Typing 27|May 17th,2022

2022年5月17日(火)7:22am 天気:雨

ただいま。
帰ってきたよ~。
テキストエディットの世界。

さて、言葉の世界
ここも現実なのだよ。

そう

寒いよ今日。

書いているこちら側
身体があるわたし

今日寒いよ

この間髪を切ったからね

多分寒い

ってなにを書いているんだろうか

そろそろ
このタイピングはやりつつも
違うアプローチも試したくなってる

言葉を書いていくこと
例えば
小説だったり
短編でもいいし
詩でもいいんだけど
世界を創ることをしたいのかもしれない
そんな気配あるんだよね

あの気配みたいなものがあるのはなにかな?
予感のような
ようなってことばは

なんか
感覚があるってことを表しているよね
感覚はあるんだけど

それに該当する言葉が見つからないとき
そういう言葉を使う

比喩については
いつもかんがえるよね

比喩なしで表現することはできないのか?

ってね

その
言葉にできていない感覚を

それが詩

とかでできるのかな?

ってうっすら思ってる

うっすら思っているも

誰かが既に使った定型句だ

そういう言葉からは抜けていきたい

ここに関しては意識的にならないと

無意識に使う

「無意識に使う」っていうけど

実際の

無意識ともまた違う気がするね

この「無意識」は

この「無意識」は

習慣で 癖で 何も考えずに同じことを繰り返している

という行為を指している

無意識に失礼だ

とまではいわないが

かなり誤解を生むよね

無意識はいろんなことを教えてくれるから

これは自分で自分の使い方を変えてこうかなと

これを書いていて

手が教えてくれている

わたし

境界線はどこなのだろうか?

と今思っている

どちらが書いているんだろうね

手が書いている感覚はある

そのスピードを見るとわかるかもしれない

一番早いのは 手に任せているとき

遅いのは理性で考えている時(手が止まるから)

その中間ができるようになってみたいなと

思っている

今思ったのは、多分手の方ではなくてわたしかもしれない

それすらもわからないよね

手もそう思ったかもしれないし

思っていないかもしれない

わたし

自体も

異なる人物のわたしが同時に存在しているから

これを書いているわたしはどのわたしなのかもわからないよね

読者は混乱するんだろうな

混乱しない人もいるかもしれない

普段からわたしのような人であれば


カラスと土壌

足と柿

わらじと本能


今もスピードは遅い
今日は寒いから手の動きが遅いというのもあるが

なんでもかいていいんだよ

ここには

ここにはね

そう

おもうがままに

同じことを書いたっていいし

そこにルールはない

同じことを書きたいということはそれを今したいということだからね

タイピングだけど実際は

そうなんだよね

こうやって手がタイピングしたいことをタイピングさせる

絵の家

がこのテキストエディット

mac book proなんだよ

ここはタイムマシーンならぬ

時空間を行き来できる場所なんだよね

手に任せると勝手につれてってくれる

それはこちらからは決められない

と今は思っているが

それはわたしの思っている範疇なので

もしかしたら違うかもしれない

わたしは変化するからね

手はそう思っていなくて気づいているかもしれないよね

ハンド hand

手は乗り物

自転車でもバイクでも車でもない

船でも飛行機でもない

タイムマシーン

タイムマシーンというか

時空間を行き来できる乗りものって感じなんだよな

そういうのって

なんていうんだろう

書くことは時空?次元?間を行き来できる

無意識と呼ばれるものにアクセスできてしまう

でもこれは本当に

手に身を任せなければいけないんだよね

ほぼほぼ

もちろん若干ではあるが

「わたし」というものも保っているとは思う

うん

そうだと思う

けどほぼほぼ手に任せた時にそこにいけるかんじかな 

でもね

期待するとそこに行くことができないのが面白い

今とかも

おそらくそれがわかっちゃったと思っているから

そこにアクセスしづらくなってるとおもうんだよね

そこがこの乗り物の乗り方の難しいところなんだ

いっておくよ

これはフィクションだからね

みんなわかっているとは思うけれど

といっても

全部フィクションになるから

いまみんなが思っている「現実」という世界ではね

「現実」は複数重なっている

重なっているというのかもわからない状態

膨大な数がある

cloudみたいに保存されつづけている

cloud みたいに 消去ボタンを押してすぐ消せるものではなく

ずっと残っている

それがトラウマと感じたりするものでもある

という実感

それを

サイコマジックは癒しているわけだけど

「行為」をすることで癒されるのはどうしてなんだろうね?という

質問がわいてきた

多分、もっている「サイコマジック」の本に書いているかもしれないから

一旦見直す必要はあるけどね

自分が書くという行為をしているなかで

自然と浮かんできた疑問だ

自然と浮かんできた疑問

って言葉も誰かが使ってたな

習慣的に使っているな

この感じは変えていきたい

何も考えずにただ言葉を使うことは変えていきたいよね

なぜなら

言葉は相手に世界を創り上げるから

いつもあなたは世界をつくりあげて壊すの繰り返しをしているんだよね

坂口恭平の「建設現場」の意味がわかってしまったような気がする

前は全然意味わからなかったけど

この約一ヶ月間やってて気づいたことは

・「手」は時空間、次元感、複数の現実を行き来できること

今理性でまた書き始めてしまったね

繰り返してやっているとでも

明確にこうやって書くことができるようになる

絵もそうなんだよね

毎日のようにやっていると

変化がある

明晰にわかってくるよね


言葉の話をしよう

相手に話す、つまり言葉は相手に放つわけだけど

それを聞いたあいて

耳が聞こえる前提になるが

その相手は

その言葉を聞いて、その言葉から 自分で世界を創り上げるんだ その瞬間

でもその次の瞬間というのか

それが消えたり 輪郭がぼんやりしたり 色が変わったりして

ときに崩壊していって

そして

その次の言葉を聞いて

そしてまた違う世界を創り上げる

壊して

作って

壊して

作って

の繰り返しを実はどの人もしているんだと思う

それに気づいているか気づいていないかはわからないけどね

今これも手に任せて書いているから

手を止めて考えるのではなくて

手がうごくことは考えることである

っていう状態なのね

これがタイピングをしていて気づいたこと

これには興奮するよね


海に飛び込んじゃうよ

わたしは海に飛びこむ

その海は深い

沈んでいく体

海の外の音が消えいき

心臓の鼓動の音が際立ってくる

そのときわたしは何を考えているだろう

わからない

今わたしは水に潜っているのだ

身体はmac book proの前にいるのに

確かに

橋の上から飛び込み

しずみこんでいるのだ 

ニューヨーク

マンハッタンかはわからないが

ニューヨーク

海が汚いか綺麗かなんてわからないけど

わたしは今海の中だ

その海の中で浮いているのだ

ここは宇宙といわれているところなのか?

いや

映画でみた宇宙観なのかもしれないけれど

浮いている

ここでは地面に立つことはない

ゆっくり歩くと沈んでいく一方だ

わたしはどこまでいくのだろう

巨大なイカが今通り過ぎた

目が大きいな

でも俺になぜか攻撃してこなかったな

むしろ優しい目をしているように俺は感じた

俺がそのように感じただけかもしれない


この遊び楽しいなと思い始めている

コツつかんできた

こういう風にやればいいんだな

なるほどなるほど

見えてきた風景そのまま書けばいいんだな

そのときに

「いや、それはありえないだろ」とか

マンハッタンに大きな橋はないだろとか

いわゆる

今真実とされている客観的な事実とされている記録のことを

思い出さなくて大丈夫

これは遊びだから

だって

誰かがみるわけでもないし

自分がただこのテキストエディットの上でやっているんだ


その街をあるいていると

たこ焼きの匂い

わたしはいわゆる関西の出身ではないと思うんだけど

懐かしさを感じるのはなぜだろうか


風景の語り手

その人そのもの わたしとか

その出てくる登場人物からの視点

だったり

でも小説はすごいな

計算もされているよな

もちろん

そうでないものもあるが


どんどんどんどん

崩壊しては作られていくもの

現実

を書いている小説というのがないんだよね


それはそれは

何か考えて書かれているものが多い


ノノちゃん起こすか

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