拙著『中世の国土高権と天皇・武家』)の公開。まずは目次、序論 。なおそれでも本の形で読みたい方へ。若干の残部が手元にありましたがなくなりましたので、下記、おわけすルすことができません。―


本書『中世の国土高権と天皇・武家』(校倉書房2015、540頁、定価12000円)は、出版元の校倉書房の倒産により、相当のエネルギーを注いだものですので、残念ですが、少なくとも当面は、本の形で読むことはできません。
 ただ、逆に版権の問題がなくなったので、全文テキストオープンすることができました。これでよかったのかもしれません。学術書は全文オープンしてあると、非常に便利です。それが学術書の出版形態の理想だと思います。そうした上でやはり本で読みたいという人はDTP出版を元出版社に依頼するという形になればいいのですが、ーーー。
 こういう事情で全文フリーで読むことができますが、 ただオープンしたものは入稿原稿ですので、これに校正を加えていますので、本とは少し違っている可能性があることに御注意ください。
 なお、それでも本の形で読みたい方がいらっしゃれば、現在、四部ほど残存したものが手元にありますので、必要な方にはお分けすることができます。
 まず私(mihotate@kk.alumni.u-tokyo.ac.jp)あてにメールで御住所を御連絡をください。まだ本が残っているかどうかを確認して返信いたしますので、下記に12520円(レターパック送料込)を御振り込みください。
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 目次は下記です。


はしがき――本書の書名について
目次
序論「中世の都市王権と国土高権論――貴族・領主範疇にふれて」
Ⅰ部、平安鎌倉時代の王権と国土高権
(1)「平安時代の国家と荘園制」
補論1「平安時代法史論と新制についてのメモ」
補論2「石母田法史論と戸田・河音領主制論を維持する――水野章二氏の批判にこたえて」
(2)「平安鎌倉期における山野河海の領有と支配」
Ⅱ部、鎌倉時代への移行と国土高権
(3)「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」
(4)「院政期東国と流人・源頼朝の位置」
(5)「義経・頼朝問題と国土高権」
(6)「鎌倉前期国家における国土分割」
Ⅲ部、大地と領主的土地所有の明晰な把握のために
(7)土地範疇と地頭領主権
付論「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」
あとがき

以下、「はしがき――本書の書名について」です。

はじめにーー本書の書名について
 本書は、平安時代と鎌倉時代最初期の天皇・院と武家が、この列島の支配の根源においていた国家的権能、国土高権がどのようなものであったかを論じたものである。土地制度、山野河海領有、「地本・下地」などの土地範疇論から法史論、さらには政治史にいたるまで対象はさまざまであるが、すべて「国土高権」ということをテーマとしている。
 前提にあるのは網野善彦・戸田芳実などの学説であるが、ともかく、国土高権の対象として、未開であったり、村落の間での争いがあったりする境界領域が重大な位置をもっており、その検討は当時の社会の歴史を考える上で必須の手続きである。平安時代の王朝国家にせよ、鎌倉時代の武臣国家にせよ、それが国家である以上、このような意味での国土を領有する権能は本質的な位置をもっていたのである。その帰趨が国家史・政治史を大きく左右したことはいうまでもない。
 本書の基本は、ここ二〇年ほどの間に書きためた論文であるが、第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」、第五章「義経・頼朝問題と国土高権」は、そのような視野から、源頼朝の「日本国惣地頭」としての国制身分の理解に関わって新たに執筆したものである。
 これらはいわゆる通説とは大きく異なるもので、その成否は読者にお読みいただき評価していただくほかない問題であるが、さらに『中世の国土高権と天皇・武家』という本書の題名も常識とは違う理解にもとづいており、これについては冒頭で説明することが必要であろうと思う。
 つまり、普通、「中世」といえば「鎌倉時代=武士の時代」の開始以降を意味する。しかし、私は井上章一『日本に古代はあったのか』(角川選書、二〇〇八年)と同様、「日本には古代はなかった」と考えており、逆にいうと、ほぼ邪馬台国以降、平安時代末期くらいまでの日本史上の時代は、世界史上の「中世」に属するというほかないと考えている。そもそも日本は東西軸でいえばユーラシアの東端に位置し、また南北軸でいえばインドネシアからフィリピネシア、ジャパネシアとつらなる太平洋西縁の群島世界に属する列島である。この国の歴史がそこから離れて時代区分できるというのは幻想に過ぎない。
 そして、現在の段階で、こういう観点から日本史の時代区分を考えるとすれば、依拠すべき先行学説としては、内藤湖南、そしてそれを引き継いだ宮崎市定・谷川道雄などの世界史の時代区分を前提とするほかないということになる。たとえば、宮崎市定によれば、中世とは、世界史的には、ほぼ紀元二・三世紀から一二・一三世紀までの約一〇〇〇年の期間をいう。宮崎は、中世の開始をほぼ二〇〇〇年ほど続いた古代の都市帝国文明が、ユーラシア規模におけるフン族、そしてゲルマン民族の大移動の中で大きく動揺し、東の漢帝国、西のローマ帝国がほぼ時を同じくして崩壊にむかう時代に求める。この時代は、ユーラシア大陸の中央部に広がったヘレニズム文明の中で、いわゆる中近東地域が世界の富と文明の中心としての地位を確保し、たとえば乗馬や製紙の技術のような基本的な技術が国際的な連関をもって発展した時代であり、また仏教・キリスト教そしてイスラム教などの世界宗教という形をとって世界的な文明連鎖が成立した時代である。
 これを適用すれば、ほぼ邪馬台国以降、平安時代末期くらいまでの日本史上の時代は、世界史上の「中世」に属するといってよいことになる。邪馬台国が「中世」であるといえば大学入試では失格であろうが、邪馬台国から古代が始まり、列島の歴史は世界史とは関係なく、「古代―中世―近世―近代」と時代区分できるなどという感じ方こそ歴史知識としてまったく無意味である。
 平安時代から鎌倉最初期までを対象とした本書を『中世の国土高権と天皇・武家』としたのは、こういう事情による。しかし、問題は、そうだとすると、本書の題名は、より正確には『日本中世後期の国土高権と天皇・武家』とすべきことになる。平安時代約四〇〇年は宮崎のいう世界史上の「中世」の時代の後半にあたるからである。しかし、中世後期というと世間でも、また日本の歴史学界でもだいたい室町時代のことをいうのが一般である。平安時代を中世というだけでも誤解を呼び、理解をえられないであろう現状の中で、そのような題名を選ぶのはいたずらに混乱を呼ぶと考えた。
 それに対して平安時代を「中世」と呼ぶことには、それなりの理由があるのである。つまり第二次世界大戦後の「中世史」の研究者の中には、平安時代を鎌倉期以降の歴史と連続的にとらえようという強力な潮流が存在した。そして平安時代の社会経済史は、石母田正の提起を受け、稲垣泰彦、永原慶二、黒田俊雄、戸田芳実、河音能平、大山喬平など、本来、「中世史」の分野を専攻とし、社会構造論的な方法を主軸とする研究者によって推進されてきたのである。その中で研究をしてきた私にとっては平安時代史は「中世」なのである。
 ただ問題は、そうだとすると鎌倉時代は基本的には「近世」になるということで、さすがの私も、それを明言するのには勇気がいったが、それでよいと考えるにいたった。その前提は、私が日本の歴史的社会構成が「封建制」であったことはないという理論的立場をとっていることである。そこで、最近、『岩波講座 日本歴史』の月報で、クリフォード・ギアーツを参考に「インヴォリューション=近世化」という考え方をとって、一二・三世紀以降は日本も「近世」化に突入したと論じたのである。一一八〇年代以降、いわゆる時代区分論についての議論が退潮していくなかで、こういう問題はどうでもいいというのが歴史学界の傾向になりつつあるのも実情であるが、ともかく、私は、逆に最近、「平安時代=中世」という確信をふかめている。
 なお、ここでいう「中世」から「近世」への移行は決して「歴史の進歩」と等置できない。それを初めてのべたのが、黒田俊雄の有名な「権門体制論」であった。本書序論で述べたように、この黒田の議論は国家論としては看過しがたい欠陥を有しているが、しかし、院政期国家と鎌倉期国家の階級的本質はかわらないという、その大局観自体はあくまでも正しいのである。
 本書の全体で述べたように、院政期における国土高権の集中は、国土高権の分裂の中からの広域権力の登場と、それによる国家の軍事化と民衆支配の稠密化をもたらした。それ以前、列島社会は、河音能平が「ゲルマン的共同体」と類比し、網野善彦が原始に根をひくと評価したような「自由」な側面をもっていたが、その隙間が埋められていったのである。その主体となった「武士」は、よくいわれるように、所詮、職能的な殺し屋、一種の広域暴力団を本質としており、鎌倉幕府の成立なるものは、彼らの私戦の拡大が国家の中枢にまで及んだことを意味する。彼らは王権=「旧王」に媚びをうりつつ、「武臣」のままに自己を「覇王」として、上から下まで国家に武力を浸透させた。このような武臣国家の形成自体を「歴史の進歩」であるということはできない。それは、この時期前後から、都市的関係の成長や農村的な共同性の自立化などによる民衆的な進歩の新たな条件が形成されたこととは別問題である。
 以上が本書の書名についての説明であるが、なお、念のために申し上げておけば、「古代―中世―近世―近代」などという時代区分は所詮、一種の符丁にすぎない。こういうことをいうとすべてをひっくり返すようであるが、実際に、世界と日本の歴史が関連・融合したものとして、どのような段階とフェーズを歩んだかは、より具体的な歴史理論を再構築して考えるほかない問題であることは明らかである。その意味では本書の題名は経過的なものにすぎないことを御断りしておきたい。内容までも経過的なものであるということはこまるが、ともかく、以上のような御説明は冒頭にしておくことが必要であろうと考えた。

以下序論です

序論・中世の都市王権と国土高権論ーー貴族・領主範疇にふれて
はじめに
 私は平安時代の国家の特徴を「都市王権」という用語で表現してきた。平安時代の国家を王朝国家というが、私は、奈良時代についても王朝国家という用語でよいのではないかと考えている。八世紀と九世紀は連続しており、九世紀と一〇世紀は実際上、ほとんど区別できないから、奈良時代と平安時代は連続して考えるほかないのである。しかし、そうはいっても、奈良王朝は本格的な文明化と都城制と律令制の導入が最大の特徴であって移行期だけに国家形態についてもむずかしい問題がある。
 それ故に現在のところ確実なのは九世紀からの王朝国家の国家形態は「都市王権」といってよいということである。もちろん、前近代社会において、社会的分業が都市と農村の分業というスタイルを取る場合、国家と王権はつねにその拠点を都市においている。その意味では前近代王権はつねに都市王権である。しかし、私の提案は、そのような一般的な意味ではなく、平安時代の国家の国家形態を都市王権、あるいはより端的には京都王権という形で捉えようというものであった。
 さいわい、この都市王権という用語は平安王朝の実態を表現する用語としては便利なこともあって何人かの研究者に受け入れられたが、この概念の研究史上の位置や国家論的な定義が欠けていることは、仁藤智子が指摘した通りである*1。
 そこでここでは、第一に、「都市王権」論の提出の前提となった研究史について、第二にさらにその前提となった「貴族範疇」をめぐる諸説について、私見に引きつけてではあるが説明したい。そして、それらを前提として、第三に本書のテーマである「国土高権」論についても研究史を概括し、その上で簡単に問題の所在を述べることとする。
Ⅰ都市王権の範疇について
1都市王権論の前提と王朝都市論――戸田芳実の発言
 議論の前提は一九七四年の日本史研究会の大会での戸田芳実の報告「王朝都市論の問題点」にある*2。もちろん、この戸田の論文は、王権論そのものではなく、都市論であるが、そこで戸田が論じた都市貴族についての考え方が深く王権論に関わるのである。戸田も、ウェーバーの「君侯都市(フユルステンシュタット)」*3という用語を紹介していることからすると、王権論を視野に入れていたものと思われる。
 この戸田の問題意識は、右の日本史研究会の大会のしばらく前に行われたシンポジウムでの発言にも現れている。すでに入手しにくいものなので紹介すると、それは「流通路というのは、特定の権門領主が所有しえない。したがって最高の権門が、国家の名においてそれを管理する。ところが別の面で、非農業民の組織というのは家産経済の組織化だという面がありまして、かならずしも国家そのものへの組織化ではない。つまり、古代の律令的分業とはまったく違う。皇室も、最高の権門ではあっても、全社会階級をそういう意味で統合しているわけではなくて、最高の貴族としての経済になっている。そういう経済機構の形成が、都市に集中しているということから、都市と地方との交通路が、彼ら共同の管理の対象になって、それを天皇の名において行う。こういうのが権門体制といわれているものの機構だと思います」というものである*4。
 やや敷衍して説明すれば、七世紀以来の全国支配の展開のなかで王朝国家の首都とその連接地域には家産制と官衙組織の経済施設が集中し、京都には巨大な富が集中するにいたっている。それらは都市貴族や官衙ごとの組織ではあるが、しかし、都市と地方との交通形態、交通路・交通施設などの中枢は、やはり国衙機構がおさえている。国衙は本質的に交通組織である*5。国衙は中級以下の貴族が順次につく地方支配機構であって、それは天皇の名によって動く支配層の共有装置なのである。天皇は、こういう諸施設に対する共同管理を代表する存在であり、それによって国家は都市が地方社会に対して固有にもっている支配力を掌握することが可能になった。戸田がよく使う神経系統・脈管系統*6という言葉を使って説明すれば、人間の頭脳と心臓をおさえ、それに接続している神経系統・脈管系統を通じて全身を支配したということになろうか。
 ここで戸田が都市貴族を集団としてとらえていることが重要である。戸田は論文でも「荘園制形成過程の重要な特徴は、律令国家の中央都城に集住した皇族・官人貴族、およびこれに付属する社寺が、その定住形態のまま、あるいはむしろその定住形態に規定されつつ荘園領主に転化したことにあるが、かってわれわれはこの事実から、荘園制的土地所有を「都市貴族的土地所有」と規定する見解を示した(北京科学シンポジウム参加論文」)」と述べている。戸田が荘園制的都市所有体系を都市貴族的所有と称するのは、このように都市貴族が都市機構と交通組織に根拠をおいて集団的支配を行なっていることを重視するためである。
 戸田はさらに続けて、「荘園制の権力構造が官職的な『職の体系』として集権的に構成されていることの重視は、中世史において支配的となっており、それと関連して、荘園制を支える社会的分業と流通の全体系が、中央に収斂する『求心的構造』をなしている問題が脚光を浴びるようになっている」と述べている。戸田の理解が八・九世紀からの社会構造の移行のなかで問題をとらえようとするものであったことが明らかである。
 ただ、戸田は都市論、都市貴族論については相当の実証と論理化をしたものの、結局、王権論のレヴェルには踏み込まず、「都市と地方との交通路を天皇の名において共同管理する」というシステムを具体的に論ずることはしなかった。これは残念な経過であったが、私は、この戸田の理解を前提として、都市王権とは、都市貴族の集団を代表して、優越的な地位をもつ都市=首都を支配し、都市がもつ地方社会への規定性に依拠して国土を支配するシステムであるとしたのである。
2王権の都市法と都市身分構造――黒田紘一郎と大山喬平の仕事
黒田紘一郎による先駆的指摘
 「都市王権」という言葉は使わなかったものの、私より早く、ほぼ同じ構想を述べたのは、黒田紘一郎であった。黒田は論文「日本中世の国家と天皇」において「都城の設定と維持が王権によって行われていることから、京都という都市を前提にしてのみ中世王権もまた存在したのであります」とのべた。そして、その観点にたって、天皇の代替りごとに発布される「新制」が、王朝都市支配の総括としての都市法的性格をもっていることを強調し、それと関係させながら、天皇の血統、儀式、レガリアの問題などを論じた*7。別稿でふれたように*8、この黒田(紘)の報告は、それ以降の王権論の展開の全体的な見取り図のような役割を果たすことになったのである。
 私が黒田の仕事の意味を実感したのは、「町の中世的展開と支配」*9という論文を執筆する中でのことであった。この論文の中心テーマは、黒田(紘)が強調した都市法としての「新制」の系譜を、ほぼその指摘に沿って、平安時代から鎌倉時代にかけて復元してみることにあった。そして、さらに「中世前期の新制と沽価法」*10という論文で、その視野を市場法・価格法などの全体に広げることを試みた。そこでは、都市王権のシステムが、その都市的欲望の肥大化・文明化を駆動力として、それなりの開放性・経済性・合理性を担保する構造を分析した。ここに依拠して閉鎖的な王権が社会の開明化と農本主義的な開発を主導する「新制」「徳政」のイデオロギーが機能するという逆説が生まれたのである。このような法令に表現される王権の都市支配こそが、平安時代の天皇制の固有の基礎であったことはすでに明かであると思う。
 このような都市新制への注目を黒田紘一郎は、黒田俊雄の視点を受け入れることによって確保した。つまり、黒田紘一郎は都市王権のイデオロギー構造を、「王城の地としての天皇所在地(京)を聖地として、徳治主義の理念を中世的触穢思想に補完されながら復活させるイデオロギー」と論じているが、これについては黒田俊雄は「(国王としての権威は)中世において『新制』その他によって」「徳治主義・帝徳論などで美化された礼節秩序を発達させ固定させていった」としている*11。黒田俊雄はそういう強い観念的な束縛のもとに作り上げられた「全体に私的人格関係でない公的階層的な身分秩序」が存在していることを強調する。こうして、黒田俊雄は平安・鎌倉時代の身分制の外枠として「君・臣・民」という東アジア的な徳治主義にとりまかれた「国家体制にもとづく身分系列」を措定するのである*12。
 黒田紘一郎の議論は、黒田が上記の報告の後に、研究の方向を室町期の京都にまで拡大し、しかし、全体のまとめができないままに倒れたこともあってわかりにくいところを残すが、その構想は「アジア的中世都市」として首都京都を描くというものであったと思われる*13。黒田紘一郎――黒田俊雄を貫いて読むことによって、東アジア中世に近い相貌をもつ首都・京都という構想を読みとることができるというのが私見である。
大山喬平の「キヨメの都市的構造」論
 黒田紘一郎と相似した立ち位置から、王権と都市という問題領域において決定的な仕事をしたのが大山喬平であった。つまり、黒田俊雄の「公的階層的な身分秩序」という議論は、有名な「種姓の身分的構造」論と一体のもので、「君・臣・民」の礼的秩序がさらに「浄穢」という自然的な秩序にとりまかれて存在したとしている。大山は、黒田(俊)のいう「浄穢」観念とそれにもとづく「差別」の構造を「キヨメの都市的構造」として特徴づけて、それが本質的に都市的なものであったことを明らかにした。この大山の論文「中世の身分制と国家」*14は、ゲラの段階で黒田(紘)も参照したというが、この大山・黒田(紘)二人の力によって、黒田俊雄の議論は新たな生命をあたえられたのである。こうして「ケガレの観念の中世的形態とわかち難く結びついていた」「一つの特殊な連関が中世の社会的分業の編成の内部に成立し」ていたことが明らかになった。戸田のいう都市農村関係、交通路の天皇の名のもとにおける共同管理とは、実はこのようなイデオロギー的な諸関係をその裏側にもっていたことになる。
 大山は、この「キヨメの都市的構造」を「天皇と都市と神祇」とケガレの関係にそくして縦横に論じている。とくに大山が神祇を論じたことの意味は大きかった。黒田俊雄が宗教史の側から、「神祇」が実体として顕密宗教の世俗部門として組織されていることに論証を集中し、神祇と神社が都鄙に広げたネットワークが、どのような社会的意味をもっていたかについては(ある意味で自明の問題として)論議を展開しなかっただけに、これは戦後派歴史学の学史のなかで画期的な意味があった*15。
 さらに問題は、大山が、この「キヨメの都市的構造」が都市農村関係、都市農村の交通形態にしみついていき、被差別身分のカースト制ともいうべき分厚いネットワークを生みだしていったとしたことで、ここに日本中世の都市農村関係に中世アジア的な様相を認めるという議論が本格的に生まれたのである。大山は、後に『ゆるやかなカースト社会・中世日本』*16において、その構想をふくらませた。
網野善彦の「公界」論
 以上のような黒田紘一郎・大山の議論の向こう側には、当時、ちょうど活発な発言を開始した網野善彦の仕事があった。そもそも先に引用した戸田の発言したシンポジウムには大山・網野も参加しており、とくに黒田の都市王権論は一九七六年一〇月の歴史科学協議会の報告であるが、網野の見解に対する批判であることを明示して行われた。つまり網野のように「大地と海原の支配」のなかに天皇制の存立根拠を求める前に、王権による京都支配の固有の位置を確定しておくことが必要だとしたのである。私は、これ自体は網野の理解の抽象性に対する批判として正当なものであったと思う。黒田はその立場から「天皇制の存立の不可欠な要素として、分業構造、とりわけ都市支配の問題を重視する」ことを優先しなければならないとしたのである。
 ただ、網野も、ちょうどこのころ、都市論への取り組みを本格化しており、同じ年の四月に、その都市論の出発点となった論文「中世都市論」*17を発表していた。そこで網野は、土地範疇論ともいうべき視野を打ち出していた。つまり、平安時代に屋地、田地、畠地などの形容詞がついた語が生まれていくが、「地」は自然としての大地――「無主地」を示す用語として残ると同時に、空間・面積そのものとしての有用性しかもたない貧弱な都市の土地も「地」と表現されるという特徴的な現象があるという。これは都市の土地制度において「地奉行」などという職制の位置を実証的に確定しているだけに大きな説得力をもっていたのである。
 そして、網野は、この二つの意味での「地」に関わるような存在を「公界者」と名付けた。ただ、網野の土地範疇論は中途で終わってしまったので、ここでは私見によってやや敷衍して説明すれば、次のようになろうか。つまり、一方で、都市の酷薄にして無縁な「地」にさらされ、身体の外財(動産・用具)所有のみによってたくましく生きる存在を発見し、他方で、都鄙を往反し山野河海にかかわる新たな分業分野を開拓するような人々にも同じ性格を考えて、彼らを「公界者」と名づけたのである。王権は都市地目としての「地」と、大地と海原としての「地」の双方を「公界者」を通じて、国土高権の下に領有したということになるだろうか。
 私は、この網野の説明の仕方にもなおある種の図式性を感じてしまうが、網野は、これ以降、地域社会のなかに「公界者」の活動する「都市的な場」を実証的に発掘していき、それをもととして『無縁・公界・楽』(一九七八年)を用意していった。黒田紘一郎の批判と網野の議論がかみ合わないということになったのはやむをえない経過であったように思う。注意しておきたいのは、網野がこの論文で「職人の世界をふくめ、日本の社会に色濃く生きつづける血縁的、カースト的な性格に目を向け、『公界者』自身が、神仏だけでなく、天皇との関係をも完全に払拭できなかったことの意味を明らかにしなければならない」と述べていることである。
 この「公界者」のネットワークをカースト制と特徴付ける網野の立論は石母田・黒田俊雄の身分制論をうけたものであり、それは黒田紘一郎も大山も同じである。このような見解の重なりは、カースト制なるものをどう考えるか、日本社会の中世アジア的性格をどう考えるかという問題に関わり、ここで議論することはできない。しかし、今後の議論は、彼らが、競うようにして都市論に挑んでいった、この段階での論争を十分に総括する形で進められる必要があると思う。
3都市王権の中枢と専制化
王権の空間構造
 さて大山の議論は都市の空間構造を身分論の視野から論じ、京都の中枢に王権の閉鎖的な清浄性を位置づけた。もとより、これについてはケガレ研究の発展のなかで、「穢」から絶対的に隔絶された空間というものは存在しえないという批判があり、研究はむしろ稠密な「穢」の管理のあり方自体の究明に進んでいる*18。また仁藤智子の「都市空間」に視点をおいた研究によって、天皇が出御する儀式が閉ざされた空間に限られ、儀式不出御や参加者の限定が進んで天皇の不可視化が進む一方で、特定の儀式や京内行幸については「見せる」演出が進むことが明らかになっている*19。王権の閉鎖空間の清浄性はきわめて人為的なものなのである。
 残ったもっとも大きな問題は、清浄なるべき存在を「天皇」自体とみるのか、あるいは「神」なのかという問題であろうが、これについては、天皇はやはり自己自身を神格的な存在としていたのではないかというのが私見である*20。ようするに、これは天皇の尊貴性をどうみるかという問題であるが、自己の肉体の神性という幻想が血統へのこだわりと争いを複雑化したことは事実のように思える。私は拙著『黄金国家』*21で、このような王権を都市の中央に位置して都市の各施設に糸をはりめぐらす肥大化した繭にたとえたが、王権は細かな糸を張りめぐらせ、律令制以来の官衙、蔵人所その他の令外の官衙、そして王権自身の家産組織や都市貴族の家産組織などをからめ取り、それによって自己自身を分節化していったということができようか。彼らの周囲には煩雑で人為的な儀礼体系、礼の体系が伝統化された*22。
 こういうシステムはだいたい九世紀から一〇世紀にかけて形成された。一〇世紀には冷泉系・円融系の王統が迭立し、それに対応して摂関家の諸流も分裂して争うという危機の時代があったが、それにもかかわらず、このシステムは相当の安定性をもって一一世紀なかばくらいまでは続いた。道長の時代が、その頂点にあったことはいうまでもない。これはやはり王朝国家が八・九世紀の国家史的な経験をふまえ、国衙を中心とした地方組織とそれに対応する太政官機構を具備していたためであったということができる。
院政期への展開
 これに対して王朝国家の後半部に入ると、王家は家長としての院を中心に専制化していく。院は御願寺や女院などの首都附属の莫大な宗教施設、後宮施設を作りだし、分節化されない独占的な政治・生活空間を作りだした。摂関期の王権が繭のようなものだとすると、院政期のそれは、首都の全体に粘り着く巨大なアメーバのようなものであろうか。これはいわば王家の貴族社会からの自立・逸脱である。この直接の条件は、一〇世紀王家の冷泉系・円融系の王家迭立が一一世紀に終了したにも関わらず、王統をめぐる争いは続き激化していったことにあったことは疑いない。こういう経過からすると、この時代の政治史の叙述は、いわば王を主語として、王の恣意や欲望がもたらす矛盾を軸としてできるかぎりザッハリッヒな政治史を描くことが必要となる。私は、そういう視角から、『平安王朝』*23などの政治史叙述を試みたが、しばしばそういう卑小な作業によっては歴史はわからないという批判をうけた。しかし、都市王権の政治というのは、そもそも本質的に卑小なものである。問題は、その卑小な諸事件が大事をもたらすような構造を描くことにある。
 さて、経済的な基礎として決定的であったのは国司職の分配が院近臣などに集中するとともに知行国制の下に編成されたことで、いわば国衙の荘園化である。その下でしばしば空間的にも時間的にも隣接諸国の国司職を関係者で独占するような構造が生まれた。そして荘園制の側では荘園体系の中心が朱の天皇御璽(「内印」)によって認証された官省符庄から、院の朱の手印起請によって認証される院領荘園に推転した。こうして膨大な王領荘園群が御願寺や後宮施設の所職と収入としてひろく都市貴族に分配され、相互に複雑な関係をもった諸関係として再編された。摂関家領を中心とする最上級貴族の荘園領有さえも、この院領荘園の中に部分的に吸収され、あるいはそれとの関係において位置づけられたのである。ここに都市貴族的土地所有が直接に王権に集中する構造が形成された。これは都市貴族の集団的所有の形態の転形と評価するべきことである。
Ⅱ都市貴族と地方留住貴族
 王権が、まずは貴族の代表として存在している以上、都市王権論を具体的に深めるためには、平安時代の貴族の諸類型や特徴を確定していくことが必要となる。前近代社会の歴史分析において貴族範疇を鍛え上げることの重要性についてはマルクブロックの『封建社会』が力説しているが、東アジアにおいても「中世」の標識は貴族範疇にあるというのが中国史の側の有力な主張である*24。そのような視野からいっても、中世日本における貴族範疇を検討することはきわめて重要な課題である。
1都市貴族の概念について――石母田正・河音能平・黒田俊雄の交錯
石母田正と河音能平による都市貴族範疇の提起
 研究史において、最初に貴族範疇に焦点をあてたのは、石母田正の「『宇津保物語』についての覚書」*25であった。この論文で、石母田は「都市に集結した貴族層は統治と支配のために国家の一員として組織されねばならず、そこに一箇の鞏固な連合的共同制が個人を超越し緊縛する強制力として成立する」「我が国の貴族は本来都市貴族であるが、しかし貴族が都市の住人として自らを意識するに至るのは特定の時代の経過を経た後であった」と述べた。『中世的世界の形成』などでも都市貴族という言葉が使用されているのはいうまでもない。
 ここで石母田が日本の都市貴族の「鞏固な連合的共同制」を強調していることは、戸田の議論との関係で注目にあたいする。この石母田の論文は、前述のような平安時代の都市貴族社会の閉鎖的な諸様相についても論述しており、その古典的地位は確実なものである。ただ問題は、石母田が、この都市貴族という用語をおそらくウェーバーから借用したのではないかと思われることである。石母田の議論がウェーバーの論文「古代文化没落の社会的諸原因」の影響をうけていたことは石井進の証言があるが*26、ウェーバーの『経済と社会』の一定部分を石母田は原文で読んでいたのであろう。それが「京都=古代」という牢固たる図式をもたらした。
 河音能平の北京シンポジウム論文「中世封建時代の土地制度と階級構成」*27が、「都市貴族」という用語を意識的な分析範疇としてはじめて打ち出したのは、おそらく、この石母田の用語法を前提としていたものと思われる。この著名な論文において河音は奈良時代の国家的土地所有を分割・継承することによって形成された上級土地所有を石母田と相異して「中世的」なものとした都市貴族的土地所有と概念化し、それが院政期後期に領主的土地所有と地主的土地所有を再編成することによって「封建国家体制=封建的土地所有体制」が確立するという展望を述べた。私は「封建制範疇」を、この列島の歴史に適用することはできないと考えているが*28、しかし、院政期にそれ以降も続く土地所有体系の確立をみるという、この河音能平の見通し自体はきわめて先駆的なものであった。また、都市貴族的土地所有が、「各地域、とくに畿内に居住する農民以外の多様な職種の勤労人民(半農半漁民・半農半手工業者・半農半林業者など)を権門寺社への奉仕者集団(「座」)として組織した」ことに注目し、「この貴族的土地所有形態が同時に社会的分業の政治的組織形態をなしていた点に、都市貴族的土地所有が一六世紀までも存続しえた理由があった」と論じていることは、網野善彦の問題提起よりはるかに早く、かつそれとほとんど変わらない図式であるという点でも見逃せない。この意味で、河音の都市貴族論は、戦後派歴史学の諸論点をきわめて早い段階で先取りするものであったということができる*29。
黒田俊雄の権門体制論の意義と限界
 ただ、河音とその協同研究グループはまずは経済史と領主制論に集中し、国家論あるいは政治史は先にゆずられた。そのため、研究史上、都市貴族論において実際上の焦点となったのは、黒田俊雄の「権門体制論」となったのである。戸田の前記のような発言は、そのはるか後のことであった。
 よく知られているように、黒田権門体制論は公家・武家・寺社の「権門」なるものを基本的には同一の性格をもつものとした。そして、それによって新井白石『読史余論』以来の公家と武家を峻別し、前者から後者への移行で歴史をみる一種の軍事史観を痛烈に批判した。白石の見方は、とくに戦後派歴史学のなかにも、「公家=古代的支配階級」、「武家=中世的(封建的)支配階級」などという図式の形で影響を残していたから、黒田説が、研究史上、決定的な役割を果たしたことはいうまでもない*30。これによって、黒田(俊)は、実質上、武家貴族を特権的な「歴史の担い手」としてしまう「武士発達中心史観」を学界から葬り去ることに成功したのである。
 これは黒田権門体制論が、六〇〇年弱に及ぶ平安時代から鎌倉時代の国家を構成する支配層は基本的に同一の階級性をもっているという観点に立ち、その国家の全機構を把握するという方法をとったことによって可能となったものである。これが正しい視角であったことはいうまでもないが、しかし、逆にここからは、黒田権門体制論は国家論を目指したものではあっても、貴族論を目指してはいなかったことがわかる。
 そもそも黒田は、貴族範疇を首都京都および鎌倉・奈良の政治都市の上層都市貴族に限定し、しかも実質上は複雑にからみあって階級的一体をなしている王家や摂関家などの上層王族・貴族を、諸類型の職能的「権門」に分解することから議論を出発させてしまう。そこでは王家を代表する「院」も家産制権力としては摂関家その他と同じ権門であって厳密な意味での「王」ではないということになる。「権門体制においては、国家権力機構の主要な部分は諸々の権門に分掌されていた(中略)。しかしそのほかにどの権門にも従属しきらない国家独自の部面があった」というのが黒田の主張であるが*31、現実の国家を職能と家産によって「権門」に分割し、その残余を公的で王権に固有な領域に切り出すという「公私」の形式的な分離の方法では、公権の実体を捉えることはできない。黒田は、かって永原慶二が論文「中世国家史の一問題」*32できびしく指摘したように、律令制王国からの移行論がなく、結局、そのために国家の私的あるいは家産制的な分解という理解を越えることがなかったのである。
 黒田俊雄には石母田のいう都市貴族の「鞏固な連合的共同制」、戸田のいう「天皇の名において行う共同の管理」という観点はない。ここにあるのは、複雑な集団的構成と「鞏固な連合的共同制」をもつ貴族階級の具体的な解析ではなく、権門は家産制的荘園知行をおこなう「封建領主」としては基本的に同質であるという理解で現実の存在を裁断することである。「権門」は、九世紀以降の経過の中で「独自な家産的性格をもつ封建的知行体系」として「同質」なものであって、もちろん、権門はさまざまな契機で「系列化」されるが、それは原則としては「相互に対等な権門のあいだ」で行われるというのである。
 永原が指摘したように、黒田権門体制論は権力機構論であって、権力を構成する階級・階級構造、階級的矛盾の多面的な分析をスキップするという根本的な問題がある。永原は「『権門体制』の本質は、そのような分業関係の形式にあらわれる側面にあるのではなく、多面的な階級的矛盾、相互の力関係の実体の表現形式に他ならない」と述べ、石井進も「中世国家の特殊性を、単に『国家権力』分有の様態のみに見出そうとするかぎり、それはいまだ真の特殊性・歴史性の把握とはいいえないのではなかろうか」*33と述べている。さらに立ち入った批判は高橋昌明によるものであって、「権門」を家産的所領の体系と本質規定し、その種の形式的共通性によって各権門の本質を等質化すれば、「権門の相異を職能的なものによってしか説明できない」、それは「あるべきものとしての静的なカースト制的な職能分担関係をもつ国家機構(観念形態としての権門体制)をあたかも現実であるかのごとく描いた」という*34。これらの批判は正鵠を射たものである。
 黒田がこのような把握を行った理由は、結局のところ、黒田が「封建制の非領主制的展開」という議論によって、「権門」は直接に封建的な荘園制体系を経済的本質とすると把握し、それを直接に延長したためである。それによって、黒田は権門を独立した家産制とし、貴族階級を縦割りに分解する議論を合理化した。もとより都市貴族が都市近郊において領主的・地主的支配を行っていることは事実であって、その限りでは独立した権力核をもっていることは否定しないが、それは荘園制支配の一部であり、また都市貴族的所有の現実が強い集団性をもっていることは否定できないであろう。「非領主制的展開」説をとらない立場からいえば、このような分解論的な把握は、きびしくいえば経済還元論的な図式的思考にみえる。少なくとも実態分析よりも先に国家職能による分解から出発する議論は問題の抽象化であろう。黒田の議論はたしかに独自な史料の読み方を含み、多くの分野で議論の焦点となるような内実をもっているが、そろそろ、その難解な図式性と卓抜な直感の独特な混淆をときほぐし、詳細に検討すべき段階にあるのではないかと思う。
 おそらく最初に再検討すべきことは「権門」という用語それ自体の理解であろう。黒田は、「権門勢家」という言葉について「権勢ある貴族が政治的・社会的に特権を誇示している状態を指す語」と解説する(傍点筆者)*35。これは黒田が「権門勢家」という語を黒田独特のやり方で貴族範疇と考えたことを意味しているが、しかし、黒田が、この語を採用したのは、この語の語彙論的検討によるものではなく、むしろ黒田のイメージが先行していた。つまり、吉田晶や高橋昌明によれば黒田は、その権門体制論を構想するにあたって、ウェーバーを読み込んでいたという*36。ただ、それらの証言によっても黒田がウェーバーをどう読み込んでいたかは不明であるが、おそらく黒田はウェーバーの家産制支配・名望家支配、そしてフリュンデ封建制の概念の全体を参考にしたのではないだろうか。つまり、黒田は、権門体制論を構想するにあたって、ウェーバーを参考にしつつ、「家産」(荘園制)と「名望」(非制度的権勢)と「職能」(国家的職能)のすべてを表現しうるような言葉として「権門勢家」を選択したのであろうというのが私の想像である。それによって、「権門」は、そのすべてを混淆的にはらむきわめて実体的な範疇として措定されたのではないだろうか。これが現実の国家権力と貴族階級を権門に分解することを先行させて理解するという方法と適合的であったのである。
 しかし「権門勢家」という言葉にはより歴史具体的な意味がある。そもそも「権門」と「勢家」という言葉は相当に異なった言葉である。つまり、「権」も「勢」も、「徳」「威」などと並んで「イキホヒ」と読むが、まず「権」とは「斤」という意味があり、一種の正義観念を前提に国家の「ハカリゴト」に参与するような「イキホヒ」である(「万機」の機にもかかわる)。「徳」には、人々に恩恵をあたえる寛容なイキホヒ、「威」には畏怖をもたらすような神々の激しい勢い、あるいは軍事的な勢いのニュアンスがある。このような問題については、成沢光の指摘にしたがって*37、拙著『かぐや姫と王権神話』で詳しく説明したので、ここでは省略するが、ようするに「権門」は最上級の宮廷貴族の家柄で、王権の公的な意思決定への参与を行う存在である。そして、それと対比すると「勢家」はもっと広い意味で、それに次ぐような政治的・社会的勢力をもった「家」を表現している。貴族階級は、「権門」によって縦割りされるべきものではなく、実体としては、まずは「権門」と「勢家」に階層的に二分した分析することが当然であろう。またそれとあわせて、「勢家」という場合の勢いがもっと多様であることに留意すべきであろう。そこには神々の威=宗教貴族、武力の威=軍事貴族がはいっており、さらに官僚貴族との関係も問題となる。黒田はこれらの語義を無視して「権門体制」という歴史用語を作ったのであって、それを踏襲することはできない。
諸階層の貴族と「陪臣」的都市住民
 律令官人貴族の荘園制的権門貴族への移行過程において決定的なのは、やはり宇多天皇と菅原道真によって開始された九世紀最末、一〇世紀初頭の国政改革であった。論文「荘園制支配と都市・農村関係」*38で述べたように、法的な意味での都市貴族範疇は、ここで成立した。そこには九世紀を通じて展開した王族・貴族の京都外への「留住」を禁止するなどの都鄙関係に関わる一連の法令が含まれていた。これによって、都市貴族は、会坂・山崎・大兄山などを境界とする首都圏の領域内部に居住しなければならないという規定が作られた。私見は、これこそが、戸田が「定住形態に規制されつつ荘園領主に転化した」と表現したところの、中央貴族に対する居住規制の歴史的形態であったというものである*39。このような居住規制が、一一世紀半ば頃までは五位城外の禁制として生きていたことは、西山良平が論じている*40。
 ここに成立した都市貴族の諸流は一〇世紀の間はまだ相当の流動性をもっていた。しかし、この時代のそれなりに厳しい政治史のなかで、都市貴族階級は上中下に分化し、家柄が整理されていった。とくに留意しておくべきことは、九世紀以降、諸道の官僚制の形成が本格的に進み、官人貴族の家柄が形成されたことであろう。これによって太政官――国衙の官僚制は行政技術上は相当の洗練の域に達したといってよい。他方、政争のなかで軍事貴族の家柄が形成されたことは特筆される。これについては高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』*41などによって大きく研究が進んだことはいうまでもない。
 そして何よりも重要なのは、都市貴族範疇の成立がそれに対応する都市住民の諸階層を生み出したことである*42。つまり『新猿楽記』に描かれた西京の右衛門尉の一家が示すように、国家と権門貴族は都市住民上層部から、国家機構・家産機構の下部を構成する諸要員を確保した。彼らは「君・臣・民」というレヴェルではとらえられないような一般に「侍」という言葉で表現することができる陪臣的な存在である*43。もちろん、商工民の存在をとれば、その中心をなす「道々之輩」は関係の官衙に所属することを基本としていた。しかし、彼らは、下級官人、舎人、喚次、下人などの諸身分にわかれ、さまざまな所縁により多様な姿をもって諸権門・諸官衙の下部に組み込まれていた。こういう都市住民の組織こそが、京都に集中した都市的な国家の下部機構の主要な内容をなすものであった。たとえば『源氏物語』(浮舟)に薫大将の従者の内舎人が宇治山荘を預かり、山城・大和に所縁を広げているとあるように、彼らが、畿内各所に人脈を広げていたことも留意しておきたい*44。都市貴族の生活は、そのネットワークの全体によって支えられていた。
 注意すべきなのは、このような都市上層住民のネットワークは、諸権門・諸官衙に囲い込まれるのではなく、社会層としては、それを横断して存在していたことである。そこに都市貴族と都市住民の階級的な対抗関係が存在したことが重要である。櫛木謙周がいうように、このような横断性を成り立たせているものとして、住民各階層の生活過程とも密接な関係がある都市的な公共性(そしてそれに対応する社会的結合)が存在していた*45。黒田の権門体制論の最大の弱点は、そこに都市論が十分には位置づけられておらず、京都というお膝元における対抗関係を評価しないことである*46。
2地方貴族と留住領主制――戸田芳実・高橋昌明・野口実
地方留住貴族の概念についてーー戸田の地方貴族範疇の意味
 さて、平安時代における都市貴族という範疇は、その対極に地方貴族という範疇を生み出した。八・九世紀の国家社会の動きは、相当数の「通貴」身分(五位以上)の支配層が地方社会での活動するという結果を導いていたのである。しかも、彼らの下には、当時、地域で「富豪」と呼ばれた階層が動いていた。この「富豪」という言葉はもっぱら「富」という経済的な側面のみで注目されてきたが、「豪」の側面、強く勢いがあるという側面を無視してはならない。
 前述の「留住」禁止令は、九世紀を通じて、都市の王族・貴族が地方社会に「留住」していく動向に対して発せられたものであるが、この法令には、地方に留住するか、それとも都に帰って都市貴族としての途に戻るかを選択させるという側面があった。その中で、地方に留住することを選択した貴族はたしかに存在し、その中から地方貴族というべき存在の中核が形成された。戸田が、「地方軍事貴族」というべき存在が地域に根を下ろした範疇を提示したとしたことは*47、その延長線上で理解される。このような動向は、従来、常識的には、王族や貴族の「土着」として問題とされてきたが、戸田は、それが史料の上では「留住」とされていることに注目した*48。そして高橋昌明が平氏の伊勢留住と京都への再登場を論じたのが留住論の最初の大きな成果となった*49。そして、このような研究動向は野口実の仕事によってさらに広げられ、否定しがたいものとなったということができる*50。私は、それをうけ、このような存在を地方留住貴族と呼ぶこととしたい。
地方軍事貴族論と国内名士
 この地方貴族の存在は最初、戸田と石井進による王朝国家の地方軍制の研究のなかで進められた*51。とくにまだ都市貴族から分離されてから長い時間をへた訳ではない一〇世紀の桓武平氏のような存在は、権門貴族との縁も深く、国司と対等に近い家柄を誇っていた様子が注目された。そのような地方軍事貴族というにふさわしい存在から「国侍」などにいたるまでの多様性をもった「兵の家」の姿が確認されたのである。
 都市貴族の内部にも棟梁級の武家が発生していたが、たとえば「尾張国郡司百姓解文」で「屠膾の類」とののしられた武士は源満仲の手の者であった可能性が高い*52。地方の武家が早くから都の棟梁級の武家と関係をもっていたことは当然であろう。戸田・石井は国司が主催した「大狩」などの場所に、国司の私的従者をふくむ「館侍」と在地武士としての「国侍がともに参加していたことを論じたが、それが都鄙の武士の交流と組織化の機会となったことは明らかである。
 この国衙軍制の研究は武士論にとってきわめて大きな意義をもったのであるが、戸田はそこで発見した「地方貴族」という範疇についてさらに議論を進めた。「国内名士」という地方名望家を表現する史料用語に注目し、地方貴族範疇をさらに豊富化したのである。*53。西山も国司や諸官衙の上級官人などのさまざまな存在が都鄙を往反し、地方留住の道を新たに選択したことを詳細に明らかにした(西山前掲論文)。そして、私も、その驥尾にふして「高家」という言葉が地方社会で使用されていることを指摘した(本書第一章論文「中世初期の国家と庄園制」)。考えてみると、有名な伊賀国の領主・藤原実遠の父、「諸司の労の五位にて京にしあるくもの」といわれた藤原清廉は、戸田が「都市貴族的な領主」としているように、文官的な国内名士である*54。それに対して「当国猛者」といわれた子どもの実遠は武家的な国内名士・高家であったのであろう。地方留住貴族のなかには、兵と文の双方が重なりあって存在していたのである。
留住領主制と武士団
 戸田によれば実遠の領主制は下人に対する隷属民(「農奴」)支配と所領内の住人支配を行い、家産制権力としての領主制の実質と組織をもつものであった。それは父・清兼から続いているものである以上、相当に広い範囲で交通路と非農業的分業を支配し、さらに村郷規模の小領主あるいは地主的階層をしたがえていたに違いない。
 従来「領主制論」が提供してきた歴史像が全体として古くなっていることは事実であるが、領主制論に対して明瞭な理論的根拠なしに批判が行われている状況は問題が多い。戸田は「領主制が封建制であろうとなかろうと、中世社会の構造にとってはそれが第一義的な存在である」、「中世領主制そのものの構造的特質とそれに固有の再生産・運動の法則を実質的な仕事によって示す」ことが当面の課題であり、「中世領主制が封建的であるかどうかの問題」はその次にくるとした。もちろん、領主制が現実にとる多様な姿や段階を無視しようということではなく、「領主制の段階的な画期の意味を追求することは今後に残された課題である」。しかし、それを明瞭にする上でも「領主制といいうるものは中世の初期にすでに成立しているという見通し」が重要であつというのが戸田の立場であった*55。
 私は、この意見は依然として正しいと考えるものであるが、しかし、そろそろ中世の領主制の諸段階について筋を通した議論が必要ではないかと考える。そういう立場から、実遠の領主経営に典型的なあらわれる領主制の構造を留住領主制と呼び、それは九世紀に原型が生まれ、一一世紀まで二五〇年ほどの間は継続した領主制と位置づけてはどうかと考える。その政治的・社会的な最大の特徴は、それが国衙体制を前提とした領主範疇であることにある。このような議論は、もう一度、石母田ー戸田・河音らによって展開された平安時代の領主論を厳密に再検討することを必要としており、現在のところ仮説にとどまるものであることを認めざるをえないが、しかし、後にふれるようにだいたい一二世紀には各地域で領主制が地頭領主制の実質をもつようになっていたことから逆推して十分に成り立つものと考えている。ようするに、石母田が「私営田領主」と規定した領主制は一一世紀まで基本構造をかえずに続いていたと理解するのである*56。
 かって河音は、「領主制という範疇は、まず厳密に政治史的範疇として理解されねばならない」とのべ*57、すでに一〇世紀から「農奴主階級」の政治戦闘組織として「不善の輩」を雇集した「同類」が活動していたことを強調している*58。これに吉田晶の「伴類」についての研究*59や戸田の「党」についての研究*60をあわせれば、すでに早くから後の「武士団」に対応する組織が留住領主制を基礎に構築されていたと考えることも十分に可能であると思う。
3都鄙関係と侍身分の倣い拡大
都鄙関係の柔構造
 平安時代の支配階級は、以上のような都市貴族とそれに従属的に連合した地方貴族によって編成されていた。首都の権門貴族は、首都への結集という居住形態を維持することによって、自己の活動形態を国衙ルートを中心に局限し、都市機構それ自体がもつ支配力に依存した間接的な形態にとどめていた。これに対して、地方留住貴族は一定の名望、過去の曖昧な伝統、そして権門貴族への「侍」「陪臣」としての緩い従属と奉仕を、自分の家柄の標識としていた。彼らはM・ブロックの用語でいえば事実上の貴族であるにすぎず、本来は貴族の必須条件である法的資格、貴族的な生活様式などを実現していない。そもそも彼らは貴族生活の場となるべき「御所」をもたず、宮廷的社交は京都にのみあった。
 平安時代前半の支配層の構成が、都市貴族と地方留住貴族の相対的に緩い従属関係からなっていたということは、この時代が相対的に自由で、とくに地方社会にとっては「地方の時代」とでもいうべき自由な側面をもっていたことを示している。河音は一〇・一一世紀における地方村落が律令制王国のくびきと同時に未開の種族性から解放され、院政期以降の強力な支配に編成される前の独自な歴史段階にあって、「自由で闊達な雰囲気にあふれ」、自治裁判権さえ有していたとしている。この自治裁判権は処断権をも意味していたから、いわゆる自力救済というべきものであろう。河音は、そこに自由な段階におけるゲルマン共同体の雰囲気を読みとっているのであるが、たしかに、そのような村落社会の様相は、文明と社会的開発の積極的な側面を示している*61。鎌倉時代は権力にとっての「地方の時代」ではあっても、社会にとっての「地方の時代」ではなかったように思う。
侍身分の倣い拡大
 こういう状況の下で都鄙関係は下級の官人や都市住人の活動の場に解放されていた。つまり、都市貴族が城外禁制の下にいる以上、都市住民の「田舎の通い」が不可欠である。国衙ルートではたとえば「受領の共」は都市住人から徴募され、諸官衙はそれに照応する道々之輩の都鄙往反を組織し、諸権門は荘園ルートをもっていた。この地方社会との人的交流に地方社会に根をおく存在が参加してくることによって都市王権は機能したのである。私はかって『今昔物語集』(巻二六―一七)の芋粥の説話を分析したことがあるが、そこに登場する「五位の侍」のような人々が都鄙を往反する様子は、そのようなシステムをよく示している*62。この五位は「所につきて年来になりて許されたるもの」というたたき上げ型の五位であり、彼はそこに立身と致富の夢をかけていた。彼らは権門貴族にとっては「侍」にすぎなかったが、地方に下れば貴族との縁をつなぐ存在となり、地方貴族の権威を増大する。そして、地方社会に京都の都市貴族と同じ身分構造、侍をトップとする家産組織の構造を作り出していく。それが領主制やその下の下人支配などに連接してくることはいうまでもない。
 このようにして地方社会における陪臣身分、「侍」身分(女房を含む)が形成されたのであるが*63、彼らがしばしば後に述べる国衙の土地行政を下請けする刀禰的な階層と重なる存在であったことはいうまでもない。刀禰は都市貴族に仕える存在が地域にもどった時の姿であるといってもよいのである。こにような存在が「臣」と「民」の間を媒介し、都鄙に分厚く存在するという構造が、都市と地方の貴族階級の共通の基盤となっていたということができる*64。
 大山は、かって、このような村落の上に存在する存在について、「荘園の現地を遠くはなれた京都・奈良などの政治都市で日本の荘園領主が悠々と都市貴族としての生活を送りえた秘密の一端を、右にのべたような村落上層の実用主義的行政能力にみることが可能であろう」と述べたことがある*65。「陪臣」「侍」というと人格的関係を表象しがちであるが、むしろ一方で京都の都市貴族に仕え、他方で国衙の小役人=刀禰として活動するような「実用主義的行政能力」の位置が重要である可能性は高い。大山が「都市と農村はこのように血のかよわない一種の合理的関係によって結びつけられていた」と述べているのはきわめて示唆的である。都市王権が、その都市的欲望の肥大化・文明化を駆動力として、それなりの開放性・合理性を担保したことはすでに述べた通りであるが、それが大山のいう都市農村の一種の合理的関係に接続していた可能性は高いと思う。
不善の輩から惣追捕使へ
 私は、このような平安時代の都鄙関係を単純に美化しようというのではない。そこにはいわば「旅の恥はかきすて」という雰囲気が働く。また王朝国家期の自由がいわゆる自力救済に基礎をおいていたことも、紛争の社会的連鎖に歯止めがなかったことを意味する。
 このなかで、前述の「不善の輩」の動きはすでに一種のヤクザ的な組織の風貌をみせつつあった。その上に、地方留住貴族の軍事的性格が強化され、相互のネットワークが拡大するなかで、地方社会は争乱の時代に入っていったのである。そこでは、王家や権門貴族の家産組織において暴力装置の中心であった「厩下部」の組織が地方社会に拡大し、また武家領主の下には「惣追捕使」などを自称するヤクザ的な集団が組織されるようになっていった。彼らの実態は「不善の輩」と相似しているが、ここでは武家領主の暴力は「善悪」の問題ではなく、すでに「追捕」という主張によって正当化されるものになっていた。
 都鄙に拡大した「侍」身分のなかに暴力がすくい、都市と農村の関係は機動的な暴力の発動によって処理されることが多くなっていく。こうして、都市貴族と地方貴族の関係が直接に暴力を媒介とする局面が増大し、内乱の時代、つまり王城での合戦が地方に広まり、地方での軍事的衝突が都に跳ね返る時代が到来するにいたるのである。
Ⅲ都市王権と国土高権の展開
 さて以上を前提として国土高権の問題について、平安期王朝国家を対象として論ずることとしたい。問題は京都に存在した都市王権が、なぜ、全国に対する領土高権をもちえたのかということである。これが王権論にとっては根本的な問題であることはいうまでもない。この契機がなければ「都市王権」は王権たりえないのである。ただ、これは本書のテーマそれ自体であるので、これまでの研究史をふり返ることを中心とし、ここでは簡単に問題の所在を述べるにとどめておきたいと思う。
1「国家の領土高権」と「入会地囲込み」――石母田正の『中世的世界の形成』
 国土高権の問題を歴史具体的な問題としてはじめて論じたのは石母田正の『中世的世界の形成』の第一章「藤原実遠」である*66。この一一世紀半ばの伊賀国の領主・実遠の領主権を分析した著名な一節で、石母田は、領主の領主権や農民の権利(「百姓治田ならびに入会地に対する農民の権利」)の上に聳え立つ「国衙(国家)と村落との特定の依存関係」を「国家の領土高権」として説明した。この「国家の所有権は、石母田がA型と呼んだ条里制内部の口分田・私領とB型と呼んだ四至が示されただけの山林原野(「入会地」や開墾田をふくむ)の双方の上をおおうものであるという。石母田はこの「領土高権」の原型を「大化前代」の「族長の上級所有権」「荒蕪地に対する所有権」に求めており、律令制国家はそれを「国家の土地一般に対する権利として普遍化した」という。
 石母田の議論の特徴はこの国土高権の根源を、この段階においても「族長的」な権限―つまり後に石母田がいう首長制が在地に保存されていたことに求める点にあった*67。古代的なものが残っているから古代的な国家所有が存立しえた。実遠の経営はまだ「古代」的な様相を残しているという訳である。石母田は私営田領主=在地領主はそれ自体「古代」的な権威であって、国衙と政治的に結託して、律令制的な民要地保護政策を蹂躪して入会地を囲い込んだという。石母田の用語法では「在地領主」という用語に何らかの意味で「古代的・過渡的な」様相を含意させている。端的にいえば、在地領主という言葉は、領主制の変化と段階規定が不明な段階で使用された用語であり、石母田の規定には問題が多い。もちろん、現在の段階でも地域の領主という意味で在地領主という用語を使うことはかまわないが、学術用語としての意味は減縮しており、そろそろ使用しない方がよい用語であるということである。
 しかし、石母田が当時の研究段階で私営田領主論の背後に「国家の領土高権」の問題を読みとったのはやはり優れた分析であったことは確認しておく必要がある。また実証的にも貴重であったのは、この「国衙と村落との特定の依存関係」を媒介する位置に刀禰というものがおり、彼らが国衙に属する小役人的な存在であると同時に村落の利害をも代表する存在であるとしたことである。いわゆる戦後派歴史学をになった中世史研究者はほとんど全員が、『中世的世界の形成』のこの部分を熟読することから出発したから、その影響は大きかった。こうして、条里制耕地と山野河海=「入会地」に対する「国家の領土高権」をどう考えるかという問題が研究史上の一種の通奏低音となっていたのである。
2国衙土地制度と山野の貴族的領有――戸田芳実から西山良平・斉藤利男
 石母田の提出した、この二つの問題を正確に検討しようとしたのは戸田芳実であった。まず条里制耕地に対する国土高権については、平安時代の国衙土地制度の研究が必要であるが、これについては石母田も相当のことを発言しているとはいえ、史料による詳細な検討は何といっても遅れていた。その研究は、まず村井康彦によって先鞭がつけられ*68、それを戸田がさらに検証するという形で進んだ。ここでは、戸田が自己の国衙土地制度史研究を総括した論文「平民百姓の地位について」にそって説明すると、国衙領における公田の請作においては、そもそも耕作対象地そのものが条里制耕地内部の「荒熟」の様子によってしばしば流動し、状況に応じて田地を配分しなおすという実態があった。そして、公田を請作する百姓はそれなりに強い有期的な占有権をもち、また自己の私領ももっていたものの、全体的にみれば、その上には強い国司の規制が及んでいたという。戸田はそこには「公田における国家の土地所有」、「国家の『領土高権』」*69が存在するとしている。国司は早くから定まった量の年貢納入を条件として任国の運営を請け負うようになっていたが、とくに九世紀最末から始まった王朝国家の国政改革は受領に専権をあたえて国郡郷組織や四等官制にとらわれない支配を許し、それによって土地所有の国家的な形態を再建したのである。その下で、留住貴族を抱えこんだ九世紀初期荘園は国家的な枠の中に規制され合法化されたのである。
 戸田はこのような体制を「国衙荘園体制」と名づけているが*70、重要なのは、戸田がこのような国衙領の体制的転換は、九世紀の各国国衙の「国例」(慣行的行政法)にもとづき、いわゆる富豪層を身分的に掌握して動員することによって行われたとし、一〇世紀国政改革のなかで発布された九〇二年(延喜二)四月一一日の太政官符が「貞観以来の諸国例」によって「頗る資産ありて事に従ふに堪ふべきの輩」を動員することを令したことに注目していることである(『類聚三代格』巻二〇)。諸国例を中央で一挙に制度化することによって、このような「有資産の輩」を国衙の「雑役」に組織する方向が決定されたというのである。これが国郡郷の組織や四等官制にかわる国務運営の方式であった。
 この「有資産の輩」とは、京都の官衙や貴族に所属する舎人身分や、前官者(散位)などからなっていた。つまり先に問題にした「陪臣」「侍」的階層と重なる人々であるが、西山良平はこのような人々こそ、いわゆる「富豪層」の社会的実体であるとし、「有官・無職」層と名ずけ、彼らの身分が「刀禰の身分に正確に一致している」とした*71。つまり、この法令によって、国衙行政の担い手としての「刀禰」というシステムが整えられたということになる*72。彼らこそが郡司などと並んで平安時代の国衙体制の基礎をなしたことは斉藤利男が明解に論じたところである*73。さらに田村憲美*74・中込律子*75・佐藤泰弘*76などの国衙土地制度に関する一連の仕事が続き、こうして国衙土地制度の実態の研究は面目を一新した。本書第三部付論「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」で述べたように、私は、このような土地制度構造化されているような所有のスタイルを構造的所有と呼ぶことにしている。
 第二の山野河海=「入会地」に対する「国家の領土高権」についても戸田は基本的な仕事をした。まず戸田は八世紀の山野用益の行政法が、「官」以外のすべての「王民」の「民要」を認め、ただしそれを特定の時間と空間に限定し、排他的独占を許さないというものであることを確認する。そして、領主をふくむ山野河海利用は、そのような経済的用益を中心に進んだのであって、山野河海は、その意味で社会的分業の活発な展開の場であったとしたのである*77。石母田は実遠の領主権などについても国衙と結託した古代的権威、「民要地の蹂躪」を強調したが、戸田は問題をより経済史的に即物的にとらえている。
 この「民」の動きは、それ故に非律令的・非国衙的な都市貴族的領有のルートで展開した。これによって諸分野の非農業的な産業組織が供御人・寄人などの都市貴族への奉仕者集団によって都鄙に広まり、それが平安時代における大規模な自然の開発と交通の発展の基礎過程となったことが結論される。後に網野善彦が踏襲して有名になった「非農業」という用語が象徴する多様な社会的分業の世界を地域の村落社会を基軸にして解明していこうという方向が、ここに宣言されている。もちろん、このような山野用益はまったくの野放しではなく、やはり郡司刀禰などによって規制された。戸田は木村茂光の論文「刀禰の機能と消滅」*78をうけて、刀禰は「郷・村・里などの地域の公共的職務」を担い、「とりわけ山野河海にわたる土地の占取用益および所有関係の規制と秩序づけに関わることが多い」ような存在であると定式化している*79。上記の西山・斉藤などの仕事とあわせると、石母田の段階では「不明な点が多い」とされていた刀禰についても基本部分が明らかにされたことがわかるであろう。
 このような活動が行われるのは戸田の言葉では「支配の盲点」をなすような境界領域である。戸田は、そこでは「先占主義」にもとづく相対的に規制がゆるく自由な山野河海の用益が広がっていたという。そして「山野に対する村落の本来的・潜在的な共同体的所有が宗教的に店頭して表現される」形式として地域の有力な神々が「山野の本源的な領主」としてあらわれる事例を挙げている。こういう要素を含みこんだ山野の貴族的・荘園制的領有は、村落共同体がその境界領域に対して展開する領有は吸収して自己の基盤とすることになる。「村落共同体の機能の一定部分は領主権の内部に吸収され、領主は村落共同体の組織を媒介環として農民の支配を実現している」というのが戸田の定式化である。
 やはり付論「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」で詳しく説明したように、私は、このような境界領域における所有形態を、「地先の海・里の山」の所有とは区別してテリトリー的領有あるいは境界的所有の世界と規定してきた。荘園や国衙は、このような村落共同体や供御人・寄人などの奉仕者集団が展開するテリトリーを吸収していった訳である。そもそも村落と村落、地域と地域の間の世界には、裸の自然の力が現れる。荘園村落や奉仕者集団が異なる支配者に属する属する場合は、国家と王権は、それらの間を調整し、またそれらの間の交通世界を支配する公権力として現れる。こうして国土高権の重要な根拠は境界領域の領有・所有の関係に根ざすことになる。
3王土思想と自然としての「地」――木村茂光と網野善彦
 以上が、石母田の問題提起をうけて戸田が詰めてきた「国家の領土高権」についての議論の概略である。戸田は「生産者の集団的所有であった土地が、国家的所有によって代置される」関係という表現をしているが、このようにして石母田の議論は理論的にも実証的にも新たな基礎をあたえられてよみがえり、これを前提として議論は多様な発展を遂げた。
 まず、九世紀末、一〇世紀初頭の王朝国家国制改革について論じた木村茂光は、先にもふれた九〇二年(延喜二)四月一一日の太政官符を国制改革の関係法令の最後に位置するものと位置づけ、この官符に「夫れ普天の下、王土に非ざるはなし。率土の民、何ぞ公役を拒まん」という王土王民思想が登場することに注目した。木村は、これを一〇世紀国政改革を推進した「国制の基本理念」であると論定している*80。九世紀に蓄積された「国例」が、ここで国衙法というべきものに転化したということになるだろうか。もちろん、この問題については戸田も研究の出発点で注目し、これをおもな史料的根拠として「王朝的公民への展望」を語っていたのであるが、そこでは、むしろ「王土思想にもとづく『率土の民』とか『百姓』というような支配対象の観念的把握ではまったく無力であって、いっそう現実を反映した身分規定を支配の武器としてつくらなければならない」*81という側面が強調されていた。しかし、西山・木村・斉藤などによって、ここまで刀禰などの「現実を反映した身分規定」が明らかになると、王土王民思想が「国家の『領土高権』」の表現であったことはもっと強調されねばならないことになるだろう。
 こうして、一〇世紀国制改革の基本理念としての国土高権・王土思想の論理の下で、国衙支配の身分規定の中軸に「刀禰」が位置づけられたということになる。私は、これらをうけて、本書第一章や第七章において、郡司刀禰は刀禰の畦畔を管理する図師の役割からして、国衙の土地行政のなかで、深く条里制の管理に関わっていたであろうことを論じた。郡司刀禰らは各地域の地形や境界に現れる自然としての土地・大地、「地―地本―畦本」の管理者として存在していたのである。つまり、こうして、国衙の土地制度に現れた構造的所有を、研究史にそって、その末端まで追跡してくると、国土高権の下に存在する自然としての大地が見いだされることになる。国家はこのようにして自然を掌握し、あたかもそれを代表するかのようにして、その高権を展開するのである。
 次ぎに山野河海に対する境界的所有の世界について非農業的な分業論の側面から大きな仕事をしたのが網野善彦である。詳細については本書第三部付論「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」にゆずるが、天皇による非農業的分業を通じての「大地と海原の支配」が、その基礎に存在する共同体の「本源的権利」を「吸収・倒錯」させたところに成り立つという議論である。網野が「戸田のいう通り、荘園領主の支配はそれ(村落共同体)を吸収・倒錯させたところに成り立っているのであり、それ故に天皇の支配権と異質のものではありえなかった」としているように、それは戸田の論文「山野の貴族的領有と中世初期村落」を直接の前提としてた*82。
 網野の仕事が優れていたのは、山野河海の用益の広域性と供御人・寄人の交通活動の広域性を活写したことで、網野がそれを素材に「無主」「無縁・公界・楽」の世界という議論を展開したことはよく知られている。とくにそれによって広域的な境界的所有あるいはテリトリー的所有の姿を具体的に描くことが可能になったことは特筆される。
 さらに注意しておきたいのは、先にふれたように、網野がその都市論において「都市的な土地制度」における「地」という用語を摘出し、同時に、この言葉が自然としての土地・大地を表現するものとして使用されているとしたことである。詳しくは本書第七章「土地範疇と地頭領主権」で議論することになるが、郡司刀禰らの条里制的な耕地管理が「地―地本」という用語によって行われていたということ、さらに新制などにおいて王土思想が「九州の地」などと「地」という言葉で表現されたことを考えると、これは国土高権論にとって中心問題であった可能性がある。網野は土地範疇論の展開を中断していたが、この「地」という範疇の問題は、最晩年に網野が挑んだ中田薫の「職」論の再検討にもかかわるある意味で決定的な問題であったと考えている*83。
4広域権力の形成と地頭領主制
 国土高権は、それが王土思想を内在させていることからもわかるように、きわめてイデオロギー的な関係であるから、黒田(紘)が明らかにした法的関係、そして大山喬平が論じた「キヨメの都市的構造」の地方波及などの諸関係とそれは一体となっていた。大山が注目した「神道」の問題も大きい。それらはすべて天皇のいる「王城」を中心に編成されていたのであって、その意味ではまさに都市王権のイデオロギーであった。
 しかし、社会構成論の側面からいえば、国土高権は実在的には都市貴族と地方貴族の階層的構成によって支えられていた。都市貴族と地方貴族の階級的な連携と多様なネットワークによって国土がおおわれていること自体が、国土高権の構造軸であったことは明らかである。それ故に、院政期にむけての国土高権の変化は、この構造それ自体において動き始めることになる。
 第一は国家の中で軍事力の位置が高くなったことである。よく知られているように、崇徳クーデター事件(保元の乱)の後に発布された後白河新制における「九州の地は一人の有つところなり。王命のほか何ぞ私威をほどこさん」『平信範日記』保元一年閏九月一八日条)という宣言には軍事力を背景とした昂ぶりが露わである*84。国土高権の背骨をなす都市による農村支配は直接に物的な軍事力を基礎とするようになったのである。
 そもそも、院政期の到来とともに源氏・平氏の武門の貴族が軍事的な都鄙ネットワークを強化しはじめた。その典型というべきなのは、やはり伊勢平氏が留住した地方軍事貴族という立場から、白河院の時代における王統をめぐる政争の中で、中央宮廷に入りこんだという高橋昌明が論証した事実であろう(高橋昌明『清盛以前』)。また東国に留住した源義朝が文官的な留住領主の典型である熱田大宮司氏と結合して中央進出をはかったことも同様の事態であろう。熱田大宮司家は、一方で三河大夫とか額田冠者などという字をもって地域で活躍するとともに、高階氏、高倉氏などを通じて王権へのコネを確保していた*85。これらの事例は留住貴族の行動から政治史が流動化したことをよく示している。武門の貴族は、このような軍事的ネットワークの形成によって、従来の都市貴族と地方軍事貴族の緩い連合を換骨奪胎していった。平安時代は、地方貴族社会が一定の結集軸と構造をもちはじめ、より強固な国家体制の枠を構成していく時期でもあったといわなければならない。留住貴族がそこで作り出したネットワークの様相については、野口実「豪族的武士団の成立」*86を参照されたい。
 武門の貴族の武力は早くから支配階級内部の王権をめぐる争いのために存在したが、院政期において、それがシステムとして動き出した。問題は、これが王家・王族内部の激しい矛盾・闘争の中で実現されたことであって、保元の乱において王城における大規模な戦闘が展開し、それによってすべてが決着したことが重大であった。事柄の本質からして、それは国土高権と知行体系の軍事化、それ故に、王者の私的利害の表面化、権門貴族内部における激しい争い、そして武家貴族(軍事貴族)の宮廷貴族に対する優越という過程をともなっていた。こうして、律令貴族から荘園制的な権門貴族への移行において、一一世紀までにおける宮廷貴族の優位の時代が終了し、日本においても院政期において軍事国家化が進展しはじめたのである。
 これに対応して地域社会では地方武家領主の間の領主連合が、しばしば国の範囲を超えるような広域的なネットワークに展開した。その背景には院近臣などが知行国制のなかで隣接する諸国、地方を継続的に支配していたこと、源氏・平家などの棟梁クラスの武士が広域にわたる勢力圏を確保したことなどがあったが、その下で地方の武家領主はいわば中央直結のシステムとして再編されたのである。現地ではしばしば院権力を背景とした広大な荘園の立券が行われる。その中で彼らは「地頭」と呼ばれたが、「地頭」の本来の語義は、本論で詳論するように荘園の境界領域という意味にあった。従来の国衙の土地行政においては、その管理は郡郷司刀禰の役割であったが、武家領主がこれを包含したのである。こういう段階に到達した領主制のあり方は、従来の留住領主制とは区別して地頭領主制というべきものである。
 以上のような経過をへて形成された鎌倉期の国家は「武臣国家」とでもいうべき国家であった。一一八〇年代内乱後の一時期、頼朝の国制的な地位が「日本国惣地頭・惣守護」であったことを根拠として、武家は「天皇」に媚びを売りつつ、実際上の「副王・覇王」ともいうべき地位を担保した。本書第三部で、その国制と政治史にそくして論じたように、これは院政期国家、平氏政権の連続的な展開の結果であったといわねばならない。そして、地頭領主制の形成がそのすべての基礎にあったのである。
おわりに
 以上、都市王権・貴族・国土高権などの範疇について論じ、さらに平安時代の領主制範疇に関する提案まで行ったが、これはあくまでも荒いスケッチにすぎない。とくに欠けているのは、各所で述べてきた東アジア的な規定性の問題であって、巨大な首都の存在はそれを考慮しなければならないことはいうまでもない。さらにその観点からいえば、前述のように、都市における陪臣的な「侍」階層が地域において小役人的な役割を果たす「刀禰」と共通する存在であったことも重要であろう。これは中国の宋帝国における胥吏の分厚い存在と重なるものである可能性があるというのが私見である。そしてこれらはすべて峰岸純夫が強調する「東アジアの共通分母」としての地主的階層をどう位置づけるかという問題に関わっており*87、戸田・河音・大山が論争を重ねた問題であることもいうまでもない。
 しかし、これらについてはすべて今後の議論に譲らざるをえない。ここではただ、都市王権論について、その問題提起を受け止めていただいた側からもすでに提出されている疑問について応答し、若干なりとも問題の性格を明瞭にしておきたいと思う*88。
 その疑問とは東島誠と櫛木謙周によるもので、東島の疑問は「この『都市王権』の構造に鎌倉幕府の草創と滅亡という二つの転機がどう絡んでくるのか」、鎌倉期から南北朝期以降は明瞭に「中世国家の<複数性>」が問題になるのではないのか、それと「都市王権」論はどう関わるのかというものであった*89。そして櫛木謙周は、「(保立は)都市王権の次の時代を地域複合国家とするが、両概念は時代を分かつ同一レヴェルの概念といえるかどうか疑問が残る」*90という。両者の疑問は鎌倉期以降への展望はどうなっているのかという点では同じ問題である。
 端的にいえば、私は地域論的な視野からいうと、まず一一八〇年代内乱を佐藤進一の東国国家論の立場で考え*91、鎌倉期以降については一九七九年の歴史学研究会大会における中世史部会報告、伊藤喜良「室町期の国家と東国」*92、佐藤博信「戦国期における東国国家論の一視点」*93がいう「地域複合国家論」でとらえている。これを前提にして、まず東島の疑問についていえば、「都市王権」という用語は歴史的規定としてはあくまでも平安時代の王朝国家にふさわしいものと限定しており、鎌倉期以降については「中世国家の<複数性>」を承認している。また櫛木の疑問については、「都市王権」という用語は国家の特徴を地域的視座から論及したものであって、その意味では「地域複合国家」と同一レヴェルの概念といってよいと考えている。
 もちろん、根本にさかのぼれば、前近代の歴史段階を異にする諸国家は社会構成論的に考察する必要がある。ヤマト貢納制国家、奈良・平安時代の王朝国家、鎌倉・室町時代の武臣国家―旧王ー覇王(武王)体制などについては、そのような作業がおのおの必要になり、さらにその移行過程を論ずるというのが戦後派歴史学以来の重い課題となっているのはいうまでもない。
 しかし、それとは区別された意味での国家形態ということになれば、前近代国家においては、その歴史的な特徴を規定するもっとも重要な契機は民族的諸関係をふくむ地理的関係、地域間諸関係ではないだろうか。とくに広域的な地域権力が形成された場合、そこには地方貴族の集住によって一種の宮廷社会(「御所」)が形成されるのであって、地理的関係の実態は貴族の存在形態に直結してくる。たとえば、鎌倉は急速に「御所」として発展したが、「国家の<複数性>」とはまず「御所」の複数性であることに注意する必要があるだろう。もちろん「都市王権」を継受した京都の権力と「御所」の位置はきわめて大きく、土地領有の集団的性格や集中は強固に存続している。しかし、それが、京=畿内権力という地域性を強化する形で行われたことが重要である。国家形態を規定する地理的要因には、このような都市と都市間ネットワークの問題をふくめておく必要がある。私は、以上のような意味で、律令制王国については、以前に拙著『黄金国家』で提示したように「民族複合国家」*94、王朝国家については「都市王権」、そして武臣国家については「地域複合国家」という規定が国家史を具体的にとらえるためには必要であると考えてきた。
 もう一度、右にふれた伊藤・佐藤報告が行われた一九七九年の歴史学研究会大会に戻ると、そこで問題提起を行った市村高男は「相対的ながらも自立性・完結性かつ求心的性格を有する地域社会と、そこに形成された地域権力を如何に把握していくのか。すなわち単なる中間行政庁としては処理しえぬ『国家』的様相を帯びた地域権力、またそれに系譜を引く巨大な地域権力を中世国家との関係でどのように評価していくのか」と問題を見通している*95。
 そして佐藤報告は後北条氏が村上淳一『近代法の形成』のいう「国王留保権」=国家高権を行使し、広域的な関八州体制の事実上の国王の地位についたとした。そして報告の観点からは、戦国時代は、各地方で展開した広域ブロック権力が相互に唯一の覇者を目指して争った戦争の時代であり、秀吉の惣無事は広域権力を国分によって(後の江戸時代でいう)一国大名にまで追い込み、自己の権力に唯一の広域性を確保しようという方向に国家史を推転させたということになるだろう。後北条の関八州国家体制が幕藩体制の最大の国家史的前提であったことはいうまでもない。これに対して、伊藤報告は戦国期の広域ブロック権力の前提をなす室町期の広域守護の複数領国を念頭において、室町期国家=地域ブロック権力連合論を打ち出した。それは、地域国家が「従属的な地域政権」、いわば従属的な小国家として大国家の一部に統合されている構造をどうとらえるかという問題意識につらぬかれていた。
 この歴史学研究会大会中世史部会の大会テーマは「中世国家論と地域史研究の課題」というものであったが、その問題提起の研究史的な画期性は、網野善彦がこれと競うようにして独自な「東国国家論」を展開したこと、またしばらく間をおいて歴史学研究会中世史部会があらためて「地域論」的な方法の重要性を打ち出して大きな成果を残したことの関係もあって見逃されがちかもしれない。しかし、市村の見通しは、現在からみてもすこぶる正確なものであったといえるのではないだろうか。私は、この大会をうけて、このような「地域複合国家」の構造を作り出した過程を探るという想定の下に、平安時代末期の内乱と戦争の時代を考えてきた。

以下注

*1仁藤智子「平安時代史研究に今、問われるもの」(『歴史評論』六五四号、二〇〇四年)
*2戸田芳実「王朝都市論の問題点」(『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、初出一九七四年)
*3Mウェーバー『都市の類型学』(『経済と社会』第九章、創文社)
*4『シンポジウム日本歴史⑥荘園制』一五三頁、学生社、一九七三年。このシンポジウムでの議論は、この段階での方法議論の状況をよく示している。たとえば、この戸田の発言は網野善彦が供御人の広域的な交通特権の存在と公田制の存在は関係する問題なのではないかという発言に対する意見の開陳である。その他、大山喬平が王朝都市という用語を使用して都市貴族的所有論を展開しているが、これは王朝都市という用語の早い例ではないかと思える(一〇二頁)。
*5工藤敬一「日本中世の土地所有の理解について」(『荘園制社会の基本構造』校倉書房書房、初出一九六〇年)
*6この用語については保立「情報と記憶」(『アーカイヴズの科学』上、柏書房、二〇〇三年)を参照
*7黒田紘一郎「日本中世の国家と天皇」(『中世都市京都の研究』校倉書房、初出一九七六年一二月)。報告自体は一〇月に行われた。なお、この報告にはウェーバー『古代社会経済史』やミッタイス『ドイツ法制史概説』などの戦後派歴史学において一般に利用された歴史理論書にもとづいて、いわゆる国王罰令(Konigsbann)が狩猟・漁撈の特権、さらに流通特権、交通特権などを含むことが論じられている。日本天皇制についても、このレヴェルでの論理を通すことが必要だという理解は、私たちが共有してきたものである。
*8保立「都市王権論の原型」『歴史学をみつめ直す』校倉書房)。
*9保立「町の中世的展開と支配」(『日本都市史入門』Ⅱ、一九九〇年)
*10保立「中世前期の新制と沽価法」(『歴史学研究』六八七号、一九九六年)
*11黒田俊雄「中世天皇制の基本性格」(『黒田俊雄著作集』法蔵館、第一巻)
*12黒田俊雄「中世の身分制と卑賎観念」(『黒田俊雄著作集』第六巻)。黒田はこの「臣」を二層にわけて「臣下の下層」「諸大夫・官人」を措定し、それを「侍」とする。厳密には「侍」は陪臣とみるべきであるというのが私見であるが、黒田の「公的階層的な身分秩序」という見方には異論はない。後に述べるように黒田は私的家産的な性格を軸として権門体制論を組み上げるのであるが、逆にそれだけに国家体制が「公的階層的支配隷属関係が優越的であり、したがって私的大土地所有者が各々個別的に直接に収取に乗り出すよりはむしろ国家機構や国王の権威を多分に利用する」という点に「日本封建制の特質」があることを強調した。こうしてその理論的把握は透明性を欠くとはいえ、結果としては正当な側面が多いことになった。
*13黒田紘一郎「中世都市成立論序説」(前掲『中世都市京都の研究』、初出一九七三年)
*14大山喬平「中世の身分制と国家」(『日本中世農村史の研究』岩波書店、初出一九七六年)
*15なお、私は、「神道」が都市王権の清浄を維持するための都市的な宗教システムとしてうまれたと考えている。これについては保立『かぐや姫と王権神話』(洋泉社新書y)および「『竹取物語』と神道」(『国文学 解釈と鑑賞』七六巻八号、二〇一一年)を参照されたい。
*16大山『ゆるやかなカースト社会・中世日本』校倉書房
*17網野善彦「中世都市論」(『網野善彦著作集』岩波書店十三巻、初出一九七六年、)。
*18ここでは代表として、山本幸司『穢と大祓』(平凡社選書)および片岡耕平『日本中世の穢と秩序意識』(吉川弘文館、二〇一四年)を挙げておきたい。ただ、片岡は神祇が顕密仏教の世俗的な一部をなすという黒田の議論を批判し、大山がそれをそのまま前提としているようにいうが、研究史的には大山の見解が「神祇」について着目していることが重大であると考える。また私は、神祇が顕密仏教の世俗的な一部をなすという黒田の理解は宗教的な教義や組織の実態としては事実であると考える。それと顕密仏教の国家的職能が神祇体系の維持・補充にあったというのは別のレヴェルの問題であるように思う。参照、保立「日本中世の諸身分と天皇」(『講座・前近代の天皇』青木書店、一九九三年)
*19仁藤智子「『都市王権』の成立と展開」(『歴史学研究』七六八号、二〇〇二年)。
*20保立前掲「日本中世の諸身分と天皇」。なお石井進「院政時代」(『石井進著作集』第三巻、岩波書店、初出一九七〇年)は院政時代以前については神性の側面を指摘している。河内祥輔『中世の天皇観』(山川出版社、二〇〇三年)は、さらに摂関家についても神性を指摘している。
*21保立『黄金国家』青木書店、二〇〇四年
*22保立前掲「日本中世の諸身分と天皇」
*23保立『平安王朝』岩波新書、一九六九年
*24谷川道雄『中国中世の探求』日本エディタースクール出版部
*25石母田「『宇津保物語』についての覚書」(『石母田正著作集』岩波書店、第一一巻)
*26石井進「『中世的世界』と石母田史学の形成」『中世史を考える』校倉書房、一九九一年
*27河音能平「中世封建時代の土地制度と階級構成」(『河音能平著作集』1、文理閣、初出一九六四年)
*28『歴史学をみつめ直す――封建制概念の放棄』校倉書房、二〇〇四年
*29河音は戸田芳実・大山喬平・工藤敬一などとの協同研究を展開したが、そのなかで河音学説がもっている独自の位置については、『河音能平著作集3ーー封建制理論の諸問題』の解説(保立)を参照されたい。
*30黒田権門体制論のこのような側面については、私も「黒田俊雄氏の学説の位相」(前掲『歴史学をみつめ直す』)で詳しく述べたことがある。このような達成は黒田の強い思想性や原則性によってもたらされたのであるが、しかし、それが逆に、以下に述べるような黒田の弱点をもたらしたように思う。なお、しばしば武士発達中心史観の責任がいわゆる領主制論にあるかのような主張をみる。黒田にもそのような趣旨の発言がある。しかし、このような「史観」は一つの社会的な通俗歴史イデオロギーであったというべき点があり、直接に学術的な主張にその責を帰すのは適当ではない。とくに、この武士発達中心史観は実際上、王家内部の諸矛盾を正面から議論しない「摂関政治史観」と結びついて機能しており(保立『平安王朝』序、岩波新書)、ここからすると、問題は平安時代史研究におけるアカデミズム歴史学の全体に責任があったというのが私見である。
*31黒田俊雄「中世の国家と天皇」(『黒田俊雄著作集』第一巻、初出一九六三年
*32永原慶二「中世国家史の一問題」『永原慶二著作選集』第七巻、吉川弘文館
*33石井進『日本中世国家史の研究』『石井進著作集』第一巻、岩波書店
*34高橋昌明「中世国家論準備ノート」(『文化史学』二二号、一九六七年)。なお高橋論文には権門体制論は「天皇=国王と権門としての院・上皇を切り離す」ものであること、「単純な反映論」の傾向があることなど鋭い指摘がある。
*35黒田俊雄「権門勢家」『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館、四七頁
*36吉田晶「権門体制論の頃」『黒田俊雄著作集』第一巻、月報
*37成沢光『政治のことば』(講談社学術文庫)
*38保立前掲「荘園制支配と都市・農村関係」
*39保立「荘園制支配と都市・農村関係」(『歴史学研究』一九七八年大会別冊)、同「律令制支配と都鄙交通」(『歴史学研究』四六八号)
*40西山良平「平安京と農村の交流」『都市平安京』京都大学学術出版会、二〇〇四)
*41高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』東京大学出版会、一九九九年
*42なお、斉藤利男が論文「荘園公領制社会における都市の構造と領域」(一九八四年歴史学研究会大会報告、『歴史学研究』五三四号)で使用して以来、しばしば「都市領主」という用語が使用されるようになった。斉藤が提起した意味での「都市領主」という用語の積極的な意味は明らかであって、都市および都市近郊において展開される領主制は、(地主制との関係に注意しなければならないが)現実に存在する。それがいわゆる「宅」の論理をふくみ、地域の領主支配と同じ論理構造をもっているのも戸田が指摘している通りである(戸田前掲「王朝都市論の問題点」)。都市住民の諸階層という場合も、そこに注意する必要は高い。しかし、荘園領主それ自体を都市領主という用語で呼称することは正しくないと思う。
*43保立前掲「日本中世の諸身分と天皇」
*44西岡虎之助「上代文学に現われた民衆生活」(『民衆生活史研究』)
*45櫛木謙周『日本古代の首都と公共性』塙書房、二〇一四年
*46なお、黒田(俊)には権門体制都市論があるが(「荘園制社会と仏教」『黒田俊雄著作集』第二巻)、それは公家都市=京都、寺社都市=奈良、武家都市=鎌倉という権門体制論そのままの構成になっており、同じ問題を抱えている。
*47戸田「中世成立期の国家と農民」(前掲『初期中世社会史の研究』)
*48「領主的土地所有の先駆形態」(前掲『日本領主制成立史の研究』)、「中世成立期の国家と農民」(前掲『初期中世社会史の研究』など。
*49高橋昌明「伊勢平氏の成立」「伊勢平氏の展開」(『清盛以前』文理閣、初出一九七五年)
*50野口実『坂東武士団の成立と発展』(弘生書林、一九八二年)、同『中世東国武士団の研究』(高科書店一九九四年)
*51戸田「国衙軍制の形成過程」(前掲『初期中世社会史の研究』)。石井進「中世成立期の軍制」(『石井進著作集』第五巻、岩波書店)
*52保立前掲『平安王朝』
*53戸田「王朝都市と荘園体制」(前掲『初期中世社会史の研究』)
*54戸田「『私営田領主』の構造」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店)
*55戸田「中世の封建領主制」(『日本中世の民衆と領主』校倉書房、初出一九六三年)
*56石母田「古代の転換期としての十世紀」(『石母田正著作集』第六巻)
*57河音「平安末期の在地領主制について」(前掲『河音能平著作集』1)
*58河音「日本封建国家の成立をめぐる二つの階級」(前掲『河音能平著作集』1)
*59吉田晶「平安中期の武力について」(『ヒストリア』四七号、一九六七年
*60戸田前掲「中世成立期の国家と農民」
*61河音「『今昔物語集』の民衆像」「日本中世村落の政治的編成」(前掲『河音能平著作集』1)
*62保立「説話芋粥と荘園制支配」(『物語の中世』講談社学術文庫)
*63保立「中世民衆のライフサイクル」(『中世の女の一生』洋泉社)
*64保立前掲「日本中世の諸身分と天皇」
*65大山「中世史研究の一視角」(前掲『日本中世農村史の研究』)
*66石母田『中世的世界の形成』(『石母田正著作集』第五巻)
*67石母田の「領土高権」論そのもの、および石母田の首長制論への移行については現在の平安時代史論のレヴェルからは大きな疑問がある。しかし、この問題はまずは石母田の中田薫の国土高権論への態度の問題から詰められる必要がある。『中世的世界の形成』第二章東大寺第三節1、及び「古代法と中世法」(『石母田正著作集』第八巻)を参照。
*68村井康彦『古代国家解体過程の研究』岩波書店、一九六五年
*69戸田「平民百姓の地位について」(前掲『初期中世社会史の研究』初出一九六七年)。なおここで戸田が「領土高権」の語に引用符をつけているのは、いうまでもなく石母田によったものである。
*70『シンポジウム日本歴史5、中世社会の形成』学生社、一九七二年、一〇一頁
*71西山「平安京と周辺農村」(『新版古代の日本』⑥近畿Ⅱ、角川書店、一九九一年)。
*72「一〇世紀初頭における王朝国家体制の成立にともない国司―郡司―刀禰という新たな在地支配体制が成立した」という見通しは、早く井上寛司「刀禰の成立と展開」(『待兼山論叢』四号、一九七一年)によって提出されていたが、それが確証されたことになる。なお、この井上論文は石母田段階の刀禰論を次の段階の刀禰論につなげたという位置にある論文である。関係論文リストについても、この井上論文を参照。
*73斉藤利男「十一~十二世紀の郡司・刀禰と国衙支配」(『日本史研究』二〇五号、一九七九年)。
*74田村憲美『日本中世村落形成史の研究』校倉書房、一九九四年。
*75中込律子「十・十一世紀の国衙支配機構と国内支配構造」(『平安時代の税財政構造と受領』(校倉書房、初出一九八五年)。なお、この中込著書には七〇年代の在庁官人制や別名制についての研究視角を乗り越え、また「古代史」の側の官僚制論理で問題を処理しようという視角を批判する明解な研究史総括論文がふくまれている。
*76佐藤泰弘『中世社会の黎明』京都大学学術出版会、二〇〇一年
*77戸田「山野の貴族的領有と中世初期村落」(前掲『日本領主制成立史の研究』初出一九六一年)
*78木村茂光「刀禰の機能と消滅」(『日本初期中世社会の研究』校倉書房、初出一九七四年。
*79戸田「律令制からの解放」(前掲『日本中世の民衆と領主』、初出一九七五年)
*80木村茂光「一〇世紀の転換と王朝国家」(『日本史講座』③、東京大学出版会、二〇〇四年)。
*81戸田「平安初期の国衙と富豪層」(前掲『日本領主制成立史の研究』初出一九五九年
*82網野「天皇の支配権と供御人・作手」(『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店)
*83網野「中世前期の都市と職能民」(『網野善彦著作集』別巻、初出二〇〇三年)。
*84石井進前掲「院政時代」。なお村井章介「王土王民思想と九世紀の転換」(『日本中世境界史論』岩波書店、初出一九九五年)のいうように、石井は保元新制を王土王民思想のはじめての典型的表現であるとしたが、それらはすでに九世紀から確認可能である。私は、保元新制における王土王民思想の宣言の意味を本文のように考える。
*85保立『義経の登場』NHKブックス
*86野口実「豪族的武士団の成立」(『日本の時代史⑦院政の展開と内乱』吉川弘文館)
*87峰岸純夫『日本中世の社会構成・階級と身分』校倉書房。なお本書については『史学雑誌』一二〇編九号に書評を執筆した。
*88なお仁藤智子は八世紀・九世紀・一〇世紀の王権を都市論との接点で系統的・段階的に明らかにする仕事に取り組んでおり(『平安初期の王権と官僚制』吉川弘文館、二〇〇〇年)、それと比べると拙論はおおざっぱで、特に八世紀からの移行論に欠けるものである。今回は本書の構成からして律令制王国からの移行論における都市王権論については力が及ばないことを御断りする。
*89東島誠『公共圏の歴史的創造』東京大学出版会、二〇〇〇年
*90櫛木前掲『日本古代の首都と公共性』
*91佐藤進一「寿永二年十月宣旨について」(『日本中世史論集』岩波書店、初出一九五九年)。なお石母田は、たとえば「鎌倉政権の成立過程について」(『石母田正著作集』第九巻)などで幕府権力を「公権力」としており、佐藤説を前提に議論を展開した。
*92伊藤喜良「室町期の国家と東国」(後に『中世国家と東国・奥羽』校倉書房所収)
*93佐藤博信「戦国期における東国国家論の一視点」(『歴史学研究』一九七九年大会報告別冊)
*94民族複合国家の規定については保立前掲『黄金国家』を参照。
*95市村高男■■■『歴史学研究』四六八号

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