見出し画像

【往復書簡】察してなどやるものか

上の圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さんどうもです!往復書簡、楽しくなってまいりましたね!こうして公開でやり取りするのは、本当にいいアイデアだったと思います!

前回の圭吾さんのくださったお返事が、まったくお返事でなかったことが面白すぎたのと同時に、圭吾さんらしいと感じたのでツッコんでみました。
そうだそうだ、圭吾さんといえばこんなふうに、「一応往復書簡なんだから返信する形で書くものだろう」みたいな常識を華麗に破って進む人だった!と思ったので、それをスルーするのはもったいないと思ったのでした。圭吾さんは悟空のようですね。

ツッコんでおきながらおかしいのですけど、返信になっていなくてもいいですよね。相手の書いたものによって湧き上がったものを互いに書きなぐりましょう。これが俺たちのスタイルだぜってことで!(笑)

圭吾さんがわたしに、このようなわたくしめに、品があるだなどと言ってくださって、もうなんというか、お褒めに預かり非常にこそばゆいです。
まさかの『品』・・・!自分とは一番遠いもののように思ってきたことなので、驚きでした。

今回圭吾さんが、「出した結果上品になる女性」と、「出した結果下劣になる女性」との違いについて聞いてくださったので、それについて考えてみたのですが、自分があまりにも品とかけ離れていると思ってきたために、正直、はじめはなにがなにやらさっぱりわかりませんでした。圭吾さんはどんなところでそう思ってくれたのだろうと首をひねりました。上品であろうとする心がけをもったことがなさすぎたため、「品」というものについて、ゼロから考えてみました。

自分を振り返って考えてみたのですが、結局のところ、下劣になるときというのは、「出した結果」なのではなく、むしろぜんぜん「出せていない」ときなのではないかと思いました。正直に本音を出せれば素敵なのに、本音を出していないから素敵じゃなくなるのだと。

わたしの場合は、己を偽ったりするといきなり表情から朗らかさが消え、挙動不審で醜くなります。品性のようなものがあるとすれば、そのときはそれも失われている気がします。女性が本音じゃないものを出しているときに、たとえ見た目にはキレイにまとまっていても、自分の本心ではないものを演じていて、なにかがブスになるのだと思います。

たとえば、圭吾さんの書いてくださった「今日は宇宙のタイミングじゃなかったみたいでいけなくなりました。誰か他の人に席を譲ってあげてください(はあと)」みたいなキャンセルの連絡を、開催二時間前とかにもらうことがあるというエピソードにしてもそうで、それって本当の思いが書かれたものではないと思うんです。豚の背脂くらいにコテコテの嘘だと思うんです。

わたしもそんな連絡をもらったら「なぁ~にが宇宙のタイミングだぃ!宇宙のせいなんかい!そんな言葉でドタキャンを美しく見せようとしてんじゃねえや」と思ってしまうことでしょう。思って「しまう」というか、思うに決まってらァ。

きっとこの人も、本当のところは「やっば~・・さすがに2時間前はゲスすぎるっしょ・・」という思いがあったんじゃないかと思うんです。なかったとは言わせぬ(笑)

だったら正直に、たとえば「坂爪さん、本当に申し訳ない。これからイベントだというのに、先程になって、人間のふくらはぎに性的興奮を覚える人の集まる大変レアな会が開かれると知ってしまいまして、わたしは実はそのフェチにど真ん中で該当するため、考えるだに激しい興奮を抑えられなくなりました。それでめっちゃ心苦しいのですが、坂爪さんのイベントを欠席してまで行ってみようと決意した次第です。身勝手な理由でギリギリで欠席だなんて、ほんとうにごめんなさい!」のように、自分の思いを正直に書いたほうがいいように思います。残念な連絡なのは変わりませんが、伝わるものがあると思うんです。

女性の、申し訳無さを伝えよう、ほんとうの思いを見せようという血の通いを感じます。それが温かみとして相手に伝わるのだと思います。もちろん、上の例のように行き先や性癖までバラさなくてもいいのだけど!

宇宙のタイミングのせいにされちゃうと、こちらへの信頼はまるで感じられないですよね。それに対して文句を言ったら、こちらが「宇宙の采配を信頼していない人」になっちゃうみたいな、物申したほうが負を食らう内容です。心のやり取りを断絶された感じがします。そんな嘘の言葉に、温かみもひったくれも、一蓮托生感もないと思うんです。

圭吾さんの書いてくださった、女性の『察してよ問題』、これは根深いものでございますね。これも結局のところは、正直になっているかなっていないかに関わると思うんです。察してよ、のときって、正直さからかけ離れていると思うんです。『あたしが目の前で一生懸命掃除してるんだから、察してあなたも動きなさいよ!』みたいなときね。

嫌なら掃除をしないのがいいと思いますが、でも言葉で伝えるなら正直に、「わたしさ、嫌なのに我慢して掃除してきたんだけど、手伝ってもらえないと愛されていない気がしてきてさ。それで悲しくなって憎しみすら募ってきて、時には殺意すら湧いてくるんだけど、そんな自分が嫌で辛い思いをしてるんだ。わかるかなこの感じ?!わたしは、僕がやるから君は座ってて、みたいな扱いされてみたい!!それが夢すぎる。嬉しくて死にます。でもこのままだったら、別レル以外ノ道ハナイダロウ・・」などと、ダサくて弱くて危ない思いを脚色なくそのまま言えばいいのだと思うんです。

それが、同じ思いに由来する言葉だとしても、ひたすら不機嫌な顔で過ごしつつ「部屋がきれいなのって誰かがやってるからだよね。それをなぜなのか考えてもらえないのって、わたしのせいってこと?なにがいけないの??」みたいな本当の心とはかけ離れたことを、相手への不信感バリバリにして出すと、そのとき女性の美しさが失われていると思います。そういうふうに伝えようとすればするほど、相手とは心が通わなくなると思うんです。

そういう『察してよオーラ』にふれたときの、「罠にはハマらねえぞ」の気持ち、解る気がします。わたしも、誰かがわたしの横でモジモジとして、そちらから察して話しかけてほしいんですが的ななにかを放っていたりすると、あえて反応しません。
『素敵な君よ、君はそこにいて一体なにを待っているんだ?自分を「自分から気安く話しかけるのに値しない女」などと思ってナメてはならない!そんなもんじゃねえはずだ!出せ!出してくるのだ!!』という気持ちが湧いてきます。だから、威風堂々とスルーします。それは相手への信頼です。だからもし、わたしがなにかでモジモジしていたら、皇帝のごとく堂々と無視してください。俺は自力で這い上がります。

この『察して感』と、「品」というのは、関係があるのかもしれませんね。

わたしは、以前別の投稿にも何度か書いたことがありますが、「察してよ」と思っていません。男は察せないと察しました。もはや今は、察してほしいどころかむしろわかり合えないことが当たり前だと思っていて、そこへの期待がぬぁ~んにもありません。

正直に言わないと伝えようとしたことにならないと思うし、言ったところで相手がどう取るか、これはもうミステリーだと思っています。わたしは、人のことはわからないと思っています。わかってる、わかってもらえる、と思いこんだらアウトだと思っています。でもそうすると、これも不思議とぐるっと一周して、無言のところで真にわかり合えるものがあると感じます。

言葉ではないところで感じている一体感みたいなものですが、それは互いの無言にこそ通うものだと思うんです。それはもう、口に出さなくていいことだと思います。いちいち言うほうが野暮というか。そこを圭吾さんは、「何もかも出しているわけではない」と思ってくださり、それを品だと感じてくださったのかもしれないですね。嬉しい言葉でした。

人と人との間に、『心の奥で、相手が自分を好いてくれているとわかっている。ただ思いが響き合っているとわかる。それはいちいち言わなくてもいい。むしろ、言葉にしないからこそ、その思いの美しさが損なわれない』という感覚が生まれることがありますよね。

そういうときに、「でも確認しないと不安だ」と考え始め、不安に集中するがあまり言葉で「好き」と言わせたいと思い始め、相手をそっちに操作したくなったりしてしまう。そういうときに、純粋なものや品性が問われるのだと思うんです。

「言わなくても大丈夫」というコアの心をそのまま出して、無言でいることでほんとうの自分を表した女を、魅力的だと思います。品があって、セクシーだと思います。

それから、正直に「最近弱気な自分が現れてきて、すぐに不安になっちゃうんだ。言葉で好きって言われたくなったりしてね。あなたの思いが心に響かなくなってしまって」などと言われるのもまた、下品だと思わないと思います。本心を出しているから。

それを、「ねえねえ、好きとか愛してるとか、これまでの彼女に対しては口に出して言うほうだった?」などと本気からズレたことを聞いたりして『察して感』を放ち始めるとその品が失われ始めます。

さらにはこじれて曲がって、「彼を愛してるから彼の欠点を許していける。今は素直な表現ができなくてもいい。宇宙のタイミングじゃないだけなの。わたしは彼の嫌なところも受け入れる覚悟がある。恋はドンと恋だから(はあと)」とか「自ら愛を口に出せない男って勘違い野郎でしょ。レベル低う~要らね~」などと言い始めたりすると、もうぜんぜんその人の思いじゃない。

好きだと言われたい弱気な思い、その思いはどこへ行ったのか。本音を言ってるようで、本心からはかけ離れているんです。お前はやめておけ物件になりますよね。こういうときに、女性から素直さや天真爛漫さが失われ、圭吾さんのおっしゃるおブスになってしまうと思うんです。出してるようで、その実なにも出してない。本当は不安でいっぱいのはずで、そのダサさをそのまま曲げずに出せばとても素敵だったのに。本心から目をそらして自分を出さずに演じてるから、ブサくなるんだと思います。だから女性は、本音をごまかそうとするといつでも下劣ブスになれるのだけれど、本音を晒し出す気にさえなれば、いつだって魅力的になれるのだと思います。

本音を出す覚悟というのは、同時に本音を出しても大丈夫という、男性とか、人間とか、世界とか、宇宙とか、大いなるサムシング的なものとか、何かに対する無防備な安心でもありますよね。その覚悟が、見る側からは男前に見えるとも思うんです。当時に、無防備な身を委ねるような安心感は、女性らしさとして映る気がします。

女性がそうして裸で身を委ねているときって、きっと同時に相手を包めるのだと思います。だからやっぱり、女性は本音を出す覚悟と安心があるときに美しいと思います。本音を出しているときはきっとすべての女が素敵で、偽ると即下劣になっちゃうのだと思いました。恐ろしき境界線・・・!圭吾さんはどう思いますか。

それでは、今回はわたしも圭吾さんに質問をしてみます!

わたしは圭吾さんと話しているときやこうしてやり取りをしているときに、自分を女性だな~と感じます。なぜかと考えてみたのですが、自分がいくら男らしいような部分を出しても、圭吾さんがわたしに女性として接してくださるからだと思います。このことへの喜びが桜の花のように舞います。

圭吾さんには、自分を「俺って男だな」と感じるシーンはありますか。また、それはなぜでしょうか。いや~お返事がめちゃくちゃ楽しみです!!どうか気楽なお返事をください。かしこ

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)