若狭湾沖の海底断層に発する歴史地震について、『方丈記』の「海は傾きて陸地をひたせり」という地震は若狭湾沖地震ではないか。

 以下は拙稿「繰り返された平安時代の近江地震」(橋本道範編『自然・生業・自然観』小さ子社、二〇二二)の若狭湾沖地震にとくに関わる部分です。『方丈記』の「海は傾きて陸地をひたせり」という地震は若狭湾沖地震ではないかというのはあくまでも私の想定ですが、若狭湾沖の断層は福井県の地震災害予測には十分に顧慮されていないというのは、万が一のことが起きた場合、賀茂長明に申し分けないことです。

 1185年(元暦2)7月9日の近江山城地震の歴史史料については西山昭仁による分析があり(西山1998・2000)、私も論じたことがある(保立2012b)。それらによって簡単に紹介すると、この地震は京都では白川から東山の寺社に被害が及び、内裏、院御所にも被害がでている。また山科盆地から宇治にかけての地震動も、京都東縁部とほぼ同等の強さであろうとされ、醍醐寺から宇治橋まで被害をうけたという。
 近江ではまず琵琶湖で湖水が北流して南部の湖岸が約40メートル後退した。また田地が液状化する被害がでている。比叡山でも惣持院とその廻廊、院内諸堂などのほか山頂の寺院が相当の被害をうけている。『方丈記』はこの地震で「巌われて谷にまろびいる」という事態が起きたというが、それは文飾ではなかったろう。この地震は「延暦寺の創建以来、最大の地震被害の事例である可能性が高い」(西山2000)。
 問題はこの地震の全体像であるが、地震学の掘削調査によって琵琶湖西岸断層のうちの堅田断層が震源断層であることは確定している(金田2008)。その北の比良断層も動いたとされるが、堅田断層の南の比叡断層は確定不能、その南の膳所断層は動いていないであろうとされている(小松原2012)。ただ、私は宇治の南東の田原でも相当に揺れたと想定できる史料を追加し、醍醐山地の麓を宇治川まで続く黄檗断層群も動いたのではないかと論じた(保立2012b)。なによりも問題は近江北部及びその北の断層と地震動の評価で、琵琶湖で湖水が北流したというのは北琵琶湖の周辺と湖底で相当の沈下があったと考えるほかないとすると、比良断層より北の断層の動きもあったのではないか。林博通など(2012)によれば、琵琶湖北部には地震で沈んだとみられる湖底の村落遺跡が相当数あるという。最近は近江塩津港遺跡で地震の墳砂跡が発見され、「津波」によって多くの柱根が約5~10度、北側に傾いていたことも明らかになっている(横田2011)。
 拙論では「美濃・伯耆などの国より来る輩曰く、殊なる大動にあらず」(『忠親記』元暦2年7月9日条)という史料に注目した。伯耆があがっているのはこの情報は日本海側に関わることを示している。美濃・伯耆以遠が「殊なる大動」でなかったということは、逆にいえば美濃・伯耆の間、つまり越前・能登・近江・若狭・丹波・丹後は「殊なる大動」=激震であったことになる。震度6までいったのであろう。西山は「殊なる大動」をややゆるく解釈し、美濃・伯耆以遠は震度2・3の範囲に止まっていたとしたが、間の地域の震度は論じていない。
 これは『方丈記』の「海は傾きて陸地をひたせり」という記事を文飾とみる見方への疑義を引き起こす。また『方丈記』の津波記事が事実であるとする場合も、この津波が大阪湾ではないことは確実なので、現在では近江塩津港遺跡の「津波」にそれを求める場合が多い。しかし琵琶湖で本当に「海は傾きて」といえるような津波が起こるかは疑問だろう。1586年の「天正地震」では、京都・近江が大きく揺れるとともに丹後・若狭・越前を津波が襲っており、これと同様の津波が日本海側を襲ったと理解する方が無理はないと考える(なお、山本博文ほか2016aによれば福井県高浜町薗部の海岸低地部において1m以浅に(津波)イヴェント砂層が3層確認され、14~16世紀とみたが、砂層の年代の相違は不明であったということである。3層で300年というのは問題を残す。精密な面的調査によって今後、12世紀末の砂層の存否が確認されれば『方丈記』の津波記述の評価は決まるであろう)。
 以上、1185年地震は相当に大きな地震であったように思う。濱修(2010・2012)が総括的に報告している近江における12世紀の可能性がある4件の地震痕跡(栗東市下鈎、大津市穴太、日野町五斗井、蛍谷遺跡。なおもう一件の塩津港遺跡は、この地震によるものであることが確定している)のうち少なくとも何件かは、この地震によるものである可能性があり、今後、考古学と地質学の組織的な協力によって面的な解析が進展することに期待したい。
 なお、『平家物語(延慶本)』には、龍神調伏法を行おうとした叡山衆徒らの夢に琵琶湖の龍神が現れ、被害を及ぼした龍は伊勢の海の龍であると弁解したという(『平家物語(延慶本)』)。これはこの地震が壇ノ浦での平氏の敗北のしばらく後であるだけに「平相国龍になりてふりたると世には申しき」(『愚管抄』)といわれたことと関係し、伊勢の龍とは龍の本性が平家(伊勢平氏)に関係するという暗喩であるというのが穏当な解釈であろう。ただ、あるいは伊勢で地震が起こす龍が動いたのだ、琵琶湖の龍は動かなかったというような意味を含むとすると、この地震が南は伊勢をも揺らしたと理解できることになる。仮想にすぎないが記しておきたい。
 次に第三の1586年(天正13)11月29日地震は、ルイス・フロイスの書簡の生々しい報告や、『多聞院日記』の「美濃・尾張・江州には今度の大地震に人多く死す」、『兼見卿記』の「丹後・若州・越州浦辺波を打ち上げ在家ことごとく押し流す」などという記事によってよく知られている。この地震は、近畿地方のみでなく非常に広い範囲を揺らし、丹後・若狭・越前に津波を引き起こしている。この地震の震源断層が美濃から伊勢にかけての養老断層のみであるとすれば、この津波の発生は考えられない。それ故に大津波の存在自体を否定する見解もあったが(瀬戸口2013)、最近では明瞭な津波痕跡も確認されている(山本ほか2016a,b)。この津波は、外岡慎一郎が述べるように「近畿三角帯の右辺を構成する断続的な破砕帯が越前若狭に異なる地震被災をもたらす」と同時に、「5から8メートル超の津波を襲来させる力量をもつ」「若狭湾の海底断層」の動きにもよって発生したものであろう(外岡2013)。これが『方丈記』の1185年地震における津波記事をどう評価するかに深く関係していることはいうまでもない**1。

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