ホテルの事情

10月はよく頑張った。6時出勤で21時退勤という日が続いた。労働基準法で体裁として1時間の休憩を取らないといけないのだけど、昼ごはんさえ食べる暇が無かった日もあった。そしてそんな日々の繰り返しで気がつけば10月は3日しか休んでなかった。

流石に体力的にも限界、自分を騙しながら今日を終え明日を迎える日々だったような気もする。ただ身体は限界が有ったが思考的には限界がなく、献立を考えたり、流れを考えたり、なだれ込むようにベッドに入っても次の日の目覚めは少しも辛くなかった。

ホテルはコロナの影響もあり今年の3月で残留希望者以外全員解雇となったホテルである。宿直の2名と私ともうひとり、すぐ近所に住むホテルと番地以外はほぼ同住所、交通費支給はひと月満勤でも1,000円未満という2人が残った。

私の場合、他で働くという選択肢はなかった。辞めるか、また元の在宅ワークを始めるかのどちらかだった。職場としての良し悪しより、ホテルそのものが好きだった。何よりも大好きな崎戸の海のある風景が存在している。

ホテルは営業を止めた訳ではなかった。調理場スタッフも全員辞めたので、しばらくは宿泊のみという受け入れになった。正直この土地で素泊まり8,000円という値段に宿泊者がいるのかと思ったが、細々とお客さんが入ってきた。

ただ、この付近は夕食を食べに行くところもない。事前に夕食は済ましてくるか何処かで調達してくるしかない。ましては朝食はコンビニにちょっと買いに行くには一番近くて片道20分。そんなこんなで朝食だけなら提供できると提案した。

20年近く日本料理店を日本と中国で営業していた。でも実際私は作る人ではない。ただ流石に長年調理場の中で見聞きして、うろ覚えでも知識はあるので作るのは簡単だったのだ。

調理場に入って唖然とした。以前提供していた料理がすべて冷凍であり、季節の野菜や旬のものは何一つ使われていなかったのだ。まさか夕食の刺し身まで冷凍を使っていたとは知らなかった。みんな新鮮な海鮮料理を楽しみに崎戸に来てるのに・・・・。

せめて、朝食だけでも産直にこだわり手をかけたものを提供しよう。そうやって始めた朝食付きの宿泊。喜んでもらえて、全部完食してもらえてるとやはり嬉しい。

そんな中、崎戸で今年も「伊勢えびまつり」が始まる事になった。そして毎年参加していたホテルから夕食も出来ないかと相談があった。旦那は学生時代のアルバイトで、当時福岡の天神でも超繁盛店で4年間板場にたっていた経験がある。私より料理も上手い。なにより魚の目利きが出来る。

伊勢海老の造り、刺し身、焼き物、煮物など、試作を作って貰った結果、伊勢海老プランを1泊2食付き15,000〜で提供することになった。以前のホテルの宿泊料金より若干高め。それでも伊勢海老まつりの期間はぼちぼち宿泊のお客様が来られるようになった。

素材にこだわった。仕入れには2日間かけて、旬のものを揃えた。伊勢海老は手に入らないと片道2時間かけて仕入れてきた。私は小鉢と前菜を担当。市販のものは使わずすべて産直のものにこだわった。3連泊のお客様のときは3日間、夕食も、朝食も、全て献立を変えた。夕食時に固いものが残りがちなお客様の時は次の日の朝食は、朝早く行って歯が悪くても食べられるものに献立を変え作り直した。

そんな小さな努力が実を結んだのか、9月に始めた伊勢海老プランに、11月にはリピーターのお客様と、知り合いから料理が美味しかったからと聞いて予約したいというお客様が5組。たったひと月の間にこのリピート率は今までには無かった事だ。

九州各地を回って今日で10日目というお客様には、今まで10軒のホテルを泊まったけどここの料理が一番美味しかった感動しましたと言って貰えた。最初に迎えた3連泊のお客様にも今までこんな美味しい料理は初めて食べたと言ってもらえた。こちらのほうが感動した。だから、身体の疲労に勝てたのかもしれない。

10月が終わり、11月になって予約が入ってなかった月初めに休みを取った。最初の予約7日の献立を考え始めた頃。突然ホテルの方針でランチタイムの営業をしている中華料理の中国人グループが夕食も受け持つ事になったと通達された。

このホテルは宿泊費の値上げさえ当日値上げになりましたと通達される。最初15,000円〜だった宿泊費はいつの間にか25,000円〜になった。

この中華。福岡の西新で繁盛店だったらしい。家賃が値上げになって辞めたと聞いた。ホテルの社長がオーナーのグループ店でもある。ランチを始めるにあたって調理場は中華仕様に変更された。

ホテルのランチは麻婆豆腐のセット1680円とエビチリのセット1980円。ちょっと食べるには高い。しかも日本人の眼からすると完全に詐欺に近いメニューなのだ。小鉢2品と書いてあるが、ひとつは漬物皿にのった高菜。ひとつは小皿にのったタクワン2切れ。そして季節の野菜の炒めものと書いてあるのが、なんと冷凍のブロッコリーを解凍して炒めたもの。

それは、メニューに書いては駄目だと言っても大丈夫ですと言われた。日本ではあり得ない。それはホテルとして大事なことではないだろうか?

そんな中華グループは、ここに来て西新とは想像以上に違うと思っているようだ。お客さんは土曜、日曜に限られている。平日はよくて一組、二組。レストランに上る前にホテル前にある看板のメニューの値段を見て帰る人も多い。そんな状況に業を煮やして今入っている予約が終わったらという約束だったが早めに実効支配したようだ。

試作品の料理を見せてもらったが、日本料理も出来るし多国籍料理と聞いていたがどうみても揚げ物中心の中華料理で、しかも献立の中にはお昼のランチに出しているエビチリと冷凍の黒酢酢豚が含まれていた。

交渉してせっかく新鮮な海鮮を楽しみに来られている、しかもリピーターのお客様に悪いので、10月のリピーターのお客様と紹介で来られたお客様だけは日本人チームが担当させて貰うことになった。

変わり身の早いホテルの方針にも従うしか無い。早速、7日のお客様は中華グループが担当する事になり、昨日はどんな料理が提供されたのか、中華グループが作る朝食はどんなものなのか怖くて知りたくない。

彼らは私達がいかに食材にこだわり、お客様ひとりひとりに寄り添って提供していたかを知らないと思う。知ったとしても馬鹿らしいと思うだろう。それはそれで良い。そんなこだわりより美味しければ冷凍でも何でも良いと思う人も多いから。こだわりは作る側の自己満足かもしれない。

今更ながら学んだことがある。頑張ることは結果が出るという事だ。それは実務経験の無い私や旦那がホテルの調理場でたった2人で一度に4〜50人前の料理を提供出来る事と、数組のお客様からほんとうにありがたい「料理を感動した」と言って貰えた事。

どんなことでもこれからの人生に無駄なことは無い。これからの残り少ない人生の中では役に立つかどうかは分からない。でもちょっと思った。ここ3ヶ月毎日走っていた気がする。スローダウン、スローダウン。

立ち止まると実は周りに違った景色が広がっているかもしれない。



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