忌部氏と日前宮について――伊勢神宮より古い

 以下は研究史ですので、他の研究者の邪魔にはならないと思うので、挙げておきます。ようやく忌部を突破できそう。

 忌部氏の位置が倭国神話の中枢をなす天石屋戸神話と天孫降臨神話に直接に反映していることは見逃すことができない。

 つまり、『書紀』(七段異書一)の天岩戸の段によれば、「天照大神」が岩屋に籠もったとき*3、女神の「像」を鏡に鋳て招き出そうとして「石凝姥」に「天香久山の金」で鏡を作らせたという。石は鏡を作る石の鋳型のことであろうが、『古語拾遺』(崇神)では石凝姥は天目一箇神と並んで登場するペア神であるから、忌部氏と深い関係があると考えてよいだろう。

 『書紀』(七段異書一)がこの鏡を「紀伊国に所座す日前神」の神体であるとするのが重要で、三宅和朗は、この所伝は伊勢が日神アマテラスとして王家の崇敬をえる以前の時代(「六世紀末から七世紀初頭」)に存在した天石屋戸神話であるとした(三宅一九八四。一〇〇頁)。これは天石屋戸神話が紀伊において忌部氏の媒介によって形成されたという重大な指摘であって、最近、中野高行がそれを継承する立場を明らかにしたが、私もそれにしたがいたい。

 これは研究史的には古くからの議論で、早く津田左右吉も地名としての檜隈を日前としたのは「鏡を日の神としながら伊勢の大神とはせずして日前神に擬した」と論じた(津田左右吉②四八一頁)。

 ただし、現在では津田の議論は神話論としてはボロボロになっている。津田は意外と通俗的な人物で、私も『現代語訳 老子』(ちくま新書)で厳しく批判せざるをえなかった。

 津田は、これは伊勢の神体鏡に対抗するために後に作られた伝承であるとしたが、上田正昭が「神璽の宝剣については、宮廷を中心とする伊勢神威譚の形成とは別個の要素が忌部系を中心に伝えられてきたことになる。それが紀伊国名草郡(令制の神郡)の地に結びついているのも、紀伊忌部を介して考える時、たんなる偶然や作為とは考えられない。神璽の宝剣について大化前後の所伝が共通に忌部の関係を物語っていることと関係づけてみれば、内廷の祭祀と地方忌部とのつながりは、伊勢よりも紀伊の方が古い」としたのが圧倒的に正しい。

 私は上田が紀伊忌部を「地方忌部」とすることには賛成できないが、他は正論であると考える(上田一九六一『日本古代国家論究』)。

 さらに薗田香融も「日前国懸社」は本来は「日前に坐す国懸神社」であって、クニカカスの「カカス」とはカガヤカスであって、その神格は日神であったと踏み込み、それは「六世紀以降の紀国造の政治的動向の反映」である論じている(薗田一九六七)。

 これは通常の伊勢神宮論とはまったく異なる境地であるが、仮説としては十分に成立すると考えている。


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