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エストニアの近代史の映画を観て思うこと

10月3日木曜日 曇り
今朝は午前5時20分に目が覚めたので、まずは今日が締め切りのレポートをやっつける。まだルームメイトのミトラが眠っているので、キッチンにこもって2時間で、内容を1ページにまとめる。その後、旧市街外縁をまわるだけの短めの散歩に行ってきて、シャワーを浴びる。で、午前9時半に友人の法学部の教授から紹介されたタリン大学主催のコンファレンス、「Death of Law? - Machines, Technology and Algorithms Deciding」に出席する。午前中はイントロダクションで、基調講演が続く。

コンファレンスの様子。まだ始まる前。

12時、コンファレンスがランチブレイクに入ると、僕はすぐに12時15分からのGlobal Educational Change(GEC)の第一回目の授業に出るためにTerra棟に急ぐ。この授業は教育の現場や問題を世界規模で学び、議論する。今日は特に教育の男女差の問題で議論が白熱した。来週以降の授業ではクラスメイトがそれぞれの国の教育の概要と問題点などを発表することになっている。僕も日本の教育制度をまとめる必要がある。まあ、週末にやるか。

GECの講師の1人、Mati。ナイスガイだ。

GECの授業は午後3時45分終了の予定を過ぎても続き、午後4時少し前に終わった。そこから午後4時15分開始の初級エストニア語の授業に行く。授業の前に講師のEleが居たのでそこでつかまえて、エストニア語特有の母音の発音の仕方に関して簡単に説明してもらう。その後は学生皆んなが揃った後に授業と、今日は第一回目の小テストがあった。小テストは10点満点で今学期5回あり、これでこのコースの成績の半分が決まる。僕は満点は取れそうにないが、出来はまあまあだろう。

Eleが説明してくれたエストニア語特有の母音の発音の説明図。分かりやすい。

エストニア語の授業は午後5時45分までで、その後は午後6時から、またEleが担当するエストニア文化の授業。今日は「Truth and Justice」というエストニアの映画を観た。これはエストニアの国民的な文学作品『Tõde ja Õigus(トゥデ・ヤ・オイグス)』を原作とする映画で、エストニアの農村が中世から近代に移行する時代を背景に、厳しい自然や社会の中で自己実現を追求し、真実と正義を求めて生きる人々の姿、特にエストニアの農民が土地とともにどのように生き、近代化を受け入れていったかがテーマだ。2時間以上の結構長い映画で、内容も重い。この映画は5巻からなる長編小説トゥデ・ヤ・オイグスの1巻目しか描いていないが、それでも僕はこの映画のテーマである近代化を自分の家族に歴史に重ね合わせていた。僕の父方の祖父は父がまだ8歳の時に亡くなった。機関車の機関士で、肺を悪くしたらしい。母方の祖父は電車の運転手だったと聞くが、覚えているのは祖父の家を訪ねるとストーブの前に背中を丸めて座って薪を焚べていた姿だけだ。戦争も不況も高度経済成長もあっただろうが、全て乗り越えてきただろう背中だった。僕の父の人生は2人の祖父のそれよりも少しは楽だったのではと思料するが、函館の信用金庫で平銀行員として中小の企業や焦点をまわる叩き上げの大変な仕事で僕たち兄妹3人を育ててくれた。これまでの僕の人生は自分で望んで大変な目に遭ってきたところがあるが、楽しいことも満載だ。おそらくこれからの僕の息子の人生は挑戦もできるが、楽に生きようと思えばそうできるような時代のそれになるだろう。そう思うと、近代から現代、そして将来へと向かう普遍的な歴史の流れのようなものに共感を覚える、そんな映画だった。

視聴の前に映画を解説するEle。映画自体は観た後も考えさせる、心に残る作品だった。

映画を見終わってクラスで議論していたらもう午後9時半だった。Eleとクラスメイト皆んなに挨拶し、寮に帰る。ヨーグルトとカップスープの簡単な夕食を食べ、就寝する。

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