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【米大統領列伝】第一回 ジョージ・ワシントン初代大統領(後編)

はじめに

 告知通り、後編では二期目(1793-1797)でジョージ・ワシントンが何をした大統領か追っていきたいと思います。

前回は以下により

閣僚編成

 まず、ジェファーソンは邪魔ばかりするので、弾かれます。特筆すべき点はアレクサンダー・ハミルトンがアロン・バーとの決闘で殺害されたことだろう。アロン・バーはトマス・ジェファーソンが三代目大統領の時に副大統領になる人物で、ライバル関係にあったアロン・バーとハミルトンだが、偶然にもジェファーソンが目の敵にしていたハミルトンを討ったことになる。他に面白い点としてチャールズ・リーという独立戦争中にワシントンに反抗してた人物が司法長官に選ばれたことです。ワシントンは過去の対立がある人物でも協力さえすれば、選任していた人物であったことが窺える場面です。

副大統領 ジョン・アダムズ(継続-1797)
国務長官 トマス・ジェファーソン(継続-1793.12)
     エドモンド・ランドルフ(1794-1795)
     ティモシー・ピカリング(1795-1797)
財務長官 アレクサンダー・ハミルトン(継続-1795)(1804年決闘死亡)
     オリヴァー・ウォルコット(1795-1797)
陸軍長官 ヘンリー・ノックス(継続-1794)
     ティモシー・ピカリング(1794–1796)
     ジェイムズ・マクヘンリー(1796–1797)
司法長官 エドモンド・ランドルフ(継続–1794)
     ウィリアム・ブラッドフォード(1794–1795)
     チャールズ・リー(1795–1797)←(独立戦争中にワシントンに反抗していた人物)
郵政長官 ティモシー・ピカリング(継続-1795)
     ジョセフ・ハーバーシャム(1795-1797)

二期目の内政政策

 前回のウィスキー税反乱はまだ継続中。1794年に暴動化しますが、ワシントン自ら軍を率いて鎮圧することになります。

注:他の鎮圧するケースで私の記憶してるところですと、マディソン大統領以降は大統領本人が就任中に軍を率いた事例はないです。それ以降は命令を通した形です。例を出すとフランクリン・デラノ・ルーズベルトがマッカーサーに退役軍人に対する排除命令で軍を出した事例があります。

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ジョージ・ワシントンの部隊が抑圧向かう絵

 元々、抗議活動のレベルの話でしたが、 ペンシルバニア州での発砲事件以来、武装蜂起にエスカレートします。組織的な抵抗ではなく、個々人が暴徒化していて、郵便物の略奪、税関連職員の襲撃、裁判の妨害等の軽犯罪レベルの事件が乱発する状況です。ワシントンとハミルトンの一派はシェイズの反乱を知っていた為、ペンシルベニア州から連邦政府の権限を発動します。最初は裁判所への出頭命令、次に民兵を組織します。1万人を超える民兵を独立戦争の英雄であるワシントン、ハミルトン、ヘンリー・リーらが率いてました。

注:純粋に独立戦争を勝利に導いたとされる人物たちのもの見たさに集まったと思いますが、それでも大きな人数です。

 大半の反乱参加者は罰金刑のみですが、裁判で絞首刑を宣告された人物が一人いました。しかし、ワシントンは理由をつけて恩赦にしました。行政による司法介入にも思える場面ですが、建国間もない米国でいきなり死刑を発動すると大義名分的にも良くないので、正しい判断だったと思います。他にも収監された人もいましたが、ワシントンの言葉一つで釈放されます。

軍事・外交

1793年4月にヨーロッパでの戦争には中立的な立場を取る中立宣言を出します。独立戦争でフランスの支援に感謝すると共にフランスと共に戦うべきだとする声もありましたが、宣言には戦争に参加する国民を守る義務は連邦政府にはないとしている。但し、重要なことはここでのフランスは革命前のフランスであり、革命後のフランスではない為、連邦政府側は参戦する理由がない状態であり、参戦する意思もないです。ただ、一般人レベルはフランスで革命が起きても、起きまいが、フランスはフランスとして認識しており、フランスでの革命で自由を求める声に感銘してたこともあり、自国民に対しての抑止効果の意味が中立宣言にありました。尚、ジェファーソンはここでフランスの為に戦うべきだと論じていて、参戦すべきではないとするハミルトンらを糾弾。但し、ワシントンはジェファーソンらの参戦すべき声ではなく、ハミルトンら中立宣言を聞き入れます。
 1794年に締結されたジェイ条約では独立戦争後に曖昧な状態にされた英国との経済関係を修復させます。条約の命名は特使として派遣されたジョン・ジェイにちなんだものになりました。要点は以下の通り、

・ミシシッピ川を英国に開放
・英国の敵対国の私掠船に対する補給の禁止(←フランス対策)
・独立戦争以前の米国人負債を英国商人に支払う

当時、中立宣言を発表し、フランスと英国の両国との関係を保とうとしていたワシントンだったが、フランスの私掠船の補給を行っていた為、英国は貿易で米国を締めあげることになります。英国は私掠船支援による貿易問題だけでなく、戦争債券やミシシッピ川の利用まで要求し、米国側は呑み込まざるを得なかった。

注:私掠船とは交易船を襲う船のことであり、海賊行為に当たる。現代の例ですとアフリカの角で行われる海賊行為の豪華版です。

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ジェイ条約の表紙

 軍事力における海軍力の不在で交渉というより、願いの申し出をしたつもりが恫喝されて返されることになったので、1794年海軍決議(Naval Act)で海軍を整備するようになります。決議で6隻のフリゲート艦を建造することを決めます。建国間もない米国でしたが、フィラデルフィアの造船技師と連絡のやり取りをしていたヘンリー・ノックスの人選もあり、米国初のフリゲート艦建造を国内でやり遂げてしまったのです。この潜在力の高さは中々のものと言えるかと思います。褒めるのはここまで。現実は厳しく、英国の大艦隊には敵いませんので、この時代は実力はまだまだです。

 後、1795年にスペインとピンクニー条約を結びます。フロリダの領有権はスペインが所有してることもあり、国境線の策定目的とされます。但し、国境線以外にミシシッピ川の海上交通路の確保の意義が大きかったと言えます。現在のルイジアナ州に位置するニューオーリンズを通って、フロリダを迂回して、ヨーロッパとの交易が行われてました。しかし、スペインはいつでも米国の核心的利益であるミシシッピ川からの交易船を締め出すことができました。そこでスペインと協議をした上で、両者にとってメリットのある内容になるように合意します。

移民政策

 1795年の帰化に関する決議で前回の1790年の決議を一部変更することになりました。大きな変更点は米国での滞在期間が2年から5年に変わったことです。他に、1793年の逃亡奴隷法の施行があります。しつこいかもしれませんがこの時代の奴隷は所有物という扱いです。その為、所有物が州を超えた場合の返還する権利があるという解釈です。1793年の逃亡奴隷法では、陪審員裁判かけずに決められる仕様であることが物議をかもしました。連邦政府の権限の横暴とも言える法で、州によっては法執行を事実上禁止する程の反発を招きました。

教育

教育は一期目と比べ、特筆すべき改善点はない。

経済

 ワシントンの閣僚であるアレクサンダー・ハミルトンを中心に交易を通した成長路線に切り替える為の中央銀行設置と国債発行の議論が行われました。理屈は簡単で、交易を通して国は豊かになり、他国からお金が借りれる国際的な信用を作る必要があり、中央銀行での国債発行がその信頼を担保するというものです。ジェファーソンは反論として、中央銀行を中心に国債発行を行うと連邦政府の権限が強まると指摘してます。ハミルトンは連邦政府の責任に応じて権限も増えるものだと切替します。ジェファーソンは外国(主に英国)が国債を保有すること自体が独立のした大儀に反していると答えますが、ハミルトンとジョン・アダムズは性悪説の話で軽く誤魔化します。ジェファーソンの考えとして、米国は農業国としてフランスのような政治体制を持った国作りを目指していたこともあり、基本的には鎖国に近い状態を目指してました。一方、ハミルトンとジョン・アダムズは交易の重要性と近代化が優先されるべき考えを持っていました。ワシントンはハミルトンらの考えを登用します。ジェファーソンは様々な場面でハミルトンと対立してましたが、1793年に閣僚を抜けて、民主共和党を設立して、連邦党と対峙する勢力を作ります。ジョン・アダムズはジェファーソンとハミルトンの対立を鎮める役割を持っており、ワシントンもジョン・アダムズの判断を最大限に尊重し、物事を決めていました。

ジョージ・ワシントン辞任挨拶

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辞任式のスピーチ内容

 1796年にジョージ・ワシントンは辞任挨拶を行います。辞任の際、合衆国の利益追求は特定の地域を優遇するものではないこと、国民の協力があっての国であること、党という国の一部に過ぎない人々の間で行われる対立軸の警鐘を鳴らすといった内容です。北部と南部の州の経済の形態は異なれど、共通の利益を追求してる点で協力する必要があるとワシントンは述べており、おそらくこの時点でワシントンは南北の対立は過熱すると予測していたと推測ができます。残念なことにその心配は具現化しますが、それはもう少し先の話です。次に国民の協力があっての国であると主張していたことは自由な国民が自らが選ぶ政治で世の中が動いていくことを意味していて、党の対立軸に惑わされないようにしてほしい警鐘に繋がります。ハミルトンとジョン・アダムズらの連邦党とジェファーソンらの民主共和党との対立がすでに起きており、ワシントンは先に国民に警鐘を鳴らしましたが、これも残念ながら、言葉通りに対立軸が具現化します。

「大統領は二期まで」慣習の始まり

 尚、ワシントン自身は辞任した理由として、元々権力の座に興味がなく、隠居生活をしたいという個人の希望がありました。面白いことにこれが大統領は二期までの慣習を作ってしまいます。実際、後の歴史が示すことになりますが、二期まで大統領を務めあげた大統領は権力の監視や過度な政治権力の乱用はそれほど発生してません。本人は渋々受けた大統領職でしたが、大統領は二期まで慣習はそれだけ大きな意味を持っています。

大統領辞任後の隠居生活

 大統領を辞任した1797年3月にワシントンは念願のマウントバーノンでの隠居生活が出来ました。主にプランテーションでコーンウィスキーやライウィスキーといった酒造をおこなってました。ワシントンは任期中も元々体が病気に侵されており、化膿性扁桃腺炎や咽喉感染症にかかっていて、急性の喉頭炎と肺炎にとして急変し、ワシントンは12月14日、自宅で67歳で死去。亡くなる直前に発した最後の言葉は「Tis well(それはいい)」だそうです。病気で発音にも問題があったので、本当は「It's well」と言いいたかったのだと思います。

あとがき

 以上、ジョージ・ワシントンの回終了です。次回から二代目米国大統領のジョン・アダムズを取り挙げたいと思います。

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