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【質問回答】嫌いな姑と一緒にいると苦しい。壇珠さんならどうする?

肉体をもって活動中の霊のみなさん、こんにちは。

地球人ライフをいかがお過ごしですか。わたしは今日も、地球にいるこの稀有なときを心から愛してやまない毎日を送っております。見える、嗅げる、触れる、歩ける、いや~~なんと貴重なことでしょう。そしてこの天体が好きすぎるぞ本当にもう!あの世にいるのとは、大違いなんだもの。

久々のブログ投稿となりました。なんと今日まで2ヶ月間もお休みしてしまいました。三年間休みのない日々にあったため、この大型連休の気楽さときたら、そら~もうすごいものがありました。とにかく一旦気が抜けてポカーンとしてしまい、「俺ァ何者でもない、タダの抜け殻だァ~ん」というグデングデンの人になっておりました。

でも考えてもみたら、三年投稿をしていた間だって自由時間の日々だったし、それは3年投稿の前からずっとそうだったし、この先死ぬまで続いているとも言えるし、なんなら自分が死んでからもずっと続いているのだとも言えますね。仕事をしていてもなにをしていても、われらはずっと、永久連休自由時間中です。

さて相変わらずのことを書いてしまいましたが、毎日投稿が終わってしまったらば、それまでに自分が持っていた予測や期待などの思いが、スポッと抜けてしまったのです。それにより、『誰も信じない話』の続きを書いたり、質問箱の質問にお答えしたりなどのことがすぐに取りかかれずにおりました。やるやる詐欺になってしまっているのがなんとも悩ましく、待ってくださっているみなさんに申し訳なく思っております。ほんとにごめんなさい。

さてそんなわけで、今日は質問箱のご質問にお答えしようと思います。毎日投稿でもたくさん回答していたのですが、回答数よりもいただくご質問の数のほうが多くて、常に100件ほど溜まっている状態です。すみませぬ。早急に全部にお答えするのは、だいぶミッション・インポッシブルな感じです。。。

本日はこちらのご質問にお答えしたいと思います。

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最近はご質問にお答えするときに、そんなこと言ったら身も蓋もないじゃないの!と怒られちゃいそうな回答ばかりが思いついてしまうのですが、なんとか少しでも現実的にお答えしようと努力しております。

このご質問について、ひとつ考えてみたいのが、『なにをもってこの状況を”乗り越えた”と言えるのか』ということです。

好きではないお姑さんのことを好きになれば、乗り越えたことになるでしょうか。あるいは、嫌いなお姑さんを自分の望むような性格にできれば、乗り越えたことになるでしょうか。互いに仲良くなれれば、相手から好かれれば、気に入らないと感じる部分がなくなれば、嫌いな点を許せるようになれば、”乗り越えた”と言えるのでしょうか。

わたしであれば、一緒にいて苦しいと感じる人との関係を「乗り越えよう」とは考えません。嫌いだ、苦しい、と感じるのは仕方がない、と考えます。それは、上の『”乗り越える”というのはなにを指すのか』という疑問への答えがわからないからです。どうしてかというと、他者や他者と自分との関係を、こちらの思い通りに変えることはできないと思うからです。

なのでわたしは、質問者さまのような気持ちになったとしたら「乗り越えようとしなくていいし、乗り越えられなくていい」と考えます。そして、その気楽さを胸いっぱいに感じて、存分に味わってみます。それから「地球人だもの。嫌いな人くらいいるものなのよ」と考えてみます。その考えにくつろぎながら、ついでに口笛を吹いてみちゃったりします。なんならそこでさらに「誰かを嫌に思う経験なんかしちゃって!アタシ立派に地球人やってんじゃないの」などと思ってみます。こうしてまずは自分なりに、楽しく図々しく気楽に、発想の転換をしながらこの状況を見てみます。

そして、それを前提にしながらも、けれどもやっぱりその相手を通して愛に殉じようともがいてみたり、見方を変えてみようと模索してみたり、うまくいかなくてグルグルしてみたりと、自分なりの葛藤もします。未熟な自分のそんな喜怒哀楽のプロセスに、しゃーないからぜんぶ付き合ってあげます。

あたふた・ドキドキ・ムカムカ・ガックリなどしながら、こうした地球人ならでは人間体験を、「あの世に帰ったら自慢しよう」と考えると思います。

もしも誰かが自分に対して「あなたの思うこと、いいじゃないか!おかしくなんかあるもんか!どんな思いも一緒に味わおう!全部自慢の経験だよ!」と言ってくれたら、それはもう無償の愛だと思いませんか。わたしは自分に対してこんなふうに思ってあげるとき、自分が自分に「あるがままでいいよ」と言っているように感じます。

ところで、わたしのお姑さんもそれはそれは立派な主婦の鑑です。家の中はいつも、ホテルの部屋のように片付いています。下着にもシーツにもタオルにもピシーっとアイロンをかけています。ホームパーティーを頻繁に開いて、素晴らしき手料理を振る舞います。庭の手入れをし、家計を節約し、無駄使いをせず、物を大切にし、孫の世話をし、近所付き合いと親戚付き合いを決して忘れず、季節の食材と季節の行事を忘れず、雨ニモマケズ風ニモマケズ、いつでも家のために動いています。なにかをサボる姿を、一度たりとも見たことがありません。なんと言いますか、スーパーサイヤ主婦です。

義母の主婦力を53万としたとき、わたしの主婦力は6程度です。そしてわたしはもう、自分の主婦力が6であることをそのままさらしています。ダメっぷりを白日の下にさらしているため、義母からももちろんまったく過不足なくそのまま、”主婦力6程度”と見られています。

しかし、問題はないのです。それはまさしく事実であるため、そこにはなんの誤解もなく、わたしが自分をよく見せようとするための偽りもなく、ただ気楽な風が吹いているのです。あるがままの自分ッス。

もちろんこれは単にわたしにとってナチュラルなあり方だというだけなのです。わたしは余計なものをみんな取っ払ってみると、「義母からよく出来た嫁だと認められること」よりも「自分が無理をせずに気楽にいられること」のほうを望んでいると感じられるので、そうしています。義母を疎ましく思うこともなく、穏やかな関係を築いています。わたしの中で調和があると、外側にも不調和は起こらないのですね。

人ってなにかを無理していると、疲れちゃいますよね。あなたが苦しい関係を「乗り越える」ためにどこか自分に強いている考えがあるのだとしたら、やっぱり疲れてイライラして、憂鬱になってきてしまいます。自分との調和がないからです。関係を変化させることが、あなたの自然な好奇心とともに取り組んでいるチャレンジでないのだとしたら、まずは「自分はどうありたいのか」というところからグルッと考え直してみてはいかがでしょうか。

究極を言えば、お姑さんがどう在ろうとも、お姑さんとの関係性がどうであろうとも、それは根本的な原因ではないのですね。外側がどうであろうとも、それとは関係なく「あなたが幸せであること。この唯一のことだけが、あなたが幸せでいるために必要なこと」なのです。

仮にそんなふうに考えてみると、どうでしょうか。今の状況をどんなふうに解釈して、どう扱ってみると、あなた自身が快適でいられるでしょうか。

たとえば、『結局はきちんとしているお姑さんが正しくて、言われたようにできない自分が良くないのだ』と解釈するのをやめて、「姑さんは姑さんの好きな気持ちで生きている。わたしもわたしの好きな気持ちでいよう!」と、キッパリと割り切ってしまうのもいい。「今日もお姑さんは良妻賢母のアイデアをわたしに伝えることで好きな在り方をしているのね。わたしも自分が気分良くいられるように過ごしましょう」というように。

あるいは、「お義母さん聞いておくんなせぇ。あたしゃねえ、こう見えてお義母さんのことはそこそこ好きなんだよ。でもお義母さんとは違って出来ない嫁なんでさァ。だからね、あれもこれもって期待しないでおくんなせぇ。わかるかい」と思い切って言ってみたっていい。(言葉遣いは変えてくださいw)

あるいは、あなたの『嫌いだけれど、大切にしたい。だから苦しい』という考えを当然と思わずに、『嫌いなままでいいし、嫌いなままで大切にしてもいいのではないか』というように、苦悩の軸をひっくり返して考えてみるのも手です。当然だと思いこんでいる部分を、疑ってみるのですね。

嫌いもOK。大切にしてみたいもOK。ムカつくもOK。葛藤もOK。全部同時に混在していてOK。どの感覚もそのままあってよいとしよう。さて、ならばわたしはどうしてみたいのだろう?わたしはどう在りたいのだろう?と思ってみる。自分の感覚と戦わずに、それとは別に本当のコアの望みを考えてみると、ひっくり返るところが出てくるかもしれません。

あなたはこの問題について、どんなゴールがほしいのでしょう。相手を変えることはできないのだとしたら、あなた自身はどう在りたいのでしょう。そこを尊重するのが何より大切なことなのだと思います。

自分が瞬間ごとに変化することを許しながら、その時その時の本音を見つけて、それがどんなものだとしても、自分に優しく、いたわってあげてね。

さて、今日はここまで。
また次の記事までごきげんよう!


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