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【往復書簡】わたしは成功者です。なぜなら、自分でそう決めたから。

圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さんおはようございます!!わたしはこのところ断捨離欲が爆発して、普段の日常断捨離よりも抜本的な、「お前なんか根本的な勘違いしてねえだろうな断捨離」を敢行しております!!ハンカチを一枚ずつ、ペンを1本ずつ、プレゼント用リボンの1本ずつすらも見直して、いろんなものとお別れをしています。ごっそりとそのカテゴリごと不要だと感じるものなどが出てきて、楽しくてたまりません。圭吾さんも断捨離をされたとのことでしたが、この時期はそういうときなのではないかと感じます。お盆の時期は、別れがひとつのテーマなのだろうと思ったりしました。

わたしは自分に変化があったときに、自然と断捨離もしたくなります。変化した自分にとっては、それまでの自分が保存していたものが重要ではなくなっており、以前の自分を理解できず、首を傾げたくなるほどです。なんでこれを保存していたのだろう?と思うと、自分に呆れたり可笑しくなったりします。自分に変化があるたびに、こうして重要ではないものと別れる形で断舎離するのが、無理がなくてとても心地が良いと感じます。

自分が変化をしたときに、持ち物を見直さないでそのままでいると、せっかく良い変化があったのに元に戻ってしまうことがあるように思います。環境が同じだと、その環境の気と言いますか念と言いますか、それらがまとめて残っている家や部屋が大きな磁場となって、せっかく変わった自分をもとの沼に取り込んでしまうような気がします。自分に変化を感じたときは、持ち物もその自分にフィットするようにすると、とてもいい気がします!!

そうすると、人は些細な己の変化にも気がつくので、断捨離がめちゃくちゃ頻繁になり、日々断捨離をして暮らすようになるのだと思います。断捨離を、大掃除のように考えてたまにしかやらないでいると、本当はもう別れているものが増えて滞って、もう離れている物たちとの家庭内別居の状態となり、それに呼応して自分の新陳代謝が遅れ、老いが加速するような気がします。わたしは、断捨離は美容法でもあると言いたい。古い細胞を毎日風呂で流すように、日々の変化で不要になったものを見直して、家の中を日常的に丁寧にクレンジングするのは非常に有効的なことだと思います。人は自分の人生にうるおいを欲しがりますが、垢をためたままではどんなケアも無効になってしまうのだと思います。

断捨離のポイントのひとつが、将来を見すぎないことだと思いました。あとで使えるかもしれないから、あとで気が変わるかも知れないから、と考えすぎると、別れるべきものとも別れることができません。あとで必要になる死んだ細胞なんてものは聴いたことがありません。たら、れば、が多いほど、不要な物も多くなるのだと思います。不安の目で将来を見てばかりいないで、今を見るべきなのだと思います。断捨離をするとき、お前は今どうしたいのかと問われているのだと思います。人生いつも新陳代謝!!断捨離のスクラブで過去の物質細胞を落としていきます!!グワシ!!!

感動に触れたら「凄いなあ」と羨むだけではダメで、どうすれば自分もそうなれるかを考えてこそだと思います。そうじゃないと、ただの消費になると思います。私は、消費をすることも消費されることも嫌いです。時折、出会う人から「どうすれば坂爪さんみたいになれますか」的なことを聞かれるのですが、その言葉の響きに消費の臭いを嗅ぎ取ったときにイラッとする俺です。雑誌記事のように、ただの興味で自分を消費されたくない俺です。

うわあーなんということだ!!妹を除いて、この部分で同じ感覚を持っている人に会ったのは、わたしにとって圭吾さんが初めてです!!「感動に触れたら、すごいなあと羨むだけではダメで、どうすれば自分もそうなれるかを考えてこそ」って、本当にそうですね!わたしの狭き見聞では、これに本気な人に一度もお目にかかったことがなかったので、自分の感覚は幼稚でおかしいのだろうと思いつつ、ひとりそれを楽しんできた俺です。いや~嬉しいです、こんなところでも同じだったとは思いませんでした!ウェーイ!

わたしはご存知のとおり鬼滅の刃が好きですが、知ってから今日まで、炭治郎やしのぶや煉獄さんのようになるためにはどうすればいいのかを真剣に考えて、自分なりに修行を実践してきました。今もやっています。可能なかぎり、荒れない、怒らない、卑屈にならないで強く誠実で優しくあるために、やれることがたくさんあります。自分はあまりに不届き者でひどい人格をしているため、むしろやることしかありません。自分に情けなくなって自暴自棄に陥りそうにもなりますが、煉獄さんは「胸を張って生きろ。己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。歯を食いしばって前を向け」と言っていたので、今も打ちのめされていますが、歯を食いしばって挑戦しています。本気でやっています。つらく楽しい修行です。ちなみにこれを書きながら泣いています。

わたしはたとえ漫画のキャラでも、できるかぎり消費をしたくないと強く感じます。そこに冒涜を感じてしまうんです。自分の思い通りに消費するよりも、あのままに憧れて、あのままを尊重して、自分が変わるほうに努力するのが好きなのだと発見しました。これは自分自身との付き合い方や、他者との付き合い方にも現れるものなのだろうと思います。

わたしは相手をなるべく尊重したい、なるべく消費したくない、変えようとしたくない、と思います。そうしそうになる自分の弱さを、できるだけ愛して超えていこうと絶え間なく努力しています。ときには吐血しそうなくらい難しいし失敗だらけなのに、そうしようとだけはしています。こういうことを言うといつもいろいろな人に「それは壇珠さんだからできるんだ」と言われます。まるで別の惑星の生物のような扱いで、なんならあなたは自分が特殊だとわかるべきだと言わんばかりの諭し口調で言われてしまいますが、んなわけねェだろうがァ!!挑戦だけなら誰でもできるわい!!と思います。その人が自身を卑屈になってバカにしているのを感じるし、こちらのことも勝手に枠の外に置いて特殊扱いをして消費して安心しているのを感じ、むかっ腹が立ちます。あなたとわたしとの間の差があるとすれば、そこに挑戦するか否かの違いでしかない!!わたしはクソ弱いし、できないにも関わらずやろうとしているだけだ!!できないから日々少しずつ這ってでもやろうとしてるんだ!!と言いたくなります。こんなところから、消費されたくないという圭吾さんの気持ちがよくわかる気がいたします。

二次元キャラだろうと、われら三次元キャラだろうと、映画やドラマのキャラだろうと、そのどこに向かって勝手な消費をしても、モヤモヤを感じます。漫画で言えば、作者さんやキャラだけでなく、自分に申し訳ない気がします。自分は憧れの煉獄さんのようになれない、尊敬する炭治郎の友だちになれるような人ではない、だから消費して終わり。と決めてしまったら、自分が可哀想です。自分に失礼だと思います。だからやはり、どうすれば自分もそうなれるのかを考えて、1ミリでもにじり寄ろうとするほうが好きです。たとえ煉獄さんに一歩も近づけなくとも、少なくとも自分の憧れを放棄してしまわず、自分を見放さないでいるのは心が喜びます。でも、わたしが今本気で煉獄さんに近づくために日々頑張っていますと言うと、たいていの人からは、良くも悪くも冗談として扱われ、笑われます。妹だけは真剣に、大切な目標に向かっている話として受け取ってくれました。

けれども、こんな自分はなんともうるせーし変だし気難しいやつだなとも思います。その感じもわかります。でも、そんな気難しい自分との付き合いが、困難ばかりですが楽しいと思えます。わたしは気難しい自分のままでいいと感じます。こういう自分とともに進めていく孤独なチャレンジが、とても楽しいです。わたしはこんなんだから友だちが少ないのかも知れませんね。しかし少なくとも俺には妹と圭吾さんがいます!!あざます!!

捨てる覚悟のない人と一緒にいると人生が奪われます。情報デブになり体が鈍ります。私は、飄々と生きる自分と一緒にいたいと思います。これがなければ生きていけなくなると何かを握り締めている自分より、何もなくても生きていけるぜと笑っている自分と一緒にいたいと思います。なりたい自分にふさわしくなくなったものたちは「ありがと〜!!!!!!!!!!!!!!」と心の海に散骨し、なりたい自分にふさわしいものは確実に仕留めに向かいます。

はい!!もう、はい!!はいMAX!!わたしも捨てる覚悟のない人と一緒にいるくらいならば、しゃ~ないから一人でいたいと思います!!そして、自分だけでも笑わせようと思います!!なんかこれを書いていて泣けてきます!!それから、なりたい自分にふさわしいものは確実に仕留めに向かう。同意MAXです!!この、向かうということが大切なのだと思います!!楽ばかりして自分の望みに向かってくれない自分はどんどん信用できなくなりますが、向かってくれた自分は信じられます。それで失敗しようが成功しようが、そんなことは重要じゃないと思います。

もしも自分の親友が、自分の望みを叶えるためになにかに向かってくれたとしたら、それが失敗に終われば残念だし成功すれば嬉しいだろうけれども、どっちに転がろうともその親友への信頼は確固たるものとなると思います。本当に向かってくれたということが、すべてだと思います。けれども、「失敗したら嫌だから」と言ってなにもしてくれなかったら、本当に向かってくれたのとは大違いだと思います。がっかりするし、あまり絆を感じません。自分が自分の望みを取りに行こうとするかどうかによって、自分との絆が問われます。自分の欲しい物を仕留めに行かないと、自分の望みとちぐはぐな行動を取ることになってしまう上、自分から「信用できねえな」と思われてしまいます。それはほとんどの人にとって、嫌な感覚です。だからわれらは、自分を無視してはならないのだと思います。

悲しみに浸ることを美化する世界は、ほんっっっっっっっっっっとうにたくさんあると思います。全部J-POPの責任だと思います。依存を美化してしまったがために、依存できる対象を探して依存の度合いを愛情の度合いと勘違いする極北独房野郎を量産したのだと思います。湿度を武器に戦う連中には、俺と言う除湿機をプレゼントします。悲劇っぽく何かを語られても「その手には乗らねえぜ」って思います。俺が行きたいと思う方向はジメッとした方向じゃなくてカラッとした方向なんだよ、と。悲劇ぶっているお前も本当はビビっているだけなんだろ、ビビっている自分を正当化したいだけなんだろ、そんなことばかりしていると何処にも行けない人間になっちまうぜ、そんなことより遊ぼうぜ、行こうぜ、ピリオドの向こう側に行こうぜ、と思います。

敬礼!!最敬礼です!!ありがとうございます!!!先日わたしが悲しみに浸ることを美化するのは寒いし嫌いだと書いてから、J-POPの歌詞みたいになっちゃうのは、弱いし孤独だから仕方がない、と発信をする人をチラホラと見ました。わたしはジメジメを美しく見る価値観というのは、一種の宗教のようなものなのだと思いました。弱いものの味方の人はとても優しいのですが、優しさゆえに、それがついつい過剰になっていても自分では気が付きにくい面もあるのだろうと思いました。厳しさが間違った方に行くのを恐れすぎると、本当の温かい厳しさを忘れてしまうのだと思います。本気で吠えることがない人は、そのラインがわからなくなってしまいます。

ジメジメするのは雨が降るようなもので、一時的には良いものでも、そればかりを愛だとは言いたくないとわたしは思います。「ほら、こんなにも独占したいよ、こんなにも束縛したいよ、いつまでも未練がましいよ、だって本物の愛だから」みたいなのはやっぱり寒いです。束縛されたい、ヤキモチを焼かれたいと望む人は多いですが、これは本当に程度問題だと思います。それは相手の自己愛であってこちらへの愛なんかじゃない。俺はその沼にはいたくねえ!!と叫んでいる方が、自分の性には合っています。

「生き方なんてどうでもいい、と考えることにビビらずに生きる」って、とでもない名言ですね!!私も、世間的な成功者の定義を貧困だなと思うことがあります。良い家、良い車、良い服、とか、それだけが成功になっているみたいでダサいです。成功者って、やりたいことをやっている人間だと思います。成功者と、成功者と思われたい人は別物です。言うまでもないことですが、成功者になることの方が成功者だと思われることの何倍も幸福です。なぜならば、真の充足感は他者の承認を必要としないからです。しかし、昨今の世界は「成功者になることよりも、成功者だと思われること」に心血を注いでしまっている人が多いように見受けられます。豪華な家に暮らしているけれど、なんだか全然満ち足りていない感じの人をたくさん見ました。同じように、豪華な家に暮らしながら、めちゃめちゃ満ち足りている人もたくさん見ました。自分が欲しいものをわかっている人は、カッコいいと思います。しかし、みんなが欲しがるものを欲しがる人は、ダサいなと思います。自分がないというか、豪華なのは表面だけで、空疎な人間だなと思います。

いきなりですが、わたしは自分のことを成功者だと思っています。圭吾さん含むごく身近な人以外にそんな目でわたしを見る人はいないのだと思いますが、わたしだけはそう思っています。なぜ成功者なのかと言うと、俺がそう決めたからです(ドヤ)。

自分は成功者です。まずなにが成功したかって、俺は生まれやした。やってくれたぜと思います。今考えても、この点がまず場外ホームランだと思います。いや~最高の快挙を成し遂げたなと思います。その脳天気な基準がどこから来たのかって、それは俺が勝手にそう決めたのです。この成功は、母父先祖と宇宙の歴史のすべてのコラボレーションの結果だと思うと、場外ホームランどころの話じゃねえとか思います。感謝で吹っ飛びそうです。宇宙は自分を生み出した壮大な仕掛けであり、壮大なゆりかごです。ぬああ~やべえ!!自分が生まれるのに、ぬぁんと宇宙ひとつが必要だったなんて。その条件ぜんぶを用意してもらったのだから、成功だとかいう次元の話じゃねえとか思います。生まれただけで成功なんておかしいと思う人もいるかも知れませんが、自分の基準では成功と呼べるような軽々しいものではなく、宇宙ひとつぶんのことなので表現のしようもないほどやべえことだと思います。はわわわ!こんな自分が生まれるために宇宙ひとつが計らってくれただなんて、すんません!!すんません!!もう、すんません!!こうして生きている毎日も同じように宇宙ひとつの計らいだと思うと、謙虚さと誇らしさが同時にMAXで震えます!!ほんとにもうどうしたらいいやら、、あざます!!

そんな謙虚なドヤ顔の俺ですが、成功者だと思うのには他にも理由があって、なにを隠そう俺は地球人です。まずここが、超やばいと思っています。きっと自分は動物だったときや虫だった時代があったと思うのですが、現在地求人になってここにいます。かっけえぜ。もちろんこれも、輪廻転生などないし、魂が向上したり成長したりという話に根拠なんかないし、なにをもってそれが本当だと言えるんだと聞かれたら、俺が勝手にそう信じると決めただけです。わたしが虫や動物より偉くなったということではなく、修行が進んで、地球人マスターコースまで来た感じがして嬉しいです。地球人体験は、実は激ヤバコースなのだと思います。そこに参加していることを、成功者すぎると思っています。ここにいる俺たちは、みな勇者です。

それからもうひとつ自分を成功者だと思う理由は、この世のものを愛していることです。この世のものが愛しく、好きだし、離れがたく、恋しいと感じます。これを人生の成功と呼ばずしてなんと呼ぼうかと思います。もしもそう思えなかったら、喜怒哀楽がなくて、つまらないからです。

映画を観て、そこになにかを感じることができていたらその人はその映画を観ることにおいて、成功しています。人生もそうなのだと思います。なにかを感じることができたら、大成功だと思います。なぜこの世のものを愛したら成功だと思うのかというと、それは俺が勝手に決めたことです。わたしは、人生に感じるものがあったらまず素晴らしい成功だと思います。地球に来て地球人になった甲斐があるってものです。われわれが喜んだり、怒ったり、悲しくなったり、楽しくなったり、切なくなったり、寂しくなったりするのは、なにかを愛しているからですが、そう考えるとなにかを愛したことでなにかを感じた人生は、みんな成功だと思います。

生まれたし、地球人になったし、この世のものを愛しているから、わたしは自分を成功者だと思います。そういうことに、しちまっています。ウヘヘ。わたしは、人生に成功も失敗もないのだと思います。ある意味で、ぜんぶの人生が成功だと思います。どうしてかというと、この世で生きていることを、夢を見ているようなものだと思うからです。

死んで夢から覚めた時に、もちろん悪夢だったら怖かったなと思うし、良い夢だったら気分がいいと思います。でも、わたしたちが朝起きた時に、前の晩の夢が悪夢だろうが良い夢だろうが、それを失敗だとか成功だとか言わないのと同じように、どちらでも良いのだと思います。夢を見るというエンタメを味わうことにおいては、どちらにせよ成功しています。ただ、夢の内容によって、起きたあとの感想が違うのだと思います。だから、良い気分でいるためにはやはり、幸福であることに越したことはないとも思います。

人生の幸福の基準を決める時に、夢の内容だと思って考えると良いと思います。もしも夢として見るのであればと考えたら、お金があるとかないとか地位がどうとかいうことよりも、優しさを味わうかどうか、エキサイトするかどうか、面白みを味わうかどうか、ドキドキするかどうか、スリルがあるかどうか、なにかを愛していろんな感情を味わうかどうか、などのチェックポイントをどう設定するかということのほうが大切だと思える気がします。

そう考えたら、世の中の成功者の基準というのはどうでもよくなって、自分がどういう夢が見たいのかだと思えます。わたしは、物質世界めっちゃおもろかったー!!切ないのやばかったー!!いろいろ素敵なものありすぎて、地球のうえにいるのすごい経験だったー!!五感があるの、超絶やばいアトラクションだったー!!悔しさとか寂しさとか切なさとか、雄大な景色への感動とか、心細さ&心強さの感覚とか、懐かしいって気持ちとか、恋しいっていう感情とか、動物やら猫やらが可愛いすぎて悶絶する感じとか、いろいろ体験したけどぜんぶおもろくてやばかったー!!他にも人がいっぱいいて、みんな愛されたがっててすごい世界だったー!!幽霊とかもいた!!神さまとか信じたりした!!つか景色やばかったぞ!!空青かったぞ!!え?青いってどういう感じかって?それは目ってものでビジュアルで見えるんだよ、色ってのがあってさ、え?ビジュアルってなにかって?ああもう、とても説明できないよ、行って見てきておくれよ!!どんな体験だろうと、とにかくすげえから人間になるのって!!ビジュアルとか、あと目に見えないけど匂いってのがあって、あと味ってのもあって、それから音ってのもあって、各感覚の違いはとても、説明できねえ!!すげえからね!!あと!!自分の身体が物体になってるから、それがいろいろと感覚を持っているんだよ!!そっれもマジすげえかんね?!移動もできっからね?え?移動ってなにかって?だからほら、距離ってのがあるんだよ、すぐには離れたところに行けなくてさ。そういうのも味わわないとわからんから、行ってきてよ、映画だと思って観てきて!!そんであとで感想語り合おうよ!!もう、マジ、超楽しみだからね!!楽しんでね!!いっぱい味わって遊んできてね!!と、あの世で言えたらなって思います。そう言えたら成功だと思います!!

執着を捨て去ることが大事とも言われますが、それは「なりたい自分の姿にふさわしくないもの」に対する執着を捨てるだけであって、欲望そのものを捨て去る必要はないのだと思います。欲望こそが、生きる力だと思います。なりたい自分を欲望することが、よりよいものを手に入れるエネルギーに転じるのだと思います。くだらないJ-POPや自己啓発書で骨抜きにされる前に、まずは一回捨てることだと思います。そうすることで、見えるものがあるのだと思います。自分を安売りしたらあかんのです。市場価値なんてガン無視だ。相場なんて気にするな。人間は商品じゃない。作品だ。芸術と同じだ。

なりたい自分の姿にふさわしくないものへの執着を捨てればいい。欲望を捨てる必要はない。これが名言過ぎて神がかりだと思います!!本当にそうですね!!なりたい自分の姿にふさわしくないものへの執着は、劣等感や虚しさやイライラや不平不満を起こし、なりたい自分の姿にふさわしいものへの執着は、魂からの追い風がやる気や情熱として現れるのだと思います!!

神がかりと言えば、今日ひょんなことから、バッハは神に捧げるための音楽を作っていたのだと知りました。素敵なことだと思いました。自分を表現し、自分で表現し、それを神に捧げるというのをカッコいいと思いました。

わたしは個人的に、音楽や絵や文章などの作品を、天から降りてきたと表現するのはあまり好きではありません。もちろんインスピレーションを得た感覚をそう表現しているのだとは思いますが、だからこれは天や神や魂の創作であって、自分で創ったのではない、自分はただの媒体なのだ、というものがあまり好きではありません。天から降りてきたものだから自分の意匠は入っていないということを売りにしているものも好きではありません。それではその人はイタコのような役割を担っているということになってしまいます。ならば著作権は神さまにあるのかいと突っ込みたくなってしまいます。

インスピレーションを得ることって往々にしてありますが、それもまたその人を通してこそ発露したのだと思います。だから堂々と、これが自分の表現だと言っていいのだと思います。その勇気を持ち、その表現に責任を持てばいいのだと思います。わたしの性格が悪いのかもしれません。でも、本当に100%自分が関わっていないだなんてありえないし、そんなふうに自分を抜いた表現だと言う必要はどこにもないのだと思います。その人が作ったのに、その人自身の尊厳を抜き取ったら本人が可哀想だとも思います。

神や天や魂だけが純粋で素晴らしいのではないと思います。わたしはどんな作品だって、その人がいなくては作品にならなかったと思うし、その人の在りようが思いっきり反映されているのだと思います。もっと、人間を、自分を、尊重していいじゃないかと思ってしまうんです。だからわたしはやはり作者をリスペクトするし、その作品は作者と神さまのコラボレーションだと思います。圭吾さんはこのあたりを、どんなふうに感じますか。

欲望ってとても大切なもので、それは生命力だと思います。自分がなにを表したいのか。自分がなにを伝えたいのか。そこを見くびっちゃいけないし、安売りしちゃいけないし、自分が神さま以下だと考えてはいけないと思います。人ってすごいものだと思います。神さまが人間にコスプレして遊んでいるのだと思います。人間は神の欲望むき出しで創った傑作品だと思います。この世は神さまの純粋な好奇心と欲望でできていると思います。

わたしはある元週刊連載漫画家さんが大好きです。その人は二重人格者のユーチューバーさんです。男性の時と女性の時とがあり、どちらの人格のときにも動画を撮って、堂々と出されています。その人をある霊能者さんが観た時に、あなたの魂は非常に幅広い経験を求めていたので、それに応じてあなたは2つの人格を創り出してこの人生を経験しているようですよ。と言ったのを聴いて、あまりにもすごくて痛快で声が出ました。もちろんのこと、多重人格は病気として認知されており、社会の理解も薄いこともあり、他にもさまざまな理由でわたしたちには想像もつかないような苦労があることだろうと思います。でも、あえてその経験を創り出しているのだと考えてみると、見え方がまったく変わってきます。

まずはその苦労を超えられるほどに強い魂であることもすごいし、今世ではあえて別の人格を作り出して、ひとつの人格だけでは網羅できないことまで経験しているのだと仮に考えてみると、超ツワモノだと思いました。誤解を恐れずに書いてみると、超人的だし鬼カッコいいことだと思いました。わたしはひとつの人格しかないので、まだまだだぜ!!と思いました。病気も本当はただ悪いだけのものなのではなく、どんな状態にも無駄などなく、人は本当にそのまま、あるべき姿をしているのだと思いました。わたしたちには必要なものも直すべきことも何もかもが完璧に詰まっていて、ある意味で問題作であり、ある意味で完成形であり、本当に芸術品なのだと思います。その観点から見ると、この世の見方がひっくり返ってしまいますね!!

いつもそうなのですが、往復書簡を書いているとテンションが上り、体温も上がり、陽気に朗らかになります!!アウトプットもまた断捨離なり!!圭吾さんに向かうからこそ手離すことができるものを、送らせてくださりありがとうございます!!包容力に感謝感謝です!!日付変更線が日本をまたぐ直前までかかって書いてしまいましたので、唐突にここで切り上げてお送りしたいと思います!!ウウ、知り合ってくださり、やり取りしてくださり、本当にありがとうございます!!この夏の気温よりも暑い感謝と愛を込めて、この思いよ、花火より高く上がれ!!どっかーーん!!た~まや~!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)