『中世の国土高権と天皇・武家』第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」

院政期東国と流人・源頼朝の位置
はじめに
 川合康*1は、院政期の地域社会では領主間の矛盾・競合が激化し、これが一一八〇年代内乱の基礎条件になっていたと述べている。この見通しは田中稔*2や野口実*3の仕事に依拠したものであるが、川合は、それを前提として、地頭制などの鎌倉期以降の国家社会システムを説明するために領主間の戦争行為の実態を復元することを重視した。それが大きな意味をもったことはいうまでもないが、しかし、それを一つの軍事史観としないためには、領主間の矛盾・競合というものをできる限り具体的に政治史のなかに位置づける必要がある。そのためには、領主間のネットワークの形成や再編の様相をとらえ、そのネットワークのなかで展開する歴史的な因縁にとりつかれた私闘・私戦や裏切りなどを追跡することが緊要であると思う。
 ここでは、そのような視点に立って、院政期から一一八〇年代内乱にいたる東国の状況を概観してみたい。その出発点は、院政期の東国が、実際上、後白河院の知行国ともいうべき様相を呈していたことの確認である。どういう訳か、これはこれまで十分には強調されてこなかった。領主間ネットワークというものを考える場合には、それを都と東国の権力的関係のなかでとらえるべきことは明らかである。そして、このような検討は、平氏の権力の展開や内乱へむけての動きを検討する際にも、そして、伊豆に配流されていた頼朝がどのような条件から出発して東国の支配権を奪権していったのかを考えるうえでも必須の作業である。
 この作業を通じて、一一八〇年代内乱が領主制とそのネットワークが国家権力を吸収・包括し、それをと再編成するという側面をもっていたことを明らかにしたいと思う。その基礎過程に序論で述べたような院政期における留住領主制から本格的な地頭領主制への展開が存在したというのが、ここでの基本的な見通しである。それが東国における国土高権のあり方のみならず、さらには軍事的な身分関係のあり方にまで、それ故に国家暴力のあり方にまで深く影響していたであろう点に留意しながら検討を開始することとしたい。
1後白河院政下の東国と武家領主のネットワーク
後白河近臣の東国国守補任
 図(1)は源平合戦、一一八〇年代内乱への助走の時代、ちょうど義経が陸奥に下向した一一七四年(承安四)頃を中心とした東国の国守の一覧表である。これによれば、この時期の東国の国衙を支配していたのは、基本的に後白河院の近臣たちであったことがわかる。
 簡単に説明すると、伊豆国の中原宗家は後に後白河幽閉事件において解官されている院近臣である(『九条兼実日記』治承三年十一月十七日)。源仲綱は源頼政の息子で後白河への奉仕をもっぱらにしており*4、その立場で伊豆国司に任命されたものであろう。宗家は隠岐守から伊豆に遷任したのであるが、その替わりに隠岐守となったのが仲綱であり、仲綱は宗家が伊豆守を辞した後に伊豆守となっている。ようするに伊豆国守は院近臣の間でたらい回しされたのである。
 相模国の藤原盛頼は、後白河院の側近中の側近、善勝寺(藤原)成親の弟である。建春門院滋子の家司から女院司を歴任しており(『平信範日記』同年一月二七日条、『九条兼実日記』承安一年十二月一四日条、承安三年十月五日条)、彼自身も院近臣の地位にいたとしてよい。同じく藤原有隆は後白河院判官代であって、母は坊門信輔娘、兄に後白河側近の盛隆がいる院近臣である(『九条兼実日記』安元二年三月十日)。平業房が丹後局高階栄子の夫で、北面から立身した後白河の側近中の側近であることはいうまでもない*5。
 武蔵国については、一一六〇年(永暦一)から平知盛(清盛の子)、そしてその譲りによって平知重と、連続して平家が国司を勤めている*6。平知重は平頼盛の子であって、頼盛の院近臣としての性格からして、知重については院との関係を重視しなければならないが、菊池紳一は知盛の猶子であった可能性があるとする。ただ、頼盛が一一四九年(久安五)年から一一五六年(保元一)に常陸守、さらに参河守・尾張守と歴任しており深く東国に関与していた以上、頼盛の院近臣としての地位との関わりも考えられる。頼盛が美福門院領(後の八条院領)常陸信太庄の立券に関わり、頼朝の叔父にあたる志田先生義広との関わりをもっていたことはすでに指摘がある*7。通盛の常陸守もその関係で考えた方がよいように思う。
 安房は早くから一貫して院側近の切れ者、吉田経房の知行国になっており、その下で一一七六年(安元二)正月に弟の藤原定長が国司に任命されている。定長はその直前に後白河院の御給で正五位下に任命されており、当時、院判官代であった(『吉田経房記』安元二年四月二七日条)。経房はその前に伊豆国司も重任しており、東国事情にも詳しかったようである*8。上総は九条兼実の知行国であったが、その後、院北面の藤原為保が国司となっており(『吉田経房記』安元二年四月二七日条)、また常陸は文官の側近のトップとして後白河につかえ、その懐刀として著名な院近臣高階泰経が知行国主であって、国司はその子・経仲である。
 上野と下野については、図(2)を用意した。これをみると、まず高倉範季が一一六五年(永万一)の年末に上野国司となっているが、任期延長の上で、一一七三年に光能との間で紀伊国との国司職の交換(相博)をしている。つまり、範季は、上野国司を光能に明け渡し、光能の子供の知光が上野国守となった代わりに、範季は甥の範光を紀伊守としたのである。そして、その二年後、紀伊守を終えた範光はしばらく前まで光能が国司を勤めていた下野守となっている。しかも、この間、つまり光能が下野守を離れ、範光が下野守になるまでの間の下野守は、東国国守表にかかげたように、卜部仲遠であるが、彼は「院伺候の者」であって、後にやはり院の差配で石見国司となっている(『九条兼実日記』安元一年九月六日条、建久二年六月四日条)。ようするに、この間、下野は院側が一貫して差配していたのであって、そこでは実質上、光能と範季が大きな権限を握り続けていたことは明かである(『九条兼実日記』安元一年九月六日条、建久二年六月四日条)。それは上野についても同じであって、光能・知光の後に国守となった家能も、実は光能のもう一人の子供であって、彼は日野兼光の猶子となって「上野介」となったことがわかる(『尊卑分脈』第一)。上野に対する後白河院の支配もずっと続いていたのである。高倉範季と藤原光能は著名な後白河院の近臣であって、彼らは、上野・下野・紀伊などの国司をいわばたらい回しにしていたのである。
東国における後白河近臣と平重盛
 以上のように、高階泰経・吉田経房・藤原光能・平業房などの後々まで後白河の側近中の側近として活動する院近臣が続々と東国国司の地位についていた。彼らは集団として東国の国衙支配の基本を掌握し続け、そこから内乱期における自分たちの活動を支える富を収奪していたのである。彼らは、網の目のような知人・縁戚の関係にあり、実際の東国経営にあたっても協力関係をもっていたことは疑いないだろう。そしてそれのみでなく、このような経験が彼らの全国的な視野や判断力を鍛えたのではないだろうか。より端的にいえば、この期間、若干の例外を除いて、東国全体が後白河院の知行国であったのである。
 これに対して、これまで強調されてきたのは、むしろ平氏による東国支配であった。野口実が、常陸国・武蔵国・上総国などにおいて、平氏が、一時期、国守を握ったことをもって「平氏知行国・受領国」とし、その他を「非平氏知行国」とするという二分法をとり、この早い時期の研究が、その体系性によってうけつがれてきたのである*9。しかし、平氏知行国が続いた可能性が高いのは武蔵国一国であったというべきであろう。常陸は、平頼盛(清盛弟)が一一四九年以来ながく国守をつとめ(一時期、兄の経盛)、その後も一一六〇(平治二)一月に平教盛が国守、一一六五年(永万一)には通盛(教盛子)が国守となっているが、これは全体としては頼盛系の可能性が高いとはいえ、その後は国司は院近臣に遷っている。一一六〇年(平治二)の平知盛・平教盛の国守補任は平治の乱の論功行賞であることに注意すべきであろう。平家の東国への浸透は全体としては直接の国衙ルートではなく、王権の下で荘園ルートや主従・家礼関係を通じたものであったと考える。
 もちろん、相模守の藤原盛頼は、自身、建春門院滋子に仕え、妹が清盛の嫡子・重盛に嫁いでおり、兄の藤原(善勝寺)成親は重盛の家系と深い関係をもっていた。また同じく相模国守であった藤原有隆も、実は父顕時は平忠盛女を妻とし、姉妹に平時忠の妻で安徳天皇の乳母、そして建春門院滋子の女房をもっている*10。この姉妹はおそらく異母姉妹であって、その母はおそらく平忠盛娘、つまり清盛の異母妹であった可能性があるように思う。このように、院近臣のうちでも平氏中枢にきわめて近い貴族が東国国司に名を連ねていることは注意すべきであろうが、それを強調しすぎるのは正しくないだろう。以上、ようするに東国国司職は院の近臣による集団的な東国知行国支配を主要な側面としており、平氏の支配は、やはり特殊例なのである。
 なお、右にふれた藤原盛頼については服部英雄が頼朝との関係で重要な事実を指摘している*11。つまり頼朝が相模国守藤原盛頼(成親の弟)が在任中に示した好意に対して、後に、「そのかみの事、全く思い忘れしめず候」「さては大蔵卿((高階泰経))の許へ御昇進の事、申さしめ候ところなり」*12と述べたという書状が、従来、偽文書とされていたのには特段の根拠がないと論証したのである。これを前提として考えると、盛頼の頼朝への援助は、盛頼が相模守であったことと切り離すことはできないのは明らかであろう。盛頼は、相模守として隣国伊豆の流人の環境にある頼朝に対して様々な配慮をしたことになる。東国国司をつとめた院近臣たちの人脈の中には、その他藤原光能など、頼朝もしくは頼朝の周辺に縁のある人物が含まれており、流人・頼朝の位置についても、院政期東国の全体状況のなかにおいて捉えるべきことが明らかになる。
 また、服部は、盛頼と頼朝の関係を前提とすると、盛頼の兄の後白河から男色の寵をうけていた藤原成親が尾張守であったとき、その下で目代として仕えていた平康頼(鹿ヶ谷事件で俊寛などとともに硫黄島に配流された人物)が、源義朝が謀殺された尾張野間荘の墳墓のそばに、義朝の菩提を訪らう小堂を建立し、水田三十町を寄進したという事実も再評価が可能であるとした(『吾妻鏡』文治二年閏七月二二日条)。成親は平治の乱の直前に上西門院統子内親王の別当となって、同じく上西門院蔵人であった頼朝の上司の地位にいたから、その時以来の縁が続いていたに違いない。これが重要なのは、清盛の嫡男、平重盛と成親の縁がきわめて深かったことである。しかも重盛は八条院領などを通じて東国と関係の深い頼盛とも相当の関係があったのではないかと想定されている*13。これは、後にふれるようなことからしても、後白河院の東国支配と平家の東国支配の接点には実は、重盛がいたのではないかという想定を可能にする事実である。
源頼政の位置と頼朝
 冒頭に述べた院政期における都と地方の支配層のネットワークの稠密化は、このような東国支配の王権的な枠組のなかで進展したものと考えねばならない。これが条件となって、東国の武家領主が京都の宮廷において様々な身分を獲得し、京都都市貴族と地方の武家領主の関係が稠密化したのである。もちろん、そこでは平氏の諸家と東国の武家領主の間の関係がもっとも大きな位置をもっていたことは明らかであるが、これまでの研究は、院の近臣が集団的に担う院知行国の広域支配が、その条件として存在していたことを無視しがちであった。
 問題は、これが東国の武家領主の組織において、平氏以外の棟梁的な存在として源頼政が重要な位置をしめていたことを見のがす結果をもたらしたことである。頼政は父の仲政が一一一〇年代に下総守・下野守を連任したときに「父仲政下総介にて相具下向也」「頼政ぞ関東へ下向したるものにて」(『顕昭古今集注』一二巻・二〇巻)といわれており、『義経の登場』において述べたように東国で一貫して人脈と勢力を広げてきた。義経が頼政のルートを辿って東国へ下向したことは右の拙著で述べたことであるが、それにどどまらず、頼政は東国との交通にかかわるネットワークを維持していたのではないかと思われる。その傍証は、頼政が難波の渡辺党を長く郎等に抱えていたことにある。つまり、頼政の子、伊豆守仲綱は、文覚が伊豆に配流されるときに、院宣をうけて「郎等渡部の省」に文覚配流を命じたが、ちょうど伊豆の在庁で頼政の郎等でもあるの近藤国平が上洛したので、近藤国平に対して「東海道を船にて下るべし」ということでまず伊勢国まで文覚を追い立てたという(『平家物語』延慶本、第二末五)。ここには渡部党のみでなく、近藤国平も海路の便をもっていたことが示されている。頼政は、このような海路をふくむ交通護衛のシステムをもっていたのである。
 より明瞭なのは、頼政が縁戚関係をふくむ幅広い関係を東国の武家領主たちと結んだことである。その筆頭に来るのは、源頼義の段階までさかのぼる相模国の伝統的な源家家人の家柄であった波多野氏との関係であって、波多野氏の当主・義通は、子供の義行を頼政の弟の頼行の名義上の子供、猶子としており、ぎゃくに頼政は美濃源氏の一流に属する「波多野御曹司」深栖光重を義弟としていたが、光重は孫の義職を義通の猶子としている。光重が「波多野御曹司」と称したのを文字通りとれば、そもそも光重は波多野氏の下で生育したともおぼしい。また、波多野義通が「中河辺清兼女」をめとって、子供の義常をもうけていると伝えられていることも(「秀郷流系図 波多野」『続群書類従』)、「中河辺」は下河辺の誤記で、この人物は「下河辺藤三郎清親」という異名をもつ「下河辺藤三郎行吉(行義)」のことであろうという推定が正しいとすると(湯山一九九六)、注目すべきことである*14。この推定の成否は別として、波多野義通が頼政の第一の郎等と目される下河辺氏の女性との間で嫡子、義常をもうけたことは明らかなのである。
この頼政と波多野氏の関係は、波多野義通の子供の義常の段階でもさらに続いた。つまり、『曾我物語』(巻五)によれば、頼政の息子の仲綱の乳母子であった左衛門尉仲成という人物が、かって「国司代」(目代)として下ってきて、波多野義常の娘をめとったというのである。彼女は義常と伊豆国の在庁官人、狩野介(工藤)茂光の娘の間に生まれた女性であったというから、これは相模国の波多野氏と伊豆国の狩野氏の密接な関係も物語っている。そして、彼女と仲成の間には「京の小次郎」と称する男子一人のほか、女子一人が生まれたという。後にもふれることであるが、実は、この仲成の妻こそ、有名な『曾我物語』の主人公、曾我十郎・五郎の母であった。彼女は、仲成が京都に戻った後、やはり伊豆国の豪族の伊藤祐親の息子、祐通に再嫁し、十郎、五郎をもうけたが、祐通は、すぐにふれる有名な一一七六年(安元二)の伊豆国奥野の巻狩りで親族の工藤祐経に討たれたのである。この時、曾我兄弟の兄十郎は五歳であったというから、その生年は一一七二年(承安二)。もし、このタイムスケジュールを信じるとすれば、仲成の伊豆下向は仲綱の伊豆守任よりも早くなってしまうなどの問題もあって、正確なところは不明であるが、義常の娘(十郎・五郎の母)は、「国司代」仲成と分かれた後、そう時を経ずに、伊藤祐通に再嫁したのであろう。これは波多野・狩野・伊藤という相模・伊豆の武家領主の緊密な相互関係と、その中における頼政一統の位置の高さを物語っているといってよい。
 こうして、頼政が波多野氏、深栖氏、下河辺氏、狩野氏、さらには『義経の登場』で論じたように武蔵国の大井氏などと相当の関係をもっていたことはきわめて重要であろう。もちろん、このような頼政の位置は平家の容認の上で展開していたものであるが、それだけに、院政期の東国において展開した王権―平氏―東国武家領主の関係の実態をよく示している。一一七二年(承安二)に頼政が伊豆知行国主とされたことは、そのなかで頼政が扇の要に位置していたことを公認したものというべきであろう。
 もちろん、ここには後にふれるような清盛と頼政の信頼関係があったのではあるが、東国支配との関係でとくにふれておくべきは、先にのべたように東国との相当の関係を想定可能な重盛と頼政が深い関係にあったふしがあることである。これはこれまでとくに指摘されていないことで、たしかに十分な証拠があることではないが、頼政の娘が藤原隆季の息子、隆保を聟にとっていることが重要であろう。隆季は成親の兄であって、頼政が隆季―成親を通じて重盛との関係が深いことは確実である。多賀宗隼『源頼政』は、これを清盛自身が隆保の兄の隆房を聟にとっていることとの関係で清盛―頼政関係を示すものと評価しているが、むしろ、その媒介に重盛がいたことを重視すべきであろう。実際は頼政―重盛関係が先行していた可能性もあるように思う。
 なお、こう考えると、少なくとも、頼政が伊豆知行国主となった一一七二年(承安二)以降は、伊豆国における頼朝の監護体制が頼政によって統括されていたという側面もあったことになる。これは、野口実が若干指摘したのみで、これまでほとんど論じられていないが*15、野口が頼朝の周辺に集まった武士には波多野氏に出入りしているものが多いとしたことを考えるときわめて大きな意味をもっている。そして、今後の議論によるべきところも多いとはいえ、ここにもし右にふれた頼政―重盛―成親―盛頼の関係を考慮すべきということになれば、その意味はさらに大きくなってくるのである。
伊豆奥野の巻狩りと東国領主のネットワーク
 このような院政期東国における支配構造をささえていたのは、いうまでもなく、東国における領主諸階層、とくに武家領主のネットワークであった。たとえば野口実が一貫して追及しているように、その実態を復元する仕事こそ、この時代の政治と社会の歴史を復元する上で決定的な位置があるのであるが、ここでは、その問題をもっともわかりやすく示している一一七六年(安元二)一〇月に行われた有名な伊豆の奥野の巻狩りを検討してみたい。
 この巻狩りは『曾我物語』の描くところであり、この巻狩りの帰途に曾我五郎・十郎の父、曾我祐通が狙撃され殺されたことはいうまでもない。祐通は、この巻狩りを主催した伊藤祐親の嫡子であって、彼は狩場で始まった相撲の余興で見事な手並みをみせたが、巻狩りが終わって山を下る時、激しい所領争いを行っていた又従兄弟の工藤祐経の手のものに狙撃され暗殺されたというのである。『曾我物語』巻二冒頭の一節によれば、それは「安元二年<丙申>神無月十日余」のことであった。そして、巻狩りが実際にこの時に行われたことは『吾妻鏡』(建久四年五月二九日条)にも記載があって確実であろう。
 『曾我物語』は、この巻狩について「両四箇国の大名たち、伊豆の奥野の狩して遊ばむとて伊豆の国へ打ち越えて伊藤が館へ入りにけり」とする。その総数は、「五百騎」。彼らは伊藤氏の館での「三日三箇夜」の酒宴の後に巻狩りに出で立ったという。注目すべきなのは、ここで「両四箇国の大名」といわれていることで、この四国は武蔵・相模・伊豆・駿河四ヶ国を意味する。これは、平安時代末期の東国における領主連合において、伊豆をはさむ四ヶ国の広域的ネットワークがきわめて重要な位置にあったことを示すのではないだろうか。もちろん、そうはいっても、ここに登場する武士には山内経俊、俣野景久、波多野義常、懐島景能、大庭景親、土肥実平、土谷義清などの相模の武士が多く、実際上の中心は伊豆・相模であったのかもしれない。しかし、駿河からは合沢家保の兄弟三人、荻野五郎、高橋大内などがみえ、武蔵国からも岡部五郎などがみえるから、「四ヶ国の大名」というのはそれなりの根拠があったに相違ない。
 さらに『曾我物語』が、これらの武士たちを「平家の御恩を雨山と蒙る身」と表現していることが興味深い。ここには一一七六年(安元二)冬という平氏が権力のトップに上り詰める直前の時期の東国における平氏の支配組織が現れているといってよいだろう。とくに、この巻狩りの主催者であった伊藤祐親の差配する荘園・久須美荘の領家は平重盛であったことが重大である(『曾我物語』巻一)。これはこれらの武士のネットワークが平氏中枢にいた重盛の下に組織されたものであることを示している。これは前述のような平氏の東国支配の本来の担い手が重盛であったことを傍証する事実ではないだろうか。そして、その支配の拠点は伊豆にあったように思う。
 さらに注意しておかねばならないのは、『曾我物語』によれば、この荘園の本所が「大宮(皇太后宮)」であったことである。この大宮とは、いわゆる二代の后、近衛の妻で、後に二条の妻ともなった多子のことである*16。もちろん、重盛が久須美庄の領家であったということ自体が『曾我物語』にあるだけなので、そこから疑うことも可能ではあるが、前後の状況から考えて、伊豆奥野の巻狩りが平家の東国支配において一つの画期であったとすることは許されるから、そこから重盛の久須美庄領家の地位を逆証することも可能であろうと考える。平氏は多子―重盛のなどの多様なルートを通じて王権との関係を確保しつつ、東国を支配していたのである。
 なお、多子の宮庁については、『公卿補任』で確認できるのは徳大寺公保ー藤原俊盛ー平経盛が大宮大夫、大宮権大夫、大宮亮などの地位にいた事実のみで、重盛が、そこでどのような地位にあったかは不明である。ただ、注意しておきたいのは、頼朝の姉を妻とした一条能保が、ながく大宮権亮を勤めていたことである。拙著『義経の登場』(一三〇頁以下)で述べたように、能保は頼朝と同年で、一四歳の頃に頼朝の姉を娶ったと推定される。この関係は頼朝配流の後も続いていたであろうから、表向きのものではないとしても、頼朝は自分の住む久須美庄の本所の役所に重要な姻戚をもっていたことに注意しておきたい。
 また、多賀宗隼の仕事によればこの多子の御所、近衛河原御所は、本来、源頼政の邸宅であったものを多子が召し上げたものであった*17。頼政は多子が出自した徳大寺家に出入りの武家であって密接な関係にあったから、多子の家政機構にも深く関与していたことは明らかであろう。重盛と頼政は、ここにも接点があるのである。そもそも前述のように頼政が伊豆知行国主(国司は子供の仲綱)の位置についたのは、この巻狩りの四年前、一一七二年(承安二)のことであった。それ故に、一一七六(安元二)冬は伊豆守仲綱の重任が決定した前後にあたるはずである。この巻狩りは仲綱の重任に際して、頼政が平家の東国支配の中枢を握ったことを確認する機会ともなったのではないだろうか。『曾我物語』には頼政の関係はまったく示されないが、これは『曾我物語』が内乱前の記憶をなかば消去するところに成立しているためである。
 ようするに、この巻狩りに結集した東国の武家領主のネットワークは広くいえば、王家の東国支配の下に平重盛や源頼政を間において組織されたものだったのである。石井進は平安時代の「国司の大狩」、鎌倉時代の「守護御狩」が一つの公事負担であるとともに、狩猟の技術を披露しあう場として、武士身分を相互に確認する機会であったことを明らかにしている*18。伊豆巻狩りは、それが平氏(および頼政)がイニシアティブをもつ広域的なネットワークの下で合体したようなものということになる。このことのもっていた意味はきわめて大きい。この巻狩りは、実質上、平氏のイニシアティブの下で平氏の東国支配の中枢をなした四ヶ国に対する広域的な支配と高権のデモンストレーションであったということができるのではないだろうか。
 そして、すでに第二章「平安鎌倉期における山野河海の領有と支配」論文で述べたように、地頭立券の際には近隣の領主たちがしばしば荘堺を行列してまわり、狩猟を行うが、ここにも本質的に同じ実態が存在したと考えられる。地頭立券自体はすでに一一四一年(永治一)に大庭御厨で確認でき(『平』二五四八)、領主連合による地頭立券は、東国においても一般的なものとなっていたはずである。伊豆巻狩りは、そのような領主連合が国衙荘園の枠を越えて、より純粋な形で表現されたものということができる。それが院政国家の下で形成されてきたこと、そしてこれが、後に頼朝が東国の主として一一九三(建久四)に主催した富士の巻狩りにつながっていくものであったことを確認しておく必要がある。それは院・平氏権力による国土高権のデモンストレーションであるが、同時に、そこに地頭領主が貫入し、東国の国土高権を領主連合が包摂する過程でもあったのである。内乱は領主連合の頂点に、いわば京都に対抗する副宮廷と地域的な支配機構を頼朝の下に作り出したのであるが、ここには、その前の諸様相があらわれている。
2東国武士のネットワークと頼朝
流人頼朝の野望
 流人頼朝の野望は、この王権に直結して平氏や頼政を媒介として組織された東国の武家領主のネットワークに食い込み、それを換骨奪胎して自己のネットワークに再編成することにあった。そして以下に述べるように、その最大の手段は東国武士の一族関係に介入することであり、その際、そのなかの女縁に媚びを売って入りこんでいくというのが頼朝のやり方の大きな特徴であったといってよい。
 その様子をもっともよく示すのは、右にみた伊豆奥野の巻狩りと頼朝の関わりであった。頼朝は、平安時代の地方下向者がしばしばそうであったように、いわゆる「国内名士」の一人なのであって、しかもそれが成親―盛頼―頼政などの東国国司との人脈によって支えられていたことは先にふれた通りである。『曾我物語』が明示するように、頼朝は、そのような立場においてこの巻狩りに参加していた。後の石橋山合戦の場で数珠を落とした頼朝が「日ごろ持ち給ふの間、狩場の辺において、相模国の輩、多くもって見たてまつるの御念珠」であると慌てたという話は有名であるが(『吾妻鏡』治承四年八月二四日)、頼朝は狩庭の常連であったのである。『曾我物語』によれば、頼朝は、この巻狩りの余興として行われた相撲が、その勝負をめぐってあわや闘乱ということになった場を冷静に観察していたという。そして、祐親の嫡子・祐通への狙撃も、近くから目撃していた。頼朝は東国の武家領主の家内部および相互の矛盾を敏感に察知し、そこにからみついていくような独特な触覚をもっていたのではないだろうか。
 しかも、問題は、このとき、頼朝は伊藤祐親の敵人であったことである。つまり、この巻狩りの約一年前、「安元々年九月の比」(一一七五年)に、頼朝が、伊藤祐親の襲撃をうけ、這々の体で北条時政の屋敷に逃げ込むという事件があった。『曾我物語』の説明では、その襲撃の事情は、頼朝がしばらく前から祐親の三女に近づいて、千鶴御前という息子を産ませており、京都から久しぶりに帰ってきた祐親が、それを知って激怒したことにあったという。この時、頼朝は、伊藤の館の「北の小御所」を住所としていたが、祐親は、いわば「恩義に対して仇をもってむくいる」ものと感じたのであろう。祐親は、「物封」(物部、もののふ、処刑人)に命じて、すでに三歳になっていた千鶴御前に石をつけて奥山の滝壺へ投げ込ませ、頼朝に夜討をしかけた。『曾我物語』によれば、頼朝は、安達盛長・佐々木盛綱の二人の側近の武士、「朝夕御身を離れざる侍」を「小御所」の防備に残し、単騎、かろうじて北条館に逃げこんだという。このように主催者との深刻な悶着の中にありながら、流人の頼朝が、この巻狩りに参加できたということは、この巻狩りが公的なもので、そこで頼朝が国内名士として認められていたことを物語っているといってよい。祐親も重盛・頼政の姿が背後にちらつくような頼朝を、巻狩りという公的な場所で再度襲撃することはできなかったのである。
頼朝の「二女」騒動と「うわなり打ち」
 そもそも『曾我物語』(巻二)に「兵衛佐殿、当国に配流せられ給ひて後は、伊藤・北条を憑みて過ぎ給ひける」とあるように、頼朝は、当初、伊藤氏の保護のもとに流人の生活を送っていた。頼朝が伊藤の館の「北の小御所」をあたえられていたからこそ、祐親の三女に近づくことになったことはいうまでもない。
 一般に、祐親は頼朝と三女の婚姻それ自体、そして三女の出産それ自体に激怒して男子を殺害したとされている。しかし、これは頼朝の側の視点、それ故に鎌倉幕府のイデオロギーをそのまま繰り返したものにすぎず、事態はもっと複雑であったようである。つまり、『曾我物語』三巻冒頭には次のようにある。
「安元貳年<丙申>の三月中半の比より、兵衛佐殿は北条妃((政子))に浅からざる御志によって、夜々通はんと欲せし程に、姫君一人御在す。これによっていよいよ昵び思しめされければ、北条妃も類なき契となりにけり」
 この原本では一字下げで記述された冒頭部分は、軍記物特有の年代記的な記述であって、信頼度が高いとされる部分であるが、これまで、この文章は、「頼朝は安元二年三月頃から政子の許に通うようになり、その結果、娘が生まれて、それによっていよいよこの契りが深まった」と解釈されてきた。しかし、「浅からざる御志によって、夜々通はんと欲せしほどに」というのは、「愛着が深まって、毎夜でも通おうとなったところに」という意味であることは明かである。そして「姫君一人御在す」というのは『曾我物語』(東洋文庫本)が「お生まれになった」としているのが正しい。つまり、この文章は「安元二年(一一七六)の三月半ばの頃、頼朝は政子への愛が深まって、毎夜でも通おうという気持ちになっていたが、ちょうどその時に、姫君がお生まれになった」と解釈するべきであろう。「安元二年の三月半ば」というのは頼朝が政子の許に通い始めた時ではなく、大姫の誕生の日時なのである。
 そうだとすると、頼朝は、遅くとも、前年の春か初夏の頃、つまり一一七五年(安元一)の夏までには、政子の許に通っていたことになる。前述のように、伊藤祐親が、千鶴御前を殺し、さらに「この兵衛佐殿は、一定、末代の敵となり給ひなん」ということで、頼朝を襲撃したのが「安元々年九月の比」(一一七五年)であったというのは、これとちょうど対応している(『吾妻鏡』寿永元年二月一五日条)。もちろん、祐親が帰郷して事態をしったというのが、どの時点であったかなどの問題は残っているが、祐親は、頼朝が政子の許に通い、ちょうど女児を妊娠させたことを知って激怒したに相違ないのである。
 なお、『吾妻鏡』が祐親の頼朝襲撃を「安元々年九月の比」(一一七五年)とするのに対して、『曾我物語』は「治承元年」(一一七七年=安元三年)、「比(ころ)八月下旬」(安元からの改元は八月四日)としている。これは右の「安元々年九月の比」という『吾妻鏡』の記事よりも二年遅いことになる。この『曾我物語』の描くタイムスケジュールには問題がある。それは、まとめれば、(1)「治承元年八月下旬」=祐親による頼朝襲撃、頼朝北条へ脱出、「かくて年月を送る程に」北條時政に出京(大番役勤仕)、(2)「かくて年月を送る程に」=頼朝・政子のなれそめ、(3)京都の時政は目代山木兼隆を聟に取ることを約し、「三年の大番を一年でとどめて」、兼隆と同道して伊豆国へ帰国、(4)政子、兼隆の許に呼び出されるが、一夜にして伊豆山へ逃亡、頼朝と合流・参籠(「治承二年、戊戌年は伊豆の御山の御参籠、同じき十一月までは、夫婦両人の御祈請浅からざりし故にや、北条より御顧み頻りなり」)というものである。つまり、一一七七年(治承一)八月の襲撃事件の後、一一七八年(治承二)の伊豆山逃亡までの約一年の間に、時政出京、頼朝・政子のなれそめ、時政・兼隆伊豆帰国、政子・頼朝の伊豆山逃籠というスケジュールとなる。しかし、兼隆が父の信兼と対立して検非違使を解官されたのは一一七九年(治承三)一月一九日であり(『中山忠親日記』)、それ以前に伊豆国目代として下向したというのは疑問があり、これにそのまま従うことはできない。あるいは伊藤祐親による頼朝襲撃は『吾妻鏡』のいう「安元々年九月の比」(一一七五年)の後に「治承元年」にも繰り返され、それによって『曾我物語』の記述が混乱したということなのかもしれないと考える。
 なお、これまで頼朝と政子の婚姻年については、この『曾我物語』の「治承元年」という記述をとり、それによって大姫の誕生を一一七八・九年(治承二・三)頃とするのが一般である*19。これは『曾我物語』(仮名本)に記された有名な「夢買」の話に政子結婚の時の年齢が二一歳とあるのによって、政子の生没年(一一五七~一二二五)、没年齢(六九歳)から計算して推定したものである。この夢買いの話とは、異腹の妹が「たかき峰にのぼり、月日を左右の袂におさめ」たという夢をみたことを知って、政子が妹に鏡をあたえて、その夢を買ったという話であり、この夢の意味は重大である*20。しかし、『曾我物語』(仮名本)は室町時代の成立であって、この時、政子が二一歳であったという細部をそのまま採用することはできない。頼朝と政子のなれそめについては、少なくとも『曾我物語』真名本の記述を(上記の私の解釈はとらないとしても)採用するべきである。
 平安時代には、この場合のように男が一人の女と深い関係をもちながら、他の女性にちょっかいをだした場合、「うわなり打ち(後妻打ち)」といって、先の女が側が新しい女の家屋を打ち壊すという慣習があった。それ故に、祐親の側が頼朝に対して怒って、頼朝を攻撃したのは、それ自体としては自然なことであったといわなければならない。しかも、問題が深刻であったのは、伊藤祐親の三女と北条政子の二人の女性は従姉妹同士の関係にあったことである。つまり、『曾我物語』は、祐親の嫡子・祐通の子供たち(曾我十郎・五郎)にとって、「北条殿の昔の姫、鎌倉殿の御台盤所の御母、時政の先の女房と申すも、父方の伯母なり」と説明している。「父方(祐通)の伯母」というのは父の伯母、つまり、十郎・五郎にとっては大伯母にあたるということであろう。なお、政子の弟・北条義時の母は、政子と同母で、「伊藤入道女」と伝えられる(前田家本「平氏系図」『大日本史料』五篇一、義時伝記)。もしこれが事実とすれば、時政は祐親の聟という重大な問題となるが、これは誤伝で祐親の娘ではなく妹であると考えておきたい。後掲の伊藤祐親周辺系図はこれを前提にして描いている。ようするに、北条政子の母は祐親の姉妹であった可能性が高く、政子は祐親にとっても姪にあたるのである。祐親にとっては、このような関係は、実質上、家をのっとられるのと同じことで、許し難く、流人の僣上というほかないものであったろう。
伊藤氏の縁戚関係と北条氏
 そもそも伊藤氏は、工藤流藤原氏、つまり藤原氏南家・乙麻呂流の藤原為憲の流れに属する有力な武家である。為憲は平貞盛の盟友として将門を抑圧する上で重要な役割を果たし、相模以東に分布した貞盛流桓武平氏と地域を分担するようにして伊豆・駿河・遠江・参河から尾張までの東海道ルートに勢力を広げた。この家系の重要性はしばしば見のがされるが、その地方軍事貴族としての位置は院政期においてもきわめて大きく*21、為憲の孫の時信の家系が駿河(現在の清水湊)の入江氏、尾張の二階堂氏と続き、時信の弟の維景が伊豆の狩野に留住して伊豆の工藤氏の祖となったのである。本来、その惣領は狩野氏であったと思われるが、経過は不明であるが、ある段階で伊藤氏の祖の楠見入道祐隆が久須美庄に本拠をおいて、狩野氏のなかで有力な位置を確保したものと思われる。
 伊藤祐親はその孫にあたる人物である。系図(1)に示したように、その姻戚関係はきわめて広く、まず伊藤祐親の娘の一人は三浦義澄、二人目は土肥遠平に嫁しており、さらに祐親の姉妹は北条時政、岡崎義実の妻となっている(『曾我物語』巻二)。三浦義澄は桓武平氏の流れをくむ相模三浦氏の当主であり、土肥遠平・岡崎義実は三浦氏の枝族であるから、伊藤氏と三浦氏との関係の深さは特筆すべきものである。また祐親の男子のうち、伊豆奥野の巻狩で殺害された祐通の妻は、相模の大豪族、秀郷流藤原氏の流れをくむ波多野氏の当主、波多野義常の娘である。またその下の弟の祐清は、後にふれる頼朝の乳母・比企尼の三女を嫁としている。比企氏は波多野の枝族であるから、伊藤祐親は波多野氏ともきわめて深い関係にあったことになる。また、このうち、波多野義常は、鎌倉氏、つまり懐島景能と大庭景親の兄弟の姉妹とも婚姻関係を結んでいることも注目しておきたい(『吾妻鏡』治承四年十一月二〇日)。
 このような伊藤氏にとって、これまで保護してきた頼朝とのあいだで紛議をかかえたことは、やむをえなかったとはいえ、決して望ましいことではなかったであろう。なによりも北条氏は久須美庄とは伊豆の反対側、西海岸に拠点を置く在庁官人で、重要な姻戚であったから、そこに頼朝が逃げ込んだのは面倒なことであった。手引きをしたのが、政子の同腹の弟の義時、つまり祐親の甥であるというのもやっかいであったろう。しかも、祐親の襲撃をうけた頼朝は、ほうほうの体で北条時政の館へ逃げ込んだのであるが、『曾我物語』によれば、祐親の襲撃を頼朝が逃れることができたのは、祐親の次男、伊藤祐長(祐清とも)が、ひそかに伊藤邸の北にあった頼朝の「小御所」を訪れて、親の祐親が襲撃を用意していることを急報したためであるという。これは祐長が頼朝側に立って義時とつるんでいたことを意味するが、これは後にもふれるように、祐長が有名な頼朝の乳母、比企尼の娘を嫁としていたことに関係する根の深い問題である。頼朝は配流期間のほとんどを伊藤のところで過ごしたに相違なく、すでに蛇のように伊藤の家中にからみついていたのである。
 こうして頼朝は北条の家に入りこんだのであるが、結果的には、これが頼朝にとっては正解であった。恣意的な行動を取りながら、それを、結局、自分の上昇の条件に変えてしまう。権力意思とは、本来、そのようなものなのかもしれないが、これは頼朝を迎え入れる側の北条時政にとっては、当初、微妙な問題を惹起したはずである。つまり、杉橋隆夫によれば、政子と義時の母であった祐親の妹は(『曾我物語』では「先腹」といわれている)、ちょうどこの前後に死去していた可能性がある*22(政子と同腹の時政の子、時房の生年が一一七五年(安元一)であることからすると、あるいは祐親による頼朝襲撃事件の前後、おそらく時房の出産の時に死去したのかもしれない)。それ故に、頼朝の受け入れは伊藤氏との関係の将来に関わっていたはずである。しかも、この前後に、時政は「当腹」として「牧の方」という女性を迎えていた。彼女は有名な池禪尼、つまり平忠盛の妻で頼盛らを生んだ成親らの善勝寺流藤原氏につらなる女性の姪にあたる。池禪尼が二条天皇重婚騒動(いわゆる平治の乱)の事後処理において、頼朝の助命に動いたことはよく知られている*23。牧の方は意外な大物ということになるが、『愚管抄』は、この時政の「ワカキ妻」について「この妻は大舎人允宗親と云ける者のむすめ也。せうと((兄人))ゝて大岡判官時親とて五位尉になりて有き。其宗親、頼盛入道がもとに多年つかい((仕へ))て、駿河国の大岡の牧と云所をしらせけり」(この女は大舎人允宗親の娘で、宗親は、平頼盛に長く仕えた人間で、駿河国大岡牧を領知していた。そして彼女の兄に大岡判官時親という人物がいた)と説明している。
 頼盛と東国の関わりについては、すでに述べたが、ここでは『尊卑分脈』によれば、さらに牧の方の叔父にあたる宗長・宗賢が「下野守」となっていることに留意しておきたい(宗長の下野守については『平信範日記』仁平二年八月一四日条に証がある)。牧の方の一族は頼盛の東国支配の中に位置づけられることになる。そのなかで頼盛の東国所領に留住していた宗親の娘として、「牧の方」は時政と知り合ったのである。大岡牧は、駿河国最東部、伊豆国との国堺地域(現在の沼津市の北)に広がる牧である。北条の館は伊豆の南北を流れる狩野川の川津の側に位置し、すぐ西に江浦の口野の良港に擁しており、時政は水陸両路において駿河国への出口を押さえてたという*24。彼女と時政がいつどこで出会ったかについては議論があるが、「牧の方」との縁は、そういう近隣の縁であったのではないだろうか*25。ようするに、頼朝を迎えるということは、時政にとって伊藤祐親との関係を切って、新たな頼盛との縁の中に頼朝を位置づけるということであったと思われるのである。頼朝と頼盛の関係はしばしば池禪尼の段階の情誼的事情によって説明されるが、そのような「吾妻鏡史観」は、この関係が時政―牧の方を媒介として賦活されたものであることを隠蔽している。
なお、杉橋隆夫は、時政と牧の方の結婚を時政二一歳、牧の方一五歳の時、一一五八年(保元三)、平治の乱以前とした。この想定は、『曾我物語』(仮名本)に政子が頼朝と結ばれた年齢が二一歳、牧の方腹の妹は、その時一九歳、一七歳であったという記述を事実とした上で、頼朝・政子の関係発生を一一七七年(治承一)とすると、牧の方腹の末娘の誕生は一一五九年(平治一)となるという年齢計算によったものである。杉橋は、これを根拠として、そもそも池禅尼はちょうど姪の牧の方の夫の時政の出身地である伊豆国を頼朝の配流地として差配したという。しかし、この『曾我物語』(仮名本)の政子やその姉妹についての年齢表記をそのまま採用することはむずかしいように思う。
 こうして、時政が頼朝に対して微妙な態度をとることがあったのは、この段階における政子生母、政子・義時・時房、そして牧の方という関係のなかで頼朝の「二女」の恣意を受け入れたことに原点があるのである。
伊藤の内紛と祐通暗殺
 さて、伊藤祐親にとってより決定的な問題であったのは、いうまでもなく、ほぼ同時期に親族のあいだでの激烈な所領相論をかかえていたことであり、その結果として、伊豆奥野の巻狩りにおいて嫡男の祐通を殺害されるにいたったことである。
 まず所領相論の由来から説明すると、『曾我物語』巻一によれば、久須美荘は伊藤の家系の祖、工藤祐隆によって立庄されたものとおぼしい。系図(1)によって説明すると、彼は出家して久須美入道寂心と名乗ったが、子息が早死にしたために、幼かった嫡孫の祐親をさしおいて、後妻の連れ子が生んだ祐継を跡継ぎとした。そして実際には、この祐継という男子は「寂心(祐隆)が継娘を秘かに思ひて儲けたりし子」(『曾我物語』)であったという。
 それを知らずに成長した嫡孫祐親は傍系の祐継が所領を差配していることを恨み、ここに最初の相論が始まったのである。しかし、この相論は、ちょううどその時、当の祐継が病床に臥したことによって一時は休止した。死を覚った祐継は、祐親と和解して祐親に幼い嫡子(後の祐経)の将来を託して死去したのである。『曾我物語』は、これをうけて、祐親がともに祐経とともに上京し、祐経を「当荘(久須美庄)領家、小松殿(重盛)に見参に入れ、大宮(多子)に伺候させ」たと伝えている。問題は、これが結果的に、祐経を京都に置きざりにすることになったことで、下向した祐親は、自分の名字の地であった伊豆南部の河津から、久須美荘の中央部の伊東に本拠を移し、伊藤祐親と名乗り、河津は息子の祐通にまかせるという態度をとった。おさまらないのは工藤祐経で、成人した彼は激しい訴訟に出たというわけである。
 訴訟の経過は不明であるが、一一七六(安元二)の一〇月に行われた伊豆奥野の巻狩りの場を利用して、祐経は伊藤祐親と祐通の父子に対する攻撃を企て、それに成功したのである。訴訟は祐経にとって不利な展開をみせていたに違いない。あるいは、大規模な伊豆奥野の巻狩り自体が、祐親の久須美庄の領有に本所・領家がお墨付きを与えたことを誇示する機会であったのかもしれない。これだけの巻狩りに多子の役所にせよ、重盛にせよ、あるいは頼政にせよ、都からの使者がまったく来ていないとは考えられないから、少なくとも祐親の側には、訴訟の有利な展開を四ヶ国にお披露目しようという意図があったのであろう。
 前年の経過からいって、頼朝は、祐親が問題を抱え込んだことをむしろ歓迎したに相違ない。犯人の工藤祐経は、後に頼朝側近としての重用されることになるが、その関係はこの時期にさかのぼるのではないだろうか。そもそも、『曾我物語』の最大の謎は、曾我十郎・五郎の兄弟が一一九三年(建久四)に富士野の大規模な巻狩の場に突入し、敵の工藤祐経を討ったのちに、五郎がさらに突き進んで頼朝面前に推参し、頼朝を殺害しようとしたことである*26。三浦周行は、これを名づけ親として兄弟を保護していた北条時政の使嗾によるものとし、石井進もそれに賛成しているが、その成否はおくとしても、頼朝と祐経の関係はきわめて根深いものがあったことは確実である。詳しくは両氏の論文にゆずるが、これらは鎌倉権力にとって祐経による祐通襲撃が根の深い問題であったことを明示している。頼朝が祐経と共謀していた証拠はないが、しかし、祐親の攻撃から命からがら逃れた頼朝が、襲撃を計画する祐経の側をひそかに励ましていたことはあながちに否定することはできないだろう。ともかくも、祐経の弟の宇佐見祐茂は頼朝の蜂起に最初から参加しているのである。
 またもう一つの問題は、『曾我物語』によれば、祐通を狙撃した祐経の従者、大見小藤太と八幡三郎が、伊豆国の「鹿野と云ふ処に隠れ居たる」ということである。伊藤の側は、そこを急襲して、彼らをふくむ「思ひ切ったる一家の者共十余人」を討ったというのであるが、この「鹿野」は「鹿野=狩野庄」を意味する。先述のように、伊藤氏は本来狩野氏を本宗としていた氏族であるが、祐経の従者が狩野氏の本拠に隠れたということは狩野氏がむしろ祐経の側に立っていたことを示すのではないだろうか。狩野氏の惣領、狩野介茂光がやはり頼朝の蜂起の最初から参加し、石橋山で自尽していることは、狩野茂光がある程度早い時期から頼朝のところに出入りしていたことを示すのであろう。もちろん、それを論証することはできないし、頼朝の蜂起への参加は、茂光の一族の工藤四郎・五郎が伊豆守仲綱の郎等となっていたということからすると、頼政蜂起との関係で考えるべきことかもしれない(『源平盛衰記』巻一五)。しかし、伊勢国の武士の加藤景員が狩野介茂光の許に寄宿し、子供の景廉とともに頼朝に奉仕したというような関係が事実とすれば、ある程度早くから頼朝と茂光の関係があったことだけは事実であろう(『平家物語(延慶本)』第二末の十)。そしてそこにはあるいは同族間相論の歴史の事情が介在していたのではないかとも考えるのである。
頼朝と波多野義常
 こうして伊豆奥野の巻狩りに参加した四ヶ国の武士のあいだにもとから存在していたであろう亀裂が、頼朝に対する「うわなり討ち」事件と祐通襲撃事件を契機として一一九〇年代内乱にむけて複雑化し始めたのである。
 その他、様々な紛議や私闘があったに相違ないが、彼がそういうなかで身の安全を確保し、徐々に私党を集めることができたのは、相模国の大豪族、波多野氏との関係によるものであったろう。前述のように波多野氏は、源頼義の段階までさかのぼる相模国の伝統的な源家家人の家柄であって、頼政との関係がきわめて深かった。
 そしてこのころの波多野氏の当主、波多野義常と頼朝との関係においてきわめて重要なのは、伊藤祐親が波多野義常の娘を嫡子の伊藤祐通の嫁としていたことである。これは『曾我物語』(真字本、巻五)に「(十郎・五郎の)母は、渋谷庄司重国の女房の妹なり、本間権守の女房の他腹の姉、秦野権守能常(義常)には娘なり」*27とあることでわかる。これまで傍点部の「秦野権守能常(義常)の娘」という部分については解釈が未定であって、『真名本曾我物語』(平凡社東洋文庫)の注釈(二九六頁)では「誰のことをいうのか明確でない」とされてきた*28。しかし、「十郎・五郎の母は、(渋谷庄司重国の女房の妹であって、本間権守の女房には他腹の姉にあたり)、波多野義常の娘である」、つまり、素直に「十郎・五郎の母(つまり伊藤祐通の妻)は、波多野義常の娘である」と読むほかない。
 これにくわえて重要なのは、祐親のもう一人の男子、祐長が先にもふれたように、頼朝の乳母、比企尼の三女を妻としていたことである。そして、この比企氏が波多野氏の流れであったことが重要である(「比企系図」『坂戸市史』中世史料編Ⅰ附録)。ようするに伊藤祐親は祐通・祐長の二人の息子の嫁を波多野氏と(その支族)比企氏から迎えていたのであって、これはいわば伊豆を代表する伊藤祐親と相模を代表する波多野義常が相互に堅い関係を結んでいたことを示すのである。頼朝は、最初はこういう伊藤―波多野枢軸のなかで保護されていたということになるのである。
 波多野義常が頼朝と伊藤祐親の私闘をどのようにみていたかは明らかではないが、後年、頼朝が「波多野((義常))右馬允が世にさる者にて有りしも、上総介((広常))が奉公深かりしも、悪きことありて御勘当ありき」(「渋柿」『群書類従』雑)としているのがきわめて示唆的である*29。ここからすると、義常は頼朝が祐親に攻撃された後も、頼朝に対して敵対する態度はとらなかったのであろう。とくに重要なのは、波多野義常の位置、「さる者」としての位置を上総介広常の「奉公」の深さに准じて述べていることであろう。頼朝も波多野義常が当初より頼朝を保護していたという(東国武士周知の)事実を無視する訳にはいかなかったということであろう。もちろん、より正確にいえば、波多野義常、上総広常のほか伊藤祐親を挙げるべきなのが実際であろうが、忘恩の頼朝は、この殺害した三人のうち二人だけを「さる者」と認めて格好をつけた訳である。
 頼朝と波多野義常の関係が決定的な意味をもっていたことは、すでに野口実が頼朝の私党のなかに「相模国の有力武士波多野氏の関係者が多く見られる」と指摘していることに明らかである。野口は佐々木盛綱・大中臣頼隆・中原親能・藤原俊兼・加藤景員の名をあげている*30。さらに後に義常が頼朝の攻撃を受けて自殺した後、嫡子の有経が懐島景能に預けられたことからいうと、『系図纂要』に義常が懐島景能の姉妹を妻としているとあることをもう一つの例とすることができようか。
 頼朝は流人生活の大半を伊藤―波多野の保護をうけて過ごした後に、伊藤から絶縁されて時政の許に逃げ込んだ訳であるが、他方の波多野はしばらくは頼朝とつきあいを続けたという訳である。しかし、おそらく鷹揚なところのあった義常も、頼朝の蜂起にまではつき合おうとしなかったのであろう。『吾妻鏡』は山木館攻撃の呼びかけにたいして義常が「條々の過言」を吐いて動こうとしなかったと伝えている。
 なお波多野義常の自殺についてふれた、『吾妻鏡』は「義常の姨母は中宮大夫進<朝長>の母儀、よって父の義通、妹公の好に就き、始め、左典厩((義朝))に候ずるの処、不和の儀ありて、去る保元三年春の比(ころ)、俄に洛陽を辞し、波多野郷に居住」(治承四年十月一七日条)と述べている。後半部にあるように、義常の父の義通は保元三年春、つまり保元の乱の約一年半の後に、義朝との間に「不和の儀」があって京都を離れ、波多野郷に引退したという。義通は、本来は、義朝の父の為義に親しい郎等であったが、妹が義朝の妻となって朝長を産んだ縁で義朝に仕えるようになった。ところがそのために、義通は保元の乱の直後、義朝の親殺し、兄弟殺しの片棒を担がされ、ここに義通と義朝の間での「保元三年」の「不和の儀」がきざしたということであろう。こういう経験が波多野氏の歴代当主、義通ー義常を頼政に近づけたのであろうが、あるいはその記憶が頼朝との齟齬の根底にも存在したのかもしれない。
頼朝と大庭景親
 頼朝が東国武士の一族関係に介入し、それを拡大するなかで私兵をあつめていったことは伊藤氏に限らない。そのもう一つの顕著な例は、鎌倉の領主、鎌倉氏の兄弟・従兄弟関係への介入であろう。伊豆奥野の巻狩には懐島景能、大庭景親、俣野景久の三人が参加している。彼らは有名な鎌倉権五郎景正を曾祖父とする兄弟であるが、景親が本領の大庭御厨の下司職を相続して嫡流となり、景能は御厨の南西部にあたる懐島(ふところじま)(現茅ヶ崎市懐島)、景久は御厨の北東部、俣野郷(戸塚区俣野)を名字の地として分立していた。また彼らの従兄弟には鎌倉南部の梶原郷を本拠とする梶原景時がいる。
 この鎌倉氏の内紛の由来も古く、崇徳クーデター事件(いわゆる保元の乱)で義朝に従軍した景能、景親の兄弟のうち、兄の景能が、鎮西八郎為朝に膝を射られて傷を負ったことに由来するらしい(『保元物語』)。その時、景能は弟の景親に助けられ、その恩義によって氏族で二番目の位置に甘んじることになったという。こうして、景親は、嫡流の地位を確保し、後々まで平家の側で活動したが、逆に徐々に景能は頼朝に近づいていくことになった。この分岐が正確にはいつごろ起きたかはわからないが、『曾我物語』には、一一七八年(治承二)、伊豆走湯山に籠もった頼朝と政子のそばに懐島景能が安達盛長とともにひかえていたという記事がある。そこで盛長は「頼朝が、左右の袂に日月を宿し、左足は奥州外が浜、右足ははるか南の鬼界ヶ島をふまえ、箱根山の上に立っている」という夢をみたが、景能がそれを蜂起成功の兆候と解釈したという。
 以降、景能は、頼朝が鎌倉に入ったときに、頼朝の新宅の建築を担当し、鶴岡八幡宮の執行(俗別当)に補任されているなど、頼朝家の執事として活躍するようになる。また従兄弟の景時は頼朝が石橋山合戦で敗北して、大庭景親の軍勢に追い込まれて絶体絶命の危機におちいったとき、頼朝をひそかに救助して、惣領の景親を裏切ったのである。頼朝の護持僧であった伊豆山の專光房(文陽房)覚淵が景時の兄であったという所伝が正しいとすれば、弟の景時が秘かに頼朝を扶助したということは理解しやすくなる*31。
 こうして頼朝は東国の武家領主の家の内部に介入し、さらには彼らのネットワークに吸着し、その内部の矛盾に乗じて、それを組み替えるのに成功していったのである。もちろん京都の政治情勢の不安定化とともに、東国社会の内部の亀裂が拡大していったことが頼朝の私党の形成にとって有利となったことは疑いをいれない。そこでは、中央の武家貴族と地方軍事貴族にかかわる戦闘の歴史で、そしてそれに関わる領主間の連携と私闘の記憶が呼び戻され、騒然とした状況が作られていったのである。
3清盛の富士・鹿島詣計画と頼朝の私戦
安徳立太子と清盛の富士・鹿島詣計画
 さて京都では、伊豆巻狩りの二年後、一一七八年(治承二)の十一月一二日、安徳が誕生する。清盛は、その立太子を月末に要請し、翌一二月九日に安徳は皇太子に立った。後白河は重盛を安徳の東宮傅に任命することを希望したという(実際は藤原経宗)。ともかくも高倉が天皇位にいる以上、安徳の立太子は既定路線である。ここに平氏系王朝樹立のもっとも重要な一歩が踏み出された。
 興味深いのは、この時期、清盛が平氏の氏寺とされた厳島神社を初めとして神祇崇拝を強めていたことである。それは、まず、徳子の妊娠ののち、男児誕生を願う厳島神社・熊野神社・宇佐八幡宮などの有力神社への祈祷に表現されている。その祈祷の中心は厳島神社であったことはいうまでもなく、厳島には徳子の妊娠後に高倉の意思によって朝廷から捧幣使が派遣されている(『中山忠親日記』治承二年六月一七日条)。もとより、厳島神社に安産祈祷の捧幣使が派遣されるなどというのは、先例のないことだが、高倉宮廷の下で、安徳は厳島明神の「利生」であるという観念が一般化した(『愚管抄』巻五)。これは、この時期、王統の成り行きを「神々の約諾」とする観念が浮上してきたのと表裏をなすものである(『愚管抄』巻七)。平家はこうして、西国を広域的に支配するイデオロギーとしては絶好のものを獲得した。
 しかし、安徳の立太子を実現した清盛の行動は、公卿クラスの貴族としてはさらに異相なものであった。清盛は、遠く、東国の富士・鹿島への参詣を企てたのである。つまり、立太子の翌月、一一七九年(治承三)正月十一日に、清盛は朝に後白河法皇のもとに挨拶にいき、夜になってから参内して、高倉天皇、中宮徳子、そして彼らの息子、安徳の三人に対面した。清盛が、天皇・中宮・皇太子と面談するというのは、自身を、王の家族の一員、しかもその家族の長として後見しているということを誇るかのような行動である。中山忠親が、その日記で、「御堂(藤原道長)以降、いまだ此のごときことを聞かず」と述べているように、これは、道長と同様、いわば「後見王」「執政王」としての行動であったというべきであろう。そして、この王家三代への面会儀式は、翌日の日記に中山忠親が「明日、入道大相国駿河富士に参詣」と記録しているように、清盛の積もりとしては、翌々日、一三日に富士参詣に出発する前の餞別の儀式だったのである。なお、この富士詣は、すぐにみるように『平家物語』(延慶本)に「太政入道の鹿島詣」とあって鹿島まで足を延ばそうというものであった。相当の大計画であるが、これはそれ自体としては平安時代後期における伊勢神道の興隆をも重要な要素とする地域神祇の広域的な動きのなかで評価しなければならない事実である。院政期には多度・鹿島・香取・気比・杵築・吉備津・日前国懸・熊野新宮・丹生などの各地の大社が国司によって修造されており、その中には富士浅間社が院司、駿河守為保によって一一六八年(仁安三)に修造された例もふくまれている(『平』補一一〇)。
 しかし、中山忠親は、この面会を「珍事なり」とし、九条兼実は、当然に、それを伝聞しているはずであるが、それを無視して日記に記録しようともしていない。清盛は、そのような公家社会の受けとめ方をよく知っていて、このような行動をとったにちがいない。つまり、この面会は、清盛の富士・鹿島行きを王家の家族的関係の事実として、実質上、公的・国家的なものとする目論見のもとに行われたのであろう。そして、この富士参詣計画が現実に企画され、実現直前まで行ったことは、『平家物語』(延慶本)に「太政入道の鹿島詣でと名付けて、東国へ下あるべかりけるに、大庭((景親))三郎かさたとして、作りまうけたりたる相模国松田の御所」とあることで確認される。そしてこの御所が実際に作られたことも、頼朝が富士河合戦への軍旅の途中で「松田御亭<故中宮大夫((源朝長))御宅>」の修理を命じていることに明らかなのである。『吾妻鏡』によると、この亭は「萱葺屋」で「侍廿五軒」という長大なものであったという(『同』治承四年一〇月一八日条)。
 問題は、この参詣の趣旨をどう考えるかであるが、この富士・鹿島参詣計画に最初に着目した多賀宗隼は「治承三年正月といへば、安徳天皇立太子の翌年初頭であり、それは清盛の宿望が実現して、得意と栄光の予想される時代の開幕に当たっている。ここに長年の宿題として抱懐して来た東方経略に足を挙げようとした」と述べている*32。これは正しいが、しかし、この富士・鹿島詣計画は「東方計略」ということを越えて、安徳立太子をふまえた清盛による本格的な国家構想の一部であったはずである。安徳の誕生の後に、富士・鹿島に参詣するというのは、清盛が即位するべき王、安徳をバックアップする全国的権威を確保しようという姿勢を示したものといってよい。清盛は、平氏の氏神厳島を西国の神祇信仰の中心としておさえ、さらに東国の富士・鹿島に参詣しようとしたのである。ここには「執政王」として列島に対する国土高権を分有するという清盛の野望が表現されている。これは頼朝が東国の主として、その国土高権を分有する地位を誇示して行った富士巻狩りと同じものなのであり、そして、平家の東国に対する高権支配のデモンストレーションという意味では、伊藤祐親が現地側の責任者となって行われた伊豆奥野巻狩りを引き継ぐものであったということができる。
 さらに重要なのは、野口実の指摘である*33。野口は院政期における地方武家領主が平氏の下で「共通の空間に在勤したことによって『一所傍輩』の関係が結ばれ」「このように在京活動中に張り巡らされたネットワークが、東国武士が列島全体を駆け巡った治承寿永内乱やその後の北遷・西遷の前提となった」という観点の下に、「清盛は東国武士との関係強化をはかるために、東国武士の信仰を集める霊峰富士を眼前に望み、各地からの集合に便利な相模国松田の地を選んで、そこに巨大な侍所の用意された宿館を造営させた」と論じた。そして拙稿*34を参照しつつ、「頼朝や頼家が王家外戚の立場を志向し、一族間で在京・在鎌倉の分業を行う可能性のあったこと」をふまえると、松田御所が平家の東国支配機構として展開した可能性があったと示唆している。もしそうなれば平氏が列島を西国と東国に広域分割した体制を構築した可能性があるという訳である。「そこに平家政権と鎌倉幕府との間に武家政権としての連続性を認めることは可能であろう」という野口の見通しに私も賛成である。
富士鹿島計画の実際と東国情勢
 このような位置づけにおいて、実際に「御所」も建造されていたということだと、この東国参詣計画は、おそくとも前年の冬には始まっていたということになるだろう。たとえば一一月の安徳誕生の後にはプランが立てられ、指示が下り、年末には右の松田御亭の建築に着工していたというようなペースではないだろうか。そして、鹿島でも同じような動きがあったに相違ない。もとより、詳細は不明であるが、あるいは、この東国参詣計画自体が東国の平氏関係者から提案されたのかもしれない。その前提なしに、清盛の東国行きという計画が突然にでてくるとは考えられない。
 つまり、中宮徳子の安産と男子誕生の祈祷が、たとえば五月・六月頃から駿河浅間神社や常陸鹿島社に対しても行われており、それを知った清盛がその報賽を考えたのではないだろうか。当時、下総には累代、祖父・伯父が下総守であった藤原親政が留住していた。この時の彼の地位は千田庄領家(皇嘉門院)判官代というものであったが、彼は清盛の姉妹を妻とするという大物である。祖父の親通は下総守であったときに、重任の功を募って香取社の造営を行っているから(『平』補一一〇)、彼が鹿島社参詣などという発想をもつのは自然である(この部分、指摘をうけて訂正してあります。20190715、データ公開にあたって)。鹿島参詣の計画があるとすれば、清盛が香取社にも寄るということであったことはいうまでもない。鹿島・香取両社は藤原氏の氏神であるから、親政が両社に安産の祈祷などをした可能性は高い。

 さらに親政の妹が重盛に婚し、資盛を生んでいることも注目される。親政の父と祖父は、下総国司を歴任しており、彼は親たちが養った実力を受け継いで下総を押さえていたのである*35。彼が千葉常胤の敵であったことはよくしられている。当時、重盛の第一の郎等であり、重盛の息子、維盛の乳父であった伊藤忠清が上総にいたのも重要だろう。鹿島参詣という発想のでどころは、重盛―忠清―親政というルートにあったのではないだろうか。そもそも伊藤忠清は、平家の「八ヶ国ノ侍ノ別当」(『平家物語』延慶本、第二末)、「八ヶ国の侍の奉行」(『源平盛衰記』)という地位にあったという*36。伊藤忠清は上総最大の豪族武士、上総広常を讒言して広常の所職を奪おうとし、陳弁のために参上した広常の子供の能常が京都で逮捕されたという(『平家物語』延慶本)。経過からいうと、この事件は一一八〇年(治承四)、すなわち頼朝の蜂起の年であったと考えられ、これが広常の蜂起への参加を導いたことは確実であるが、忠清の動静が平家の東国支配の運命に大きく影響したことは明らかなのである。
 東国参詣計画の背景に、もう一つ考えられるのは源頼政のルートである。重盛を除けば、東国の武家領主のうえに立つ棟梁級の武家貴族としては頼政の位置が大きいことは何度もふれてきたことである。しかも、安徳立太子の直後、一一七八年(治承二)年末、頼政は清盛の奏上によって待望の三位の位についた。この清盛奏請を読めば、清盛の頼政に対する信頼が本物であることが一目瞭然である。とくにそこで、清盛が「源氏・平氏は我が国の堅め」といっていることが注目されよう。このなかで頼政が清盛の富士・鹿島参詣に対して最初から最大限の奉仕をしようとしたことは疑いない。そもそも「相模国松田の御所」の松田とは波多野義常の拠点とする波多野庄の一部である。頼政と義常の関係からすると、「御所」の場の占定そのもに頼政がかんでいたことは確実であろう。
 もちろん、『平家物語』(延慶本)に「大庭((景親))三郎かさたとして、作りまうけたりたる相模国松田の御所」とあって、御所の直接の責任者は大庭景親であった。その事情は不明であるが、しかし波多野の領地に設定される「御所」の設営が、大庭景親にまかされているというのは、波多野と大庭の強い関係を示すと同時に、景親が、この参詣計画のおもな担い手であったとしてよいのであろう。景親が『源平盛衰記』(巻二〇)で兄の景能に源氏に帰参することを勧められた時に、平氏の「東国の御後見」と自称しているのというのは、そのまま事実とすることはできないが、しかし以仁王の蜂起の直後、「八ヶ国侍別当」伊藤忠清が景親に対して、頼朝のあやしい動きを伝えた書状を見せ、「この書状を清盛に披露しようと思うが、どうか」と相談したというエピソードは景親が忠清の直下に属していたことを示しているといってよい(『鏡』治承四年八月九日)。「八ヶ国侍別当」伊藤忠清と「東国の御後見」大庭景親が平氏の東国支配の枢軸にいたことは事実ではないだろうか。そもそも松田御所には「侍廿五軒」という長大な侍所が付設されていたというが、その「侍別当」が伊藤忠清だとすれば、景親がその御後見という地位にあったとしてもおかしくはないのである。
 清盛の東国参詣にかかわる史料は少なく、これ以上のことを推定することは難しい。とくに、この計画が延期になったとき、すぐに述べるように、武蔵国と縁の深い知盛が清盛代官として出発しようとしたことからすると、この参詣計画と知盛の関係も深かったはずであるが、その状況については現在のところ復元する手段がないのが残念である。
富士詣計画の中断、後白河幽閉、頼政蜂起へ
 もちろん、清盛の富士・鹿島参詣計画は、清盛の出発を予定した正月一三日の前日になって、急遽中止となった。「明日、入道大相国((平清盛))、駿河富士に参らるべきといえども、延引し了。三位中将<知盛>、代官として、明暁、進発せらるべし。後に聞く三位中将また止められ了」(『中山忠親日記』治承三年正月一二日)という訳である。
 しかし、だからといって、この計画を東国情勢の現実と無縁に計画された宮廷的な計画とみることができないことは明らかであろう。延期の事情は、不明の部分があるが、一つには、この時、ちょうど源頼政が去年からの病気(赤痢)で「獲麟」(臨終)の危機におちいっていたことがある(『兼実日記』『忠親日記』治承三年一月一二日・一三日条)。清盛は、頼政三位昇進にあたって、頼政への信頼を表明した直後で、富士・鹿島参詣には頼政の関わりも考えられるから、見舞いなどの関係が日程に影響したのかもしれない。頼政は本復したようであるが、これがなければ清盛は出立していた可能性もあると思う。しかし、延期が長期化した理由は、明らかに後白河の動きにあった。つまり、正月一一日の朝に出発の挨拶にきた清盛が、何を考えているかを察知した後白河は、その日のうちに、自分も熊野詣に行く、そしてさらに厳島にも行く積もりだと言いだしたのである。清盛が夜に参内して、高倉と徳子、安徳に会っている頃に、そのプランは決められたらしく、正月末に熊野参詣前の精進を始め、二月に出発をして三月には京都に戻り、その後に厳島に御幸し、さらにそこから戻った後、五月末に金峰山に登るという日程まで急遽きめられたようである(『忠親日記』)。ようするに、後白河は、俺自身が熊野・厳島・金峯山をまわって、安徳誕生を感謝してまわるから、それを優先せよという訳である。こうなると、清盛が長く都をあける訳にはいかないし、後白河自身が厳島に行くというのは、本当ならば願ってもない動きである。しかし、これは陽動作戦であったのであろう。
 そういう中で、清盛は、富士鹿島参詣をあきらめた訳ではなかったが、後白河とことを構えて強行するよりは、もう少し時間をかけて行動しようとしたらしい。右に引用した史料では、延期の後に、知盛が代官として発遣されようとしたとあるが、結局、知盛が出発しなかったのは、むしろ清盛自身が行く計画が再度固められたためと考えたい。こうして、清盛は、正月には厳島に行って安産祈祷の報賽を行い(『中山忠親日記』二三日条)、そして、後白河も熊野に行ったり、石清水に参詣したりして遊び歩いている。後白河と清盛はようするに意地の張り合いをしているのである。そして、これは清盛の勝利であった。つまり、仮にも後白河自身が、自分も厳島に参詣するという計画を宣言したことは大きく、貴族たちは清盛の意向を汲んで、我も我もと厳島に向かうことになった。
 ところが、そうこうしているうちに、高倉天皇が、二月、「不予」となるという事件が発生した。もちろん、それは最初は、「頭風(頭痛)」程度のものであるが、これ以降、高倉の健康は下り坂の一途をたどる。それに続いて清盛の嫡男の重盛、そして白川殿盛子が重体となって、六月には盛子と重盛が相次いで死去してしまったのである。重盛が清盛の後継ぎとして平家棟梁となると目されていた人物であることはいうまでもない。重盛は後白河の前半生の男色相手、善勝寺流の藤原成親の妹を妻とし、子供の維盛も成親の聟となっている。瀕死の重盛を後白河自身がみまったことが示すように(『中山忠親日記』六月二一日条)、重盛は、建春門院なき後、後白河と清盛の間を直接につなぐ人物であったということができる。
 そしてこの年、一一七九年(治承三)一一月の後白河幽閉事件が発生する。これによって、陸奥守高倉範季、常陸介高階経仲、相模守平業房、上総介藤原為保、甲斐守藤原為明など、後白河側近の東国国司がほとんど解任され、平氏による東国の直接掌握が進んだ。これは冒頭にふれた院政期東国の支配体制を広域的な平氏知行国の体制に再編成することを意味する。こういう経過のなかでも清盛の富士・鹿島参詣がまったく政治日程から消えたとは考えられないが、しかし、清盛が京畿内を離れる訳には行かなくなった。
私闘の決着と富士川合戦
 頼政は、院政期の東国支配体制のなかで、おそらく院近臣が共同利用する武門として要の位置にあったのではないかというのが冒頭で述べた想定であるが、このような東国支配体制の激変が頼政の地位を直撃し、それが頼政の地位と権威に関わる問題となったのであろう。こうしてもたらされた東国の流動的状況は根深い社会的根拠をもっていた。それ故に単純な総括は許されないが、しかし、もし、清盛の富士・鹿島詣計画が実行され、清盛が東国情勢が掌握して、混乱を最小限に止めていれば、東国情勢が頼政の蜂起に跳ね返るという政治史の動きはもう少し緩やかなものとなったかもしれない。しかし、頼政と平氏の関係は、平家惣領の宗盛への交替もあって修復されることはなかった。こうして時代は、内乱に突き進んだのである。こうして、反平氏の蜂起の中心が以仁王・頼政になったことは必然であったと考える。
 そして頼朝にとって幸甚であったのは、以仁王と頼政、あるいはそれ替わりうるような大物も残せずに、彼らの蜂起がついえたことであった。これによって頼朝は後白河幽閉を清盛の悪行とする以仁王令旨を表にかかげ、それによって頼政が営々と作り上げてきた東国の武家領主のネットワークを換骨奪胎して自己の専権の下に再編成することに成功したのである。確認しておきたいのは、この頼朝の野望と私怨は表裏一体のものであったことであって、蜂起した頼朝がもっともしつこく狙ったのは、伊藤祐親であり、波多野義常であり、大庭景親であったことである。彼らにとっては「公戦」というのは実際には建前の論理であって、戦闘を支える憎悪の論理は、むしろ私闘にあった。この私闘の論理が戦闘の経過の中で、あたかも最初から本質的に「公戦」の論理であったかのように錯覚されていくのである。戦闘の勝利が私怨の復讐の成就でもあるという形で頼朝のエゴは拡大していき、それが同時に頼朝の権威となっていくという関係が動き出したといえようか。
 ここで、頼朝の蜂起から富士川合戦にいたる軍事的経過を詳しくたどる必要はないが、頼朝は、一一八〇年(治承四)の挙兵の際に、まず伊豆国目代の地位にあった山木兼隆の館を襲撃した。問題は、その直後、伊藤祐親が兵を募って、頼朝軍の追撃にでたことであって、その軍勢は約三〇〇騎。そもそも頼朝軍は祐親の敵人からなっていたといってもよいが、彼らはこの主敵との決戦を回避して、相模国に向けて血路を開こうとする。石橋山で敗北した頼朝は江戸湾を渡ろうとしたが、祐親はそこまで追いかけてきたという(『平家物語』(延慶本)第二末)。それを逃れた彼らは、安房にわたり、江戸湾岸を迂回して兵力をあつめ、鎌倉を拠点とすることに成功し、東下してくる平家軍を富士川で迎え撃とうとした。合戦の二日前、頼朝軍の志気を高めたのは、黄瀬河宿に伊藤祐親が連行されてきたことであった。祐親の捕縛が正確にいつのことかはわからないが、この時期の軍勢の動きからして、それはおそらく一〇月一六日の頼朝の鎌倉出発の直後のことであったろう。祐親は伊豆半島の最南端、蒲屋御厨の港、鯉名泊で捕らえられたのである。祐親は、頼朝が、自分を執拗に付け狙うであろうことを自覚していたに違いない。いち早く伊東の地を離れて、ここから船に乗り、駿河に駐屯する平家軍に合流しようとしたのである。伊藤祐親をとらえたのは蜂起時の四六人の武士の一人、伊豆の天野遠景。この功績によって、遠景は、頼朝の信頼をうけ、後々までいざという時の暗殺者として行動する側近となった。
 そして、祐親逮捕とほぼ同じ頃、一七日に、相模国の西部では、波多野義常が「自殺」に追い込まれた。波多野襲撃の先鋒をつとめたのは、下河辺行平。当時、このような場合には、親族に親族を攻撃させるというのが常道である。そこからしても前述の義常の母は下河辺出身という想定は事実とみてよいと思う。そもそも波多野氏と下河辺氏は、ともに源頼政と連携し、臣従していたという傍輩仲間である。このようにして波多野氏が東国に広げていたネットワークは頼朝によって根こそぎに否定されていく。
 なお、平氏の東国の「御後見」であり、「松田御所」の沙汰人であった大庭景親は、義常を誘って、駿河国に越えて平家側に参加しようとしていたとおぼしいが、義常の説得に失敗し、頼朝軍の動きに押されて、足柄峠を越えることもできず、波多野庄の北西の川村山に逃亡した。そして、富士川合戦後に景親は自首してきたという。
 それにしても、蜂起した頼朝が私闘の対象とした宿敵ともいうべき存在が、伊藤祐親、そして清盛の富士鹿島参詣計画を推進した波多野義常と大庭景親であり、彼らがすべて富士川合戦前に自滅していたことは興味深い。頼朝は、とくに前の二人、つまり伊藤祐親と波多野義常を利用し、裏切り、その権威を奪い取るところから出発し、最後に、彼らを滅ぼすことよって、東国に武士に対して示しをつけたのである。こうして、頼朝にとっては以仁王令旨に応ずるという「公戦」の論理の内実は、私怨を晴らす私闘と一体になっていたと考えなければならない。しかも、富士川合戦の前に、東国内部で頼朝に反対する勢力はすべてつぶされていたのであって、この段階で平氏は西国に逃げ帰る途を選択せざるをえなかったというべきであろう。
おわりに
 前述のように、東国の武家領主のあいだには密接な姻戚関係がいとなまれていた。それ故に、頼朝が覇権を握ったこのような経過と、その過程での惨酷な処置は「鎌倉幕府」なるものなかに最初から複雑な矛盾をもたらした。『曾我物語』はまさにその因果を語る物語なのであるが、実際にはそこにもすでに相当の修飾や意図的な忘却がある。それ故に『曾我物語』を越えて、蜂起前後の頼朝の私党の実態をさらに具体的に描き出すことは義朝流源氏と鎌倉幕府なるものの階級的実態を明瞭にしていく上できわめて重大な課題である。頼朝の暴力はいわゆる自力救済なるものとは遠いもので、高橋昌明の言い方をかりれば、「規則を逸脱しての殺戮、一種の病理現象」としての「私戦」と「互いを全否定する殲滅戦=公戦」の混合物であるということになるであろう*37。
 『吾妻鏡』では頼朝の下に結集した武士のネットワークを描くのに、早く母を亡くした頼朝は比企尼を大事にし、比企尼はそれにこたえて流人の頼朝を扶助したという話が好まれる。もちろん、頼朝がマザコンであったことは事実であろうし、それは女性のネットワークを利用して東国の領主間ネットワークに巧妙に食い込んでいく上で便利な偽装でもあったろう。そして、比企尼は、たしかに頼朝の伊豆配流と同時に、夫の比企掃部允とともに、武蔵国比企郡に下向し、「廿年の間、御世途を訪らい奉」った(『吾妻鏡』寿永一年十月一七日条)。夫の比企掃部允を亡くした比企尼が相対的に自由な女性のネットワークを広げることができたことは頼朝にとって便利なことであったに相違ない。しかし、伊藤氏の保護の下にあった頼朝がもっぱら彼女の「世途の訪」=物質的援助を支えとしていたなどというのは一種のお涙頂戴通俗史観にすぎない。そこでは裏切りにみちた同族相食む世界は女性のネットワークという形で抽象化されてしまう。そもそも彼女の属する比企氏は波多野氏の支族だったのであって、そこを貫いていたのは伊藤―波多野の領主間関係であったはずである(「比企系図」『坂戸市史』中世史料編Ⅰ附録)。
 むしろ、客観的な立場に立てば、まずは頼朝の周辺にうごめく「男」論理、そして暴力の論理と実態をあばくことこそが必要であろう。頼朝は、この種の暴力に対する触覚が鋭く、自身もヤクザ的雰囲気を漂わせた武士であった。頼朝は、佐竹義政、上総広常、木曽義高、一条忠頼などの武士をあるいは謀略をもって取り籠め、斬り殺している。頼朝は自身で手を下した訳ではないが、『吾妻鏡』などを読めば明らかなように、その殺害現場を仕切る手際は現代でいえばまさにヤクザの大ボスにふさわしい。頼朝は東国での流人生活のなかで、そのような体質と能力を身につけてきたのであるのである。
 その様子を伝えるのは、佐々木盛綱の頼朝への身辺奉仕の様子であろうか。盛綱は頼朝が祐親に攻撃されたときに、その身代わりになって戦った側近の武士であるが、「野田文書」に残った「□□奉公初日記」という史料によれば、頼朝の馬屋の居飼(いかい)が逃亡したことがあって、盛綱はその役を三年間もつとめたという(「御馬屋ノいかい鬼武丸逃去して失ぬ。盛綱代ニ是圍人となりて三年をへたり」)。さらに庭草を取り、宿直に奉仕するなどの雑役に駆け回ったという。彼は宿直の時には廊下で寝ていて、呼ばれたときに頼朝の足を自分の懐にいれて寝たという(「佐殿御足を盛綱がふところのうちに入て、宿衣のしたにのせてあかす」)*38。盛綱は「男となり女となり仕る」として女のやる雑務も行ったとしているが、これはヤクザの親分=子分の身体関係そのものという印象であって、その身体的奉公はきわめて密着したものであった。
 なお、この「□□奉公初日記」でとくに注目すべきなのは、盛綱が馬屋の鬼武丸の代理をしたということであろう。頼朝に仕えていた御厩舎人としては「御厩舎人江太新平次」がいて、山木館焼き討ちを命じた頼朝が、その火をみさせるために樹上にのぼらせたという(『吾妻鏡』(治承四年八月一七日条)。この人物は、『源平闘諍録』(巻一五、内閣文庫本)で、幕府の御厩の統括者として登場する「御厩の小平次」、そして富士野の巻狩りで、頼朝の許に推参して捉えられた曾我五郎が預けられたという幕府の厩の統括者、「新藤内御厩小平次」(『曾我物語』巻八)=「大見小平次」(『吾妻鏡』建久四年五月二八日条)と同じ人物ではないだろうか。その論証は難しいとはいえ、少なくとも彼らの身分は同じ性格をもっていたことは確実であろう。そして、これらの史料のなかで、馬屋舎人らの身分の本質をもっともよく示すのは、曾我五郎が預けられたという「新藤内御厩小平次」についての『曾我物語』の記述であろう。彼は頼朝の命令で預かった五郎を馬屋に下し、「馬屋の下部の惣追捕使の国光」に五郎を馬屋の柱に縛り付けさせて監視させたというのである。馬屋の下部とは拘禁暴力装置としての馬屋に所属する居飼と同様の下級のメンバーである。彼らは必要となれば刑吏となることはいうまでもない。
 元木泰雄が示したように、京都の貴族社会において馬屋は牢獄に通ずる拘禁装置であって、そこにつめる厩舎人、馬屋下部などは陵辱・拷問などを行う荒々しい実行部隊であった*39。そして義仲・義経などの武士が院御厩別当の地位についたこともよく知られている。これまで十分に注意されなかったのは、このような暴力装置が、おそくも院政期には各地に広まり、倣い拡大し、領主邸宅においてほぼ同様の組織ができあがっていたことであろう*40。高雄の文覚上人は、頼朝に対して耳の痛いことをいい、頼朝から「ひた口のこハ物」といわれていたと自称しているが、上人は、頼朝を継いだ頼家に対して「人をくるしめわひしめず、国土をたのしくやすくして、寒暑時をあやまたす、厩渡わさはひなく、兵乱なく、浪風もたゝず、世の中をしつかにんさん」と忠告している。このうち「厩渡わさはひなく」というのは、厩の「辺」(わあたり)で人を殺さず、騒動を起こさずという意味であろうが*41、頼朝の厩はきわめて血なまぐさいものであったのである。

 かって戸田芳実は、その著名な論文「国衙軍制の形成過程」*42において、尾張国郡司百姓解文の「人肉を屠れば則ち身体の粧となす」という一節に着目して、武士の暴力を「残酷な刑罰方式と殺生の業」、つまり一種の専門的殺害能力、「屠児」の暴力に求めたことがある。その構想は、形成期領主制のもっとも重要な活動は「狩猟と私出挙」であり、前者の狩猟こそが山野や交通路、交通手段(馬牛)の独占において実現され、そのまま領主的大土地所有の形成=農民隷属化の鍵となるというものであった。ここには暴力身分を社会的分業のなかで位置づけると同時に、領主的土地所有のシステムの特殊な部分に位置づけるという構想があった。これは武士発生論でいえば、弓馬の戦闘能力が高いエミシや俘囚があたえたインパクトを重視するものであったが、戸田はこの「武士=屠児=夷狄」論の本格的な検討は、後の課題として残すと述べている。
 私は、かってそれをうけて武士身分を論じたときに、武士の本質は「犯罪身分」であると述べたことがある*43。それは武士が暴力行使を身体的特性とし、犯罪の「穢」を身にうける身分であるというのみでなく、犯罪者の処置さらには処刑を担当し、その構成員に前犯者を抱え込むことも多く、さらには犯罪に対する検断得分を所得とする身分であるからである。別に述べたように*44、このような犯罪身分あるいは刑吏身分は、古く物部氏の護衛・辟邪・刑吏などの氏族的職能にさかのぼることができるが、直接には、奈良時代の衛門府の下役としての「内物部(うちのもののべ)」や九世紀の京都の獄や市庭におかれた刑吏としてのモノノフ*45に由来するものである。そもそも頼朝と祐親の娘の間に生まれた幼児は祐親の「若党・雑色二人」によって奥山の川で殺害されたというが、『曾我物語』がこの若党・雑色を「物封(もののふ)」と呼んでいることは刑吏としての「物部=武士」という観念の連続性を示している。そして、これは武士の社会的発生論でいえば、戸田が強調したエミシや俘囚にくわえて、モノノフを重視しようという提案であり、これを前提として、一〇世紀以降には検非違使ー長吏ー非人という指揮系統が明瞭になり、武士は穢と犯罪を扱う職能者として、戸田のいう「屠児」として登場したという歴史過程を描くことができると考える。
 もとより、武士発生論の中枢には、高橋昌明が論じた王権に組織された武官系武士が存在する。国家論的にはそれが中枢となる*46。しかし、さらに今後は、それを中心として狩猟民、刑吏などの多様な形態とその複合の状況を明らかにすることが重要であろう。その場合に、右にふれた暴力装置、拘禁や処刑の場としての「馬屋」の位置は、武官系武士・狩猟民・刑吏の間をつなぐ具体的な場として注目するに値する問題であろう。とくに上に述べたように、それは都のみでなく、地方社会にも深く根付いたものになっており、都市農村関係のなかで、武士身分論と暴力論を統合的に検討していくことを可能にする素材であると考える。『曾我物語』のいう「物封=若党・雑色」のうち「雑色」は祐親の「馬屋の下部」そのものであったのではないだろうか。
 高橋は武士の出自身分を貴族にかぎらず、正しく「侍」にも設定しているが、それが実態としてはさらに下降拡大していく可能性もみておかねばならないだろう。そもそも職業身分としての武士の発生論は「武士=芸能的」身分を重視する佐藤進一・上横手雅敬・黒田俊雄・戸田芳実などの見解を前提とし、その上で高橋が強調するように、まず王権と都を場として始められねばならない。しかし、それが社会を被いつくし、社会関係そのものを軍事化していく過程を国家―領主、都―地方の双方に目を配りながら全構造的にえがきだすためには、高橋の仕事を前提としつつ、もう一度領主制システムと武力・暴力、暴力身分論の関係を探るべき時期がきているのではないだろうかように思われる。武士発生と領主制を区別すること自体は正しいが、その上で両者の関連が問題だと思う。黒田が武士の暴力身分としての社会的成立の根底は「原則として階級関係と不可分な状態でしか存在できなかった」ことを確認していることの意味は重い(黒田「中世の身分制と卑賎観念」『黒田俊雄著作集』第六巻、初出一九七二年)。
 研究状況は、それを具体的な実証において議論することが可能な段階にきているように思う。暴力は最終的には領主制的あるいは家産制的な構造の内部に位置づけるべきであって、それは「中世における基本的な階級的経済関係は領主的・家産制的な強制関係であり、そこに身分的関係が大量的関係として人身に付着・固定させられる『坩堝』が存在した」*47からである。そして院政期において形成された地頭領主制のなかに、狩猟や刑罰をになう組織として領主的な馬屋のシステムが存在するようになっていたのではないだろうか。
 本書は、地頭領主制については、土地領有に関わる、その基礎構造をおもなテーマとしているが、このような暴力装置が院政期に形成された地頭領主制のもう一つの内実であったのである。これについて、ここで詳しく論ずる余裕はないが、ただ、右にふれた『曾我物語』の記述において「新藤内御厩小平次」が五郎を預けた「馬屋の下部の惣追捕使の国光」についてさらに必要なことを述べておきたい。
 問題は、ここで馬屋下部が「惣追捕使」と称していることである。この追捕使は、平安時代中期までの追捕使のイメージとは大きく異なっている。井上満郎が明らかにしているように*48、平安期の追捕使は本来は北陸道などの「道」単位で活動するものであった。それは戸田が明らかにしたような押領使と同様、国衙に近い職能武士の身分を示すものとなるのであるが*49、彼らは確実に侍身分以上の存在である。しかし、一二世紀には、しばしば豪族クラスの武士の家に「追捕使と称」したり「字追捕使」などと名乗る従者が登場するようになる(『平』二四六七、二五八三、三三〇六、三四九二)。彼らは暴力や拘禁行為の実行者として現れるから、『曾我物語』の「馬屋の下部の惣追捕使の国光」という事例から考えて、武士の馬屋下部と重なる存在であったに違いない。『平家物語』(延慶本、第二末)において、三浦党の武闘勢力が「若党ヨリ初テ厩ノ冠者原ニ至ルマデ」と表現されているのはその証左である。
 彼らの身分が「字」とか「称す」という形で現れるのは、その身分が制度的なものでなく、暴力という身体的特性により付与・獲得されるものであったことをよく示している。このような追捕使は伊勢国検非違使点定船注文(『平』三九五六)に「清追捕□」「伴追捕使」という身分がみえることからも*50諸国に一般的に存在するようになったといってよい。ただ、ここで注意しておきたいのは、例えば『平』(三四九二)にみえる、大和椙本庄で「強盗」を働いた「友清<字居志追捕使>」という男が別の嫌疑をうけて訴えられたという事件は、追捕使と称するものが犯罪者と重なる存在であることを示していることである。しかも、この「友清<字居志追捕使>」の嫌疑を調査中の人物が「政所ヨリ預賜タル犯人ナレバ私沙汰ヲハ用ふべからず」と称して被害者の面接要求を拒否しているというのも面白い話である。
 ようするに、彼らは本来の追捕使ではなく、河音能平が論じた一〇・一一世紀「不善の輩」と似たものなのである*51。今後は、彼らが武家領主の下で「追捕使」「惣追捕使」などと自称するような存在に切り替わっていく過程を詳細に追究することが必要となるだろう。それによって平安時代における軍事・警察組織の展開過程を領主制論をふまえて復元することが可能となるに違いない。現在のところ、平安時代の追捕使については、井上満郎の先駆的・総合的な仕事のみが存在する状況であって、必要なことはそこに立ち返り、最近の研究の到達点をふまえて、特に院政期の追捕使を中心に議論を立て直すことであろう。その際、井上のいう「惣追捕使は守護であるというところからその成立や機能の分析は主として法制史研究の側から数多くなされているが、これを平安時代の追捕使との関連のもとで考察されたという研究は管見のかぎり見当たらない」状況が何といっても問題となる。このような研究傾向がもたらした最大の問題は、検断論において一二世紀の惣追捕使と一三世紀以降の荘園史料にみえる惣追捕使を連続的にとらえる研究が生まれなかったことである。領主の日常的暴力とその社会的構成を問題にしないという傾向は、領主制論の理論的後退を意味する。
 ともかく、一一八〇年代内乱において登場した制度としての「惣追捕使」とは、地域社会に簇生した「惣追捕使」を称するヤクザ的な存在を統括する親玉として捉えるべきことは明らかである。これまでの研究は、「惣追捕使=守護」を制度や内乱状況にひきつけて考えすぎたために、その暴力装置としての本質を見のがしていたのではないだろうか。本章冒頭で田中・野口・川合などに依拠して述べたように、一二世紀の地域社会は領主間闘争、暴力と私闘にみちていたのであって、その暴力とヤクザの世界が権力を完全に呑み込んでいったのが、一一八〇年代内乱であり、鎌倉幕府の成立なるものだったのである。本書ではおもに国土高権論の側面から領主制による国家機構の吸収包含を論じているが、ここには暴力論の側面からみた領主制による国家権力の包含と再編成の様相をみることができる。これらは、今後、統一的な視野のもとに議論されねばならないことはいうまでもない。


関係系図
 伊藤氏関係系図
  この系図は『曾我物語』(東洋文庫)五五~五七頁の系図史料をもととして、石井進『中世武士団』三九頁所載の系図に依拠して再構成したものである。私見によってそれらの系図考証に追加した部分については本文を参照されたい。『真字本 曾我物語』のもつ系譜関係記述は、これまで十分に政治史に生かされていないが、『曾我物語』の性格からして十分に依拠するにたりるものと考えている。
*1川合康『鎌倉幕府成立史の研究』(校倉書房、二〇〇四年)序章
*2田中稔『鎌倉幕府御家人制度の研究』(吉川弘文館、一九九一年)
*3野口実『坂東武士団の成立と発展』(弘生書院、一九八二年)、同『中世東国武士団の研究』(高科書店、一九九四年)。なお、野口の仕事は本章にとって決定的な位置をもっている。野口の学恩に感謝したい。
*4多賀宗準『源頼政』吉川弘文館、一九七三年
*5相模国司については野口実「院・平氏政権期における相模国」(前掲『坂東武士団の成立と発展』)初出一九七九年
*6武蔵については菊池紳一「武蔵国における知行国支配と武士団の動向」(『埼玉県史研究』一一号、一九八三年)を参照。菊池がいうように、一一七三年(承安三)には後白河院判官代・前武蔵守藤原為頼がみえるが(『九条兼実日記』同年一〇月五日条)、その在任期はいわゆる平治の乱の後から知盛が守となった一一六〇年(永暦一)以前までであった可能性が高い。
*7網野善彦「常陸国」『網野善彦著作集』第四巻。初出一九九六年
*8森幸夫「伊豆守吉田経房と在庁官人北条時政」『ぐんしょ』Vol.3.No.2。一九九〇年
*9野口「『平氏政権』の坂東武士団把握について」初出一九七七年(一部他の論文を吸収して「平氏政権下における坂東武士団」と解題し、前掲『坂東武士団の成立と発展』に所収)。五味文彦「平氏軍制の諸段階」(『史学雑誌』八八編八号、一九七九年)
*10野口実「院・平氏両政権下における相模国」(前掲『坂東武士団の成立と発展』所収)
*11服部「鹿ヶ谷事件と源頼朝」(『歴史を読み解く』青史出版、二〇〇三年)。
*12『平安遺文』(五〇九七号)。なお従来の読みは傍点部の「さては」を「はては」とするが錯誤である。
*13田中大喜「平頼盛小考」(『中世武士団構造の研究』校倉書房、初出二〇〇三年
*14なお下河辺氏と頼政の関係については岡田清一「両総における北条氏領」(『房総の郷土史』一九七五年)を参照。岡田は下河辺庄の八条院寄進・立券そのものが頼政の仲介によると推定している。
*15野口実「流人の周辺」(『中世東国武士団の研究』高科書店)、初出一九八九年
*16『真字本 曾我物語』(東洋文庫)巻一、注五〇
*17多賀前掲『源頼政』。また保立『義経の登場』(NHKブックス、二〇〇四年)も参照されたい。
*18「中世成立期の軍制」(『石井進著作集』第五巻)初出一九六九年
*19渡辺保『北条政子』吉川弘文館、一九六一年。石井進『鎌倉幕府7』(『日本の歴史』中央公論社、一九六五年)
*20保立『中世の女の一生』洋泉社、一九九五年
*21保立「中世の遠江国と見付」(『中世都市と一の谷中世墳墓群』名著出版、一九九七年)
*22杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置」(『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、一九九四年)
*23それを支えた女のネットワークの詳細については保立前掲『義経の登場』で述べたことがある。
*24杉橋「北条時政の出身」(『立命館文学』五〇〇号、一九八七年)
*25野口実「『京武者』の東国進出とその本拠地について」(『京都女子大学宗教・文化財研究所研究紀要』第一九号。二〇〇六年)および同「伊豆北条氏の周辺」(『京都女子大学宗教・文化財研究所研究紀要』第二〇号。二〇〇七年)を参照。なお、杉橋は牧御方と時政の結婚の年次を平治の乱以前にまでさかのぼらせるが、野口もそれを無理であるとしている。
*26三浦周行「曾我兄弟と北条時政」(『新編歴史と人物』)初出一九五一年、石井進「曾我物語の歴史的背景」(『静岡県史研究』七号、一九九一年)
*27『妙本寺本曾我物語』(角川書店、貴重古典籍叢刊3)の校異注記によれば、妙本寺本は「本間権守他腹姉」、本門寺本は「本間権守女房他腹姉」(「女房」は右行間に補われている)とある。ここは本門寺本を取るべきである。この本間権守とは、おそらく海老名季定の息子の本間義忠のことであろう。。
*28この「秦野権守能常(義常)には娘なり」という部分は伊藤祐親の一門・血筋を語る一節のなかで曾我兄弟の母の血筋について述べた部分である。その直前に、一一九〇年(建久一)頃、成人した十郎五郎が、親戚筋を寄宿先としていた様子を語る部分があり、そこに、「秦野権守は父方の従父聟なれば、是にても五・六日(逗留)」とある。この二つの文節は区別されねばならない。ところが、東洋文庫本注釈は、『曾我物語』(巻一)に登場する「秦野馬允」について、「巻五には曾我兄弟の父方の従父聟でまた母方の縁戚である」と説明している(六六頁)。つまり、前者の「秦野権守能常(義常)には娘なり」という部分の「秦野権守能常」と後者の「秦野権守は父方の従父聟なれば」という部分の「秦野権守」を同じものとみたのである。しかし、後者の「秦野権守」はすでに一一八〇年(治承四)に死んでいる義常のことではなく、一一九〇年(建久一)頃の波多野氏の当主、おそらく権守称号をもっていた義職のことであろう。なお、以上のように解釈してくると、十郎五郎が一一九〇年(建久一)頃に母方として頼った寄宿先が渋谷・海老名・本間・和田などとされているのは、「母方は相模国の御家人たちなり」という説明と正確に付合することになる。また、十郎五郎の母について「伊豆国住人鹿野介(狩野介)茂光には娘の子なれば孫子なり」とあるのは、波多野義常が狩野介茂光の娘を嫁としていたという重大な事実も示すことになる。
 なお菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』(吸古書院、二〇一一年)は、曾我兄弟の母の父は、横山時重であるとする。その根拠はまず「小野系図」に横山時重の娘に渋谷庄司妻、和田左衛門尉妻がいるとあることにある。「小野系図」は南北朝期の成立と考えてよいが、それよりも若干成立の遅れる「横山系図」において渋谷庄司妻は「渋谷庄司重高妻」、和田左衛門尉妻は「和田義盛妻」として夫の実名があてられている。和田義盛については、和田合戦において横山氏は和田義盛に加勢して没落しているから、この婚姻関係は事実と考えられる。しかし、「小野系図」に横山時重の娘に渋谷庄司妻があるとし、「横山系図」がその「渋谷庄司」に「渋谷庄司重高」という実名をあてていることには問題がある。つまり、『吾妻鏡』(建保一年五月二日)には横山時重の聟は渋谷次郎高重であるとあるから、この「小野系図」「横山系図」において横山時重が「渋谷庄司重高」を聟としていたとするのは、「渋谷庄司」という名乗りにおいても、「重高」という実名においても若干の錯誤がある。系図は横山時重が「渋谷次郎高重」に娘を与えていたと訂正される必要があろう(なお横山氏については菊池紳一「承久の乱に京方についた武蔵武士」『埼玉地方史』二〇号、一九八七年、鈴木国弘『日本中世の私戦世界と親族』吉川弘文館、二〇〇三年、川合康「横山氏系図と源氏将軍伝承」『中世武家系図の史料論』上巻、高志書院、二〇〇七年、などを参照した)。
 ところが、菱沼は、横山時重が「渋谷庄司重高の妻」を娘としたという記事の「重高」を「重国」の誤記であるとし、時重は、渋谷重国に娘をあたえたと解釈した。そして、それを前提として、『曾我物語』(巻五)に和田義盛が曾我兄弟の「母方の伯母聟」であり、渋谷庄司重国は曾我兄弟の「母方の従父聟」であるとあることに着目し、これを勘案すると、時重の娘には和田義盛の妻、渋谷庄司「重国」の妻のほかに伊藤祐通の妻がいたと推定したのである。菱沼の研究は石井進による作業の後、その独自な「大名論」をベースにして、ほとんどはじめて『曾我物語』の謎に挑んだものであり、研究史上において重要な位置を占めているが、この比定については成立が困難であろうと考える(なお『曾我物語』にあらわれた東国武士の姻族ネットワークについては菱沼の研究をうけた坂井孝一の広汎な研究があり、本稿にとっても重要な前提である(坂井「中世成立期東国武士団の婚姻政策―伊豆国伊東氏を主な素材として」『創価大学人文論集』(十九)、二〇〇七年。「『曾我物語』人物考」『創価大学人文論集』(二三)、二〇一一年)。またほぼ同時期に、右記の『中世武家系図の史料論』にまとめられたような東国武士団の系譜関係に関する諸研究が進展したことも重要であって、これによって東国武士団研究は新たな視野を確保しつつあるように思われる)。
 他方、『秀郷流系図(松田)』に波多野義常が伊藤祐継の娘を妻として嫡子有常を儲けたという記事があることも注目される。これは湯山学『波多野氏と波多野庄』(注⑭)が指摘したところであるが、これが事実であるとすると、波多野義常は少なくとも妻の一人に伊藤祐継の娘をもっており、そしておそらく別腹の娘を伊藤祐親の長子・祐通に嫁としてあたえたということになる。これは波多野と伊藤の間の深く、しかも複雑な縁を示すものといえよう。
*29「渋柿」の原題は「詞不可疑(しふかぎ)」である。後藤紀彦「詞不可疑考」(『中世史研究』4号、一九七九年)に、その史料性についての考証があり、義常、広常についての記述は「頼朝の家人観を伺う好史料」とされている。
*30野口前掲「流人の周辺」
*31鎌倉氏については、山本幸司『頼朝の精神史』(講談社選書メチエ、一九九八年)を参照。
*32多賀宗隼「平清盛と東国」(『日本歴史』五一三号、一九九一年。
*31野口実「平清盛と東国武士――富士・鹿島社参詣計画を中心に」(『立命館文学』六二四号、二〇一二年一月)。本章のもとになった「院政国家と東国における平氏権力」という小文(『歴史地理教育』七八八号、二〇一二年四月)は、野口の論文を知らない段階で、この参詣計画の見方について期せずして相似した趣旨を論じたものであるが、短文にとどまっており、野口論文は、東国参詣計画について多賀の後の研究の画期をなすものである。ただ、野口は、この参詣計画を清盛が重盛を排除して直轄したものとするが、その点で私見とは異なっている。清盛・重盛のあいだに一定の矛盾があったことは否定できないが、矛盾の強調はむしろ一一八〇年代内乱のなかで創出された側面があると考えている。
*32本書第五章「義経・頼朝問題と国土高権」の前提となった「補論、頼朝の上洛計画と大姫問題」(『黎明館調査研究報告』二〇集、二〇〇七年)
*33野口実「十二世紀における東国留住貴族と在地勢力」(『中世東国武士団の研究』高科書店)、初出一九八八年
*34野口実「平氏政権下における坂東武士団」(『坂東武士団の成立と発展』弘生書院、一九八二年)
*35「武士発生論と武の性格・機能をめぐって」(『武士の成立・武士像の創出』東京大学出版会、一九九九年)
*36この「日記」は西岡虎之助「佐々木荘と宇多源氏との関係」(『荘園史の研究』下巻一)に全文が紹介されている。西岡はこの史料を十分に使用に耐えるものとしており、また野口実、前掲「流人の周辺」も、現在の研究段階に立って、その点を確認している。なお史料編纂所架蔵影写本の「野田文書」によって照合すると西岡の翻刻には若干の問題があり、たとえば本文でふれた「御馬屋ノいかい鬼武丸」の「いかい」(居飼)の部分を西岡は「いかハ」としている。居飼は厩の舎人の下にいる最下級職員である。
*39元木泰雄「摂関家における私的制裁について」(『院政期政治史研究』思文閣出版)初出一九八三年
*40若干の展望を保立「娘の恋と従者たち」『中世の愛と従属』平凡社、一九八六年)で述べたことがある。
*41『吾妻鏡』正治二年一二月二八日条。なお、『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)では、「厩と渡(などの交通)に災いなく」と解釈しているが、本文のように理解したい。
*42戸田「国衙軍制の形成過程」(『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、初出一九七〇年)
*43保立「日本中世の諸身分と王権」『講座前近代の天皇』青木書店、③、一九九三年)。戸田前掲「初期中世武士の職能と諸役」)。
*44保立『平安時代』(岩波ジュニア新書、一九九九年)、「貞観津波と大地動乱の九世紀」(『東北学』二八号、二〇一一年夏)
*45直木孝次郎「物部連と物部」『日本古代兵制史の研究』一九六八年
*46ただし、私は高橋の研究史の捉え方に全面的に賛成することはできない。高橋のいう武士身分の国家的な性格や都市的な性格という視点自体は、けっして新しいものではない。たとえば、早く青木和夫『古代豪族』(『日本の歴史』5、小学館一九七四年、三六〇頁)は『続日本紀』に登場する「武士」について高橋と似たことをいっている。さらに井上満郎は「国家権力との関係において日本の武士は武士たりうるのであり、国家権力と武力・軍事力あるいはその荷担者との有機的関係を明らかにしてこそ軍事制度のもつ真の意味を知ることができる」(「序にかえて」『平安時代軍事制度の研究』吉川弘文館、一九八〇年)といい、また吉田晶は「中世の武士団の成立を農村における在地性の克服、換言すれば都市との関連で考えるという視角を提起されたのは石母田氏であった(『中世的世界の形成』第三章第二節)」と述べている(「平安中期の武力について」『ヒストリア』四七号、一九六七年)。もちろん、吉田が「このような視角は、その後の武臣団形成史の研究において必ずしも生かされていない」といった状況を打破して武士が都市農村関係のなかで成立し、活動を拡大してきたということをはじめて説得的に示したのが高橋の論文「伊勢平氏の展開」(『清盛以前』増補改訂版、二〇〇四年、初出一九八四年)であった。そして高橋はそれを王権論、身分論としてさらに方法的に追究してきた。それ故に、高橋は武士の国家的あるいは都市的性格の検討の重要性を強調する権利があるのであるが、しかし、私は、高橋の石母田領主制論に対する評価には、新たな実証の高みに立って過去の研究を裁断するかのようなニュアンスを感じる。その点では下向井龍彦「国衙と武士」(『岩波講座 日本通史』六巻、一九九五年)が、戸田芳実・石井進が提起した「国衙軍制論」こそが実質上ははじめて武士職能論を展開したものであって、結果としてその側面だけに研究がかたより、もう一つの国衙と武士との関連性、それ故に都鄙間交通と地方社会の関係のなかでの武士の展開という視野が消えてしまったことを指摘するのは自然なことであると考える。是非、今後、研究史の初心に戻って、国家と領主、都市と農村の全体をあらためて統合的に論じていただきたいと思う。
*47保立前掲「日本中世の諸身分と王権」
*48、井上満郎「平安時代の追捕使」(前掲『平安時代軍事制度の研究』初出一九六九年)。また下向井龍彦「押領使・追捕使の諸類型」(『ヒストリア』九四号、一九八二年)を参照。下向井は近江と伊勢に荘園所職として設置された「押領使」があることを論じ、それが一一八七年(文治三)九月一三日の平盛時奉の関東御教書(『吾妻鏡』同日条)に、「国中庄公下司押領使之注文」とみえるものであるという重要な事実を明らかにしている。追捕使とくらべ押領使は警固や交通護衛の位置がたかいものであろうか。下向井のいうように荘園押領使の登場が一一世紀末であることは重要である。
*49戸田「初期中世武士の職能と諸役」『中世初期社会史の研究』東京大学出版会、初出一九八六年)
*49なお、この二人の「追捕使」が船の所持者として登場するのが興味深い。戸田芳実は軍制における武士のもっとも典型的な職能役を交通護衛であるとしているが(前掲「初期中世武士の職能と諸役」)、地方社会において馬屋の武力が交通護衛に関わったことが推定されるもっとも古い例は、近江国国衙の注進した二八艘の船の注文に「御厩預所武依」「という人物が、「船」を有していたという記事であろう。「御厩預所武依」という行の右に「櫨□□□」という字がみえるが、これは同注文に「櫨梶健児近友」などが預かる二艘がみえることから、「櫨梶健児」の後半が欠損したものと考えられる(『平』四九四二)。船を「御厩」関係者と「健児」があづかるというのは、そこに交通護衛が含まれていたことを意味すると考える。
*50河音能平「日本封建国家の成立をめぐる二つの階級」(『河音能平著作集』1、文理閣、初出一九六二年)。河音のいう「不善の輩」とは一つの政治史的範疇として設定されたものであるが、それが雇集められるような存在で、ヤクザ的な実態をもつことについては保立「『大袋』の謎をとく」(『中世の愛と従属』平凡社、一九八六年)を参照。

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