Typing 7|April 25th,2022

2022年4月25日(月)5:46 am 天気:晴れ

4:15起床 大体
そっから二度寝で5:15起床 大体

目覚めがいい
4:00台の時はかなりぼんやりしてたが

今朝は二度寝がうまくいったらしい
二度寝をすると、逆に頭も体も重いことが多い
4:00台に起きた眠さと重さで1日を始めると眠い状態がずっと続く
それも好きではない

好きと嫌いの境界線
聞いたことがある言葉

今日も試運転みたいなところからこのタイピングはスタートする
始まりはいつもこんな感じなのだ

だんだん動いてくる繋がってくるのだよ
不思議なもんでね

これは何をしているのかわからない

日記
ってなんだ
あったことを記すものなのか??
改行が好き

改行をよくする

放っておくとすぐにバラバラになっていく
自由に動いていく
自分のなにか
「自分の内側」っていうけれど
それが内側なのか外側なのか
なんてわからない
それは自分の何かが決めているだけ
目を閉じればわかるだろう
それだけで世界は変わる
視覚を閉じただけでも世界は変わる
他の人から見たら
目を閉じているあなたがそこに立っているということは変わらないのに。

Macの変換おバカ
相変わらず

タイピング最高
だんだんほぐれてくる胸の中心 中心かどうかはわからないが凹んでいるところ
そこら辺からワクワクが湧き上がってくる感じだ
ワクワクってなんだ
ワクワク
ワクワク

音が既にワクワクしてるよね
ワクワクってなんだ

何?って何?

何?って探求する言葉になるのか

今日は暖かいらしい
最高気温26度

誰かの本に書いてあることは全て現実だ

ということが理解できたような気がする

その言葉は読み手の中で世界を作り出す
同じ言葉を読んでも人によってそれぞれ違う
イコール
皆 世界を自分で作り出す
これは今 ヨガのサーンキャ哲学を独学してて そこにも繋がることだったりもする

それ面白い

だから言葉は面白い

映画では体験できないこと
映画はある意味定義してしまう部分もある
もちろん定義しないような作り方もできるけど
原作があると、原作が例えば小説だったりしてそれを映画化しようとすると
ある誰かの視点というものが固定されて それを見せられる
だから
本を読んだ人は、自分が作り上げた世界と その映画の世界が違うことによって 落胆するのだ
落胆することが多いよね
映画の方が小説より面白かったっていうこと少ないよね
少なくとも自分はそうだけどそうじゃない人もいるだろうね
それでいいとは思うが

ここで何が言いたかったかというと、「言葉」を記すことの面白さ
声「言葉」を話すのともまた違う
話すと「言葉」はそこで消えていくのだ
それを記録するのが動画だったり、音の録音なわけだけど

動画ってのは厄介よね
スマホのビデオ機能とか
いい面もあるけど悪い面もある
それは何でもそうだと思う

この「言葉」を記すことの面白さよ

自分が書くときも楽しいけど
相手がそれを読んだ時っていうシチュエーションもあるから面白いよね

論理的思考の現代人がわかるような言葉の組み立て方と
それを壊していくような
chaosな現実を垣間見せるような言葉の出し方がある
ということに最近実感してきた

実感ね

自分でやりながら自分で体感して気づくことな気がするな

論理的 システム的 な言葉の書き方
これはいわゆる「人がわかりやすい」言葉の使い方
????となりにくい言葉
これも大事ではあるよね

そうではない言葉

例えば「詩」のようなものとかもそうだろうし
小説でもそれはできると思うし

そもそもそういう括りのない言葉の世界を創るのも面白いと思う
それすら「現実」なんだよ

ここに書かれてくるってことは
「現実」なんだよね それが現実
読んだら相手に、その言葉から世界が生まれる それが現実
言葉ってすごいよね

相手が読むことによって新しい現実を生み出す
みんなそれをやっているわけだけど

非現実なんて ないんじゃないか
むしろこの今皆が現実だと思っている現実自体が非現実なんじゃないかとすら思えてくるよね
それについて深く考察するかもしれないししないかもしれない

それにワクワクする
興奮する
そういう言葉がここでは当てはまるかな

このいままで「ワクワクする」と表現してた言葉を違う言葉で表現するとしたら何なのだろう?
そう考えるとわからないねというか考えたことがなかったということかもしれない

phewの言葉の表現もおもろいよね
???
ってなるのって
面白いよね

論理的思考になっている現実を壊してくる
壊すというか
もっとゆるいテイストなのだが
固く締まっている紐を緩ませる
スルスルっと
ような

「ような」を使わない表現がいいかもね
「ような」は論理的になっちゃってるわけでしょ
既に

禅問答のような言葉に見えるでしょうが
あまり考えては書いてません

わたしはあなたに向けて書いているわけではありませんが
あなたはこれを読んでいる
読んでいるあなたはこれをどんな文章だと思っているでしょうか?

わたしとあなたは実は同じです。

読んでいて、迷宮入りするかい?

迫ってくる感じがあるね

なかなかおもろい

わたしとあなたという言葉の使い方は面白い

俺とか使うと「男」という印象が付きやすい
でも実際は女性だった なんて書き方もあるかもしれない
いろんな言葉の使い方ができるね

いろんな人になれるというか

風景自体を語る人もいるよね
小説とかだと

その登場人物からの視点を描きながらも
風景を客観的に描いていたりする
またはその登場人物からみた
世界観でもあったりする
風景の描写自体が。
そういうことを書けるのが面白いよね

ここはかなり自由だ

身体を伴った現実では結構難しいかもしれないよね
狂人と思われるのが怖いと思ってできない人いっぱいいそうだな
というか元々みんなこの状態を持っているってのが面白いよね
だいぶ
それを気づかないようにセッティングされているんだな

気づくと「恐怖」「怖い」という感覚が想起されるように洗脳されちゃってるんだな
今の人間
昔の人間はそうじゃなかった人が多いかもしれないね
そもそも社会とか教育とかも全然違うからね

振りかえらないでこの言葉を書いていく行為
流れをそのまま言葉でタイピングしている
書くというよりはタイピング

日記
あったことを記すことなのか
それだけじゃなくてもいいよね
そこに 本当に論理的現実で起きたことではないことも記していくと面白いよね

起きたこと
論理的現実を書きながらも
こんなふうに今タイピングしているようなこと
chaosな現実
そのままタイピングしていったり
それが入り混じってる感じ
どうなるだろうね?
予測もせずに書き続けること
それが面白い
だって今自分はこれがやりたくてやってる
生きてるって感じはしてるよね
自分のやることだって思えるよね
これは好きと思わずに好きなことだろう
ただただこれをやりたい

書けば書くほど何か立ち上がってくる感じが面白くてしょうがない

言葉の威力よ
威力

色々やん
80’sのDIYな音楽よ
電子楽器が生まれてきて一人でバンドのようなことができるようになってきた時の衝動よ
そこに惹かれてるような気がする
気がしているだけで実際は何かわかってない
んだけどね
そんなもんよ

そんなわかった風なことをいうより

格好つけようとしなくてもここではええねん

そのままchaosを体現してけばええねん

これは日記なのかはわかりません

天気とわたしとの関係性

自分て書くより
わたしって書いた方が面白いね

こっちも面白いし
読んでる相手も面白いような気がする

書いてるわたしも楽しいし読んでるあなたも楽しい

何か風通しがいいよね
「自分」って書くよりは
自分って曖昧すぎるからわからない
自分が思う自分て自分ではそもそもないかもしれないからね

だから「自分」って言葉に違和感を感じる
何かそういう違和感みたいな感覚が
タイピングをしたときにある

広がっていく

それぞれのわたしの風景
あなたの風景

それが違うのだよ

あったことストーリーを書く人
客観視してる人
風景を書く人

ここでは何かをまとめようとしないでこれを書いている

書いているわたしは一体誰なのだろう?
わたしでもあるがあなたかもしれないよ
これを読んでいると思っているあなたが書いているのかもしれない

僕というのは、男の人ってイメージになるね
それは社会の中でどういう位置付けで、その言葉が用いられているかってことで決まりやすい
いわゆる言葉の定義ってやつだ
その言葉の定義をあえて使いながらも
言葉と言葉の組み合わせで論理的ではない現実を
言葉で表すことはできるだろう
今はそれを深く考えていないけれど
できるだろうということだけは感覚的に感じている
予感みたいな感覚
多分できるだろうやっている人もいるだろう

やっている人をやっている人という言葉じゃない言葉で表すとしたらどう表す?

考えてないけど
考えると手が止まる
手を動かしながら考えるってことは結構難しい

考える=手を止めること

とも言えるかもしれないね

いきなり気づいちゃったね
こういうので興奮してここに囚われると
消えてしまうのよ

このまま流してけばいい
閃いたようなことを書く時もあれば
一見わけのわからない言葉の羅列になっていくこともあるのさ

昔の言葉
漢字
とかわけがわからなすぎて
意味がね
その言葉のそもそもの定義みたいなものが
それがわからないから
そこで立ち止まる感覚は気持ち良くないね

そこで止まってしまう
考えてしまうのだ

考えてしまうとそこにずっと立ち止まるような感じになる
下にずっと掘り下げていくような感覚か
動きが少ない
下にいくような感覚か

ファイル圧縮みたいな感じだよね
元々はもっと情報量があるのに
それを圧縮する
持ち運びやすいようにする
みたいな感じ
MP3か 笑

そうすると余計わからなくなる
これは育ってきた時代性もあるのかもしれないね
言葉の使い方に関しては
それが当たり前だったってことかもしれないから

そういう意味では
わかる言葉を使いながらも
chaosな現実を書くことの方がシンプルに楽しいかも
読んだ人も意味わかんなくても言葉を読める
単語で止まるってことが起きづらいだろうから

例えば
「傀儡」
って言葉が本で出てくるじゃん

まず
・この言葉の読み方がわからない

ってとこで止まる 止まる1

続いて
・この言葉の意味がわからない

ってとこで止まる 止まる2

さらに
・言葉の定義をみたが、その定義自体がわからない

ってことで止まる 止まる3

みたいに起きたりするわけ

少なくとも
止まる2くらいのところまでは行きやすい

わたしもそうでした
この「傀儡」という言葉が実際。

それがいいのか悪いのかはわからないけど

言葉の圧縮よね

言葉の圧縮

そういうことが結構ある気がしてきたような

こういう難しい言葉だけではなく

本当は 言葉でできない感覚が、あなたに感じられているのに
それを表す言葉がないから
例えば
「楽しい」とか「嬉しい」

その中身はもっともっと豊かな世界が広がっていて
その感覚自体は
でもその感覚をうまく表す言葉がないから「楽しい」「嬉しい」という圧縮された言葉で片付ける

言葉は音楽で言ったら「生のライブ」
そこは情報量が圧倒的に違う

映像で見るのと、現場で実際に見るのが全然違う時の感覚って言ったら、あなたもわかるかな?

わたしとあなた

ということばの使い方いいな

しっくりくる

言葉の圧縮

について、面白くなって書いてる わたし

わたしはたった今それについて書いている
書きたいと思う前にそれを書いているのだ
どんどん過去になっていく
感じたことはどんどん過去になっていくのだ
タイピングをしているとわかる
これを感じるためにタイピングをやっているのかもしれない

chaosな現実を実感するためなのかもしれない
安心するような感覚があるのは何でなのだろう?

安心って何なんだろうね?

そういうことだらけだ

言葉の表現ておもろいな

話すのも楽しいけど
こうやって記すのはまた全然違う楽しみだったりする
ずっとやれる感じもあるよね
腕や手の指先が疲れてこなければ
でも疲れはやがてやってくるだろう
こういうことを書き続ける
どういう世界が立ち現れてくるかなんて予想もせずに書くことが楽しい

楽しい

とはどういう感覚だろう?

楽しいのなかに楽しいがある
圧縮されていない「楽しい」を言葉で表現するとしたらどういう感覚だろうか

言葉で表現できないとわかっていることを
極限まで表現しようとするインド哲学
論理的に なぜか論じようとする
面白いなと思うよ
それが
言葉を記すことの面白さをわかってた人がいるかもしれない

でも昔の昔は口頭でヨーガのことは伝えられてきたという側面もある

だから文献に残っているものは少ないのだよ
実際はもっと多様性があった
ということくらいはわかってるっぽい

日本の禅は 言葉で表現できないとわかっていることを 言葉で表現しない
説明しようとしない
もっと抽象的 笑

読み返すことが楽しいというよりは
書くことが楽しい

ここでやっていることはそうだね

そろそろ1時間経つから休憩しよう
洗濯だ

6:49am


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