見出し画像

1033/1096【往復書簡】つまらない地球人なんていないんだぜ

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1033日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1033日目。ここに毎日書くようになって1033日が過ぎた。今日思うのは、なにをしていても、これで終わり、これで達した、ということはないのだということ。1000日でやめたら、2000日続けた世界を見ることはできない。2000日続けたら、1000日でやめたあとの世界を見ることはできない。わたしたちは、常に選択している。

なにをしても、選択。なにかを始めるのも、続けるのも選択。始めない、手を出さない、やめておくなどの一見変化を起こさないように見える選択も、実は「その日その時にそれをすることを選んだ世界を永遠に見ない」という、大きな決断だ。

1096日を書ききって終えることは、なにかの終着点なのではなくて、それ以外の無限の選択肢を排除する決定のひとつにすぎない。そこで終わるから選ぶのではなくて、やりきったら褒めてもらえそうだから選ぶのではなくて、自分にとって他のどの選択肢よりも魅力的に見えるから選ぶ、というのがいい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さん、おはようございます!!さまざまな場所を訪れて国中を飛び回ってどんどんリアルな体験を重ねている圭吾さんとは対象的に、わたしはいつも家にいてひたすら書いて書いて仕事をしてばかりいます。家から一歩も出ない日々が長く、自分の寝室とキッチンとトイレしか見ない日がほとんどです。イタリアはロックダウンが長かったり、規制も厳しかったのもあって、その期間に牢獄に閉じ込められているような暮らしに馴染んだのもありますが、まさに缶詰の中の毎日です。

しかしわたしは意外にも、それによってあまり影響を受けることがありませんでした。もともと引きこもるのが好きなところもあってか、まったく無問題です。この1年半ほどの缶詰生活で、人の心はどこまでも自由なのだと改めて思いました。毎日同じ部屋にいても、その日その日を同じような日にしてしまうかどうかは自分次第なのだということを思います。わたしたちは同じ場所にいながら、自分の身体をどこにでも連れて行くことのできる乗り物を持っているのだと思います。脳のシートに乗って出る旅は、どんな場所にも、壮大なファンタジーの世界にすらも行くことができるのが魅力です。どこでもドアもタケコプターもわたしたちに備わっているのだと思います。脳は4次元ポケットで、われわれはみなドラえもんなのだと思います。

コロナ禍は、怒りと疑いを増幅させた人と、感謝と喜びを増幅させた人との差を表に広げてみせたと感じます。世界を恨み、人間を疑い、社会を憎悪する人と、どこまでも崩れない幸福に気がつく人とがいます。わたしにはそれが、ひとりひとりの人の自身への思いが、そのまま鏡のように現れたように見えます。己への不信感、己への憎悪、己への悔恨の情は、日常の安定でできている仮面が崩れたときに、容易に外に流れ出るものだと思いました。また、己への感謝、己への信頼も同じだと思います。こんなことを言ったらヘイトコメントをもらうかも知れませんが、わたしは今の、今日の、この瞬間の世界を最高だと思います。そりゃあここは切ないことで埋め尽くされた苦の世界だと言えるとも思いますが、拳を握っちまうくらいに良いところだと、涙が出ちまうほどに愛しい場所だと感じます。それに尽きます。

わたしは夜の寝床の枕カバーに、スマホをいじる一本一本の指に、汗で張り付く髪の毛の一本一本に、夢と希望と幸福の種が詰まっているのだと思います。そこに、その瞬間の感覚に、その人のすべての可能性が詰まっているのだと思います。足の裏の感覚に、脳の判断する遠近感に、鈴虫の音色を聴く耳に、ひとりひとりの人の、やったぜ、最高だぜ、馬鹿かよ幸福かよ、奇跡じゃねえか、なんでもやってやるぜ、もう嬉しければなんでもいいぜ、嬉しいのが自分でもあなたでもいいぜ、生きていてよかったぜ、生まれてよかったぜという、金色の喜びが完璧に詰まっているのだと思います。

だから、部屋から出ない日々も金色です。でも、もうちょっと規制が緩んだら、また飛行機に乗って飛び回って、リアルな体験で遊びたいです。早くまた道端でヤンキー座りで語り合いやしょう!!世界そのものを小学生時代のプロレス友達に見立てて、お前のここがうざいぜ、こんなのおかしいぜ、ムカつくぜ間違ってるぜ、胸糞悪いぜ、ぶっ飛んでいこうぜと悪態をついてじゃれて遊びやしょう!!リアルな喜びもまた、ぴかぴかの金色ですね!!

顔面にパンチを喰らったら、どれだけ強い選手でも一時的には全身が緊張します。しかし、強い選手ほど、瞬時にリラックスをした状態に戻ってくるのだそうです。逆に、弱い選手とは、ダメージを引き摺ってしまって本領を発揮できなくなる選手だと聞きました。この話を聞いた時、僭越ながら「俺だ」と思いました。手前味噌ではありますが、私は切り替え力だけで生きてきた感覚があります。それはそれ。これはこれ。熱海の家が土石流で大変なことになろうが、過去。意識を切り替えて「俺には今日しかねえんだ」と前を向くと、何かしらチャンス的なものが舞い込んできます。俯いてばかりいると、チャンス的なものを見落とします。格闘技の話が好きなのは、彼らが全力で『今』を戦っているからです。リングの上では、過去も未来もありません。その潔さ、清々しさが好きなのだと思います。

ぬおお!!わたしもこの部分を読みながら、圭吾さんと同じように、僭越ながら自分もそうだと思いました。わたしは自分の身になにか極端なことが起こったときに、すぐに水に流せる自分に「薄情なのだろうか」「異常なのだろうか」「忘れっぽすぎるのだろうか」と思ってきました。なにかが起こったときに、そのことに対して思いっきり情動を煽られて動揺しまくる自分がいるのと同時に、それをなんでも無いことのように即座に適応し無反応な自分がいるのを感じます。これはわたしだけなのではなくて、万人がそうなのだと思います。ただ、その即座に適応しているほうの、いわば無執着なほうの自分を、感情に負けて拾えないでいるだけなのだと思います。拾ってはいけないような気すらする人が、ほとんどなのではないかと思うのです。

ある程度のまとまったお金を一瞬で失ったり、実家がなくなったり、ホームレスが決定したり、頑張ってやってきた事業がスカッと失われたりしたときに、大変なことになっちまった!!なんとか少し前に戻れないか!!誰かタイムマシンを作ってくれ!!と思う自分がいるのに、それでも呼吸をして、話したり歩いたりできる自分がいる。その状況をまるまる受け入れて、発狂もしていない自分に、自分で驚いたのを覚えています。きっとみんなこんな体験があるものだろうと思いますが、わたしはその、動揺する方も執着のない方も、どちらもあるのが人間なのだと思います。ぎゃーぎゃー言いながらも、生きられてしまう。どんなに心が悲鳴を上げていても、身体は次の呼吸をするし、なんなら腹まで空かせます。心がついていかないような嘘みたいな状況にありながら、身体は前を向くことを知っています。心のぎゃあぎゃあを好きに泳がせつつも、その無執着な身体のほうの感覚に自分の軸を持ってくると、今に戻ってきてリラックスさえします。いつもいつも自分の心のままに命令をして動かして隷属させている分、こちらも身体の言うことを聴いて、そっちの誘いに乗ってしまうほうがいいのだと思ったりします。

壇珠さんの影響を受け、最近、ようやく漫画鬼滅の刃を読み始めました(現在は七巻の途中です!!)。鬼滅の刃にも呼吸というワードが大量に出てきますが、鍼灸師の男性も「強い奴は呼吸が違う。筋トレより呼吸を意識した方が絶対強くなる。呼吸が浅くなるから腹筋はNG」と断言していました。ピアニストである友人も「ピアノは呼吸が全部。最初の一音を出す前の呼吸で全部が決まる」と断言していましたし、沖縄のミスコンで優勝をした女性も「これまではジムを三箇所掛け持ちしていたが、全部辞めて整体師の先生と一緒に呼吸に集中をしたら勝った」と断言していました。マジで呼吸は大事なんだなと最近思っていたのですが、ここでも出てきました。呼吸。うまい表現が見つからないのですが、気随身体術を通じて「自分は自分でありながら、自分を動かすための道具でしかない」という感覚を得ました。自分を動かすために、体が勝手に最善の働きをしている感覚でした。これはとても興味深い遊びですね!!日常に織り交ぜつつ、男のワンネスを深めます!!

鬼滅の刃を読みはじめてくださり、ありがとうございます!!最敬礼をもってして、ありがとうございます!!!われ感激なり!!最終回を知ったあとの圭吾さんと話しをしてみたすぎます!!きっと嬉しすぎて失禁します!!

ここに書くのもおかしなことではありますが、わたくし壇珠めからの一生のお願いです。どうか鬼滅の刃の、アニメと映画を鑑賞してはいただけないでしょうか。アニメの1話から映画の無限列車編までが、ちょうど漫画の7巻辺りまでのお話なのですが、その映像がとてつもないことになっているのです!!それと交換に、圭吾さんからもなにかリクエストがあらば、わたくしめも全力でそれにお応えいたします!!どんなリクエストでも構いませんので、遠慮なくどうぞ!なにとぞお願いいたします!!(額を畳につけながら

ところで、「自分は自分でありながら、自分を動かすための道具でしかない」「体が勝手に最善の働きをしている」という記述に度肝を抜かれました。圭吾さんが、気随身体術の極意にいきなり迫ってしまって驚愕しました。恐ろしや…!!このように、なんのルールもマニュアルもないものを預けると、大抵の人は「やりかたがわからない」「正解がわからない」と言います。あるいは「自分がどう動きたいのかがわからない」「なぜか動けない」と言います。こういうところに、その人の普段の自由度が現れるように思います。日頃から無難に、正解を求めて、正しく、批判されないように、自分のオリジナリティを恥ずかしいとか大したことがないと否定して生きている人は、いきなり好きなように動けと言われてもぴくりとも動くことができません。けれども、日頃から自分を敬ったり自分自身を楽しんで生きている人は、どんどん好き勝手に動いてみることができます。正直、こ、これが坂爪圭吾なのか…!!と思いました。いやはやあっぱれです。すごいス!!

女が男に尽くすのはダメです。逆です。男が女に尽くすべきです。それでいい塩梅だと思います。男が女を襲うのはダメです。しかし、女が男を襲うのは超アリです。どんどん襲えと思います。以前、壇珠さんが「女は出せ。男は出すな」と書かれていましたが、本当にそれだと思います。現在、日本は、ダダ漏れの男性が多いと思います。自分が気持ち良くなることばかりを考えているマザコンファッ○ン野郎が多く、イヤです。俺は男に惚れたいのです。カラオケに行ったらマイクを話さないで歌い続ける男は最悪です。それを盛り上げる女もダメです。男を調子に乗らせたらダメです。それはあげまんとは言いません。真のあげまんは、男をいい男にします。逆もまた然り。真の男は、女をいい女にします。ここに循環が生まれると思います。問題の9割は、自分がいい男(いい女)になることで解決をします。いつまでもウジウジしているのは、男女共にダメです。いい男(いい女)を獲りに行くマインドが大事だと思います。

OH…!!これは本当に、据え膳食わぬは男の恥、の世界ですね!!わたしもそう思います!!わたしは究極を言ったら、女が男を騙してもいいとすら思います。もちろん詐欺を働くという意味ではなく、女は男をけしかけて、あんたはもっと実力あるぜもっとすげえぜと騙して、どんどん力を発揮してもらえばいいと思います。すると男は本当にすごくなってしまうので、いい事だらけだと思います。けれども、男が女を騙すのは許されないことだと思います。俺はすごいんだぜとか君は素敵だとか嘘を言って女をけしかけて頑張らせ、それで自分だけが得をしてはいけないのだと思います。すると男は本当にだめになってしまうので、なにもいいことがないのだと思います。

男は馬車に喩えられると思います。女を御手にして走るとすごい力を出しますが、女に走ってもらったり、御手を無視して暴走しても、結局は自分の力ではなにも運ぶことができなかったことに孤独を覚え、自滅してしまうものと思います。男は外に目的地が欲しい。女は自分が目的地であってほしい。超シンプルに言ってみると、男は「いくぜ!!」で、女は「こいや!!」なのだと思います。ここは生物学的な違いだと言えるほど、決定的に違っているものなのだと思います。身体の形に準ずるのでしょうね。男と女はこんなにも凸と凹で、ばらばらで、だからこそ高め合えるのだと思います。

だから、言っちゃなんだけれども、よくラブソングで歌われる「君にいつもそばにいて欲しい」ってやつが嫌いです。吹雪のように寒いです。そばにいる、をあまり美化しないほうがいいような気がします。それはろくでもない洗脳なのではないかと思います。それを信じ込むと、そばにいてくれることが愛で、そばにいてくれないことは愛ではないという基準が生まれてしまいますが、そんなのは嘘っぱちです。ラブソングに騙されてはいけない。寂しいからといって、恋でそれを埋めてはならない。馬車を使うときに、馬と御手とが一緒に座席に座って見つめ合っていてもどこにも行けません。

見つめ合っていても、一緒にくっついていても、人類はあまりクリエイティブではいられないのだと思います。世界に今も点在する部族の多くが、女性は女性たちと一緒にいて、男性は男性たちと共に狩りに行くスタイルで暮らしていますが、あれには一種の合理性があるものと思います。男と女のつがいが、他と離れて二人きりでそんなにずっと見つめ合っていなくていいのだと思います。それが愛だというのはなにか現代社会に蔓延した壮大な勘違いだという気がしますが、圭吾さんはこのあたりをどう思いますか。

わたしはその観点から、男女を完全に平等に扱おうとするのは愚かしいことなのだと思います。男と女は、まったく役割が違うと思っています。だからどうしても、尊重されるべきところが違うと思うのです。もちろん自ら望んで異性のようにありたいと願う人はそれが尊重されればいいと思いますが、女が男のようになることで、あるいは男が女のようになることで達成される平等観など、クソくらえの蛇足だと思います。ひゃー怖い…!こんなこと言って大丈夫かしら。でも、真に平等を考えるのであれば、男女が必要とする社会からのサポートは、それぞれにまったく違うものなのだろうと思います。女に目的地を強要する厳しさや、男に目的地を失わせる余計な過保護につながるあらゆる作戦が、無駄なのだと思います。

金だけでは得られないものがあります。それが知恵です。知恵とは生きる力そのものです。食えるキノコの識別能力や、素手で魚を獲る能力、その辺にあるものでシェルターを作る力は生きる力に直結します。金には常に「失う恐怖」が付き纏いますが、知恵は永遠に奪われません。そして何より、知恵は楽しい。手掴みで魚を獲れた瞬間の歓喜は原始的で、最高です。

そのとおりですね!!わたしは、人間のカンというものをバカにしてはならないと思います。現代人は、そのカンを磨くことをしなくなっているのだと思います。カンを磨くのが怖いから、証拠を、データを、分析を必要とするのだとすら思います。それらの機械的な視点が絶対的に必要なシーンもたくさんありますが、そうでないところにまでそれを持ち込むと、人の凄さが埋もれて見えなくなってしまうと思うのです。野生のカンのきかない人は、鼻のきかない犬と同じです。なにをするにも自分で判断がつかなくなって、不安で動けなくなります。そういう人はいつも何を決めるにも保証が欲しくなり、怖がりになってきます。

わたしは数年前、飼い主がいらなくなったと言って掲示板に出していた黒猫を引き取って、飼っていました。この猫はおでこに少し腫れていた箇所があり、あるとき自分でそれを破ったのか、中から膿が出てきていました。獣医に連れていきましたが、なんとただ雑に縫い合わせただけで数万円を要求されました。わたしは猫が可哀想で、その縫合を見て泣きました。結局そのまま化膿は止まらず、縫った糸も猫が外してしまって、もともとよりも悪くなってしまいました。それならと別の獣医に連れていきましたが、もうここまで化膿が広がって皮膚が失くなってしまうと、治せないと言われました。

けれどもわたしのカンがなぜか、その傷は治ると言っていました。それがどうしても警告のようにビンビンに感じられて無視できなかったので、わたしは自分で猫の手術をすることにしました。眉毛用の小さくて切れ味の良いハサミを焼いて消毒し、壊死した皮膚を少しずつ切って取り去りました。猫は痛がる様子もなく、おとなしく横になっていました。綿棒やティッシュをこよりにしたものを消毒剤で消毒し、それで奥に溜まった膿も少しずつかき出して、軟膏の傷の消毒を塗って保護をしました。ほぼ毎日のようにそれを繰り返して看病し続けたところ、一週間ほどで傷はふさがり、やがて乾いて、完治しました。猫はそれまで傷の苦しみで横になってばかりいましたが、走って遊ぶようになりました。人間のカンってすごいんだなと思いました。

理屈で通らないことや、科学で通らないことを信じるには、勇気がいります。勇気がいるのは、普段そこにばかり頼っているからです。でも地球人というのは、現代にまかり通っている人間社会の常識や、現段階での最新科学の分析を遥かに超えた、ぶっ飛んだすごい能力を持った生物なのだと思います。スピッツの言うとおり、空だって飛べるのだと思います。科学はわたしたちの大切な武器のひとつですが、決して人間をそれ以下だと思ってはならないように思います。人間が科学を超えたものだからこそ、科学を生み出すことができたのだと思います。自分たちがその生物であることをエキサイティングなことだと思います!!やったな俺たち!!今その生物なんだぜ!!

私は思います。世の中が便利になるほど人類は退屈をするのだと。別に自分が本気を出さなくても生きていける。その便利さが、本当は自分の本気を知りたい私たちを耐えざる欲求不満の地獄に陥らせているのだと。死にたがる奴がいたら無人島に流刑をすればいいのだと思います。そうすれば、彼らは必死で生き始めると思います。漂着したロープを使って首吊り縄を作るのではなく、その縄を使って絶対魚を仕留めに向かうと思います。生きる方向に舵を取るのが生命だと思います。私は、なぜかそこに対する信頼があります。命は生きたがっている。命は燃えたがっている。大事なことは生温い優しさではなく、自分を正しい場所に置くことなのだと。こんな場所に置かれたら自分の本領を発揮しないではいられないと燃え立つほどに、自分が本気を出せる舞台を誰もが求めていると言うことを、本能が察知をしています。

生きるのがつらいと言う人がいたら、私は「つらいんじゃなくて、それはつまらないだけだろ」と言いたい。生きていれば確かに辛く苦しく悲しい出来事にも遭遇します。二度と立ち直れないと思えるほどのダメージを受けることも、一度や二度ではありません。しかし、私たちが生きることができるのは残酷なまでに『今』だけであり、いつまでも過去の出来事を味のないガムのように噛み続けていても、誰も幸せになりません。人類に贈れる最大のエールは、自分の命を思い切り生きることであります。

ぐはあ…!!(吐血)名文。この名文の威力よ…!!自分の本気を知りたいというのは、わたしたちの本能のようなものですね。これを読んで、人がなぜ生きることがつまらなくなってしまうのかということを考えてみました。

とても冷たいことを言っているみたいに見えてしまうかもしれませんが、結局のところ、つまらないのは100%その人のせいだと思います。わたしにとってこれは、冷たいどころかこれ以上ないほど温かくて最高のことです。なにが最高かというと、あくまでも外部のせいではないので、自分次第でつまらない状況を脱することができるということです。それがいつも100%保証されているのが、嬉しいところだと思います。つまらないのかつまらなくないのかを決定づける力が、己の手中に握られているのが嬉しいです。

つまらないのはシンプルに「自分で決めていないから」だと思います。絵を描いて面白いのは、自分で決めて描くときだけです。好きなものを描くからではなく、好きなものだろうと嫌いなものだろうと、自分で決めて書くときです。他人の描いたものをトレースしてばかりいても面白くなんかない。もとい、トレースすることを自分で決めてやったのなら面白いですが、やりたくもないのにやらされたら、つまらないだけです。たとえ好きなものを描くのだって、他人がやれと言うのに従ってやったら、つまらないものです。

「つまらなさ」の原因は、ここに尽きるのではないでしょうか。自分で決めていないからつまらない。決める勇気がないからつまらない。決める権限を自分に与えないからつまらない。自分よりも、他の人を信じるから。自分の存在を、世界に比べたらちっぽけだと信じ込んでいるから。自分の決定を批判され、見下され、怒られ、低評価される恐怖に負けているから。自分が納得したときの喜びの威力をナメているから。褒められたり、難を避けることを優先しているから。わたしたちが、得ばかりしたくて、がめつくてずるいからです。小賢しく小器用だからつまらない。言葉が悪いですが、そいつがつまんねえやつだから、そいつ自身もつまらないと感じるのだと思います。

でも朗報なのは、それは自分次第でいくらでも自在に変えられるということだと思います。つまらないやつなんて本当はどこにもいない。地球人は、全員面白いです。わたしはここに根拠のない自信があります。完全につまらない地球人というのは、存在し得ないと思います。地球人である以上、絶対に面白いのです。自分はつまらないやつだとか、あの人はつまらないやつだとか思う人は、自分や誰かに面白さを見いだせていないだけなのだと思います。これほどすごい生物を捕まえて「つまらない」と言うだなんて、その時点で君こそ判断基準がぶっ飛んでいて逆に面白いわと思ってしまいます。

自信を持てと言いたい。なぜですかと言われたら、だってお前地球人じゃんと言いたい。自信の源は、地球人であること。これで十分ではないかと思います。それ以上のものを求めるから、つまらなくなってしまうと思います。

われらはこの水と光のある青い星に生まれることを許された、これだけ超高性能の脳をもって生きられる、すげえ意識体だと思います。さらにはひとりひとり違っていて、全員がオリジナルな、過去の宇宙の歴史に一度も出現したことがなく、未来永劫二度と出現することもない唯一の存在です。誰かの思うことは誰にも思うことができず、自分の思いはいつだって宇宙に唯一の奇跡です。その時間限定の経験をつまらないとだけ片付けるというのは、逆にとても難しくて複雑なことをしているのだと思います。

自分で決めて生きればいい。それさえできたら、つまらなくなんてなくなるのだと思います。そのせいで失敗したって、悔しかったり悲しかったりはしても、つまらなくなんかない。悲劇の映画のほうが、なにも映っていない画面より遥かに面白いです。誰かのマネをしたり、誰かに従ったりすることだって、自分で決めてやっているのだと思えれば、つまらなくなんかないのだと思います。社会のせいや誰かのせいにするから、つまらなくなる。被害者になるから、犠牲者になるから、つまらなくなるのだと思います。人より褒められたいから、つまらない。悪者になりたくないから、つまらない。得をしたいから、つまらない。ケチだから、つまらない。欲深いから、つまらない。自分をつまらないものとして扱うから、世界がつまらない。

わたしも、誰に助言をもらっても、誰になにを決めてもらっても、それを採用したのは自分だと思って生きていたいです。この世で一番ダサいセリフは「お前のせいだ」です。他人のせいにすると苦しいばかりですが、自分のせいだと思えば楽になります。自分がそれを選んだからだ、自分がそれを信じたからだ、自分の過ちだ、自分の責任だと思えば、なんでも自分次第だと思えます。すると自分の世界は、誰のことも変えなくていい、自分さえ変わればいいのだという楽園になります。わたしは死んだときに、この世界を悲しかったと言ってもいいし、苦しかった、切なかった、恋しかった、寂しかったと言ってもいいと思います。けれども、つまらなかったと言いたいとは思いません。だから自分は、「自分の現実は全部自分の責任ッス」と思っていたいと思います!!自分の世界という鑑賞物の総監督指揮はいつも自分です!!俺の失敗、俺のせい!!他人のせいになんかしてやるものか!!他人に自分を預けてやるものか!!どんなときも、「わたしのせいで、ごめんね」みたいな同情はいらねえ!!勘違いしてんじゃねえ、他人であるお前が俺の人生を左右できたとか思ってんじゃねえよ何様だよ、1ミリもお前のせいじゃねえわ!!他人に監督を頼んだ覚えはねえんだわ!!っちゅうくらいの意気込みで、生きていたいと思います!!最後までうるさくてすみません、またのお返事を超絶楽しみにしております!!よろしゃーーーす!!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)