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660/1096【往復書簡】悪魔のささやきがゴーサイン

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で660日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

660日目、日本の今日、イタリアの明日は日曜日で、今は夏だ。そして母がイタリアに来て最初の夏である。イタリアの夏といえば、海。海である!!

だからして、明日は母を海に連れ出す計画を立てた。こうなったら、毎日投稿を日本の日付が変わってすぐに書かねばならぬ。そのため夜の執筆。

ああ、まるで自分に死が近づくように毎日投稿の終りが近づいてくる。まだまだ先ではあるけれど、それでも残り436日だ。その間に、この三年間で書くべきことを心残りなく書ききれるだろうか。

心残りなく、と考えると、自分のことは本当にどうでもいい。自分の伝えたいことは、暑苦しいまでに、誰かに喜んでもらいたいがために思いつくことだけだ。ただ、読んでくださるお方が1ミリでも良い気持ちになることに繋がること、それを限界まで目指したい。

思えば書いて書いて書いているうちに、どんどんそんなところだけが残った気がする。改めてそこに尽くすことを宇宙に誓って書こう。

ああ、清々しいなあ!!自分みたいな愚かで弱くて自分勝手で変なやつがこんな気持になるなんて、さすが人間、神さまの創造物だぜ!というわけで今日も、元気に参りましょう!!

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!お返事をくださってホッとしました!うちの圭吾はどうしちゃったのかしら、田舎が嫌になって家出でもしちゃったのかしらというおかしなお母さん気分になっていましたが、ご無事で何より、安堵に包まれております!おかえりなさい!

昨日、女塾のメンバーK様と名古屋駅でお会いしました。

ありがとうございます!!我が女塾のKさんは圭吾さんにお会いするのをとても楽しみにしていたので、昨日はうちのKは今頃どうしてるかしらなどとこれまたおかしなお母さん気分になり、お互いに楽しい場となったご報告がとても嬉しいです!!

K様から「死んでもいいから鬼滅を読め。死ぬ前に読め。読んで死ね。」と言われました。人々をこれだけ虜にする作品のパワーとは、本当に物凄いなあと思いました。こんなことをお尋ねするのも野暮ではありますが、壇珠さんにとって鬼滅の魅力をズバリ一言で述べるとしたらどんな言葉になりますか??自分が好きになったもの、自分が惚れたものが自分の美学になりますよね!!

鬼滅の刃の魅力をひと言で・・・!!鬼滅の魅力はあまりにも深いためこれは大変に難しいお題ですが、なんとしても短くまとめるとすると、「『罪を憎んで人を憎まず』ということを、人の情けにとてつもなく揺さぶりをかけて悟らせてくれる作品」だというところだと思います!何日にも渡って、死ぬほど泣きました。

きっと、数百年人間をやっても触れることもできないような情け深さを、鬼滅の刃を通して今世で悟ることができた人がたくさんおられただろうと思います。これまでさまざまな漫画作品を愛してきたわたしですが、鬼滅の刃はそれまでのランキングを塗り替えて自分の中での堂々の一位となりました。

圭吾さんが内容のすべてを知ったあとにどんなことを感じるのか、どのシーンやどのキャラクターに思いが湧いたのかを伺うことができたら、我壇珠、最高に喜びます!是非にもアニメと漫画で内容を知っていただきたいと願っております!!個人的には、アニメ化されている26話までは、なにがなんでもアニメで視聴することが非常に重要なことだと思っております。グラフィック制作陣と声優陣が神仕事をしていることもありますが、各キャラクターの声や雰囲気や空気感を知っておくと、その続きの漫画をとても生々しい感覚で読むことができるようになるからです。

ちなみにわたしが最も心奪われたキャラクターは、嘴平伊之助という、イノシシに育てられたがために俗世の常識のまったく通用しない男の子でした。伊之助のことを思うだけで、今だに涙を抑えられません。鬼滅の刃について語り始めると朝までコースとなってしまうので、ここは無理矢理に抑えようと思います。どうか死ぬまでにお話を知ってください、そして知りましたら何卒わたくしめに真っ先にご連絡くださいますよう、心よりお願い申し上げます!!

私は眼球が大きいものですから、出会う方々から「なんでも見透かされていそうで怖い」と頻繁に言われます。私はまだシックスセンスを開眼できていないのですが、似たような感じなのかもしれません。

以前まだ日本に住んでいたころ、脳機能学について学んだときに知ったのですが、人と人は、会って目が合った瞬間に、二人の間の制空権をどちらが取るのかを互いに一瞬で判断しているのだそうです。なにがそれを左右するのかと言うと、それぞれの自己肯定感からくる安心感なのだとか・・!つまりは会ったときにどちらがより自信を持って安心しているかによって、言葉を交わす前から勝敗が決まっているということらしいのです。

我らは「人と人との間に勝ちも負けもない」と頭ではわかっていても、本能的にはどちらがよりリラックスし、どちらがより不安を感じているのかを一瞬で読み取り合ってしまうのだというところに、動物的なものを感じました。きっと、お会いして目を合わせたときに圭吾さんに見透かされているような気がしてしまう人は、その瞬間に圭吾さんに制空権を取られた状態なのではないか?!と思います。

表面上いくら取り繕っても、本能的には互いに一瞬で化けの皮を剥いで判断してしまうなんて、人って面白いですよね!ある意味で我々みなにシックスセンスがあるようなものですね!!

見抜かれたくないものを抱えて生きるよりも、自分から先に晒しちゃえばこれほど気楽なこともありません。とかなんとか言っちゃって、秘密がその人を魅力的にすることもありますね!!

この部分がとても好きです。圭吾さんのこれまでの苦悩や苦心や思いやりや優しさなどのいろんな側面が表れているように思いました。人は、少年は、どんなプロセスを経てこんなふうに、秘密があることが人の魅力になり得るのだということを悟るのでしょうか。

誰かの、暴かれたくないものがあることを察したり、その秘密を持ったままで居ることがその人の魅力にすらなっているということを認めるに至る心の動きを思うと、こちらまで胸いっぱいになります。深い洞察と暖かさの詰まった言葉ですね・・・!!秘密があるのも素敵ですよね。人間っていいものだなと改めて思い、優しい気持ちで満たされました。ありがとうございます!!

いまの自分は枠にとらわれて闊達になりきれていない。頭意識、周囲との比較、葛藤や逡巡にまみれている。そんな苦悶を勝手に抱き、返信が毎回随分と滞ってしまっていました。ただ、私自身、音楽を作り続ける日々を再開したことで、突破口を見出したような気がします。作り続けることで、その作業を通じて自分を確認したり、自分を発見したりします。似たようなことを頭の中で延々とぐるぐるさせているより、具体的な行動が突破口になるのだなと、なにもしていないときに人間は思い悩むように作られているのだななどと感じました。作ることで自分の力量不足を嫌というほど思い知ります。それでもなおやめないのは、力量不足の裏側に「俺はまだまだやれるはずだ」という自分への信頼があるからなのだと思いました。作り続けることの中に希望と絶望を感じます。絶望を抱きながら、同時に希望を抱き続けている感覚があります。

ああ、ほんとうによくわかります!!わたしは絵を描いていて、我が心の師、レオナルド・ダ・ヴィンチ師匠と自分を比べてしまうと、自分はなんて才能がないんだ、なんて下手くそなんだ、なんて不自由なんだという思いで簡単に心が折れます。ちょっとでも美大生と比べれば心が折れ、漫画家と比べても折れ、同人誌を描いているアマチュアの漫画描きさんたちと比べても折れ、入賞した作品などを見始めてしまっても折れ、もし自分を他人と比べ始めてしまうと全身複雑骨折になります。

そしてどれだけ頭で悶々と考えていてもそれが解消されることはなく、結局は心の元気な日になんとかまた練習に戻ることでシフトします。毎度毎度、いつもそうです。実際に動いてみないと変化しません。しかもわたしの場合は、前回心が折れたことについて今度こそなにかしら進歩してやるという思いで練習しないとまた同じ結果になったりして鬱々としたりします。それでも、何かの上達を得るとそれだけで飛び上がるほど嬉しくて、喜びを身体に収めておけなくて、どうしようもなくて家の中を走り回っています。

練習に戻るときに抱いているのは、つまるところ「希望」です。その点で圭吾さんと同じなのだろうと勝手に思いました。自分の不出来もよく分かるのに、でも希望があるから戻る。描き始めると辛いのに、辛くて面白くて夢中になります。そして夢中になれることで希望がちょっと膨らみます。

そして、こんな葛藤を持って楽しんでいることを、最高の冥土の土産だぜと思います。葛藤がなかった頃に戻りたいとは、少しも思いません。今後も悩んでやります。悩んでやる、それを捨てないでいる、ということにだけは自信満々です。

先日、細かいものを描くことへの激しい苦手意識を克服しようとエイリアンを描いてみたのですが、苦悩の挙げ句、根気と根性を使っていては限界があることを知りました。難しくて精密で本気でかからねばならないものにこそ、本気かつ呑気に取り組むことが大切なのだと認識がひっくり返って、苦悩した甲斐があったと思いました。

超月並みな言い方ですし、こんなことを誰かに言うのはものすごく久しぶりなのですが、わたしも頑張りますので、だからというのも変ですが、どうか圭吾さんも頑張ってください!!そしてこの我々の苦悩について、汚れっちまった悲しみについて、見上げれば目には映れども、登る術のわからぬ岸壁に咲いている希望の花について、またそのうち、笑って語り合いましょう!!

死ぬまで諦めないで生きるということは、死ぬまで悔しがり続けることと似ています。死ぬまで葛藤を抱えることと似ています。死ぬまで悶絶して、死ぬまで「まだまだこんなもんじゃねえ」と自分のケツを叩き、足掻いて、足掻いて、手を伸ばす。自分が自分を信じきれなくなったとき、壇珠さんのように「誰かの投げた白いタオルを、リングに上って反則的に奪」ってくれる存在は貴重です。貴重と言いますか、命綱です。引き戻してくれてありがとうございます!!俺、まだまだっす!!俺、これからっす!!死ぬまで血汗を流します!!苦しみます!!悔しがります!!

我々人間って、自分のことを誰よりも愛して気にして心配して、いつもいつも自分の幸福を願っていますよね!自分に嬉しいことがあらば、文字通り自分のことのようにこの世の誰よりも喜んであげる存在だと思うんです。でもそれと同時に自分自身というのは、自分を騙し自分に夢を諦めさせる唯一のドリームキラーであると思います。頭の中に、とんでもねえ悪魔がいます。

我々がなにかにチャレンジしようと思うとき、そいつが耳元でささやくんです。「お前なんてそのくらいの実力しかないよ?」「無理なこと夢見ていないで、現実を見なよ」「大したことないのは自分が一番良くわかってるんでしょう?」「そういう星の下に生まれていないんだから無駄無駄」「悪いことは言わないから、もうやめちゃいなよ。意味ないから諦めちゃいなって、な?な?」と。

これは人間の脳には、現状を維持し変化を避け、できるだけサボろうという機能が備わっているからだそうですが、つまりは自分が自分を騙してくるのですよね。わたしはこのことを知ってから、それについてこう思うことにしました。

もしそれが万人に備わった機能なのであれば、そんな自分がいるからってなにも自分を蔑む必要などないんじゃないか!と。むしろ、生きている限りその悪魔と一緒なんだから、あんまり気にしなくていいんだ。だったらこっちの好きにさせてもらおう!と思うようにしました。だからもうできるだけ、耳元のささやきと戦わずに「好きに言ってなさいな」と言って放っておくようにしています。

悪魔がささやくのが俺たちのデフォルトなんだから仕方ないや、と思うと、とても気楽です。わたしの悪魔はわたしが絵を描いているといつも現れますが、そいつがヒヤヒヤして出てきているということは、現状維持が崩れる可能性があるからです。練習されると今の自分ではなくなってしまうからだと思います。邪魔をしないと、成長されちゃうからだと思うんです。そういう意味で、自分の言うことなどちっとも信用しないし、自分の予測なんかこの世で最も当てにならないと思っています。

だから、心が折れそうになるひどいことを囁かれても、「ほほー出てきてしまいましたね?なにか邪魔する必要が出てきたんでしょうねえ?ほっほっほ」と思ってみると、逆に悪魔がゴーサインに思えてきて、いい気味だぜと感じます。自分の悪魔は「絵の練習なんかやったって無駄だよ」と言ってくるのですが、それは現状にとどまらせようとする「変化の可能性アラーム」が鳴っちゃったということなのだと思うと、むしろ嬉しくすら感じられるようになってきてしまいます!!

もしよければ、このおかしな心持ちを試してもらえたら嬉しいです!!その際には是非にも、圭吾さんのご感想をお聞かせくださいませ!!

中二病感が半端ないですが、包容力だけではなく「まあ、今に見ていな。クールなお前が拳を振り上げちゃうくらい、イカした音楽を奏でるから」くらいのことを言ってのけたいと思います。やはり燃えたい。燃えたいし、燃やしたい。諦めかけた私に投げ込まれた白タオルを反則的に投げ返す壇珠さんの存在が、何度でも私をふてぶてしくさせてくれます!!立ちます圭吾!!圭吾立ちます!!毎回本気のかめはめ波を放ってくださり本当にありがとうございます!!お利口さんぶる自分を張り倒し、言い訳をしないで楽しく生きる。そして、死にかけるたびに強くなるスーパー圭吾坊やとして残りの生涯を賭けます!!

残りの生涯をかける・・・!なんと良き言葉でしょう!わたしは最近、もう自分がどうなろうとも幸せなのはわかったし、壇珠さんは自分をいつも幸せにしてくれるので安心なのだから、あとはもう本当に誰かの幸せのことしか考えることなどなにもないと思うようになりました。

言い方を変えると、他者を利用して嬉しい気持ちになるという勝手をしちゃえばいいんでないかえ?という図々しい気持ちです。身の回りに他人はたくさんいるので、いくらでもやることができますよね!!これはほんとうにシンプルな取り組みなのに、今になってそのシンプルさに改めて気がついたことを自分でも不思議に思いました。

圭吾さんの音楽活動やわたしの絵の練習などが、誰かの笑顔につながると信じること、我らの本分はそこにあるのかも知れません!!それは、自分の喜びと他者の喜びとの境界線を剥奪するものであり、なんだかんだ言ってもそこがいちばんのコアだと思います!!

そう考えると、他者と自分との境界線というのは本当に曖昧で、あるようでないものですね。実際、圭吾さんの書簡を拝読していても「自分が書いたんだ」という感覚になります。おめーじゃねえよ!とツッコまれても仕方がないのですが、人間らしい苦悩を持って生きていることをここでこうしてさらけ出し合えることを貴重だと思うし、それがやっぱり誰かのチャレンジ精神やニコニコにつながっていてほしいと願わずにいられません!

我々、そこが非常に突き抜けてシンプルに共通しているのだと勝手に思っています。だからそんな圭吾さんを応援しています、いつでも白タオルを奪いに行きます!!返せと言われたら返しますが、でもいったんは奪う役を担いたいと思います!!互いがいつでも励みでいられますように!そして次の書簡のお返事がすぐに返ってきますように!(笑)楽しみに、お待ちしております!!放し飼いの、苦悩する瘋癲の、火属性の圭吾坊やよ、がんばれー!!

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