中国の疫病と『老子』ーー日本の疫病観念との深い関係



 中国のコロナ・ウィルスの流行が、万が一にも「排外主義」の流行をもたらさないようにするためには、中国文化と日本文化の深い関係を「疫病観念」のレヴェルでも見なおしておく必要があるように思う。

 Noriko Ikehiraさん(@chipingjizi)によると、武漢に突貫工事で建設中の二つの病院、ひとつは「火神山医院」、いまひとつは「雷神山医院」と名付けられるとのこと。これは道教的な命名であるということだが、これは日本の疫病観念にも深く関係している。文化を通じて隣国のことを親密に考えたい。それを政治と絡めないのが人間の常識だろう。

 
 日本の疫病の史料の最初は『古事記』(崇神記)の三輪山の神大物主(オオモノヌシ)の祟りによる疫病であるが、この祟り神が「大物主」といわれる場合の「物」は『老子』の「物」の概念によっているというのが私見。『現代語訳 老子』(ちくま新書)二一六頁に下記のように書いた。

『老子』の「物」という観念は神話に由来する言葉である。中国神話の実像は明なところが多いが、現在では、その原点が殷の時代にあったことが、甲骨文・金文や鼎などに鋳込まれた怪異な動物の象形の分析から明らかになっている。注目すべきは、それらの動物の象形は「物」といわれて、各都市国家の氏族のもつ氏族標識(トーテム)であったことである(小南『古代中国 天命と青銅器』京都大学学術出版)。それらは牛や鳥や龍などの姿をもっていたが、「物」は「牛」偏で、本来は特別な「牛」を意味したからトーテムのもっとも普遍的な形は牛だったらしい。

((中略)

指摘しておきたいのは、この「物」という言葉が日本の神話や文化のなかに、ほとんどそのまま入り込んでいることである。たとえば、奈良三輪山にこもる「大物主」という神の「物」が同じ意味の「物」であって、この「神の気」は疫病をはやらすと同時に大地の豊饒をもたらすものであった。『古事記』によれば、ミマキイリヒコ王が、この「神の気」を鎮めるのに成功したために、「神」を崇める王、崇神天皇と呼ばれたという。ここで「物」と「気」が一体であることも注意しておきたい。
 また古くからの軍事氏族、「物部氏」の「物」は悪霊を意味し、物部氏の役割は王の身辺に悪霊を近づけないように護衛し、また悪霊をもった罪人を処刑して処罰するなどの点にあったことも重要である。九世紀には市庭の処刑役人として「物部」がいたことが確認できるが、これも物部氏を受けたものであることはいうまでもなく、また武士を「モノノフ」というのも、端的にいえば彼らが人を処刑する力をもつ「士」であるということである。『曾我物語』で伊藤祐親が、自分の娘と頼朝の間にできた男児を処刑させたのも、やはり「物封(もののふ)」と呼ばれた男達であった。私は、『物語の中世』(講談社学術文庫、二〇一三)という本で民話「ものぐさ太郎」を分析し、「物」とは「悪魔」であり、「くさ」とは「熱病・皮膚病(瘡)」であることを論じたが、このような「物」のニュアンスがはるか昔の中国までさかのぼることは、今回、初めて知った。

次ぎに拙著『現代語訳 老子』から、『老子』の疫病観念をもっともよく示すと思われる60章の現代語訳、解説などを転載しました。出版社の版権の関係もありますので、流行がおさまれば撤去します。早く無事に進みますように。

世に「道」があれば鬼神も人を傷つけない。(六〇章)
 大国の政治は、小魚(こざかな)を損なわずに煮るのと同じで少しでも人を傷つけないようにしなければならない。世の中に正しい「道」を通すことができれば、鬼は神の荒々しい力を失う。鬼が神でなくなったということではないが、神は人を傷つける力をなくすのだ。神が人を傷つける力をなくすのみではない。有道の士の政治自体も決して人を傷つけるものであってはならない。こうして鬼神の動く冥界でも、有道の士の動くこの世でも人が傷つくことが無くなれば、その徳(いきおい)は二重になって人々を益するだろう。
治大国若烹小鮮。
以道莅天下、其鬼不神。非其鬼不神、其神不傷人。非其神不傷人、聖人亦不傷人。夫兩不相傷、故徳交帰焉。
大国を治むるは、小鮮(しようせん)を烹(に)るが若(ごと)し。道を以て天下に莅(のぞ)まば、その鬼、神ならず。その鬼、神ならざるに非(あら)ざれども、その神、人を傷(そこな)わざるなり。その神、人を傷(そこな)わざるのみには非ず、聖人も亦(また)人を傷わざるなり。夫(そ)れ両(ふた)つながら相傷わず、故にその徳(いきおい)交々(こもごも)に帰す。
解説
 「大国を治むるは、小鮮(しようせん)を烹(に)るが若(ごと)し」とは、小魚を煮るときはつついたりかき回したりしないのと同じように、大国の政治は傷つけることがないように慎重に行えということである。そして老子は、その際の重点が「鬼神」の扱いであるという。
 「鬼」とは、『墨子』(明鬼篇)に「天の鬼あり、また山水の鬼神なる者あり、また人の死して鬼となる者あり」とあるように、先祖の死霊、祖霊から地域の山河の自然神、そして天の神までの全てをいうが、ここでいう「鬼」は第二番目の「山水の鬼神」、地域の自然神のことである。それは大国の下に合併された地域と小国が神話時代から尊んできた神々の系譜を引いているが、大国は、それらの神々を抑圧してきた。
 その最大の手段が、大国が張り巡らせる道路である。そもそも「道」という字は殷の時代の甲骨文まで戻れば、「首」と「辶」という字からできている。この「首」というのは戦争捕虜や生贄の首のことで、国家の使者は旅路に登場して妨害する異族の邪悪な霊(鬼神)を脅かすために、それを呪符としてたずさえた(『字統』)。神話時代でも、周になると、「周道、砥石の如く、その直きこと矢の如し」といわれるように砥石のように磨かれた直線の車路を整備した。路傍の人々は「粲粲(さんさん)たる衣服」を着て車を走らせる「西人(周の人」の下で、「ひたすらに労するも来われず」という生活を送ったというが(『詩経』小雅、大東)、この直線道路と車が、マジカルな「首」の携行に代わって、地域の鬼神を脅かしたのである。
 文明化のなかで、世界のどこででも直線道路がいよいよ発達したが、たとえば秦の始皇帝も今の西安の近くにあった首都の咸陽から、その真北、今の内蒙古の包頭あたりの国境まで、ほぼ真っ直ぐに七五〇㌔ほどの「直道」を作るなど直線道路を張り巡らしている。こういう中で、原始的な神話の神々の姿が変わっていくのは一つの必然であった。だから、「道を以て天下に莅(のぞ)まば、その鬼、神ならず」というのは、大国の内部を縦横に結ぶ現実の道が社会の文明化を押し進め、原始的なタブーを解消していくということである。老子は、それを正確に認識していた。老子は神話時代の終了を観察した思想家なのである。
 しかし、老子は大国文明の立場にたっていたのではない。老子は「その鬼、神ならざるに非(あら)ず」(鬼神も大事な神である)ということを認めた上で、聖人(有道の士)は「その神、人を傷(そこな)わず」という状態をもたらすことができるという。本章で「道をもって天下に莅(のぞ)まば、その鬼、神ならず」というのは、「道」が「天網」のように世の中に広がっていくことによって、「鬼神」の「祟り神」としての側面を抑え、地域と民衆にとって活かしうる神としうるといっているのである。
 このように、老子は大国の政治では、小魚を煮るときの要領で万が一にも鬼神や人を傷つけてはならないといったのである。『左伝』(昭公一年)に「神と人を棄つれば、神怒り民叛く。しからば何ぞもって久しからん」などとあるように、こういう考え方は決して老子だけのものではない(浅野『老子と上天』)。ところが、本章の趣旨は早くから誤解されたようで、『韓非子』(解老篇)は、これを「大国を治めて数(しば)しば法を変ぜば則ち民は之に苦しむ」と解釈した。老子のいうのは、一度決めた法を変じないということだというのである。韓非子の解釈はいかにも法家らしいが、問題は、その「あまりいじくらない」という側面が「無為」と意味づけされて、これまでの解釈に引き継がれていることである。たとえば独自な見識の多い〖長谷川注釈〗も、これこそ「無為政治」「無干渉主義」であるなどとしている。また〖木村注釈〗は「国を治めるとき、あまりこせこせと人民をつつきまわさない」、〖福永注釈〗も「小魚を煮る場合には腸をぬかず鱗を取らず、箸であちこちをつつき回さないようにするが、大国を治める場合にも、それと同じように煩瑣な人為を用いない」などと通釈している。これでは韓非子の法家的解釈をほとんどそのまま認めているだけだろう。決まり文句のように「道」を「無為の道」といい換えるだけでは、地域の鬼神と人々を傷つけないようにせよという本章の趣旨は通じないのである。
 この点は老子と孔子の相違を考える上で、きわめて重要である。民間の鬼神祭祀を否定する孔子の言葉は、「子、怪力乱神を語らず」という述而篇の一節以外にも多い。「民の義に務め、鬼神を敬して遠ざくれば知というべし」(雍也篇)は、民衆は義務を果たしていればいい。その上さらに淫祠邪教に距離をおいていれば賢いのだが、彼らは愚かなので、そうではないということであろう。また「其の鬼に非らずして之を祭るは諂うなり」(為政篇)というのは、民衆は家の祖先神を祭るのはいいが山川の神まで祭るのはただ心が卑屈なせいだというのも激しい言葉である。なお、これに続くのが「義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」という句であるが、これは普通に言われるような、正義については勇気をもって実行するということでなく、実は「鬼を祭るようなことが正しくないのを知りながら、それを実行せず、民衆に流されて鬼神を祭ったりするのは勇気がないのだ」という意味であるという(参照、貝塚茂樹『孔子』)。
 孔子の出自身分を示す「需」の原義は雨乞いをする巫祝という意味であるから、王権の祭天の祭祀を重視するのは当然のことであった。また「需」の職は神祭のみでなく葬祭を含んでいたから、民衆が家の鬼神(祖先神)を祭るのを助けるのも、その職責であった。しかし、この二つを外れて山野河海のなかにいる鬼神を祭ることは、孔子にとっては淫祠邪教として否定するべき対象であった。
 しかし、老子の時代は、すでに戦国時代も後期であって、戦乱のなかで王権は衰微し、家から離れた大量の死者が生まれている時代であった。その時代の諸国の諸地域で信仰されていた「山水の鬼神」、各地域が神話時代から尊んできた神々を、その外部から、ある神は認め、ある神は淫祠邪教とするなどということはできない。伝統を尊重し、神々を尊重することは老子の無為の思想と保守主義にとってきわめて自然なことであったに相違ない。
 さて、「道」に「鬼」が登場し、地域の自然神が人に祟るという問題は、日本の奈良時代の史料などを想起させる。その頃の怨霊は道に登場するので道饗祭(みちあえのまつり)などをして道路際で侵入をふせぐという史料が多く、実際に道路際からいろいろな祭具が出土している。また『古事記』に描かれたヤマトタケルの東国遍歴神話はヤマト王権による道路の東国への拡張の動きを反映したものであるとされているが、その中でヤマトタケルは、地域の豪族と神々の抵抗をうけ、直接には伊吹山の霊によって致命傷を負ったとされていることもよく知られている。
 日本史で重要なのは、地域の神々が災害を起こす「祟り神」であると指弾されて仏教に帰依した事例が多いことである。たとえば、若狭国の若狭比古神社の祭神は「疫癘しばしば発し、病死のもの衆し。水旱は時を失い、年穀は登(みの)らず」という疫病と旱魃(かんばつ)が重なるという大災害に直面し、その責任を感じる中で、「我、神の身を稟け、その苦悩はなはだ深し」と告白した。そしてその神自身が「仏法に帰依して、もって神道を免れんと思う。この願い果すことなくんば災害を致さん」、つまり、より普遍的な宗教である仏教に帰依したい、そうでなければ自分自身がまた災害をもたらす結果になってしまうぞと人々に告げたというのである(『類聚国史』巻一八〇)。これを神々の「神身離脱」というが、この中で仏教化した神社、いわゆる神宮寺が形成されていったのである。これこそが、先にふれた日本の神道と仏教が習合して、「本地垂跡」「和光同塵」という関係になっていく原点にあった(■■頁)。
 これは、中国で老子が目指したことを日本では仏教がやったということである。これは自然なことで、それを順序に説明すると、まず老子の思想は中国の神話的な神観念につよく影響して、その中から道教が生まれた。この道教は朝鮮を通じて日本の原始神話(そして後に神道となるもの)に強力な影響を及ぼした。問題は、仏教であるが、実は、仏教も中国に伝来した始めには、老子の哲学と似たものと受けとめられて流布し、中国に根付いていった。その中で老子は函谷関の関所役人、尹喜に『老子五〇〇〇文』を書き残して、西国へ去って行ったが、実は釈迦は、この老子が天竺でとった姿なのであるという伝説さえ作り出された。実際に『老子』の思想は仏教と響き合うところがあるのである。
 この仏教が百済を通じて、日本にやってきたのは、だいたい六世紀のことであるが、この時代、日本ではちょうど神話時代の最末期であり、仏教は中国の道教の影響の中で形をとった日本の神話の神々に再び大きく影響し、その神話の神々と習合し、「神身離脱」させ、全国で神宮寺の建立を進めたのである。
 このように何度も繰り返す波のようにやってきた中国の「老子→道教→仏教」が日本の宗教と文化に影響してきた過程を追跡することは、東アジアと日本の歴史を根底から考え直すためにはどうしても必要なことである。本章は、そのための原点とすべき内容をもっている。

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