産霊神道とは何か

産霊神道とは何か
 日本の歴史学のなかには、「神道」をどのように研究していくかについて十分な一致点がない。それを歴史学が「神道と神社」を日本社会にとって大事な伝統宗教であると正面から認めて本格的に研究を進めようとしてこなかったという一種の宿痾のためである。
 つまり「先の戦争」、アジア太平洋戦争において大日本帝国の政府は「国家神道・皇国史観」を掲げて国民を動員し、大多数の国民もそれを受け入れて戦争に積極的に、あるいは消極的に参加した。その中で、神道と神社はきわめて大規模にして徹底的な形で政治に利用され、神道者のほとんどもそれに参加してしまった。それ以外の宗教のほとんどが戦争に協力していた以上、現在からみても、神社がそれに抵抗することはきわめて困難であったろう。
 この事実をどう受けとめるべきかについて、歴史学をふくめた日本の人文諸科学はいわば腰が定まっていないのである。もちろん、それはアジア太平洋戦争の後、戦後日本社会の支配的な諸勢力が歴史の教訓を正面から考えることを拒否し、それどころかそれを振り返ろうとさえせず、歴史的な伝統文化と自然環境を破壊してアメリカナイズする道をひた走り続けてきたこととも関係している。そういう中で、歴史学はきわめて沢山の課題をかかえ込まされ、しかもそれにふさわしい体制も研究者の人員もつねに不足しているという状態に追い込まれてきた。歴史学の側からいえば、そういう中で、どう腰を定めるかについて一致しにくいのだというのが正直なところである。しかし、もうそうはいっていられない。戦争体験者がほとんどいなくなるという中で、国民が経験した「先の戦争」について根底から考えることが歴史学にとっての最大の急務である。そしてそのためにはそもそも「神道と神社」は日本にとってどういう位置にあるのか、どういう意味で大事な歴史的伝統であるのかを正面から問い直さざるをえないというのが、私の考え方である。
 こういう意味で、私は神話の研究を進めることが歴史学の重要な責務になっていると考えている。つまり、日本の「神道」の基礎には「神話」があることは確実である。序章では「世界の火山神話とジャパネシア――神話学との対話」と題して、グローバルな神話の比較という観点から問題を述べたが、この「神道」という民族の土着的な伝統との関係をどう考えるかという議論なしには、日本の歴史神話学はその責任を果たすことはできない。逆にいえば、神道と神社を歴史学の方法にもとづいて正面から考え直すためにも神話の研究を推進することが必要であると考えるのである。
 そして、こう考えた場合、まず研究の対象となる「神道」は、本居宣長に始まり、平田篤胤が後をうけて拡充した神道であることは明らかである。それは何故かといえば、普通、復古神道といわれる、この神道のなかで始めて『古事記』『日本書紀』に記録された神話が学術的な研究の対象となったからである。この研究は、神道という宗教の立場に立った神学的な視野からの神話研究であるが、その成果は神学にとどまらず、日本の歴史上初めて人文科学というにふさわしい内容を確保している。それ故に、研究はその成果を点検するところから始められなければならないのである。
 なお、これまでこの神道は「復古神道」と呼ばれてきたが、それはその信仰の内容が『古事記』その他の「古代」の文献に戻って作られたという意味と、明治国家の復古主義を支えたという意味で使われてきた呼称である。しかし、私はこの神道はむしろ新たな民族宗教を構想したものであったと考えており、その信仰の内容からいえば「産霊神道」(ムスヒ神道)というのがふさわしいと考えている。「産霊神道」の「産霊(むすひ)」とはこの神道の中心にあった「高皇産霊」という神の名からとったものであるが、この産霊とは、本居によればこの民族の奥底の部分で人知れずに「物ごとを生成(ムス)させる霊威(ヒ)」を意味している。宣長は、その「産霊」を代表する倭国神話の至上神として「高皇産霊(タカミムスヒ)・神皇産霊(カミムスヒ)」という神を発見したのである。倭国神話の至上神というと普通、天照大神とされることが多いが、宣長は「表側」ではアマテラスが至上神であることを当然としながら、神学的にはある意味では「裏側」にあるようにみえるタカミムスヒこそ、「幽事(かみごと)」を統括する至上神として民族社会の全体に浸透している神なのだと結論した。
 平田篤胤はその初期の著作『古道大意』に、人々がもっとも仰ぎ奉るべきタカミムスヒを知らず、この神を祭ろうとしないのは「あまりといえばあまり」のことだと述べているが、ここにはタカミムスヒを民族的な神に持ち上げようという宣教者としての初心が示されている。この本居――平田と受けつがれた産霊神道は当時の社会に大きな影響をもったが、結局、明治国家の目指した国家神道と折り合うことはできず、その宗教運動は挫折してしまったことはよく知られているだろう。しかし、それが折口信夫によって、民俗学という学術の世界の中でという限界はあれ受けつがれたことは不幸中の幸いであった。折口は産霊神道の神学を独特な形で近代化しようと努力をかさねた。そして、その際の指針がやはり「産霊=結び」という考え方であったのである。「産霊神道」という呼称を採用するのは、このように本居――平田――折口が「産霊」という概念を、少しずつ形は変えながらも一貫して大事なものとして維持してきたということにもよっている。
 本章のテーマは、この本居宣長・平田篤胤・折口信夫の三人の学者によって形成された「産霊神道」の神学が目指したものを見なおすことである。私などの属する歴史学界では彼らの議論を正面から検討し、あるいは批判するということが少ないが、ただ確認しておきたいのは、現在の学界においてもタカミムスヒこそが至上神であるという議論は常識というべきものになっていることである。もちろん、学界では一時、倭国の神の「物語」ではアマテラスが至上神となっているという津田左右吉の意見が当然の前提となっていて、それが一定の影響をもった時期はある。しかし、アジア太平洋戦争の時期に、いわゆる「国家神道」に近い立場をとっていた神話学者三品彰英が、倭国神話の本来の至上神はタカミムスヒであることを学術的に説き直し、それをうけて、松前健・岡田精司・溝口睦子など、戦後の主要な歴史神話学の研究者も、タカミムスヒの位置を強調してきた。戦後の歴史神話学は、「国家神道」による学問の自由の抑圧から解放されて研究を一挙に深めたが、普通は気づかれることは少ないとはいえ、この点では「産霊神道」の見解の重要部分を継承した側面があったと思う。
 しかし現在、歴史神話学の研究は、若い研究者の数も少なく、一つの閉塞状態にある。ここを突破するためには、学史の原点にさかのぼり、本居・平田・折口の議論から出発し直すべきではないかというのが、私の意見である。そこで以下、本居→平田→折口→津田という順序で研究史をたどり直し、そこから帰納される「神道神学の指し示す仮説」を本章の最後で提出したいと思う。先回りして述べておけば、それはタカミムスヒという神は雷神であり、火山神であったという仮説となるはずである。
 なお、このタカミムスヒについての議論は、本来は宣長のいう「表」の至上神アマテラスがどのような神であるかという問題を解くことなしには最終的には解決しない問題である。これについて現在の学界では、だいたい七世紀の後半の天武天皇の時代に国家機構の整備と官僚化が進み、律令法思想と仏教が本格的に導入される中で、伊勢アマテラスが王家の氏神としての地位を確保し、徐々にその地位を高めていったという理解が一般的である。この理解は十分に説得的であって、それはたとえば戦後派の歴史神話学を代表する研究者の一人である溝口睦子の著書、『アマテラスの誕生』(岩波新書)で概略を知ることができる。しかし私見では、何故そのような変化が起きたのか、その中でタカミムスヒという神話時代以来の神はどういう運命をうけとっていったのかなど、まだまだ多くの問題が残っている。それは別の根本的な検討が必要な問題であり、本書では取りあげることができないことをお断りしておきたい。そもそも、タカミムスヒという神の本質をつきつめることなくして、そのような作業は不可能であることもいうまでもない。

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