Typing 10|April 28th,2022

2022年4月28日(木)

twitterのアカウントを作ったはいいが
何かを書こうとすると手が止まる
何かを気にするわたしがそこにいた
何かを気にする
わたしはなにかを気にしている
何を気にしているのだろう?
人からどうみられるか?
ということも考えていた
これは確かだ。
それと文字を書くと冷たそうに見えるような気もした
これは自分がその文章に対するイメージをそのように作り上げる
現実をつくりあげる

いうことでもあるかもしれない
わたしの世界のつくりあげる方法と言ってもいいのかもしれない
結局ここにくると安心する
このMACのデスクトップのこの画面にくるとだ
ここはもっと広く感じる
何かをまだまだ気にしているわたしがtwitterを立ち上げることで気が付く
そんなことに
人からどうみられるかということに対して考えて手が止まるのなら
ここにきてこうやって言葉を書いていく方がいい
そういう風に思うね
色々試すのはいいこと
そうすると気がつくから

わたしに起きたことをここに記す
それだけでも読むほうからしたらフィクションだし
わたしからしてもフィクション
というか
「書く」というだけでどんなこともフィクションになるのじゃないだろうか?

わたしが言葉で表現

起きたことをわたしが言葉でここに書く
読んだあなたが世界を作り上げる
わたしは書いているけれど
あなたは読むことで世界を作り上げる
毎日何個も何個も世界を作り上げる
あなたは創造者でもあり破壊者
それをずっと繰り返しているのだよ
時間もどのくらい早いか遅いかもわからない
その世界は不安定で動き続けていることは確かで
足元はぐらついているかと思えば
宙に浮いているかもしれないし
次の瞬間は海の中で漂っているかもしれないし流されているかもしれないし泳いでいるかもしれない
そんな世界にいる
実際に自分もそこにいるんだけれども
また違う世界を立ち上げる
その連続なんだよ

わたしからあなたに話しかける

そんなことばになっているのかもしれない
今わたしは考えずにこれをタイピングしているから
どんな世界になっているのか考えることもできないし
立ち止まってみることもできない
車を運転しているときと似ている
とわたしは思うよ
説明は省くよ
立ち止まらないで書いてみる

立ち止まってかいてみるとどうだろう?

それはどんな風だろう

考えると手が止まるような気がする

この今わたしがやっているタイピングは考えていないのだろうか?

問いを立てまくっている

そういえば子供というのも親に問いをよく立てているよね
似ている

わたしはここに生まれたばかりなのかもしれない
それもわからない
いつ生まれたのかいつここに来たのかわからないが
ここにいる
ここに戻ってきている
もはや寝ている時に体験する「夢」というものを
おきながらもその世界に入っていく
そのような行為にも感じられてきている
入っていくというか書いている
タイピングをしている
そうすると寝ている時の「夢」が立ち上がる
そんな感じ
起きていることが夢と同じ

ような
とか
使わないで
比喩を使わないで書いてみる

癖がついている
比喩を使う癖がついている

比喩から
~のような

~のような
って固定してしまっているのかもしれないね

~のような

使わないで書くのは難しいのか?
わからない

わからないという言葉がわからい
けど使っているということは
その言葉がわかっているから使っているのかもしれない
かもしれない
何回も使うね
断定できないからか
わからないからか
かもしれない
よね
かもしれない

maybe

もしかしたら~かもしれない

maybe

may be

maybe

ハマってしまった
loop

maybe
maybe
maybe

曲にできそうな言葉
ループ

繰り返す

この筆記
タイピングができていることだけでもありがたい

ここに来れる
ここに来れなくなるのはきついよな

手が動いているからここに来れてる
手は車
手が移動手段で同時に家
手が車
って面白い言葉
って囚われすぎるとこの感覚はするりと消えていく

するりと消えていく
もどこかで聞いた言葉
誰かが作った言葉を使っているのだろう
癖がついてしまっているね
そのくせを外していく練習でもあるのか
今やっていることは
なるほど
なるほど

繰り返すと
なるほど
なるほど

ふ~ん

風景を書きだしたら
話した言葉を書いたり
仕草を書いたり
行動を書いたり
言葉で立ち上がる
その世界

言葉と言葉から世界が立ち上がる

建設現場

だね確かに

坂口恭平すごいな

確かに建設現場だ

「現実宿り」

も以前より読めるようになった
どういうふうに読めばいいのかわかるようになった気がする
決まりはないのだが
もともと

自分の今までの本の読み方で読むと読めないのだよ
先を想像するような
期待するような読み方や
「これってどういう意味?」とか
「この登場人物は誰?」
「どういう話のあらすじだった?」とか
考えて読むと訳がわからなくなるし
多分読めない
面白いと思えなくなると思う
以前はそうだった
わたしも

でも
タイピングを始めてからわかってきたような気がする

これもわたしの主観
物事の捉えから
世界の作り上げ方なのかもしれない

とにかく
このタイピングするテキストエディット上は落ち着くことは確かで
ずっとここにいたいなんて思っちゃってる

Instagramでみなさんは自分のアバターを作っているともいえる
全部ある意味虚構だもんね
写真
言葉
写真だって加工するでしょ
言葉はその人がどのように言葉を取り扱うかということと
読み手の世界のつくり上げ方によって変わる
多種多様という言葉では表現しきれてない多種多様がそこにはある

自分のセレクトで写真を載せるわけでしょ
そこには何かしら意図がある
意図がないと思っていても
それを選んで載せているのだから
それが意図になってしまっている
本当にどうでもいい写真を載せる人ってほぼいないでしょ
だから
面白い世界なのかわからない
自分の見せたいものだけをそこに載せている
相手はそれをみてその人のイメージを作り上げる

instagramはアバターを自分で作っている

しかも実際の登場人物
実際というのはリアルに身体を伴って登場している人が多く
匿名でも
写真ということはスマホかカメラを使っていることが多いわけで
結局カメラによって
そのままが写る
もちろんそれは加工されて虚構になるのだろうけれど

虚構を作り上げること
みんなやってる
それが当たり前になっている

実際に会った時の失望する時が多くなる人が増えるんだろうな
だって
その虚構を見て
instagramを見て 見た人は そこに自分でその人のイメージを作り上げるから
実際に会ったときに 自分が作り上げた その人がそこにいないと 落胆するのだ
そういうこと増えるんだろうな~
それを演じ続ける人なんてほぼいないだろうし
それはそれですごいけれど
演じることに熟練していない限りボロが出るのは明らかだよね

虚構を書くのではなく
そのままを書いても
それすらもある意味 自分の言葉を書く技術で それが変わってくるわけだね

SNSか

ソーシャル・ネットワーキング・サービス(: Social networking service; SNS)とは、Web上で社会的ネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)を構築可能にするサービスである。英語圏では "SNS" という頭字語は日常の文章や会話で用いられておらず、social mediaや単にsocialなどと呼ぶ。

だって。wikipediaより。

web上の社会的ネットワークね~
別世界なわけだ
身体を伴った世界とは

虚構も現実だもんな
リアルだもんな
みんなすごいものを使ってるね
なかなか

SNSではないね
ここは

わたしが作り上げている一つの世界なんだろう

それをあなたが読む
誰が読むかはわからないし
誰も読まないかもしれない
ただわたしは机に座ってMac book proのキーボードをタイピングしている
Macからmac book proへ言葉が増えたね
そうするとよりあなたはわたしが何を使っているのかが固定されてしまった
それまではMACだけだったので
どの機種を使っているかはわかなかった
どっちがいいのか悪いのかはわからないけど
あなたが作り上げる世界が少し変化したんじゃない?
一瞬。
わたしはそういうふうに思った
今これは作り上げる訓練。

言葉で世界が作り上がるのだよ

あなたの中に

読んだあなたの中に世界が立ち上がる
わたしもあなたも創造者
この言葉をタイピングしているのはわたしだけど
最終的に仕上げをするのはあなたなのだよ
家だとししたらわたしは家の骨組みを作っている土台を作っているかもしれないけれど
あなたはそれをどのようにでもDIYできる
DIYするのはあなた
どういう風にその家を使うのかもあなた次第
それで家がかわるのと同じ
家だったらあなたもわかるでしょ?
わからないかもしれない
でもそれでいい
わからないことは悪でもないしわたしは責めてもいない
わたしもわからない
わからないということもわからない
そのループではあるから
考えてもある意味ずっとわからないんだと思う
考えても考えてもわからないのはある意味当然
ぐる~っとゆっくり回っているような
感覚がありながら今これをタイピングしているのだよ
何かゆっくり回りながら
落ち着いて
潜っていく

落ち着いて潜ってく

体に 

空間に

潜っていく

わたしはタイピングしているだけなのに
このタイピングという行為がわたしを連れて行ってくれる
寝ているときの夢の中に
夢とは違う夢
それは寝ている時とは違う夢
夢という言葉ではないかもしれないが
起きていることは夢

辻褄が合っていない世界
不安定な動いている
グニョグニョな世界
次の瞬間には全然違うことが起きている

もともと
その世界は当たり前に日常に存在している

多分
それに気づくと
不安定が怖い人の恐怖は増大する
自分自身が世界を作り上げるから

だからある意味
発狂してしまうことを防ぐために
この身体システムができたのかもしれない
なんて思う
面白いよね

インド人はシステムが好きで
古代から
祭式、詩、スートラ、宗教とか
システムを作ったり
言葉で説明できないとわかっていることもどうにか言葉で説明しようとしてきた

それ自体はインド人がそう
というよりは
そもそもこの世の中
人間も含めて植物も虫も動物も天体も
システムが好き
いや
システムを持っていると思っているのは
自分自身が人間のこの体のシステムにいるからそのように思うのかもしれない
かもしれない
としか言えない
はっきりとは断定できない
それがはっきりと見えているわけではないのだから

ただ

サーンキャ哲学の視点でいう
原質・自性 (プラクリティ)は個人というよりは、集合意識みたなものに近いから
個ではないわけで

それは
人間の素材でもあり、自然にあるありとあらゆるものの素材でもある
から

霊我(プルシャ)は生命体の数だけ、個があるけれども
プラクリティにはない

だから

もともとの素材は皆同じってことが面白いよね

結果の中に原因は既にあるねん

てことなんす

だから信号もコンクリートも虫も鳥も川も天体も虹も女性も
全て素材は同じ

素材が同じって面白いよね
でもそれは精神的な素材でもない
って。

個は一応ある

それぞれの個が作り上げる世界
プラクリティの展開の仕方は多様なわけだよ

だから

その人が作り上げる世界

それが実際は多様なんだよ

例えば

太陽とか月とか

空を見て

あれが太陽
あれが月

くらいは現代だと
ほぼほとんどの人がそのくらいの認識だと割と同じなわけでしょ

でも
そのあとは結構な違いも生まれたりするわけだよ

というのと同じでね。

手があつい

手がホッと

ギター弾く時、手がより繊細に動くようになった

これは最近手を動かしまくっているからなのか?

絵を描く
言葉を書く
料理をする

これやり始めたら

手ってすごいよな

車のハンドルも握るけれど

このタイピングの世界を生み出しているのも手なわけで

手は乗り物でもある

タイムワープもできるというか

時間軸も無くなったりする

いきなり過去に行ったりとか未来に行ったり
時間軸どころか
犬にも石にも川にも
男性にも女性にも それ以外にも多種多様な性別
性別入らないような気もするが

ここでまたダムタイプが浮かぶ

「私は夢見る。私の 性別が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 国籍が 消えることを。」
「私は夢見る。私の  血が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 権利が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 価値が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 常識が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 人種が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 財産が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 様式が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 恐怖が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 義務が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 権威が 消えることを。」
「私は夢見る。私の 権力が 消えることを。」

これね。
古橋悌二はすごいよ

ここまでで
5101文字
原稿用紙12枚半くらい

手は目に見えないものの移動手段
足は体の移動手段(目に見えるわたしたちの身体の移動手段)

なのだ

手は「chaosな現実」移動手段
夢のような状態
「世界」を作り上げ
それを読んだ相手はまた新しい世界を生み出す
同じ言葉
同じ本
を読んだとしても
人によって世界の創り方が違うのだ
同じものを読んでも
一人として同じ人はいないと思う
多少なりとも違いがある
つまり一人一人違う世界を作り出すのだ
その数は膨大というよりさらに膨大だ
数えることができるのだろうか?
数字で表すことができない数じゃないだろうか
果たしてそれは数というのだろうか?

手は移動手段
時空移動できる手段
手は時空移動できる手段

時空とはなんだろう?


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