見出し画像

1006/1096【往復書簡】靴先にキスをされても「愛せてよかったね」でいい

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1006日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1006日目。ああ!!残り90日になってしまった。こんなにすごいスピードでこれまでも進んでいただなんて、まったく信じられないほどである。

太陽というのは思っていたよりも早く空の上を移動していて、朝に昇ったと思ったらちょっとするともう真上に来ていて、ひと仕事すると西の空に半分隠れてオレンジ色になっている。一日はまたたく間に終わり、近頃は10日間もあっという間だ。その10日があと9セット。それでこの毎日投稿がゴールに達してしまう。

1096日の本番に向けてなにかをしている気がしてくる。本番を思うとドキドキして落ち着かないほど。

三日坊主な人には宝物がある。なぜなら、もしもなにかを始めて三日で終わらなかったら、それはその人にとって自分自身へのイメージを覆す経験となるからだ。三日坊主な人は、うっそ!!マジで?!これが自分?!みたいな経験をする種を持っている。

もしも発芽させてみたかったら、なにかを続けてみるといいと思う。三日坊主という自己イメージを覆すと、それまで「三日坊主仕様」で築き上げてきた現実にも変化が訪れるのだ。これは面白いことではないだろうか!!

このドキドキが、今後毎日続くのもすごい負担でとても面白い。わたしたちはどうせ死に向かわないと生きられない。生命力と寿命を毎日石炭のように焚べて、人生の列車を走らせているのだ。遠慮して生きたって、一日分の燃料は減る。だから、ドキドキしたり思いっきり疲れたりしてもいいから、遠慮なくその日を生きよう!!おりゃー!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

※思った以上に登場人物に思い入れが出てきてしまい、『誰も信じない話』の連載はゆっくり進めることにしました。秘行コース開催日である今日は、常々短時間の弾丸執筆で本音をぶつけ合う、『男と女の往復書簡』のお返事をしたいと思います!

圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さん、おはようございます!!今日わたしは自分で作って『秘行』と名付けた、意識を使って遊ぶワークショップコースの開催日だったため、受講者さんたちと銀河鉄道で宇宙の旅をしてきたような、ロングジャーニー後の壮大な気持ちを味わったあとでこれを書いています。これまで何度か開催してきて、今日改めて思ったのは、「みんなすごい」「人間は超面白い」ということでした。わたしたちはこれでもかというほど、自分の思い込みを捉えたり手放したり、違う角度から見て笑ったり、客観視して面白がったりできる生物なのですね。人の柔軟さ、切り替えの潔さ、無限の可能性に目覚める姿はとても感動的でいつも涙が出ます。自分が何年もかかって辿り着いたところに、参加者さんが一瞬で立つ姿が最高にかっこよくて嬉しかったです。俺たちすごいですね。ひとり残らずすごいので、すごくないと思っている人はなにか大切なことをスコーンと思いっきり見落としているにすぎないのだと思います。

わたしは子どもを生みましたが、人間を作ったことはありません。わたしには、タンパク質やカルシウムや水を使って人間をつくり出すことはできません。だから、人間をつくり出すプログラムをすごいと思います。人間のDNAをすげえと思います。そのプログラムで作られた有機体は、生きて、観察して、思考したりするので、それだけですごいと思います。それさえできれば、わたしたちにあるのは可能性のみですね。わたしたちは、生きていようが転生しようが、ひたすらに可能性そのものの存在なのだと思います。

重い腰をあげて、自分の足を実際に動かして、いまいる場所から一歩だけでも外に出る。すると、そこには自分の想像を超えた素晴らしい展開が広がっています。世界なんてこんなもんだろうと勝手に決めつけていた自分の思い込みや思考の枠を爽やかに打ち砕きます。そして、その度に「あてが外れるということは、とても素晴らしいことだ」と感じます。自分の考えが全部あたってしまったら、世界は死ぬほど退屈になります。毎回ちゃんと裏切ってくれるからこそ、世界最高だな!!と思います。

わたしも、思い込みや思考の枠を壊して破って突破するときの喜びったらありゃしないと心から思います。わたしたちが思っていることなんて、みんな勝手な思い込みだと知るとき、自分の予測なんて大外れだと知るとき、「うわっ!!世界は自分が思っているようなところではないようだ!!」と自分の想定が見事に外れていると知るとき、わたしたちはみな、嬉しくなります。だから人は、自分の予測が外れている証拠を探すほうが、楽しく生きられるのだと思います。自分で自分の想定を裏切ってしまうほうが、結果的に嬉しくなるのだと思います。大抵の恐れや不平不満はそうやって裏切ることができるので、自分がなにかを怖いときには、「知った気になってんじゃねえぞ」と自分に言ってみると、面白いことになるのだと思います!

信じたくないというのは頭の声で、ハートの声は信じたい・愛したい・許したい・生きていることを楽しみたいと叫んでいる気がします。だから、できることならばずっと、私はハートの声に従っていきたいと思います。ハートの声は、必ず「〜したい」という形で叫んでいると思います。

わたしもこれに、心の中のお花を満開にして、青空と蝶とアルムの森の木と綿飴でできた雲の景色の中、そこにあるお菓子の家のドアを開けて、「わたしもそう思うわ!!」とハイジの声で言いたいくらいに朗らかな思いで、全面同意いたします。わたしたちのハートはいつも、コンパスのように喜びのほうを向いていると思います。だから、それに付き合ってなにかをやろうと思うとき、自分の頭がいくら「無理だからやめておきな」「痛い目に遭うぞ」と言ってきたとしても、それに負けずにハートのコンパスを信じたほうがいいのだと思います。

人はすぐに自分のビビリの方を優先してしまいますが、わたしたちはそれを選んでも嬉しいと思えないようにできているのだと思います。自分を邪魔する人は自分しかいないので、そういうときは「クララ、歩けるようになるだなんて考えんじゃねえぞ。考えるから転ぶんだし、転んで痛い目見るのは自分だろ。だから一生車椅子で暮らしてろよ。わかったな」と言っているのは自分なのだと思ったほうがいいと思います。その自分は、自分をなんとかして庇ってあげたいし、なんとかして守ってあげたいだけなのだと思うのですが、わたしたちはもしも自分が歩いてみたかったら、その養護に背を向けて「ごめんなハイジ。心配はありがてぇが、俺歩いてみるわ。ダメだったら笑ってくれていいからよ」と言っちゃうクララにならなくちゃいけないのだと思います!!

現代人の悩みは「傷つきたくない」とか「嫌われたくない」ばかりになっている傾向がありますが、実際は真逆だと思います。傷ついてもいいから生きたい、嫌われてもいいから生きたい、自分を出し尽くして死にたいというのが本当の望みだと思います。

わたしも現代には「セルフゆとり教育」が蔓延しているように思います。自分が傷つかないようにするためになら、なんでも取り入れてしまう。でもこれでは、自分が吠えて本気を出す場所がなくなってしまって、結果的につまらなくなってしまうのだと思うのです。人って実は競争が好きで、実は戦うのが好きで、実は比べるのが好きなのではないかと思います。だから、それが楽しいのならいくらでもやればいいと思います。人類は、走ることで競争しなかったら、100メートル走で10秒を切る人は出なかったに違いありません。競うことは悪いことばかりではなくて、それによってすごい記録やすごい発明が生まれることが多々あるものだと思います。

競ったときに負けた方の気持ちはどうするんだ、という過保護な考えかたは、ときにわたしたちの喜びを根こそぎ奪ってしまうものだと思います。人は本当に楽しく競争したら、勝ち負けはひとつのエンタメ要素でしかなくなり、戦った事自体が喜びになるものだと思います。なにもしないでいることで勝ちも負けもしなかった人よりも、本気を出しまくって負けた人のほうがきっと爽快な思いをするものだと思います。

逆に言えば、負けたらそのプロセスがすべて無駄だったと思えるようなことで勝負をしてはならないのだと思うのです。わたしたちは、例えば英語が好きなら、TOEICで全受験者の中で一位にならなくたって、学んだ過程や得たもの、やりきって頑張った努力などに、自分なりの喜びを見いだせるものだと思うのです。二位になったら嫌だから、じゃあ英語は勉強しない。こんな基準で生きていたって、心からの痛快な達成感を得たり、勝とうが負けようが自分を褒めてやりたいような気持ちに出会うことはできません。

ぶっ転ぶことや傷つくことを完全に避けて生きようとすると、その生き方自体がすでに自分を傷つけるものとなるように思います。だから、そうやって安全圏にいる人は、実はその「つまらなさ」でずっと自分を傷つけている。それならば、なにかにエントリーしてしまうほうがきっと人生は楽しくなります。勝負に出ようと思う心は、勝つか負けるかのどちらかを味わうことを許可することだと思います。その、うやむやにしないで白黒つけてみいたという心に従って動くことを、わたしはカッコいいと思います!!

こういうことを書くと「それは坂爪さんだからできることであって、自分には無理」と言われます。こういうことをすぐに言う人はダメです。申し訳ないけれど、お前はそのまま死になさいと思います。さきほど例にあげた「期待をしてがっかりするくらいなら、最初から諦めていた方が楽」と言った女性にも通じるのですが、私は、最初から諦めている人はごめんなさいだけど死ねと思います。自分には力がないと言うことは簡単です。しかし、そう言うことは卑怯だと思います。やる前から諦めているのが微妙だし、それでいて何処かでおいしいトコどりしようとしている根性が微妙だし、変わりたいと言いながらリスクは払いたくないという口先だけな感じが微妙だし、弱さを言い訳にして自分からは何もしようとしない受け身な姿が微妙だし、色々微妙です。お前の話を聞いているとなんだか奇跡が起こるのを待っていたり魔法の使い方を教えてもらいたがっているように見えるのだが、その舐めた根性を叩き直さない限り何も変わんねえぞ、奇跡を待ってるんじゃないよ、奇跡は実際に歩き出したやつに舞い込むんだよ、自分からは歩こうとしないで、自分からは何もしようとしないで、ただこうなってくれたらいいとか言っているだけのだだっこ野郎(娘)に神様は微笑まねえんだよって思います。

もう、最高すぎて、声を出して笑い、めちゃくちゃ爽快な気持ちになりました。そのとおりだと思います。圭吾さんのこういうところが最高です。好きです、好きすぎます!!この往復書簡の書き手でもありながら、一読者として「やってくれた圭吾」「ありがとう圭吾」と思います。

圭吾さんは、ドラゴンクエストで遊んだことはありますか。ドラクエの世界には毒の沼地がありますが、わたしたちの世界にもこの毒の沼地があるものだとわたしは思っています。それはどこにあるのかというと、「諦めたところ」「無理だと決めつけたところ」「痛い目に遭わずに済む安全圏だと思ったところ」が、そのまま毒の沼地なのだと思うのです。

そこにいると、安全だし安心だし嫌な思いをしないはずなのに、ずっと体力が奪われていきます。外は敵だらけだし、草原も森も、ましてやダンジョンなんて絶対に危ないから入っていってはならない。ここにいれば安全なはず、と思ってとどまるところというのは、どこだって毒の沼地になります。その毒がどこからやってくるのかと言うと、その「世界を危ないところだと思う考え」からやってくるのだと思います。自分の人生を、そんなに危ない認定、疑わしい認定しているから、不安だしつまらないのだと思います。毒の沼地から出ないでいる人には、「だったらお死になさい」と言うしかないのだとわたしも思います。いやぁしかし「ごめんなさいだけど死ね」に笑いました。こういうことを書く人は本当に稀なので、圭吾さんをとても貴重な人だと思い、友人であることを誇りに思います。「死になさい」と俺も一緒に言います!!ありがとうございます!!

真実の愛は「一生あなたについていきます」と、男が女に言うものだと思います。尽くすと言う言葉は男のためにある言葉であって、女性がそれをやったらダメだす。女が男に尽くしたらダメだす。男がやることを女が奪ったらダメなのだす。女は黙ってサッポロビールだす。女は黙って快楽を貪っていればいいのだす。そのための環境は、我々男共に整えさせてください。お願ぇします。男の役割を奪わないでください。男の生きがいを、男のよろこびを奪わないでください。男は黙ってサッポロビールをあなたのグラスに注ぎたい生き物です。差し出してください。カラの器を差し出してください。それを見て「はっ!(やばい、カラだ!)」となって慌てた男たちが、いい仕事をするようになるのだと思います。

これを書いていて、なにかが燃え尽きて寝落ちしてしまっていたため、書く時間がここから14分しかありません。終わったと思いましたが、自分はここから自分のマキシマムな早執筆をここに叩きつけたいと思います。イングヴェイ・マルムスティーンも真っ青な早打ちタイピングにチャレンジしてみようと思います、うおおおおお!!

わたしはある友だちに「壇珠さんは、男性から自分の指先や靴の先にキスをされることに耐えられますか」と訊かれたことがあります。わたしは、それの一体どこに「耐える要素」があるのかが理解できず、もちろん大丈夫ですと答えました。すると、うわあ~すごい、と驚かれました。どういうことなのかと訊いてみると、それは最上級の愛を示されて、それを堂々と受け取れるのがすごいということだ、と説明してくれました。それでもわたしには、正直「それのどこが難しいのだろう」と思えました。嬉しいとは思えど、難しい要素はないように思いました。彼女の言っていることはわかるのですが、驚くほど自分にはその感覚がなかったのです。

彼女が言うには、多くの女性はそれをすんなりと受け取ることができないのだそうです。相手がたとえばひざまずいて指先やハイヒールの先にキスをしたとしたら、自分はこんなに愛されるのには値しないと思うから、申し訳ないくて身の縮む思いがする、ということでした。けれどもわたしが実際にそれをされてなにを思うのかと言うと、相手の男性に対して「愛せてよかったね」ということです。誰かを愛している男性はカッコいいからです。それから、俺が、俺が、とやっていない、やる必要がないその男性を、器が大きくてかっこいいとも思います。そして、わたしがそうやって愛されることに値するかどうかというのは相手の男性の決めることであって、わたしの決めることではないと感じてしまいます。このやり取りを通して、女性は男性に愛されても良いかどうかを、自分の社会的価値や能力や容姿の良し悪しなどで自ら測っているのだと思いました。本当はそんなことに関係なく、靴先にキスをされてもただ嬉しくいればよいだけなのだとわたしは思います!!

あたしゃ、女を測っちゃいけないと思います。自分の価値を、愛されるに値するかどうかとつなげて考えちゃいけないと思います。男に愛されるかどうかで女の価値を測っちゃいけないと思います。今ももう時間がなくて、圭吾さんに短いお返事を投げてしまうのが申し訳ない自分がいるのですが、これをここで投げることもまた男子への甘えだと思って、公開で自分を許してみたいと思います。めっちゃ短い返信ですが、思いを込めて送ります!!いつも甘えをぶちまける場所を作ってくれてありがとうございます!!わたしゃ圭吾さんとキャッチボールができて幸せです!!このまま投げます、フォームもめちゃくちゃですが、それでもあなたに向かって!!とりゃああああああ!!

それではまた、明日ね!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)