、本書は、古文書学の対象の問題として見るならば、第一に紙背文書を重視していること、つまり「前期講義、紙背文書からみた中世社会」(日蓮聖教紙背文書)と「課外演習、源義経の書状」で扱われた文書のほとんどが紙背文書であり、本書のほぼ三分の二が充てられていること、第二に上申文書を重視していること、つまり「後期講義、百姓申状と阿弖川庄の世界」では有名な「阿弖川庄百姓仮名書き申状」を中心として、同庄関係の『高野山文書』が詳細に追跡され、申状を中心にして様々な古文書を解説する手法が取られていることを特徴として上げることができるだろう。
 様式論を中心とした中世古文書学の成果の上に初めて可能になったことではあるが、これだけ様式論から離れた古文書学の本と云うのも珍しい。というよりも、厳密な意味では本書は副題に「古文書入門」とあるように、史料学としての「古文書学」の入門書ではなく、「古文書」の提供する歴史的情報そのものの読み取りの方法と技術を説いたものなのである。そこから浮かび上がってくるのは、第一に古文書を「文書群」として扱う方法である。ここで文書群という場合、一方では同一の人物あるいは機関の下に集まり、反古・用済み文書となることによって同じ冊子本の紙背に残される運命になった「物」として結合された「文書群」であり、他方では同一の案件に関わってほぼ一括して保存された「事件」によって結合された「文書群」であることはいうまでもない。本書の前半と後半でそのような古文書の「群」としての扱いのケーススタディが行われているのである。
 第二に印象的なのは歴史の現場の復元が徹底的に重視されていることであり、全編にわたって文書に現れる地名が克明に追跡され、それと対応する社会生活・民衆生活の細部に着目する現在の著者の姿勢が鮮明に打ち出されていることである。特に後半の阿弖川庄百姓申状の分析が「阿弖川庄の百姓たちはなかなかにねばりづよく、また悪辣な地頭に負けないくらいしぶとい人々でありました。彼らは少し後には惣や惣村として知られるのと同じような村落の連帯をもって、これほどまでの抵抗運動を組織することができたのです」と終わり、さらに現在の阿弖川庄(現清水町)の民俗慣行、「オモ講」と田遊びの分析が行われていることに注目する人は多いであろう。
 そして第三に重要なのは、歴史的語彙の意味論的研究の成果が古文書にそくして語られていることであろう。それは、「開講の辞」で「これからの学界の大きな研究課題は、こうした古文書を読み解くための辞典の作製であるように思われます」という提言が行われていることに対応している。興味深いのは、著者の興味の中心が名詞のみでなく、動詞の語義(それ故に構文と主語・述語関係)にあるようにみえることであり、たとえば「引く」(八五㌻、一〇二㌻)、「いましめ」(一〇八㌻)、「蹲り田」(一六二㌻)、「矢にはく」(一七七㌻)など、そのような関心を処々にみることができる。このような動向は笠松宏至氏の論文「なりからし」「募る、引き募る」(『ことばの文化史』[中世二]、平凡社、一九八九年)などでも追及されている点であるが、それが古文書の解釈にあたって最も困難かつセンスがものをいう分野であり、前近代人の意識と行動のもっとも生の形態に直接に測錘を下ろす作業であることは皆が実感していることである。これが学界共通の問題として提起されたことは、ヨーロッパの「社会史」が意味論との係わりをつねに意識して展開してきたことや、日本の言語学・国語学の分野との関係の上でも、たいへんに大きな意味をもつというべきだろう。
 以上、本書で展開された技術に強いて古文書学という言葉を使えば、それはいわば「微視の古文書学」の提示とでもいうべきものであろう。それはいわゆる機能論的な古文書学の提唱の次を行く問題提起であり、単に文書の機能を追及するのでなく、その機能を、普通のあるいは民衆的な文書群の内部においてミクロな歴史的場・現場と意識・行動形態にそくして捉える方法であり、数学的な用語を使えば、機能・関数に対する一種の「群論」的方法であるということもできるだろう。そこに復元されるものは、文書群の背景に存在する社会や人間の運動自体なのであり、それは本書を「古文書学入門」ということを越えた「古文書入門」として、歴史叙述の諸問題そのものに無限に接近したものとしているのである。
 さて、「微視の古文書学」という場合、もっとも問題になるのは、たとえば制度史分析と直結した従来の古文書学と比較して、そこでは分析主体の主観あるいは指向が分析結果にしばしば大きな影響をもたらすということであろう。もとより不可知論への屈服は許されないが、ここでいうのは客体の分析過程において、たとえば研究者個人の研究歴や資質が入り込むことが避けられないということである。たとえば、本書を読んでいかにも国衙・守護領分析の先達の一人である著者らしい史料の読み方と思うのは、日蓮聖教紙背文書の分析を反古文書を日蓮に提供した富木氏の出自を因幡国在庁官人と論定するところから始め、また「寺山郷百姓橘重光重訴状」(七号文書)の難解な誤字「国奸」を「国衙」と読んで、百姓の「内畠」が国衙領であったことにその社会的地位を示唆し、あるいは「動垂弥太郎申状」(四号文書)に現れる沙弥「かうし房」の「かうし」を「郷司」と理解するような点である。また「けにん」「ケニン」という仮名表記が「下人」か「家人」かについて何箇所かでこだわっている点なども、いわゆる一次的封建関係、二次的封建関係の問題に注目してきた(石井「十四世紀初頭における在地領主法の一形態」『日本中世国家史の研究』、岩波書店、一九七〇年)著者らしい姿勢であると感じるのである。これは決して史料を読みたいように読むということではないが、おうおうにして研究者に得意な読み方が発生すること(逆にいえば偏りが発生すること)は避けられないのである。
 さて、以上を弁解とした上で、以下おそらく思い込みも多いことと思うが、本書で取り上げられた文書群から二つの問題を選び、私の個人的かつ主観的な興味から幾つかの感想を述べることを御許し頂きたい。
 本書の圧巻が、前半の千葉県中山法華経寺所蔵の日蓮聖教紙背文書の解読であることは多くの人が認めることだろう。今まで十分な研究のなかったこの文書群について、鮮明な写真にもとづいて開拓的な研究を行ったことは、鎌倉期の民衆社会、特に東国の民衆社会の研究に新たな視野を開いたのみでなく、紙背文書を研究する意義をもう一度確認させた。特に私が感じたのは、紙背文書というのは、どういう訳か最も大事な部分が切断されて消失していることが多く、その解読は一・二ミリあるいは二・三ミリの誤差の世界であるということだった。
 石井氏によって従来不明であった欠字が埋められた部分の多いことは、本文を読んで確認して頂きたいが、私なりの意見も報告させて頂くと、日蓮が反古の文書をもう一・二ミリ残り良く切断してくれたらと強く思ったのは、第三号文書の冠者重吉申状であった。著者はこの文書の「□冠者重吉謹言上」という書出部分の欠字を「御」と想定しているが、あるいはこれは「郎」である可能性があるのではないか。裁判権者と直接に人格的な関係にはない重吉が訴状を「御冠者」と書出すのは、どうも落ち着かず、また書出と本文の高さは揃っている筈であるから、欠字は二字分あったと考えられ、むしろ「太郎冠者」あるいは「次郎冠者」などと書き出していたのではないかと想像するからである。
 私は欠字部分の残画を「郎」の下半分と見てみたいが、もとよりそうでない可能性もあり、それこそ主観の範囲に属することである。しかし、もし「次郎冠者」とあったとすると、本書の第四号文書「僧信西陳状」に「次郎冠者」という人物が登場し、三号文書と四号文書は同一の案件に関する訴状と陳状と理解できる可能性が生まれるのである。その伝存の事情についてのさらに細かな検討がいるとはいえ、そう考えても二通の文書の理解に矛盾は起きない。後者の第四号文書は、たとえば高橋昌明氏の論文「日本中世封建社会論の前進のためにーー下人の基本性格とその本質」(『歴史評論』№三三二、一九七七年一二月)などで、中世の下人支配を論じる上での基本史料として取り上げられているもので、もし、上述の推定が成立するとすると、四号文書において下人として現れる男が、三号文書においては伊賀国守護千葉氏の支配組織内部に人脈を有して、それなりの字をもって訴状を執筆する能力をもっていたということになり、下人論の研究の上でもその意味は大きい。特に四号文書における下人は十二歳の時に「山寺」に上って一時小法師として僧侶に仕えたことがあるというから、三号文書は下人の教育と識字能力の実際を示す文書となるのである(なお三号文書釈文八行目「者」は「天」、九行目「未沙汰」は「米沙汰」、一三行目「志」は「之」、四号文書釈文六行目「此八木住」は「北八木住」、一〇行目「シ」は「之」、一二行目「秦兄部、守真」は「秦兄部守真」ではないだろうか)。
 次に本書の後半、阿弖川庄百姓申状の分析は、有名な黒川直則の仕事                以来いわれ続けてきた申状を中心に据えた古文書学の構築の課題についての一つの回答となっており、本来は申状の古文書学の諸問題について触れるべきであろう。とはいえ、今、私にはその用意がないので、ここでも主観的な感想を述べることで責めをふさがせて頂きたい。
 論述の中心となっているのは「阿弖川庄上村百姓仮名書き申状」の逐条的解説である。この申状の分析は、著者も執筆し討議に参加した参加した『中世の罪と罰』(東京大学出版会、一九八三年)における勝俣鎮夫氏の報告「ミヽヲキリ、ハナヲソグ」以来、大きく研究が進んだものであり、この逐条的解説は、おそらくそれ以来著者が暖めてきたテーマを、最近の河野通明氏の新研究に依拠しながら再度論じたものである。
 これも鮮明な写真が掲載されており、百姓の執筆した稚拙なカタカナ申状の臨場感は素晴らしい。その解釈は全体として河野氏の意見を踏まえた説得的なものであるが、ここでは様々な説のある第五条の解釈について私なりの意見を述べさせて頂きたい。それは
 一、スナウコト、レウヲ、ヂトウノカタエセメラレ候ヘバ、セウくハカリニマカリイ   デヽ候ヘバ、ヒクレ候イヌ、トモガラノイエニ、ヤドヲトテ、トマテ候ヘバ、ヂト   ウノトノヒトヒャウグヲソロエテ、百姓ノトヾマリタルヤドエ、テマツヲサヽゲテ   、十月ノ廿一日ヨナカバカリハヤク、百姓ノクビヲキラントシ候(以下省略)
というものである。地頭は十月八日から十日の三日間と十八日から十九日の二日間に廿余人の部隊をもって暴力的に年貢収納を行った。本条の最初の「収納の事、料(?)を地頭方え責められ候へば」という部分はそれに関わるのであるが、問題はそれと条件文で繋がる傍線部の「セウくハカリニマカリイデヽ候」という部分である。ここを諸説は「少々許りに」と読んでいるが、語法も難しいし、条件文の理解に相当の省略を想定しなければならないのである。
 今まで、仲村研氏(「紀伊国阿弖川荘における片仮名書言上状の成立」、同『荘園支配構造の研究』所収、吉川弘文館、一九七八年)と『清水町誌』は「小人数で(地頭方へ)出頭したら」、「少人数で出かけたところ」と解釈し、網野善彦氏は「百姓が逃散したのではないか」(『中世の罪と罰』座談会)とし、河野氏は「セウくはかりに」を「少しばかりして」「納めるのもそこそこに」と取った上で、「(地頭のところからーー「少しばかりして」)退出しましたところ、(帰り道で)日が暮れてしまいました」と解釈している(「阿弖川荘カタカナ言上状全釈試案」、『歴史地理教育』三八一、三八二、三八三、三八九号、一九八五年)。これに対して著者は、「地頭方からの催促に、やむをえず少々の百姓が年貢を納めるために出かけ、帰り道に日が暮れてしまったので同輩の百姓の家に宿泊していたところ」と訳す。つまり、この解釈は「セウく」の解釈については仲村氏と同じであるが、「帰り道で日が暮れた」とする点では河野氏の解釈によっているのである。「帰り道」とする河野氏の解釈は、百姓の村から地頭館までの距離と徒歩所要時間を歴史地理的に計算した上で「(百姓は)初冬の日の短さは生活感覚として知っているはずであるから、行く途中で日を暮らしてしまうようなドジな出かけ方はしないだろう」とするものでそれ自体としては説得力があるというべきであろう。
 しかし、百姓は本当に地頭の館に出かけたのだろうか。河野氏も石井氏も「収納(の)事、料を地頭の方え責められ候へば」という部分を、「料を地頭の館まで納めるようにいわれました」、「地頭方からの催促」を想定し、帰路に地頭の従者集団が百姓を襲ったとする。また在地領主の検断権を重視する石井氏は、たとえばこの日の地頭館での交渉や二三日前の暴力的な収納時におけるイザコザへの警察行動を推測している。しかし、それは読み込み過ぎではないだろうか。私は、「収納(の)事、料を地頭の方え責められ候へば」という部分を単に「地頭に年貢を追及・収納されてしまったので」と理解したい。諸説は「地頭の方え責められ候へば」とあるのを「地頭に催促された」と理解しているのだが、この「地頭の方え」の地頭は主格ではなく目的格であり、言葉を補えば「地頭の方へ責め取られ候へば」と同じことではないだろうか。
 そして問題なのは、諸説が一致して「少々許りに罷り出て候」と読んでいる「セウくハカリニマカリイデヽ候ヘバ、ヒクレ候イヌ」という部分である。この部分は「少々は狩りに罷り出て候へば、日暮れ候いぬ」と読むのではないだろうか。つまり、「地頭に収納をされてしまったので、一部の百姓は狩りに出たのだが、その出先で日が暮れた」と解釈すれば、特に様々な背景を想定しなくてもストレートに状況を理解できるし、「少々許りに」という意味を了解しがたい文節を作らないでもすむのである。
 中世の民衆的狩猟については全く研究がないといってよい状況であるが、その季節が秋の終わりから冬にかけてであることは明らかであり、「山人」ならば別として、年貢を納める農民は収納を終えた後に狩猟の季節に入るという社会的慣行があったのではないだろうか。屈強な男たちは、それを楽しみにして農民にとって辛い収納の季節を過ごしていたのではないだろうか。領主の馬鹿息子が何をやろうと農事暦・民間暦は巡るという訳である。もちろん、これは現在のところ全くの想像であり、収納の終わりと狩猟の開始に何らかの条件関係があったことを論証することはできない。しかし、もしこれが成立するとすると、農耕と狩猟の農事暦を巡る問題に光をあてることが可能になるかもしれない。そう仮定して、今後も検討を重ねてみたいと思う。
 さて、これ以上あいまいな解釈を連ねることは書評の形式をあまりに外れるが、それにしても、『中世の罪と罰』が出版されてから七年がたち、河野氏の仕事も明らかにされたが、阿弖川庄百姓申状は、まだまだ解決のつかない問題を抱えている。上記の主観的解釈は別として、その中でも最新の問題は、著者が本書で提起した問題、第一には「コノデウくノヒレイニテセメラレ候アイダ、百姓トコロニアンドシ(ガ脱)タク候」という申状の末尾の一節に現れる「所」の問題であり、第二は先にも触れた「蹲り田」の問題であろう。前者は著名な近江国菅浦の掟書が「ところ置文」と題していることに連なる問題であり、鎌倉末期以降の「惣村」として自治的村落の内部に現れた「所」という自称が何を意味するかという問題である。これについては今後の研究に譲るとして、行論の関係でここで問題にしたいのは後者の「蹲り田」の問題である。
 知られる限りではここにしか現れないこの珍しい言葉は、著者が大石直正氏の説(「荘園関係基本用語解説」、『講座日本荘園史』第一巻、吉川弘文館、一九八九年)を踏まえて指摘するように、「立つ」「伏す」という動詞の意味するものとの対応でしか了解することはできない。つまり、田地の検注の際に「隠田」が摘発されると、検注権者は見逃し料「伏せ料」を徴取して「伏田」を公認するが、それとは別に地頭が発見した隠田を「蹲り田」、つまり「隠れようとしてうまく伏すことの出来なかった田地」というような意味で捉えて、再度見逃し料を取ろうとしたというのである。
 この指摘を踏まえて、今後「立つ」という動詞を語素にもつ言葉の分析が進むことは確実であろう。そのような作業が石井のいう「これからの学界の大きな研究課題」としての「古文書を読み解くための辞典の作製」に繋がっていくことを期待したいと思う。その作業が石井が明らかにしているような「動詞」の分析を中心にすべきであろうことは明らかだからである。
 繰り返しとなるが、それは国語学との広汎な協力なしには不可能な仕事であるに違いないし、また「微視の古文書学」とはいってもそれなしには学としての内実をもつことはできないだろう。

なお、古文書解読の上で、もっとも手近なところで国語学あるいは音韻学との協同が必要かつ可能な分野は音便とその表記の問題であろう。これについては石井氏も本書の処々で注意しているが、日蓮聖教紙背文書(第八号)の「なかたの住人沙弥しんし入道申状」に現れる「しんざいさうく」を「身代雑具」とするのは「資財雑具」の誤りであろう。私も欠字を推定して主人・下人間の贈与慣行を示す史料として利用したことがある(「やれ打つな蝿が手をする」、保立『中世の愛と従属』、平凡社、一九八六年)。なお、この文書にはまだ解くべき問題が残されており、特に興味深いのは石井氏も「どうもよく意味がわからない」としている下人・秦栄男の嫡子が「立虚御子ヲ徒者候之間、神ニ令遣暇了、後国中乞食成了」という部分の解釈である。私は、「虚(起請)を立て、御子を徒者に候の間」と読んでみたい。御子が起請の仲介をすることがあったのではないだろうか。

二六㌻。一行目、「□」は「□(年)」
六二㌻、  時綱陳状。これは注に掲げておく。
六三㌻。□は「無」
事書についての河野通明の指摘(三二㌻)が重要。収納のピークを過ぎると男たちはやっと狩の季節に入るのではないか。それ以前は弓矢を持たない。農民は収納されてしまって単純に諦めて、次の生産活動に入ったということになる。
  結局識字率の問題。下総の百姓がどの程度の字を書けたか。次郎冠者の兄弟が空を立て、つまり空起請を立て御子を徒者になし国中で乞食をしたというから、常識的には字が書けた筈。乞食の中にも識字する人はいた。阿弖川庄の仮名書き言上状も、結局識字率がどうであったかという問題として扱われていた。仮名文書が多いことも興味深い。
     四〇〇字二〇枚、この書式で六枚強。(五枚書けばよいだろう)
                                                                                                                                                                

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