公開著書『中世の国土高権と天皇・武家』第一章補論一「平安時代法史論と新制についてのメモ」

一章補論1 平安時代法史論と新制についてのメモ
 第一章「平安時代の国家と荘園制」は一九九二年度日本史研究会大会報告であるが、ここにおさめるのは、大会前に公表された準備ペーパーである。本論で、この準備ペーパーの参照を求めている部分を中心に掲載し、不要な部分は省略してある。今回、若干の追補をしたとはいえ、不十分なままのメモにすぎないが、本論の関係で必要な部分もあるので、掲載した。
 法史学的にいえば、日本中世の新制は、ヨーロッパ王権の王令・禁令に対比されるべき、王権の法、国家の法であるということができる。その共通性と相違を検討することは日本の王権と中世社会を世界史的な視野で解明していくために不可欠の作業であろうが、その際、まず問題となるのは、日本の新制が中国から継受された発達した専制王権の法、律令法、そしてその変形である「格式法」を前提としていたことである。
 よく知られているように、石母田正は、日本法制史の上に「格式法の時代」を設定し、十世紀以後の公家法における「格の変形としての新制」を「統治様式の変化を反映する」ものとして想定している(「古代法」『著作集』⑧、岩波書店)。そして、十分に展開されることなくして終わったとはいえ、石母田の構想の中では、新制は身分的尊卑の観念を固定化するいわゆる「礼の秩序」の法的表現と捉えられていた(「『中世政治社会思想 下』解説」『著作集』⑧)。「御成敗式目」が新制と密接に関連した性格をもつという石母田の指摘、河内祥輔の言い方では式目の式条法的性格(「御成敗式目の法形式」『歴史学研究』五〇九号)、さらにそれにつけくわえて「建武式目」から「武家諸法度」「公家諸法度」にいたる統治法の流れも同様の淵源を有すると考えられることからすると、石母田の観点は中世史全体に影響するものというべきである。
 このような新制の歴史的展開の中において、報告で主な問題とする平安時代の新制の特徴は、それが基本的に天皇の代替りに発布される法令であったことであろう。すでに五味文彦は、平安時代の主要な荘園整理令が、いずれも天皇の即位後の「代始」と観念される一定期間の内に出されていたことを指摘しているが(『院政期社会の研究』山川出版社、一九八四年)、それは新制一般に拡大できる議論である。つまり、①村上天皇は、即位の翌年、九四七年(天暦元)一一月一三日新制を発布している*1。②花山天皇も即位直後、九八四年(永観二)一一月二八日新制を発布している。③一条天皇は、九八六年(寛和二)、七歳で即位したが、即位の翌年、九八七年(永延元)三月五日新制を発布し、そして九九〇年(永祚二)に一一歳で元服し、同年四月一日に新制を発布し、さらに壮年の時代にも「長保・寛弘の徳政」といわれた徳政を展開した。普通、幼帝は元服後あるいは二〇歳頃に新制を出すのが普通で、これは異例であるがそれなりの理由があったものであろう*2。④三条天皇は、即位の翌々年、一〇一三年(長和二)四月一九日新制を発布している。⑤後一条は一〇一六年(長和五)に九歳で即位し、一〇一八年(寛仁)に一一歳で元服し、一〇二五年(万寿二)、十八歳のときに「起請宣旨」「新起請法」を発布している*3。⑥後朱雀天皇は、即位の四年後、一〇四〇年(長久元)六月八日新制を発布している。遅れた事情は明瞭でないが、この時期がまだ「代始」と観念されていたことが指摘されている(五味前掲書)、⑥後冷泉天皇は、即位直後、一〇四五年(寛徳二)一〇月二一日新制を発布している。⑦後三条天皇は即位の翌年、一〇六九年(延久一)三月二三日新制を発布している。⑧白河天皇は、即位の二年半後、一〇七五年(承保二)閏四月二三日の荘園整理令を発布している。⑭鳥羽は一一〇七年(嘉承二)年に五歳で即位し、一一一三年(天永四)一一歳で元服し、その年、閏三月一九日に新制を発布している*4。また一一一六年(永久四)にも新制宣旨七箇条を発布している。⑬堀河は応徳三年一一月に八歳で即位し、一〇八九年(寛治三)に一一歳で元服し、一〇九二年(寛治六)から一〇九九年(康和一)にかけて何次かの庄園整理令を発布している。⑮崇徳は、一一二三年(保安四)、五歳で即位し、二〇歳となった一一三八年(保延四)には新制がでている*5。⑨後白河天皇は即位翌年、一一五六年(保元一)閏九月一八日新制を発布している。⑩二条天皇は一一五八年(保元三)に一六歳で即位し、一一六四年(長寛二)に新制を発布している*6。
 冷泉天皇、円融天皇、近衛天皇など例外的に史料を確認できない場合もあり、規模や影響も様々なではあるが、成人の天皇は即位後に、そして幼帝即位の場合も、成人後には新制を発布するのが通例であったことがわかる。王の代替りにともなう国家統治法の「維新」ともいうべき新制とその政治理念としての「徳政」は、同時にその王統の「血と肉体」の動物学的正統性の宣言でもあったということができよう*7。平安時代の政治史は円融系・冷泉系を起点とする王統の分裂が重要な通奏低音をなしており、それだけにこの時代の新制には、そのような王の血統問題が直接に刻印されているのである。このような新制の性格こそ中世王権の法というにふさわしい。
 そして、それが最初にはっきりと打ち出されたのは、花山天皇の新制、「寛和新制」であった*8。『平治物語』は保元新制を主導した信西について「延久の例に任て、大内に記録所を置、理非を勘決す、聖断私なかりしかば人の恨も不残、世を淳素に帰し、君を尭舜に致奉る、延喜天暦の二朝にも不耻、義懐・惟成が三年にも超たり」と述べている。義懐・惟成は花山の側近として新制を担った人物である。また大江匡房の『水言鈔』が「円融院の末、朝政はなはだ乱る。寛和の二年の間、天下の政、忽ちに淳素に反る。多く是れ惟成の力と云々、天下、今に」としていること、さらに治承三年七月二五日の『玉葉』に引用された頭中将源通親の書状が(村上源氏の位置,村上源氏は花山に対する聖君主観念をもっていて当然)(頼朝との関係は同じ源氏という意識あり)、治承の新制における沽価法の問題にふれる中で「寛和・延久(後三条天皇)之聖代、その法(沽価法)を下され了」とすることも注目されよう。これらは、花山新制が延久新制の先駆をなすものと考えられていたことを示している。
 たしかに残された史料の限りでも、寛和新制は、その全面性・体系性において延久の新制と並ぶものをもっている(関係史料は『大日本史料』一編を参照)。「花山院御即位の後、十日、太宰府兵杖を帯びるの者、一人として無し。これ皇化ほどなく遠くに及ぶの験なり」(『水言鈔』)といわれた治安的「平和令」、「花山院の御時、女房ならびに下女などの袴を禁ぜらる」(『水言鈔』)といわれた身分的な倹約令、それに連動した価格公定法としての沽価法の興行、またその延長としての「破銭の法」、都市法として京中水田の禁制を実行したこと、さらに殺生禁断令など、すぐに頓挫したとはいえ、そこには中世的新制を構成する殆どの法が登場しているのである。そして、そのような政策の一環として荘園整理令が存在したこともいうまでもない(『日本紀略』永観二年一一月一一日条)。有名な備前国鹿田庄の事件を考えるまでもなく、これは一定度実施された整理令としては画期的なものであったというべきであろう。特に重要なのは、「皇化ほどなく遠くに及ぶ」という王土思想、国土高権のイデオロギーが、庄園整理令の背景に新制の一環として存在していたと考えられることである。
 詳細は別稿にゆずるが、私は、この寛和新制を平安政治史における重要な画期として考えている。延久の大極殿新造の宴会が「寛和大嘗会の節会の如し」といわれている(『百錬抄』)ように、後三条天皇の延久新制が、儀式・政策の点で寛和新制から大きな影響をうけていたとは明らかである。そして先掲の拙稿「平安時代の王統と血」でも指摘したように、円融系・冷泉系への王統の分裂と(その後三条による)再統合にからまる支配層内部の人脈からいっても、この二つの新制の間には連続した関係があるのである。報告との関係で、特に指摘しておきたいのは、清和源氏満仲流と冷泉王統の関係であって、満仲は子どもの頼光、頼信を冷泉院判官代としているのみでなく(『尊卑分脈』)、藤原惟成を婿にとり(『古事談』臣節)、さらに花山の出家の丁度二月後、寛和二年八月十五日に出家しているのである(『尊卑分脈』)。また頼信の子どもの頼義が小一条院判官代になっており(『尊卑分脈』)、後に白河院が「小一条院は、世のおこの人にてありけるが、頼義を身を放たで、もたりけるが、きはめてうるせく覚ゆる也」と述懐したと伝えられていること(『古今著聞集』武勇)も重要であろう。
 寛和新制は、王権と軍事貴族の関係が中世的臣従といってよい質をもち始める画期でもあるのである。そして、その時の関係は後三条による王統の統合の後にいたるまで長く平安時代の政治史を規定したのである。最近、私は、論文「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第三九集、一九九二年)で、内乱期における「頼朝の徳政」について検討し、その背景として、頼朝が自己の血の中に後三条の王統との関係が存在することを誇示する姿勢をとったこと、つまり曾祖父義家の娘が後三条の子どもの三宮輔仁に嫁して生まれた園城寺の法眼行恵の子供、法眼円暁を鶴岡八幡宮別当として鎌倉に呼び下したことを指摘した。いうまでもなく、三宮輔仁は、白河院が皇位継承の相論相手として恐れ続けていたという人物であり、義家は、満仲以来の伝統をうけて輔仁に賭けることによって、「前陸奥守義家随兵の入京ならびに諸国百姓田畠公験をもって、好んで義家朝臣に寄するの事を停止」(『百錬抄』)といわれた権威を獲得したのである。これは軍事・警察権力、国家の強力装置と王権の関係、それゆえに国家論を考える時の根本問題につらなってくる。(中略)
 周知のように、庄園制・庄園領主権の国家的性格については永原慶二の見解があり(「庄園制の歴史的位置」、『日本封建制成立過程の研究』、岩波書店、一九六一年)、また黒田俊雄の権門体制論も別の観点からではあるが庄園制と国家の関連の問題を基本にすえている(「中世の国家と天皇」、『日本中世の国家と宗教』、岩波書店、一九七五年)。両氏の見解と論争に正面から取り組むことなしに研究の発展はありえない。それは、中世社会論における最大のアポリアの一つである「庄園領主と在地領主」の階級的性格の問題、そして律令貴族から庄園領主・在地領主への階級的移行の問題などに関わっており、研究史や理論的問題の整理にも相当の準備を必要とする。
 その作業が進んでいない上に、報告で具体的に論ずるテーマについても、まだ成案がなく不安であるが、ともかく、義家への庄園公験の寄進において、庄園制的な土地所有関係が王家の諸分派との関係でグループ化し、軍事化していくような関係こそが、庄園制の国家的性格の強化を導くのであろうということを前提として、問題を詰めていってみたい。そして、見通しとしては、そこを基底的矛盾とする内乱の時代を経過することによって、都市貴族と地方貴族、宮廷貴族(公家)と軍事貴族(武家)の階級的結集形態の国家的・軍事的編成替えが完成したはずである。中世社会における支配階級の二重の階級構成などといわれるものを、社会と政治の運動の過程の問題として解明すること、人民支配の新たな展開とそれにともなう獲得物の共有と考えること、そのような方向で考えられるところまで考えてみたいと思う。
*1水戸部正男『公家新制の研究』は、村上天皇の親政を公家新制の最初の例とする。なお、以下の新制についての史料で水戸部がすでにふれているものなど周知のものについては注記を省略した。
*2これは相当に大規模なものであった花山新制との関係で、幼帝にもかかわらず強行された特別な新制であろう。長保・寛弘の徳政はそれをうけたものであって、花山をもたらした宮廷内部の矛盾が、ここで処置されたものと考える。
*3『藤原実資日記』万寿二年三月一五日条、一一月九日条。参照、早川庄八「起請管見」。
*4『殿暦』永久一年閏三月一九日条。福島正樹「中世成立期の国家と勘会制」(『歴史学研究』五六〇号、一九八六年)を参照。さらに下向井龍彦「天永の記録所について」『史学研究』一九九号、一九九三年。
*5保延四年に沽価法が発布されている(『九条兼実日記』治承三年七月二五日条。参照、保立「中世前期の沽価法と新制」(『歴史学研究』六八七号、一九九六年
*6参照、佐々木文昭「公家新制についての一考察」(『北大史学』一九号、一九七九年
*7これについては『平安王朝』(岩波新書、一九九六年)を参照。、
*8花山天皇の時期の政治史ついては阿部猛「花山朝の評価」(『平安前期政治史の研究』)、北山茂夫『王朝政治史論』、坂本賞三「花山朝の政治史的評価について」(『古代文化』三〇ー九、一九七八)などを参照。
              

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