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「歴史学と歴史教育という分業の形を前提とすることへの違和感」

2014年5月28日 (水)
「研究と教育の統一」という命題の特権性の自覚。―歴研大会全体会(2)

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 これは学芸大の槻の木、ケヤキの木。月神は、桂だけではなく、槻にも降臨するのではないか。似た枝振りなのではないかと思う。


 さて、歴史学研究会全体会の話。レジュメに書き込んだメモを忘れないうちに文章化しておく。
 
 まず今野日出晴氏の報告「歴史教師の不在―なぜ『歴史教育』なのか」であるが、歴史学の現状をよくとらえていると思い、賛成のところが多い。私も50年代の歴史学と現在の歴史学がもっている「原初の問い」の共通性という意見は大事だと思う。石母田正さんがやろうとしたこと、などといわれると、私などはすぐに感動してしまう。

 討論の差異の応答も見事で冷静なもので、私のようなshort-temperな人間にはできないことである。頭がいいのだと思う。

 まず共感するのは、「歴史学と歴史教育という分業の形を前提とすることへの違和感」ということである。たしかに、この言葉は「歴史学と歴史教育」を区別するところから出発しており、きわめて問題が多い。野口剛「歴史の学びの原初的形態へ」(『歴史評論』749号)が、このような用語法は「形を変えた新たな純正史学と応用史学という二重構造」であるとしている通りである。俺は「歴史学」、あなたは「歴史教育」というのは、考えようによってはたいへんに特権的な言辞である。こういう用語法を再検討することは、大学院が歴史教師の履歴で多くなっているなかで実際的な意味をもっている(実質上は、歴史教師の定員が十分に補充されていないなかで、大学院履歴が競争の手段となっているような実情は問題が多いとはいえ)。

 「歴史学と歴史教育」ではなく、「歴史学における研究と教育」というのが正しい用語法である。その上で、歴史学における研究と教育が、一定の分業性をもっていることは事実であると思う。職業的な専念とディシプリンからみれば、一定の分業制は必然であると思う。しかし、それは現状の「分業」の形を前提とすることではない。専門性のもつ社会的役割についての合意を前提に、社会分業の形を組み直す方向を展望することが必要であり、そのなかで、より厳密な用語法と思想を共有する方向に進むべきであると思う。

 さて長くなるが、このより厳密な用語法を考えるためには、歴史学にかかわる(1)人格と(2)職業と(3)力能を区別することが必要であると思う。

 まずすべての前提になるのは、歴史学にかかわる人格の概念で、それは「歴史家」と「歴史学徒」という言葉によって定義されると思う。

 たとえば、私は、自称「歴史家」である。つまりいちおう職業歴をもち、それで長いあいだ生活してきて、また歴史というものの全体について考えるということを希望しているという意味で「歴史家」である。自分をそう呼んで自分を励ましているわけである。

 より事実に即して、またハンブルにいえば、私は歴史学徒である。この歴史学徒という言葉は、私の記憶では、阪神大震災を契機に作られた資料ネットのなかで生まれた言葉で、これは資料ネットの運動が歴史学にとってもっている意味を象徴する言葉であると思う。つまり、歴史というものを大事だと思い、歴史を学ぶということを学術としての歴史学にかかわって意思し続けている人とい意味での歴史学徒である。これは論文を執筆するかどうか、職業は学者か、教師か、あるいは編集者か、ジャーナリストか、あるいは直接に歴史学の仕事との関わりがないかなどとは関係ない。

 歴史家・歴史学徒というのは、ようするに人格の具体的な性格の一つとしてそれをもっているということであって、学問性を前提とした人格概念である。そして歴史学の学者も教師も同じ歴史学徒なのである。歴史学徒としては対等平等である。歴史学徒は、野口剛氏のいく「歴史の学びの原初的形態」を共有し、また今野氏のいう「原初的な問い」を共有する仲間なのである。これが原則である。


 第二の職業というのは学者と教師という概念であろうと思う。これは職業上の専門性を表現する用語であって、これで金をもらって、これで生きているということである。金をもらってきた、社会によって生かされてきたということにともなう責任が、ここにはかかってくる。その意味では、私は自分を学者であるというように自称できるように努力している。金ということを考えないのが学者であるというのは一つの無責任な俗物的言辞であり、ぎゃくに学者という言葉を使用しないというのはある場合は気取り俗物であり、ある場合は、「金をもらっている専門家でありながら何だ」という批判をさける甘さである。なお、この学者・教師というのは職能的には兼帯しうる概念である。たとえば大学の教員などは「学者であり、教師である」というのが普通で、俺は学者ではないというのは、その分の給料が只取りであり、不当利得であるということを自認するに等しい。


 第三の力能(あるいは機能)というのは研究と教育である。これは学者と教師に対応する側面があるが、しかし、力能と職業は一対一対応ではない。学者の力能において教育力量、研究力量などは両方とも必要になるし、教師の力能においても、同じである。いわゆる「研究と教育の統一」という範疇は、このレベルで考えることであって、これを実際には、しばしば大学にのみ極限してしまうのは、意識的にせよ、無意識的にせよ特権意識である。なお、「研究と教育の統一」という議論は、1970年代初頭の大学問題のなかで我々の世代には提起されたものである。つまり大学教養部の改革問題との関係で提起され、当時の学術教育運動のなかでは一つの合い言葉になっていた。それ自身は正しい側面をもっているが、しかし、この考え方は、前述の職業、人格ということを十分にふまえて考えないと、実際上は、大学あるいは研究職にのみ極限され、特権意識の温床になる。「教育だけでなく研究が必要だ」という意識のなかには「研究だけをしたい」という欲求がまぎれこむ。これは、歴史学徒としてUniteして社会に向き合い、協力しながら全力をもってその社会的な役割を果たそうという意識に逆行する。

 さて、今野報告で若干気になったのは、「歴史学と歴史教育という分業の形を前提とすることへの違和感」というのはあくまで正しいが、しかし、「歴史学における研究と教育」が現実には、人格・職業との関係において社会分業の形をとること自体は事実であることである。私たちは、現実の社会分業をそのまま前提にすることはできないが、その現実社会における分業のあり方を組み直すことを「制度」としても構想すべきことはいうまでもない。全体会で油井氏が問題にした「制度」と今野報告のいう「原初の問い」を総合して進んでいくということが必要なのであろうと思う。

 それにしても、石母田正がいわゆる国民的歴史学運動の反省を述べた文書のなかで(『戦後歴史学の思想』)、私たちは、私たちの動きを「現代社会における発達した社会分業のなかに位置づけるということについて、あまりにも無意識であった。サークル主義的であった」と述べていることの意味を考える。私たちは、あの頃から比べれば、たしかに「遠くへ来た」。しかし同じ道を歩んでいるのだと思う。

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