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【米大統領列伝】第一回 ジョージ・ワシントン初代大統領(中編)

はじめに

 告知通り、中編では一期目(1789-1793)でジョージ・ワシントンが何をした大統領か追っていきたいと思います。

前回は以下により

大統領職の誕生

 元々、ジョージ・ワシントンは国の指導者になるつもりはなく、バージニアで隠居生活をしたかったところ、民衆が説得する形で国の指導者として選挙に出て欲しいと願う草の根運動がありました。

注:フランスのロシャンボー伯爵とラファイエット侯爵も受諾を促している

引くに引けないジョージ・ワシントンは承諾するも、どういった名称で呼ばれるか考えていました。ジョージ三世のような王なのか?はたまた、偉大な指導者のような存在か?様々な名称を考えに考え抜いた末、プレジデント(大統領)という名称を選びました。この名称は彼の政治における謙虚さが示されてると言われることが多いです。こうした流れで大統領職が誕生します。

閣僚編成

現代では大統領周辺の閣僚編成として16人いるが、建国当時の閣僚編成は4人である。(郵政長官を含めると5人)ジョージ・ワシントンは自分の権力を監査する役割を与える形で閣僚にした為、大統領は入ってません。

注:米国政治での行政府内の正式名称はアメリカ合衆国大統領顧問団で内閣(cabinet)と呼ばれることが多く、大統領を除く、副大統領と閣僚の計16人のことを指します。

当時の閣僚は以下のメンバーである
国務長官 トーマス・ジェファーソン(1789-1793)
(ウェールズ系)(2ドル札)(独立宣言考案者)
財務長官 アレクサンダー・ハミルトン(1789-1793)
(スコットランド系)(10ドル札)(アーロン・バーと決闘した人)(合衆国憲法起草者)
陸軍長官 ヘンリー・ノックス(1789-1793)
(スコットランド系アイルランド人)(原住民に二度戦いを挑み、二度も負けた上、二度目はセントクレアの敗北と呼ばれる陸軍史上最悪の敗北した作戦を命じた人)
司法長官 エドムンド・ランドルフ(1789-1793)
(イングランド系)(ジェファーソンとハミルトンと不仲の人)
郵政長官 サミュエル・オズグッド(1789 - 1791)
     ティモシー・ピカリング(1791 - 1793)

注:郵政長官は大陸会議時代から存在するので、初代郵政長官はベンジャミン・フランクリンです。

注:気になるセントクレアの敗北の結果、原住民犠牲者60人程に対し、陸軍は捕虜を含めると900人以上の犠牲を計上

合衆国が移民の作った国ということもあり、背景も様々だが、ジョージ・ワシントンの選んだ基準は国の地域の多様性です。中央の権力集中を避け、建国理念との整合性と権力バランスを保つ目的もあります。尚、行政内閣は絹布や立法された法律に委任(not mandated)されていない特徴があります。
ここで勘のいい人は気づいてると思いますが、副大統領が閣僚リストに含まれていないことに。これはジョン・アダムズ副大統領が自身の役職に退屈してると考えていた為です。ジョン・アダムズはこう述べてる「人間の発明や想像力が考え出した最も取るに足らない仕事。」と。実際、ジョン・アダムズは一期目では特に活躍もせず、ジョージ・ワシントンもほとんど政策関連の相談相手にしてない。ただ、二期目では、活躍するので、次回で紹介されます。

ジョージ・ワシントン政権の内政政策

 番外編で連合規約時代の米国政治を紹介しましたが、行政・立法・司法の内、行政のみが機能していた政府の権限の弱さの反省から合衆国憲法を作ることになります。詳しい話は番外編参照。

 まず、1789年の裁判所法を制定します。これは米国の連邦法の解釈と施行する司法官の指名する制度です。ジョージ・ワシントン時代で特徴的な点は、司法官の前任者がいない為、ジョージ・ワシントンが司法官を全員を選ばないといけなかったという事情がありました。もし、ジョージ・ワシントンが連邦党又は、民主共和党のいずれかについていて、司法官を全員選んでいたら現在に至るまで大問題として取り上げられたかもしれません。しかし、ジョージ・ワシントンは党派争いは無益と考え、無党派を貫いた。この党に付かない立ち位置であったからこそ、司法官の選択に支障がなかったと言えるでしょう。尚、無党派で大統領職になること自体が異例であり、ジョージ・ワシントン以降はいないです。
 自身の権力を権力を監査する役割を与える形で閣僚を組んだと書きましたが、この時は大統領以外全員野党であったことを忘れてはならない。通常建国をする時、自分以外が野党の国の治体制は独裁者や王をトップにいて、派閥抗争をうまく調整しながら、権力維持を計る場合が多いです。しかし、ジョージ・ワシントンは違いました。彼は元々権力者になる気がなく、お願いされたからやってるにすぎず、政治で党という組織に依存しなくてもよい無党派という形だ。おそらく、本人は「どうすれば、大衆を満足させ、隠居できるものか」と内心思っていたと推測してる。彼は役職で自身の権力が統制されることに力をいれつつ、建国にあたって必要な政治の土台を作り、大統領職を去るタイミングを計る出口戦略を持っていたと考えられる。こういう低姿勢が禍して、二期目もやらされることになるが、それは次回の話。異例とも言える無党派大統領の彼だったからこそ、議会では必要な議論がされ、建国の土台形成に成功する結果になった。

 1790年1月8日に米国大統領初の一般教書演説を行う。現在の一般教書演説の6分の1程度の長さだが、わずか1085単語という短さで端的に必要な情報を伝えた。発表場所は当時首都があったニューヨークの議会であるフェデラル・ハウス。

注:フィラデルフィア→ニューヨーク→ワシントンDCの順に遷都

ジョージ・ワシントンが述べた当時の先決課題は以下の通り
・国防目的の軍を整備
・移民の制限
・農業技術の発展
・郵便局の設立
・教育に力を入れること
・経済を安定させること

国防は英国がいつまた攻めてくるかわかりませんし、長い先住民との戦いも始まったばかりでした。移民の制限は白人の帰化の期間を設けました。農業技術の発展は海外依存してた知識や技術分野を克服する目的があった。郵便局の設置は知識や情報のやり取りを促進する効果と道路インフラの整備の目的があり、教育の強化はジョージ・ワシントンが知識が国富に繋がると考えていた為、盛り込まれます。経済の安定は連合規約時代に大失敗に終わった戦争債券返済や高関税政策の転換を意味してる。

 尚、経済の安定を計る為、1791年のウィスキー税(酒税)導入で安定的な財源確保を画策するも、1794年まで反発が続き、ウィスキー税反乱にまで発展します。暴徒対策もかねて、民兵決議が1792年に制定されます。

軍事・外交

 先程のウィスキー税反乱が口実になり、1792年の民兵決議で、侵略や反乱に対し、州が民兵を派遣することを認める決議になります。国内安定化措置もありますが、恐れていた主な対象は侵攻する外国と原住民です。外国はヨーロッパの国々だと理解できるかと思います。原住民に関しては「技術格差で脅威か疑わしいのでは?」と考えてる人もいると思いますが、技術格差はあります。但し、技術のみが戦いの勝敗を決める訳ではありません。原住民には地の利での優位性があり、効果的な兵器である弓や斧が使われてました。欧米で発達してた銃はまだ故障率が高く、弾のリロードに時間がかかりました。よって、弾を入れかれてる間や故障が発生した際、原住民の弓や斧でやられてしますことになります。よって、原住民は脅威になりうる存在であったのです。事実、1791年に原住民の土地を侵略する際、セントクレアの敗北と呼ばれる大敗北をすることになります。

注:戦争で技術が優れてることによる圧勝パターンとして1991年の湾岸戦争がありますが、戦争は技術ではなく、兵器の実用性、戦闘における効果的な戦術、出口戦略の設定や戦後外交で決まります。技術はあくまでも、成功確率の高い案をより効果的に実行する為に存在します。

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セントクレアの戦いからの撤退図

 外国の侵略の脅威としては英国との関係の完全な回復まで至っていない為、主敵は英国になります。革命後のフランスも脅威ですが、英国の脅威に比べたら些細な問題です。現在のカナダがある場所は英国下にあり、首都がフィラデルフィアでも、ニューヨークでも、新しくできるワシントンDCでもすぐに攻め込むことが可能であり、欧州が混乱してる中で応援も呼べない米国では到底足元に及ばない相手の時代です。

注:進むにつれて明らかになりますが、建国間もない米国の米英外交では英国側の要望をなるべく聞き入れ、妥協するか戦うかの選択になります。

 では、その外交はと言いますと、一期目では、建国の内政作りでほとんど手一杯な状態でした。一期目で外交と言える外交はほとんど無く、移民政策での帰化条件を定めるくらいにとどまります。二期目であれば、1795年のジェイ協定で欧州の戦争への中立を示すことになるが、二期目の話なので、次回で取り上げます。

移民政策

 移民受け入れの考えとして、米国国籍の付与に関する内容をワシントン政権で決めることになりました。重要な内容は以下の部分です。

”any Alien being a free white person, who shall have resided within the limits and under the jurisdiction of the United States for the term of two years, may be admitted to become a citizen”

「自由な白人であれば、どんな存在でも合衆国の法の下で二年の期間を行動した者に市民権が与えられる」

1790年の帰化に関する決議の全文は以下より参照

 補足説明として、米国建国当時は黒人は所有物扱いで市民権を与えようにも人として扱っていなかった為、できなかった。黒人の扱いは利益衝突に繋がりやすく、ワシントンは議会の分裂を恐れ、黒人の権利を見送ることになります。原住民に関しては英国側に着いた部族は目の敵にしていた。この時代のアジア人の行き来はフィリピン人が主であり、原住民との婚約をする者しかいないとされてます。白人以外の人種の市民権許可はもう少し先の話になります。

教育

 一般教書演説でしつこいくらい教育や知識の普及に言及したジョージ・ワシントンだが、実際にどういう行動をしたかみていく。まず、知識を持つ者がしっかり評価され、許可なく模倣されないために1790年著作権法を制定する。印刷、再印刷、出版及び販売の自由を14年保障し、著作権者が生存してることを条件に14年ごとに更新可能というものでした。
1790年著作権法の全文は以下参照。

 教育の方向性として、当時農業国であった米国を工業化させようというハミルトンが提唱していた路線で進んでました。ジェファーソンは農業国を目指すべきと主張するが、ワシントンはハミルトンの考えを重視します。

経済

 先程出てきたハミルトンとジェファーソンの意見の相違がありましたが、経済を工業化させるハミルトンの意見を重視したワシントンは工業化する方向性で経済を推し進めることしなる。が、その前に戦争債券の返済はどうなったかの話です。回収困難な債権を不良債権と呼ぶことがありますが、この時の米国は不良債権でヨーロッパの金貸しを困らせてる状態です。

注:リーマン・ショックの時を思いだしてほしいですが、不良債権回収の失敗は世界規模の経済のねじれを起こします。独立戦争後の米国はヨーロッパでのねじれの種を作ったと考えて頂いても構いません。

米国側だけでなく、英国もフランスも戦争債権回収で混乱している状態でしたので、米国側の責任と言えば、その内の一つの要因に過ぎないが、一応書いておきたい。債券回収の失敗で政府の権限を強化する方向性に転じたことからわかるように債権回収の課題はそれだけ重いです。皮肉なことに債権回収の為に税を設けるようとしたが失敗した英国を否定して独立した米国は税を設ける形で債権回収をすることになります。ウィスキー税反乱は英国の失敗の小さい版です。但し、ワシントンは鎮圧する方向性で固めることで事態を乗り切る。

ジョージ・ワシントン小話

以下は小話程度の内容を要点化したものになります。

・個人的に財務で苦しかった時だったが、大統領報酬を受け取ることを拒否しようとしたが、後任者がお金持ちでなければ、大統領になれない状況を防ぐ為、報酬を受け取ることになる。
・党という概念に縛られると対立軸が発生することを懸念していた。(後にその通りの予想になる)
・ハミルトン主導によるワシントンDCの設置とホワイト・ハウス設置が進む
・ハミルトンは国際交易での発展モデル追求(工業化に好意的)
・ジェファーソンは農業国での発展モデル追求(工業化を嫌悪)
・連邦党(ハミルトンら英国的考え方)と民主共和党(ジェファーソンらフランス的考え方)の対立構図があった
・ハミルトンの案を通そうとするとジェファーソンが邪魔ばかりするので、初の大統領拒否権を行使することになる
・ジェファーソンは自主的に内閣から離脱するが、ワシントンはジェファーソンが嫌いになり、以後口を合わせることはなかった。
・ジェファーソンはワシントンのことを「ボケてる(senile)」と陰口をたたくような存在ですが、三代目大統領になるから詳しい話はその回で。
・ワシントンの遺書には自身の所有物であった黒人に自由を与えることを望んでた記述がある。

あとがき

 ジョージ・ワシントンの一期目について書きましたが、いかがだったでしょうか?連邦政府の整備で一期目をほとんど使ったワシントンでしたが、建国後の方向性を巡って既に意見対立の芽が垣間見える状態です。次回は大統領としての二期目と大統領退任後の話になります。

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