本居宣長・平田篤胤の産霊神道と「国家神道」

 「国家神道」という言葉は使用しない方がよいのではないか。戦争中の皇国主義は信仰や宗教ではなかった。同じように「皇国史観」というのもまずいのではないか。平泉澄もいうように、あれは「史観」ではない。

産霊神道と「国家神道」
 さて、普通、本居と平田の神道は『古事記』の昔に「復古」しなければならないという意味と、明治維新の「王政復古」に思想的な基礎をあたえたという意味で「復古神道」と呼ばれる。しかし、それはあえていえば形式的な捉え方であって、ここではむしろ彼らの神学の教義内容に従い、その至上神としてのタカミムスヒ・カムムスヒの名をとって、「産霊(むすひ)神道」と呼びたいと思う。
 それはこのタカミムスヒ・カムムスヒという神が現在の日本ではほとんど知られていないためでもある。平田はその著書、『古道大意』で「神国に生まれて神の御末とある、この御国の人の(タカムムスヒをー筆者注)よく弁へて齋(いつ)き奉(たてまつ)らぬと申すはあまりと云へば不正なこと」と述べているが、現代日本の人々はタカミムスヒを齋(いつ)き奉(たてまつ)らないのみか、名前さえも知らない。日本の民族は、その神話と民族宗教としての神道の至上神の名前さえしらないという、きわめて変わった民族なのである。もちろん、学界では、この神が日本神話の至高神であるということはよく知られているが、私は、これは国民的な常識となるべきものだと思う。
 そう考えた時、まずは本居と平田の神道を「産霊(むすひ)神道」と呼び、それを歴史教科書にも載せることを目指したいと思う。その場合、まず明らかにしておかねばならないのは、何故、ここまでタカミムスヒ・カムムスヒという神が忘れられてしまったのかという問題である。これは直接には、彼らの神道神学や神話研究を受け継ぐ十分な学統が形成されず、中途で断絶してしまったためであるが、それは彼らの責任ではなく、結局のところは明治という時代が、「産霊(むすひ)神道」とそれをふくむ「国学」に冷たかったということである。それは島崎藤村の『夜明け前』に描かれた国学者、青山半蔵が狂死する運命となったことによく描かれている。
 端的にいえば、明治国家は本居が蛇蝎のように嫌った「漢心」を代表する儒学を国家思想とした。対アジア・アメリカ戦争に向けて作られた国民教化の書、『国体の本義』が「儒教は我が国体に醇化せられて日本儒教の建設となり、我が国民道徳の発達に寄与することが大であった」とした通りである。しかもそれは「国体に醇化した日本儒教」であって、その実態は幕末の尊皇攘夷の中で政治化水戸学であった(尾藤一九七三)。水戸学は普通の人間学としての儒学ではなく、「忠義」を絶対とする過激な幕末武士たちの武士道と政治イデオロギーそのものだったのである。水戸学を代表する会沢正志斎の『新論』は冒頭章を「国体」として『日本書紀』『古事記』の神話を語るが、そこには儒教的な表面的な説明があるだけで本居・平田のような学術性はなく、タカミムスヒの名前さえでてこない。なお『国体の本義』には『古事記』冒頭節が引用されているものの、タカミムスヒについては解説もない。
 普通、明治国家の国家思想は「国家神道」といわれることが多いが、私見ではその神話や神道教説の内容はこの『新論』と同じような儒教道徳による神話や神道の読み換えと利用であって、実体は「国体に醇化した日本儒教」であったのではないかと考える。もちろんそれは「現神・現人神」の語をもって天皇を「生き神」とする「天皇即神」論を含んでいたが、そこにあったのは国家呪術あるいはタブーにすぎなかったのではないか。呪術は信仰以前の意識であるから、宗教ということはむずかしい。つまり「国体に醇化した日本儒教」と国家呪術をとりあわせた作りものである。ここから昭和天皇の「人間宣言」が「天皇を以って現御神(あきつみかみ)とし、且日本国民を以って他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念」と指弾した「架空なる観念」が生まれた。これは軍部と過激化した官僚の一部からなる戦争勢力が、なかばは天皇の意思を無視し、なかばは天皇の意思を戴きながら声高に唱えた戦争のための国家主義(スタティズム)教説である。
 ただ、さすがにそれを水戸学がすべて支えるのは無理があったらしく、その役割を担ったのが有名な平泉澄(きよし)であった。平泉は帝国大学在学時か優秀さを喧伝された学者であるが、柳田国男の影響の中で農民史を学ぼうとした学生に「豚に歴史がありますか」と放言したというトップエリートであるが、ヨーロッパ留学後、一九三二年に高松宮や一部の高級軍人とのコネクションを背景として、山崎闇斎没後二五〇年祭を縁の東京帝国大学大講堂で行った。山崎闇斎は儒学者としては崎門派儒学の創始者であり、水戸学は崎門派儒学を原点としており、しかも他方で闇斎は神道家としては垂加神道の創始者であった。この闇斎の崎門派儒学=垂加神道への賞揚が平泉の過激化の条件となったのである。そもそも崎門派儒学は志士風の「国事」に悲憤慷慨する姿勢が強い。こうして平泉は水戸学を崎門派儒学と垂加神道に先祖返りさせるところから狂信的な国家主義(スタティズム)を作りだし、それを軍部に吹き込んでいったのである(若井敏明二〇〇六)。この崎門派儒学=垂加神道については第一部で『古事記』冒頭の造化三神のトップ、天御中主神との関係で少しく説明することになるが、問題は、この山崎闇斎の垂加神道は本居がもっとも厳しく批判した徳川時代の神道流派であったことである。ようするに平泉の国家主義は本居が「漢心」として厳しく批判した儒学と、神道神学の立場から徹底的な批判を加えた垂加神道からなっていたのであって、本居の産霊神学の対極にあったものだったのである。
 私は、このようなイデオロギーを「国家神道」と呼ぶことは学術的に正確ではないのではないか考える。これは神道史研究者の意見を聞きたいところであるが、少なくともそれは本居・平田の学術や産霊神道、本居の強調する「物のあわれ」や平田の独特な霊魂観や他界観とは何の関係もない。そして明治から昭和にかけて実際に存在していた神道信仰は、折口が指摘し、またイメージをもちやすいところでは石牟礼道子が体現していたような民俗的習俗と一体化した民間信仰であって(折口「神道」⑳一八九)、そこでは(後に説明するが)平田がいうような「霊魂を肉体に結びつける神」の役割が実際には大きかったように思う(折口「産霊の信仰」二五八頁)。それ以外にも出雲大社(いずもおおやしろ)教・天理教などのいわゆる教派神道も根強く存在しており、それらは「国体に醇化した日本儒教」と国家呪術をとりあわせた「架空なる観念」とは相当に異なる位相をもっていたと考える。
 なお「国家神道」の代わりの用語が必要であるとすると、それは「皇国主義」ということになるであろうか。つまり長谷川亮一(二〇〇八■)によれば、狂信的な国家主義(スタティズム)が盛行しだした一九三〇年代に、言葉だけは日本主義にしたいという衝動によって明治時代に一般的であった「帝国」、大日本帝国憲法の「帝国」という国家用語が「皇国」に切り替えられていった。「皇国・皇道・皇軍・皇威」などのオンパレードであり、『国体の本義』にも皇国の語は多い。「皇国主義」という国家主義(スタティズム)、「架空なる観念」である。
 なお言葉の問題にこだわるようであるが、この皇国主義、『国体の本義』や平泉の狂信的な国家主義(スタティズム)はしばしば「皇国史観」として一括される。しかし、「国家神道」と同様に、それらを「史観」と呼ぶべきものであるかについては相当の疑問がある。つまり「皇国史観」という用語は『国体の本義』にはなく、また平泉も歴史ではなく神話こそが第一だという立場から「皇国史観」という用語は使用していない。この語は長谷川が明らかにしたようにむしろ一九四〇年頃から散発的に用いられるようになったが、多用されるようになったのは『国体の本義』に基づくと称して編纂された文部省編の『国史概説』が出版された後に文部官僚が使い始めた役所言葉であった。そうである以上、私は『国体の本義』や平泉の教説は上述のように儒教的あるいは呪術的な国家教説である以上、本質的に「史観」というべきものではないと考える。いわゆる戦後派の歴史学は戦前との対比を明瞭にするために、この「皇国史観」という役所言葉を使用したが、それは戦前社会に何らかの歴史主義が存在したかのような誤解を呼びかねない用語法であって適当ではないというべきであろう。もちろん長谷川のいうように『国体の本義』にもとづいて『国史概説』が編纂され、「皇国史観」と自称した以上、「皇国史観」という言葉はある実体を反映している。
 しかし『国史概説』は『国体の本義』を表に立ててはいるが、やはり史書であって、しかも編纂も間に合わず、実際に戦争中の国民の思想統制に利用された訳ではない。むしろ問題は『国史概説』は、宮崎市定が参加した『大東亜史概説』と同様、辻善之助・龍粛を始め一流の歴史学者を組織しており、編纂支援者を当時の歴史学界の相当部分に責任がある著作であって、歴史学界の戦争協力の証であるともいうべき書である。『国史概説』は、『大東亜史概説』と同じく、そのようなアカデミーの恥部をあらわす書として独自に分析が必要なものである。困ったことに実際によんでみればわかるように、現在では改善されているものの、この大冊、『国史概説』は歴史教科書や歴史教育の枠組みの大枠を提供しているからである。国家機構が全力をあげた事業の呪縛力は強い。

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