前方後円墳は火山の象徴であった。

 前方後円墳は火山の象徴であった。これは前方後円墳の独特な形状が壺型であるという三品彰英の「壺型墳」説を前提としたもので、卑弥呼の墳墓、大和の箸墓墳墓は、まさに壺型をしている。

 三品は、死者の神霊は、この壺の中で「母なる神霊の国」、大地の神霊に接して復活すると論じている。問題は、火山の情景描写には実際に「瓫」「甕」「甑」などの土器が登場し、火山は「火瓮(ほべ)なす光く神あり」といわれ、火山のスコリア丘または溶岩ドームは「伏せた鉢、伏せた瓮」といわれることである。このように「火山=壺・瓫」という観念が存在し、「壺・瓫=前方後円墳」という観念が存在していたとすれば、それが「火山=壺・瓫=前方後円墳」という複合的観念に展開していただろうというのは見やすい。「壺=古墳」の中に閉じ込められた死者の魂は「母なる神霊」の力によって復活して、壺の口からあたかも火山の噴気のように天に飛ぶのである。
 これは拙著『歴史のなかの大地動乱』で述べ、さらに論文「火山信仰と前方後円墳」(二〇一六)で詳述した見解だが、考古学の北條芳隆氏に賛意をいただいたほかは(『古墳の方位と太陽』)、学界ではまったく無視されたままになっている。そもそも考古学は近藤義郎『前方後円墳の成立』が三品の壺型墳説を「俗説」、ようするにトンデモ説として拒否している。岡田精司が厳しく批判したように(岡田一九九九)、歴史学からみれば近藤が折口信夫説をとって、古墳儀礼を前首長の死体から新首長が首長霊を継承する接触儀礼であるとすることこそ無教養・無批判なものと思えるが、前方後円墳の謎はそれだけ深く、当面はやむをえないということなのであろう。

 私は、そもそも邪馬台国は列島の歴史上、最初の西国国家であって、西日本の「国」連合を実態とするが、九州には阿蘇・霧島、中国地方には出雲の火山があるが近畿地方には火山は存在しない。その中で、倭国の連合の象徴として、邪馬台国の女王である卑弥呼の墓としてヤマトに模擬火山=箸墓が造られたものと考えている。これが正しく、古墳が「火山=壺」という神話を表現しているとすると、前方後円墳の見方は一変するのであるが、これがそのままではないとしても、意味のある見解として学界に受け入れられるかどうかは何ともいえない状況だと思う。
 しかしともかく、三品の壺型墳説を「俗説」とすることはもう無理だろう。

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