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997/1096【往復書簡】好きな男を”可愛い”となど思ってやるもんか

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で997日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

997日目。残りは99日だ。今日になって、異様にドキドキしてきた。三年が経ってしまう。毎日書く日々が終わってしまう。残り10日などになってしまったら、わしゃ…わしゃどうしたらええんや…今はもうそれを想像しただけでガラスのハート(嘘)がパリィン!と割れてしまいそうだから、考えないようにしよう。ハァ、もしかしたら自分が想像していたよりもずっと、涙の卒業みたいになってしまうのかもしれないなァ…

今日までこの連日の執筆が結局サクッと1時間で書いて済ませる楽なタスク、みたいになることはなくて、朝起きてすぐにパソコンに向かって、終えるのは夕方になる日が多かった。途中で2時間を切って書けるようになった日々もあったのだけれど、それが続くわけではなかった。毎日のエネルギーをほとんどここにつぎ込んでなんとか渡ってきたら、こんなに日が経ってしまった。だから、これに伴ういかなるスキルについても、エキスパートになった感じがまったくしない。いつか転ばぬように走れるのかもしれないと思って走り始めたが、ずっと転び続けて、転ぶことに慣れてきたらゴールが近くなってしまった。

スマートななにかを期待していたのだけれど、転ぶことに悩まなくなった、ただそれだけという気がする。でも、それは自分のひどく軟弱だった安定力を鍛えてくれたのだと思う。やる気爆裂1000%の日と、ただの屍の日が交互にやってくるという不安定さが、自分の中から霧のようになって徐々に消えているのを感じる。

少なくとも、毎日毎日どなたかとハートの交流が起こせますようにと祈って書いて、その書いている間が無様でもいいじゃないか…
そんな自分でも納得の開き直りが得られただけで、よかった。

残りの日々を、だいじにして進みます。
読んでくださるかた、スキを押してくださるかた、本当にありがとう。
社交辞令ではなくて、まっっっっっっっっっじで本当に、ありがとう。
涙が出るくらい、ありがとう。ものっすごく感謝しています。

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※今日は秘行のコース開催日で執筆時間が短すぎるため、『誰も信じない話』の連日連載を一旦お休みして、思いの丈を脚色忖度なく一筆書きで全力投球する、『男と女の往復書簡』の自分のターンを執筆したいと思います!押忍!

圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さん、おはようございます!!わたしは今暑さの中でこれを書いています。今年のヴェネツィアは初夏の間ずっと寒かったのですが、ある日いきなり夏になりました。暑さというのは、嫌だと思うと非常に苦しくて不快で逃げ出したい感覚ですが、自分の身体にどんな感覚が起こっているのかを全身で感じてみようとして集中し、オラオラなんぼのもんじゃいという態度でこちらから迎えに行くと、まったく苦しくなどなくなるという不思議な感覚だと思います。暑いときに身体に集中すると、結果的に心頭滅却状態が起こって逆に涼しくなるという面白みが味わえるので、わたしは夏が好きです。(読者様へ※失敗すると熱中症などの危険もあるので、実験する際にはご自分の責任のもと、十分にご注意のうえ行ってください)

これは暑さだけのことではなくて、たとえば嫌味を言ってくるおばちゃん、などにも使える技だと思います。むしろどこまでこちらを追い詰められるのか、相手の最大の実力を引き出そうとしてオラオラと嫌味を迎えに行くと、おばちゃんは自分の嫌味の毒気に当たってしまいます。嫌味を言われたら、目をらんらんとさせて寄っていき、相手が嫌味を言えそうな材料をどんどん与えてみたりすると、おばちゃんは自分の実力がどこかで壁にぶち当たるのを感じます。そして、相手の目もしゅんとしないでらんらんとしているため、虚しくなってしまいます。結果、おばちゃんは自分で自分が嫌味人間であるということに気分が悪くなって、そこに自らバランスを取りたくなって、めちゃくちゃいいやつに反転したりします。人はみんなどこかいいやつなので、そこにお任せするとすごいミラクルが起こったりすると思います。暑さも結局どこか涼しさなので、そこにお任せするといいのだと思ったりしています。夏になると、毎年このことを思って楽しい気持ちになります!!

叫びたい時に叫び、駆け回りたい時に駆け回り、ちょっかいを出したい時にちょっかいを出して、逆立ちをしたい時に実際に(本当に実際に)初出勤のオフィスで逆立ちをしました。こんなことをしたら絶対にダメだよなとは思ったのですが、怒るなら怒れ、殴るなら殴れ、俺を白い目で見るのならば正々堂々俺はそのホワイトアイズを受け止めよう、と、そんな気持ちで自分を貫いたら、みなさまからも笑っていただけたばかりか、終日気持ち良く働くことができたのです!!

圭吾さんがお仕事を楽しめたという話題に、最高に胸が躍りました。すげえ!!すげえすげえすげえ!!嬉しいです!!よかったっす!!あたしゃ勝手に誇らしいです!!人っていいですね、社会っていいですね!!人間っていいなと思える体験のシェアには、めちゃくちゃ心が躍ります。

わたしは、お前の脳内お花畑と言われてもいいやと思いながら書いてみますと、組織というのは、例えば会社でいうと平社員さまたちが最前線で活躍する一番上の立場にあるものだと思うんです。そして、彼らが働きやすいような環境を作るために奔走する世話役の人がその部の部長さんで、その部長さんたちを含めその課が働きやすいような環境を作るために尽力する役の課長さんがいて、いちばん下のところには社長がいて、社長さんは全員が働きやすいように尽くすというものだったら素敵だなと思います。

だから、会社の雇用面接というものは、面接に来た人が自分の働きたい環境や自分の実力を出せる環境とはどういうものなのかを伝え、会社側は自分のところで働いてもらえるようにプレゼンをする、という場ではないのかと思ったりします。しかし、そんな考えで面接に行くと、通常は玉砕します。わたしは、君がどんな力を発揮して仕事をしたいかはどうでもいい。募集要項にどう書いてあろうとも、会社から求められることをなんでもしろと言われたことがあります。雇う側が仕事を与えてやり、雇われる側はその手足となるからこそ雇用が成り立つと考えているからだと思うのですが、これではここでは誰も楽しく働けないじゃないかと思いました。わたしは、社員の手足となるのが社長さんでなかったら、その組織にいる者みなが苦しい環境になりやすいのではないかと思ったりします。圭吾さんの体験談を読んで、圭吾さんの働きやすさを支えてくださった会社さんを素晴らしいと思いました。

自分はこうだ、という思い込みって、自分の行動をなによりも制限するものだと思います。わたしも、自分は3日以上同じことを続けられる人間だとは思ってもいませんでした。なので、血液型や性別と同じくらい不動のこととして、「自分は怠け者の三日坊主である」と思っていました。固く、固く信じてやまないことでした。でも、それがもしも気分が良いのならいいのですが、気分が良くなかったのでぶち破ってみようと思いました。毎日の投稿を始めた日から、始めたことを猛烈に後悔して死にそうでしたが、でも思い込みが固ければ固いほど、解けたときの「うおおおおおおおおこれすら思い込みだったのかよォオオオオ」「天変地異じゃ~~」「自分のことわかった気になったら絶対に嘘じゃねえかああああ」「知らずに死ななくてよかったぜええ!!」感が大きいものと思います。こうした自分の思い込みの解除ほど、人にとってエキサイティングなこともないと思います。だから気分の悪い思い込みは、わたしたちにとっての宝箱なのだと真剣に思っています!!

わたしはああでダメで、こうでダメで、と、自分にとって気分の悪い思い込みを話している人を見ると、その話を耳では聴いてはいるのですが、心の中ではこの人は隠された埋蔵金だらけなんだなあ、と思っています。たまたまそれを掘り当てる現場に遭遇したりすると、本当に感動的です。わたしもまだまだ自分の埋蔵金を掘り当てて「これも思い込みだったじゃないか、バーカバーカ」と自分に言いたいです!!自分の愚かさを知るときこそ、人生の最上の瞬間だと思います。陰キャの自分すら、パリピになる瞬間です!!

こういう言い方をすると怪しさマックスですが、あるとされている生と死の境目も実は曖昧なもので、生きていると思えば、実はすべてのものは生きているのだと思います。だから、おかしな言い方になりますが「死んだ人を殺すな」と思います。死んでしまった人ともやりとりをすることはできるのだから、その人はある意味においては死んでなんていないのだから、勝手にその人を殺して、勝手にその人とのコミュニケーションを諦めるのは、違うよなと思います。

わたしもこれと同じ感覚を持っており、ここを拝読してちょっとゾッとしました。今ちょうどこの感覚を伝えたくて物語を書いてみたりしているところでしたが、圭吾さんとも共通していたなんて驚きです。驚きですが、ああ、やっぱり!という感覚もありました。K様や圭吾さんとの共感が、とても嬉しいです。

死んでいるものと生きているものとの差というのを、わたしたちは誤った方向に、そして不必要に過大なものとしてイメージしているのだと思います。死はとてもとても荘厳な、そして聖なることだとは思うのですが、それがそのまま、生と死の境目を大きく見る材料にするのはちょっと違う気がいつもしています。死んだ人もわたしたちとともにあり、わたしたちはそこから少しも切り離されてなどいないと思います。ウィーアーザワールド、われらはひとつ!わたしたちは死後の世界のことをお空の上にあるのだと想像しがちですが、ある意味でそうとも言えて、しかし例えば月くらい離れたあたりの座標に死後の世界なるものがあったりするわけではなくて、こことは少しも別のところなどではなく、ここにピッタリと重なったこの場所の、通信可能な別のチャンネルのことだと思ったりしています。俺たちもある意味で、肉体のある幽霊(魂)ですね!!

俺が、俺が、と、自分だけの特異性を声高に主張するよりも、俺たち人間ってこういうところがあるよなとか、こういうのを見るとグッとこないではいられないとか、共通の何かに胸を震わせる方が、ずっと気分はいいものですね!!

はい!!もう、はい!!全自分を込めた敬礼と喜びを込めて、はい!!!!
ぬおお!!わたしは、俺が、俺が、こんなにお前らとは違うんです!!という主張には、鼻毛付きの緑色の鼻くそをつければいいと思っています。そんなことをして、お前自身に備わっているあらゆる特徴を侮辱するな!!そんな主張が必要だと思ってしまうほど、自分自身をナメなくていいじゃないか!!と思ってしまいますし、そんな話はすっげえつまらないです。それよりも、共通のなにかについて分かち合うときの面白さや喜びが好きです。誰かが辛いという時は、それが辛いのは変じゃないと言うほうを、誰かが悲しいというときにも、それが悲しいのは変じゃないと言うほうを選びたいといつも思います。俺ら地球人、めっちゃ似てるよな、ひとりだけ完全に違う人なんてどこにもいないよな!!という発見をいろいろして、それを伝え喜びあえたらいいなと思います。そのことを思うと、地球には人がたくさんいて良かったなと思います。うおりゃあ~!

蝶も、猫も、もちろん好きです。大好きです。だけど、同じようにカナブンも好きです。蟻も好きです。蜘蛛も可愛いと思います。蝶や猫だけを可愛いと思う世界線で生きるのもまったく問題はないと思うのですが、結構多くの人から嫌われているものも可愛いと思える視座が自分にあるということを、私は結構気に入っています。

これとても良くわかる気がいたします!わたしも蜘蛛なども可愛いと思います。そしてこういう変なものを可愛いと思う自分を、なかなかに気に入っています。これを、もっといろんなものに向けてみようと思ってチャレンジしてしまう自分がいます。怖い、キモい、憎い、醜い、などと思ったものを可愛いと思えるか世界大会(仮)みたいなものを頭の中で開催し、自分は日本代表選手としてその大会(仮)に出場しているという設定でチャレンジするということをしてしまうのです。そしてこれまでその大会(仮)に出場してきてわかったのは、怖い、キモい、憎い、醜い、と思っているものたちというのは意外と簡単に「可愛い」のほうにひっくり返せるということです。ひっくり返し方のコツはもうとてもシンプルで、生きているものに関しては、命だと思うこと、それだけです。生きている。生まれちゃったので、そのまま素直に生きちゃっている。可愛すぎる…!また、生きていないものであれば、在る、と思うとかわいいです。在って、それをやっちゃっている。鉛筆は、全力で鉛筆中なのだと思うと、やはりものすごく可愛いです。可愛いと思うのに、他に理由はいりません。それがそれであるだけで、基本なんでも可愛いです。子どものころに、故・川谷拓三氏を可愛いと思ったときに、自分のこの実力に気が付きました。

ただ自分が発見したもので「可愛い」と思うのが最も難しいものというのは、「最高にエロいと思って視ているときの対象人物」でした。ちょっとでもそこにエロさ以外の観点が混入すると、その途端にその人物のことも可愛いと感じられるのですが、エロ視が極点に達しているときというのは、可愛らしくは見えず、ただエロいです。ぬああああああエロい!!と思っているまさにそのときに、同時に「可愛い」と思うということができず、これらが両立したことがありません。これはわたしだけの感覚かもしれませんが、このことからわたしは、自分の中で可愛いと思う感覚をもつために使う脳の部位と、エロスを感じるために使う脳の部位は、完全に違っているのだと思うようになりました。なんというか、どこかそれは、鶏を可愛いと感じるのと、鶏肉を食べて美味しいと感じるのとが、まったく別々の働きによるものなのだろうと感じるのと似ています。可愛い、のほうがより高度な働きだという感じがします。だからきっとわたしは、めちゃくちゃ男としてしか視ていない男性には、あんたのことなんか全然可愛いと思わねえ(エロすぎて)、と言ってしまうような気がします。

停滞感や閉塞感のある時代などと言われておりますが、女性が怒りを解放して「おいこら世界の野郎ども!お前らがしっかりしないから世界は微妙なことになっちまったじゃねえか!どう責任とってくれるんだい!あんたも男に生まれたのなら、男を見せてみやがれコンチクショー」くらいの感じで男をけしかけてくださったらば、油断をしていた男たちもあわてて一斉に動き出すのではなかろうか、などと思うことがあります。

だもんで、上に書いたとおり、女子が遠慮なく男子に頼れる世界になるには、わたしも女は男をあんまり「可哀想視、可愛い視」しないことではないかという極端な考えを持っています。女子は男子のことをエロ視していればいいと思っています。男子の可愛らしさなんかどうでもよくて、お腹の出たおじさんだろうと禿げたおじさんだろうと、気に入った相手に男子の色気を発見できる女をイイ女だと、可愛がるのではなくてその色気をもっと見たいと思う女を、成熟した女だと思います。そして、汗をかいたり、独りでいたり、外で色んな経験をして色っぽくいてくれる男を、家で可愛がってもらおうとする男よりも成熟していると思います。わたしは「男性のことを可愛いと思いたい」と思っていません。生物であるだけでカナブンと同じくらいクッソ可愛いのだから、それより少しも可愛くなくていいです。男子に対して、なにかあったら「てめえなんか死ねバカヤロー!」と思えるくらい、可愛くなんてあってくれなくて、いいと思っています!!

と、ここまで湧いてくる思いを書きなぐっていたら、こんなに長くなってしまいました。今日もこれでも自分は、女性としてこの『男と女の往復書簡』を書いたつもりなのですが、自分が女性全開で書くことができるのは、圭吾さんが全然可愛らしくなくて、あくまでもいつも、男子でいてくれるからだと思います!!ありがとうございます!!個人的なウザい押しつけでしか無いのですが、どうか、いつまでも可愛らしくならずにいてください!!わたしも圭吾さんのことを一生涯絶対に、「可愛らしいわね」なんて思わねえでいようと思います!!よろしゃーーす!!(怒声)


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)