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1037/1096【往復書簡】神さまみたいな自分にいい加減気づいてやりなさい

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1037日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です

1037日目。超絶に時間がなくて、今の自分の感覚は、ほとんど恐怖に近い。やばい。なんとかせねば、せねばせねばー!!!

今日は圭吾さんに頼るぞ!!お返事でかっとばせ~!!
150キロ超えの剛速球的な剛速ストロークで書ききったらァ!!
いけいけいけいけもう本題に入れー!!!!うあああああああ!!

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圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さん、おはようございます!!暑い毎日ですが、わたしは部屋の窓を閉め切ってこれを書いています。屋外の音や人の声を遮断して書くのが好きだからです。ひとりで部屋にこもる時間がとても好きです。

誰か他の人と一緒にいる時間も大好きですが、どんな相手でも、四六時中ずっと一緒にいたいとは思いません。わたしには一人でいる時間がどうしても必要です。もちろん人間が嫌いというわけでもなく、わたしはたとえば象さんも麒麟さんも好きで、触れ合いたいと思うし健康と自由を願うしいつも幸せであって欲しいと思うし彼らを愛していますが、ずっと一緒にいたいとは思いません。だから、好きかどうかということと一緒にいたいかどうかというのは別のことだと思います。

わたしは一人でいる間も特別なことをしているわけではなくて、仕事をしたりネットを使ったり、休んだりちょっと身体を動かしたりしているだけです。でも誰とも交信していない時間は必然的に自分との交信をしていて、それによって満たされる感覚があります。人は自分という恋人と二人きりになる時間が必要なのだと思います。

そう考えると、自分が唯一ずっと一緒にいられる人は自分だけなのだと思います。自分という存在は、生まれたときからいつもいつも一緒で、それでも飽きもせず、どんなときも無事を願い、四六時中生命維持をサポートし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くしている相手なのだと思います。誰しもが無条件に、もうずっとそれをやってきています。

巷では自分を好きになろうという活動が盛んですが、そうやってすでに無条件に愛している自分自身を、わざわざ「好き嫌い」の土俵に引きずり出して考えるということが、わたしにはご苦労なことだなァと思えます。今更、好きになろうだなんて水臭いと感じるからです。嫌いでも愛してきているのだから、好きになろうだなんて奇妙な活動だと思えます。それよりも、欠点も短所もダメなところも黒歴史もあるのをよくよく知っているし、そういうところは好きなんかじゃないのに、それでもずっとこの人を愛してきたな、最高に大切な相手だな、と気がつくほうがまっすぐな気がします。

わたしたちにとって、自分という人物は、その人の役を一生の時間と命を尽くしてやりきる相手だと言うのに、そしてもう本番は始まっているというのに、嫌いだから好きになろうとは何事ぞ。そんなちぐはぐで他人行儀で悠長な話があるだろうかと思ってしまいます。その人が、生きてるということを、当たり前でつまらないことだと思っている証拠のように思えます。

愛しているというのは、全部好きだという意味ではないと思います。好きだから面倒を見る、というのは簡単です。好きだから可愛がる、これは誰にでもできることです。可愛い子猫は誰だって撫でて抱いて可愛がります。けれども、服を汚したり家具を傷つけたり、老いて病気になって痩せて臭くなったりして、嫌なところがいっぱいでも、それでも可愛がってこそ愛だと思います。自分を愛するということは、自分という人に嫌いなところがあるのに、それでも可愛がり、労って、敬う努力をすることを言うのだと思います。それを、嫌いなせいで愛せないから好きになろうだなんて、そんなことを言ったら自分が可哀想じゃないかと思っちまいます。

あなたの自由を願うとか、あなたの無事を祈るとか、どんなところも好きだとか、嫌いなところも好きだとか、人は人を愛するときにいろんな感情を持つものですが、究極形は「あなたになりたい」「あなたとして生きたい」ということなのではないでしょうか。わたしたちは、それをすでに自分のためにやっている。だからもう、自分のどこかが嫌いでもいいのだと思います。好きになれたら自分を愛せるだなんて、その前提がおかしなことだと思います。すでに愛しているのに、なにを寝ぼけたことを言っているのだろうと思っちまいます。人間、誰のことだって100%好きになったりはできないのだから、そんなことは気にしないで、それでも愛していると認めていこうじゃないか!「自分を好きになろう」だとかいうキャッチフレーズに染まって信じ込んでしまうと、まるで自分を好きになれないといけないような気がしてしまう。でもそうではなくて、「嫌いな自分ごと愛していこう」のほうがずっと力が湧いてくるじゃないか!!と、そんなことを鼻息荒く思う、夏の午後です!!

私の愛する自転車おっけい号が、あろうことか盗難被害に逢いました!!これはもうこの波に乗るしかないと奮起し、現在「坂爪圭吾、怒りの断捨離」絶賛敢行中の俺です(キングコング2・怒りのメガトンパンチ参照)!!自転車を失った痛手は大きいですが、能動的にロスを重ねることによって心機一転生まれ変わりを目指す、逆転の発想です。誰かに捨てられると被害者なのに、自分で捨てると「あー、なんだかスッキリ!!」と爽快な気分になれるから不思議です。最終的なゴールは、自転車をロスしたことを「逆に良かったんじゃないか」と思えることです。このゴールは実はすでに達成していて、気分は上々です。

おっけい号が、盗難に…!!もしかしたらなのですが、これはある意味、おっけい号と盗人との共犯みたいなものなのかも?知れませんね。おっけい号のほうにもなにかタイミングが訪れて圭吾さんの元を離れる(もしかしたら一時的なものかも知れませんが)ときがきてなにかを発しており、盗人の方もそれにぴったりと合うものを発していたため、両者の協力により、このおっけい号の失踪が起こったのかも知れないなどという想像が湧いてきました。

わたしは子どもの頃から自転車が好きでした。高校生時代は自転車を赤信号無視やきつい坂道の登坂とともに猛スピードで漕ぎ続けて90分もかかる学校へ通っていたため、わが身体は自転車用の筋肉が発達し、自転車と一体化し、自転車のドラテク(ドライビングテクニック)が平均的な女性の何倍にも高くなった自負があります。しかし、わたしはあるとき、自転車に乗ることを卒業しました。自転車の似合う女性でいることが、自分の在りたい姿ではなくなってしまったからです。

自転車とともにあることをやめるのは、ほんとうの意味での青春からの卒業でした。自分でも意外でしたし、寂しい気持ちになりました。しかしわたしは、自分が自転車を「チャリンコ」と言っていた間は自転車の友達だったことに気が付きました。わたしはいつの間にかチャリンコを自転車と呼ぶようになっていたのです。もうそれは「友達」が単なる「同級生」になった瞬間と似たような、なにかの終わりを表していました。そしてまた、自分の何かが大人になったようにも思えました。今のわたしは車でのドライブが大好きです。またいつかいきなりチャリンコに目覚めるかも知れませんが、今のところはしばしのお別れ中です。圭吾さんももしかしたら心の深いところで「今の俺は自転車じゃねえ」となったのか?!と思ったりしました。

わたしも自分から卒業したと思っているからスッキリしているだけで、体力が落ちて、あるいは別の理由で、以前のようには乗れなくなったために仕方なく乗るのをやめたとしたら、自転車ロスだと感じられたかも知れません。
能動的であることはいつなんどきも、どんなものに対しても、気持ちを晴れ晴れとさせる効果がありますね。たとえ受動的でいることですら、「受動的でいることを、あえて自ら能動的にやっているのだ」と思えばこそ、気分の良いものだと思います。

時には、嫌な相手に向かって「死ね死ね死ね死ね」とか「うんこうんこうんこうんこ」とか、呪詛を吐き続けることも大事だと思います。一通り呪詛を吐き終えるとあら不思議、あれだけムカついていた相手にも「まあ、許してやるか」と情状酌量の余地が生まれ、いつの間にか「俺はお前のが大嫌いだけど、でも、愛しているよ」という境地に着地をします。ここが大事なポイントだと思います。愛に辿り着くほどに、怒る。これです。表面的な愛や許しで、真実の愛に蓋をしてしまってはいけません。怒りの奥には、愛がある。正当に怒ることで、愛を取り戻すのであります。

死ねとうんこの連呼に、朝から吹き出しました!!わたしは以前オンラインサロンを運営していたことがあるのですが、あるときひとりのサロンメンバーさんが、職場の人達と相容れずに孤立しがちだし、ムカつく上司がいて、嫌な気持ちを我慢するのが大変だという話をしました。わたしはそのときに、想像でその相手に怒りの罵倒と拷問してみてくれないかと伝えました。さすがここまではやれないというくらいひどいことをすればいい。頭の皮をはぐ、目をくり抜くなどしてみてください。リアルに想像して、さすがにちょっとそれは…という気持ちを味わうのがポイントです。それによって、自分のその怒りの限界がどのあたりなのかを知ってみてください。と伝えました。後日そのメンバーさんは、それをするうちになぜか職場の人から話しかけられたり、今まで通じなかったことが通じたりなど、職場で自分がスッキリする機会が増えてしまったと笑顔で話していました。

相手への怒りを認めると、その人に対して持っていた怒り以外の部分も浮き上がってきますよね。墨汁で書かれた黒い部分を認識するとき、同時に白い部分の形を認識しているのと同じように。怒りを認めないでいるということは単に怒りを発散できないことだけでなく、それ以外の感情もよくわからなくなってしまうのがさらなる弊害だと思います。だいじなところで本当に怒れない人は、自分がおかしいときに思い切り笑えないのだと思います。

怒るときというのは、一定時間が過ぎたかどうかと、筋が通っているかどうかが大事なのだと思います。怒りに火がついてそのまま殴ったり暴言を吐いてしまうと後悔しますが、10回深呼吸をして、自分なりに説明できる筋が通っているときには怒るべし。自分が和尚さんだとしてもこのことで喝を入れるだろうと思えることで怒ると、良い気がします!!

だからこそ、私は「自分をゴミ箱だと思うな」と言いたい。自分(世界)にゴミばかり投げ入れるなと言いたい。自分が自分をゴミクズのように扱っておきながら、誰かにゴミ扱いされたことに不平を漏らすのは違うぜと言いたい。本当の本当の本当のところでは、お前も自分を好きなのだろうと言いたい。集合写真を撮ったら絶対最初に探してしまうのは自分だろうと言いたい。自分を軽く扱う人を相手にしてはいけないと言いたい。生殺与奪の権利を明け渡してしまってはいけないと言いたい。自分の感受性くらい自分で守れ馬鹿者よとおでこをピンとしたい(性癖)。

まさに!!わたしも、お前も自分を好きなのだろうといつも思います。自分を好きになれない、自分を愛せない、と言う人がたくさんいますが、その、好きになれないだとか愛せないだとかということを、そんなにも気にしているのはなぜなのか!!と問いたい。わたしは、人間というのは、自分自身を好きになるだとか、愛するようになるだとかいうことはないのだと思っています。そうではなくて、もともとどれだけ愛しかったのか、これまでどれだけ愛してきたのか、自分にどれだけ無償で愛されていたのか、愛してくれていた自分をどれだけ無視してきていたのかに気がつくだけなのだと思います。だからこそ、自分の愛に気がつくときというのは、必ず懺悔の形でやってくるのだと思います。自分を愛せないと言っている人は、全員盲目だと言(っちま)いたい。文句一つ言わずにずっと自分を背負って歩いてくれている、神さまみたいな自分にいい加減気づいてやったれやバカもんがァ~!!と言(っちま)いたいです!!うおお言っちまった~!!

ところで、圭吾さんが冨岡義勇の名言を用いていることに感動を覚えました。われら、いつだって己の生殺与奪の権をこの手に握っていたいですね!!否、握っているのは自分なのだと常に気がついていたいです。自分を馬鹿だという人こそ、人から馬鹿だと言われると怒ったりするものですが、自分もその点に気をつけていなければと思います!!己の賢愚与奪の権を握っているのはあくまでも自分なのだと、いつも覚えておきたいです!!

生きることと遊ぶことは同義だと思います。どう生きるかと思い悩むと鬱病になりますが、どう遊ぶかと考えはじめると不謹慎にもちょっとワクワクしている自分に出会います。実は、全部、遊べます。小さな頃は、全員、そうやって無邪気に遊んでいたはずです。世界を恨み、人間を疑い、社会を憎悪する人は、端的に遊びが足りていないのだと思います。彼らの本音は「さみしい」であり、言い換えるならば「友達が欲しい」なのだと思います。ただ、それを認める勇気がないのだと思います。

わたしもここに激しく同意です。わたしは、うまくいかないことというのは、深刻になってしまったことなのだと思っています。言い方を変えると、遊び心なしにやっているからうまくいかないのだと思うのです。

結婚ができない人は、結婚に深刻になっている。結婚生活がうまくいかない人は、相手や結婚生活そのものに深刻になっている。結婚も遊び、結婚生活も一種の遊びです。この世を謳歌するためのツールです。だから、その関係性で、その現実で、どこかに遊べるポイントを見つけて遊び倒せばいいのだと思います。それが、問題をすり抜けるポイントだと思っています。問題を解決すると言うよりも、問題視しなくなり、その横をうなぎのようにすり抜けられる。そのためには、遊ぶことが鍵なのだと本気で思っています。

こういうことを書くと、「そういうことを言うと、殺人やいじめなどの許されない問題で遊んでいいと思う人が現れるので、良くないと思います!」みたいな学級委員的な反論のDMとか、反論とわからないようにごまかして書いたメッセージをよこす人がいるのでスルーしているのですが、ここであえて書いてみますと、うんこうんこうんこうんこ。これまでいじめや殺人をしていなかった人が、”問題はあえて遊び心を持って違う角度から見てみるといい”とブログに書いている人がいたから、それならば殺人やいじめをやろう!と考えるのかどうか、考えなさい。人間がそんな理由でいじめや殺人をするのかどうかを考えてみなさい。出直してきなさい、おおばかものがー!

世界には素晴らしい人物がたくさんたくさんいるけれど、私は、この体で育った。決して取り替えることのできない唯一無二の絶対的な事実が、大袈裟ではありますが私が私であることを讃頌しているように感じられ、一つの命が「生まれてきて、生きてきて、生きている」ことに対する敬慕の念が湧きあがり、涙が出そうになることがあります。うまく言葉にできている自信がないのですが、私たちは、私たちからやってきて、そして、私たちに帰るだけなのだと思います。だから、安心して迷えばいいのだと思います。

アッッ…兄貴ィ…!!この感覚が、あっしにゃわかりやすぜ!!チラチラと金色に輝く空の星を見ると、あんなものを生み出したシステムが、自分のことも生み出したのだという、実はファンタジックでもなんでもない、目の前にある、忘れそうになるほど燦然と目の前に据えられたこの事実に、改めて胸が熱くなります。宇宙は薔薇を創り、わたしのことも創った。宇宙はエメラルドを創り、わたしのことも創った。太陽やオーロラやホッキョクグマを創った宇宙が、同じシステムでわたしのことも創った。宇宙は空を青くし、わたしの背を高くした。この、逃れようのない事実が目の前にあるのに、わたしたちはついつい自分のことを素晴らしいと思おうとします。わたしは創られて、発生し、ここに、まさしく居てしまっている。住居という意味ではなく、自分の身体がこの宇宙のひとつの座標を居場所にして存在してしまっている…!!わたしは生まれて、身体を持っていて、ここに生きて存在している、というこの圧倒的な事実を前に、なにを探すというのだろうと思ったりします。わたしが心配していようとも心細くいようとも、その心配や心細さを体験をするのにも、太陽や地面や身体があって、それらの驚異の土台があってこそだと思うと、なんでも迷って味わえばいいという気になります。身体というものの、器のデカさ、その無償の愛に打たれます。

わたしたちの身体というのは、自分の命令どおりに動いて、自分という人物をずっとやってくれていますよね。自分に文句を言うということは、その自分という人物が、たとえ自分から言われることであろうとも、悲しいジャッジにさらされる機会にほかならないと思います。自分だろうと他人だろうと、ああでだめ、こうでだめと言われ、そう思わされ、それによって嫌な気持ちになってしまう。そうやって自分をいじめているのが、自分自身だというのは悲しいと思います。わたしたちは、他人からどれだけなにを言われようとも、自分だけは自分に同じことをしてはならないのだと思います。

だから、恐れるべきは他者からの攻撃ではなく、自分からの攻撃です。腹心の裏切りが最も危険です。自分が自分の明智光秀になってはならない。自分で自分を本能寺に閉じ込めて殺っちまってはダメです。自分というのは死ぬときまで一緒にいることが決まっている、誰よりも愛し誰よりも信頼する人なのだから、その自分の信頼に応えて生きられたらといつも思います!!
自分が歩けと言えば歩き、自分が座れと言えば座り、自分にダメ出しをされればそれを信じ、悲しみ、それでも毎日起きて、血液を回し、自分のために動いてくれる身体と命とを、我が物顔で扱ってはならないのだと思います。自分も他人のひとりで、自分に憑依させてくれている一人の人なのだと思うと、今日もこの人のおかげで世界を体験できたのだと思えて、強烈な申し訳無さや感謝が湧いてきます。人はいつも外側のなにかに感謝をしようとしますが、まずはそんなふうに自分に感謝をしてみようとすると、自分に命を預けてくださってありがとうございます!!という猛烈に謙虚な自分に出会います!!今回も、壇珠さんを動かしてこれを書かせていただきました。この体験は、壇珠さんと圭吾さんがいてくださったおかげです!!非常に変なことを書いているように見えますが、自分は本気です!!じゃあお前は誰なんだよと言う話になってしまいますが、こうなると自分がいない感覚になってしまって答えられません!!壇珠さんに憑依し、壇珠さんを担当させていただいている魂なのかもしれませんが、この世でこうして圭吾さんと知り合って、こんなにエキサイティングなやり取りをさせていただいていることが嬉しいです!!壇珠さんよかったですねという親心とともに、圭吾さんにうちの壇珠と仲良くしてくださっていることに感謝いたします!!どうぞまたよかったら、生々しく男らしきお返事を書いてやってください!!よろしくおねがいします!!ああすごい満足だ~~うぉっしゃあああああああ!!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)