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ノーマン・レーベンのディランへの影響(5)

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これまでに5回ノーマン・レーベン(1901-78)について取上げました。最初は次の書評で。

続いて次の4本の有料記事で。

そして、今回は Bert Cartwright, 'Raeben's influence on Bob Dylan' の続きです。

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(承前)
1974年にディランの妻セァラの友人たちが家にやってきた。彼らが話していた真理や愛や美の定義を誰に教わったかと訊くと、ニューヨーク市に住む73歳の美術教師ノーマン・レーベンであることがわかった。1974年春、ディランは彼を訪ねた。それ以後、レーベンはディランにとってのグル(師匠)となる。その人物から影響を受ける度合いと、妻と疎遠になってゆく度合いとが、奇妙にオーヴァラップする。レーベンはあの難解な名曲 'Tangled Up in Blue' に影響を与えたという。

レーベンがイディシュ語の作家ショーレム・アレイヘム Sholem Aleichem (1859-1916) の息子であり、ボブ・ディランの人生に最も大きな影響を与えた人物の一人であること、1970年代半ばにディランの作歌能力を生まれ変わらせたのはノーマン・レーベンだったこと(ディラン自身のことば)、レーベンの教えと影響が大いに彼の人生観を変えたので妻のセァラはもはや彼を理解することができなくなりそのことがディラン夫妻の結婚の破綻につながったとディランが示唆していること、Robert Shelton, 'No Direction Home' にアルバム《血の轍》'Blood on the Tracks' にレーベンが大きな影響を与えたことが記されていること。レーベンがディランに、無意識に感じていたことを意識的にやるための物の見方を教えたこと。

ディランがレーベンに教わった2ヶ月の間に、自分にも説明できない変化が起こり、そんな自分を妻が理解できなくなったこと、レーベンのクラスには美術とか絵画をやりそうにない様々な種類の多勢の人々がいたこと、レーベンが教えたのは美術や絵画ではなく、何か別のものだったこと、レーベンが8時半から4時まで7ヶ国語で話したこと、ディランはたたきこまれたことの90パーセントは覚えていないこと。

ノーマンは技巧よりも形而上学に関心があったこと。ノーマンがディランをよりよい画家にしたかは不明だが、あきらかにディランを変えたこと。ディランがノーマン・レーベンのスタジオで過ごした月日がもたらした最も顕著な変化は、ディランの作詞法において現れたこと。1968年7月29日のバイク事故以来、ディランは記憶力が落ち、曲が時間の解体に関わることだったので、すわって曲を意識的に書くことができなかったこと。

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カートライトの文章は 原典 を校訂しつつ掲載する。原典では、以下は 'because it has to do with the break-up of time...' に続く箇所にあたる。[前々回から、John Bauldie, ed., 'Wanted Man: In Search of Bob Dylan', 1992 の '1974: The Mysterious Norman Raeben' の章 (Bert Cartwright 執筆) も参照している。]

In the interview with Jonathan Cott, Dylan described his albums John Wesley Harding and Nashville Skyline as attempts:

...to grasp something that would lead me on to where I thought I should be, and it didn’t go nowhere — it just went down, down, down... I was convinced I wasn’t going to do anything else.
ジョナサン・コットがおこなったインタビューのなかで、ディランはアルバム《ジョン・ウェズリ・ハーディング》と《ナッシュヴィル・スカイライン》はある試みであったと説明している。

自分があるべきところまで自分を導いてくれる何かをつかむための試みだった。が、うまく行かなかった。ただ、落ちてゆくのみだった。それ以外には何もできないと確信した。

以前の自分が取り戻せなかったというディランのこの言葉は絶望的な響きがある。このインタビューは「ローリング・ストーン」誌1978年11月16日号に掲載された。

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