公開著書『中世の国土高権と天皇・武家』第一章「平安時代の国家と荘園制」

平安時代の国家と荘園制
はじめに
 報告の前提となる問題意識を以下の三点にまとめておきたい。第一は、平安時代の国家と荘園領主権の関連構造を解明するためには、この段階の法的諸問題を扱うための方法論がどうしても必要であるということである。全体として、従来の議論はこの点に無自覚であった。報告では、準備ペーパー*1で述べた格式法・新制法の理解を起請論として具体化するとともに、特に荘園類型論に注目し*2、王権との関係での典型荘園の国法的特権とその変容の在り方を検討する。第二は、それに密接に関係するが、土地所有の国家的形式の理解をどうするかということである。私は近年のソ連型「国権的」社会主義の崩壊をたいへん結構なことだと考えるが、そのような立場からすると、様々な社会構成体における国家的所有の歴史的特徴・諸条件を法則的に理解することは極めて重要である。そして報告で問題にする平安時代における土地所有の国家的形式の理解は、日本の歴史の展開を理解するために緊要な位置にある。報告では所有の集団性、国家・行政組織の機構的所有と共同体所有そして統治行政・国土高権が問題とされる。第三は平安時代における国家と荘園制の構造的運動を、内乱と鎌倉時代への移行を展望する方向で理解することである。これが最も重大な問題であり、そこでは土台と上部構造の総体を歴史的な運動過程に即して一貫した論理で捉える全体史の観点が必須となることはいうまでもない。
Ⅰ官省符庄・院領荘園と起請
A官省符庄の内印と本願起請
王権と官衙ーー内印と外印
 平安時代における最も正統的な荘園は官省符庄である。この官省符庄の形成過程が初期荘園論の一環として十分に議論されてこなかったのは、奈良時代と平安時代の研究の分裂状況の一つの表現である。報告は官省符庄論の詳細に踏み込むことを目的としていないが*3、しかし、どのような意味でそれが正統的な荘園類型であるのか、なぜ官符庄でなく官省符庄といわれたのかについては必要な指摘をしておきたい。まず官省符庄は基本的には寺社領荘園であり、そこには、王の宗教的な意思が表現されている。その勅施入の意思を象徴するのが、天皇御璽なる朱印、つまり内印の押捺であった。内印は公財の処分・寄進の権利を象徴するものであり、太政官と民部省が諸国に対して公財を動かすことを命ずる符、つまり「官物・公地・封戸・雑田を賜う」ことなどを命ずる太政官符と民部省符には、両方とも内印が据えられていた(『延喜式』巻一一太政官、内外印条)*4。
 私は、官省符という言葉でイメージされていたのは、この内印であると思う。他方、『公式令』の符式の義解に「省・台の出符は太政官に向けて内印を請う。官すなわち本案を発し、出符を検勾す。その案は官印をもって印し、本司に送り還せ」とあるように、太政官官底と民部省には「外印」・太政官印の捺された案が保存されていた。平安期に入っても「官符・省符、恣に構え作るべきにあらず、符案につき官底・本省に尋問せらるれば、何ぞその隠れあらんや」(『平安遺文』一一三一号文書ーー以下、『平』一一三一と記す) といわれたように、それは変わらなかったであろう。
 内印と外印の二つの印は、王の意思と太政官・官衙制の論理の両者によって支えられた寺社官省符庄の国法的な特権と管理を表現している。それは寺社荘園の領有体系が、国家の最奥部において、その宗教的金冠部分として認証される形態であった。しかし、それは、他面において王権・寄進者と寺社勢力の間の家産制的関係の発生が諸官衙の介在によって制約されていたことを意味する。坂本賞三が明らかにした官省符庄の国衙による管理、「免除領田制」*5は、寺社の荘園制支配を保証すると同時に、寺社の荘園制の在り方を強く規制したのである。
 そのような官僚制的管理において、特に注目すべきなのは民部省の位置であって、勅施入官省符について「太政官の符、文体狼藉といえども、民部省の図・勘録、狐疑なし」などといわれているように(『平』二九三六)*6、民部省の図と勘文は決定的な意味をもっていた。この民部省図は国衙の田所に存在する国図の基本対照図としての機能を有し、国図朽損の場合などに参照されるとともに(『平』四四四)、現実に対応して修正が行われる場合もあった(『平』四四三、五九五)。そのような民部省と国衙の関係なしには*7システムとしての免除領田制は存立しえなかっただろう。そして、この民部省図を管理し勘文を作成した民部省の田所が(『平』五八一、九八〇)、国衙の田所の制度的原型であって、それはその氏姓か示すように民部省の算道以下の道々の官人が国衙田所の組織や人事に一定の「氏族的」影響力を有していたことに照応しているのであろう。勘会制や小槻氏の研究のみでなく、今後、主計・主税の二寮の実態に踏み込み、福島正樹のいう「国家の統合」機能*8の一環としての民部省の研究をさらに進められなけれならない。
不輸と勅免
 しかし、荘園領有の国法的特権の問題は官衙制的な側面のみで明らかにはならない。いうまでもなく、王の意思は内印によってのみ表現されるのではない。たとえば「末代の国司綸言なしと称し、なお妨げを致すを恐る、そもそも当庄建立の旨趣、早く天聴に達し、すでに年序を経、官符なしといえども、あに勅免にあらざらんや」として、ある荘園の勅免の官宣旨の発給が申請されたように(『平』二二四一)、宣旨による勅免、「勅免宣旨」(『平』二四七七)も一つの制度として存在した*9。それは官省符庄の特権の確認の意味でも行われたが、荘園に対する臨時雑役賦課などの圧迫がその時の天皇の命令によって行われる以上、宣旨による特権の認証が、官省符とは別のレヴェルで要求されたことは当然である。
 それは本来は「件の杣ならびに庄々は、或は租帳に除く格前の処、或は官省符の処なり」(『平』七八七) と官省符と並列された不輸租の手続きであったろう*10。それは官符によって行われたに違いない。官省符庄の勅施入自身が内印で行われるのに対して、官省符庄に対する臨時雑役の免除などの行政的命令の太政官符は内印でなくむしろ外印で発給されたようである(『平』補一一) 。しかし、平安時代の中期になれば、勅免宣旨が一般となり、相対的に限られた数の勅施入内印の官省符庄の周囲に、「勅免」という形で国法的特権を確保した新立の荘園が多数存在するに至っていたのである。そして問題は、この勅免荘園の中には、朝恩として勅免された俗人領の荘園も存在したことである。たとえば、「大治年中、宣旨を申し下し、官使を給わり、四至を限り傍示を打ち、さらに国郡の妨げなし」(『平』補六六) という史料は俗人領荘園に関するものである。
 かかる荘園領有の国法的特権の在り方を、便宜、官省符・勅免荘園制と呼んでおくが、実は、この言葉は後に関説するように保元新制の表現によったものである。平安時代中期には、王権と荘園領有の関わりは、勅免地を含む広い裾野を有していたのである。
本願起請と勅施入神話
 勅施入願文の呪詛文言が起請文言の原型にあったことは周知の事実であり*11、内印に象徴される王の意思は、「勅施入の起請」といわれることもあった(『平』七〇九) 。そして、「聖武天皇辰筆起請」*12が「本願聖霊施入状」ともいわれているように(『平』一六六二)、「本願起請」の天皇は「本願聖霊」として一個の神格となったのである。さらに起請は「本願聖武天皇勅施入記文」という例のように「記文」といわれることもあったが(『平』二九〇四)、そのような起請や記文という用語は、空海の「記文」(『平』三〇〇〇)とか、「権者の起請」「権者の誓文」(『平』二四七七)などというのと同じ使用の仕方である。
 このような官省符起請の背後に古代の天皇にかかわる神話的観念や歴史観が存在した。一般的には「勅施入官省符の地なり、古の天子、昔の良臣、末代の王位を護らんがため、先祖の霊廟を救わんがため」*13(『平』三六三九)などといわれ、「数百歳」「五百歳」以前の立庄などという年代が語られ*14、具体的には応神(『平』四七二六)、舒明(『平』一四九一)、聖徳太子(『平』一四六五)、天智(本願佐佐名実天皇)(『平』一〇四四)、聖武天皇、宇多天皇(『平』一八八三)などの名前を確認することができる*15。勿論、これらの伝承は上から歴史的に創出されたものであるが、官省符庄の中にはこのような形でも初期荘園との連続性があったこと、しかもそれが在地社会に受容される場合もあったことが興味深い。たとえば、筑前国把木庄の「二万五千代」の広大な荒野「把岐野」(『平』一二七七)は「本願天皇の御遊び野」と観念されていた(『平』四九五四)。また高野山領諸荘園に関しては「件の地の施入主は権化の大神、建立は入定聖人、何ぞいわんや処々の官省符亀鏡にして重帖」(『平』四三六)といわれた空海と地主神の契約が存在したが、それが同時に「昔誉田天皇(応神)殊に綸旨を降し、家地万許町を割き、高野鎮守丹生大明に奉る」とあるように(『平』四七二六)、天皇神話を前提としていたことが重要である*16。
B院領荘園の三代起請と手印
 従来、官省符庄は没概念的に古代的存在と考えられ、院領荘園がどのような筋道で国法的特権を獲得したかの議論もなかったため、平安期の基本的荘園類型の移行・転変の全体像は問題とされることもなかった。
保元新制と三代起請
 保元の荘園整理令は第一条で「九州の地は一人の有なり」という王土思想を宣言し、新立荘園の停廃を命令した。これ以前の歴代の荘園整理令にどのような形で王土思想の文言が入っていたかは不明であるが、新立荘園停止が第一条に来るのは形式上当然である。だが、具体的な行政行為として重大なのは、第二条で、「官省符」荘園(「社寺」に対応)と「勅免地」荘園(「院宮諸家」に対応か)の「加納出作」を庄民の「濫行」であり「狼戻の基」であるとし、状況に応じて「庄号停廃」と検非違使による「司職(庄官)召取」を命ずるとしたことである。もちろん、これ以前にも個々には官省符庄を見直す「改定宣旨」が発給されていたことが知られるが*17、保元新制における王土思想の下で、治安的な一般法令・「新制」として、この第二条が発布されたことは画期的な意義をもっている。
 つまりそれは官省符・勅免地体制の全体を改編しようとするものだった。悪僧神人が官省符庄に巣くうものとして捉えられ、それが体制的問題として浮上したのはこのためである。その改編の方向は第二条末尾に「但し宣旨ならびに白川・鳥羽両院庁□下文を帯さば、領家件の証文を進め、宜しく天裁をまつべし」とあるように、後白河宣旨の万能視であり、同時に官省符庄に代わる(白河・鳥羽・後白河の)「三代起請之地」という新たな国法的特権荘園体系の創出であった。そして、この三代起請荘園には官省符庄の内印に象徴される天皇の意思よりもはるかに専制的な院の意思が現れてくる。もちろん、官省符発給がなくなった訳ではなく、また三代起請荘園も基本的に寺領である点で、官省符庄と同様の宗教的形式を取っている。しかしその内実は院や女院の御願寺などに集中させられた大規模な王領・院領荘園であって、官省符庄の場合における王権と寺社勢力の家産的関係発生の制約は突破され、はるかに財産としての意味が強化された。まさにそれは太政官・民部省の枠を越える独自的な王領荘園体系、「王の氏寺」領の荘園として純化したのである。
院領荘園と御起請符
 槇道雄の画期的な論文「三代起請と院庁牒・院庁下文」*18によれば、三代起請荘園の骨格を規定したのは院の手印が加えられた御起請符であった。私も別稿*19で触れたように、この朱の手印は内印を使用できない院がその肉体自身を使用するということであり、そもそも内印自身も王の血の象徴であった。そして、これらの御起請符に現れた院の執念は凄まじい。たとえば、後白河のそれは、寵愛した丹後侍従高階栄子に多数の院領を付与した御起請符院庁下文の末尾に「一事一言これに乖きこれに違はば、国主皇帝殊に教誡を加え」「我、暫く三有にあらば怨念をもってこれに報じ」とあるように、ただならぬ起請文言を決まり文句としてともなっていた(鎌五八四) 。
 槙によれば院の手印の初見は白河であり、三代起請とは院による手印の使用と同時に発生したことになるが、手印の在り方を具体的に確認できるのはやはり鳥羽の段階からであり、特に重要なのは、鳥羽の建立した安楽寿院領関係史料である*20。それによれば、「御記文に任せ庄務を行うべき事」なる鳥羽院庁下文が、その「御記文等」の案を副えて「各荘園司」に対して発給され、国司や他の権門荘園などの「本願叡慮に違犯」する行為に対しては記文を捧げて奏聞・訴訟することを荘園司の義務として定めている(『平』二八三四)。そして、この「御記文」とは現在『安楽寿院古文書』の中に納められている仁平(三)年(一一五三)十月十五日の鳥羽手印起請文のことである。
 建永一年(一二〇六)に三代起請荘園についての論議が行われた際、「御起請もその状を召しいだされ」とあるように(『三長記』建永元年十一月廿六日条)、御起請、記文は各領家などに頒ち下され、御願寺領を始めとする院領荘園の領有を保証する「御起請符」として荘園法の最奥部に据えられ、それらの荘園に最高の国法的特権を授与した。そして、それに対応して庄官たちが「忠節を尽くさんがため、起請を進」(『平』二四六〇)めるような関係も存在した筈であり、起請の体系によって荘園法の骨格が構成されていたのである。
院の手印と宝珠
 院の御起請符の正文に据えられた手印は単に肉身を現前させるというのみではなく、一つの宗教的な意味をもっていた。藤原家成によって造進された安楽寿院の本御塔(三重塔、鳥羽の墓所)の供養にさいして、鳥羽は「御手に内陣の常灯を掲げ」て内陣の制規を述べたという*21。手印の手は、その手だったのである。そして、鳥羽の菩提のために高野山に寄進された「鳥羽院付属の宝物」の中から美福門院によって発見された空海の記文に捺されていたという手印は、手印の宗教性を増幅したであろう(『平』三〇〇〇、三九四九)。「祖師大師聖霊、自手みずから赤印をなし、縁起をなさしめ」(『平』四一四六)などといわれる空海の手印の登場が大きな事件であったことは明らかである。
 そして、この種の宗教的な手印の観念はこの頃より流行しだした「(如意)宝珠」や「(牛王)宝印」の観念と連動していたに違いない。もっとも有名な如意宝珠は、空海が伝来し、白河院から鳥羽院、そして「恩寵の餘」、鳥羽が右にふれた家成に預けたといわれるそれである(『明月記』建久三年四月八日条)。この宝珠が牛王宝印と連続する観念世界の産物であったことは、阿部泰郎の研究に明らかであり*22、それは院政期以降、王の玉体安穏を祈る朝廷の御修法・修正会を頂点として、牛王加持、牛王宝印授与の儀礼として大流行したのである*23。ここには「三種の神器に比ぶべき新たな宝物」(阿部論文) としての宝珠とそれをめぐる院政期の観念形態が誕生している。私は、院政とはいわば手印と宝珠により繋がる人々によるグループ政治であるとも考えるが、内印が「八坂瓊勾玉」を象徴するとすれば、院の手印は「如意宝珠」に対応していたのであろう。
C新制と起請
起請とは何か
 これまでみてきた起請とは王自身の行為としての誓約を意味する。起請の第一の語義は発起・上申にあるが、それは「建議・稟議」であって、そのようなものとして同時に誓約の意味を有していた。しかも、それは集団を拘束するという意味で集団的な誓約であり、その原型を古代に求めれば、有名な大化の「大槻の樹の下」の「盟」にさかのぼる*24。そして、起請は法禁制法定立の直接の舞台となる法的意思関係の伝統的な形態であり、それが早川が明らかにしたように*25平安期の新制の別称となった理由は、そのような意思関係の形態、その発起と誓約の集団性に関わっている。
荘園整理令と起請
 官省符庄と院領荘園の双方において、王自身の「起請」が重要な意味をもっていたという以上の結論をふまえると、後三条天皇の延久荘園整理令において、御冷泉天皇即位後の寛徳二年(一〇四五)の整理令が基準となる起請として設定され、その荘園の設立が「起請以前」であるか、「起請以後」であるかによって承認・不承認の処置を取られたことが重大となってくる。官省符から三代起請という転換をもたらしたのも、大局的にみて、これまた一つの起請であったのである。
 王権の代替りに発布される新制が行政組織を動かし土地所有権に衝撃を与える場合、王の国土高権を表現する荘園整理令が発布されるのであるが、延久整理令の論理は、「官省符の事なきといえども、起請以前にあり」(『平』一〇四三)というものであった。ここに、古代以来歴代の天皇の発給した官省符の国法的位置の相対化が宣言され、荘園領有の国法的正当性は起請整理令を基準に転換したことが表現されている。その延長線上に保元整理令が存在したことは明らかである。そして、それによって官衙制に制約されていた官省符庄の本願起請は三代起請という形に純化・発展したのである。
 ここにあるのは王権の中枢部における諸形態の「起請」の連続的自己運動である。院政期は以降にまで続く荘園システムの確立の時期であるが、それが王権と荘園領有の関わり方の変化によって導かれたことは極めて重要である。
国司・国衙法と起請
 荘園整理令の実施者が諸国の国司であったことはいうまでもない。彼らによる一国荘園整理令の申請が整理令の基礎にすわっていたことは、この間の諸研究が明らかにしたところである*26。それがいわゆる諸国の国司申請雑事や国例・国衙法の形成を背景に有していたことも疑いをいれない。そして九世紀における国例の承認が地方官の起請をうけてなされる場合があったことからすると、この時期の国司たちも、中央に対する「事書」形式の申請文書の提出を「起請」と意識していたであろう。
 国司が自己を「勤節、起請を過ぐ」と勤務評定している史料が示すように(『平』四六〇九)、受領としての任務あるいは誓約事項は起請といわれ、彼らの任務を規定する様々な新制法自体も起請と呼ばれていた(『北山抄』巻十、吏途指南) 。また一〇五五年(天喜三)薩摩国台明寺に下された薩摩国司庁宣において、同寺四至内の狩猟禁令が起請と呼ばれているように(『平』七二六) 、国衙の禁制法も起請であったのである。また一〇五六年(天喜四)に讃岐善通寺の政所は、起請によって、その免田の地子の配分(相折)をきめているが、これは神々を「証成大行事」として招くとともに、「支配起請勘文に任せ、在地司并氏人など加署し、これを証す」という奥書をもっている(『平』八二四)。これは起請が一種の祭文として作成されていることを示す点でも興味深いが、寺院の起請法が「勘済使・惣大国造」などの在地司によって証明されていることは、寺院法と在地法(それゆえに国衙法)との接点が起請という形式をとっていることを示している。
 準備ペーパーで述べたような花山天皇の寛和新制およびそれに競うかのような勢いで展開された一条天皇の成人後の新制、「長保・寛弘之政、延喜・天暦を擬す」(『江吏部集』)といわれたそれは、徳政が王統の分裂とからまる政争の焦点となったことを示している。しかもこの時期、この情勢をふまえて展開したと考えられる国司苛政上訴闘争、逆にいえば善政要求闘争は、国司に徳政の担い手としての自己意識を強制したはずである。
 彼らは中央の徳政を在地に持ち込み、同時に起請法を在地に持ち込んだ。彼らは、このように具体的な形で起請(新制)として表現される王と支配階級の階級意思に自己を同一化していった。官省符から三代起請への転換の基礎には、支配階級総体の階級的意思の展開という点からみれば、このような国司級貴族全体の動向があったのである。
Ⅱ国司善政と「春時起請」・大名田堵
 以上のような荘園制の法的・国家的性格の展開に照応する基礎的な支配構造を問題にしていく場合、新制と起請という法的・イデオロギー的関係の社会的・経済的反作用の在り方、社会的下降・拡大の在り方を確認していく必要がある。
A農本主義と格式法
寛弘の和泉国符と仁寿の官符
 有名な一〇一二年(寛弘九) の和泉国符(『平』四六二)は、その正月二十二日という発布の日付からしてまずは吉書の性格があったとすべきであろう。さらにこの年は、後一条が退位し、三条が即位した翌年にあたる。この国符が「是すなはち国を淳素の俗に反し、民を陶朱の輩に同じくせんと欲すのみ」と述べているのは、和泉国司が三条新制を意識していたことを示している。これまでの指摘では、このような法的性格についての顧慮がなかったが、この国符は、かかる新制法の一般として格式法的性格が濃厚なものであったと考える。さらにいえば、この国符は、端的にいって仁寿二年(八五二)の「応に農業を勧督すべき事」という官符(『類聚三代格』巻八)を直接の下敷きにしたものであったのである。国符冒頭の「興復の基はただ勧農にあり」という文言は、官符の「王政の要、民を生かすの本は、ただ農を務めるにあり」という文言に対応し、荒廃田の開発という政策の手段も内容も極めて近似している。そして、仁寿官符を貫いている政策理念は、戸田芳実がいうように律令法の「開明的」な「儒教的農本主義」「勧農」のイデオロギーであり*27、それは別稿*28でも述べたように水田満作主義ともいうべき日本的様相を強めながら平安期の新制法に継受された。
勧農と郡司刀禰
 この国符は、以上の法的・イデオロギー的な文脈をおさえ、仁寿官符と対比する中ではじめて平安時代の在地社会の状況を示す史料として利用可能になるのである。第一に仁寿の官符が「国郡司など、親しく自ら巡観し、池堰を修固し、耕農を催勧し」と述べているような郡司を中心とした勧農組織の表現は「諸郡司」を充所とし、「郡よろしく承知し、件によって励作せしむべし」と書止める寛弘国符案においても変わっていない。しかし、この段階で律令制的な郡衙の存在は大きく変容している。丹生谷哲一によれば*29、この時期の郡司制は在地刀禰集団の存在を前提条件としている。しかも興味深いのは前官者が多いことであって、そもそも、この刀禰自体、散位(トネと読む)と共通する語義を有している。刀禰には、古く八世紀から「元旦朝拝刀禰」などの文言があるように、語義的にみて官人一般というニュアンスがあり、前官者、散位がトネになるのは、職がなくなって官人一般にもどるからであると思われる。そして国衙による刀禰の組織は、私見によれば九世紀諸国に留住した「散位」「文武散位」の国例による「公役」への動員(寛平六年二月二三日官符、延喜二年四月一一日官符、『類聚三代格』巻一四、巻二〇)をうけるものであり、律令制段階から連続するものなのである。戸田芳実のいう国衙荘園体制*30が、この国例・国衙法の充実の上にたって存在したものであることはいうまでもない。そして私は、国衙支配の基礎が、斉藤利男のいうように郡司刀禰組織にあったことを、「散位=刀禰」に着目して捉え直したいと思う*31。
 『今昔物語』(巻一一、二) に郷の刀禰らが「田をもつくらしめずして、よしなきわざをする」者を検察し、そこに郡司も出張してきたという一節がある。これは勧農の官としての刀禰と郡司の位置をよく示すものである。戸田が田刀から田堵への変化を明らかにしたことはよく知られているが、その理解は田刀とは「田刀禰」の略称であるというものであったから、田堵の理解のためには刀禰の理解が前提となるのである。こういう観点から、戸田は刀自・田刀の「刀」との関係で「刀禰は郷・村・里など地域の公共的職務、とりわけ山野河海にわたる土地の占有用益および所有関係の規制と秩序づけにかかわることが多い」と述べている*32。実際、「郡去る延喜六年、彼此の公験に任せ件の坪ゝを破定むべきの由、条司竝刀禰などに下帖せらるるところなり」(『平』二〇六) という史料があるように、刀禰は土地を「破定」める職能を有していた。それは、「彼の田頭に莅み、なはをひき、是をわらしめ了」(鎌二八二〇九) ともあるように、刀禰が縄張りの主体であったことを意味している*33。
 周知のように郡司刀禰は検田の時の図師として動員された。そのような職能は、現地において、毎年、子午の縄(『平』二五七五)などともいわれる庄郷堺・条里基準線となる大縄や縄本を管理する公共的職務の遂行なしにはもちえないものであった。国例の下での散位・刀禰の組織は、新制などの国家統治法をその基底において支えた国衙法の土台となるとともに、最近、考古学的に確認されている平安条里の形成運動を支え、全体として律令社会からの移行において大きな役割を果たしたのである。條里が、地域における道路と灌漑水路の基礎設計を意味することはいうまでもない。
官物率法と格式法
 刀禰の機能は極めて多様で、右のような勧農・検田のみでなく収納にも関係が深い。たとえば有名な長洲庄の相論において東大寺側が依拠した「永延率法」(『平』二六二八)とは永延一年(九八七)に長洲の「刀禰司」の提出した「地子勘文」を意味し(『平』二一五七)、刀禰が地子率法の沙汰に関わっていたことを示している。和泉国符の第二の問題は、この率法の問題である。国符は収奪の名目として「官米・官物」という用語をあげ、荒田の開発者に「まず田率の雑事を除き、重ねて官米内五升を免ずべし」と指令している。このことは収奪体系が「田率雑事」と「官米」という形で水田・米納中心に整序されていたことを示している。これに対して、仁寿官符で注目されるのは「田を治ることに勤謹すれば、則ち畝に三斗を益し、勤めざれば則ち損また是の如し」、つまり、勧農に勤めれば「一畝」あたり「三斗」増収があると述べていることである。ここで「畝」というのは同官符に「一畝の田、一戸を食ふべし」とあることからもわかるように、後代の「三十歩」という意味での「畝」ではなく、本来の中国の用法で日本の一段とほぼ同じ面積をいうものであり、ここに「段別三斗」という率法が確認されるのである。
 坂本は「官物率法は格条に載せるところなり、何ぞ私の率法を構ふべきか」(『平』二〇〇〇) とある「格条」、「公田官物率法段別見米三斗」を決定した格が十一世紀四十年代に発布されたと想定した*34。しかし、水田面積を基準として貢納物・諸税の一定額を想定する政策観念が、すでに仁寿の段階で存在していたのであり、この仁寿官符こそが、問題の「格条」(すくなくともその原型)であった可能性は高い。当時の官符の実際からしても、格条への「官物率法」記載の方式としては、このような理念的な形式がもっともふさわしい。いずれにせよ官物率法のような国衙収納法の基本が「格条」で定められていたことは、以上述べてきた国衙法の性格からいって重視すべきことである*35。。
B負名体制と春時起請
起請と公田請作
 問題は、以上のような国衙法の格式法的形式の下において、郡司・刀禰・百姓なども起請というイデオロギー的意思関係に編成されていったことである。たとえば、前述の薩摩国台明寺に下された国司起請に対して、在地有勢者が四至内禁猟を誓う起請を捧げている(『平』八〇四、三七七四) 。「権掾、散位」の同族の二人が「先祖親父の起請」に任て郡内の違背者を戒め、過怠に処すとあり、国司・先祖・自己の起請が庶民への支配権の根拠となっているのが興味深い。
 また、入間田宣夫が解明したように一一世紀半ばの史料ではあるが、国衙領の耕作手続きにおいて「春時の起請」が確認される*36。一〇六〇年(康平三)の愛智庄司解の「何ぞ、春時の起請に承引せず、寺領の田畠を作りながら、秋時にいたって遁避をいたし、本家の所勘に随わざらんや」(『平』九五四) という一節は、誤字がないとすれば、たしかに「どうして春には国衙による春時の起請を承引せず(公領の帳づけを逃れ)、寺領の田畠を作りながら、秋になると遁避して本家の所勘にしたがわないのか」というように解釈するほかない。これは戸田が提起した負名体制、公田の有期的用益占有関係の内部で起請が行われたことを示している。こう考えれば、一一世紀初期の寛弘和泉国符の段階でも、「他名の申請」「小人の申請」などの耕作申請が起請あるいは誓言によって媒介されていた可能性が生まれる。佐藤進一『古文書学入門』がいうように、起請文は制規としての起請と自己呪詛文言をふくむ祭文があわさって平安時代後期に成立したものであるが、しかし、その前提には広汎な誓言の風習があったものと考えたい。それは一〇世紀にはさかのぼらせて考えてよいのではないだろうか。そうだとすると、この問題は和泉国符をめぐる論争、つまり戸田と村井康彦・永原慶二の間での論争に関わってくる。
「かたあらし」と郡郷司刀禰
 村井は班田収授制が崩壊した段階で、耕作関係を年毎に確認する煩瑣な事務手続きがとれる筈はないとし*37、永原は戸田の相対的に自由な契約という理解を批判し、公田請作は土地占有関係が国家的土地所有制によって強く規制されていたことを示すとした*38。両者は立脚点は異なるが、耕作関係確認の行政手続きの国家的性格を強調する点では同一であり、論争は当時の国衙領における土地行政の具体相如何によって解決されねばならない。
 たしかに「春時起請」は、伊賀国司書状に「所々の公田、去春申請の日、仰せを蒙り、すなわち耕作せしむべきの事を下す」(『平』八二〇) とあり、また和泉国符に「既に公田と謂ふに何ぞ私領有らん」といわれるように、法的・最終的には国司の行政的認可の対象であった。しかし、「加作せんと欲すれば、郡司たしかにその新古の坪を検し、他名の申請を停むべき也」などの国符の文言が示すように、「申請」の認定の主体は郡司とされている。そして先述のように、ここでいう郡司は実際には郡郷司刀禰を内容としている。つまり、百姓の春の耕作確認は、国郡衙の行政的受け付け事務によったというより、事実上は公領を支配する郡郷司刀禰との関係で行われたのである。負名体制は郡郷司刀禰の地域支配体制を条件としていたのである。「かたあらし」的な共同体規制、開放耕地制の農法の下で春毎に注連縄を引いて私的占有権を明示する農村共同体慣行が存在していたことは戸田が明らかにした通りである。そうである以上、残念ながら詳細は不明なものの、先述のように条里縄の管理ーー「破定」を行っていた郡司刀禰集団の動きは、この春の注連縄引きに関わって機能していたとすべきであろう。
負名と春時祭田・氏神祭
 私は、戸田のいう負名・平民百姓の「相対的な自由」はこのような共同体慣行の中において存在していたものであると考える。もちろん、その「自由」は反面において公的な従属をともなっていたことはいうまでもなく、戸田のいうように負名請作体制という場合の「請」という用語は「公的な支配従属関係」の事実的意識を表現していた*39。そして、問題は、その「請」とは区別された「春時起請」の「起請」の意味にある。その原型は、「国の法を告知す」る機能を有していた儀制令の春時祭田にあったが、それは二月氏神祭として平安時代にも生き続けた。耕作確認、春時起請の場は、かかる在地神祭であり、別稿*40でみたようにその実際が氏神祭であった以上、その祭祀は郡司刀禰の氏族的行事と重なっていただろう。
 そもそも戸田が「職掌を名に負って門部の氏を名乗る」という用例に注目しているように*41、「負名」すなわち「名に負う」という形式自体は、本来的には古代氏族の王権への奉仕を表現する用語であった。その意味で、田地の職掌を名に負うことを意味する負名の身分は、古代的なカバネナの秩序の変質過程に成立したものであり、「氏族的」擬制関係が郡司刀禰を媒介として地域社会全体に倣い拡大したことの表現であったのである。もちろん、請作・起請関係は「自由」意思を前提とした関係であるが、同時に、歴史的特徴としては村落共同体と地域社会内部における氏族的形式をとった集団性、共同体規制をも表現していたのである。前述のように、造籍は十一月から翌年五月まで、班田は収穫後の十月から翌年二月までのあいだに行われたが、氏神祭りは一一月・二月・四月であって、造籍も班田も、このような氏的な関係と集会・祭祀に依拠して行われたものに相違ない。春時起請は、このような古代の「氏」の形式的母斑を残すイデオロギー的関係として国衙荘園体制の中枢に存在していたのである。
 また但馬国の初任国司庁宣にみえる「起請田農料」なる文言は、春の農料の下行が何らかの形で起請と関係していたこと、さらにその基礎に右の在地神祭における農料の下行・出挙関係があったことを示唆する。ここで農料に関する独自分析を行う余裕はないが、国衙勧農の物質的基礎に租税的な農料(官米と相互に融通されうる)の機構的集団所有があったのである。
 以上、国衙勧農行政は、かたあらし農法を根底とし、八世紀以来の刀禰=散位的階層を支えとする地域農事慣行を媒介とし、同時に租税的な農料の機構的集団所有を骨絡とすることによって、土地所有の国家的な形式を保っていたのである。一般に、前近代における国家権力は、共同体規制とその基礎にある共同体所有に対応して社会の共同的諸機能を果たすかのように登場するが、そのような意味で、国衙は共同体に向き合いつつ農料所有を媒介としてイデオロギー的な国土領有と勧農を展開するのである。そこに無媒介に経済的な意味での国家的土地所有を想定することはできない。
C国内名士と地主・大名田堵
開発と荒野
 以上の格式・起請法に貫かれた土地領有の国家的形式の枠組みを現実化したのは、何よりも開発行為それ自体であった。「荒田発作」を呼びかける和泉国符は、荒田を「国の難優、民の少利」などと理屈づけながら、「浮浪の者、たまたまその心あるも、則ち作手(作り手、労働力*42)なきにより、寄作に便ならず」などといって富豪浪人に国内開発利権を与えることを画策し、また大小の田堵が「領田」「古作」を荒らさずに荒野を加作するならば「官米の内、五升を免ず」などと利益誘導している。
 黒田日出男は一〇世紀後半から「荒野は千町と雖も無益なり、開作は一段と雖も利あるものなり」などといわれる政治的なバイアスをもった荒野の範疇が突如登場することを論じた*43。この時期においても、九世紀末期の内乱と律令国家の分裂をもたらした社会的矛盾は依然として持続していたが、このような「開作の利」「国益」の強調は開発の進展によって矛盾を馴化し先送りしようとする、一種の開発独裁ともいうべき政策動向を表現するものであった。このような国益の強調こそ、笠松宏至のいういわゆる「守益の理」の論理であり*44、「新制」「善政(徳政)」に骨絡みのものであった。そこにおける撫民の言辞がどうであろうと、現実の歴史過程を進展させたのは「利」そのものであったことはいうまでもない。
永承官符と国内名士
 和泉国における事態が、「利」に貫かれていたことをよく示すのは、寛弘国符の約四十年後、永承五年(一〇五〇)、和泉国充てに発給された荘園整理条項を含む太政官符である(『平』六八一、六八二)。この永承官符が荘園設立の張本人として問題にする「五位以下諸司官人以上」の和泉国への下向・留住という事態を、大山喬平が「侍身分の源流」と定式化したことはよく知られている*45。しかし、その源流は前記の寛弘国符の富豪浪人誘致文言にあったのであり、そのような利益誘導による浪人の招致自身が永承官符の述べる事態をもたらしたのである。また、かって私は、この二つの官符を関連づけた勝山清次の分析*46、および「国司苛政上訴闘争の中で中世的な荘園制が形成される」という木村茂光の問題提起に触れて*47、「一方で上訴を抑圧しつつ、任終になると荘園を乱立する国司権力、また一方で国司苛政上訴闘争を展開しつつ同時に権門寺社と寄人神人関係を結んでいく百姓等の行動形態をどう考えるべきか」と述べたことがある*48。八世紀以来、都鄙の階級配置形成のキーとなった「留住」の波動は何度も繰り返されたが、ここには、人民闘争との対応関係を含めて、開発と私領形成の条件の上に荘園寄進を展開する諸階層のダイナミックな動態を知ることができる。
 そして、その中心となったのは、大名田堵、田堵の階層分解の中から登場した新たな大規模経営の動向であった。田堵とは農業経営者の側面に着目した呼称であるが、ここで問題とするのは彼らの社会的規定性である。これについては、最近紹介された史料で、有名な越後国石井庄の田堵・兼算が「当国高家」といわれているのが重要である(『新潟県史二』)。当時の諸国に「高家」と呼ばれる存在がいたことは相模国充ての宣旨に「隣国他堺の高家もしくは悪僧」(『平』二五四八)という文言がみえることでも分かるが、これは有名な藤原実遠が「当国の猛者」という栄誉を有していたのと同じ状態である。戸田が提起した階層概念としての国内名士とは*49、まさにこの当国高家と当国猛者の中にその実態を求めることができるのであり、その中には大名田堵が含まれていたのである。
 問題は、彼らと郡郷司刀禰との関係にあるが、たとえば伊勢国三重郡の寛丸名田をめぐる相論に現れる良平宿禰は、その仮名「安倍守富」によって郡内郷郷の名田を領知するとともに(『平』一四〇五)、隣国尾張国の神戸司・治開田預として七百町を越える田地を差配していた(『平』一八六〇)。興味深いのは彼が前任の在郡司だったことであり、別の表現では刀禰であったであろうことである。もとより、国内名士の地位や栄誉の形態は多様であり、現任郡司であることはむしろ少ないだろうが、郡郷司刀禰集団は、都や隣国からの留住者を迎え入れつつ、自己自身の中からこのような存在を析出する傾向性を有していたのである。ここに形成された国内名士の地域的、広域的結合の中に、以降にまで続く地方貴族体制の原型が成立した。郡郷司刀禰のこのような運動方向を無視し、それを単純に律令制段階と等置したり、行政組織としてのみ捉えたりしてはならない。
開発領主とウブスナ社
 「御家人とは往昔以来開発領主として武家の御下文を賜わる人のことなり」とは『沙汰未練書』の有名な一節である。その御家人・武士としての所領形成が前述の永承の官符に「平民の田畠を押奪し、私領を構成し」とあるように、暴力を内在していたことはいうまでもない。しかし、同時にこの一節は、鎌倉時代の侍・御家人身分が、本来は国家的勧農の法と理念に連なり、国衙法の下で国益としての開発を追及する平安時代以来の伝統から生まれた存在であったことも示している。彼らが「地主」といわれるのは、「開熟の人をもって地主となせ」という弘仁十年(八一九) の官符以来の伝統をうけるものであったに違いない(『類聚三代格』巻一六)。
 「開発領主」が武士と等置できないというのは、一応は正しいが、だからといって「開発領主」自身を直接に経済的な範疇であるとしてはならない。それは上記のように法的側面をもっており、さらにイデオロギー的な規定性、特に宗教・イデオロギーの媒介による共同体規制の総括をも内容としている。『東大寺文書』(一/二五/五三〇) の一通の平安時代末期の書状によれば、伊勢役夫工米の徴収に反対する某庄の庄官・百姓たちは、「地主宮」に集結し「喚き太鼓を打ち、呪いまいらせ候て、政所を焼かむ」としたという。また、平安時代の農民の「逃散」闘争を示す史料には、彼らが「村々居住の安土(安堵)」、「生土(ウブスナ)」への還住を願っていたという事実(『平』二九一九)が現れる。かかる地主神生土神、つまり前述の氏神とその祭祀の支配こそが領主制の社会的確立の表現である。笠松宏至は鎌倉時代の在地裁判において地頭が「祭物料」などと称して金品を徴収していることを明らかにしたが*50、それは地主宮の起請に対する地主の権限を表示するものとして平安時代から行われていたに違いない。いわゆる開発者と土地の一体観念や本主権の強力性とは*51、そのような具体的なイデオロギー的関係として捉えねばならない。そしてそこに土地をめぐる王権の神話とイデオロギーが前述のような展開をみせた根本的な条件があったのである。
 平安時代から鎌倉時代にかけての連続的展開の中で、領主的土地所有に内在する経済外強制の体系を暴力・法・イデオロギーなどの諸契機全体の問題として分析することが重要である。そのような作業を前提として初めて経済過程の内容を解明し、法的・政治的規定性と経済過程の関連性を具体的に追及する準備が整うのである。
Ⅲ地頭の成立と古老神裁
 A院権力と武士・徳政
平和令と武力
 保元新制が荘園類型を転換する画期的な意味を有したことは前述したが、それによって推進された院領荘園体系は巨大な国家的・社会的矛盾を導いた。保元新制が王土の権力的な平和、静謐を目指す性格をもっていたことは別に述べたが*52、それは史上始めての王城合戦を前提とした平和であり、現実には内乱の時代の幕開けを告げるものであった。
 その前提となったのは、たとえば小一条院の党派の軍事的中心であった源頼義が、その死去の年に陸奥国守に任命されて都を離れ「前九年役」を引き起こし、その中で源家の軍事貴族と地方領主の広域的な臣従関係が発生し、さらにそれが三宮輔仁の側に立った義家への田畠寄進という形で深化していったというような諸事実にふれて、準備ペーパーで述べたように、「荘園制的な土地所有関係が王家の諸分派との関係でグループ化し、軍事化していくような関係こそが荘園制の国家的性格の強化を導いた」ことである。
 保元内乱において「荘園の軍兵」が催されたことは、まさにそれを象徴している。手印に象徴される院の権力は、そのような軍事力を直接の背景とするものだったのである。しかし、そうであればあるだけ院個人が平和と安穏の象徴として現れねばならないというのが王権にとっての事柄の必然であった。たとえば、白河院は藤原顕季と源義光の所領相論を仲裁し、理が顕季にあると明確に裁定しながら、その所領が義光にとって「一所懸命」であり、「子細ヲ弁ゼザル武士、若腹黒ナドヤ出来センズラン」と判断して、顕季を諭した。感涙にむせんだ顕季が券契を義光に与えるや、義光は「侍所ニ移居シ、忽二字(名簿)ヲ書シテ献ジ」、人知れず顕季の護衛の任につき、それを知った顕季は「御計ノ無止」ことに感嘆したという(『古事談』、第一) 。また、かの鳥羽僧正覚猶は自己の資財に関して「処分は腕力によるべし」、つまり弟子同士で腕相撲でもやって勝手に決めろと遺言したが、それに対して白河院は弟子たちを召し集め「エモイハズ」(見事に平和に)遺財を配分したという(『古事談』、第三)*53。
 ここでは、院は「武士の時代、腕力の時代」を平和的に操る理を心得た人物として描かれている。特に右の説話が興味深いのは、そのような調停的英知が院の超越性の源泉と観念され、院が荘園制とそこに内在する名簿をともなうような臣従関係の上に、外見上、超越的地位をしめたことである。院はそのような外見的超越性の下で、おのれの手印をまとった荘園領有体系を軍事力を内に含む形で形成し、その軍事力に対しても自己の人格性を彫みつけたのである。これこそが院のデスポティズムといわれるものの本質であった。
訴訟徳政と堺相論
 しかし、院政期に展開した寄進地系荘園は激烈な領主間相論を前提としていた*54。「加納と号し出作と称し、本免の外に公田を押領」という保元新制の条項を想起するまでもなく、開発の進展は堺や加納出作問題を含む様々な相論の激化と同義であり、国内名士が以降の地方貴族の先祖となるためには、その相論に勝ち抜くことが必要であったのである。
 保元新制の右の条項は堺の静謐令ともいうべき性格を有しており*55、院の「無止御計」はかかる矛盾を理非にのっとり穏便に解決する政治の象徴であった。ここに院の訴訟徳政の興行が始動する。たとえば、永暦一年(一一六〇)、山城国宇治郡木幡の浄明寺は、紀伊郡の伏見庄(長講堂領)との間の堺相論において、「寺家の理訴にいたっては不日即時の裁許を蒙るべきなり」として「有道の明判」を求めた。伏見庄領主が頭弁の平範家で、「領主は大弁なり、勅使は少史なり、官中の沙汰、弁の命に背きがたし、仍って理非を忘れ詳らかに断決せず」なる状態だったため、浄妙寺は保元記録所に訴えたが、「一決降らず」、結局、院の下文による裁許を求めたという(『平』三〇九三)。
 もちろん、この史料の示す「官中沙汰」ー「記録所沙汰」ー「院中沙汰」という訴訟形態の移行を院による一般的な訴訟徳政の主導と理解する*56ことについては疑問がある*57。しかし、太政官や記録所の機能に対する不満の欝積と院の訴訟沙汰への期待、特に院に訴えて仏神領の沙汰における理非を期待するという理念を看取することは許されるであろう。また、そのような文脈の中で、民部省の官人がしばしば荘園立券の院使にノミネートされるような、太政官官人の院への選抜的編成すなわち実質的な院の訴訟徳政の動向が進んだことは確実である。
 特に重要なのは、この相論が同時に宇治郡と紀伊郡の堺相論であって「両郡の堺は木幡・伏見一の山巓なり、郡司邑老みな際限を知る」にも関わらず、民部省の有する図帳が宝亀と大同のもので「図帳相違、地頭糺し難し」という状態、すなわち民部省が「郡司邑老*58」の知識を確認することもできないという状態が問題になっていることである。そして、この場合は院領荘園の側が譲歩したとはいえ、いわゆる寄進地系荘園が増加した院政期において、「官中沙汰」に対する不信が一般的に存在していたことは、院領荘園の立券にとって決して不利な条件ではなかった。荘園立券の院使は強力な新しい権威として在地に臨むことができたのである。
B地頭の語義と領主連合
地頭の語義
 右の後白河院庁下文に「地頭糺し難し」といわれていることは、地頭という言葉が院庁レヴェルで流通していたことを示している。この「地頭」という用語が「早く使を地頭に遣はし決せらるべきか」(『藤原宗忠日記』元永一年九月九日条)などという形で使者を派遣し、現地調査を行うべき場所として現れることはよく知られており、その語義については、今まで「現地」一般を指称するものというのが、特に根拠ないまま通説となっていた。
 たしかに「在地に臨み糾定せしむ」(『平』五七一、一八一一)といわれている例もあるように、地頭が在地と同様のニュアンスをもっていたことは否定できない。しかし、地頭の「頭」の字に注目すれば、地頭の語義はかって石井良助が「当寺の頭(ホトリ) 自ずから義仲の首を獲る」(『吾妻鏡』元暦一年一一月二三日、訓は原本にあり)という用例によって一言だけ指摘したように「地のほとり」もしくは「地のかしら」という点にある*59。このような「頭」の用例は古くは『延喜式』(兵部、走馬)の「五位已上走馬者、検非違使等、埒の北の頭(ホトリ)に就き」(この訓も原本にあり)から、『兼仲記』(建治二年一二月一九日条)の「地獄変屏風の西の頭に跪き問ふ」にいたるまで一般的であった。
 そして、「南は、てんたうのおくたり、田のかしらさまにきる」(鎌二四二八)、「薬師之山之西ノ猿走ノ途リ、立野ノ頭ヲ踏途リ」(鎌八三六四)、「井ノ頭ヲ鎌日堺ノ茎ヘトヲス(中略) 、北ノ大縄付東西ニ破テ五段、其ノ頭ニワセタ二段」(鎌八四七〇)、「東頭(南北行)」(鎌二三八九二)、「田之頭北方ニ在之」(大徳寺文書二三一五)などの四至関係史料に現れる「頭」の用例が示すように、地頭の語義を、在地一般とのみ処理することはできない。たとえば「札を地頭に立てらる」(『平』四〇八一)という場合、地頭には札を立つべき特定地点、土地の堺目という意味があった。それは「四至に任せ、国使・庄官相共に慥かにその堺を尋ね」(『平』三三八五)という「堺」と共通した意味なのであり、そもそも考えてみれば「堺」にも境界の内側、場所という意味があるのである。
地頭人と領主連合
 人としての地頭の存在を示す初見史料は、康治三年(一一四四)における美福門院領筑後国生葉庄(金剛勝院領、同門院御願)の立券にさいして、「院使・地頭人等」が五百余人の軍兵を引率して隣庄に乱入したというものである(『平』二五二三)。これは安楽寿院領荘園の立券時期とほぼ同時であり、鳥羽院領荘園における地頭の在り方を示すものとしてよいが、別稿でみたように*60、この荘園の預所の大江国通は松浦党の一党の系図に祖先として登場する人物で北九州に留住した大江氏の有力者であると考えられ、またこの軍事行動に参加した「大将軍」たちは筑紫平野一帯の三毛・小城・溝口・太田などを名字の地とし太宰府府官の身分をもつ領主たちであった。そして、他方東国でも、ほぼ同時期、永治一年(一一四一)、相模国大庭御厨の立券において、「国庁官散位平高政、同惟家、紀高成、平仲広、同守景朝臣など、地頭に臨み、文書に任せ四至を堺し、傍示を打」ったが、三年後の天養一年(一一四四)には、国司目代と源義朝の名代新藤太さらに相模の有力領主・三浦氏以下の一統が、大庭御厨に乱入し、前記の立券傍示をやり直す軍事行動にでた事件が知られている(『平』二五四八)。ここにも「地頭に臨み」という文言があり、右の東西の二つの例が「地頭」における全く同じ類型の行動、地頭人としての行動であったことが明らかである。地頭という呼称は、「開発領主」・地主を前提としながらも、このような堺地頭相論に勝ち抜いたことの表現であるとしなければならない。
 人としての地頭人・地頭という用語法は、このような事件の頻発の中で急速に形成されたものに違いない。そして、地頭大庭御厨に乱入した武士たちが相模国の武士団、地方軍事貴族の家柄の成立を示しているように*61、このような紛争処理の軍事行動の中で領主連合に基礎をおく地域的領主諸権力は確立したのである。私はこれを地頭領主制の形成ととらえることができると考えている。地頭補任・荘園寄進は単に荘園・国衙領の得分をめぐる本所ーー在地領主の一本釣り的関係ではなく、領主連合・地域領主のネットワークと階級配置の総体の中で考察されなければならないだろう。
 以上のごとき地頭制によって形成されたのは土地所有関係の軍事化、軍事関係と土地所有関係の結合というべき事態である。院政期の荘園体系は在地における厳しい武力衝突を担いうる暴力装置、しかも多くの場合において武士の長者を頂点とする軍事的関係を内在するものとして形成された。院領荘園がその中心であった以上、院が社会と国家の軍事化の頂点に立ったのは当然である。そしてそのような関係が政治的・社会的利害の対立と軍事的対立を全局にわたって二重化し、結局のところ内乱情勢を導いたのである。
C地頭成立の諸条件と古老起請
刀禰と古老
 このような地頭の語義と地頭制の階級的意義からして、それが前述の郡郷司刀禰と国内名士という二側面の地域支配体制の最終的到達点であったことは容易に推定される。たとえば、有名な源俊方は黒田庄の地頭と呼ばれていたが*62、その本姓は丈部氏であり、同氏は黒田庄梁瀬村の刀禰そして名張郡司の家柄であった*63。別稿でもみたように*64、堺の実検や荘園立券においては、中央から派遣された院使・官使・国使、そして在地の側では郡司・庄官・刀禰・古老などが、実際に荘園の堺を経めぐる現地踏査を行ったのである。地頭はそのような地頭を沙汰する在地側の人間なのであって、俊方の例は地頭の出自の問題として無視できない。
 そこに至る郡郷司刀禰システムの変化が問題であるが、その第一は在地法の中で徐々に刀禰の役割を示す史料が少なくなり、それにかわって「古老」の活動が目立つようになったことである。もちろん、刀禰自身、実態的には古老と重なる存在であったし、古老も早くから確認することができる。しかし、これは刀禰の中からの古老の純化というべき事態である。古老の史料としては「実検使を下し遣はし、地頭に臨み、在地古老人などに問ひ、決せらるべき事か」(『平』一二七七)、「当御庄傍示の刻(中略)、古老の議により沙汰し切り畢」(『平』二六一二)などの史料が興味深い。別稿で述べたように*65、これが鎌倉期以降における古老百姓からの起請文徴取による堺相論の法の原型であるが、これらの根底には刀禰の証言が「祭文」によって支えられた伝統をうけて(『平』一九九九) 、古老が堺相論において「神裁」(『平』二一九六)を聞く立場にいた事実があったのである。
 これは全体としては刀禰集団の中から地頭が析出されるとともに、他方、古老が分化していったと評価するべき自体であろう。郡司刀禰集団のなかから、一方では、地頭の連合とネットワークが形成されることによって国内の諸地域が連携し、境界を承認しあう関係が形成されたはずであるが、他方においては村落的なネットワークは従前の「氏」の形式を残す段階からはなれて、故老によって代表されるという関係が生まれたのではないかというのが、ここでの想定である。
 なお、飛躍するようであるが、京都の西八条の刀禰の翁が、賀茂祭の大路に「ここは翁の物見むずる所なり」という札を立て、人々がそれを陽成院の札と思って、あたりに寄らなかったという『今昔物語』の一説話(巻三一、六)は、平安時代の歴史の展開の方向を先取り的に示唆するかのようで興味深い。そこでは「翁院」と「刀禰翁」が「翁」としての一種の共通した超越性を観念されているが、都鄙における起請関係の深化・拡大は、双方において「院」と「古老」という一種の老人支配の展開をもたらし、そのようなものとして平安時代における支配の成熟を表現したように思えるのである。
春時起請から利田起請へ
 郡郷司刀禰システムの変化は、第二にそれに対応する負名体制の変化、しかも、ここでもその春時起請の在り方の変化を意味していた。それは「利田起請」の登場である。利田とは、伊賀国目代中原利宗・東大寺覚仁問注記(『平』二六六七)の覚仁の主張の部分に「或行検田、或行利田、定田数畢」と登場するもので、検田と区別された田数確定の方式である*66。戸田が論じたように、この利田は伊賀国の東大寺領黒田庄近辺の国衙領において実際に行われており、それは東大寺側が「利田の請文」を提出するという形式をとっていた*67。「若ハ居合、若ハ加利田候」といわれることからすると*68、「加利田」とは「居合」(状況判断)とは区別され、そのやり方は「一把半」「三把」などの数値で表現される。以前は、この「利」や「把」という用語を出挙の息利や出挙稲の束把自体に関わると理解して、利田そのものが出挙に関係するという理解が一般的であった*69。しかし、そのなかでも、「(利田の)関係を公出挙制やその変質形態である利稲率徴制の延長上に求める想定は受け入れにくい」(小田雄三)*70、「把」は一定の比率で「本来の起請田の田数を増し定めた」「比率」ことを意味する(網野善彦)*71という、より具体的な理解が生まれた。そして、最近では佐藤泰弘「国の検田」(前掲)が利田と出挙を結びつけるという発想自体を否定し、これが全体として認められるに至っている*72。
 佐藤は周知の『時範記』の「諸郡司など一把半の利田の請文を出す」「件の文、利田起請の趣を載す」(『時範記』承徳三年三月二日条) という史料を、「国司と郡司・荘園との合意形成の儀礼」を示すものであるとした。これはかって網野が「利田請文は国司の初任に当たり、農民ではなく、郡司・郷司・別符司等々、官物収納に責任をもつ在地領主によって提出され、そこに記載された田数は一宮の神に対する起請によって動かぬものとされた」としたのと同じことであろう*73。佐藤がいうように、この利田なるものの一般化はむしろ郡郷司刀禰による検田体制の形骸化のなかで評価しなければならないのであるが、本稿にそくしていえば、『時範記』において彼らが国司を接待する様子は彼ら自身が国内名士ともいうべき地位にシフトしていることを示している。「敦光勘文」に「近来、田数の増減を検ずるなく、農民の貧富を尋ねず、推して利田と称し租税を徴納す」とあるのは、国司と領主的国内名士の連携が院政期の村落収奪の中枢に存在していることを示している。
 問題は、「利田」の実際の動き方であるが、これは第一に荘園との関係における「加納」に相似した様相をもって、国衙領内で機能したものと考えることができるだろう。つまり、伊賀黒田庄の場合に「古作につき官物を徴り下すの時、利田の請文を出しながら、その所当を弁ぜず」といわれている利田は黒田の公郷加納分の土地を示すといってよい*74。つまり「古作」本田に面積に対して一定比率の田地占有をみとめるというのが、本来の「利田」の意味なのであろう。敦光勘文に「地広く民富まば自ずからその心に叶ふ」とあり、また伊豫国弓削島の史料に「そもそも国中の広所の例の如く、永年数代の利田を勘じ加え、負累を算数せしめ」(『平』二七〇九)とみえることからすると、「利田」は、土地の「広さ」と開発者の営為を前提にした制度であることになろう。
 その意味では、この「利」という語には、寛弘和泉国国符に「公私の利また作田による」「国の難憂、民の少利、多くこれによらざるなし」(『平』四六二)といわれる「利」と同じようなニュアンスを認めるべきであろう*75。笠松宏至「中世の法意識」*76は、この時代の法史を貫く新制イデオロギーには「得なやり方」を「守益の理」とする便宜主義が貫かれていることを論じた、新制論にとっては決定的な位置をもつ論文であるが、その意味では、「利」という語も新制の法イデオロギーを示すものであって、そこには、融通とか「うまみ」というようなニュアンスも含まれているとみるべきではないだろうか。「民間活力」「規制緩和」というような、おためごかしのイデオロギーである。それをもっぱら利率の「利」の意味で理解してはならない。
 そして、第二に、これは佐藤が利田が「損免」に関わっているとしたことにも関わってくる*77。この佐藤の意見にそのまま賛同することはできないが、たしかに「利」という語が損免に近い意味で使用される例はある。つまり一〇八八年(寛治二)の天下旱魃に続く気候不順の時期に、加賀国司が「収納使を下し、内検の上、一把半の利を加えた」という事例は、従来「利田」のもっとも早い例とされてきたが、これはむしろ一割五分の損免を「加えた」(処置した)と考えることができる(『為房卿記』寛治五年九月条『大日本史料』三編二)。そうだとすると、平安時代の末期、一一七五年(安元一)の霖雨をうけて安芸国で「平均に国中の作田を内検せしめて、不作の所は九把五分の利を加へ、并に本起請田を作り満たすの所ハ、三把の利田を行加へ、収納を遂げしめ畢」(『平』補三七九)という措置がとられたうちの前者も理解しやすくなる。これは不作田については本田の九割五分の面積を田数から控除し、損田として処理したことを意味するのであろう。そして、後者の「三把の利田を行い加へ」という措置は、本起請田の面積の一・三倍の面積を請けさせたということであろう。前者はいわばマイナスの利であり、後者はプラスの利であるが、両方が「利」という言葉で表現されるのは、救恤措置であれ、年貢収取のための措置であれ、ともかく便宜に「得」のあるようにするという意味での「利」を表現したとすれば、いちおうの理解はできるように思う。ただ、後者がはすでに内検の季節(秋)に入っている段階で「三把の利田を行い加へ」ということが具体的にどのような収納を意味したのかは現在のところわかりにくい。領主的な請人との利田を前提とした検田・収納システムの具体相についてはさらに検討が必要であろう。
 以上、古老起請と利田起請の形成こそ、中央における院起請に対応する在地での起請の展開形態である。平安期を通じて進展してきた起請関係による社会関係の包摂という観点からみれば、ここに、院領荘園における王権の起請を起点とし推進力として従来の民部省・国司制のシステムが形骸化し、起請関係が在地に貫徹する体制が形成されたといえよう。そして地頭の権力は、先述のようにウブスナ社に対する支配を媒介として、一方で起請を本所・領家に捧げ(『平』四一六六、蓮華王院領温泉庄)、他方で百姓妻子から曳文の起請を押し取り(『平』四二七三)、上下の起請関係を繋ぐ位置に立ったのである。それが地頭の成立過程の反面だったのであり、また先述の郡郷司刀禰と国内名士という二側面の地域支配体制が、融合しつつ、在地における権威の浮沈がかかった激しい衝突をへて地頭制の下に統一される過程であったということもできよう。
「本司の例」と「率法過差」
 以上のごとく確立した地域領主権力、地頭制に対応する在地所務法を示すのが、元久一年(一二〇四)の幕府法令に「諸国荘園地頭(中略)、名田と云ひ、所職と云ひ、本下司の跡に任せて沙汰致すべし」とあるような「本司の例」である(『吾妻鏡』)。この「本司の例」の原則は承久の新補地頭においても引き継がれたのである。
 現実に本司の例が所務の前提とされていた例も多く*78、さらに研究が必要であるが、この所務法の形成過程の問題として注目すべきなのは、新補地頭得分が「率法」といわれていた事実である。この問題が今まで看過されていたのは、平安期と鎌倉期の経済史研究の断絶を象徴している。すでに大治二年(一一二七)の段階で、荒野を開発した下司が中央貴族に寄進するにあたり、三年の間は段別三斗(一色)の官物を弁済し、その後には「傍例の率法」に従って弁済すると述べている(『平』二一一四)。このような率法の形成を官物率法以来の歴史的過程の文脈の中で捉えなければならないことは明らかである。
 その過程は、斉藤利男がいうように*79、保元新制の第三条に「暗に率法を減じ、官物に対捍す」とあるような民衆の抵抗と権力との矛盾を内容としていたはずである。斉藤は院政期国衙領の一色官物は六斗から八斗にまで増徴されたとするが、敦光勘文の利田に関して先に引用した部分の続きに「田数を検ずるといえども、率法過差」とあることの内実が、これだった可能性は高い。そしてそのような斗代は単に国衙領のみでなく、荘園にも拡大していったはずである。利田と率法過差は、弓削島庄の場合に実際に両者が結合した形で現れているように(『平』二七〇九)、院政期の国司がとった一連の政策だったのであって、そのような情勢の中で、在地領主の率法も形成されたことに注意しておきたい。本所と在地領主の間の得分の分配の在り方という永原慶二の提起した問題*80の全てをこれによって解けるとは考えないが、永原見解の検討の中で、石井進が、承久の新補地頭の得分を有名な大田庄桑原方下司得分注進状と比較し、それが一二世紀における荘園寄進・立券の主体となった在地領主の得分として一般的なものであるとしたのは興味深い*81。問題を以上のような具体的な率法の問題に引き直して処理していくことが研究の方向となるべきだろう。
Ⅳ展望にかえて
 さて、冒頭に述べた平安期から鎌倉期への移行過程の理解について、最後に、若干の指摘をしておきたい。第一に、院の国土高権は軍事的支配を強力な背景としていたが、その軍事的編成が保元の乱以降、急速に肥大化し、すでに別稿で述べたように*82、その結論として日本国惣地頭なる国制身分についた頼朝による徳政の主導という政治史の展開がもたらされた。この頼朝の徳政の北条徳政への変容・移行という形で、平安時代と鎌倉時代の政治と法の歴史を連続的に理解したい。そしてそこで重要なのはやはり起請の問題である。つまり貞永式目末尾の起請は、形式としては新制の起請を受けているのであって、それは式目の格式法的性格に対応するものとすべきであろう。これが延応の武家新制の起請、室町幕府奉行人の起請さらには六角式目の起請などにつながっていくのである。
 第二に、新補率法と大田文については、これも別稿で述べたように*83、承久の乱をへて成立した後堀河王統、そしてそれと結合した泰時の徳政の中で位置づける必要があるだろう。特に新補率法が「制符」・宣旨によって指示され、格式法的性格を有するものであることが重要であるが、ここでは本論の検討をふまえて、これらが平安時代の土地制度の運動全体の歴史的結果であるという観点から問題を詰めていく必要を強調しておきたい。
 第三は、大局的にみると、牛王宝印裏起請文の成立は院とその近辺に存在した手印・宝珠・宝印の赤・朱による誓約という様式が内乱の時代を経過して在地と村落社会にまで下降・拡大したものであるということである。この点で、『今堀日吉神社文書』の中に後白河の手印つきの免許状が残されているのは示唆的である(ただし偽文書)。詳論する余裕はないが、注意すべきなのは、これによって社会のトップから村落にいたるまで一種のナショナルに共通した形式での起請関係が成立したことである。この問題が「新制・制規としての起請」といわゆる「起請文の起請」を統一的に捉えていくという問題*84につながることはいうまでもないが、いずれにせよ、これは国家的関係がより強力かつ一元的に社会に貫徹していったことを示している。そして、この過程が修正会の公事を村落に懸けていく過程とパラレルであったことは、井原今朝男が明らかにしている通りである*85。もちろん井原がそういう国家と百姓の関係を「双務的」としているように百姓の起請の中には「自由」が存在するのではあるが、彼らが平安期と比べてより国家的・社会的な圧力の下に置かれたことは否定しがたいと思う。牛王宝印裏起請文の成立の問題は平民百姓の自由と隷属の諸段階のとの関連においてこそ、全面的に明らかにしうるのである。
 以上のように考えると、鎌倉時代への移行は平安期の人民支配の到達点を全体として総括するものであったということができる。そこに、これ以降続く国家・社会の基本的な骨格が形成されたことは明らかであり、日本社会は近世化とシステム化、いわゆるインヴォリューションの道に踏み入ったように思う。もとよりそれは市民的な意味での合理化ではなく、国家暴力の組織的形態の発展にもとづく、いわば前近代的な合理化であり、その基盤には起請に象徴されるような濃厚な集団性、集団的意思関係の規制が存在したというべきであろう。
 そこに、現在でも日本社会が有している唾棄すべき横並び集団性の原型をみてとってしまうのは非歴史的という謗りをまぬがれがたいが、それにしても、私は、彼らを長期にわたって呪縛した「起請」とは何であるのか、その集団的意思関係の形式を与えてきた牛王宝印裏起請文とは何であるのかという問題を再び考えざるをえない。鎌倉時代の画期性を考える立場からすると、まずは有名な腰越状において義経が語っている「諸神諸社牛王宝印の裏をもって」記した数通の頼朝充ての起請文のような、内乱期における起請文の使用の意味と影響*86を検討しなければならないだろう。そしてさらにまた起請文に勧請される神が多く熊野であったのは何故なのかも改めて考えなければならないかもしれない。熊野は何らかの「平和性」あるいは「死」の象徴であったのだろうか。ともあれ、私はそれは院政期においてしばしば行われた院を中心とする熊野詣の盛行ととかならずや深い関係があるに相違ないと考えている。これをたんに宗教的な影響とのみは考えられない。
*1『日本史研究』三六二号、本章補論1としておさめてある。
*2【追記】この典型荘園論については『シンポジウム日本歴史』(学生社)における戸田芳実の発言によっている。下記に引用する。「私は荘園の中でももっとも典型的かつ古典的と言いうるものは『田畑民烟山野一円領有』というような荘園だろうと思う。耕地片の集合体にとどまるものは荘園の典型的な形態とは考えがたい。山野から在家から一括支配できるということは、山野に対する当時の村落の規制を支配体系、強制体系の中に含みこんではじめて可能であろうということです。この場合には永原慶二さんとは違う意味で村落を不可欠の媒介環にしなければ、あの荘園制は成り立たない」。その意味で「紀ノ川の流域に院政期にでてくる荘園をもっと重視したい」。「領主制を前提におかなければ成り立たない荘園」は「荘園領主制と呼び、他方で荘園領主制の総体、つまり荘園全体を本所領家が総括する支配体制を荘園体制といいたほうがよい」(『シンポジウム日本歴史 中世社会の形成』一九七二年。一二五~一二六頁)。
*3官省符庄論の現在の到達点については坂本賞三『荘園制成立と王朝国家』(塙書房、1985)を参照。なお、これまでの初期荘園論に対する若干の批判を「古代末期の東国と留住貴族」の注68(東京大学出版会)で述べた。また同論文注69で初期荘園の重要な一環をなした勅旨田についてふれた。本報告の趣旨からすると勅旨田を初期荘園論の中に位置づけた上で平安期の勅旨田を追跡することがどうしても必要だが、この点は及ばなかった。ただ本報告の趣旨からして、初期荘園全体の中で、官省符庄と勅旨田の位置、すなわち王権問題の位置は高いことは確認しておきたい。
*4内印と民部省符に関しては、参照、太田晶二郎「智証大師謚号勅書の内印」(『日本歴史』四四六号)。
*5坂本賞三『日本王朝国家体制論』(東京大学出版会)。
*6 なお、この史料は官省符と起請との関係、また保元の記録所における官省符の扱いを示す史料としても重要である。後に触れるように、保元荘園整理令には官省符を相対化する論理が存在したが、この史料が示すように、鳥羽院庁下文の効力を否定し、「理」にまかせて官省符を正当とする場合が存在したことはいうまでもない。本論で問題としているのは王による荘園の国法的特権の認可行為の総体を、単純に律令的官衙制の論理のみで捉えるのでなく、そこに実態的な法形態をも発見することにある。さらに、民部省勘状・勘文または田所勘文(両者は同じものであると考えられる)は、『平』四五六、五八一、九八〇などにあり、民部卿の宣によって省図にまかせて作成され、民部少録などの本省の官人が署名している。民部省勘状に関する記事は、『平』三五〇、二九三六、三一〇〇などにもみることができるが詳細は後考にゆずりたい。
*7この点については坂本の前注書二五頁を参照。なお、最近紹介された『医心方』裏文書(山本信吉・瀬戸薫「半井家本『医心方』紙背文書について」、『加能史料研究』四号)の国務雑事の注文には「荘園等事、領主ならびに官省符」という一項がみえ、初任国司が官省符のリストを用意しておかねばならなかったことを示している。
*8福島正樹「中世成立期の国家と勘会制」、『歴史学研究』一九八六年度大会報告別冊
*9もちろん、たとえば「未聞以非勅免之所領、恣号永代不朽之荘園矣」(『平』補221)などという場合、一般語としては官省符も勅免の中に入るものであったことはいうまでもない。それでも「勅免宣旨」が一つの制度であったことは、後に触れるように官省符庄の「改定宣旨」なるものが存在したことからも推定される。勅免の逆に、従来の特権を否定する宣旨も存在したのである。また相模国大庭御厨は「勅免神領」といわれるが、それは「奉免宣旨」によって認められたものであり、そこには「至于勅免神領者、縦(従国衙ーーという文言が『平』二五四八では付加されている)雖有可令沙汰事、若申下宣旨、若相触本宮、彼使相共令進止之例也」という慣習が存在した(『平』二五四四、二五四八)。
*10 不輸租については、参照、梅村喬「租帳勘会と国司検田」、同『日本古代財政組織の研究』(吉川弘文館)所収。
*11中田薫「起請文雑考」、『法制史論集』第三巻。
*12参照、鈴木景二「聖武天皇勅書銅版と東大寺」(『奈良史学』第五号)。
*13この史料は平等院領に関するものである。なお、先述のように官省符庄は基本的には王による宗教的荘園寄進であると考えるが、ここで官省符発給の二番目の対象として「昔の良臣」の「先祖の霊廟」が述べられていることも無視できない。この側面については今後の検討課題である。この平等院領に関する史料との関係では、たとえば、藤原師輔の夢告と慈恵大師良源の後鑑に任せて道長が「一条院皇胤繁昌、大相府子孫万代」のために建立した比叡山妙香院領の所領荘園群が、永□元年より延久二年に至るまで何度も官省符を受け、「永く臨時勅事国役雑事を離れ」たことなどを具体例として考えるべきであろう(『平』二四七七、なおこれについては、有名な良源遺告の鞆結庄の記事をも参照。『平』三〇五)。また栄山寺領の場合は本願武智麻呂のために官省符が下されている(『平』三三三)。
*14たとえば、「往古官省符田ーー本願施入の上、官省符として四百余歳に及ぶ」(『平』一四七一)、「勅施入官省符不輸田、数百歳を経るの所領なり」(『平』一四八三)、「法林寺の領、立券以後五百歳を経る官省符の処なり、権威を募らんがために、高陽院御領観自在院に寄進」(『平』三三一六)、法隆寺について「本願聖霊官省符田を奏置、而して所当米をもって寺用に分配し、その例すでに五百余歳に及ぶ」(『平』一四六五)、「小治田宮(推古)に御宇、以来官省符田として敢えて他の妨げなし、本願起請によって、次々の氏人領掌、既に二百余歳を経」(『平』補二四八)など、何百年という単位の年代意識が確認できる。ただし、後になると、単純に「往古官省符」という言い方が多くなるように思えるのは、それが具体的な神話的観念から離脱しつつあることを示すのであろうか。また丹波国後河庄について「大日如来御点顕給より以後、肆百歳及たり」(『平』七五六)といわれているのは、聖武と東大寺大仏を二重化して考えていたことを意味する。ここでは天皇神話が宗教的地主信仰と接続する様子を知ることができるが、この点は黒田俊雄のいう神国思想と国土の地主神の鎮座する曼荼羅的構造という問題に関わってくる(「中世国家と神国思想」、同『日本中世の国家と宗教』、岩波書店)。
*15たとえば「件の庄、元は彼寺本願舒明天皇勅施入の地、数百歳の寺領なり、(中略)、すでに勅施入の仏地なり、官省符の寺領なり、仏を離れ寺を離れ恣に人領・私領となること、古今未聞の例なり」(『平』一四九一)とある(なお、『平』一一九二も参照)。私は、ここに笠松宏至が問題にした「仏陀施入の地」の大法の原形が存在すると考えている(『日本中世法史論』、東京大学出版会)。なお、網野善彦は、古代の天皇名がしばしば供御人関係文書に現れることに注目している(「中世文書に現れる古代の天皇」、『日本中世の非農業民と天皇』、岩波書店)。この事実と官省符の由緒としての古代の天皇の登場をどのように統一的に考えるべきかは重大な問題である。網野の指摘は興味深いものではあるが、この問題の追及は荘園制論全体に関わるものと考える。
*16なおまた同じ紀伊国の地主神話として『粉河寺縁起』が太政官符にのっていることも注意しておきたい(『平』三五三)。
*17「件の荘、本官省符の庄たるといえども度々の宣旨により停止」(『平』一四八一)などといわれるような、「改定の宣旨」(『平』一四九〇)による官省符庄見直し慣行がある。それ故に逆に「代々の官省符を引き、国衙に牒送し免除せしむべし」(『平』三二五、新島庄、)とか「永□元年より延久二年に至り、官省符を院家所領荘園に下さるるところ、或庄は六ケ度、或庄は八ケ度」(『平』二四七七)とあるように、官省符を代々確認する必要もあり、これらは徐々に官省符と勅免の差異を実質的になくしていったと思われる。
*18槇道雄「三代起請と院庁牒・院庁下文」(槇『院政時代史論集』続群書類従完成会、初出一九八九年)
*19保立「平安時代の血と王統」、『別冊文芸 天皇制』一九九〇年一一月。
*20安楽寿院領については参照、永原慶二「荘園制の歴史的位置」(『日本封建制成立過程の研究』、岩波書店)、福田以久生「安楽寿院領荘園について」(『古文書研究』九号)。なお本文のような安楽寿院領の法的性格の理解は、本報告の中心的論点である永原の荘園制論の批判的検討に関わってくる。
*21史料編纂所架蔵謄写本「安楽寿院古文書」、保延五年二月二二日条。なお、この史料及び『願文集』(史料編纂所架蔵謄写本、彰考館原蔵本の写本)の安楽寿院関係願文にみえる「禪衆」という存在は、葬祭に関わるいわゆる禪律僧の禪(船岡誠『日本禅宗の成立』、吉川弘文館)であって、ここに後堀河王統と泉涌寺に連なる王家と律宗の関係、王家と禪律僧の関係の原型が存在していると考えている(なおこれと対比すると、花山の出家は、折から盛り上がっていた浄土経と王家の関係を決定づけたといえよう。
*22阿部泰郎「宝珠と王権」、『岩波講座、東洋思想』第一六巻。
*23参照、佐藤道子「悔過会と二月堂の修二会」(『月刊百科』三一八)、千々和到「『書牛王』と『白紙牛王』」(『中世をひろげる』、吉川弘文館)。
*24この「盟」については滋賀秀三「中国上代の刑罰についての一考察ーー誓と盟を手がかりとして」(『石井良助専制還暦祝賀法制史論集』、創文社)を参照。この論文については加藤友康氏の教示をうけた。この盟と起請の関係は深いと思われる。
*25早川庄八「起請管見」(『律令国家の構造』、吉川弘文館)。早川の研究は画期的なもので、詳細な検討を必要としている。ただ、氏の起請の語義「変化」の理解は若干形式論理に過ぎるように思う。これについては別の機会に述べたい。
*26参照、曽我良成「国司申請荘園整理令の存在」(『史学研究』一四六)、市田弘昭「王朝国家期の地方支配と荘園整理令」(『日本歴史』四四五)など。
*27戸田芳実『日本領主制成立史の研究』、岩波書店。
*28保立「中世の開化主義と開発」(『歴史学をみつめ直す』校倉書房、初出一九九〇年)
*29丹生谷哲一「在地刀禰の形成と歴史的位置」(『中世社会の形成と展開』、吉川弘文館)。紙幅の関係で、郡司と刀禰に関する研究史の検討は省略するが、本稿との関係で、刀禰の在庁官人化を示唆した中原俊章『中世公家と地下官人』(吉川弘文館)、及び国例の「留国雑役」についての検討を含む山口英男「十世紀の国郡行政機構」(『史学雑誌』一〇〇編九)を挙げておきたい。
*30『シンポジウム 中世社会の形成』『シンポジウム 荘園制』(学生社)での戸田の発言を参照。戸谷によれば国衙荘園体制という範疇は、上部構造上の国衙への荘園の従属を示している。それはこの段階における「国家の『領土高権』」(戸田「平民百姓の地位について」、『初期中世社会史の研究』東京大学出版会、原論文発表一九六七年)に対応するものであるということもできる。
*31斉藤利男「十一~十二世紀の郡司・刀禰と国衙支配」(『日本史研究』二〇五号、一九七九年)。
*32戸田芳実「律令制からの解放」(『日本中世の民衆と領主』、原論文は『土一揆と内乱』三省堂、一九七五年)。
*33「和田の松原の西の野を点じて、九城の地をわられけるに、一条よりしも五條までは其のところあって、五條よりしもはなかりけり」(『平家物語』五都遷)、「縄をひき地をわりけるに」(『昭和定本日蓮遺文』第二巻一九二二頁)などとあるように、「破る」は地割の意味である。その経験や権限に基づく保証こそ「保証刀禰」の本来の意味であり、それを正確に現す「四至保証刀禰」という表現も存在した(『平』四五五〇)。なお、「破定」についてはなお、「使者相共に四至に任せ、町段条堺等を破定め、言上せよ」(『平』一〇八三)、「公定に随い官使を申し請け、件の坪ゝ内神領田畠など破定の日、その隠れなきか」(『平』一二一二)、「そもそも外題の趣のごとくんば、前後の使など、相共に破定めしむべきの由、つぶさなり」(『平』二二七四)、また四至の北に「限北、残地の破目」とあり、証書に「件の畠地沽渡の事、実正明白なり、てえれば次第の文書などに任せ、破定め、加証署、在地刀禰之、」(『平』三一三六)とあるような例がある。また、和泉国日根野村に関する「破形」という言葉も、破定とほぼ同義であろう(鎌二三九〇八、二三九〇九)。その他、「破」という言葉は様々な形で使用されているが、ここでは触れない。
*34坂本前掲『日本王朝国家体制論』。
*35【追記】中込律子「平安中期の所当官物制」(『平安時代の税財政構造と受領』校倉書房、二〇一三年)は、この「格条」は相論文書における修辞とすべきもので、仁寿官符とすることはできないとした。しかし、私は法的文書において格条という用語がただの修辞として使われるとは考えない。同論文はいわゆる公田官物率法の受領による賦課率の恣意的変動の制約=別名制成立=一一世紀半ばの領主制成立という坂本賞三による段階論を批判したものとして画期的なもので、本書の領主段階論などからも了解しやすいものである。官物率法三斗という規定は九世紀に根があるという私見は、中込の理解にも適合的ではないかと考える。
*36入間田宣夫「起請文の成立」(『百姓申状と起請文の世界』、東京大学出版会。初出一九八五年)七七、九〇頁。
*37村井「口分田と墾田」(『古代国家解体過程の研究』岩波書店、原発表一九六四年)。
*38永原『日本の中世社会』、岩波書店。一九六八年
*39戸田注(27)引用著書、一四九頁。
*40保立「巨柱神話と天道花」(『物語の中世』講談社学術文庫、初出一九九〇年。【追記】
*41戸田前掲『日本領主制成立史の研究』二五一頁頁。
*42このような作手の理解については、参照、保立「やれ打つな蝿が手をする」『中世の愛と従属』、平凡社
*43黒田日出男「『荒野』と『黒山』」、『境界の中世、象徴の中世』、東京大学出版会。
*44笠松宏至「中世の法意識」、『法と言葉の中世史』、平凡社。
*45大山喬平「中世の身分制と国家」、『日本中世農村史の研究』、岩波書店。なお、留住範疇に関する私の理解については、保立「荘園制支配と都市・農村関係」、歴史学研究会一九七八年度大会別冊。
*46勝山清次「中世的支配体制の形成と諸階層」、『日本史研究』一六三号。
*47木村茂光「王朝国家体制の成立と人民」、『日本史研究』一五〇、一五一合併号。
*48保立「中世史部会報告批判」、『日本史研究』一六五号。
*49戸田「王朝都市と荘園体制」、前掲『初期中世社会史の研究』。
*50笠松宏至『徳政令』、岩波書店、一八八頁。
*51勝俣鎮夫「地発と徳政一揆」、『戦国法成立史論』、東京大学出版会。
*52保立「平安鎌倉期における山野河海の領有と支配」(本書第二章)
*53五味文彦は、この二つの説話を院政期を特徴づけるものとして利用している(『院政期社会の研究』序、山川出版社)。ただ後者を白河院は「腕力」でもって「遺財」を奪い、「処分」したと解釈している。これは成り立ちえないであろう。私の解釈は五味のそれとは異なっており、院と調停と平和を中心とした解釈になっている。なお、後者の説話は五味によれば実は鳥羽院のことである。
*54大石直正「荘園公領制の展開」、『講座日本歴史』中世①、東京大学出版会。
*55保立注(50)引用論文。本書第二章
*56五味文彦「荘園・公領と記録所」、注(51)引用著書。
*57美川圭「院政における政治構造」、『日本史研究』三〇七号。
*58この文書、『平安遺文』(三〇九三)は「郡司□(宿か)老」とするが、『大谷大学図書館善本聚英』所載の写真によれば邑老である。
*59石井良助『中世武家不動産訴訟法の研究』、二〇頁、ただし、石井はこの説を維持していない。
*60保立注(50)引用論文。本書第二章
*61研究は多いが、まとまったものとして五味文彦「大庭御厨と『義朝濫行』の背景」、注(51)引用著書。
*62義江彰夫『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』、東京大学出版会。
*63石母田正『中世的世界の形成』、岩波書店。
*64保立注(50)引用論文
*65保立注(50)引用論文
*66伊賀国目代中原利宗・東大寺覚仁問注記(『平』二六六七)の覚仁申云の項。検注については富沢清人『中世荘園と検注』(吉川弘文館、一九九六年)を参照。
*67戸田「国衙領の名と在家について」(『日本領主制成立史の研究』岩波書店)、初出一九五八年。ただし、前節で述べたように、戸田が在地社会において負名田堵が春に耕作を申請したとしたことは正しいが、この史料のいう「利田の請文」自体は東大寺側の庄司などが提出したものであって、個々の田堵の提出ではなく、むしろすぐに述べるように領主制論の論理のなかで理解すべきものである。
*68隆覚書状(「中右記裏文書」)。田沼睦「鎌倉初期上総国々検史料について」『季刊中世の東国』七号、一九八二年)に紹介された。この史料については参照、鈴木哲雄「中世東国の開発と検注」(『中世日本の開発と百姓』岩田書院、初出一九八八年)。
*69竹内理三「平安遺文古文書第七巻改訂覚え書」(『寧楽遺文・平安遺文月報』八、一九六三年)、阿部猛「荘園制と出挙」(『中世日本荘園史の研究』大原新生社、一九六七年)、網野善彦「荘園公領制の形成と構造」注(13)(『網野善彦著作集』第三巻、原発表一九七三年)など。
*70小田雄三「古代・中世の出挙」(『日本の社会史』④岩波書店、一九八六年)
*71網野善彦「荘園公領制の形成と構造」注(13)(『網野善彦著作集』第三巻、原発表一九七三年)。【追記】「本来の起請田の田数を増し定めた」という場合の「起請田」とは何かが問題となるが、「数代の利田」という言葉からすると、これは前代の利田起請の田地、あるいは一般的な春時起請の際における申請田数ということにすぎない。これはいわゆる「三代起請」などに関わる国家法としての「起請」とは異なるものである。「荘園関係基本用語解説」(『講座日本荘園史1』吉川弘文館、一九八九年)では両者が十分に区別されていない。
 なお、この網野の見解は、原論文発表時のものではなく、一九九一年に著書『日本中世土地制度史の研究』におさめる際に付加された注記で述べられたものであるが、その理解は、右の論文の利田関係史料にみえる「三把」「一把半」「九把五分利」などの数値をもっぱら数値とみたもので、これは従来の理解が「把」という言葉を現実の出挙の稲の束把との関係で理解していたことを否定したものである(なお、網野が前提とした小田論文は、この点では「把」を稲の束把と関係させてとらえる従来の観点をとっている)。この網野の見方自体は佐藤泰弘「国の検田」(『日本中世の黎明』京都大学学術出版会、初出一九九二年)も同じであって、前提とすることができる。なお、後者の佐藤論文は日本史研究会での大会報告の直前には発行されており、本来、十分に参照し、言及すべきであったものであった。遅くなったが、この点、御許しを乞いたい。
*72【追記】利田=出挙論は、研究史的には、戸田芳実の「負名」論が一つの根拠史料として「利田請文」の史料を使いながら「利田」について論ぜず、一般の請作田と区別しないという欠点をついたという性格をもっていた。しかし、こういう経過で、その観点から「負名」論を批判する立論は成り立たなくなっている。
*73網野前掲「荘園公領制の形成と構造」。なお、この一宮での起請において饗宴の設定や「祭物料」の授受があったことは明らかである。
*74「利田」という言葉にしばしば「加ふ」という言葉が付されるのは、その「加納」との類似性を示唆するように思う(『平』二七〇九、三四一〇、補三七九など)。【追記】なお、これまで紹介されたことがない利田の史料として『平信範日記』(平松本)紙背に「所当注文同進覧之、利田事、国例候云々、仍相加候了」とあることを紹介しておきたい(仁安二年正月紙背)。これは利田の情報が「所当注文」に載せられていたこと、それが「国例」であったことを示す点で重要である。
*75最澄の上奏文に「蒔麻蒔草、穿井引水、利国利人」(『平』四四一七)、覚鑁申状に「国を益し、人を利し」(『平』二一四三)などとある。
*76笠松宏至「中世の法意識」(『法と言葉の中世史』平凡社、初出一九八三年)
*77佐藤が「利」という用語のこの側面のみに注目し、「利田は田数の何割かを控除し、官物率法はそのままにして、結果として官物を減額する措置である」と結論したことには賛成できない。本文引用史料の「永年数代の利田」という部分と、飛騨国益田郡の田数の本田田数は「前司利田を加える定め」であった(『平』三四一〇)という表現をあわせて考えると、代々の国司が利田と称して田数を増加させ、それが累積していたことがわかろう。。
*78「任前地頭時貞法師例」(鎌一七〇九)などの例がある。
*79斉藤利男「中世的年貢体系の成立と百姓の一味」、『国史談話会雑誌』二二号。
*80永原注(20)引用論文。
*81石井進「荘園の領有体系」、『講座日本荘園史』②、吉川弘文館。
*82保立「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」、『国立歴史民俗博物館研究報告』三九集。本書第三章
*83保立前注論文。本書第三章
*84佐藤進一『古文書学入門』、法政大学出版会。
*85井原今朝男「中世国家の儀礼と国役・公事」、『歴史学研究』五六〇。
*86なお義仲が後白河院や平氏に提出した起請文は興味深い。そもそも院に対して起請文を提出するという発想は、それ以前にはありえないものであろう。また平家に対して義仲が「一尺の鏡面を鋳て、八幡<或は熊野と説ふ>御正体を顕し奉り、裏に起請文<仮名云々>を鋳付く」というのも興味深い(『九条兼実日記』寿永二年一一月一八日条、寿永三年正月九日条)。これが熊野起請文であるとすれば、早い段階の事例である。


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