『老子』と親鸞と伊勢神道

 伊勢神道の教義の最大の特徴は、高橋美由紀によって詳細に明らかにされているように(高橋『伊勢神道の成立と展開』)、その教義に深く『老子』の思想が入り込んでいることである。つまり神道三部書といわれる『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『御鎮座本紀』『天照座伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』は度会行忠(一二三六~一三〇五年)の執筆したものであるが、それらは「和光同塵」「万物長養」その他、『老子』とその注釈書を典拠とした文言によって作られている。そして史料による限り、伊勢神道に『老子』を持ち込んだのが行忠であることは彼の書、『大元神一秘書』が唐代の『老子』の注釈書、『老子述義』をほぼ全面的に参照していることに明らかである(藤井淳二〇一四)。
 このような『老子』への傾倒がどこから来たかを断定することはできないが、有力なのはやはり比叡山からであろうか。つまりこの時代、『老子』に傾倒した宗教者としてほかに知られるのは親鸞であるが、親鸞の『老子』傾倒は比叡山においてであったと想定されるからである。福永光司は親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、況や悪人においておや」(『歎異抄』)は『老子』二七章の「不善人は善人の資(し)なり」の思想をうけたものであるとし、さらにその「愚禿」という自称は『老子』二〇章の「愚」を踏まえているという(福永『道教と古代日本』)。私見ではこれは否定しがたい事実で、そうだとすると善信房という房名も『老子』四九章によった可能性が高いということになる。(保立『現代語訳 老子』ちくま新書)
 ここで強調したいのは、『老子』が親鸞と度会行忠を通じて浄土真宗と伊勢神道に影響したことの意味である。これは、当時、もっとも革新的な位置をもち、かつ後々まで大きな影響をあたえた宗教思想に『老子』が影響したことを示している。これまで強調されたことはないが、日本宗教史の展開において、これは無視できない問題である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?